しもた屋之噺(40)

杉山洋一

時間がものすごい勢いで目の前を走り抜けてゆくように感じる瞬間があります。新幹線のホームに立っているようなもので、遠くから新幹線が近づいてくるのを眺めていながら、自分の目の前を通り過ぎるときは、ものすごい風圧に倒れそうになりながら踏ん張っていて、ふと見ると、もう大分遠くへ通り過ぎていたりするのです。

家人の身体の変調に気づいたのが昨年の7月末。8月東京に戻り、早速医者にかかり妊娠を確認し、初めてエコグラフィーで子供が動いているのを見たときは、理由もなくへなへなと身体の力が抜けてしまいました。あれから時間が過ぎ、長男がミラノで生まれたのが一週間前。階下で、猫の甘え声とも、いるかの鳴き声ともつかぬ声を立て、顔を真赤に染めあげて、小さな腕を振り回しています。

この世に暮らし始めて一週間、というのは一体どんなものでしょう。想像するだけで気が遠くなるような、とてつもない旅をするようなものではないでしょうか。引っ越して一週間というのとは訳が違うはずで、一週間前までまだ他の人間すら見たことがなかった人、というのは、なかなか凄いことだと思うのです。

案外、ずっと子宮でじっとしていたわけでもなくて、次元の波を乗り越えて、どこか見ず知らずの場所に時々ふっとワープしたりして、頃合を見計らっては戻ってきていたのかも知れないし、真面目くさって、ひたすらじっと耳を澄ましていたのかも知れません。何れにせよ、いくらゴボゴボいう羊水の雑音の向こうで、外の世界をうっすらと思い描いていたにしろ、想像していた代物とは似ていなかったに違いありません。

この寝顔を眺めていると、赤ん坊が長い間天使のモデルになったのは、可愛さだけではないと感じることがあります。今まで、数え切れない世界中人びとが、誰も彼らがどこから来るのか知りたくて、思わず空を仰いだに違いありません。教会の巨大なクーポラ一面を空に見立て、人々が天使を舞い降りるように描き始めたのは、もう大分昔の話です。時間は静かに過ぎてゆくような気がしているけれど、実はその時間の中をものすごいエネルギーで泳ぎまわって、赤ん坊が生まれてくるのかもしれません。こちらが時間のとてつもない風圧になぎ倒されそうになっているとき、世の中の赤ん坊たちは、案外その飛沫にのって波乗りでもしているのかも知れないのです。

そうでなければ、世界に飛び出してまだ一週間も経たないのに、あれだけしっかり生きる度胸はすわりっこないさ、自分がよほど気が弱いのか、そんな薄い畏怖すら覚えるのです。
言葉もしゃべれない、ご飯だって満足に食べられない、動く事すらままならない、そんな状況で自分が全く違う環境に放り出されたら、一体どうしてあれだけ堂々と生きてゆけるものかと、思わず自問自答してしまいます。それどころか、与えられた同じ一週間という時間のなかで、この子供と自分と、一体どちらが人を喜ばせて、笑顔をもたらす事ができたかと思えば、あそこで有りっ丈の声を張り上げ泣いている子供が、とんでもない生命体に見えてくるから不思議です。

人生がルーティンにはまっていないのも、羨ましい限りです。今日が終われば明日がある、そんな人生は想像も出来ないに違いありません。何しろ、この世界の空気を吸って、まだ一週間足らずなのですから。明日生きているはずだなんて、露ほども思っていないでしょうし、だからこそ、一挙一動すべてにエネルギーを注ぎ込むのでしょう。

彼が本当に幸せな世界に降り立ったのか、我々が断言できる自信は残念ながらありませんが、一週間前に知り合ったばかりの赤ん坊の方は、よほど人を幸せにする心得に長けているように思います。歓迎の言葉をかけるべきなのは、どちらだろう。
そこかしこに咲き乱れる木蓮の匂いが、思わず頬をくすぐります。

(3月31日ミラノにて)

循環だより 春を感じて

小泉英政

冬のゴボウ畑は、ちょっと見ただけでは、そこにゴボウがあるなんて分からない。夏から秋にかけて地面をおおいつくしていたゴボウの大きな葉は、冬の間はすっかり枯れ、ちぢまってしまっている。二月ごろ、ゴボウを掘り抜くと、春を待つ新しい葉が土に埋もれたなかで準備されていて、丁度、フキノトウのような恰好でゴボウの頭についている。出荷の時にその部分を切り落とし、少しまわりの汚れた葉を落として小さな指に渡す。三歳半と一歳半の二人の孫は、純白の綿毛をつけたフキノトウのようなゴボウの葉を一枚一枚順番にむいていく。外で遊ぶには少し寒すぎる、でも出荷場のなかでの遊びも限られていて、多少ぐずりだした時に、それは美しい遊びになった。

三月になってもザクッザクッと霜柱を踏むような寒い日もある。そんななかでゴボウはどこで春を感じとるのだろうか。地表の温度、日の出、日の入の時間、その他もろもろの何かむずむずとしてくるものを全身で感じとって地上に新しい葉を出現させる。もう春だと。

