しもた屋之噺(251)

杉山洋一

2022年が去ってゆきます。信じられない速さで365日が終わり、このまま続く365日も過ぎるのかと思うと、恐ろしくなります。今年は全く良い一年ではなかったけれど、来年はより良い年にしましょう、と気軽に言えるのかどうか。現在まで、戦前とは第2次世界大戦か太平洋戦争以前を指し、戦中はその戦争中で、戦後と言えば昭和20年8月15日以降でした。その慣用句のニュアンスもこの1年で変容しつつあります。80年前、戦前から戦中へ差し掛かるあたり、世界はやはりかかる不安を抱いていたのでしょうか。あの時と同じ次章が開かれぬよう、心から願うばかりです。



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12月某日 三軒茶屋自宅
武満、藤倉作品演奏会終了。二人ともメジャーコードの趣味が似ているのは分かっていたが、思いがけずフレーズ構造にも少し似た癖を感じる。フレーズの終わりの拍を落ち着かせずに宙吊りにするか、緩やかな弱起(アウフタクト)として次のフレーズを引き出してゆく。そうして音楽は流れを生み、時に揺蕩う。和音も聴きやすいし、方向性さえ掴めば音楽の質感を演奏者が理解しやすく出来ていて、リハーサルも寧ろその部分を中心にすすめる。ここでどんな和音を聴きたくて、音楽はどこに行きたがっているか。皆が揃って耳を澄ますだけで音に色彩が広がり、深みが生まれる。こんな時は、縦を揃えようとしない方が却ってうまくゆく。
 
12月某日 三軒茶屋自宅
午後、渋谷東急本店4階のカフェ・シェ・ダイゴで、山本和智くんと三橋貴風先生にお目にかかる。生前、一柳さんがこの喫茶店を愛用していて、彼との打合せは決まって「カフェ・シェ・ダイゴ」だった。和智作品の一柳さんとの打合せは何時もここだったし、悠治さんの「オルフィカ」やってほしいんだよ、と悪戯っぽく少年のようにお話し下さったのもここだった。和智君が用意しておいてくれたテーブルは、偶然にも、昨年暮れに三橋先生が最後に一柳さんと直接会って話した席だったから、我々は一柳さんがすぐ傍でニコニコ佇んでいるのを感じながら、すっかり話しこんだ。三橋先生曰く、古典と現代邦楽を一つの線で繋ぎたいと熱望していらして、その情熱に大いに感じ入る。店長も覚えて下さっていて感激したが、最近一柳さんを偲んでここを訪れる方は多いという。斎場に向かう折、一柳さんはここに寄って最後のお別れをされたそうだ。
 
