製本かい摘みましては(171)

四釜裕子

新しく始まる多和田葉子さんの新聞連載が楽しみだと、正月に知人が教えてくれた。「白鶴亮翅(はっかくりょうし)」というタイトルが太極拳由来だそうで、その動きをさっとして見せてくれた。多和田さんも太極拳を習っておられて、「敵が攻めてきたときに自分の最大限の力を引き出す護身術でもあるし、健康法でもあると同時に踊りでもある」太極拳を、いつか小説の題材にしようと温めていたと同紙に語っている。連載は2月にスタート。ベルリンで一人暮らす「わたし」が隣人の誘いで太極拳を習うことになるようだが、今のところまだ迎え撃つ敵の気配などはない。

連載の(24)(25)に、翻訳ソフトが苦手とするものの例として「Bohnenkaffee」という言葉が出てきた。「コーヒー豆を使ったコーヒー」の意味だそうだが、翻訳ソフトは「コーヒー豆」と訳してしまう。しかし「コーヒー豆」は「Kaffeebohnen」で、例えば旧東ドイツに暮らしていた人の生活資料の中に「西ドイツに住む親戚がBohnenkaffeeを土産に持ってきた」とあれば、それは「コーヒー豆」ではなくて「コーヒー豆を使ったコーヒー」である。つまり言葉が使われた時代背景を考慮しないと正確には訳せない、という話であった。〈その点、紙でできた辞書はすばらしい。人間だけでなく、辞書にも若者、中年、年寄りなどいろいろな世代があり、それぞれの良さがある〉。そして例えば「Bohnenkaffee」は19世紀の辞書の復刻版にはなく、かといって今使っている辞書にはすでになく、1960年代に作られた辞書にはあるという。〈八十歳の教養人も二十歳の若者も知らない言葉を五十前後の世代だけが知っているということもあるようだ〉。

SHIBUYA TSUTAYAで藤原印刷による「本のつくりかた(展)」を見て、「スクラム製本」や「和こよ綴じ」なる言葉を知ったばかりだった。そう呼ばれている製本実物を見てもなんら珍しくはないのだけれど、そういえば呼び名を知らなかったし考えたこともなかった。家に帰ってネットで検索したら、どちらもたくさんヒットした。

この展示は、ちょっと変わった紙や印刷・製本、加工法で作られた本やジンを、どのように作られたかの説明を添えて展示・販売したもので、動画や紙見本なども添えて実物に触って見られるようにしていたのがよかった。図録的な冊子もフリーで用意されていた。紙や花ぎれ、スピン、箔など材料の銘柄や、印刷や製本・加工のポイントも記されていて、そこに「スクラム製本」や「和こよ綴じ」という呼び名が記されていた。「スクラム製本」は「新聞紙のように紙を折って重ねて断裁するのみの製本方法で180度綺麗に開きます」、「和こよ綴じ」は、中綴じ製本で「和紙素材で綴じる製本方法」と説明がある。

「コデックス装」もいくつかあった。本文紙を糸でかがったあと背をむき出しにしたままで完成させたものだが、こちらは特に説明はなかった。林望さんが『謹訳源氏物語』を出したときにつけた呼び名で、確かにこの製本も名称も年々よく見かけるようになった。ちょうど東京製本倶楽部から「製本用語集」が届いたので「コデックス装」をひいてみると、「機械製本で本文紙を糸かがりした後、背貼りをせず、折丁の背と綴じ糸が露出したままにしてある製本。(中略)林望氏による命名(『謹訳源氏物語』2010年)だが、構造的には無背装(むはいそう)で、本来のコデックスとは意味が異なる」とある。

続いて「コデックス」の項を読むと、「古い時代の本をさす言葉。古代ローマ時代には蝋板をつなげたものをさし、のちには二つ折りしたパピルスや皮紙の折丁を糸で綴じた冊子をさすようになる。綴じられた初期の本をいい、巻子本と対比される」とある。コデックス装という呼び名に私はいまだ違和感があるけれど、今の日本においてはいかにこの製本とコデックス装という呼び名が親しく馴染んだ12年だったかということだろう。「コデックス」という言葉の変遷をここにごく簡単に見るだけでも、人にとってこの響きがどれだけ魅力的なのかが想像できるし、逆に翻訳ソフトはいかにも苦手そうな言葉だし、こうやって生き延びる「コデックス」の人たらしぶりに「うまくやったな、コデックス!」と声をかけてやりたい。

東京製本倶楽部は1999年の発足当初から用語の検討を続けてきたようだ。会のホームページでその成果を公開している。「製本の種類」「綴じの種類」「判型・数え方」「工程」「本の部位」「装飾」「蔵書」「道具」「容器」「書誌」「印刷」「出版」「修復」のカテゴリーに分けて用語の採集・編纂をしていて、この2月、まずは「製本の種類」の項目だけをまとめて発刊している。いろいろためになるのだが、もやもやが晴れた用語の一つに「シークレットベルギーバインディング」があった。何がシークレットでなぜベルギーなのか名称の由来を知りませんと言いつつ、私もその綴じ方を講座でやったことがある。「製本用語集」によるとまずそれは「シークレット・ベルジャン製本」と項目がたっていて、「クリス・クロス製本」参照とあり、構造の説明のあと、「1986年、ベルギーの製本家アン・ゴワ(Ann Goy)が考案した。(後略)」とある。アン・ゴワさん、きょうまで知らずに楽しませてもらってきました。ありがとうございます。

東京製本倶楽部版「製本用語集 製本の種類」(2022.2.2発行 限定400部)は、A5判モノクロ24ページの中綴じ(ホッチキス2か所留め)だ。ごく小さな冊子だけれども、迷ったらここに戻ればいいという安心感がやっぱりもれなくついてきた。こちらも言葉も刻々変わる。何でもかんでも刻々変わる。例えば白鶴亮翅がどういうものかよくわかっていないのだけれど、改めて正月に知人が見せてくれた動きを思い返すと、手足の先が描く流麗なる曲線たちが時にすっとマッチ棒を思わせる体のラインに収束して、そういう感じが「製本用語集」の薄い背に重なったりした。

今朝の多和田葉子さんの「白鶴亮翅」(27)はどうかというと、「わたし」がMさんに、ドイツ人の東方植民が始まったのはいつかとか東プロイセンにアジアから人が渡ってきたのはいつかなどを聞き、嘘などもつき、ジャケットを脱いでいた。ひと晩寝て、明日は「わたし」に何面で会えるかな。