オトメンと指を差されて (49)

大久保ゆう

今からちょうど150年前の7月4日、30歳の若き大学人は、その友人、そして同じ大学の(今でもその編纂した古典語辞書が重宝されている)高名な学者の娘三人と連れだって、川へピクニックに出かけました。途上、彼は真ん中の姫にその子を主人公とした不思議な話を物語り、少女にねだられそれはのちお手製の本としてプレゼントされます。その冊子こそ、有名な『不思議の国のアリス』の元となった”Alice’s Adventures Under Ground”です。

唐突ですが、私は今月で30歳になります。独身です。実は曖昧なことよりも論理の方が好きで、またどういうわけか、現在高等教育機関で講師業をしており、ひそかに人へお話を物語っていたりします。なぜか生意気な子に好かれます。それから波長の合う子となら、即興で言葉遊びなどをすることも。

基本的には「――だから?」という問題ですし、私もことさらに偶然の一致を必然のように語ろうとしているのではなく、実際ふたりのあいだには差違は様々あり、私はカメラを全然用いないどころか、少女よりも少年になつかれ、そもそもアリスのような特別な相手もいません。ただ私は彼の生まれた150年後に生まれ、そしてほんの少し似たような道を歩もうとしている、ように見えなくもない、と、それだけのことで。

翻訳というものがひとつの芝居でもあるならば、たとえ翻訳者がどのような人物であっても、巧みでさえあればどんな人物になれるのかもしれませんし、演者と役が似ているか似ていないかなんて、どうということもないのかもしれません。上手ければ障害となるものなど何もないのであると。

しかしここで私は、知人が”Le Petit Prince”について言っていたことも思い出すのです。「この作品が、心に傷のないやつに扱えたものか」――つまり、たとえば自意識ばかりが肥大した若者や、安定し幸福な立場にある老教授に、この作品が本当に訳せるのか、という、疑問というより心情に近いものでしたが、研究者としての私は否定したくても、個人としての私にはうなずけるものでもあり。

確かに、”The Great Gatsby”は、翻訳の技術を手に入れた円熟のハルキ・ムラカミよりも、「まだ訳せない」と思っていた頃の若い村上春樹に訳されていてほしかったし、あるいは生前広くは認められなかったH・P・ラヴクラフトやフランツ・カフカが、今をときめく人気翻訳者に訳されようものなら微妙な気持ちにならざるをえず、どこかごく少数の人にしか認められず毎日をもがきながら生きている、そんな(おそらく私ではない)誰かに訳されていてほしいと願ったりするおのれもいるわけで。そこまで行かずとも、とかく翻訳では年の功や経験が強調されがちですが、若書きの作品はやはり若訳しされてもいいのでは。

これはどこか良心に属するようなものでもあると思うのです。ふと自分と誰かが似ているなと感じたとき、または、何か偶然の状況が自分の背中を推してくれているような気がするとき、翻訳者の歴史を研究している自分は、やはりここで先に見えている何らかの道を、ちゃんと選んでおかなければならないのではなかろうか、と。

「アリス」はこれまで様々訳されていても、こういった形でキャリアの重なる人間に訳されたことは、もしかして今までなかったのではなかろうか、もしそうだったとすれば、自分がこの選択を取らないことは、先人にとって(あるいは翻訳の神様にとって)たいへん失礼なことではないのだろうか、と。少なくとも今自分は、30歳の大学人という文体をたまたま手にしているのだから、これを生かさなければ、と。

むろん、日本のアリス翻訳史を振り返ったとき、そういった意味では幼妻と一緒に訳したという高橋康也先生の存在はたいへん大きなものなのですが、しかし神様や倫理を持ち出さずとも、自分に正直なことを言ってしまえば、「これは何だかすごく面白いぞ」ということであって、心と身体の底から盛り上がり湧き上がる何かがあるわけでして。

そんなわけで、アリス150周年のこのときに、30歳の私は”Alice’s Adventures Under Ground”を訳し始めようと決めたのです。そして(当時に同じく)3年後の7月4日までに、”Alice in Wonderland”を訳し切ろうと。

私にとって、「翻訳」行為そのものは、本が出版されるとかされないとかとはまったく別次元のところにあって、商業の都合で何かが訳されたり訳されなかったり、訳したり訳さなかったり、そんなことよりも、今自分が挑戦できる翻訳に取り組みたい、そういうものであるのです。

だから、訳します。7月4日から。その途中経過(不定期連載)はたぶん、復活したaozorablogで。