製本かい摘みましては(169)

四釜裕子

本屋で立ち読みしていて、これは買わねばとなったときにそれではなくて別のを出してもらうしかない本がある。小林坩堝さんの『小松川叙景』(2021 共和国 ブックデザイン:宗利淳一)も私にとってはそれだ。三方小口が見返しと同じ朱で染めてあって、初めてページをめくるときにかすかにメリッと音がするくらい、わずかにくっついている。アンカット本をペーパーナイフで開くのにちょっと似た快感がある。本文には三方から小口の朱がわずかにニジニジしみている。

実際は刊行を待ってネットで買ったので冒頭のできごとは起きていない。でももし本屋で見かけて立ち読みしてたら、きっとそうしていただろう。そもそもこの詩集、書店側では立ち読みできるようにしているだろうか。シュリンク包装でもされてたらあの快感も味わえない、というか、そもそも一冊について一回きりだからなかなか罪な装丁だよね。子どものころ、日焼けした肌をむくのに夢中になったはこの快感にちょっと似ている。それから古い本を解体して修理するとき、背に残ったのりを執拗にとる感じにも似ている。見返しを貼るのにのりがはみ出たのに気づかずプレスしてしまって、本文紙にくっついたのをそーっとはがしてうまくいったときの感じとかも。

かつて製本を習った栃折久美子ルリユール工房では、のりのはみ出しを防ぐための3点セットの使用を習慣づけられたものだ。「3点」とは、ケント紙、ワックスペーパー、のりひき紙。例えば見返しと本文用紙を貼り合わせるとき、のりを入れる紙の下に、下から順にケント紙、ワックスペーパー、のりひき紙を重ねてノドまでさし込み、のりを入れたらのりひき紙をただちに抜いてプレスする。抜いたのりひき紙は2つに折って、机の上に放置しない。汚れ拡散防止の大原則だ。こういうことを早々に体で覚えさせてもらってよかったと、あとになってつくづく思う。

2021年8月6日、広島での平和記念式典で菅前首相が挨拶文を読み飛ばしてしまった。ありえないよなと思うけどそういうことがないとは言い切れないし、さすがにご本人が記者会見の冒頭でおわびをしていたのでよほど体調が悪かったのかもと思っていたら、驚いたのはその日のうちに報道された「政府関係者」の発言だった。蛇腹状の挨拶文の一部の「のりが付着してめくれない状態だった」「完全に事務方のミス」だという。確かに誰かがのりで貼って、もしかしたらちょっとはみ出たりしたかもしれない。だけど気づいたら直すだろうし、なんといってもその実物でリハーサルもしたでしょう。それをどうしてそんなことをわざわざ言って、それで何をやりすごそうとしているのか、それで何を守ったつもりというのだろうか。でも今のこの国の「政府関係者」ならいかにもやりそう。「どうせすぐ忘れるから言わせておけよ」、そういう声すら聞こえてくる。

実際はどうだったのだろう。広島在住のジャーナリスト、宮崎園子さんが追っていた。12月8日、「Radio Dialogue 」で聞いた。あれが政府の公式見解だとしたら実名を出さないのはおかしいと、聞いたことをそのまま報道するメディアに対する疑問をまず言っていた。第一報を聞いたとき、宮崎さんも〈まさかそんな粗相、あるのかしら〉(「InFact」2021.10.1 【総理の挨拶文】のり付着の痕跡は無かった 文・写真/宮崎園子 以下同)〉と感じたという。そして挨拶文の実物が公文書として広島市に保管されていることを知り、それを見れば、めくれない状態になるほどのりがはみ出していたかどうかは確認できると思ったそうだ。さっそく広島市に開示請求をして、9月の下旬には手にとって見ている。どのような状態だったのか、「InFact」にこう書いてある。

〈挨拶文は、A4サイズの和紙のような薄紙を、横に7枚並べたものだった。会議室の横長の会議机からはみ出る長さ。2メートルほどあった。紙と紙の継ぎ目部分は、幅約2センチの同材質の紙を裏側からのりのようなものでくっつけた形状だった〉

