2011年2月号 目次
時間ののち――翠ぬ宝76
そりゃあ、きみ、なんと言っても、あんまりだもの
荒川の河川敷で
きみは発見される。 なんと、三十キロもの下流で
三ヶ月ののちに。 ほんとうは何も発見されないままで
ぼくはきみのあとから
青色の砂となって勤めている。 きみは
許す、後任の砂あらしを。 ―青色の
砂から、時間が降りてくる微粒子
このごろでは、すっかり、きみに会うことのなくなった
勤務室。 砂時計を壊す
(きみの親しかった友人にメールをする、五年前のこと、「白い包帯を左腕に吊した、もの言わぬかげを出口のところで見た。Sだったような気がする。私に何か言いたそうな、警告を発していたような気がする」と。友人は笑う、「はははは、何をフージーさん、古代をやってるやつはこれだから、ヤだな」と。近代主義者のかれは軽くいなして、メールを切る。やさしい友人だよ、見透している。)
アジアカップで寝不足に!
イラクの子どもたちの絵画展を日比谷の画廊でやることになった。2月4日からはじまるので大忙しだが、サッカーのアジアカップが始まり、またまた大忙しになってしまったのだ。
ワールドカップは、ヨーロッパとか南米が優勝するのだが、アジアカップとなると中東の国が結構出てくるから、僕としては親近感がある。特に、前回の優勝はイラクだった。
日本とイラクが対戦する試合を見てみたい。ところが日本はB組、イラクはD組。予選を勝ち抜かないと対戦しない。D組みは、なんと、イラクと北朝鮮とイランが対決。(アラブ首長国連邦は、おまけ?)イラク、北朝鮮、イランといえば、2002年、ブッシュ大統領が一般教書演説で、悪の枢軸と名指しで批判した国。
一体どんな戦いになるのか、とても楽しみだった。何よりも、イラクの試合を日本で生中継で見られるなんて! 僕は夜更かしをしながら、TVにかぶりついていたのだ。時差があり、試合は大体夜中の1時に始まり、3時ぐらいに終わるから、寝不足にはなる。
イラク、イランには敗れたものの、結構頑張って北朝鮮を下し、決勝トーナメントへ進出! 悪の枢軸というレッテルを貼られていても、どの試合もとてもフェアだし、スマート。イラクの友人に電話すると、「みんな、盛り上げって、祝砲を撃ちまくっている! 危なくて外に出られないよ!」と興奮気味。イラク人は、サッカーが好きだ。ガンの子どもたちも、サッカー選手の絵を書いたりしている。ヒーローは、子どもたちを励ますのだ。
翌日、イラク支援の関係者の会議で、「イラク勝って良かったな」と興奮気味で話しかけるけど、「いやー忙しくてねぇ。夜中にTVなんて見てる暇ない。」
えー!あんなに、イラク、イラク言ってたくせになあ。と失望。
残念ながら、イラクは、準々決勝でオーストラリアに敗れる。延長までもつれこむ激しい試合になり、30分延長するとさらに寝る時間が削られるので見てるほうも結構きつい。そして、終わった後にはいつもイラク人から電話がかかってくるから、苦肉をともに戦ったという感じだ。それにしても悔しくて眠れないから、また疲労がたまる。
一方、日本は、どんどんと勝ち抜き、気が付いたら決勝戦。オーストラリアと対戦している。たまたまTVつけたら試合があと10分で終わりそう。「いやー、忙しくてすっかり試合のこと忘れてた!」結局延長戦に入ったので、決定的なゴールシーンも見ることができた。
そして、試合がおわると、イラク人の友人から電話、「おめでとう!」「おめでとう!」メールも来ている。「私は、日本人の素晴らしさに感動しました。あなたたちは誇りです!」と言う感じの大袈裟なメールが何本か来ていた。また夜更かしをしてしまい、体調は最悪。しかし、よく考えたら、試合が終わったらイラク人から電話があるわけだから、どの道起こされるわけだ。
イラク人はいいやつだと思う。ちゃんと試合を見てくれていたのだ。それに比べて、日本人は、本当に、イラクのことなんかあまり気にしていないだろうな。いつか、日本とイラクの対戦を見てみたい。僕はどっちを応援するのかな。
喫茶店物語
ある日、新宿を歩いていて喫茶店を見つけた。ごくごく普通のコーヒーのうまそうな喫茶店である。ということは、逆に今どきあんまりお目にかかれない喫茶店ということであり、これは今入っておかなければいつまであるかわならない、という代物である。
なにしろ、今どき、ちょっとでも油断するとチェーン展開しているコーヒーショップがあちらこちらに浸食している。僕から言わせれば、あれはコーヒーショップであって喫茶店ではない。喫茶店たるもの、あくまでもブレンドコーヒーが自慢で、できればちょっとばかりくすんだ色合いの装飾で、言葉少ないオヤジが店主で、愛想のいいアルバイトの女子がいてくれれば最高なんである。いちいち、こちとらが頼んだものを声高に叫び、店内にいる全店員が復唱する必要はないのである。
さて、僕が新宿で見つけた喫茶店はこれらの要素をすべて満たしており、しかも、新宿のくそったれシネコンから歩いて10分以内というのに座席が7割方空いているという奇跡。なんだか嬉しくなって席を選ぶ......。のであるが、この席選びがえらく難しいのだ。何しろこの店、カウンターが5席程度、4人掛けのテーブル席が6つほどあるのだが、どうも自然に座れる感じがしない。
まず、座席は普通、奥から順番に座りたいものだが、奥の方に妙な置物などがあり、なんとなく、一見客を拒んでいる気がする。かといって、手前の席は、乳製品を入れる小さな冷蔵庫やレジがあり、どうにも落ち着かない。となると、真ん中あたりの席だが、これがなぜか、店の出入り口に向かって真っ正面にも真後ろにも座れないのだ。つまり、入り口から入ってきて、そのテーブルに座ろうとすると、直角90度に折れて、入り口の方ではなく、カウンターの奥にいる店主と向かい合わせになってしまうのだ。
僕としては、店主を目の端に入れつつ、入り口を真っ正面にした席が最上級である。ところが、この、店にはそんな配置の椅子がないのだ。仕方なく、ちょっと遠慮がちに、カウンターにいるオーナーから身体の芯を一人分ほどずらして、座る。オーナーから身体一人分、ずらしてるところが一見客の心遣いだ。
なんとなく落ち着かないまでも、50年代のジャズとうまいブレンドコーヒーに間違いはない。しかも、オーナーは無口でこちらに無遠慮な視線は向けない。これなら、しばらく時間を過ごせる。
と思っていたら、出入り口が開く。気のいいアルバイト女子が「いらっしゃいませ」と声をかける。すると、どうやら常連らしい客が、オーナーの目の前のテーブルで、こちらに真っ直ぐ顔を向けて着座ましますではないか。わかるだろうか、僕から見た情景が! 僕の目の前に小さなテーブルがあり、そこにコーヒーが置いてある。その向こうにまた小さなテーブルがあり、来たばかりの常連オヤジが、しっかり僕の真っ正面にこちらを向いて座っている。さらにその向こうにカウンターがありオーナーがいる。
向き合って、1対2である。オヤジが1対2で時間を過ごすのである。耐えられない。自意識過剰と言われようがかまわない。しかも、そのオヤジは、僕の方に顔を向けたまま、カウンターの中のオーナーと話し始めた。そして、オヤジの問いかけにオーナーが少し面白い答えを返すと、僕を見て笑うのだ。いやいや、こちらにはそれほど内容も聞こえてないし、一緒に笑うほど親しくもない。そして、常連オヤジにのせられて、その後、オーナーは大声でダジャレ連発......。