12月某日 三軒茶屋自宅
羽田からヘルシンキへ向かっている。羽田を発つ直前、音楽院で息子の初見のクラスを持っているヴィットリオより、自分の授業について息子は何か言っていたかメッセージが届く。ミラノに残っている息子に転送したところ、「もっと厳しく接してもらって構わない」と伝えてほしい旨返事を寄越した。
今朝は7時起床。家人が昨夜遅くに仕込んだ鯛のアクアパッツァを携え、高野耀子さん宅を訪ねる。朝食を摂りに誰かのお宅に伺うのも初めてだが、早朝から揃って鯛の煮込みを食べるのも一興であった。冬の澄んだ青空が広がっていて、朝の陽光をたっぷり吸いこんだ食卓も心地良い。温かいバゲットにチーズを併せたり、完熟したオレンジをこちらに勧めながら、高野さんは「楽しいな、何だか楽しいな。こりゃ楽しいぞ」と繰り返し、ぺろりと鯛汁を3杯も平らげた。なかなかの健啖家だと感心する。
高野さんは、WやOを少し口を窄めて口蓋の前方で絹糸を丸めるようにして発音し、Rが単語にかかると微かに喉の奥が震える。彼女の母語が仏語だからだろう。言葉を発する度に顔全体の筋肉が精力的に運動していて、あまり唇も開かずに、のっぺりぼそぼそ話す日本人とは全く違う印象を与える。闊達で、懐かしい「おきゃん」という単語さえ頭に浮かぶ。
子音の発音は丁寧で、常にとても表情豊かである。微笑みを絶やさず陽気で気の置けない方だが、ふと考え込む瞬間にじっと厳しい表情をなさったりする。相手に向けられた厳しさではなく、思考の惰性に陥らぬよう自らを無意識に律していらっしゃるようだ。でもそれはほんの一瞬であって、直ぐ何時もの柔和な表情に戻られる。
細い路地に面して、こざっぱり手入れされた植物の豊かな庭が広がっていて、その奧に広々した古い平屋が建つ。行き届いているが、どこか開放的な印象を受ける庭である。向かって右手奥には緑色の井戸をいただく昔ながらの勝手口があって、ここで高野さんは鯛の残滓を野良猫にやっていた。
向かって左手奥には玄関があり、そこを上がると大きなピアノが二台並ぶ。日本的な佇まいだが天井は高く、一面白い壁高くにわたされたなげしの濃い色目が美しい。壁には父上高野三三男の大判の女性像が並んでいて、壮観である。戦前15年間フランスに暮らした日本人画家の描く世界は、洋画でありつつ、連綿と培われた日本文化も凝縮されているようだ。
何が日本的で西洋的か、当時は明瞭ではなかったかも知れないし、意識も現在とは全く違っただろう。自分の素朴な印象も、可視化される表層には余り影響を与えていない気がする。当時から一世紀を経て、差異がより明確に理解されているのかすら、思えば実に怪しい。
西欧人が描くとき、人体は無意識に西洋音楽の音符に等しく、客体化記号化され、生命や魂の存在は、その人体を取り巻く周辺世界を通して、意識化され浮かび上がる。一音入魂の伝統を持つ日本文化に置換えれば、例え西欧人をモデルに文楽人形を造っても、やはり人形の裡に自然と生命が宿る気がするのだ。        
その大広間の奧に一段高い木造で時代がかった部屋があって、立派な梁が左右に亙してある。不均等な梁が、空間に心地良いアクセントを放つ。聞けばこの邸宅は元来父上が建てられたもので、それを高野さんがご自身で図面を引きつつ、ご自分の住みやすいよう増改築を繰り返してきたという。高野さんが設計図を読めるというので、ミケランジェリも、自宅を改築する際、高野さんに設計図の確認を一任していたそうだ。
その旧めかしい木張りの部屋には小判の画が並んでいて、「これが赤ん坊のときのあたし」と紹介して下さった、赤子の肖像画が印象に残る。これは母上岡上りうの作品で、余りに赤子が現在の高野さんに瓜二つなのに感嘆した。筆力のみならず、娘への観察眼と、それを客体化させ染み出る愛情に、女性らしい現実感すら感じられる。画風は端正であって細やかで、特に高野さんを描いた作品には慈愛があふれる。確かに、りう氏の描いた薩摩千代像も、写真で見る薩摩千代そのままで愕かされる。
若しかすると、三三男氏より寧ろ抽象を多く手掛けられたのかもしれないが、作品の印象はより具体的且つ現実的で、三三男氏の作品からは、芸術の理想像や女性への畏敬を感じられる。
実は、何処かでこの赤子に似た絵を見た気がしていて、ずっと思案していた。息子が小学生だった頃、絵が好きで絵画教室に通っていた。あの頃に、同じような構図で赤ん坊をデッサンして帰ってきたのである。小学坊主と稀代の一流女流画家を並べて論じるなど言語道断だが、慎ましい日記の範疇で、珍しく二人とも同じ名前だから失敬する。無意識にシナプスのどこかで繋がっていたに違いない。りう氏の没年が昭和44年なのも、同年生れとして親近感を覚える。不謹慎極まりない話だ。さんざんお話を伺ってから暇乞いをすると、高野さんは態々路地まで見送りに出てきてくださった。眩しくよく晴れた温かい日で、もうすぐ正午を迎えるところであった。
 
