年末の疑い

高橋悠治

11月は忙しい月だった。青柳いづみこと連弾でシューベルトとミヨーを弾き、月末にはショパンから20世紀前半の作曲家たちの作ったさまざまなマズルカの録音をするはずだった。でも、録音はやり直しになった。こんなことがあると、ピアノを弾いているだけの日々には、何かが欠けているのかもしれない、と思ってしまう。

音の現れが空気を変えることより、響きの余韻の時間の方をだいじにしているのではないか、と疑ってみると、この演奏には発見があるのだろうか。では、響きに包まれた線を、どうすれば自由なうごきとあそびの空間に逃すことができるか。纏わりつく和声と伝統から離れて? 

制度のなかでの安定とその快さではなく、不安定と変化の方へ、それぞれの部分が全体から外れていく萌芽であるような、仮の、一時的な集まりとしての一つの曲。そんな演奏ができるのか。演奏だけで、それができるのか。もともと演奏家ではなかった立場を忘れていたのではないか。