行間

高橋悠治

ちがうところ、形のない、土台のない、家のない、見る人もいない扉や窓、本も末もない、川を作らない流れ、クラリセ・リスペクトルの本のどこかで読んだ、ことばにもイメージにもならず、印象がそのまま表現でもある馬の場合。

ピアノを弾いているときは、一音ごとの入りと止めの間を図っている。楽譜という地図を、初めて見るかのように見ているからできること。暗記したものを心の眼で辿ったり、習い覚えた手の動きにまかせると、なめらかな流れのままに通りすぎてしまう道筋の、その時の気がかりに楔を打って、そそこに生まれるわずかな隙間から抑揚を創り出す。この歪みは繰り返せない。

作曲は、全体を想定しながら細部を定着していく作業とすれば、書くことのできない隙間、線のゆるみ、曖昧さを含んだ痕跡をどこまで紙の上に定着するか。書かれた音が毎回ちがう響きを立て、よけいな音がないのに、音は手の意志が消えた後の響きの余韻が「表現であり印象となる」。それにもまして、「線の行間」、それはただの「沈黙」ではない。「行間」は流れていく。変化して止まらない。形がなく、聞くたびにちがう時間、ちがう空間のひろがりがある、と言ってみる。

演奏も作曲も、毎回の実験から生まれる。その場に、楽器があり、人がいて、その場の人たち、手の動き、気象。