歩くように指をうごかし

高橋悠治

コロナ以来、人と会うことがすくなくなった。ぶらぶら歩いて店をのぞいたり、どうでもいいことをしゃべっていれば、たまにはどうでもよくないことの一つも思いつくかもしれないが、こんなことではしようがない。毎月作曲することを考えながら書いていることのほうが、よほどどうでもいいことにちがいない。だいいち、文字に書いてしまったことは、音ではできないし、しようとも思わなくなる。

鍵盤の上でぶらぶら歩いたり、どこかに立ち止まったりしていればいいのかもしれないし、こんなことも意識しないのがあたりまえになれば、音が発見と感じられるのかもしれないが。ピアノを弾くときは掌を高く、指をぶらさげて、鍵盤の上で歩いたり跳んだりしながら、音を一つ、それから次の音と、あいだを見計らいながら続けていくだけ。意味や表現はいらない。音の長さ、強さ(というより弱さ)、指のうごき、手の知っていることがあり、耳がそれを追認する。と書いてしまうが、そんなことがあるわけはない。

と書くことがまた、考えすすめるのを邪魔している。分析は動きを止めて、あり得るいくつかの変数を代入する。最初の思いつきに代わる案はそれほど出てこない。最初の思いつきの余韻に引きずられているせいもある。自分一人だけで、ちがう出発点を見つけるのは、最初から複数の場合を用意していないと、うまくいかないだろう。その時も、最初に一つ選んだそのことが、後の選択に影を落としている… というように、考えはぐるぐる回っていく。

いま想像しているのは、何枚かの半透明なスクリーンが重なり動いていく映画館。スクリーンは折り重なったまま、それぞれが揺れているだけでなく、それぞれ独立に近づいたり遠ざかったりしている。それと並行して下に字幕が走っているのが、この文字になるはずだが、半透明のスクリーンは、芥川龍之介の「歯車」に出てくる半透明の歯車の記憶がスクリーンになっただけかもしれない。想像自体が頭痛を持っている気がするが、それこそ気のせいだろう。

重なった半透明のスクリーンは、半ば独立の線の重なる空間のイメージかもしれないが、こんな思いつきで満足はできない。だが、記譜法が問題だ。今はそこまで。