しもた屋之噺(248)

杉山洋一

英国女王の崩御からウクライナ4州併合宣言、イタリアでは総選挙があり、日本では国葬が執り行われれ、今月は畳みかけるように国際社会に激動が続きました。
毎朝小一時間、魚を眺めながら運河沿いを散歩するのが愉しみで、最後に運河に架かるミラーニ橋の袂で朝食のパンを購い、橋をわたって家に戻ります。
このミラーニ橋は、運河のみならず、並走する国鉄の複々線路まで架けられた、それなりの規模の橋なものですから、そこからの眺望は素晴らしく、橋上では眼前に抜けるような空が広がります。今朝は、輝かしい朝日が街全体を金色に染め上げていて、その超現実的な様に、すっかり見惚れてしまいました。そこには、どんな素晴らしい風景画さえ凌駕する魅力があって、我々は自然には抗えないと実感させられます。
風が鳴らす樹々のざわめきや清流のせせらぎ、谺する鳥のさえずり、岸壁を静かに打ち続ける波の音、身体を突き抜けてゆく雷鳴。自然が生みだす音響に勝るものはないでしょう。
自然音の模倣や再現に始まった我々の言語体系や音楽は、何時しか次第に感情を伝えるようになりました。祈りや呪い、悲しみや喜びが音に籠められるとき、それは旋律となり、リズムが変化をつけるようになりました。顔の表情が豊かになると、足で地を踏み鳴らし、手を、そして樹を叩くようになりました。このようにして、本当に少しずつ、雫が岩を穿つような気の遠くなる時間をかけて、我々の社会、文明が形成されてきました。源である自然には抗えないはずでした。ですから、現在の我々自身が、何か途轍もない謬りを犯しているのではないかと、時に恐怖に駆られたりもするのです。

  —

9月某日 ミラノ自宅
朝3時50分ヘルシンキ着。機内で横になったのが悪かったか、軽いメヌエルらしく眩暈でふらついていて、朝7時半のミラノ行に乗機直前全て吐いてしまった。帰宅後もずっと目が廻っていたので、泥のように昏々と眠る。こういう時、身体と精神は完全に別物で、精神は完全に身体に支配されていると実感する。
ヘルシンキ空港に着くと、係員をはじめ、行き交う誰もマスクを着けていない。笑顔が眩しく、誰もが当たり前に握手し抱擁し、会話に夢中になっている。当たり前だった光景が、自分の裡でそうでなくなっていたと気づく。「マスクをしない人もいる」ではなく、誰もマスクをしていないのだ。文字通り忘れていた感覚だった。当然、ミラノ行機中でもCAはじめ誰もマスクをしていなかった。
実はこれはフィンランド政府の経済戦略かしら、と訝しく思うほど、いつの間にか自分もマスクのある生活に馴染み切っていた。
 
9月某日 ミラノ自宅
間違ったのか、冷やかしなのか、天窓から黒ツグミの幼鳥が家に入ってきて、居間の天井に渡された補強用の鉄棒に留まって、暫くこちらを見ていた。15分ほどしてまた天窓から出て行ったので、床を拭き掃除する。随分汚していたから、怯えきっていたのかも知れない。
 
9月某日 ミラノ自宅
イタリアに住み始めてかれこれ30年近く経つ。因って当然ではあるが、日本に戻ると言葉で戸惑う機会が多くなった。先日もリハーサル中、若い作曲家の「大丈夫です」との返事を我慢できる程度だという意味に理解したので、問題点を指摘してほしいと頼んだところ、改めて「いえ、大丈夫です」と言われてしまった。やはり納得していないのかと気を揉んでいると、他の作曲家も揃って「大丈夫です」と微笑むので、そこで漸く、現在は「良いです」の代わりに「大丈夫」を使うと知った。「構いません、大変結構です」に準ずるのだろう。「大変、大丈夫です」と言ってもらえると、多少分かり易いが、流石にそれは言わないようだ。
最近は我々の世代でも女性を「女子」と呼ぶようだし、「美人さん」という言葉にも慣れつつある、と吐露する時点で、時代錯誤を自認するに等しい。この30年間、日本語を使わなかったわけではないが、元来特に日本語に長けていたのでもないのだから、進歩についてゆけず、浦島太郎になるのも仕方あるまい。
「美しすぎる」という表現を聴くにつけ「過ぎたるは最上級表現に等し」と独り言ち、「美しすぎかよ」とあれば、他者へ同意を希求しつつ、自らの意志を円やかに滑り込ませる日本的奥ゆかしさと納得する。
心から感謝している、感謝するばかりだ、深謝の意味で使われる「感謝しかない」という否定表現も、日本に住んでいた頃は殆ど使われていなかったので、未だ違和感が纏わりつく。
後5年もしたら、日本でリハーサルする時は、「そこのオーボエソロ、神ですか」などと話すべく、腐心しているかもしれない。尤も、自分でも何を言わんとしているか不明瞭で、作為的に過ぎるから、却って怪訝な顔をされるだろうか。この齢にもなると、使い方が間違っていても、「痛い」と憐憫の眼差しを向けられなるだけで、誰一人指摘してくれない危険も潜んでいる。
 
