余りに慌ただしく一ヵ月が過ぎて、久しぶりに戻った東京は思いの外涼しい日でしたが、数日して梅雨が明け、いつもの夏らしさが戻ってきました。一カ月の日記を読み返すと、本当に血腥い事件が続きました。ルーアンの教会テロ報道の傍らに、戦争ゲームの宣伝が眩しく点滅していて、いかに興奮が味わえるか謳っている。もしかして、我々の感覚はどこか末端から麻痺しているのかもしれない、ふとそう思いました。
—
7月某日 ミラノ自宅
朝起きると、庭の三和土で息絶えていた小鳥を埋めた穴の上に、兄弟なのか同じ小鳥が群れている。偶然か。
隣の部屋で愚息がカセルラの「11の子供のための小品」をさらっているのが聞こえる。1曲目が「子供と魔法」の冒頭に酷似していると繰返していて、初めは笑って聞き流していたが、聴き返す程に、なるほど好く似ている。
彼には最近Aちゃんというガールフレンドが出来て、メッセージのやり取りに勤しんでいる。親に見られないよう電話に暗証番号を設定しようとして壊れて、泣いている。庭に出ると、どこから飛んできたのか紙飛行機が落ちていて、「Aちゃん、僕の電話こわれちゃった」と書いてある。
7月某日 ミラノ自宅
愚息が壊した携帯電話を携えパドヴァ通りへ向かう。この界隈は少し秋葉原に似て、中国人やアラブ人らの電化製品修理店が軒を並べる。想像通り修理は不可能と言われ、落胆しつつ、帰りしな隣のモンツァ通り54番地市営市場の食堂で昼食を摂る。ミラノの市営市場は何箇所かあって、どこも似たような巨大なプレハブの建物で、ちょっと味気ない。要は、元来の市場の上にトタン屋根をつけて、周りもプレハブで囲った塩梅だ。日本の何某青果市場の開放感はなく、小さい店が犇めく。本来賑々しいはずだが、土曜で市が休みだったせいで閑散としている。
食堂の屋号「La Taberna Dei Terroni」を敢えて訳せば「南方野人亭」。「野人亭」はその一角、4、5区画分ほど買い上げ、市場の通路にテーブルを並べて食べさせる。魚介類のシャラテルリを食べ、主菜替りにプーリアのチーズ、ブルラータを頂くと、なかなか美味であった。
偶然「野人亭」の斜向かいに住むパオロ曰く、商売の仕方がマフィアのようでお気に召さないようだが、ミラノのどこも中国人経営者にすげ替わる昨今、まだイタリア人が買占める方が良くはないか。中国人を別段悪く思いもしないけれど、近所の喫茶店もタバコ屋もピザ屋も洗濯屋も洋服の仕立て直しも美容院もサッカーチームも、中国人に買い取られてしまうと、やはり少し寂しい。20年前のような街角に立つ妙齢の姿がめっきり減った代りに、夜になると50メートル毎に「中華式按摩中心」というネオンが点滅する。
7月某日 ボローニャ行列車中
ラヴェンナに息子たちの演奏会を聴きに来た。合唱団の子供たちと一緒に早めの夕食。食卓を共にしたエンマの父親ジョゼッペより、こんこんと血液型ダイエットの説明を受ける。それによると我らO型は殆ど何も食べられないらしい。因みに息子の血液型は未だに知らない。イタリアでは輸血のたびに血液検査をするそうなので、特に知る必要にも迫られない。ジョゼッペ曰く、ダイエットを数年来実行していて、頗る快適に暮らしているらしいので、大変結構なことだ。日本人も血液型占い大好きだろうと言われ、返答に困る。
ムーティが「君が代」の前奏を振り始めると、雄々しく勇壮な響きに驚く。合唱が入ると、発声と発音に依るのか、イタリアオペラを切り出したような響きが沸き上がる。あれを聴くと、我々の声色は朗詠風。朗詠文化で西洋音楽をやるのも興味深い、と内心北叟笑む。北叟と言えば塞翁ヶ馬。朗詠文化でもまた面白いアプローチは生れるかも知れない。
演奏会後に話していて「君が代」の後で歌ったイタリア国歌斉唱で、エンマは泪がこぼれたという。息子曰く「君が代」は歌詞がむつかしく、なかなか覚えられなかったそうだ。稽古の後に迎えにゆくと、子供たちが口々に「君が代」を歌いながら歩いていて、それが薄暗いミラノ旧市街の、細い石畳の露地に甲高く響き渡るのは、何とも不思議な光景だった。
