しもた屋之噺(250)

杉山洋一

先日、偶然知り合った杉山さんという方から、「川崎の杉山神社にお参りしてから、立て続けに縁起の良い事が続きましてね。ずっと誰かに言いたかったのですが、こんな話は杉山さんにしか出来ないでしょう。是非一度足を運んでみてくださいよ」とお話を伺いました。
とはいうものの、調べてみると杉山神社は、町田、横浜、川崎などに集中する神社で、以前は70社以上もあったといい、合祀などで減った現在ですら40社前後が残っているそうです。それほど数も多ければ、確かにどこかで有難いご利益にも預かれそうな気がしますが、川崎の杉山神社と言ってもどれか分からなければ訪れることもままならないので残念です。
信じ難い思いですが、今年ももうすぐ終わろうとしています。この数年で、世界は明らかに新しい時代へ足を踏みこんでいるのは解りつつも、それが何を意味しているのか、まだ誰にも詳らかになっていないように見えます。

11月某日 ミラノ自宅
朝一番でミラノ大学前の理髪店に出向くと、思いがけず学校の同僚のYに会ったので、そのまま暫く隣の喫茶店で話し込む。同世代の彼女も、同じEU圏外出身である。彼女は以前、イタリア人と結婚していたが、ご主人は病気で亡くなってしまった。イタリア人と結婚していたのだから、学校の契約条件も我々とは違って優遇されると思いきや、案外そうでもないらしい。昨年度、彼女は国立音楽院から臨時教員の声がかかり、暫くうちの市立音楽院を休職していた。何故か分からないが、国立音楽院で一定期間長期で働く場合、市立音楽院とは契約出来ないシステムになっている。
その所為か、長年とても慇懃だった市立音楽院の事務局から、途端に冷淡な言葉を掛けられるようになった、と思いつめた顔で呟く。「他を全てを失っても、市立音楽院の職を続けられるよう、身辺を少しずつ整えてきたのに」。
今後、我々のような外国人は、イタリアの右派政権にどうあしらわれることになるのか、彼女は不安で仕方がない。他EU諸国に比べてイタリアは突出して外国籍の教員が少ない。そこには自国民の優先も当然あるのだろうが、押しなべて賃金も低いから、外国人にとって魅力に乏しかったのかも知れない。
直近で何かが起こるとは思えないが、我々のように無期限滞在許可証とフリーランスビザを所得していても、政府の方針転換次第でいかようにでも扱われる可能性は否定できない。
長年懇意にしているタクシーの運転手からも、今回のメローニ政権には期待しているんだ、彼女はよく頑張っているよ、と言われたのを思い出した。ごく当たり前のイタリア国民の民意はこういうものなのだから、我々がそれに対し意見するのも見当違いなのだろう。

11月某日 ミラノ自宅
目下父子生活中だが、息子曰く虫歯の治療痕が痛むらしく、電話をして歯医者の予約を取る。未成年の診察には基本的に親が同伴する義務があるのだけれど、音楽院の授業が夜9時まで入っていて身動きが取れない。身分証明書の写しを添えた誓約書をメールで提出して、一人で診察に向かわせる。夕方、映画音楽作曲科の学生をピアノの周りに集まらせて授業をしていると、歯医者から電話がかかってきた。「いやお父さん、ちょっと厄介ですよ。先日治療した虫歯ですがね、あれから静かに進行しておりましてね、あと一歩で神経を抜くところで」云々。歯医者の声が大きく、電話の会話は学生皆にすっかり聴こえているので、みなクスクスと笑っている。

11月某日 ミラノ自宅
ミラノでは、毎年10月15日にアパートの共同暖房が開始されるのだが、今年は燃料高騰を受けて11月3日に延期され、それも改めて11月10日まで再延期されたものの、やはり気温の急激な低下を受けて、11月3日開始に訂正され、漸く学校にも拙宅にも暖房が入った。次回の電気代請求が少々恐ろしい。先週は、学校のレッスン中に節約のために暖房が切られたので、教師たちが揃って学校に抗議の声を上げた。
息子とサラの二重奏は、フィエーゾレでチェロのディヴィッド・ウォーターマンに、ビエッラでヴァイオリンのマルコ・リッツィとピアノのアンドレア・ルッケジーニのレッスンを受けてきた。息子は特にルッケジーニのレッスンに感激していた。帰宅後、レッスン風景の録音を聴かせてくれたが、実に見通しのよい、的確で実践的なレッスンで、家人と二人、深く感銘を受ける。最早我々は息子のレッスンを聴いて学ぶような立場になってしまった。ルッケジーニは、晩年のルチアーノ・べリオの協力者でもある。
エマヌエラが国立音楽院の室内楽クラスで彼らに出した課題は、今年はシュトックハウゼンのソナチネと、レスピーギのソナタ、ベートーヴェンの9番ソナタで、室内楽を始めて2年目で随分と踏み込んだ選曲をするものだと驚いたが、寧ろ妙に作品を神格化せず、ともかく気軽にどんどん触れさせるのはとても良いことだろう。息子とサラが、メトロノームをかけながら、楽しそうにシュトックハウゼンを譜読みしている姿は微笑ましい。