9月某日 ミラノ自宅
今日は一日、大くんの粗読み。朝の散歩の途中で、初めて寄るパヴィアの農業組合が立てている朝市で、産み立ての卵とpolpette di verdure、野菜の団子揚げ、野菜コロッケ4ケ購入。エミリア・ロマーニャのエルバッツォーネの風味に似て、大変美味であった。眩暈は未だに薄く残っている。起床時、多少頭の据わりが悪くて、グラグラする。酒類が苦手なのは、元来三半規管が弱いからに違いない。この浮遊感を自ら再現したいとは到底思えない。
 
エリザベス女王が崩御し、チャールズ皇太子が英国王即位。イタリアでは、彼らの名前をエリザベッタ、カルロとイタリア名に変化させて呼ぶ。
バッハもワーグナーも、100年前にはジョヴァンニ・セバスティアーノ・バック、リッカルド・ヴァグネルなと呼んでいたが、何時頃からか、ヨハン・セバスチャン・バッハ、とか、リヒャルト・ワーグナーと正されるようになった。第二次大戦後間もなくではなかろうか。
ドイツ人名はさておき、マウリツィオ・ラヴェルとか、クラウディオ・ドビュッシーなど、フランス人名をイタリア語化して呼ぶと、どうも雰囲気が出ない。
パドヴァには、現在もマウリツィオ・ラヴェル通りがあるくらいだから、ラヴェルのイタリア名は、戦前のイタリア文献にはちらほら散見される。しかし、クラウディオ・ドビュッシーの名前は、インターネットで幾ら検索しても出てこない。もしかすると、マウリツィオ・ラヴェル通りの名前は、作曲家ではなく、そういうイタリア人が過去に居たのかしら、と思って、パドヴァの地図を眺めると、マウリツィオ・ラヴェル通りは、フェデリコ・ショパン通りに並走していて、ジョヴァンニ・ブラームス通りにぶつかっていた。フェデリコ・ショパン通りは、正式にはフェデリコ・チョピン通りと発音するのかも知れないがよく分からない。確かに、マウリツィオ・ラヴェル作曲「水の遊戯」、フェデリコ・チョピン作曲「バッラータ第一番」と言われると、演奏解釈までイタリア風になりそうである。
マウリツィオ・ラヴェルのピアノ協奏曲の初演者は、当時イタリアではマルゲリータ・ルンガ(マルグリット・ロン)夫人と呼ばれていた。イタリア語化できるものは名字ですらイタリア語化し、且つ女性名詞化までさせた興味深い例である。理由不明。
ルンガ夫人の同世代に、イタリアにはスカルラッティを再発見したアレッサンドロ・ロンゴというピアニストで作曲家がいた。ロンゴとルンガの意味は同じだが、ロンゴという名字はラテン語とも違って古伊語のまま、もしくは地方語のまま残されている。
ともかく、クラウディオ・ドビュッシーが見つからないのはやはり解せない。イタリアがフランス領であったとか、オーストリア領であったとか、フランス南部がイタリアであったとか、家族の誰かがイタリア人だったとか、何某かの理由でイタリア化させるのかと勘ぐるが、これといった規則性もなく、恐らく慣習なのだろう。日本で扱われる中国人名や韓国人名のようでもある。と、ここまで書いて、地図上でクラウディオ・ドビュッシー通りを検索してみると、どうだろう。クラウディオ・ドビュッシー通りは確かに存在するではないか。それもミラノ、拙宅のすぐ近所であった。燈台下暗しとはこのことである。こちらも、正しくはクラウディオ・デブッシー通りと呼ぶのではないか。今度タクシーに乗ったら運転手に尋ねてみたい。
円安が進み、対ドル144円にまで下落。現在は142円前後で推移中。
 
