水牛的読書日記(1)本は水牛である

アサノタカオ

本は水牛である。正確な表現ではないが、そのようなことをエドゥアール・グリッサンが言っていた。グリッサンはカリブ海のマルティニック島出身で、フランス語で書く黒人詩人だ。この一見、奇妙な発言は『全—世界論』に収められたエッセイ「世界の本」の中にあり、日本語にも翻訳されている。

詩人は、万物がたえまなく流れ転がり混ざり合う世界の写し絵が本だと考える。さらに言えば、川が山中の源泉から流れはじめて滝になって落ち、そのうちいくつも支流が合流し、やがて分流して河口に三角州を形成し海に注ぐ、その一本の大いなる川の「変容のなかの不変のもの」こそが本ではないか、と。上流であれ下流であれ、流れる清水に人が足を浸せばどこにいてもいかなる時も、「ミシシッピ川」を「ミシシッピ川」と感じる何かこそが本ではないか、と。

エドゥアール・グリッサンの文学という川についてみれば、フランス語を介したヨーロッパの古典の世界が「変容のなかの不変のもの」として滔々と流れていることはまちがいない。ホメロスの叙事詩や『ローマ帝国衰亡史』や『ヨーロッパ文学とラテン中世』、あるいはマラルメの『骰子一擲』などがそれだろう。

と同時に、そこにはヨーロッパの植民者の言語とアフリカ人奴隷の言語の混ざり合いから生まれたクレオール語の話し言葉の世界も、ゆたかに流れ込んでいる。ところがカリブ海の島の女たち、男たちがしゃべるクレオール語の話し言葉の世界は、西欧の伝統的な書物と文字の世界からも、電子的な情報文化の世界からも疎外されていて、本の世界に居場所がない。グリッサンは、この歴史的に疎外されてきた声をも「変容のなかの不変のもの」として受け止める本、ヨーロッパの古典の世界とも、電子的な情報文化の世界とも異なる「世界の本」を想像する。

ここにいたって、グリッサンの語る「川」は比喩的で抽象的な図式のようなものから、きわめて具体的で親しみのある風景にかわる。

ほら、島の川原をみてごらん。そこにはクレオール語を話す日に焼けた労働者たちがいるじゃないか。そして水牛がいるじゃないか。わかるかい、あれが「本」だよ。雲がやってきて、ハリケーンがやってきて、川が氾濫してあふれる水に流され、大波にのまれ、無数の水牛が死んでいった。なんてこった! けれど雲が去って太陽があらわれ、水が引いて土地が乾いて草が生えて風が渡る、すると川原には何事もなかったように、ほら、水牛がいるじゃないか。流れ転がり混ざり合う世界とつねに変わらず共にある「あの孤独な、連帯する、動じない水牛」、わかるかい、あれが「本」だよ——。

本は水牛である、というグリッサンの哲学的なヴィジョンの真相については彼の著作をちゃんと読んで学んでもらうこととして、ぼくにとってこの定義は体験的に腑に落ちるところがあった。

10代の頃、地方の町で自覚的に書店や図書館に通いはじめ、本を集め出して活字中毒になり、あれから30年。部屋は、夏の空き地に日に日に草が茂るように本で埋め尽くされていった。しかし20代からふらふらと移動の多い生活を送ってきたので、引越しのたびに荷物を減らすために本を手放してきたし、いまから10年ほど前、いったん本の世界から離れたいという思いにも駆られて蔵書のほぼすべてをある人に寄贈した。

身軽になったと感じたのはほんの一時期のことで、しばらくすると部屋はふたたび本で埋め尽くされていった。当たり前といえば当たり前の話だ。ぼくの職業は編集者で、すなわち本を作ることを仕事にしているので、仕事のために必要な資料としての本、いつか仕事のために必要な資料になりそうな本、必要な資料かどうかわからないけど気になる本が、生き物のようにわらわらと手元に集まってくる。個人的なたのしみのために読む不要不急の本も、もちろんある。子どものために買ったつもりがけっきょく自分で読んでいる本なんかもある。そして出版業界には「献本」といって同業者同士、企画に関わった本を近況報告の代わりに贈り合う習慣があるので、この仕事を続ければおのずと蔵書の量は増える。やれやれ。

