しもた屋之噺(165)

杉山洋一

今滞在しているボルツァーノは、イタリアですがドイツ語が話されている、アルトアディジェ最大の街として知られます。老若男女を問わず、当たり前のようにドイツ語とイタリア語が共存しているのは、例えばスイスなどでもありふれた風景ですが、違うのは、ドイツ系の住民はドイツ文化を、イタリア系の住民はイタリア文化を、互いに受け容れながら、交じり合わずに共存できていて、スイスのように出身文化の影が薄くならないところです。アルプスの麓で朝晩は冷え込みますが、盆地なので陽が差せば日中はミラノより暑くなります。
今月は家族に4日しか会えぬまま、瞬く間に過ぎました。そんな中で、アデスとガスリーニという、ジャズが鍵となる、全く性質の違う現代作品と向き合っていて、生粋の現代作曲家がリズムの面白さからジャズを使うことと、クラシック出身のジャズミュージシャンが、ジャズセッションを敢えて構造化させること、その視点の違いに興味を覚えています。

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9月某日 ミラノ自宅
ミラノに戻る機中、アデスの楽譜を開く。彼とは傾向が違うけれど、ベンジャミンやナッセンの質感を思い出し、これがイギリスの伝統かと漠然と思う。ブリテンはモーツァルトのような手触りを覚えるが、例えばアデスとエルガーには共通するものを感じるのは、音がつまった感じの楽器法のせいだろうか。アデスとリゲティは音楽的に重なる部分がある筈なのに、聴いた印象が大きく異なる理由は、この質感の違いではなかろうか。

9月某日 ミラノ自宅
国営放送ラジオFMで、昨年イタリア放送響とやったデル・コルノやペトラッシ、アミーチの演奏が放送された。スモーキーなウィスキーのようなオーケストラの響きに聴き惚れる。アナウンサーが指揮者紹介でスギヤマときちんと発音しているのに感心する。伊語読みして、スジヤマと呼ばれるのに慣れている。すぐ放送を聴いた音楽学の学生からメールが来て、放送を聴いていたが、楽譜を見せて欲しいとのこと。

9月某日 トリノからミラノへの急行車内
トリノでアデス・フランチェスコー二のダブル・ポートレイト演奏会。つい先日ルカの父親が亡くなって昨日が葬儀だった。疲れ切った顔をしていて、かける言葉もない。
プログラムに選ばれたどの作品も難しい。アデスのコンチェルト・コンチーゾは、アンサンブルの半分の奏者が、指揮者の基本テンポに対して3連符で叩く打楽器奏者のビートを聴きながら演奏する部分があって、打楽器が聴こえなければ演奏できないのだが、予め用意してあった舞台配置では打楽器の音が他の奏者に届かなくて、どう舞台に並ぶかだけで喧々諤々。

9月某日 ミラノ自宅
マリゼルラ宅へドナトーニの楽譜を借りに行きついでに話していて、90年代後半、ドナトーニは新しい作曲の方向を見出していた話になる。当時は、作曲中しばしばマリゼルラに電話をしてきて、ショパンの葬送ソナタのゼクエンツはどうだったかとか、鼻歌を歌ってこの旋律は何かと尋ねては、それらを作品に取り込んだという。「In Cauda IV 焔」には、お気に入りの007冒頭のジングルが使われていて、曲の引用は作品のコンテクストとは無関係だったと言う。とは言え、ショパンの葬送ソナタが「焔」に用いられているのは、「焔」が死を題材にしているからに違いない。

9月某日 ミラノ自宅
アデス、フランチェスコー二のダブル・ポートレイトのミラノ演奏会。アデスはともかく難しくて、ドレスリハーサルでも細かく指示を出す。少しでもよい仕上がりになるよう、祈るような心地で演奏を始める。会場はトリノよりずっと演奏しやすい。アデスがドレスリハーサルでアドヴァイスをくれて、よりメリハリのついた音像を欲しいとわかる。作曲者が聴いていると、演奏者も緊張感をもって演奏できるのが、良いところではある。演奏が終わってアデスはとても喜んでいた。これらの曲は難しすぎて今まで一つの演奏会で一度に演奏できなかった、と言っていたそうだが、プログラミングは彼からの希望だと聞いた。大変だと分かっているならもう少し考えてくれればよいのに、と恨めしい気持ちで自転車を漕いで帰途に着く。

