製本かい摘みましては(176)

四釜裕子

「詩繍(ししゅう)」とか「切詩(きりし)」とか名付けたシリーズの詩を数年前から作っている。表裏、表裏、冊子の中の4ページを舞台に、ページに針を刺したり、なんらかの切れ込みを入れて組んだり編んだり折りたたんだりして完成させる。文字や記号でそれらの動作を予想させるところまで印刷し、あとは読み手が仕上げるという塩梅だが、なかなかうまくいかない。

きっかけは、これまで雑誌の広告ページをあまりにも無残に破り捨ててきた自分への贖罪だ。例えば中身が半分以下になった古い古いアンアン。好きなページを切ってとってあるのではなくて、嫌いなページを破り取って残してあるのがわかるのは、表紙がそのままで中綴じのホチキスが残っているから。学校帰りに駅ビルの本屋で買って、全車両がボックスシートの汽車(本当はディーゼル車だけど)に座って30分、まずは後ろ半分にたっぷりある広告ページを破ってから読んだものだ。無線綴じのマリ・クレールなんかもまずは乱暴に広告ページを破き、ノドに残った端っこをちまちま外してから読んでいた。ろくに見もせず、なぜあんなに広告ページを嫌ったのか。それにしても破り方が乱暴すぎる。

古い雑誌をまとめて処分するときにこれらを見つけ、深く反省し、「詩繍」とか「切詩」なるフォーマットを考え自分に課した。こちらの目論見どおりにおもしろがってページを切ったり縫ったりして読んでくれる人がいたらいいなと思うけど、そんなことにつきあってまで読んでくれる人はほぼいない。よもやそんなことをしたら古本屋も買ってくれないし、そもそも冊子のページを切るとか破るとかいうのが憚られる人が多いだろうし、なによりこれはまだ自分でもふっきれていないところなんだけど、他のページの作者や発行者への後ろめたさがある。虚しさ、寂しさ、後ろめたさ……これらに、耐えねばならぬ。あまりにも傲慢に破り捨ててきた大量の紙片のいたみを、いまこそ我が身に受けるのだ。

アトリエ空中線の間奈美子さんがウェブマガジン「The Graphic Design Review」に寄せた『出来事としての「詩」と「デザイン」』(https://gdr.jagda.or.jp/articles/57/)を読んだ。間さんは自身のSNSにこう書いている。〈出来事としての/出来事を生み出す書物設計について書きました。(中略)主体やセオリーによる統御より時どきの「出来事」からできる本の魅力があるのではないかと考えています。それは、多く制作した詩書とともに、「詩」といわれるものについても同様に思われてきたことですが、あらためて本とひとつの机上に並べて考える機会となりました〉。

私にしてみれば、かつて池袋西武のぽえむ・ぱろうるで、間さんが未生響/空中線書局名義で出していた作品集に出会ったことが一つの大きな出来事だった。西武のコミカレで栃折久美子ルリユール工房に通っていたころで、自分のホームページ作りに夢中だった時期でもある。〈空中線書局の本を手にすると(わたしもこんな本を作ってみたい)と思ってしまう。そんな気持ちが一体どこにあったというのか、本人も知らない「どこか」で響く光を与えてしまうこのアトリエの仕事をご覧いただきたい〉などと、嬉々として書き込んでいた。

そのころ間さんから、八百屋だったかでもらった紙にピンときてそのルーツを延々たどり、資材として確保して、印刷に苦心し、作品集を実現させた話など聞いた。「The Graphic Design Review」の記事ではいくつか自身の作品の成り立ちにも触れていて、当時のあの心意気が一向に変わらぬまま、間さんはたくさんの出来事を重ねてこられたんだなと感じ入る。記事のリードをいま一度読む。〈コンテンツはなにがしかのフォームとともにひとつの出来事として同時に現れ出るものではないだろうか〉。このフレーズに、「切詩」の新作にこれまた反応のない虚しさに耐える気力を、まこと勝手ながらもらう。