マルティニック島の川原の風景と同じだ。雲がやってきて、ハリケーンがやってきて、川が氾濫してあふれる水に流され、大波にのまれ、無数の水牛が死んでいったように、人生の転換期に合計で何千冊かの蔵書が目の前から消えていった。しかしいつのまにか川原に水牛の群れが戻ってくるように、部屋はふたたび少なくない数の本で埋め尽くされていった。といっても、いまそこにあるのはいわゆる「新刊書」ばかりではない。いったん消えたはずの、ある種のなつかしい古い本たちが——実際には、手放したあとになかば無意識に買い戻したりしているわけだが——なおも棚の中に悠然と並んでいることに最近、注意が向くようになったのだ。そしてまるでグリッサンのいう「あの孤独な、連帯する、動じない水牛」のように、「変容のなかの不変のもの」としてこちらの人生をじっと見つめ続ける一群の書名のことが、どうも気になって仕方がない。

たしかに、本は水牛である。流されても流されても、水牛は、いつもそこにいる。
 
たとえば、リチャード・ブローティガンの小説などアメリカ文学の翻訳で知られる藤本和子さんの本。若い頃からいつか読もう読もうと思いつつ、思うだけでほったらかしにしてきた80年代の彼女の著作『塩を食う女たち——聞書・北米の黒人女性』と『ブルースだってただの唄——黒人女性の仕事と生活』が近年立て続けに文庫化されこともあり、わが視界に戻ってきた。10年越し、いや20年越しの無言の呼びかけに応えるように、いよいよこれらの本の読書がはじまるという予感を抱いている。

それを言えば、部屋に積み上げられたままになっている、詩人で記録文学者の森崎和江さんの本たち、画家の富山妙子さんの本たちも、いまの自分にとってどういうわけか同じように気になる大きな存在だ。偶然なことに、彼女ら3人はいずれも、このウェブマガジン「水牛のように」の前身となる80年代前後の「水牛楽団」や「水牛通信」、あるいはその周辺の活動となんらかの関わりがある書き手で、みなさんおのれの信じる道をひとり歩みつづける「いっぽんどっこ」タイプという感じがする。

藤本さんが編集・翻訳した『女たちの同時代——北米黒人女性作家選』(全7巻)という本もある。アリス・ウォーカー、トニ・モリスン、ゾラ・ニール・ハーストン、一時期それなりに熱心に読んだはずなのにこまかい内容をすっかり忘れてしまった彼女らアフリカ系アメリカ人のウォマニスト作家の文学も再訪したい。昨年2020年はアメリカで、「ブラック・ライブズ・マター」の怒りの声があがった。

そして「水牛」と関わりがあるはわからないけれど、今年は在野の女性史研究家、もろさわようこさんの仕事を尋ねることになりそうだ。やはり80年代前後に刊行されたもろさわさんの主著が自分の仕事用のデスクに並んでいて、彼女が主宰する「歴史をひらくはじめの家」のミニコミ的記録集(京都の古本屋KARAIMO BOOKSでバックナンバーを購入した)のページをめくって行ったら、富山さんの名前があった。

なぜ、女性の書き手なのだろうか。以上にあげた著者たちには、いずれもライフワークとして「女性史」に取り組み、アメリカ黒人の世界であれ日本の辺境の世界であれ、フィクションであれノンフィクションであれ非言語的な芸術表現であれ、歴史の中で語られてこなかった声なき声に耳をすまし、「ことば」を与えるという冒険的な仕事をしてきたという共通点がありそうだ。しかしなぜいま、彼女らの本を読むという予感にとらわれているのか(そしてわざわざ断る必要があるかわからないけれど、なぜ「男性の読み手」である自分がそれを読むのか)、よくわからない。

でも、わからないなりに「孤独な、連帯する、動じない水牛」としての本の群れを追いかけながら、自分自身の読むことの小川をたどる旅をこれからはじめようと思う。牛使いの小僧になったようなつもりで、ともかく歩き出してみることにする。