記号の粥

高橋悠治

ピアノを弾きながら、そこでできることを考える。鍵盤から指が離れないようにしながら、感触とその変化を追っていくのを、楽譜の見かけや響きを聴くより先にして。
途切れながら続く一本の線を身体の内側に感じている。この変化する感触を聞くときが即興で、楽譜を感触の連続に変えるのが演奏とすれば、感触の変化を楽譜に記録するのが作曲というプロセスになるのだろうか。形がまずあるのではなく、動きを記録するための形があるのなら、新しい記号を発明するより、慣れた記号のセットをいい加減に使うのが、すでに始まっている演奏に、よけいな配慮が入り込まなくて済むのだろう。

その線に、もう一本の線を書き加えると、使っている記号は、ますますあいまいになる。和声や対位法のような今までの方法ではなく、響きの変化を見計らい、その時々に違う音をあしらうか、似た線を絡めるか、音色ではなく音域を変える擬似ホケットか、安定した低音を持たない、吊り下げられた響きの変化。

小松英雄の「連節構文」、「途切れては続く、思いつくままに継ぎ足される語りかけ」。金谷武洋の「場に起こるコト」の世界。

さまざまな本から拾い集めた語り口。呼吸の不規則なリズムが、ゆるい波を作る。「鈍さ」の多様性(長谷川英介「働かないアリに意義がある」)。

こんなことでこの数年過ごしてきた。意図しない偶然の出会いは、確率のように計算できる変化とは違って、全体を隠していない。しかも、書かれた部分ではなく、その時気づかないわずかなズレに、発見があるのかも知れない。

でも、考えていても、それに囚われていないと、どうして言えるだろうか。

記号の粥は、子どもの頃読んだジョージ・ガモフの「不思議の国のトムキンス」の夢に出てきた崩れた記号の山だったような記憶がある。