12月某日 ヘルシンキ行機内
ロシア上空迂回につき飛行時間も長くなり、すっかり時間を持て余していて、備忘録は書き出すと止まらない。
高野さん聞き書き。
パリで生まれ育った高野さんは、昭和15年、9歳のときに戦争が勃発して日本に帰国する。それまでピアノを習っていたマグナ・タリアフェロは、50キロの錘を想像しながら両腕を持ち上げて、重力に任せて脱力した腕を落とす訓練をやらせていた。時には、ぐにゃぐにゃと腕や肘を解きほぐしたりもした。そのタリアフェロのお陰か、高野さんが後年ミケランジェリに師事した際、姿勢やタッチは一切直されなかった。ミケランジェリは各生徒に見合った助言を与えるので、タッチを直される生徒もいたけれど、高野さんには、特にフレーズ処理を指導した。
後にドイツのコンクールで再会したタリアフェロからも、昔自分が教えた基礎を守っていると褒められたと嬉しそうに話して下さった。タリアフェロは腕の脱力や自然落下に力点を置き、躰を自由に使えるよう指導していたと読んだこともあるが、実際タリアフェロのヴィデオを見ると、いかに彼女が重力を利用して、無尽に演奏していたかわかる。
戦時中は、靖国神社脇の白百合学園で薙刀の鍛錬などやっていて、九段下まで線路を歩いて登校した。時に何かに躓き転んだりして、ふと足下を見るとそれは死体だった、そんな逸話すら、当時女学生たちは学校で明るく笑い飛ばしていた。どんな状況であれ、学生生活は楽しかった。
戦時中ドイツ音楽は普通に演奏されていたから、高野さんもピアノを続けられたのだろう。終戦後間もなく、15歳で芸大に入学し安川先生に師事すると、同期生には黛さんや千葉馨さんがいらした。高野さんと同じフランス育ちの安川先生の音楽は、高野さんが幼少フランスで親しんだ音楽そのままだったから、まるで自然だった。昭和23年、大学3年でパリに戻るにあたり、高野さんは故郷に帰る思いを抱いていた。
貨物船でジェノアかマルセイユ経由で渡欧したかと思いきや、BA運行の飛行機に乗り、香港経由南回りでロンドンまで8日間の旅だったそうだ。旅の途中で隣の座席の英国紳士と親しくなり、馴れない英語と仏語で会話していたが、その紳士は4年もの間、日本軍の捕虜であった。
まだ日仏間の国交は回復しておらず、幼少の高野さんを教えたヴァイオリン教師が身元引受人となり、高野さんのフランス滞在中の一切の責任を負う旨念書を提出して、ヴィザが下りた。
8月のパリに着いた高野さんは、ヴァイオリン教師宅に寓居して夏を過ごす。当時日仏間の送金は不可能で、保証人に厄介になる以外、方法はなかった。9月の声を聞いて10月の音楽院入学試験課題曲が発表になった。シューマンのトッカータとショパンのバラード1番であった。
3ラウンド選抜試験方式で、課題にはソルフェージュや初見の試験も入っていた。全く不馴れだった初見は酷い出来ながら、ピアノが成績優秀で入学を許可された。
パリ音楽院のピアノ科は10クラスほどで、1クラス15人程度生徒が在籍していた。教師や学校の情報すらままならない中、うら若き少女一人で入試を目指し果敢に渡欧とは、何とも勇気ある話だ。かくして高野さんは戦後初の日本人学生となる。三善先生が仏政府給費留学で同音楽院に留学する7年前のことである。
高野さんは昭和26年にパリ音楽院ピアノ科を最優秀で修了、翌27年には室内楽科を同じく最優秀で修了した。その後ベンヴェヌーティの下を離れ、デトモルト音大でハーザーに学ぶことになるが、当初は言葉が通じずハーザーの愛娘がレッスンを通訳した。フランス滞在後のドイツに違和感を覚えることなく、すべて自然に受け容れられた。高野さん曰く、誰もがフランス風、ドイツ風と勝手に形に嵌めすぎるきらいがあるが、彼女はそこに拘泥したことも、苦労した覚えも皆目ないそうだ。
昭和29年イタリア、ヴィオッティ国際コンクールに優勝して、フェニーチェ劇場やスカラ劇場オーケストラとの共演の運びとなり、イタリア各地で優勝者記念演奏会を開く日々が続く。高野さんはアジア人初の国際コンクール優勝者でもあった
ミケランジェリと知己となるのは昭和40年東京でのこと。同年と翌年ミケランジェリよりシエナのキジアーナ夏期講習会に招待され参加した。それから昭和45年の日本帰国まで、高野さんはミケランジェリの下で研鑽を積み、アシスタントを務めた。
キジアーナ音楽院のミケランジェリの教室は2階一番奥のサロン。7人程の生徒を相手に2週間続く集団レッスン形式で公開されていた。この教室は先日サラのソリスト合わせをした部屋ではないか。そうであれば30畳ほどの教室で、壁に犇めく絵画のためか、少し薄暗くカーテンが引いてあった。
高野さんが参加した最初の年はラヴェルとドビュッシーがテーマで、生徒はそれぞれのレパートリーから二人の作曲家の作品を選び準備した。集団レッスンなので一人がレッスンを受ける間他の生徒もそれを見学する。一人レッスンが終わるとミケランジェリが出し抜けに「はい、次あなた」と指定するので、なかなか気が抜けなかった。
高野さんがラヴェルのソナチネを持ってゆくと、レッスンではしばしば、「待って!」と言われた。一つのフレーズを終わらせるにあたり、次のフレーズまで時間をかけ、慌ててはいけなかった。長い間低音をペダルで残す技術も、ミケランジェリから教わった。低音が残っていても高音は早く音が消えるから音は濁らない。あんなにペダルを踏み続けるのを初めて見た、と高野さんは笑っていらしたが、同じミケランジェリ門下のメッツェーナ先生が、家人に教えたペダルと同じである。
キジアーナ音楽院のもう一人のピアノ科教授はグイード・アゴスティで、エリザベート・コンクールで知られるエリザベート王妃もアゴスティの教室を訪問し、背筋を伸ばしてレッスンに聴き入った。錚々たる教授陣である。ミケランジェリは予定表など一切作らず、その場で気の向くまま生徒をあててレッスンしたが、アゴスティは予め各人の時間割を作り、公平にレッスンしていた。
ミケランジェリは、山向こうのアレッツォから自ら車を運転してシエナまで通っていた。その年12月、トレント近郊のミケランジェリ宅に招かれるまで、高野さんは半年間シエナで過ごした。その間彼女のイタリア語はすっかりシエナ訛りになっていたので、再会したミケランジェリには大いに揶揄われた。当時ミケランジェリの生徒たちは揃って彼の家に寄宿していて、しばしば演奏会にも同行が許された。完璧主義者のミケランジェリは高野さんにイタリア語しか話さなかったが、高野さんは仏語と聞き覚えの伊語を交ぜて会話した。
 