9月某日 ミラノ自宅
日本では、円安に続きオリンピック買収問題とか国葬だとか、与党と宗教団体の癒着などが話題に上っている。昨日は、NHKのラジオニュースでコロナ禍により結婚式が5パーセント低下と話していたし、諸外国と同程度のPCR検査を行うこともないまま、患者の全数把握の停止も決定されたそうだ。全数把握に特に興味があるわけではないが、技術大国だった日本が、諸外国と同じ検査能力すら発揮できぬまま尻すぼみで諦めてしまうのはちょっと悔しい。何かがうまく機能していないのだろう。イタリアの新聞では、今冬のエネルギー不足と若者の平均賃金の異常な低さ、それに25日の選挙で予想されているメローニ党首について、など。
 
9月某日 ミラノ自宅
家人は朝5時にタクシーを呼び、ベルリンに出かけていった。
来月アルバニアで演奏する伊福部昭「日本組曲」題材調べ。「日本組曲」は昭和9年1934年に作曲された「ピアノ組曲」が原曲で、冒頭の「盆踊り」の速度表示が四分音符100とあり、随分速いので不思議に思って調べたところ、戦前の盆踊りは押しなべて現在よりも速く、盆踊りの原型、中世の念仏踊りの雰囲気をより強く残していた。
「演怜(ながし)」は、遊郭閉鎖後に生まれた我々の世代は、新内節など聴いて当時を想像するしかないが、豊かな風情に溢れ、当時の街の雑踏まで聴こえる気がする。
「佞武多」は、佞武多を練り歩く際演奏される「進行」囃子から霊感を得ているが、これはちょうど、本質のみを抽出し画家独自の技法で仕上げた、質の高い絵画のようでもある。世俗性を否定こそしていないが、的確に特徴だけを掴んでいるので、極めて格調高く動的な音楽が生まれる。
1938年9月7日、ヴェネチア・ジュスティアン館で開催された第6回ヴェネチア・ビエンナーレ室内楽演奏会のプログラムを見ると、江文也の「素描五曲 Op.4」第3曲「焚火を囲んで」、「三舞曲 Op.7」第1曲、「16のバガテル 16 Bagatelles」より「canto dormiente おねむり」「Green Leaves Young Leaves」と並んで、伊福部昭「ピアノ組曲」第1曲「盆踊り」が演奏されたのがわかる。
同夕はその他、プーランク「あの日、あの夜」(1936-37)、フォルトナー「弦楽四重奏第2番」、ヴィンチェンツォ・トンマジーニ「ハープソナタ」が演奏されている。同年ビエンナーレ初日のプログラムには、ミトロープロス指揮フェニーチェ劇場オーケストラによる、マリオ・ピラーティ「オーケストラのための協奏曲」やヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ」など意欲的な作品が並んでいた。インターネットの普及した現在ですら、国外再演まで数年かかるのは普通だから、当時から状況はあまり変わっていないことがわかる。
 
