音楽というあそび

高橋悠治

来月には、演奏がまた始まる。以前のように、練習しないでその場で弾ける、というわけにいかない。眼のせいだろうか。
手が弾いている音より少し先を見ているから、動きの方向が決まるのに、今はそうなっていない。すると、そこを繰り返して手に憶えさせているのか。それでどうやって、初めて知らない道を歩くような驚きや興味が起こるのだろう。意識した動きは、おもしろくないし、見え透いている。

練習すれば、ためらわず、そこを通り過ぎていくことになる。それではやはり、おもしろいとは言えない。穴だらけの道を気をつけて歩くような、思いがけない引っかかりと、そこを抜け出す時の思わぬ弾みの勢いで、棘のある時間の流れ。

毎日の生活とそこで起こること、それを書きつけ書き残すこと。音楽はそんな生活の記録とは離れたところに置かれた作り物なのか。日記や随筆集に限らず、物語さえ、毎日の間に沈んでいる言葉の連なりを掘り起こした一部分と言えるかもしれないのに、音楽はそこにはない、対立面にあり、別な時間・空間に飾られた鏡、手探りするたびに、違う響きを立てる迷路だとしよう。

では、そこに触れて、その都度少しでも違う経験ができるとすれば、それは、あらかじめ考えられ、仕組まれたスタイルではなく、その時その場で感じた音の流れ、同じ楽譜を辿りながらでも、毎回開ける風景の、異なる片隅にあたる光。すべてが、その時だけの即興のように、音の発見の「あそび」であるかのように、でも、「演奏」といい、「作曲」と言っても、その手続のきっかけの、さまざまな形のひとつであるように、それを仕事とし、さらに職業として、過ごして来たことには、たいした意味があるわけでもないだろう。

意味がなくてもいい。この音が他の音のなかで、どんな響きを立てるか。ある音が音になるまでの「ためらい」、決められたリズムを毎回わずかに外すこと、そこがおもしろく、演奏でそれができなければ、できるような何かを作ってみる。こうして、演奏したり、作曲したり、調子がよい時には、即興もできた時があった。即興は一人でよりも、相手のある時に。そう言えば、演奏も楽譜とだけより、他人との合奏の方がよく、そうでなければ、ピアノの場合、両手の間で、対話できればよいし、作曲も「うた」のように、詩と対話するのが、おもしろかった。自分の主張や表現より、まったくちがう観察を知ると、そこで感じる何か、必ずしもそれと関連がなくとも、そこから想像する状況や動きに、興味が湧く。