50年代ジャズもあったもんじゃないぜ。ふっ。
豆腐屋の誘惑
子供の頃、母はスーパーで豆腐は買わず、「豆腐屋」で豆腐を買っていた。それについていき、あのシンクのような、湯船のようなものに、ぶくぶくと浸かっている豆腐達を見るのが、楽しみのひとつだった。しかし、小学校に上がる前ぐらいに、豆腐屋はなくなってしまい、その後、自分の記憶の中からもあの古びた店の記憶は消えていった。
それから15年程経った今、上京してのらりくらりと生きているのだが、たまたま家の近くを散歩していた時、とんでもなく懐かしいものを見つけてしまった。
「豆腐屋」だ。
思わず足が止まる。「豆腐」と書かれた古びたえんじ色の旗が立っている隣で、おっちゃん2人が世間話をしている。小さい頃のあの記憶が、湧くように溢れ出てきた。
豆腐屋なんて、探せばいくらでもあるはずだ。しかし、小さい頃から豆腐屋の湯船に浸かっている豆腐に興味はあっても、豆腐そのものには何の興味も執着も無い。だから豆腐屋を探そうとも、美味しい豆腐が食べたいとも...思う事はまるでなかった。
しかし、こんな近い所に昔ながらの豆腐屋を見つけたからには...。そうだ。一緒に住んでいる姉に買いに行ってもらおう。心の中で腹黒い笑みを浮かべた。わがままな話なのだが、誰かが豆腐を買いに行く時について行き、湯船に浸かっている豆腐の大群を眺めていたいだけなのだ。これは、子供の頃から何も変わっていない。あの気持ち良さそうに浸かっている豆腐達が見られる。これを楽しみにしながら、私は再び歩き出した。
犬狼詩集
23
過去に対して熱烈な興味を抱くことがあった
12分ほどのシークエンスをワンカットで撮影してみた
それは本州島の片田舎の河原
地元の少女が三人、川面に石を投げて遊んでいる
いつまでも石を切る、石を投げる、水を切る
水を切る、風とためらいを切る、切ることの強さ
ricochetの美しさ
旋回させるように使う腕のなめらかな動き
むかしからつづく水と空との戦いが
こんなふうに祭儀の現代的な巫女たちによって継続されてゆく
彼女らの役目はどちらにも勝利を与えないことだ
石は水と空とのあいだを弾みながら旅しつづける
切ることで両者をむすびつけてゆくのだ
ricochetの実践的な美しさ
フレームの中のこの運動は永遠につづく
水と空の切断も永遠につづく
24
「この道を歩いてゆけば河に橋がかかっている
それを渡ればそこがドイツだ」
親しげなトルコ系の中年男の言葉にしたがって
冬の中を歩いてゆくことにした
空の半分はくもり半分は明るい光
みぞれまじりの風が強く吹いてくる
やがて視野が大きくひらけたとき
ヨーロッパの大河が流れていた
航行可能な水系に細長い巨大な船が浮かぶ
橋の中央まで来るとカモメが一羽ずつ
小型爆撃機のように風にむかって飛び立ってゆく
離陸すれば一瞬、風に飛ばされ
オレンジ色の目で岸辺との関係を確認し
ただちに軌道修正して河の中央をまっすぐに飛んでゆく
ぼくはかれらの飛跡を追って上流を見やる
右手はフランス、左手はドイツ
無縁社会
この1月18日に、またインドネシアに戻ってきた。今回は、来年の3月までジョグジャカルタに滞在することになっている。ソロにいる私の先生の家に、以前留学していた時に使っていた服などを預けていたので、それを取りに行ってきて、ぼちぼち生活も軌道に乗ってきたところ。
その預けていた荷物の中に、2006年12月15日の産経新聞がある。なんで新聞まで一緒に入れたのだろうと苦笑しながら、とりあえず読みふける。(この新聞は、私の親がときどき日本から送ってきていたものだ。)石津昌嗣(写真家・作家)が、「関西ruins」というコーナーで、大阪の四天王寺境内の一角にある無縁塚を取り上げている。この無縁塚というのは、お参りしてくれる縁者がなくなった無縁仏の墓や地蔵がピラミッド状に積み上げられたものを言っている。その同じ記事の中で、石津は、かつて高層マンションの建築によって街1つがまるごと消えてしまった思い出を語り、「マイホームがマンションになりつつある都会では、家族のだんらん風景も失われがちである。核家族や少子化問題の行き着く先は、とてつもなく寂しい無縁な社会。...(中略)...無縁塚は、今後ますます現代の家族の在り方を象徴していくことになりそうだ。」と続ける。
無縁社会という言葉は2010年1月のNHKスペシャルで一気に一般に浸透したが、その前からこの言葉が広まる兆しはあったのだなと、あらためて感じる。そして、ジャワにいると、現在の日本はひたすら他人と孤立する無縁社会を望んで突っ走ってきたんだなということが、とても痛感されるのだ。
ジャワにいると、人が死ぬということがまだまだ身近だ。そしてお葬式は、隣近所が助け合って、ささっと出す。1回目の留学の時に私が借りていた家には、外に水道がついていた(洗濯用に)。ある日、朝の5時くらいにその水道の音で目が覚めると、なんと隣の家の人が無断で使っている! 聞いたら、前の家で人が亡くなってこれからお葬式なので、炊き出し用にお湯を沸かすらしい。うちの家は水道の出が良いので、使っているということだった。さも当然というその態度にものすごく驚いたが、この後にもこんなことがあって、お葬式のときには、無断で他家の水道を使ってもよいという暗黙の了解があるらしいと分かる。
今度は、2回目の留学の時の話。隣の家の一室に住む独身のお爺さんが亡くなったというので、お葬式があった。私もお葬式に出て、埋葬まで立ち会ったのだが、驚いたことに、このお爺さんはこの家の人とは何の縁もない人だった。隣のおばさんの話によると、このお爺さんは自分の親が生きている頃からこの家にいて(居候なのか、部屋を間借りしていたのかまでは聞かなかったが、どうも居候っぽい様子だった)、M地区に遠い親戚がいるのだが、亡くなったことを知らせても、誰も引き取り手もいないので、この家でお葬式を出すことにしたという。つまりは、この家の人は、赤の他人のためにお葬式を出してあげたことになる。しかも、このお爺さんの身元を知っていたのもこのおばさんだけで、あとの家族や近所の人は、誰もこのお爺さんの身元のことを知らなかった。
この時も、淡々と、しかしてきぱきとお葬式が行われたのだけれど、なぜ、赤の他人のお葬式まで出せるのだろう。日本では、そこまでしてもらえるだろうか? ここでは、袖すり合うも他生の縁とばかり、たまたまそのお爺さんの死に場所に居合わせた人たちが、お葬式であの世まで送りだした。私もそれに立ち会った一人ということになる。このお葬式のときに、うっとうしい人間関係のジャワもいいなあと、初めて感じたのだった。異土で死んでも誰か弔ってくれる人がいる、というのはなんだか安心だ。
