紙のない臨書

高橋悠治

知らない曲を見つけてピアノを弾くのも、数ヶ月前のジョナス・バエスのバガテルで停まった。

10月で予定は途切れる。生活のためにピアノを弾いていたはずが、いつかピアノを弾くための生活になっている。演奏は、習い覚えた手順を繰り返すのではなく、ちがうやり方を見つけようとしてやっていたはずが、いつか時代のスタイルに従っている。こんなはずではなかった。となると、一つの音と次の音のちがいを見ることで、揺らぎを感じ、安定を崩して、その波に乗って意識の重みを外す瞬間ができる。それを隙間と言えばいいのか。

全体から部分に降りるのではなく、手の触れたところから少しずつ動かして、その跡を辿る、短い線の途中でやめて、間を置いて、途切れたところからまた始める、拍のような規則的な単位で計らない、その時の気分で、離れる時には突いて、線の終わりとその後の間を際立たせ、そっと返す、それは始まりを突いて、なだらかに運び、余韻を残して消える筆の運びとは反対になる。紙のない臨書。

空気に指を当てて無音を聞く、紙に動きを写して、どこか一つの音を変えるだけで、その先の方向も響きも変わってしまう。そうして残した短い線の集まりから、目についたどこかを採って、書き換える。

散らし書きのさまざまなくふう、連綿、分かち書き、返し書き、重ね書き、見せ消ち、また雁行。筆もなく、指も動かさず、思ってもやらない。こうして、数ヶ月の休暇が始まる。