触れる

高橋悠治

鍵盤に触れながら、出てくる音を聴くとき、楽譜を見るとき、ただ音楽を聞いている時とはちがう感じがして、その感じが続くままに指が動いていけば、同じ音の並びも、そのたびに初めて通る道の感じがする。初めて音に触れているという感じが、二回目以降でもなくならないやり方があるだろうか。

その体感を保つ妨げになる計算や論理が入ってこないように、感じ続けるには、複雑な計算や予測はいらない楽譜の書き方を毎回試してみる。

長い音と短い音、休止(あるいは中断)だけの楽譜にしてみた時もあったが、音の長さをもう少し区別したくなると、記号が増える。休止符は音符とはちがって、楽器に触れていない時間を拍や秒数で数えないで、次の音までの間を感じるのはどうするのか、合奏はだれの時間を基準にするのか、と問題が尽きない。

作曲を始めた1950年代には、それぞれの楽器が一つの全体を支える部分になっていた。それが近代のオーケストラ、その始まりは16世紀ヨーロッパあたりらしいが、全体があれば、部分があり、分析という方法もある。

思いついた音から始めれば、楽器の自由な結びつきと、フレーズの順序しかない。楽器やフレーズを変えながら、音楽が続いていく、連歌や後の連句のような「あそび」、シンメトリーで閉じた全体ではなく、未完成で開いた連続体、終わりのないプロセスを、垣間見せる。

即興と演奏と作曲に分かれている音楽のやり方を、一つの作業にしたような錯覚、形の定まった「作品」をさまざまな視点から見る「解釈」で崩す作業を表に出さない細工かもしれない。