9月某日 ミラノ自宅
国会前の人いきれをニュースで見て、何故今頃皆反対を叫ぶのかと不思議に思う。自民党を選んだのは我々自身で、それがたとえ低い投票率の結果であっても、投票に不正がなければ、民意の結果として受け入れざるを得ない。自民党が圧勝すれば、こうなるのは分かっていた筈ではなかったか。現首相は自らの信念を曲げずに進んできただけで、ぶれてはいない。
たとえ間接的であっても彼を首相に選んだのは、他でもない我々であることは忘れてはいけないだろう。
もし本当に我々が安保法案に反対なら、次の選挙で自民党が下野し、法案を改めて改正させるしかない。果たしてそれまで現在の情熱が保てるだろうか、と事態を静観できるのは、単に自分が海外に住んでいて、息子も無期限ビザを持っているから。

9月某日 三軒茶屋自宅
朝成田に着く。今日の午後だけ家人と息子と一緒にいて、彼らは入れ違いに明朝ミラノに発つので、家族で駒沢公園のサイクリングコースを走りたいという息子の希望を叶える。その後、同じく彼の希望で世田谷通りの蕎麦屋で蟹の天ぷらとカレーうどんを食べて帰宅し、疲れ果ててそのままベッドで眠りこける。

9月某日 東海道新幹線車内
ユウジさんの演奏会にゆく。演奏会が始まる前、ユウジさんと美恵さんと会場の入口で何となく立ち話をしていて、演奏会に集う人々が、それぞれこれほど個性的な立ち振る舞いと雰囲気とで会場へ到着することに感銘を受ける。「向田邦子のドラマみたい」と美恵さんに云うと、「悠治の演奏会だから」と笑っていらした。
ユウジさんは新作の「虎」を連句のように作曲したそうだが、個人的には池に放った石が水紋を八方に広げてゆく姿を思い浮かべる。一つの波紋がさまざまな地形に打ち返され、複雑に重なり合う。
セイシャスのトッカータ3曲。うねうね果てしなく続く右手は、スカルラッティやソレルに似た癖のある舞曲風で、最後に何時も小さなメヌエットがカップリングされている。原譜で左手が欠損している部分を、ユウジさんが音を足して弾いた。
神戸で催す「イワト」は、多国籍風で洒落た雰囲気。終わって中華に集うところは東京と一緒。ユウジさんは、波多野さんと栃尾さんに素敵な帽子を誕生日祝いに贈られたが、こちらはユウジさんから「虎」とセイシャスのトッカータの譜面を頂いて帰る。
皆美味しそうにお酒を呷っていらしたが、我慢して帰途も楽譜を広げて仕事をしている。

9月某日 三軒茶屋自宅
朝の8時半からHさんとTさんに、フォーレの1番のソナタを聴かせて貰う。調性感の聴き方と構造の簡略化、身体の脱力で音色をつくること、そんな話ばかりで我乍ら能が無い。もっと霊感溢れる音色のアドヴァイスなどをしたい。普段から自分が楽譜をそんな風に記号論的にしか読んでいない証し。

沢井さんの処で「マソカガミ」を聴かせていただく。こうしてリハーサルをしながら音楽を作ってゆける仕合わせ。練習何回で本番がいつ、という生活に慣れすぎてはいけないと自らを諌める。本来、作曲は自分が書きたいことを書きたいと思ったときに書き、演奏者が納得できるまでその作品に関わるのが正しい姿なのだろうけれど、実際なかなかそうはゆかない。自分が演奏に関わるときだけでも、沢井さんのような音楽への謙虚さの一部でも真似したいと思うけれど、出来ているのだろうか、とも思う。

