ニュースというウソから

高橋悠治

危ない時代だ。毎日ニュースを見てしまう。世界はアメリカ側とそうでない方に分かれて、日本はアメリカ側だから、報道されないこと、歪められているニュースばかりで、そうでないニュースはネットで探すよりない。

第2次世界大戦が終わったあと、ラジオも新聞も1日で変わった。その後、アメリカ占領下で、また変わったが、新聞に書かれていることから書かれてないことを読み取る技術があって、子どもでも使うことができた。そんな情勢は1950年代の後半まで続いた。

今はまたそういう時代が来ている。これがいつまで続くのかわからない。日本では、今まで見ていた個人のコラムも、信頼できなくなったものが多い。昔アメリカではNew York Times、イギリスでGuardian、フランスでLe MondeとNouvel Observateurを読んでいた。コンサート評も翌日には載っていた。今はどうなっているだろう。テレビや新聞も政府と同じことを書いている。フェイクニュース・偽旗作戦・プロパガンダ、知らせないだけでなく、ウソを書くのが当たり前に通用する。反論は削除されるだけでなく、書き手も排除される。メディアさえも、禁止されて見えないものもあれば、ある日突然見られなくなることもあった。日本では、同調圧力が他より強いと言われるが、今はどこでもそれがあるのが見える。

逆に、メディアが禁止されてない場合なら、日本のことは他所の報道で見たらわかることもある。日本語の報道は多くないし、同じ所の英語報道と比べると、はっきり書くのを避けている感じがする。日本人の排外感情を刺激しないようにしているのだろうか。英語報道も英語圏でないか、小さな独立メディアを見つけないと、ウソと戦争ヒステリーで読めない。

グローバリズムは1990年代から潮が引いて、民主主義は Change! と唱えながら、 クーデターと暗殺と買収の別名になったようだ。歴史は海から大陸へ、西から東へ移っていくのか。

そのなかで、音楽は無用の仕事になるほどに、抵抗と意義を増すのだろうか。分析と精密の代わりに、曖昧なひろがり、息のつける空間、かすかな流れの時間を、どうやって創り出せるだろう。