襞のある時間

高橋悠治

記憶に残る自分の姿、高島屋南館の入口に坐って待っていると、そこにもう一人の自分が通りかかる。それを見ている自分の眼はどこにあるのか。その瞬間が繰り返されるのは、なぜか。そこに置き去りにされて坐っている。なにを待っているのか。

その場所を通って地下道に出る。それを登っていくと二子玉川の駅がある。何度も透ったあの道の角、そこに座り込むと、自分の姿が眼の前を通って行く。そこに折り畳まれた時間の襞があり、その襞がひらいて、内側に隠れているもう一人の自分が後から通り過ぎるのが見える時がある。

こんな時間の襞、襞のある時間でできている音楽、毎日の何事もなく過ぎてゆく時間のそこ・ここに巻きスカートのように拡がる時間の襞があるような。

4月に金沢へ行ったとき、1ページのスケッチを何回も見て、見えたところから思いつく音のかたちを書き留めるという方法で2曲同時に作ってみたが、同じ部屋にいる人の顔を見たとき、同じ顔が何度も違う角度から見えるのと同じように、同じ音楽が何回も違う順序で聞こえてくるとき、これはデイヴィッド・ホックニーがピカソのキュビズム時代の絵を解釈するのと似たやり方で、あるいは、プルーストがプティット・マドレーヌから過去の生活全体を引き出してくるように、記憶と現実の入り混じった結晶体で、根が絡まった木の茂み。