カフカは書く手についていくと言った 石田秀実の作曲は音についていくことだときいて その時はわからなかった 設計図はなく はじめの音から次の音へ 無数の可能性がひらけるなかで 一つの道を採ると 見える風景が変る 水平のメロディーとも垂直の和音ともかぎらず 同時に見える音も崩し つながる音にも越えがたい距離がある 音についていく指や手 からだが左右上下前後にゆれうごくなかで 時間と空間の格子がゆがむように感じられ というより 音の外側に格子のある空間が感じられなくなるまでに 輪郭のない音が溶けて うごいていく光の窓 「人は自然の中で移ろい、多様な音空間に出会う。音空間は人を包み、人はその中に埋もれる。」(「水牛」2006年11月 石田秀実『幾何学と音楽2』) 人も変わり 世界も変る すべてが流れて「霞が気に変わり 気は形に 形は生に いままた死に変る」(莊子至楽篇十八)
ピアノの鍵盤の上で 指と手と前腕が前後左右上下にそろって回転するとき 触れたキーから出てくる音の運動は その場にいて聴く耳には 聞いている身体の上に感じられるだろう 録音し録画すると この感じは薄れる 音が外側に感じられるからか
動いている指が偶然に触れた音もその後の音の進路に影響するので 弾く手についていく音を記録して楽譜にしたものををもう一度弾いてみても おなじにはできないだろうし 手が自然につくりだした音のうごきは かえって不自然に曲がりくねった運動になるだろう ムカデがすべての足の動きを意識したらうごけないように 意識したらおなじうごきは二度と再現できないだろう 平安時代の書をなぞって音の線に変えたピアノ曲『散らし書き』では 見た線の印象を音にしてみた 線をコンピュータ・ソフトで変換したら まったくちがう音になっただろう Earle Brown: Summer Suite ’95 は まさにそれを試みている ブラウンが即興的に描いた線画をコンピュータで変換して楽譜にしているらしい 痙攣するようなリズムと思いがけないピッチの変化は ブラウンらしい音楽ではあるが それまでの作品のなかで図形楽譜や 時間間隔を音符の間の距離で表したtime notation を見ながら演奏する場合とちがって 機械が決めた音やリズムを手がなぞるのはむつかしい
それを練習しながら いわゆる「現代音楽」の演奏から遠ざかってしまったことを あらためて考える ケージの易やクセナキスの確率関数の利用は 慣習的なパターンから逃れるためのくふうだった それに応える演奏技術も練習法も作られている それとはちがう音楽をさがしているうちに忘れてしまった技術を思い出すべきなのか それとも他の音楽のありかたをさがしているいまは 昔の身体技法ではない 別な技法を見つけるべきなのか