掠れ書き18

高橋悠治

理論もなく。そう言うがかつてはそんなことはなかった、まず理論それから方法だった。いまはまず始めて行けるところまで行く。システムがないとモデルもなく。それでも手に触れるものを読み通しながら、目に留まるなにかを書き留める。書き留めたことのうごきを追い、聞こえない音を聞いて弾き、弾きながら聞こえるイメージのなかの音を聞いて書き、書きながら聞き、どこへ行くとも決めずに続け、手のうごきとかすかな声が呼び起こす何を。

一つの音は1つではなく、内側にそれでないものを併せた一瞬の残像、森の奥にはだれもいない、木の実が落葉に向かって降る前にその余韻が飛び散る綿毛。重さがなく見えない音さわれない音の長さや高さや強さで決められたうごかない点ではなく数字に変えられ測れる量をもった物体ではなくもう過ぎてしまった記憶あいまいな記憶のなかで方向と関係でしかなくそれもこの方向や定義できる関係でなくてうごいたあとで推測される。それも誤解かもしれない。動詞のない副詞の束、名詞のない接続詞の鎖、崩れ裂ける寸前の揺らぎの陽炎に。

クセナキスの本を訳しながら浮かぶ40年以上いっしょに、そう思っていたが。勉強したのか。したつもり。確率論、唯名論、ベルリンの本屋からソクラテス以前の断片、パリでアルチュセール、クワイン、フーコー、迷宮。ディオニュソスが山から降りてくる。古代ギリシャ音楽理論、交代する色のテトラコルド、ビザンチン聖歌の記譜法。ピッチでなく音程だ。コンピュータ・プログラミング、電子音響の60年間も変わらない新しさの古さ、ピアノ演奏技術。ありもしないのに。速い大きいたくさんの音ではなく。指揮。操作と管理の悦びにひきずられないように。ヨーロッパから離れアメリカから離れ忘れていたことを偶然の出会いを、安定した足場がどこにもない生活。

ことばにならないものをことばに、音にならないものを音に。手にした貧しい音のこだわりに音にならないものを映し、ことばをのせ、ことばにならないなにかがあるようにほのめかし。

音を微粒子の集まりに分解してからつなぎあわせても元に戻らない。アキレスと亀の溝を限りなく細くしても隙間を埋められないそれが。構造主義や認知主義への信仰がまだ。

もどる場所がない。ストックホルムのはずれキタキツネの佇む白夜かデルフィの山頂の茂みから遙かに海を見下ろす。もう時間もなく、数学や論理はうごき続けるものに向きあえず、伝統は今の時にあわせて作り変えられ作り上げられそれらしく振舞い。

聞こえる音は聞こえない音の皮膚、聞こえない音は聞き分けられない関係の束か。こだわりの移り変わるアクセントの。
 
いる場所がなく、音楽の話のできる仲間もいないところ。そうだろうか、知らないところでだれかが。そんな可能性も40年同じところに暮らしていれば気づかないうちに消えて、いつか状況に妥協していたのか。すぎてしまったことをあらためて求められてももう感覚はよみがえらない。だが現れてないものは外から見えない評価もできないなかで、ためらいと躓きをかさねて、だが確信には何の根拠もないからこんなものかもしれないと思いつつ。それが妥協でなく限界を認めるかたちですでにその外側を歩いていると言えるのはなぜか。

離れて生きる。それができるか。離れてもそれほど遠くには行かない、声が聞こえるところにいてもたがいに行き来することもない、人はすくなく場所は小さい。隠れて生きる。そのための庭は。エピクロスの仲間たちは。

耳は微細なちがいを聞き分けるが、微細なちがいを含んだかたちと、いつもちがう現われがあり、この両方がなければ続けられない。