ジャワでは(都会では事情は違っていると思うけど)、人の生活にどんどん他人が介入してきて、日本でいうプライバシーはまだまだないと言っていい。自分の家のテレビをよその人が見ているということもしょっちゅうだし、結婚式には招待していない人も来るし、密かに取っておいた冷蔵庫の食べ物はいつの間にか誰かに食べられている。葬式、結婚式の他にも家族の集まりは多いし、職場でもやたらお揃いの服を着たがるし、アリサン(講)もあるし、縁の糸が絡み合っている感じだ。正直、ジャワに留学した当初は、そういう、プライバシーのない縁の社会が息苦しかった。だからこそ、日本の社会はそういう幾重もの縁を断ち切る方向に進んできたのだろう。
村八分という言葉がある。これは交際を全く断ち切ることを言うと一般に思われているが、十の内の八の交際を断ち切ることだと聞いた。例外の二分は葬式と火事で、これがあったときは村八分の家であっても、村の人たちは手を差しのべたのだと言う。そう考えると、今の日本社会は、村八分どころか、村十分の状態を望んで作り出してきたと言えるだろう。縁はなくても、お金を出せば福祉介護もしてもらえるし、各種宅配サービスもあるし...というところなのだろう。そして、お金がなくてサービスが受け取れなくなった人が無縁死する、ということなのだろうか。
一月、とりあえず酒
去年注文したCD、DVD、本が到着したので整理する。年末に届いたR&BのCD、ファンカデリックやアイズレー・ブラザースの紙ジャケCDもティーナ・マリーの訃報で聴けずじまい。去年の趣味趣味音楽はテディ・ペンターグラスの訃報で始まりティーナ・マリー訃報で年を終わったようなもの。レニー・クラヴィッツのYoutubeにアップされたティーナ・マリーへの追悼のメッセージで明らかにになったこと、本人の喪失感が一番出ていた。十年前、友人のサイトでなんでティーナ・マリーをちゃんと評価しないのか、というので盛り上がっていた。一般的に、ただディスコでヒットを飛ばしたおねぇちゃんくらいの認識だったのをレニー・クラヴィッツは「最大限に過小評価されたコンポーザー、アレンジャー、シンガー、ミュージシャン」と言ってくれた。ファンク界の肝っ玉姉さん。メジャーレーベルは紙ジャケ、リマスタリングなんて出してくれないだろうな。
ワーナー時代のアラン・トゥーサンのCDでまったりしたりして、ギブソンのレスポールの本(いまだと二千万、三千万のギターの写真がごろごろある。)、これも写真と文章がいっぱいなので写真ばかり見て読むのはあとまわし。次は浅川マキのオフィシャル本。読んでいると大学進学のため上京したときによく通った、初台のライヴハウスが出てきた。ここでいろいろな人に出会ったけど今は音信不通。ママさんが話してしてくれた浅川マキが「暗い日曜日」を歌わない話とかしてくれたけどもう詳しくは覚えていない。十年前、沖縄で3回のライヴのうち2回行った。そのライブハウスも場所が別の場所に引越したみたい。東京にいるころ浅川マキのライヴを初めて見たのは紀伊国屋の裏にあったときのピットイン。よく通る声にびっくりした。スタイルはいろいろ変えたけどあの生の声だけは全然かわらなかった。
正月は仕事してたから、三箇日過ぎて実家に行くと酒がいっぱいあまってる。缶ビール、日本酒をもらった。休みの日、もらった日本酒まずけりゃ料理に使えばいいやと、呑んでみると結構すすむ。半分残し、泡盛を飲み寝て、翌日昼から日本酒呑んだら一升なくなった。二日で一升日本酒を呑めたことに少し驚く。身体がアルコール三十度以下の酒では満足できなくなっているかもしれない、などと考えているうちにすぐ旧正月がくる。
降りてこない
さて、今月のテーマはなににするか?
いつもは、なんとなく頭の中に浮かんでくるのだが、今月は全く降りてこない。ま、この原稿を書いているのが月の中なので、まだ、頭の中が煮えきっていないせいなのかもしれない。しかし、残念ながら今月は月末に引越しがあって、余裕がないから仕方がない。ということで弱りきっている。ということで、つれづれとなく書き綴ってみよう。
今回、うん十年ぶりに引越し荷物をまとめていて気づいたのだが、思いのほか、CDの枚数が多かった。もっと、本の冊数が多いと思っていたのだが、もしかするとそれに匹敵するほどの枚数があり、封が開いていないものも何十枚も混じっている。本についてはパッケージが開いているから、買うときにぱらぱらとめくって、資料として有効であるとわかれば、置いておくことで記憶の代わりにするのだが、CDに関しては開けて聞かなければ意味がない。だいたい、残りの人生聞いても聞ききれるのかどうかさえも怪しかったりするから困ったものだ。新しい環境に合わせて、聞く環境も新調したいと思うが、どうなるのか?
最近はネットオーディオなるものも出てきて、ナクソスのように、iTuneでなくてもオンラインで音楽を配信するらしいから、聞ける音楽はどんどん増えている。さて、一生にどのくらいの音楽と親しめるのか、人生の競争のような状況になりつつある。まあ、自分で演奏しないからまだまだマシなのかもしれないのだけど。
そうそう、最近では、録音の数が尋常ではないくらいに多く、収拾が取れなくなりそうなので、なるべく、近寄らないようにしていたジャズの分野にとうとう接近してしまった(随分前から聞いてはいるが、コレクションは少なかった)。こうなると、本棚よりもCDラックの方が今後問題になるかもしれない。ま。音楽のない生活には間違ってもならないだろう。
家の打ち合わせをしていて、ペレットストーブなる新兵器を知った。木材を粉砕したものを小さくまとめたもの(ペレット)を燃料にしたストーブで、空気を吹き込んで燃焼させると、薪ストーブとは違って、ほとんど煙や灰が出ないらしい。しかも、燃焼状況が見える(火が見える)のは薪ストーブと一緒で、扱いは石油ファンヒーターに近いことから、市街地で暖炉を置きたいという要求にも対応できるというのが売り文句だ。
石油は過去の植物が堆積したものが高圧力で長い年月をかけて変化したものだから、資源としては枯渇してしまう危険がある。一方で、現在の森林を構成する木材を切って使うというと自然破壊のように聞こえるかもしれないが、日本の現状の森林、その多くが人間が植えた人工林が発育途上のものが多く、その健全な発育を促すための木の間引き(間伐)が必要なのである。ところが、木材価格の低迷で、間伐をしようにも切り出した木材の用途がなくて、売って間伐費用の足しにすらならない状況で、日本の山が荒廃になっている。むしろ切って欲しいが切れない状況がそこにある。まして、自然災害とは言うものの、管理の悪い森林が原因の土砂崩れなどの災害を引き起こしているのだから、問題はいかに国産材を利用するかにある。そういったことを考えると、なるべく、そうした樹木の活用先を考えてやるべきであり、森林由来の燃料は、特に国産材の燃料は、なるほど、よい利用方法だと合点した。なにより、薪は都会では置き場所に困り、灰や煙、火の粉などが心配になるが、ペレットはそうした心配がないのがとてもいい。
本来は、石油消費の代替手段として、都市部での燃料の供給が安定して、メンテナンス体制が確立した上で、導入に対するインセンティブが準備されればもっと普及するだろうと思うのだが、現在は長野県など、寒冷な森林県にそのような体制は限られている。とは言っても、都会で考えるよりも長期に、しかも普及が進んでいるというのが驚きでもある。年何回も信州を行き来する私には、燃料の入手も可能で、とても魅力的なおもちゃなので、秘密で導入してしまおうか?などとも考えている。ところで、昨年末に静岡の山奥の旅館のロビーにあった囲炉裏端でも実感したが、どうも人間は特に寒い時期に火を見ているとうっとりとするように感じる。そうしたのんびりとした時間をすごしたいという側面もあったりもする。そういえば、奥鬼怒温泉郷の最奥のランプの宿の薪ストーブの前はとろとろとしてよかったなあ。
