「先週はどのように過ごしましたか?」と人にきかれたら、スケジュール表を見ながら、それでもあれこれ考え込んでしまう。すでに忘れたこと多し。ところが大昔のこととなると不気味なくらいよくおぼえている。見たこと聞いたことはかなり細部まで具体的に、話した言葉も聞いた声も人の表情までもかなり鮮明に覚えている。さらに部屋の匂いも、絨毯の感触も、夕暮れの色も。記憶は五感に浸透して、体が昔のことを現在にまで伝えてくれる。
昔話を好むのは年をとった証拠かもしれない。でも年をとれて良かったな、って思うときもある。若い人たちは顔も体も美しく将来の可能性も大きいけど、その年令を羨ましいとはほとんど思わない。昔を回想できる年令になって、かえってほっとする時すらある。
3月というのは私にとって一年の節目のような月だが、今からちょうど35年前の1970年3月、当時中学一年生だった私は、南ドイツのトロッシンゲンという町にアコーディオンの専門学校があると聞き、何が何でもそこへ行きたいと両親に頼んで、毎年3月に行われるイースター講習会に参加しました。それは生まれて初めての一人旅かつ海外旅行で、私は母が作ってくれた日英両国語カードを首から数枚ぶらさげ、重いアコーディオンを軽そうに左肩にかけ、新しく買ってもらった水色のトランクを右手に、赤い帽子、赤いコート、白のハイソックスにミニスカートという、今思えばカーニバルでも出るような格好で期待に胸を膨らませ、見送りに来ていた両親と兄に手を振りながら颯爽と日本を飛び立ったのでした。飛行機のエンジン音が急に大きくなり、機体が宙に浮きはじめた瞬間は感動で震えました。
尚、チケットを購入した両親は、少なくとも往復のフライトは一人ではないようにと、ある団体旅行グループの中に娘を参加させ、まわりの皆さんは私の存在を不思議に思いながらも、いろいろと親切に面倒みてくださいました。しかし南回りの旅は想像を遥かに超える長さ、バンコックあたりから気分が悪くなり、カルカッタ、カラチでは、もう吐くものもないくらい食べたものは全て吐き出し、ローマ経由でフランクフルトに着いたときは、すでに廃人同様にフラフラでした。でも空港の出迎え、中央駅、そして汽車へのケアはパーフェクトに準備されていて、何とか生きて目的地、トロッシンゲンにたどり着きました。それはほんとうに長い長い旅でした。
それからの一週間は夢のようでした。左手も単音システムのフリーベース・アコーディオンを器用に操りながら若い奏者たちが弾くバッハやスカルラッティはほんとうに美しく、私は日本へ帰る気をすでにこの時なくしていました。大体、あのフライトがもう沢山。あんな地獄のような思いはもう二度としたくない。それに苦労して帰国したところで、あえて日本で勉強したいことが、もうありませんでした。でも学長さんや周りの人たちから「義務教育は終えること、そしてドイツ語が出来なければ、ここの音楽学校には入れません」と厳しく言われ、「なるほど、そういうことか〜」と納得しました。講習会の閉会式では、一番遠いところから来た、という理由で表彰状と南ドイツ名物のカッコウ時計をいただきました。新聞に載った写真には、絣の着物を意外とちゃんと着たおかっぱ頭の小さな私がうつっています。
さて、帰りはトロッシンゲンから汽車でチューリッヒまで行き、そこから飛行機でパリへ飛び、パリのホテル・アンバサドールで再び団体旅行グループと合流することになっていました。ところがその連絡を取るときになって、ドイツ国内の通信機関が全てストライキに入り、電話もテレックスも通じない、どうしても誰とも連絡がとれないのです。仕方がないので学校の運転手さんがロットワイルという駅からスイスへむかう国際列車に乗せてくれて、一人チューリッヒまで行きました。でもこれが思いのほかおそろしかった。いつチューリッヒに着くのかわからないし、そこがどんな駅かもわからない。汽車が止まるたびにホームに降りて「チューリッヒ?」と誰かに聞く。何度目かに「チューリッヒ?」と聞いて「ヤー!」と言われたので、大急ぎで荷物を持って降りました。そのとき小指をドアにはさんで爪が剥がれ、興奮しているので痛みは感じなかったけれど、見ると血が流れ出ている。血を見た途端に涙がポロポロ出てきた。痛くはなかったが、限りなく心細かった。近くにいた車掌さんに血の出る指を見せたら、陽気な声で笑顔がかえってきた。「あ〜、メソメソしないで、頑張りなさい!」ということだ、と気持ちを取り直し、重い荷物を持って駅の出口の方へ行った。