12月某日 ミラノ自宅
ヘルシンキは酷い雪で離陸前の溶雪作業に時間がかかった。尤も、翼に積もった雪を融雪剤が勢いよく吹き飛ばしてゆくのは爽快痛快だ。迫力も抜群で溜飲が下がる。
昼前自宅に着いて、取急ぎあり併せで出がけの息子にパスタを用意する。ふと庭を目をやると、餌場の椅子からリスがじっとこちらを眺めているので、胡桃をやる。「やれやれ漸く帰ってきた」という表情をする辺り、息子より愚直である。息子は二週間の一人暮らしで2キロほど痩せた。
 
12月某日 ミラノ自宅
早朝リスに胡桃をやった途端に、いつもの鴉や小鳥たちが続々集い、庭はすっかり賑やかである。それから暫くして外を見ると、今度はリスと黒ツグミが目の前のベランダの手すりに並んでいて、相変わらずこちらをじっと眺めている。餌の催促にあたり、種を超えた紳士協定を締結したらしい。確かにそれぞれ一匹ずつに見つめられるより、異種二匹並んで良心に訴えるほうが効果は高そうだ。
久しぶりに会う息子が朝から集中して練習していて驚く。尤も、午後にダヴィンチ博物館で数曲弾くらしいから、当然ではある。
「優しい地獄」読了。既に水牛で知っていた文章は文字が二重写しに見え、そうでないところは、文字そのままが映像化され脳裏に投影される。映像を作る人の文章は、ドキュメンタリー映画のように、時に生々しいほどの光景を映像化して立ち昇る。そこには温度も臭いも触感もある三次元空間となって辺り一面に広がってゆく。基本的に音楽を抽象芸術だと定義すれば、映像は本来具象を扱う芸術の扱いになるのだろう。具象で音楽を試したい者にとって羨ましくもある。
ルーマニアは知らないけれど、シベリアの田舎の風景やアルバニアやブルガリアの友人の話が、断片的に頭を過り、読み進めるうち、それらを改めて反芻する手触りを覚える。尤も、詰まるところ音楽はどう足掻いても表現手段としては穏やかで間接的なもので、だからこそ生き延びられる場合もあるかも知れない。
 