もう40年くらい前、都内の某所(23区内)で、実は薪で風呂を沸かしていた経験がある(銭湯ではない)ので、木の燃える様子にノスタルジーを覚えるのも特別なのかもしれないけれど。
ということで、着々と秘密基地の実現に向けてまい進する毎日である。青空文庫の資料を置いてもびくともしないくらいに広く(内緒だけど)したいと、屋根裏を全部使ったロフト収納だとか、そういった話はまたおいおいということで。
先日、帰宅の際、寄り道をして(といってもいつもどこかによりながら帰るのだけれど)ちょっと先の地下鉄の駅から帰ろうと、ふと駅の入り口の横にある小さな街の書店にふらふらっと立ち寄った。何の気なしに書棚を見ていると、電子書籍のコーナーにボイジャーの荻野さんの本が乗っていた。結構、いろいろなところから聞いたような「電子書籍、初めて物語」が書かれていたが面白そうなので津野海太郎さんの本と一緒に購入した。
世の中は昨年のキンドール、iPad以来、電子書籍ブームということらしい。ブームなどといっても、青空文庫は10何年ずっと書籍の電子化をしているし、それを使って、PCやPDAなどで読む試みはずっとユーザレベルでは続けられてきた。一方で、海の向こうでも書籍の電子化は続いていて、電子、コンピュータ系の学会の雑誌や論文誌などはすでに電子提供であるし、過去の論文の検索参照もインターネット経由でできるようになっている。一方で、アマゾンでも結構前から電子書籍を扱って来ている。要は、日本の出版と電子機器メーカが電子出版というキーワードで、新しい販路があるかもしれないと動き始めたということなのだろう。ただ、今までの流れだと、どこも新しい流れを得られずに尻切れトンボに終わるような気がしてならない。しかし、どうして日本の電子書籍は1冊あたりの料金が高いのだろうか?
魅力的な電子コンテンツであるか、または安価であることが電子書籍で成功する条件のように思う。魅力的でないコンテンツに限って高額だったるするのが日本の電子書籍事情のような気がしている。再販制度に乗っかって、文庫本以上の価格で電子書籍を出しても売れ行きはいまひとつなのではないだろうか? いま、いちばん求められているのは、本を電子化することよりも、刷れば刷っただけお金に換わる再販制度から、売れただけの収入を得られる真の商取引への出版界の脱皮なのではないだろうか?
ということを地下鉄の中で考えた。
変化することは難しい。引っ越し荷物をまとめながら、つくづく、そう思う毎日である。
試練は人を成長させるか
大雪に見舞われている地域の方には申し訳ないが、東京は大晦日以来の乾燥注意報が続く晴天の日々だ。今日も風は冷たいけれど、陽の光のなかに春が混ざっている。次の季節の予感を感じさせる頃というのは、いつの季節でも胸がいっぱいになってしまうものだけれど、もうすぐ春というこの時期は、何かが始まる予感とともに独特のワクワク感をつれてくる。
日曜日の午前8時。国道246に面したファーストキッチンの2階席。道路に面した窓際の特等席で、ノートを広げていそいそと楽しそうに何やら仕事をしている人がいる。日曜日の朝、まだ静かな国道は、さながら浜辺のようで、道路にむかって少しせり出したその席は、海辺のテラスに見たてられなくもない。
洗ったばかりのような静かな朝を眺めながら、娘のことを、つらつら考えている。中学3年生の娘は、もうすぐ高校受験だ。何をしていても受験生という言葉が付きまとう1年間もあとちょっとで終わる。教育熱心な親ではないけれど、それでも、へこたれそうになる折々には、娘を励ましてきた。
12月になって、自分の実力というものも明らかになってくる頃、私立高校の推薦入学に決めてしまうクラスメートが続出した。近年少子化で、私立校の場合、現在の成績を提示して合格を約束してもらうという事もできるのだ。色々とやってみたあげくに不合格になるよりは、確実に安全な策をとった方が賢い選択なのかもしれない。私立校の方が大学受験に向けた指導が行き届いているので、公立校に行って塾に通うよりはかえって経済的ともいえる。2月末まで結果がわからない方法に掛けるのは、ばかなやり方なのかも...。
私立に決めてお正月を迎えている級友をうらやましがる娘に対して、「そういうものじゃないだろう」という根拠のない違和感だけで何と説明していいものやらわからなかった。
そんな時期に、公立校の学校説明会があった。校長の第一声は、「高校は皆さんを待っています」というものだった。入れるならどうぞという態度がオーソドックスななかで、この一言は新鮮だった。そして、「試験の前の日まで、皆さんの実力は伸びます。受験というのは皆さんにとって試練かもしれませんが、試練は人を成長させます。ぜひがんばってください。」というものだった。この時期に受験生が抱えている悩みを良く知っている人の言葉だと思った。
受験は何を子どもにもたらすのだろうか。せめて、いろいろ読んだり、考えたりするのを無駄と思わずに、そういうことに親しむ人になるきっかけになってくれればと思う。日曜日の早朝に、ノートを広げて仕事をしている人を眺めながらそんなことを考えた。
オトメンと指を差されて(32)
前回もふれましたが、私はすやすやと心地よく眠れれば満足なのです。月並みですが、そのためには低反発枕とボディピローは欠かせません。
それにしても、ものすごく浸透しましたね、どちらも。だいたいのところがここ一〇年のことだと思いますが、もう違う枕ではなかなか寝付けなくなってしまって、枕が変わると云々という状況です。しかし今では、エコノミーなホテルでも低反発枕のところがあったり、しかも様々な固さから選べたりもするので、ありがたいばかりです。
それでも出先で居眠りするときなんかには、当たり前のことですが低反発枕などあるわけもなく、自宅外で勉学に励むことが多かった時期などは、居眠りにも快眠をということで、小型の低反発枕を持ち運ぶという奇行(?)に及びさえしました。
大学内のあちこちにある図書館・図書室に出没しては、二時間集中+一〇分仮眠、という組み合わせを一日何セットも繰り返すわけなのですが、低反発枕を持ち運ばないあいだは手枕で、肩が凝ったり腕が痛くなったりしたものです。そこで解決するべく導入されたのがミニサイズの低反発枕、ラグビーボールほどの俵型なのでスポーツ用品向けのバッグにうまく入って、何気なく持ち運ぶことができます。
「それ何?」「枕」「は?」というやりとりは友人間で幾度となくなされましたが、集中しすぎると頭が痛くなったり吐き気がしたりするので(あと息をするのを忘れたりもするので)、短時間の仮眠がなくてはならないのです。集中力を上げすぎて消尽してしまったことによる身体的自爆は、学徒においては気をつけるべき第一のことであります。中学以降、放課まで集中が持続せず午後遅くになると廃人のようにふらふらしていたことはもはや懐かしい思い出ですが、大学生になって自ら時間割をコントロールできるようになってからは、効果的に仮眠を挟めるようになりました。
