製本、かい摘まみましては(22)

四釜裕子

「水なし印刷」なんてとっくにないものと思っていた。いくら「環境にやさしい」印 刷ですといったって、しょせん印刷代が高くてやがて淘汰されるだろうと思い込み、 関心をなくしていたのだ。この夏、ある印刷会社に「うちは水なし印刷です」といわ れ、とっさに「まだあったんですか?」と返して怪訝な顔をされ、さらに「じゃあ値 段が高いのでしょう?」と問うと「昔の話です」と返された。昔の、話。今の話が知 りたい。お願いして、水なし印刷の現場を見に行く。

通常のオフセット印刷では、印刷の工程で湿し水を使う。水が油をはじく性質を利用 して、紙にインキがつかない部分をつくるのだ。この水には、印刷機能を高めるため の化学物質が付加されている。対して水なし印刷は、表面をシリコンゴムで覆った版 を用い、これがインキをはじくので、水は、使わない。これが「水なし印刷」という 名称の由来だ。さらに、これまでのオフセット印刷では版の現像により強アルカリ性 の廃液が出ていたが、水なし印刷では出ないので、「環境にやさしい」方法といわれ てきた。

日本で水なし印刷の開発に着手したのは1970年代。その目的は、インキが水でにじま ないこの方法で、より高精細印刷を実現したい、というもの。なによりその版素材の 開発がキモだったようで、まずは3Mがトライするも、詳細はわからないが実用化に いたらず、1976年に繊維メーカーの東レがシリコン版を開発する。それには、東京の 文祥堂印刷が、鍋を囲みながら発した同社代表の「やってみようか」の一言で会社を 実験工場とし、開発の一翼を担ったようだ。

従って、「環境にやさしい」なる枕詞がついたのは後のことで、ずっとやってきた方 々にとっては今やタナボタと受け止めるしかないのでありましょうが、私などはその 枕詞こそが牽引したのだと思い込んでおり、愚かなことですが、おおかたそうではな いかしら。今では多くの企業が、環境保全推進の姿勢を示すひとつの手段として、自 社の印刷物を積極的に水なしで印刷している。

水なし印刷はその版面の温度を一定にすることが必要なため、印刷工場全体の温度や 湿度が管理されており、また臭いもない。見学した工場内も、実に快適でスマートで あった。別室で作られた版のデータがケーブルを通して送られてきて、版の現像もあ っという間に終わってしまう。版材や専用インキの値段は従来のものに比べれば高い が、それまでの廃液・排水処理のための費用はかからないし、ヤレ紙(印刷に失敗し た紙)は減り、また印刷機械のオペレーター養成期間も短縮されるというから、全体 としてのコストはむしろおさえられるというのは、うなずける。

こうしてみるといいことずくめの水なし印刷だが、それを推奨する団体、WPA ( Waterless Printing Association )が認めた水なし印刷に付す「バタフライマーク」 は、米国の国蝶・オオカバマダラ ( Monarch Butterfly )だ。この蝶は美しいしアイ コンとしてもいいのだけれど、私たちは今後印刷物にこの「バタフライマーク」と大 豆インキ使用を示す星条旗柄の「ソイシール」を、よかれとして印刷物に付してゆこ うとしている。気味の悪いことである。