掠れ書き28

高橋悠治

ある本で読んだはずだが、読み返しても見つからない。以前目にとまらなかった細部が拡大されて、記憶とはちがうバランスの本になっている感じがする。

水は降りていく。川の水は去り川は残ると考えるより、水が降りる道をさがし、 川がその道とすれば、曲がりつづけて形が定まらない、行先は見えないと言ってもいいだろうか。

練習は反復とは言えない。ちがうやりかたを試すプロセスではないだろうか。練習と実践は日本語では別なことばだが、練習は反復されるものという前提があり、実践は決められたことが前提になっているように見える。反復ではない練習と、何をするか決めていないで動き出す実践は、考えながら進むこと、問いかけながら、さがしながらすること、対象や領域によらない、行為とその主体との区別もない、プロセスとそのなりゆきを追っているだけのようだ。

反復かどうか立ち止まって判断しないでも、プロセスが進行するうちに、似たうごきが記憶の痕跡とかさなると思えるときがある。反復の回路に落ち込む前にそこを離れて、ちがう道に入っていくなら、記憶に間欠的に触れながら循環すると見えて去っていく、そのなりゆきは、無限に伸びる線ではなく、折りたたまれる襞となって、有限なのに内側で無限に変化するように感じられる。

二つの点を結ぶ有限な線分が無限個の点を通過するなら、無限個の点から無限個の点への移動が考えられる。限られた音やことばを使っているのに、別な音楽や詩がまた書かれるのは、そういうことかもしれない。書き尽くすということはないし、尽くすという考えそのものがどこかおかしい。

一人で考えるのではなく、対話のかたちで第二の声があるとすれば、それは注釈か批判か、いずれにしても、色ちがいの糸が織り交じって一つの織地になる。離れたところで対話を聞く第三の声があって、織地には加わらないでいられるとすれば、それは何を語っているのだろう。

引用されたことばについて第三者が注釈を書くのではなく、引用以外のことばの文脈を換えると、解釈史ではなく、連句が生まれると言えるだろうか。聖典もなく、権威もなく、位相を換えながら続く回廊ができる。職人や旅芸人の座は、城門や関所で区切られた表街道とはちがう、夜のトンネルのようだったと言いたくもなるが、いまはなくなってしまったのだろうか。

あいまいな感じをあたえるという言い方と、毛羽立つ表面を描くこと、綿菓子のような音を作ることには、どこか共通したものがあるだろうか。