高校のときも覚醒を偽装しながら仮眠を巧みに織り込んではいて、数学の時間は模範解答のときのみ意識的に起きてあとはスイッチオフ、というわけのわからない技を編み出しましたが、その甲斐あって仮眠による集中のオンオフの切り替えができるようになり、常にフル回転で活動できるようになりました。その結果、大学のあちこちで勉強しては眠る、ということになったわけですが、今にして思うとよく誰にも怒られなかったな、と思います。最終的には普段の活動も含めて明らかな過労になってしまい、反省した現在、持ち運び用の低反発枕は大学のデスクの上に活用されず置かれたままになっています。仕事場でいつでも仮眠できるようになったという変化もありまして。
個人的には、仕事場の折りたたみベッドに低反発マットがほしいな、とTVショッピングを見たりして考えたりするわけですが、快適すぎる仮眠はただの本格的就寝になってしまい眠りすぎてしまうので困りものです。ここにボディピローを加えると、もうどうしようもないですね。眠りすぎて仕事になりません。
抱き枕、などと言ってしまうとサブカルチャーの文脈では、アニメやマンガのキャラを大きくプリントした抱き枕カバーのことになってしまうわけですが、快眠派の私にはなかなか理解しがたいものでもあります。あれは描かれている絵を楽しむのでしょうか。しかし就寝時には電灯を消して目をつむっているわけなので、眠るときに見るというのはなさそうで、じゃあ目をつむったまま妄想するのかと考えてみるものの、だったらカバーなしで想像すればいいじゃないか、と思ってしまうわけで。飾っておくのをよしとするならば、そもそもボディピローである必要がなく、覚醒した状態で抱きしめたり会話したりするとなれば、それは枕じゃなくてぬいぐるみ然としたものなのだな、と推察してみるのですが、いかんせん別の文化であることを感じずにはいられません。近頃では人型の抱きぬいぐるみのようなものがあると聞きます。おそらく就寝時と覚醒時の両用になるのだと思われますが、そこまで行ってしまうとある種の彼岸のようなものなのでしょう。
昔からよく布団を丸めて抱きしめたり、うつ伏せになって枕そのものを抱えたりしていた私にとっては、ボディピローは手と足をどこかに落ち着けるためのものです。寝るための覚悟の現れ、でしょうか。私はもうこれを動かさない、というような。生活しているときは、ペンやキーボードなどを使っていますから、止めるというのは活動をお休みするということなのです。放っておくと、あれこれ考え始めて、何かメモしたくなってしまうので、押さえつけるってことなのですね。
中学〜大学のあいだは睡眠時間が少なかったのですが、今はついつい八時間睡眠をしてしまいます。健康のためでもあるのですが、ちょっともったいない気もしています。
製本かい摘み ましては(63)
ファッションデザイナーの皆川明さんが、綿やカシミア、ウールなどの天然素材の糸の値段が上がっていることを、〈ファッション商品のデフレ傾向の中においては違和感を覚えるほどだ〉と朝日新聞(2011.1.27夕刊)に書いている。カシミアなどは昨夏の猛暑でカシミヤヤギがずいぶん死んでしまったそうで、加えてヤギの飼育者が減ったこと、また経済の隅々にわたる中国の台頭で日本のファッション業界がよい材料を確保しにくくなっており、〈ものをつくる上で、材料がなくては、ことは始まらない〉というのだ。確かに巷では年々季節を先取りして洋服のセールが行われるようになっているし、あるいは会員限定とか顧客限定とか曖昧なくくりで集められた大勢で特別目当ての服もなくとにかく値引きされたものを物色することが増え、少しでも安く買って当たり前の気分でいる。安いにこしたことはないし服に贅沢の趣味もないけれど、体になじんだ質のいい服をまとうひととすれ違えば、どこかの街角の小さな洋服屋のウィンドウでそんな服に出会って衝動買いしてみたいと思うのだ。
鬼海弘雄さんの新刊写真集『アナトリア』(クレヴィス)は、1994年から15年の間に6度、秋から冬にかけて訪れたアナトリア大地(トルコ)で撮影した140点がおさめられている。「貰った背広を着る少年」と題された写真には、2人のおそらく兄弟が煙草をくわえて誇らし気に背広姿をみせているが、何度も見るうちに彼らの後ろにたたずむ馬がほどよく草を食む姿が気になってきて、誇らし気に見えていた彼らの表情が実はいつまでたってもシャッターをきらない外国人の写真家に「まだ?」という倦んだ気持ちを身体いっぱいに表現しているのではないかと見えてくるからおもしろい。ともかくも鬼海さんがおっしゃる〈美しい顔〉をした人々はみな体になじんだ服を着ていて、おそらくそれは大切に着ているということなのだろう。
『アナトリア』は大きい。縦295×横302ミリ、156ページの函入り上製本で、装丁は間村俊一さん。刊行にあたってスライドを見せながらのトークショーが何度かあった。1994年から続けてきた撮影にくぎりをつけたきっかけのひとつとして、訪ね歩いてきた地域がここ5年くらいで物価が高騰し、〈幸せのかたちが金によって明示され〉、町も人々も変わってきたことをあげていた。パンでもなんでも、日常的に物を作る人がたくさんいる土地は個性があっていい、雑木林のようにそれぞれあればいいのであって、〈いつもなにかと比べていなければならないのはあやうい世界だ〉とも言った。この写真集は9,450円。本の値段としては「高い」と言っていいだろう。だがそもそも、割にあった値段などつけられるはずがない。鬼海さんはこんなようなことを言った、とにかく何度も見て欲しい、引越のときもあぁこれは奮発して買ったから捨てずに置こうと思って欲しい、と。
はじめにひいた皆川さんのエッセイはこんなふうに終わる。〈つくられた背景に人の思いが及ばなくなると、使う人は物を尊ばなくなる。...(略)...もう一度、人の手と気持ちを込めて物をつくる場と、物を大切にする生活のサイクルを取り戻したい。間に合わないかもしれないが、あきらめたくない。〉皆川さんのブランド「ミナ・ペルホネン」のシーズンごとのカタログ「紋黄蝶」も毎回つくりが丁寧で美しく楽しい。2011春夏はデザインに須山悠里さんを迎え、右へ左へとページを交互に開いていく造本だった。開ききったらまた逆に、左、右、左、右と閉じねばならない。ちょっとメンドウ......と思いつつ、〈あきらめたくない〉思いを受けとる。
アジアのごは ん(37)鉄分たっぷり・ほうれん草鍋
いやあ、更年期というのはなかなかです。
人によって違うのだが、なかには気付かぬうちに終わった、という人もいる。うらやましい。更年期障害の症状がいろいろ出始めたのは去年の初め。春から夏にかけてヒステリーや虚無感に悩まされたのを、なんとかタイの薬草ガオクルアでしのいだと思ったら、今度は年末から生理で大量出血。死ぬかと思いました。
