製本かい摘みましては(160)

四釜裕子

〈山麓生活をはじめた主な動機は、天の高みへの憧れからだったが、おもいがけなくも、赤ら顔の詐欺師が、天ならぬ地界への扉を、こんこんと叩いてぼくを導いた。急がば回れ、足もとからこそ鳥が立つ〉。

2月に刊行された画家でエッセイストの渡辺隆次さんの画文集『森の天界図像 わがイコン 胞子紋』(大日本絵画)の冒頭にあることばだ。「詐欺師」とあるが、イギリスではキツネタケケをそんなふうに呼ぶらしい。渡辺さんが八ヶ岳界隈で採取したキノコの胞子紋を組み込んだ新旧の作品に、書き下ろしのエッセイ一編と、これまで発表されたエッセイの中から抜粋したことばが編んである。机上に開いてそれらの絵をのぞき込んでいると、文様が眼球のように浮かび上がってきたりヘルメットマンが疾走したり。天を映す湖面に吸い込まれそうになって我に返るのと似たこんな状態に誘われるのは、ぴったりと気持ちよく開く「コデックス装」で仕立てられたことにもよるだろう。

コデックス装とは本の背がむき出しになった糸かがり並製本で、普通ならこのあと背に寒冷紗などをはって補強してから表紙をつけて断裁し、さらに表紙カバーをつけて完成となる。ところが中身を糸でかがってノリで固めたところでおしまいにするという、言わば「途中の状態」がコデックス装だ。これを選ぶ一番の理由は、手でおさえなくてもすべてのページがよく開いて、絵や写真がノドでくわれないこと。背に何もはらないと強度が心配されてきたけれど、接着剤の質や技術の向上でもはや問題にならないところまで来ているのだろう。『森の天界図像』の場合は二つ折りした厚めの紙が表と裏の表紙となり、黒地に銀で胞子紋が刷られ、そこに表紙カバーがかけてある。ブックデザインは上田浩子さん。

コデックス装という呼び名を私は2010年に刊行が始まった林望さんの『謹訳源氏物語』で初めて聞いた。改めて見るとこう書いてある。〈本書は「コデックス装」という新しい造本法を採用しました。背表紙のある通常の製本法とはことなり、どのページもきれいに開いて読みやすく、平安朝から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装」という古式床しい装訂法を彷彿とさせる糸綴じの製本です〉。

この方法は『食うものは食われる夜』(蜂飼耳著 思潮社 菊地信義装丁 2005)などのようにそれまでにもなされてきたし、林さんが書いておられるように「綴葉装」のいわば仲間だし、おおまかに言って目新しいものではなかった。しかしあまりにも糸かがり本が減っている世の中にあってそれをウリにするわけだから珍しいし、なにより「コデックス」+「装」という、ピンとこない名付けながら由緒ありげで響きがよく、これがその後の流行に大きく貢献したんじゃないかと思っている。しかしなんでコデックス装なんだろう。

2013年に『謹訳源氏物語』全10巻が完結したあと、日本豆本協会会長の田中栞さんがブログ「田中栞日記」でこのことに触れていた。〈この言葉、語感は良いのだが「コデックス」というのが冊子全般を示して背表紙の有無とは関係がないために、この形態の製本構造のイメージにストレートに結びつかないという難点があった〉。田中さんはこの形態を示すものとして、〈「背表紙がない造本形態」であるとわかる言葉にするべき〉として、〈雉虎堂の八嶋浅海さん発案で「バックレス製本」という言葉が作られた〉。さらに林望さんとやりとりする機会を得て、〈「無背装(むはいそう)」という語はどうか、という新たな提案を受けた〉そうである。背表紙のないものが多い和本で背を包んである形態を指す「包背装(ほうはいそう)」という語があり、それに対する「無背装」として、〈これはなかなか良い用語であると思う〉。当時も今も読んでなるほどなあと思う。

「デザインのひきだし41 製本大図鑑」(2020)にもコデックス装はもちろん出ている。やはり製本会社が背固めに使うノリを工夫するなどして、ノートとして使っても壊れないほどの強度を実現しているようだ。人気についてはこう書いてある。〈製本途中のような無骨な感じがいいと思う人が多いせいか、ここ10年ほどでかなり使われることが多くなった製本。本誌で初めて取り上げたとき(12年ほど前)は、「コデックス装」といっても通じない場合も多かったくらいだが、今ではどこの製本会社でも「コデックス装」で通じるほどメジャーになった〉。

2008年ころにはすでにこの名称が使われていたということになろうか。また、見た目や雰囲気としての流行もあることがわかる。「デザインのひきだし41」には背に寒冷紗を巻いた「クロス・コデックス装」も出ている。〈名前が特になかったので本誌編集部が便宜上そう呼んでいる名前なだけなのだが〉とのことだけれども、「デザインのひきだし」のお墨付きだからここに間違いなく名前を得て誕生したと言っていい。

背がむき出しになった製本ということでいうと「スケルトン製本」なるものもあった。こちらは糸でかがるのではなく、無線綴じやあじろ綴じの背にPUR(ノリの一種)を塗る。不透明で白っぽいEVA系ホットメルトに比べて透明度が高いPURを使うのがミソで、篠原紙工さんが名称も含めて考案したそうだ。「ノリではるだけでしょ?」と思うことなかれ。ノリを塗布しても〈この状態で製本機から取り出せず、またそのままだと糊の表面も平滑にならないため、一度、PURが接着しない加工を施した仮の表紙をつけて製本し、製本機から出てきたところでその表紙を剥がす〉。これで初めて、きれいな背になるという。なるほど――。

思い起こせば、紙をもっと手軽に綴じて本にしたい、正確に言うと、ノリの扱いが苦手なのでノリを使わずに本のかたちにするにはどうしたらいいだろうと、「糸だけ製本」と称して試していたのは2004年のこと。大きめの紙を折り、その折り山も同じ糸でかがって表と裏の表紙にすることに落ち着いたのだが、これもいわゆるコデックス装ですっきり気持ちよくページが開く。「楽譜にもよいのでは?」と採用してくださったのが八巻美恵さん。これが『高橋悠治ソングブック』(水牛 私家版 限定100部 2008)の製本のお手伝いにつながった。

『高橋悠治ソングブック』の最初の曲は「ぼくは12歳」(岡真史 詩)の「みちでバッタリ」。私が初めて聞いたのは矢野顕子さんバージョンだった。〈そして両方とも/知らんかおで/とおりすぎたヨ/でもぼくにとって♪〉のあとすぐのジャン♪が、怖かったんだよなあ……。そのくせ街でことさらに誰とでも知らんかおですれ違うのが気持ちよかったのだった。