12月某日 ミラノ自宅
夜明け前運河沿いを散歩していると、大きな塊が目の前を飛び跳ねている。目を疑ったが、確かに6匹の野兎の群れが道路を渡って移動していて、どうやら家族のようである。来年は干支だからと勢い余って出てきたのか知らないが、毎日この道を歩いていて初めての体験だ。今朝は妙なものばかりに出会う。運河に見たこともない大きな黒鳥が一羽、優雅に浮かんでいた。
文章を書いたり作曲するのは、愉快な作業のはずだ。音を聴いたり文字を読む行為は、本来喜びを宿しているはずだが、時として、作曲も日記も体内に溜まった澱を外に掻きだす作業に感じられる。普段からアウトプットが足りないのかもしれない。記憶の塵芥を放置しておくと、何時しか体内に臭気が立ち籠めてくる。
返事が来るとは思えないし、届くかどうかすら怪しいが、シベリア、クラスノヤルスクのラリッサにクリスマス・メッセージを送る。クラスノヤルスク県からの動員が多かったと聞き、一緒に演奏した仲間たちの身を案じている。彼らは実に心の優しい、素朴で良い人たちだった。美しい土地に素晴らしい音楽家が暮らしていて、料理は愕くほど美味しかった。あの時自分が感じたことを、素直に信じていたい自分がいる。一刻も早く戦争が終わってほしい。
 
12月某日 ミラノ自宅
美恵さんの本を読もうとすると、美恵さんの声が聴こえてくる。美恵さんの話し方とそのスピードで目の前の文章が再生されるので、時間がかかって困る。時々文章の合間にけらけらと著者の笑い声まで入る。美恵さんのお宅から拙宅は近いので、わーはっはと啼く烏も知っていて、烏の声まで読むものを邪魔する。
寄せ書きの「Homo ludens遊ぶ・ひと」という言葉を読みながら、バッハの平均律が頭に浮かぶ。「Pre-ludio 遊びの・前」の小手調べからいざ「Fuga遁走」。当初どのニュアンスで使い始めたのか知らないが、我々ホモ・ルーデンスはその昔からなかなか趣味の良い言葉遊びをしてきた気がする。美恵さんの文章は、柔らかい響きながら表現は曖昧にせず明確に言い切っていて、安心して読める。
 
12月某日 ミラノ自宅
時差呆けにて03時30分起床。
美恵さんもイリナさんも、事象を素直に、しかし現実的に捉えていて、そこから言葉がすらすらと生まれてくる。それは自然な表現なのかもしれないが、現実を冷静に観察しそのまま直截に表現できる能力は、自分にはない。
望月みさとちゃんや山根さんや渡辺裕紀子ちゃんの作品を演奏して、どこか共通するものを感じた事にも微かに通じる。音楽はそれぞれ全く違うが、自分にはない視点で音楽の地平を捉えているところが似ているのだ。何かを観察するにあたって、その行為がそのまま一つの事象として成立していたり事象へ発展していたり、或いは収斂、帰結をみたりもする。
性別と関係あるかは知らないが、自分に関して言うならば、観察結果を構造という函に一旦投げ込まないと不安になるきらいがある。それは強迫観念のようなもので、場合によって構造は或いは箱の形状もとらず、形而上学的に観念化されているかもしれない。
大戦後のケージショックの偶然性も脱構築性も、そこに純然たる構造が浮き彫りになっているから面白い。構造を壊そうとすればするほど構造がより顕著になるのは、複雑な音を書けば書くほど構造が単純化するのに似ている。構造は否定すれば否定するほど明確になるから、本当に構造を否定したければ、無条件に構造など考えなければよい筈だが、構造を考えずに思考すれば、否定された構造ばかりが炙り出される。
敢えてジェンダーの二極を受容れても、その二極間には無数のグラデーションが存在するだろうし、二極を繋ぐ線も直線ばかりではないだろう。それは個性の一つの指針にはなるかもしれない。馬齢を重ねるほどに、自分が知っているつもりでいたことについて、実は何も知らなかったと気づく。
 