ふた月も生理がこないな〜もしや密やかに閉経したのかと思っていたら、いきなり豚のレバーみたいな(すいませんスプラッタな話で)血のかたまりが出て、貧血で倒れそうになった。その後も血と一緒に鶏のレバーぐらいの固まりが二日ほど出て、収束。その三日間は夜もほとんど寝られず、タンポンも役立たず、ふらふらと気配を感じるとトイレに。しかも大寒波でさむいと三重苦・・。
その後、五日間ほど出血がなく過ぎたので、ほっとしているとまた始まった。さすがに今度は豚ではなく鶏肝サイズでやや小さくなっているが、また血の固まりが出る。一週間ほど、また安眠できない日が続く。貧血で顔は真っ白、腕は細くなり、やつれ顔。こういう大量出血は更年期のひとつの症状であるらしいが、いったいいつまで続くのか? このままでは出血多量でやせ衰えて死ぬんじゃないのか・・。
いろいろ調べていると、固まりが出るのは子宮筋腫の疑いがあるとか。でも西洋医学の治療法は造血剤や鉄剤の投与で様子見、ひどいものは手術とかホルモン治療とかであるという。すごく身体に悪そうな治療法。閉経になるとなくなるものではあるらしい。しかし筋腫というのは、良性の腫瘍なのであまり気にすることはなさそうだ。とにかくストレスが一番良くないとのこと。漢方治療とか、生活改善などで直せるという情報もある。
考えたら、この大量出血が不安で、ものすごくストレスを自分で自分に与えている。これはいかん。最近、おざなりになっていた「ゆる体操」を初心に帰って再開する。気持ちいい〜〜とか、ふわ〜〜とか言いながら身体をゆるゆるとゆるめ、揺らす。おなかをなでていると、なんだか子宮が愛おしくなって「よしよし、長いことごくろうさん(使ってないけど)、ありがとう」という気になった。気分がとてもすっきりする。
次の日から固まりが出なくなり、ひと安心。しかし液体の血は出続ける。でも固まりではないので、タンポンが使えるし、いろいろ新発売のナプキンを試して高性能のものを見つけたので、なんとか外出も出来るようになった。貧血もほとんどなくなった。はあ〜。
そしてやっとほぼ終わったと思われる今日で、ほぼ三週間も生理の出血が続いたことになる。な、ながかった。三歳年上の姉が数年前に、生理がなかなか終わらないとこぼしていたのを覚えていたので、そういうものなのかと少し心構えが出来ていてよかった。
これだけ血が出たので、鉄分を補給しなくては。ちょうど、引き売りの有機八百屋さんにおいしそうなほうれん草がたくさんあった。そうだ、簡単で身体も心もあったまるほうれん草の鍋にしよう。この料理は、むかし愛知県の常滑の友達の家に居候しているとき、陶器を焼いているテッペイから教えてもらったものだ。「みじん切りというのはねえ・・こういうのをいうの。君のはザク切りだよ」と怒られたっけ。まだろくに料理が作れなかった頃だ。テッペイが韓国に行ったときに向こうの家庭でごちそうになったものをアレンジしたものらしい。
<焼物師テッペイのたぶん韓国風なほうれん草鍋の作り方>
材料は、ほうれん草2束〜好きなだけ、えのきだけ、豚肉薄切り しょうが にんにく。
鍋に昆布を入れてダシをとる。しょうがとにんにくを2〜3かけずつみじんに刻む。ほうれん草はよく洗って、大きいのは2つに切る。鍋のダシが煮えたらしょうがとにんにくをいれ、醤油で味をつけ少し煮る。ほうれん草とえのき、豚肉を入れて火が通ったら、黒胡椒の荒挽きをたっぷりかける。好みでトウガラシ、すだちやかぼすなどを絞るとさらにいい。
ええ、こんなに?というほどしょうがとにんにくを入れるとおいしい。あくまで極細かいみじん切りね。醤油はダシ醤油でもいい。豚肉はしゃぶしゃぶ用ロース肉が一番だが、まあ薄切りなら何でも。あっという間に火が通るので、お箸とお碗を用意してスタンバイしてから具を入れましょう。煮えたらすぐに食べること。醤油の代わりにナムプラーでもおいしいかと。
ほうれん草の赤い根っこの部分は甘くておいしい。でも砂が隠れていて、うまく取り除けていないと、まさに砂をかむ思いだ。水上勉の「土を喰う日々」(新潮文庫)には、沢山の料理と料理の心を教えてもらったが、この本の中に著者が等持院での小僧時代に水が冷たくて洗うのが大変なので、ほうれん草の根もとの部分を切って捨てていたら、和尚に「いちばん、うまいとこを捨ててしもたらあかんがな」と諭される話が出てくる。
疲れているときには、つい長めに根元を切って、捨ててしまうときもある。あるとき、近所のおからはうすという自然食の店をやっている手塚さんが、「こういうのはねえ、切ってお水に浸しとくと、勝手に出て行くねんで」と教えてくれた。根元のところを切り離し、半分に切って、水に放しておくと、土は水に溶け、砂は下に落ちる。念のため、料理の前にさっと洗うのも根元が開いていて洗いやすい。
すごく簡単な技なのだが、こういう料理上の細かいワザと言うのはじっさいに日々料理していないとなかなか分からない。日々料理していても、頭が固いとなかなか分からない。たとえば、鍋にこびりついたご飯の粒をむりやり洗い落とそうとしても大変だが、水を張ってしばらくおいておけば、するりと落ちる、みたいな。
家庭で親から子へと自然に伝えられることなのだろうが、高校は地元に行かず家を出て賄いつきの下宿生活だったので、家でほとんど料理を手伝うことがなかった。そのまま家は出てしまったし、大人になっても仕事が忙しくてあまり料理はしなかった。料理に真面目に取り組んだのは、新聞社をやめてアジアの旅に出て、タイに住んだりした後のことである。ふらふらしていたのでビンボーだったけれど、おいしいものは食べたい。すると自分でいろいろ作って、精進することになる。友達にごちそうになるときは手伝って教えてもらう。そうやって料理を覚えてきた。
疲れているときや、元気のないときにはほうれん草の根っこをざっくり捨ててもかまわないと思う。土に返したり燃やしたりして、またいつかどこかで地球の上を回りまわっていくだろう。大量に血を流した後、なんだか心がすっきりしているのに気がついた。細かいこともどうでもいいような気がする。もう人生の後半(終盤?)に差し掛かったことを子宮が教えてくれたのかな。でも、ほうれん草鍋のしょうが・にんにくみじん切りは細かく細かく・・なるべくね。
beyond
呼び出し音がくりかえし鳴っている
きみの手のなかにある受話器のむこうで
雪が走る
走る音が聞こえる
いつものように、しばし沈黙の後に
「はい」と声が聞こえることはなく
ぶあつく積もった雪面を
撫でるように雪が走る
手がふさがっていて
受話器を持ちあげることができないのか
みると雪は空からではなく
きみが息をしている
地表数メートルの記憶の面を
ざっくりとえぐり、走り
力がなくなって持ちあげることができないのか
たまたまそこにいないのか
あるいは、もうそこにいないのか
それとも、あっちへ行こうとしているのか
受話器を握りしめるきみはあれこれ考えをめぐらす
落葉樹の裸の幹をたたき
枝をあおる雪煙のなかに
オーバーの襟をつかんでうつむく人の姿にむかって
きみは受話器をいったん置き
それからリダイヤルするが
いっこうに受話器がはずれる気配はなく
吹きつける半透明の幕をからりと払い
姿が音となってあらわれることはなく
ただ呼び出し音が聞こえ
烈しく雪の走る音だけが聞こえ
手のなかで汗ばむ受話器を
きみは静かに握りしめる
しもた屋之噺(110)