9月某日 ミラノ自宅
快晴。午後、家で息子とサラがリハーサルの間、3時間ほどアッビアーテグラッソまで運河沿いに自転車を走らせた。5、6年ぶりではないか。当時は病後の息子の体力回復のため、アッビアーテグラッソまで列車で出かけ、そこから自転車に乗ってベレグアルド運河を訪れていた。
ベレグアルド運河は、パヴィアまで続く見渡す限りの田園風景を突き抜ける細い灌漑用水路で、途中何軒か牧場もあり牛が遊んでいた。自転車を走らせると、様々な小動物が道を横切っていった。
家からサンドウィッチを用意して出かけたり、アッビアーテグラッソの喫茶店で何某か買いこんで昼食にしたこともあった。運河の途中には船のため幾つもの閘門があって、その直ぐ下方には水が溜まって小さな池ができていた。そのあたりで息子と二人で腰を下ろし、のんびり昼食を摂って少し昼寝して、また先へと進んだ。今にして思えば、自分が小学校時代、毎週父に連れられ川や海へと釣りに出かけていたから、その真似事を息子にしてやりたかったのだろう。
息子は左半身不随が治ったばかりで、体力もなかったから、最初はしばしば休憩を取らせては、とてもゆっくり走った。当時彼が将来どんな風に暮らせるか、想像もつかなかった。父も隣で釣り糸を垂れながら、交通事故後の自分に対し、似たような感情を抱いていたかもしれない。
何時の日か、息子がこのベレグアルドの田園風景や、水路のせせらぎや、牛舎の臭いや、一緒に食べたピザやらサンドウィッチを思い出すことがあれば嬉しいと思いつつ、無心で自転車を漕ぐ。
今日は大石君と辻さんが新潟でJeux IIIを再演。辻さん曰く、作品後半で飽和状態にならぬよう、100パーセントか102パーセントで打ち切れる演奏を目指すという。玄人技とはそういうものかと舌を巻く。未だ実演に立会っていないとは信じ難く、既に何度も目の前で演奏して頂いた錯覚を覚えている。
 
9月某日 ミラノ自宅
家人と二人、隠れるようにしてサラと息子の二重奏を聴きに国立音楽院に出かけ、席の裏に身を潜めて聴く。いつの間にか随分よく練られた演奏になっていて、夫婦ともに感銘を受ける。此れ正に親莫迦也。ベートーヴェン4番の休符処理や深く歌うシューマン1番2楽章が特に忘れ難い印象を残した。
母より連絡あり。富安陽子の「盆まねき」が町田に届いたこと、それから、天塩にかけて育てている月下美人が今年3回目の開花、とのこと。
母は子供のころ、横浜の本牧に住んでいた。家から海岸はすぐ近くだったので、しばしば祖父に連れられて潮干狩りに出かけた。近所には駄菓子屋と、蛇とすっぽんの瓶詰を売る、母曰く蛇屋、恐らく漢方薬局があって、今も残る間門小学校に市電で通った。
当時競泳選手だった母の姉の菊枝さんは、母を連れて、李香蘭やポパイの映画を見に行った。李香蘭はともかく敵国映画のポパイが、本当に当時映画館にかかっていたのか定かではない。幼かった母は、前回劇中で死んだはずの李香蘭が幾度となく生き返るのか不思議で仕方なかった。
母は「盆まねき」を読んで、特攻隊に召集された菊枝さんの競泳仲間5,6人が、戦地へ発つ前日に本牧の家を訪ねてきた時のことを思い出した。
彼らはそれぞれの実家に戻る時間すら与えられず、旧知の菊枝さんを頼って本牧の家に集った。彼らは揃って白マフラーをしていて恰好よく、幼かった母の相手をしてくれる優しいお兄さんたちだった。
菊枝さんや祖母のハツさんは、どこからか砂糖を集めてきて、せめても餞別にと汁粉を作って持てなしたという。当時、弾除けにと経文を渡すのもしばしばであった。気弱な言葉を呟くだけで非国民と叱られるので、子供ながら言葉に気を付けていたが、それでも周りの大人で誰も万歳など叫ぶ者はいなかった。その後彼らの戦死の報を受け、菊枝さんは隠れて泣いた。
ロシアが予備役対象の部分的動員令発令。それに続いてロシア各地で戦争反対のデモとロシアより近隣諸国への出国ラッシュ。ドイツはロシア人受入れ表明。
 
9月某日 ミラノ自宅
毎朝起きると先ず、庭の古椅子にのせた餌いれに、胡桃やら落花生を割っていれてやる。庭に集う様々な小鳥やツグミ、烏、そして庭の樹に棲むリスの餌である。今朝はその胡桃の殻が二個、ドアを開けて目立つところにきれいに並べてあって、どうやらリスの仕業のようだ。
黙ってみていると、リスは目の前までやってきて、その殻の片方を口に加えて、いつもの餌場にもってゆき、そこでぽとんと落とすではないか。それからまたこちらに戻ってきて、もう一つの殻を加えて、また餌場まで運んでそこに落としてから、今度はこちらをじっと眺めている。要は餌が足りないと訴えているのである。尻尾はすっかり立派な冬毛に生え変わり、乳も張っているようだ。随分機転の利くリスだといたく感心したので、落花生を幾つか剥いて運んでやると、よほど嬉しかったのか、今度は足元からついてきた。
メローニはマスクメロンを二つ抱えた短いメッセージをSNS投稿。「もう言尽くしました。9月25日よろしく」。メロン二つでメローニ。
 
