二度と見つからない

高橋悠治

時は移る。忘れていくことも多い。ピアノを弾く職業から休みを取って、作曲でもしようと思っていたのに、何もできないうちに、休みの終わりが見えてきた。カフカの日記のどこかで見た二つの動詞、einfallen と nachziehen、思いがけず出会うことと引きなおすこと、と日本語にしてみるだけで、もう元とは違う色合いを帯びてくるので、元の箇所を見直そうと思ったが、見つからない。日本語で「あしらい」と「みはからい」という二つのことばも同じように、どこかから取り出して使ってみるが、これらも結局はピアノを弾く手の動きを言っていることに気づいてしまう。17世紀フランスの鍵盤楽器の前弾きと崩しのやり方を指した non mesuré (拍がない)と brisé (崩し)に似た手の動きを言っている、としても、これらのことばが前提にしている拍や和声という全体がない状態で、ことばだけ転用できるのだろうか?

ことばも使っていないと、だんだん忘れてゆく。すると、ことばの端の方から別な動きが始まって、意味を崩していく。それを「もどき」と呼べば、「もどき芸」の色がついてしまうから、そうはしないで、待っていると、ことばや意味の前に、外れた動きが生まれ、その次の動きを思いつくと、それが定着する、というような経過を辿って、ゆっくり進んでいくが、それでも全体が予定調和に収まっていくのに気づく時が来る。

踏み出した一歩が空を切ることが時々ないと、安定したリズムが主役になる。と書き進めて、ふたたび気づく。こうして書いていると、現実から離れていくばかり。

ことばに逸れることなく、手の動きの前に、身体、不安定な状態、細かく揺れ、震えたあげくに、一歩踏み出し、その一歩から、次の一歩に、転ばないようにするには、止まってはいられない、そんな状態が、ひとりでに続く設定をしておくのには、どうするのか、それが今の課題。