しかし今度は空港への行き方がわからない。しばらく駅前をうろうろしていたら、飛行機の絵が書いてあるバスが来た。多分空港行なのだろうとそこへ進むと、停留所に見るからに優しいそうな若い女性がいたので、彼女に私の航空券とパスポートを見せると、何だかひどくびっくりして、いろいろ話しかけてきた。全然わからないけど「大丈夫!」と言われているような気がした。彼女はバスの中で私の隣に座ってくれて、空港に着くと、すぐに私をスイス航空のオフィスに連れゆき、そこで機関銃のように喋りまくった。その結果、私はある部屋に拘置され「絶対にここから動かないように!」とスイス航空スタッフから言われた。実はその時、ものすごくトイレに行きたかったのだが、絶対に動いてはいけないので、我慢してそこに座っていた。この部屋には他にも数人いたが、身体障害者、知能の遅れた人、車椅子の老人、そして小さな子供が2人いた。
そして何とか無事13:45発のパリ行きエールフランス683機に乗った私は、一刻も早くトイレに行きたかったのですが、離陸後すぐにフランスへの入国審査書が配られました。もちろんチンプンカンプン全然わからない。「困ったな〜」と思っていたら、後ろから何と日本語が聞こえてくるのです。そこでおそるそる「すみません、この書類の書き方、おしえていただけますか?」と聞きました。それは若い日本人のご夫婦で、初めはかなり驚いていらっしゃいましたけど、男性の方が全部書き込んでくださいました。当時私は13歳でしたが、体は細く背は低く非常に小さかったので、このご夫婦は私の一人旅を信じられないといった様子。
「パリの出迎えは大丈夫ですね?」(男性)
「ドイツの通信機関がストライキをしていたそうで連絡がつきませんでした。出迎えはないと思います」(美江)
「それは大変だ!着いたらすぐにJALのカウンターに行って、誰か面倒みてくれる人を探しましょう」(男性)
「はい……」(美江)
「とにかく僕たちから離れないように」(男性)
「はい……」(美江) 〔あ〜、これでまたトイレに行けない〕
それからパリのオルリー空港に着くまで、このご夫婦は
「どうしてたった一人で?」
「何が目的で?」
といろいろ聞いてくれました。そしてパリに着いたらすぐにJALカウンターに行き、いろいろと交渉してくれて、気がついたら私だけタクシーに乗っていました。そして私は無事ホテル・アンバサドールに着きました。
尚、この御夫婦はパリで乗りついで、どこか他の地へ飛ばれたはずです。ご主人がヨーロッパ勤務を終えられて、世界旅行をしながら日本へ帰ると申されました。お名前、ご住所を聞く余裕が全くなかったのが何とも遺憾で、35年経った今、「もしあの時、あの飛行機の中に、あの御夫婦がいらっしゃらなかったら……」と思うのです。
私がクラシック・アコーディオン奏者になることを決めたのが、この1970年3月でした。でもあのチューリッヒ→パリの旅は、まさに宙に浮いた時間で、13歳の私は不安と恐ろしさ、そして小指の怪我、さらにトイレにいきたさで、もう死にそうでした。あの御夫婦にめぐりあわなかったら、「人生そんな甘いものじゃない、もうこんな無茶な冒険は二度としないように!」と自分を戒めていたにちがいありません。そして帰国後は日本の高校へ大学へと進み、まったく違った人生を歩んでいたことでしょう。
その2年後の1972年秋、私はドイツへ留学しました。そしてクラシック・アコーディオン奏者になりました。しかし、もしあの御夫婦に助けていただけなかったら、私の人生は全く違う方向へ向かっていたような気もして、一度「ありがとうございました」を言えたらな〜とこの頃、よく思うのです。心の中では何百回と言ってきた「ありがとうございございました」を声に出して。ご年令は現在、60〜70歳くらいでしょうか……。1970年3月27日(当日の天気は晴れ)チューリッヒ発13時45分、エールフランス468便で13歳の日本人の女の子を助けてくださったご夫婦です。『水牛』を読んでいらしたら……と願いながら書かせていただきました。どうかお目にかかれますように……。
この日は私の人生で一番長かった日、かもしれません。
(2005年3月27日東京にて)