ムーティが振る期待通り「メフィストフェレス」は圧巻だった。最初の音とり練習から子供たちも「メフィストフェレス」に興奮していたが、めくるめく音の渦中、児童合唱が鮮明に浮き上がる様にも鳥肌が立つ。これほど素晴らしい作曲家でありながら、ボイトは何故筆を折ったのか、理解できない。
指揮者は凄かった! 上手かった! 怖かった! というのが子供たちの感想。
7月某日 ミラノ自宅
一人で日本へ発つ愚息を空港へ送りに行き、そのまま合唱団の制服を劇場に返却して帰宅。ダッカやイラクでテロが相次いだので、空港や劇場は警備が特に物々しく、息子を連れて歩きながら恐怖を覚える。とんでもない時代になった。
夜更け、イタリア国営放送文化ラジオでアルフォンソと一緒に電話インタビュー。23時半くらいにローマ局から電話が掛かり、5分程でインタビューが始まる。打合せなしの生放送インタビューは何度やっても厭なものだが、15分ほどで無事終了後、アルフォンソよりうまくいったねと電話。ガスリーニが死の直前「そろそろジャズから離れて作曲に没頭したい」と語った逸話は心に染みた。その直後階段から落ちて怪我するなど想像もしなかったろうし、まさかそれが死に繋がることになろうとは、想像もしていなかったろう。一期一会。
7月某日 ミラノ自宅
O作品譜割り終了。使われている素材は特殊だが、最後に冒頭と全く同じ再現部がある。今回は前半のは演奏できないが、一度全曲を通して聞いてみたいと思う。気が付くと伊語で独りごちていて、音楽を考えるとき際の思考は日本語ではないらしい。
ダラスで警官に発砲。血を血で洗うとはこのこと。イスラムの宗教対立にしても、人種問題にしても、ISのテロにしても、全て悪化の一途を辿る。こんな時に音楽なんて何の役にも立たず、虚しい。
庭に水を撒く。15分毎にタイマーをかけ、散水器の位置を変える。家に入ろうとして、線路の向こうを見ると、二匹の蛍が戯れながら光っている。神秘的な輝き。音も光も匂いも何もかも、その昔はずっと幽玄な存在だったに違いない。それぞれの音はそれぞれの世界を内包し、各々の世界は別の世界と繋がっていたに違いない。一つの音に、聴き手は無限の世界を感じ取ったに違いない。
7月某日 ミラノ自宅
税理士に送る電子請求書のデータを用意するためコンピュータのクラウドを開くと、息子のクラウドが開いたままになっていて、いきなり中の音楽が鳴り出して愕く。それが荒井由実の「飛行機雲」だったので2度愕く。
サンタゴスティーノ駅前の喫茶店で、パリからやってきた北爪くんと会う。ご両親の愉快な四方山話に花が咲き、時間を忘れて話し込む。息子の目からは親はそう見えるのだろう。あと10年もすると、息子は我々について何の話をしているのだろう。後で今堀君がやって来たが、学校で会う時の装いとはまるで別人で、外出時のお洒落は華やいでいた。
7月某日 ミラノ自宅
アリアンナがハイドンの「告別」をレッスンに持って来る。悠治さんから頂いた「ハイドンのエステルハージ・ソナタを読む」を思い出しながら、「疾風怒涛Sturm und Drang」について話す。「告別」のような、奇想天外な発想を把握するにあたり、無意識に既成概念に捕われる自分の思考の凡庸さに多少の落胆を覚えつつ、かかる思考があってこそ、作品の豊かさが漸く理解できる、有益なる平板さも存在するだろうと自らを慰める。
ハイドンの小節構造は複雑、寧ろ自由なので、彼女が先に和声分析をしてフレーズを捉えようとすると、音を出した途端に道に迷ってしまう。予め一定の小節構造を自分なりに決めた上で和声分析をすれば、一つの拠り所にはなるだろうし、たとえ当初設定した小節構造が和声分析の結果、納得いかなくなって直したとしても、その部分にこそ面白みが詰まっていることが多い。特に2楽章などそれが顕著だろう。メヌエットの字余りのフレーズは、時間が永遠に止まったように見える。
夜、自転車で中華を食べに出かけると、家の前で小学生くらいのジプシーの少年3人組が、交通標識に繋がれた自転車を盗ろうとしていた。目が合うと笑いながら逃げていった。楽しくて仕方がないという風情で鍵を外そうとしているのが印象的だった。ここ数日酷い夕立が続いていたので、今日の星空はミラノとは思えない満天の星に、澄み切った空気。