12月某日 ミラノ自宅
朝4時半起床。弁当用に白米を炊き、鮭に塩を振り水分を飛ばして焼いてから、大きな橋を渡って運河の向こうに朝食用パンを買いにゆく。最近息子が気に入っている蜂蜜入り全粒粉パンを購い、朝食用の目玉焼きと弁当用の和風卵焼きを作り、温かい紅茶をポット2本に詰めて、海苔弁当とおかずも詰めて、さあ朝食を食べようと思いきや、ベランダで番のリス二匹がこちらを恨めしそうに眺めているから胡桃をやり、慌てて朝食を食事をかけこみ自転車を走らせ、何とか8時50分レッスン開始に間に合わせる。パスタの方がよほど手軽だが、昼食にパスタを食べると眠くなる。
夜19時半困憊して帰宅すると、息子は昼食を食べ散らかした上、食器未洗により激怒。言葉を交わす間もなく、息子はそそくさと友人たちとハンバーガーを食べに出かける。衝突回避の術を彼なりに会得していて、処世術ともいう。
秋も深まり気温が下がってきた頃から、冷蔵庫に貯めておいたパルメザンチーズの外皮を料理に使うようになった。これをかち割り、ソースに放り込んで煮込むだけだが、特徴ある深いコクが絶品の冬の味わい。
 
12月某日 ミラノ自宅
美恵さんの本に登場する「わっはっは」と啼く烏。美恵さんは近所だからほぼあの烏に間違いないが、或いは烏間違いをしているかもしれない。「ばーか」氏にもどこかで会った気がするが、こちらも烏違いかもしれない。
朝、胡桃をやるとき、同じ小鳥が同じフレーズを囀っているのに気が付いた。仲間に「メシだメシだ」と伝えているのか、どこからともなくすぐに仲間が集まってくる。
うちの庭には以前からリスと黒ツグミが、並んで巣を作っていて、割と仲も良さそうで、時として雛鳥と幼リスが追いかけっこをしているようにも見える。産まれた時から隣に住んでいて、体長も凡そ似ていて親近感を覚えるのだろうか。
胡桃をやると、向かいの中学校庭に巣を作っている番の烏も、すぐに二羽で連立って飛んでくる。ところが、こちらの烏は日本の烏よりずっと穏やかで、リスに何時も嫌がらせをされては、暫く遠巻きに眺めている。その間も、雀よりもずっと躰の小さな鳥たちが、入れ替わり立ち替わりやってきて胡桃を啄むが、何故かリスは烏以外には寛容なのである。
母から誕生日祝いが届き、「洋一は自分が生まれてきて良かったと思っているか、考えることがあります」とある。そんな自問をした記憶はないが、同じ疑問を息子に対して考えていたところだったので、まあ親は誰も同じことを思うのだろう。生まれてくる方は、生まれて以後の現実に振り回されて頭が回らないが、生んだ方はそこに至る過程を遡求する。
生まれて良かったかどうか考えたことはないが、53歳の自分が毎日庭に集う小動物を眺めて暮らす姿を想像したこともなかった。
 
12月某日 ミラノ自宅
「待春賦」脱稿。小品なのでさっさと手書きで浄書し、夜半沢井さんと佐藤さんに送附。
11月日本に戻る機内で沢井さんの名前を使って17絃と25絃の調絃をあれこれ思案していて、突然降って湧いたように興味深い旋法が浮び上がった。「待春賦」の題にはいくつか意味を掛けているが、平和への希求もそこには当然含まれている。
先日のメールに対して、シベリアから返事が届く。
「わたしは目を閉じ、神に祈っています。神がわたしたちに眼を向け、微笑んでくれるように。来る将来、今までのように互いに心を通わせ、愛する人々とまた垣根なしに会えるように祈っています。この苦しみが、過ぎゆく今年とともに消えてなくなるよう、祈っています。誰ひとりとして、わたしたちの心を繋ぐ見えない糸を、断ち切ることはできません」。
 
