遅く、もっと遅く

高橋悠治

今年は休みたいと思っていたのに、しごとに追われているのはどうしたことか。しごとがおそくなったと気づいたのは1年前、それまでは、作曲をたのまれたら演奏のひと月前には楽譜を渡すようにしていたのに、それができなくなっている。

ピアノの練習もおそくなっている。メガネに慣れないだけでなく、いま弾いている音よりすこし先を見ながら演奏を続けるという習慣が、身につかないせいかもしれない。では、メガネがいらなかった時には、それができていたのはどうしてか。

知っている音楽をくりかえし弾いて磨きをかけるより、知らない楽譜を読む、あるいは、知っていると思いこんだ楽譜を、知らないもののように読むと、気がつかなかったものが見えてくるのを待って、そこから立ち上がる響きを聞く。毎回すこしずつちがう結果をためしながら、でもどこかで折り合えるように、一つに固定しないで、ゆるくあいまいな範囲でその場でうごける、即興に聞こえるような流れ。鍵盤の上に垂らした指が歩くようにして、使う指が自然に決まれば、流れはかえって自由にならないか。自分でうごかすのではなく、かってにうごいていった指が触れるかんじ。指だけがすばやくみつけた位置に行くのと、ちいさく、弱く、かすかな響きが生まれるのがひとつのことであるように。

今年はじめに亡くなった岡村喬生とシューベルトの『冬の旅』を練習していたとき、よく言われた、「遅く、遅く、もっと遅く」。