記事には写真もある。A4紙1枚が4つに蛇腹折りされ、縦書きで1行20文字、ひと折りに3行、ゆったり組んである。のりがはみ出た痕跡があるか、宮崎さんは〈入念に挨拶文を観察〉する。

〈紙と紙の間を接続する細い紙は、表面ではなくて裏面に貼り付けてある。万が一のりがはみ出したとしても、裏面同士がくっついてしまう構造であるため、蛇腹をめくれない状態になどならない。接続部分をよく見てみると、たるみやシワ、うねり、ズレが何一つなく、ピシッとのり付けがされている。貼り付け部分からのりがはみ出した形跡もまったくない。ましてや、くっついてしまった部分を無理にはがした跡もなかった〉

裏側から撮った写真もある。既製品のテープのようにも見えるが、そうではないようだ。

〈あまりに美しかったので、テープ状ののりか何かを使っているのかと思ったぐらいだ。ひとつひとつ、ハサミを入れた跡があったため手仕事とわかる。蛇腹の幅もピチッと揃っていて、これを準備した現場の役人の仕事ぶりにはただただ感銘を受けた。にもかかわらず、「完全に事務方のミス」(共同通信)と罪をなすりつけられたのならば、現場の役人が気の毒でならない〉

この実物を広島市が保管していることは、元愛媛大法文学部教授の本田博利さんに教えてもらったそうだ。本田さんも〈「そんな訳がない」と確信し〉、先に同じ手順で確かめていた。本田さんは広島市役所に30年近く務めた元職員でもあり、挨拶を終えた首相は挨拶文を壇上に置いて去ることも知っていた。〈「挨拶が済んだら、挨拶文は広島市の取得(入手)文書になる。読み飛ばしが発覚した時点で、『政府関係者』はその状態を見られるはずがない。どうして『のりが付着していた』などという説明ができるのか」〉。

蛇腹であること、のりで貼ること。「政府関係者」の頭にはとりあえずこれがあって、そしていつか昔、何かをのりで貼ってはみ出したときの記憶が重なったのかもしれない。自分自身ではなく、それは友達だったのかもしれない。かわいかったね、そのころの君。長じてあっさりうそがつけるようになった。誰かのせいにできるようになった。やりすごせば済むと思えるようになった。おめでとう、成長。

Radio Dialogue で宮崎さんは、広島市の担当者の戸惑いも話していた。平和記念式典のようすはテレビでもラジオでもネットでも生中継されたし、読み飛ばし部分を補った全文は首相官邸ホームページなどで公開されている。通常、情報公開請求というのはその中身を知りたいからであって、「実物を見たい」という理由での請求は本件が初めてだと苦笑いされたそうだ。そして、この式典における広島市長の「平和宣言」はその原本を広島平和記念資料館に保存しているが、首相の「挨拶文」の原本の扱いについては市に規定がないそうである。「挨拶文」自体の形態や所作についてはどうなんだろう。紙に書いて(プリントして)蛇腹にたたむこと、胸のポケットから出して読んで終わったら壇上に置き去ることが慣習として残っているだけならば、早晩どちらもやめたらいい。ちなみに宮崎さんは一連の取材の中で、〈「内閣広報室として、挨拶文作成などのロジには関わっていないので質問の回答はできない」〉という回答を得ている。

小林坩堝さん『小松川叙景』を改めて開く。この詩集の舞台は東京のある土地だ。人工度は極めて高く、地中深い。小口の朱色の本文への侵食はその人工的な地中から人工的な地表にしみるものたちを思わせる。〈密室〉たる本文にこうして〈風〉を送りつけながら読む私の指のはらにはページが刀みたいになってひと筋ずつ朱を残す。8月、緊張と暑さで決して乾燥はしていなかったであろう人の指のはらをなでた蛇腹の折り山たちを思い、詩集にある「おれを歴史にしてくれるなよ」(「HOMEBODY」)「戦後でも戦前でもなくひたすらの事後である肉体/を瞬間の自由に放り出す」(「三月」)がなぜだか響き、「おれを歴史にしてくれるなよ」、そう言って折り山を確実に開いて飛びゆく蛇腹を見送る年の瀬である。