12月某日 ミラノ自宅
長谷川将山さんのための尺八曲を、1月に亡くなった平井さんを偲びながら書く。名前で作った音列を展開させる途中、何度か、平井さんがその辺で眺めている錯覚を覚える。子供の頃にやったコックリさんに似て、音符と数字が妙に隙間なく合致する瞬間があって、そんな時「ほらこの数字間違っていませんよ」とあの飄々とした口調で話しかけられている気がする。「何しろ、わたしは理系ですから」と、継ぐ言葉すら聞こえるようだ。ところで今回は甲賀さんの本から沢山の尺八曲のヒントを頂いた。空間の広さや深さ、個性を纏う面白さ。2次元の事象を4次元くらいに変換させて空間に遊ばせること。甲賀さん有難うございます。
中国でCovid感染爆発のニュース。3年前の今頃を思い出して暗澹たる思い。厄介な変異種の出現でないことを切に祈る。
 
12月某日 ミラノ自宅
平井洋さんを偲ぶ尺八曲を「望潮(もちしほ)」と名付けた。能の「融」で地謡が「汲めば月をも、袖にもち汐の、汀に帰る波の夜の」と唄う場面。田子を担ぎ汐を汲む老人の袖にも月がうつりこみ、汀に戻る汐汲みの老人、もとい源融の幽霊は、いつしか汐曇りに消えてゆく。
平井さんとお仕事をご一緒した多賀城と堺は、「融」の舞台である塩釜と京都とは近からずとも遠からず。「月」が隠れた主題となっている「融」だが、白河の小峰城で平井さんとご一緒した、沢井さんと有馬さんに書いた「盃」も、李白の詠んだ「月」が主題だった。
「秋の南湖の水面は夜になっても靄なく澄んでいて、この流れに乗って天にすら昇りたいところだが、まあひとまずはこの洞庭湖で月の光を頼りに、船をすすめて酒でも買いにゆこうじゃないか、あの白雲のあたりまで」(李白「洞庭湖に遊ぶ」)。
 
12月某日 ミラノ自宅
「望潮」脱稿。早速長谷川さんに送附。夜メルセデス宅にてカルロッタを交え3人で夕食。二人とも10月に罹ったCovidが尾を引いている。11月中旬に漸く陰性になったそうだが、メルセデスは未だに困憊していて、椅子に座らないと料理すら出来ないとこぼす。体調がすぐれず一度だけ挨拶に顔を見せただけのリッカルドは、同じ時期に罹ったCovidですっかり顔がこけてしまっていた。
カルロッタは11月から年金受給者となり、現在、工科大の教授職は無給で続けている。工科大にはロシアやウクライナからの留学生も何人か在籍しているが、ロシア人学生たちは祭日期間など普通にロシアに帰郷し、その後普通にミラノに戻ってきているそうだ。どういう経路でモスクワ、シベリアまで戻るのか分からないが、陸路なり何某か手段が残っているらしい。
メルセデスの家事手伝いをしているモルドヴァ出身のマルティーナによると、モルドヴァに残る彼女の実母は、トランスニストリア出身でもないのに熱狂的なプーチン崇拝者だという。旧ソ連時代を希求するこうした市民はロシア国内にも国外にも一定数いて、現在のロシアの軍事作戦を支えている。
カルロッタ曰く、BREXITで外国人を排除した結果、イギリスで看護師や医師が酷く不足し医療が破綻を来しているらしいが、実際どうなのだろう。右派政権のイタリアも全く他人事ではない。
マルペンサ空港では、一昨日より中国からの到着便の乗客に任意でPCR検査を実施していたが、陽性率が1便目で35%、2便目で53%に達したため、今日からPCR検査は義務化された。
 
12月某日 ミラノ自宅
般若さんより、悠治さんのヴィオラ新曲のヴィデオが送られてくる。聴いていると、つい無意識に4度、5度、3度、6度と音程を耳で追ってしまう。そんな時、目に見えない輪が目の前でふわふわ浮いているのを感じる。
一方、山根さんを交えた三重奏曲は、さまざまな大きさの二等辺三角形が、ちょうど知恵の輪のパズルの塩梅で、どこともなく絡んでいるように見える。ピアノパートが与える印象だろう。2和音とそれをつなぐ別の1音が描き出す三角錐の空間。
ベネディクト16世逝去。イギリス、フランスも中国から到着する旅客に陰性証明や抗原検査義務化。明日からクロアチア通貨はユーロとなるが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを超えた先、コソボ・セルビアでは衝突が尖鋭化しつつある。こうしてウクライナ侵攻の足音は、西ヨーロッパ手前まで波及しつつある。(12月31日ミラノにて)