買い物ついでに角の中国人喫茶店に顔を出す。そこの息子は今度小学5年生だが、秋から中国に戻り小学1年生に編入されると云う。「だって中国語が出来ないと困るでしょう。中国語の勉強のためよ。1年生に戻るのを嫌がっているかって? とんでもない、大喜びでこちらが恥ずかしくなっちゃう。困ったものよ」。ミラノの中国人学校では、本場の勉強は学べないという。「中国の勉強は厳しいからね」。
トルコのクーデター失敗で300人弱の死者、ニースの花火大会にトラックが乱入し、80人強の死者との報道。何故、子供たちは嬉々として自転車を盗もうとするのだろう、そう思いながら帰宅すると、隣のバプテスト教会から、大声で罵られながら彼らが追い出されてきたところだった。少年たちの顔は、相変わらず何とも言えぬ、だらしない笑いを湛えていた。
7月某日 ミラノ自宅
朝、前に通ってきていた啄木鳥が戻ってきた。前と同じ樹を穿つ、乾き少しくすんだ音が庭に響く。どのように同じ場所に戻れるのか暫く考えた後、空から眺める我々の景色を思い浮かべる。
松平敬さんから、低音デュオが演奏した「かなしみにくれる」のヴィデオが届き、何も考えず無心で聴き通す。これを2年前に書いた頃、確かにガザ侵攻に心を痛めていたけれど、あの時よりずっと世界の状況は悪くなった。今この作品を聴くと、どれ程楽観的でロマンティックかと唖然とする。当時テロリズムの危惧は現在よりずっと限定的だった。誰もが世界を良くしなければと話していたが、音楽で社会に訴えられるものなど存在しないのだろうか、気分が塞ぐ。松平さんと橋本さんの演奏で、空間に浮き漂う、有機的沈黙の計り知れない重さ。例え作品には価値はなくても、生れる音に宿るものは多分何かきっとある。
7月某日 三軒茶屋自宅
ミラノの空港へ向かいながら、タクシーの運転手と話し込む。初めタクシーに乗り込んだ時に、英語放送のラジオがかかっていたのでおやと思ったが、彼は数年前まで製薬会社の役員だったが、不況で会社が潰れタクシーの運転手を始めたという。50歳近くに会社から放り出されるとどこにも再就職など出来る筈もなく、タクシーを使う側だったのが、ハンドルを握る立場へと逆転してしまって、とこぼす。誰かに話したかったのだろうか。降りようとすると、私のつまらない話を聞いて下さってどうも有難うございます、と繰り返した。
東京に着いた日の夜、安江さんのリサイタルに出かける。「ツリーネーション」で、今の自分とは全く違う作曲の意志に少し戸惑う。同じように社会参加を意識していても、ずっと肯定的で動的だった。演奏は素晴らしく、最後のオルゴールも微風が立ち昇る錯覚を覚える。演奏のお陰で音楽がすっかり骨太になった。とてもあの頃の時間が遠く感じられる。今自分が書こうとしているのは、夜の風景。外に発散される音ではなく、裡に打ち響く音。自らを知るために響く打音。
7月某日 三軒茶屋自宅
白河に出向く。最初に葉の木平の大規模地滑りが起きた場所跡に、今年の3・11に祈念公園が作られた。一緒に同行してくれたSさんは、知人がここで命を落としていて、震災後今まで一度も訪れることが出来ないまま、この場所を避けていた、と声を潜めて話した。それから訪れた、端正に並ぶ仮設住宅も、確かどこかのニュースで見た。結局この目で見なければ、何も実際のところ理解していない。
南湖を前にして、松平定信が影響を受けた、李白の「洞庭湖に遊ぶ」を思う。「洞庭湖の遥か西に楚江の流れをみとめ、南の水が尽きるあたりに目を転じれば雲一つなく」と始まる澄み切った描写は、「明るい水鏡が、彩りから君山を描き出す」と結ばれる。初めてこの句を読んだ時の感動と驚きに、思いもかけぬところで再会した。
自分が育った相模原で起きた事件をラジオで聞き、耳を疑う。その後の報道で容疑者が「身障者」という言葉を使うようになり、虚を突かれた思いに駆られたのは、自分だけだろうか。
(7月30日 三軒茶屋自宅にて)