11月某日 ミラノ自宅
来月初めの演奏会のため、武満さんの楽譜を日本から送ってもらったのだが、これがなかなか届かない。現在、日欧間の運送は、以前と比較にならぬほど時間を喰うのである。
簡単にネット上で状況は確認できるので、イタリアの税関を通過したところまでは判っていたが、その後いくら待っても届かないので、改めて配送状況を確認すると、今度は「配達済み」と書いてある。こちらは不在票もなにも受取っていない。慌てて運送会社のコールセンターに電話して、辛抱強く調べてもらうと、ジャンベッリーノ通りのコインランドリーで預かってもらっているという。事情も分からず、半信半疑で言われた住所に向かうと、確かに青いペンキで縁どられたコインランドリーの入口には、運送会社のステッカーが貼ってある。中ではアフリカかカリブの出身と思しき、派手なプリント地に身を包んだ、陽気で大柄の黒人妙齢が、足下の大きな盥に洗濯物を入れ、足で踏みながら洗濯していた。
頭が混乱したけれど、ともかく彼女に事情を話すと、馴れた様子で奥から配達物を出してきてくれて、受取りのサインをする。店内にはレゲエが流れていて、武満さんらしいカジュアルな雰囲気に、すっかり愉快な気分になった。

11月某日 ミラノ自宅
国立音楽院の選択授業で、息子はダヴィデの「現代作品演奏講座」の受講を決めた。初めての顔合わせで、ダヴィデから、今年は4人の作曲家の作品を皆で手分けして練習して、後日彼らを実際にクラスに招いて色々話してもらうが、その一人に君のお父さんを頼むつもりだ、と言われたらしい。
翌日ダヴィデから早速連絡がきて、お前のピアノ曲全部の楽譜を見せて欲しいと言われる。結局彼は、エルナンデスの詩につけた「vuelo」、教本をつくるためペソンから頼まれた「biondinetta」、メッツェーナ先生を偲ぶ小品「calling」、東日本大震災のあと、フェデーレに声をかけてもらって書いた「間奏曲VI」などを選び、それぞれの学生に振り分けた。
「間奏曲VI」は、自分でも長い間存在すら忘れていた。震災のショックで作曲できなかったころの作品で、音らしい音もなく薄気味悪い。「自画像」でもそうだが、意識しなくても、自分が身を置く環境の影響が、作品に如実に投影されるのは何故だろう。
うっすら覚えているのは、あのとき実際耳にしたか、或いは夢だったのか、果てしなく続く、何かが少しずつ滴る音である。一番作曲が辛かった頃で、書く喜びも失い、書く意味も分からなくなっていた。

11月某日 ミラノ自宅
聖カリメーロ聖堂でアルフォンソの「20の眼差し」を聴く。
演奏を始める直前、アルフォンソは聴衆に向かって、これから2時間強の旅をご一緒するけれど、皆さん長さを畏れる必要はありません、と語りかけた。全曲暗譜で弾いたからか、実に見晴らしよく、それぞれの作品がどう配置され、それぞれの意味がどうなっているのか、まるで手に取るように解ったし、それら全ては可視化されていたように思う。情熱が滾りひたむきで高邁な演奏は、聴き手の胸を直截に穿つ。
数客の燭台のほむらが、薄暗い教会の剥き出しのざらついた白い石壁と、天井一面に金箔が貼られたクーポラに、アルフォンソの影法師をめらめらと怪しげに映しだし、目の前の風景全てが鈍い金色に耀いている。次第に聴衆は惹きこまれてゆき、静けさのなかで、辺り一面が興奮の坩堝となった。宗教的、官能的な儀式そのものであるが、アルフォンソはとても丁寧に音を紡いでいて、イタリア人らしいメシアンとの付き合い方だと感心する。音楽による官能性の表現は、他の何よりも深く五感に染み透るものかもしれない。