こちらにいると元旦は普通の休日程度の印象で、朝食の後は早速庭の落ち葉掻きをして汗をかきました。家人が元旦の夕方に東京から戻ってきたので、我が家の今年初のお雑煮はお屠蘇と共にに正月二日の朝食に並びました。尤もこれは雑煮とは言葉ばかりの、湯河原の父方の家に長らく伝わる、出汁に大根のみたっぷり入ったあっさりした大根汁で、香り高い貴重なハンバ海苔を振りかけて食べるのが本来の流儀です。ミラノでは海海苔で代用しましたが、それでも一寸した正月気分を味わうには十分過ぎるほどでした。
さて今週は、5歳の息子が通う幼稚園に併設された、ミラノ市立の小学校へ入学手続きにでかけました。手続きにやってきた周りの親も外国人の割合がとても多く、先日の説明懇談会でも、イタリア人の父兄から外国人が多くて国語が遅くならないか不安だと意見が述べられていました。
懇談会では、ファシズムの時代に建てられた数少ない歴史ある小学校で、食料難のために当時は校庭に畑を作って野菜を育てていたとか、概観もどっしりした典型的ファシズム建築で、とりわけ高い天井と高さ2メートルはあろうかと思われる窓は、ペニシリンが普及していなかった当時、ジフテリア対策として太陽光線をあてていたためだとか、「健全な精神は健全な肉体に宿る」を度々引用していたムッソリーニの政策で、当時としては斬新な、学校内に立派なプールまで誂えられて、現在も使用されていることなどを女性の校長先生が誇らしげに話しました。
同じ通りの数ブロック先には、無償の公立に反し格段に高い古くからあるミッション系の私立小学校もあって、登下校時には身なりのよいイタリア人ばかりが道に溢れかえります。日本人の知り合いなどからはそちらを勧められましたが、周りのイタリア人から先の公立小学校の評判も聞いていたし、幼稚園の同級生や先輩もみなそこで学んでいて、結局公立に決めたのでした。生活レヴェルの違いにかかわらず公立小学校に子供を通わせるイタリア人に共通する、「今も昔も学業は公立でしっかり学ぶべき」という信念の清清しさにも心を動かされました。
公立幼稚園に入学の折にも、イタリア語も儘ならない外人ばかりの市立なんて止めなさいと言われることもありましたが、同じように当時イタリア語が苦手だった息子も3年間とても良い時間を過ごして親として満足しているので、学校より結局は良い先生と出会うかに掛かっているのでしょう。家に帰ってきて、同級生の何某はスペイン語が話せるとかアラビア語が上手だとか聞くと、羨ましい気もします。
さて、その幼稚園に通いだして2年目くらいから、随分長い抑揚ある詩を皆で暗記させられていて、フィラストロッカと呼ばれていました。こちらでは暗記をすることが勉強ですから、小学校にゆく予行練習かくらいに考えていて、今回のフィラストロッカは随分滑舌もよく進歩したなあなどとぼんやり思って特に気にもとめていませんでしたら、ひょんな処からフィラストロッカに出くわしたのです。
ここ暫くレスピーギの「ローマの松」の日本版スコアのための解説を書いているのですが、冒頭のボルゲーぜ公園の松で使われている旋律こそ、フィラストロッカでした。「ドレ夫人」は、本来輪になってぐるぐる回りながら「あの子が欲しいこの子が欲しい」とやってゆく、「かごめかごめ」と「花いちもんめ」を併せたような遊びで、我々の世代が子供の頃までは遊ばないまでも良く歌われていたそうですし、レスピーギの楽譜の註釈に出てくる「ジロトンド(ぐるぐるぽん、というような語感でしょう)」
もやはりフィラストロッカと呼ばれていて、息子が近所のおばさんに最初に教わった遊びでした。今でも誰でもやっています。要は旋律があってもなくても、歌詞が口を付いて出てくるわらべ歌のようなものなのでしょう。
この作品を話すときに、当時の時代背景についてどの程度触れるべきか悩んでいます。個人的にはファシズムとこの作品を繋げるのは大袈裟だと思うけれど、黒シャツ隊のローマ進軍ののちファシスト党単独政権誕生した年に、政府の趣旨に等しく、古代ローマ軍の進軍ラッパを高らかに吹き鳴らしアッピア街道からカンピドリオを目指して無数の兵士が勇壮に行進する姿を描いていれば、当初の作曲者の意図がどうであれ、戦争の記憶を持つ人々の中にはこの作品に対して嫌悪感を持つ人がいても仕方のないことかも知れません。
今でも街角で何も考えず気軽に手を上げて挨拶をして、黒シャツ隊のような挨拶をするなと声を荒げられたことは何度もあります。先の息子の小学校の例に限らず、ミラノの中央駅のようにファシズム建築の多くは政治と無関係に市民に愛されているし、ムッソリーニの全てを悪だとは思っていない人が沢山いるのも事実です。人それぞれ戦争に対しての感じ方は違うのは、自分や周りの人々が培ってきた人生がそれぞれ違うのと同じで仕方がないこと。そんな前提を念頭に、客観的なレスピーギ像を恣意的にならずに伝えるため、本当に自分が書くべきことは何か、もう少し頭を整理する必要がありそうです。
政治と音楽の関わりでふと頭に浮かんだのは、日本でもよく知られるようになったベネズエラの音楽教育「エル・システマ」のこと。イタリアでは、クラウディオ・アッバードが直接指導に関わったりして、広く知られるようになりました。思いかえせば初めてベネズエラの音楽家と知り合ったのは、長らくアムステルダムのニーウ・アンサンブルでヴァイオリンを弾いていたアンヘルに会ったときのことだったでしょうか。
真面目で正確で情熱に溢れた演奏は魅力的でした。「自分の国は本当に貧しくて、アムステルダムが自分の肌にあっているわけではないが戻りたくない」、と少し寂しそうに話してくれたのを覚えています。自分の親も音楽家だったと聞いたかも知れません。
年末にペルーのリマからギターの笹久保さんがミラノを訪ねてくれたとき、ペルーの貧困や治安の悪さについても随分話しました。リマの歴史的中心街がシンナー袋をくわえた浮浪児や麻薬中毒者の巣窟となって、治安が悪化している様子を伝えるニュースなどを見ると、荒廃した中心街の姿は想像を絶するものでした。
一見華々しく報道されるベネズエラの音楽教育も、一歩間違えばこうした貧困層の泥沼にはまり込んでいたかも知れない若者のためだと思うと、より尊く感じられます。「エル・システマ」に参加する若者がインタビューで、「音楽は自分の人生そのものです」と語っていたけれど、その言葉の意味の深さを、我々部外者など気軽に理解することは出来ない気がします。
そんな話になったのは、その前日笹久保さんが画廊で開いたアンデス音楽の演奏会に、古くからの友人が連れてきていたペルー人の姉弟2人の養子の姿が、目に焼きついて離れなかったからです。明らかにアンデス人と思しき中学生と小学生の姉弟は、友人に寄り添いながら、どんな思いで郷里の音楽を聴いていたのでしょうか。
彼らもイタリアに来て8年ほど経ちましたが、当時友人が彼らについて色々と教えてくれたことが頭を過ぎります。姉弟は幼いときに親から捨てられて孤児院で育てられたが、周りの孤児たちが次々に訪れた欧米人に貰われてゆくなか、彼らだけが姉弟ということで受入れ先が見つからないまま暮らしてきて、人間不信が取分け激しかったといいます。