9月某日 ミラノ自宅
昨日からケルンの打楽器の渡邉さんが指揮の集中レッスンを受けに来ている。研究費を手に入れたので、指揮の基礎を学びたいのだそうだ。相当量の課題を出しておいたのだが、全てていねいに準備してあったので、感心してしまった。仕事もあって二歳のお子さんもいらして、一体どうやってこなせるのか。
自分の為にこんなに勉強したのは久しぶりで、大変だったけれどすごく楽しい、と清々しい笑顔で話していて、とても羨ましいと思った。彼女は屡エミリオと一緒に仕事しているので、好い加減に教えている様子が暴露されるのは都合悪いが、まあ致し方ない。浦部君とは禅問答のようなレッスンに終始したが、それを見ていた渡邉さんは一体どう思っただろう。
イタリア総選挙投票日。レッスン会場を貸してくれたサンドロも、途中投票に出かけてゆき、帰宅後、今回ばかりは実に憂慮すべき状況だと、いつになく真面目な顔で話した。
夜、当確の報を受けたメローニは「イタリアは我々を選んだ」と早々に勝利宣言。先の選挙でもメローニは善戦していたから、客観的にこの結果は自明の理だと思うのだが、ドラギに不信任を突きつけておいて、何故こうなったのかと悲嘆に暮れるのは、傍から眺めていると少し不思議でもある。
 
9月某日 ミラノ自宅
夕刻、自転車で大聖堂脇に再建された映画館「道化師(アルレッキーノ)」に向かい、ジャコモ・マンゾーニ90歳記念のドキュメンタリー映画鑑賞。今日はジャコモの90歳の誕生日で、本人も臨席。90歳だと言うのに矍鑠としていて、冗談すら飛び出す。
サンタゴスティーノにあるジャコモの自宅インタヴューの合間に、ポリーニやグァルニエリ、ヴァッキやヴェッランドのインタヴューが挟み込まれてゆく。
グァルニエリは、ジャコモに出会わなければ、自分はマントヴァ平野で音楽と無縁の人生を送っていた筈と語り、ヴァッキは、自分のクローンを作るのではなく、ジャコモのように、それぞれの学生の特質を見抜き、それを展ばして、自らの足で歩けるように出来る教師は素晴らしいと賞讃した。
ヴェッランドはジャコモの教養の幅広さと深さを指摘した上で、成長とは父性、父親を踏み越え進みゆくべきものと語った。ジャコモはそれを理解してくれたし、自分自身も生徒たちにとって、踏み越えてゆける父でありたいと思うと話した。
前衛作曲家の姿勢を貫いてきたジャコモは、90歳になった今でも、若い作家たちの楽譜に触れていたいという。と同時に、彼がイタリアに改めて紹介したい作曲家は、クセナキスなのだそうだ。ヴァッキが紹介したいのはディティーユで、ヴェッランドはシェルシの名を挙げた。こうした一言からも、弟子たちの個性がそれぞれ際立ち、興味深い。
ヴェッランドは、現代音楽は世界的に方向性を失い、飽和状態で拡大し続けているが、その中にあって、イタリア現代音楽界は中心からやや距離があり孤立している、と率直に語っていて、世界のどこにいても、案外皆近しいことを感じているのかもしれない、と思う。
夜、家族で夕食を食べていると、息子が選挙結果について話し始めた。彼と同世代のイタリアの友人たちは、今回の選挙結果を受け「この世の終り」と悲嘆に暮れていると言う。ロシアによるウクライナ占領地域の住民投票開始。
 