11月某日 ミラノ自宅
メシアンは大学時分よく聴いたし、三善先生は作曲科生のために「移調の限られた旋法」についてていねいな講座を開いていらしたが、極端に理解力が欠落していたのか、結局当時は何も分かっていなかったと思う。本来は、当時の学生にとって「移調の限られた旋法」は不可欠の常識であり、図書館のトゥーランガリラのスコアは人気でいつも借り出されていた。皆と同じことをしても仕方がないと、ヴァッキの規則的な旋法作法を分析して、自分なりの旋法作法を見様見真似で作ったりしていた。あれから暫くすると、学生の興味と常識は「音響解析によるスペクトル技法」へ移行したが、その頃はクラシックのオーケストラ譜を読む方が楽しくて仕方がなかった。ウクライナ軍、ヘルソン奪還。

11月某日 ミラノ自宅
イタリア各紙、外務省付発表として、東京入国管理局にて56歳ペルージャ出身のジャンルーカ・スタフィッソ自殺との報道。直前にイタリア大使館員が品川の入管を訪問、イタリア外務省からの法的および本国送還までの援助の意志を伝えていた。報道によれば、日本の不法滞在の場合、直ぐに送還は不可能で、日本の入国管理局に一定期間留置され、それはしばしば延長されるとある。2007年以降入管に於ける18人目の死亡者で6人目の自殺者。
ポーランドにミサイル着弾、2名死亡と聞き、背筋が寒くなる。当初はロシアから発射と報道されていたから、今後の更なる急激な状況悪化の覚悟を決めていた。

11月某日 羽田行機内
朝8時過ぎ、家人と散歩を兼ねて「ルカ」に出かけパネットーネを購い、町田への土産とする。
リナーテ空港を発つとそのまま北上し、コモ湖東端を掠めてアルプスに入った。山々の雪が太陽光を反射し、澄み切った青空との対比が美しい。
羽田便乗換えのためヒースロー空港に着き、化粧室を探して歩き回っているうち、誤って出口から外に出てしまい、係員に呆れられる。最早戻ることもできず、結局第5ターミナルから第3ターミナルまで地下鉄で移動した。急がないと乗継便に乗り遅れると皆から脅されて冷や汗をかいた。飛行機はドイツを南下中、アイゼンシュタットを通過したところ。このまま南下を続け、中央アジア経由で日本に向かうのだろう。機内は思いの外空いていて、邦楽器新作のスケッチを取る。

11月某日 三軒茶屋自宅
イタリア極右勢力「FN(新しき力)」党幹部を務めた不動産実業家の娘が、現政権の文化省音楽部門顧問就任し話題になっている。女性指揮者ベアトリーチェ・ベネーツィのこと。ムッソリーニ時代、音楽家は望む望まないに関わらず、ファシスト入党を強要され、音楽活動の条件とされていた。これからどういう時代になるのだろう。
アツィオ・コルギ死去。Mazupegul が大好きで昔本当によく聴いた。「嬉遊曲」を出版したとき、コルギが特に強く推してくれていたと人づてに聞き、何時かお礼を言おうと思っているうち時間が経ってしまった。ドナトーニを継いで、サンタ・チェチリアやシエナ・キジアーナなど、イタリア各地の高等課程で教鞭を取っていたが、当時の自分には受講料を払える金銭的余裕も全くなかった。そうして、いつしか知り合う切っ掛けすら逸してしまった。悔やみきれない。
欧州議会、ロシアをテロ支援国家に指定。これからどうなってゆくのだろうか。