「東京のカノン」の練習。絵具で色をつくるように、同じ音にさまざまな音色が重なり、綾を紡いでゆく。カノンだからどこまでも続けられる。ここでは作曲とは如何に音を減らしてゆくか、その引き算のプロセスとなる。演奏も如何に音を聴きあってぶつかり合いながらも耳を澄ましてゆけるか、やはり引き算のプロセスである。
中川さんに、決められた公式の音を耳で変えるかと尋ねられて、敢えて恣意的にならぬために変えないと応える。
仙川の練習のあと、自転車でつつじケ丘の雨田先生を訪ねた。先生は同じ寅年の同級生「ユウジ」がトラという新作を自作自演した話を、目を細めて楽しそうに聞いていらした。

9月某日 三軒茶屋自宅
ミラノの小学校に戻った息子からメッセージが届く。親友たちのこと、担任のヴィットリアのこと、歴史の口頭試問で褒められた話など、学校が楽しくて仕方がない様子で、少し複雑な気持ちでそれを読む。

9月某日 三軒茶屋自宅
笹塚で先月の指揮ワークショップの続き。シューマンを初めからやると、到底先に進めないので、一番簡単そうな二楽章冒頭から始めるが、それでも冒頭の主題だけで3時間ほど過ぎてしまい、自分の効率が悪さに流石に嫌気がさす。今回ピアノを弾いてもらった坂東くんは、指揮を見ているだけで、指揮者が楽譜をどれだけ読んでいるか詳らかになることに驚いていた。
自分自身は、最初にこうして教わったとき何も理解できなかったので、皆の理解力の早さには感嘆するばかり。

9月某日 三軒茶屋自宅
朝から水一滴も飲まず、昼過ぎ赤坂で人間ドッグを受ける。昨晩23時に予約したが、キャンセルされたところへ入れてもらい、直近割引。
エコー検査は先輩の看護師が若い看護師に説明しながら。「ほらこれが肝臓で、これが膵臓ここをこう下から見ると何某で、これも写真にとって、ここがよくポリープが隠れている何某で医者が見て診断できるように写真をこう撮って…」と云われると、何かあったのかと気を揉む。バリウム検査は胃カメラよりずっと楽なのだろうが、げっぷなどとても我慢できず、それじゃ検査になりませんと叱られる。何もしていないのにどっと疲れる。

9月某日 羽田空港
アールレスピラン本番が終わったところ。ヴィヴァルディが最初に演奏されたので、バッハが敬愛したヴィヴァルディの快楽性が、本番の演奏に聴こえた気がする。演奏会後、楽屋に松原さんを訪ねてきた中学生くらいの女の子から、「文字を七進法でどう作曲するのですか」と質問を受ける。すごく興味があるとかで、目が輝いていて羨ましい。
毎回同じようだが違う演奏というのは、聞いていて楽しい。局所的にあそこを間違えたここを間違えたと思って聴く心配がなく、どうなってもそれが音楽的に演奏されているのであれば、受け容れられる気楽さもあるのだろう。

出発点と帰結点が大凡決まっているとして、その中の音が5秒前後したとして、その誤差が全体の音楽の構造に与える影響はどれだけか。その誤差を埋めるのが作曲の作業なのか、出発点から帰結点への道程を示すことが作曲なのか。書けば書くほど、演奏者は縛られる。楽譜に忠実であることをモットーに音楽をしていると、寧ろ縛られなければ演奏できないのではないか。

問題は、縛られた演奏は縛られた音がすること。良いも悪いもなく、縛られた演奏は縛られていて、自由な演奏は自由な音がする。そのどちらが良いということもなく、最終的には均整の趣味に関わる。クセナキスなどは、音楽家の態度を強く条件づけしながら、見事に音楽を立ち昇られることに成功した最たる例かもしれない。