9月某日 ミラノ自宅
毎朝、夜の明けるのが目に見えて遅くなってきた。夕刻、坂寄さんと二人、コモの劇場にドン・ジョヴァンニのドレスリハーサル見学に出かける。彼が初めて見るコモの湖に水面や紅葉しかけた山々に感激し、大聖堂の荘厳さに言葉を失うさまに、30年前の自分を思い出していた。
ドン・ジョヴァンニを指揮したリッカルド・ビサッティは若干22歳の俊英。力強く推進力があって、気持ちが洗われる瞬間が何度もあった。こうした瑞々しさは、やはり若い時でなければ絶対に表現できないと思う。思わず最後まで見入ったお陰で終電を逃した。エリザベッタに連絡して、ミラノに戻る合唱団のバスに同乗させてもらって帰宅。家人に呆れられる。スカラとはまた全く違った、地方の中劇場らしい魅力を再発見。
 
9月某日 ミラノ自宅
二十五絃のSさんに書いたメール。
「今自分に必要なのは、無になれる、空になれる時間です。裡にある音を掬い上げるため、そしてその音と向き合うために、どこか全く違う場所から、音を客観的に見つめたいのです。この数年で自分の身体にはすっかり澱が溜まり、臭気すら立ち昇る気がします。
自分の書く音の質感、以前に比べまるで変ってしまったのはやるせなく、併し諦めて受け容れています。以前書いた音には光や輝きがあって、当時の自分が羨ましいほどです。もう戻ることはできないのが分かっているからでしょう」。
今後、我々の社会がどう変化してゆくか分からない。暫くは厳しさを増してゆくに違いない。我々の子供の世代、若い人々に対し、心から申し訳なく、詫びる思いばかりが募る。作曲家の書く音に、彼の日々の生活、精神状態が反映されるのか、以前はよく分からなかった。そうであるようにも思えたし、そうでないようにも思えたのである。
併し今更ながら実感するのは、作曲家の書く音には、とどのつまり、作家の生活、精神状態全てが反映されるという事実である。音そのものだけで、強靭にレゾンデートルの独立性を維持することは、やはり不可能であった。半世紀ほど生き、厄介な時勢を反映し、漸くそう納得するに至った。
歴史は繰り返すとも言うが、知識でしかなかった歴史上の様々な事象を、追体験している気がしている。なるほど、こういうことだったのか、と納得させられる事も多い。ただ、それら殆どが否定的な内容なので、追体験できるのは有難いけれども、現実と受容れるのは辛い。
音楽に関して言えば、我々は今後、前世界大戦後の構造主義成立に近い状況までもを追随し、我々自身悩みながら別次元の音楽探求へ駆り立てられるのかもしれない。ただ、世界的に同じ状況に追い込まれるとすれば、次回、世界は終わっているかも知れない。
 
9月某日 ミラノ自宅
ロシア大統領、ウクライナ占領地域4州併合宣言及び調印。一連のウクライナ、ロシアの動向で、我々が空恐ろしく感じるのは、今まで見ぬふりをしてパラレルワールドの日常に甘んじてきた、若しくは甘んじざるを得なかったロシア市民までもが、突如現実に投込まれパニックになっている姿を目にしているからではないか。
昨日まで普通に暮らしてきた世界が、突然消失する恐怖。今まで遠い出来事だった戦争が、少しずつ我々一人一人の人生を絡み取り、まるで何事もなかったかのように、口を大きく開けた地獄の窯に投込んでゆく。
自分を含め、既に無数の人々の暮らしにこの戦争が影を落としていて、影響を無意識に受容しつつ生きている。破滅的な方向へ我々自身が足を取られつつあるのを、無意識に気にしないよう努めながら。そうして或る瞬間、この数日のロシア国民のように、逃惑うことになるかもしれない。
2014年、先ずクリミア市民が巻き込まれ、今年はじめに先ずウクライナの市民が、そしてロシアの僻地やベラルーシの兵士が、そしてロシア予備役兵が引きずり込まれ、いつしかロシアの国民全体も飲み込まれるのだとすれば、その頃にはほぼ間違いなく、より明確な形で我々自身も取り返しのつかない場所にいるはずだ。我々全員が乗るブレーキの壊れた汽車が、長い長い下り坂に差し掛かろうとしている。とにかく止めなければならない。どうか止めてほしいと心から願う。アメリカ、ブルガリア、リトアニア、ルーマニア、ラトビア、ポーランド、エストニア各国と共に、イタリアも、ロシア国内の自国民に退避指示。フィンランドはロシア人観光ビザ入国停止。ウクライナ、北大西洋条約機構に加盟申請。
(9月30日 ミラノにて)