11月某日 三軒茶屋自宅
以下、自分が功子先生にヴァイオリンを習うようになった経緯を、町田の母から聞き取った際の備忘録。
母が小学校の頃、横浜の自宅には縦型ピアノが置いてあって、母の姉が弾いていた。戦争で山北に疎開すると、疎開先の川村小学校にもピアノが一台あって、それを母は自由に弾かせてもらえた。弾くと言っても誰にも習っていなかったので完全な自己流だったが、そのピアノを同じように鎌倉の師範学校に通う男性が借りにきていて、彼からバイエルなど、ピアノのイロハを習ったという。
当時山北には、ひばり児童合唱団の指揮者も疎開していて、ひばり合唱団そのものも山北にあった。音楽好きな母はそこで歌うようになり、終戦後も、合唱団でNHKの収録などがあるたびに、山北を夜明けに出て上京したそうだ。物資が不足していたから、本番衣装は浴衣をワンピースに仕立て直して着ていた。
成人後、母は四谷のカワイピアノでアルバイトをしていたが、ピアノを学びたい意志は止まず、ピアノ販売員から芸大の良いピアノの先生がいると菅野緑先生を紹介してもらって、9年から10年、熱心に通った。菅野博文さんのお母様である。通い始めた当初は、反物を解いて仕立て直すのは難儀なのよと言われる程、自己流の灰汁が強い弾き方をしていたらしい。
レッスンの度に、2階の博文さんの部屋でさまざまなピアニストのレコードを聴かせて頂いたそうだが、この頃になると、自分も母に連れられて信濃町の菅野先生のお宅にお邪魔した薄い記憶が残っている。子供心に玄関先のモダンな摺りガラスが素敵だった覚えがあるが、案外全くの記憶違いかもしれない。
かくして母は息子にピアノをやらせようと説得したが、何が何でもピアノは弾かない、ピアノだけは絶対嫌だと拒んで聞かなかったらしい。その時何を思ったか、ヴァイオリンならやってもいいと言ったらしく、銀座のヤマハでヴァイオリンを買ったのだそうだ。
確かに、どこかの電車のガード下で、ヴァイオリンなら弾いてもいい、と言ったような気もする。我乍ら子供というのは本当にいい加減で無責任なものだとあきれる。
そうして菅野先生に紹介されたのが、功子先生のお母様にあたる篠崎菅子先生だった。全く家で練習しなかったので、レッスンで怒られてばかりいたという。ピアノの前のソファーで跳ねまわり、二階から降りてきた史子先生に凄い剣幕で怒られた覚えもある。大らかな時代だった。
母の話を聞くにつけ、子供の頃に合唱を歌い、ピアノだけは絶対弾かないと強情を張り、練習しないところまで、そのまま息子が受継いでいて、妙に感心する。

11月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりに本條君とリハーサル。数年前にシベリアに一緒に旅行したのが、今となっては幻のようだと話しこむ。シベリアで出会った彼らはみな元気だろうか、ご飯は本当に美味しかった、などと想い出話はつきない。
オーケストラとのリハーサルでは渡部基一さんに再会。何十年ぶりだろう。大学のイタリア語クラスで基一さんを手伝ったことがあるそうだが、何も覚えていない。あなたのお陰で単位が一つとれたんだよ、と言われて頭を掻く。流石の記憶力だと内心舌を巻いた。
ナポリ湾に浮かぶイスキア島で、大規模な土砂崩れが発生。慌てて、イスキア出身のアンドレアの家族の無事を確認する。現在8人の死亡と4人の行方不明者が発表されている。

11月某日 三軒茶屋自宅
今回はどういうわけか時差ボケが全く抜けない。12時くらいに寝ようと布団に入っても、3時には目が覚めてしまい、今度はそのまま全く眠れない。仕方がないので朝の3時くらいまで起きて、それから9時くらいまで寝ようとしても、今度はそのまま朝の5時くらいまでどう足掻いても眠れなかったりする。睡眠導入剤は、起きた時にふらつくというので、メヌエルを漸く収めている身には到底恐ろしくて手が出せない。もっと不思議なのは、そんな睡眠不足でリハーサルなどやればすっかり困憊しそうなものなのに、終わってもその疲れすら感じないのである。一体どうなっているのだろう。
武満さんの「波の盆」は、当時学生だった我々にとって大きな衝撃だった。武満さんがドラマでとんでもない傑作を書いたと仲間内で話題に上っていた。未だ武満さんの映画音楽全集など出される以前の話だったと思う。テレビドラマの「波の盆」は、笠智衆の号泣が強く印象に残った。大君に練習風景を送るために今日のリハーサル録音を整理していて、ふとリハーサルで通した「波の盆」を聴いたとき、明日が平井洋さんの誕生日なのを思い出した。昨年はお誕生日祝いの便りに、却って年末堺での本番に立会えないことを詫びるお返事をいただき、大いに恐縮したものだった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              江沢民死去。中国国内でゼロコロナ政策に対する抗議激化。

(11月30日三軒茶屋にて)