9月某日 ボルツァーノ ホテルラウリン
朝の6時前にフランクフルトに着き、そこからヴェローナに飛んで、列車でボルツァーノに着いた。街で見かける人の殆どが独語を話している。
オーケストラ・ハイドンとのリハーサルを終えて、作曲のマヌエラとアルフォンソとアルトアディジェの酒屋で地元の赤ブドウ酒を呷る。折角なので、何かつまめるものを頂戴というと、薫製肉シュペックをパンにのせて出してくれる。ミラノで売っている燻製はスペック、ここで食べる本物は「シュペック」なのだと、ブレッサノーネで暮らすマヌエラが笑う。
ボルツァーノの二ヶ国語政策が余りに徹底しているので、一体どうなっているのか尋ねる。彼女の母国語は独語なので、ドイツ人学校で学校教育を受け、そこでイタリア語をかなり厳しく学んだので、イタリア語は下手なイタリア人より美しい言葉使いをする。
「ここまで来るのは本当に大変だったのよ。祖母の世代まではイタリア人が大嫌いだった。私の母はラディン人だったから、母はラディン語を話していた。でもまだ私が幼いころに亡くなってしまったから、あまりラディン語は上手にならなかった。でも理解はできるわ」。

ボルツァーノは神聖ローマ帝国の後、ナポレオンのイタリア王国の一部となり、その後オーストリア帝国に移り、そして第一次世界大戦後にイタリアに併合された。当時住民の殆どがドイツ系住民だったところに、ムッソリーニは南部のイタリア人を多数移住させて、イタリア化を目指した。
ドイツ系の苗字はイタリア風に改名させられ、イタリア語が強要されたので、ドイツ語は隠れキリシタンのように、家や秘密学校で秘密裏に子供へ受け継がれた。
第二次世界大戦中、ヒットラーとムッソリーニはこれらドイツ系住民に、イタリアに残ってイタリア人となるか、ドイツに移住しドイツ人になるかの選択を迫り、8割のドイツ人系住民がドイツに移住し、残った2割は裏切者と呼ばれた。
戦後、ナチスに移住させられた住民が戻っても、イタリアはこの地方に自治を認めた上でイタリア支配を続けた。現在この地方の住民の3分の2はドイツ系で、残りの殆どがイタリア系にわずかのラディン系が残っている。

「二ヶ国語政策を私は信じているわ。違う文化が二つあるなんて、得るものが沢山あるでしょう。純血主義とか国粋主義は、間違っているわ。でも、それはグローバリズムの波に呑まれることではないの。互いの文化を尊重しあい理解しあうこと。ラディン語もぜひ残って欲しい。あなたから見れば、この街並みはイタリアに見えないかもも知れない。でも、この街並みはドイツでもオーストリアでもスイスでもなくて、やっぱりイタリアなの。山を越えたインスブルックで呑むコーヒーは、全然違ってそれは不味いものよ。ドイツからここに友達が来ると、ああ地中海文化そのものだって大真面目に感激するの。あなたが聞いたら笑ってしまうと思うけれど」。

酒屋の傍らにある劇場の入口にも、伊語、独語、ラディン語で看板がかけてある。
切立ったアルプスの山の上に、煌々と光る満月がぽっかり浮かんでいる。

9月某日 ボルツァーノ ホテルラウリン
朝起きて、カタルニアで独立賛成派が過半数の議席獲得とのニュースを読む。イタリアだって北部同盟がある。経済的に北が南を養っている意識も明確にある。税金ばかりを払わされている印象もある。どうなるのか。

ムラーレス・プロムナードを録音する朝、ホテルでガスリーニの名盤「ムラーレス」を聴く。クラシック演奏家でジャズに憧れる人は相当数いるはずだ。今回のレコーディングは、頓死したガスリーニの未亡人が、随分熱心に実現に向けて働きかけたと聴いた。
朝メールを開くと亡くなった恩師の奥さまからお便りが届いていた。10月にある内輪の演奏会についてのお誘いで、こちらは予め存じ上げていたが、こうして直接お誘いを頂いたことに感激しつつ、自分に身近な作品の多くの書き手が、既に旅立ってしまっている事実に唖然とする。でも作品は確かに残り、それが自分にとって大きな励みとなっている。

(9月30日 ボルツァーノからミラノに戻る車内にて)