当初はただ理由もなく泣くばかりで取りつく島もない、どうして良いかわからない、と訴えるようなメールが届いたこともあります。彼らをイタリアに連れ帰って精神的に落着いてくると、今度は極端な赤ちゃん帰りにあって、同時にスペイン語とスペイン語を話す人全てに対する極度の拒否反応が現れました。スペイン語が分からないふりをして、スペイン語で話しかけられても無視したり、スペイン語を話す人を蔑んで見せたりしていました。
「ペルーの孤児院は劣悪な環境だから、考えられないような人生を歩んできたのでしょう」。
笹久保さんは目の前で弾きながら心が痛んで、夢にまで見てしまったと話していました。姉弟を連れてきた友人の気持ちも測りきれませんが、恐らく全てを分かっていたと思うのです。
ミラノ滞在中、笹久保さんがミラノのペルー領事館から招待を受けたので、住所を確認しようとインターネットサイトを開くと、サイトの一面の領事館の業務内容一覧には「養子縁組」と明記されていて、ペルーがどれだけ貧しいかを力説していた笹久保さんも、流石に肩を落としていました。国家が養子縁組を推奨しなければならない程の資金難に喘ぎ、親の居ない子供が余っていることは紛れもない事実であって、養子縁組の費用がどれだけ高いかも耳にしていましたから、裕福なイタリア人が貧しいペルー人を養子に迎える構図を、素晴らしいと手放しに褒めちぎる周りの社会に溶け込め切れない自分の温度差を、薄く感じたりもするのです。
子供たちが最終的に幸せになることは理解できるのだけれど、これが宗教観の壁なのか、恐らく一生完全には欧米社会に属することもなく生きてゆく自分にとっては、どこかやるせない気持ちも残ると言うと、分かります、と笹久保さんも頷きました。そんなことを書いていると思いがけなくリマからメールが届き、或いは以心伝心だったのかも知れません。先日の彼の演奏会の様子はUstreamから現在でも見られます。
ここまで書いて今朝学校の授業に出掛けると、車のラジオからインタビューを受けるウート・ウーギの声が流れてきました。「音楽には国境がありません。ローマでも東京でもニューヨークでも、言葉や文化の違いを通り越して、音楽を通してなら誰とでも自由に直接交流できる、そんな素晴らしい、恐らく唯一の芸術手段なんです」。
「どんな小さなことでも、どんな音楽でもいいけれど、いつかペルーでも"エル・システマ"のように、音楽を通して人々が繋がることが出来たらいいのだけれど」。
笹久保さんが何となしに呟いた言葉を、ふと思い返していました。
掠れ書き 9(カフカのことばを歌う)
36の断片のうち11片はうたわれるので、メロディーだけを先に書く。原文のドイツ語と日本語訳文をみながら、まずドイツ語を歌にして、それを日本語によって修正する、ドイツ語でも日本語でもない歌の姿があらわれてくるように。単語のリズムや抑揚をメロディーにするよりは、フレーズ全体が指し示す方向と、一つのフレーズから次のものへすこしずつ移り変わっていくような音の運動をつくりだす、ことばの身振りが声の身振りになるように。だれが歌ってもいいように、オクターブよりすこし広い地声の音域の範囲内で、3種類の音の長さ、短い(16分音符)、長い(2分音符)、その中間(8分音符)、3種類の中断、コンマ、フェルマータ(停止)、中間休止の記譜に限定する。歌われるシラブルと語られるシラブルを混ぜようと思ったが、それを指定すると複雑になり、指示されたことにしたがうだけで、指示にはとどかない、したがう時間の遅れがだんだん大きくなる、軌道から外れて取り残されるのではないか、そう考えると、指示が指示それ自体に先立つ瞬間へと、時間の縫い目のほころびからさまよい出して、方向のない空間をうごきまわれるような示唆としてはたらくようにならなければ、「そこへ行け」「あれをやれ」というような指示を、いくらか遅れて不器用に反復するだけで、たとえば階段をのぼっていて、あるべき距離に次の段がなかったり、予期しない凹凸や敷石の継ぎ目のずれでつまずきそうになる、そういった細部に注意を向けるような指示でもないかぎり、だれのものでもない、どこから来るのかわからない声という、自動的行為の出現をさまたげるのではないか、と思ってもいた。メロディーを歌うのでもなく、節をつけて語るのでもなく、自分を歌いあげない、相手に直接語りかけない、陶酔や説得の熱気を離れて、何もない空間に眼をそらしながら、夢を見ている時のように、自分の喉から自分でないだれかの声がきこえてくるのを聞いていて、それをどうすることもできない感じ、自由間接話法、隠された意図を持たない引用、思いつきが止める間もなくそのまま口を衝いて出て、しかも抑制された調子で、壁の向こうで話されていることを繰り返しているような。
歌のメロディーを書いてしまった後で、最初の断片にもどり、楽器のパートを書きはじめる。思いついた音から書きはじめ、その音についていく。こんなふうに音楽を作るようになったのはいつからだろう。以前はシステムがあった。材料をそろえ、可能な組み合わせを書き出し、全体の構成や、そのなかでの要素の配分や変化を決める方法があった。20世紀後半の音楽は、音列技法はもちろん、さまざまな技法を使い、どんなに前衛的にみえようと、全体の統一をめざす限り、ドイツ・オーストリア的な一元論や普遍主義から離れられなかった。偶然性でさえも管理され、全体の構図の枠のなかに収まっていた。調性音楽の文法はなくても、メロディーと伴奏、低音の支えがあれば、和声的構造が機能しつづけている。音程が自由になっても、リズムの規則性がはたらいて、そういう音楽を古典のカリカチュアかパロディーのように思わせる。
思いついた音からはじめても、そこから思うままにうごかしていくのではなく、思うままにならない音を追って曲がり、先の見えないままにすすむのは、即興とどこがちがうだろうか。作品のもつ完結性やスタイルが排除しているのはなんだろう。書かれた作品は「この音を弾き、次にこの音が続く」という指示でも、それを書いているときには指示ではなく、流れに追いついていくなかで起こることを見ているだけ。発見があるのは、予期しないことが起こる時だから。
『もしインディアンだったら、すぐしたくして、走る馬の上、空中斜めに、震える大地の上でさらに細かく震えながら、拍車を捨て、拍車はないから、手綱を投げ捨て、手綱もなかった、目の前のひらたく刈り取った荒地も見えず、馬の首も頭もなくなって。』(カフカ『インディアンになる望み』)
ことばを書けば、それが存在しはじめる、ただしこの世界のなかではなく、どこともしれない文学空間のひろがりのなかで。書きすすめるにつれて、人の姿が現れてくる、走っている馬に飛び乗って、身をのりだしている、だがもう走りだしてしまった後だから、拍車や手綱は着けられない、震える大地は感じられても、目の前の風景はあとから作れない、首も頭もない馬の走りだけがある。
einfallenは「起こる」こと、字義通りなら、落ちてくること。落ちてくることばに突き飛ばされて、思ってもいない方向に走りだす。そこで別なことばにぶつかり、方向が変わる。さらにその跡をなぞる(nachziehen)と、「生活の輪郭がはっきりして」道が見えてくるのだろう、降りかかってくる障害を避けて曲がる角が濃くなぞられて。