アサツキもぼくにとっては春を感じさせるものだ。アサツキの植えつけはラッキョウと同じく、お盆すぎだ。秋にかけて葉を伸ばし、ラッキョウは冬の間も葉が枯れないのに、アサツキは地上部が枯れてしまう。薄い黄緑色の新芽が地上部に表れると、ぼくにとっての春が始まることになる。アサツキはぬたが美味しい。しかも地上部に出たが出ないころの初々しいのが美味だと思う。しかしそれでは量が出ないし、出荷するにはもったいなさすぎる。まだかな、まだかなと、アサツキの側を通るたびに目をやる。アサツキの旬は短い。二週間あるかないか。旬はシュンとも読みジュンとも読む。旬(ジュン)は一ヶ月を三分したもので、十日一めぐりのものだから旬(シュン)の長さも二週間あるかないかでいいのだろう。

冬の間、草とりはあまりないように思われるかもしれない。しかしハコベは冬の間にとっておかないとと、美代さんはせっせと寒風のなか畑に出る。男たちが落ち葉掃きをしている間、せっせせっせと鎌を動かしてハコベをとる。ハコベは冬の間は根が一本だけだ。「そこをチョンとやるだけだから」。だが、春が近づいてくると、一週間に一度ぐらい雨が降るようになり、ハコベも春を感じてムクムクと大きくなる。ハコベの茎の節々から新しく根を伸ばし、体全体で地面をつかみ出す。そうなったら「チョン」では済まなくなる。ホトケノザもスズメノテッポウも冬の間にとっておきたい草だ。

三月中旬、葉物たちが次から次へと薹立ってくる。少し前まで葉物のやりくりに四苦八苦していたのに、伸び出す時は一斉だ。あっちでもこっちでも春が始まって、ぼくもむずむずむくむく春の畑に立つ。

親父たちの暮らし

さとうまき

さて、イブラヒム父さんがファートマと我が家にやってきたが、親父たちの期待を裏切って、ファートマは外泊がつづく。おやじ3人でいてもわびしいので、別の家に預けられているまだ一歳にならない双子を見に行くことにした。この子達は、最初から親切なヨルダン人に面倒を見てもらっているのでイブラヒムを父さんと認識していないかもしれない。預かっているほうの一家も子どもが7人もいて、大変なのだが、よく面倒を見てくれる。

2ヶ月もたてばずいぶんと赤ちゃんは大きくなるものである。赤ちゃんたちをあやしているとなんとなく、ぷーんとくさいにおいがする。これは、ウンチかなと思ったが気のせいだった。

男ばかり3人で暮らしているのを哀れに思ったのか、晩御飯を持たせてくれた。ここのところ外食ばかり、どうしてもファーストフードになってしまいどうしたものかと思っていた。最近、NGOからスローフードのキャンペーンに協力するように頼まれたので、本を読んで勉強を始めたところだった。家に帰ってなべを開けてみると「マンサフ」という家庭料理。羊肉をこってりとヨーグルトで煮込んである、まさにスローフード。ところがこれがくっさい。ウンチかと思ったのはこのにおいだ。私は食べる前からうっとなってしまった。イブラヒム父さんは、「どうして食べないんだ。おいしいぞ」という。井下おやじは少し食べていた。私はこのにおいがどうしてもだめなので昼間買って置いたカップラーメンを食うことにした。

カップラーメンは3分でできるので、マンサフをお皿に入れている間にもできてしまう。口でスローフードというのは簡単だが、実践するのは簡単ではない。結局のこりは明日、ブンジローに食べてもらうことになった。ブンジローは、日本人には珍しくマンサフが好物なのだ。

あくる朝、私は、乗り合いタクシーで国境を越えてシリアに行くことになっていた。まもなくヨルダン、イラクの国境も開くそうなので、私がシリアに行っている間に、イブラヒム親子もイラクへ帰ってしまうかもしれなかった。そうなると今度はいつ彼らに会えるかわからないから、お別れを言うために早めにヨルダンにもどることにしたのだ。3日後ヨルダンに戻ってくると、イブラヒムとファートマはまだいた。そして、「マンサフ」もまだ残っている。

ブンジローは、留守中にたずねてきたそうだが、井下親父がマンサフを嫌がり、外の中華料理を食べに行ったということだった。こうなるとちょっと触るのが怖くなったので、後始末はイブラヒムに任せることにしたが、イブラヒムは捨てるのを惜しがって食べようとしていた。一緒にもらったパンもカビが生えているのだが、イブラヒムは目が悪くてカビが見えず、食べようとするので、「やめなさい」と諭した。

井下親父は「実は、イブラヒムは、まったくイラクに帰る気がないみたいですよ。どうしましょうかね」という。
「なんとなくいつまでいるか聞いてみよう」ということになった。
「イブラヒムさん。イラクにはいつ帰るのかね」
「今のイラクは危険でしょうがない。できたらヨルダンにいたい。あるいは、日本に連れて行ってもらえないだろうか。なにか仕事はないか」という。
「しごとねぇ」
「私は数学の先生だから数学を教えたいのだが」
「日本人は、日本語しか通じないよ」
「じゃあ、アラブ料理を作る」
「それなら、いいかもしれないね」

しかし、あくる朝、イブラヒムは、指に包帯を巻いている。どうしたのかと聞くと、「実は卵をきっていたら指を切ってしまった。痛い。痛い。ドクター見てくれ」
イブラヒムは一生懸命傷口を井下親父に見せているが、ぜんぜんたいした傷ではないのだ。
これじゃあ、コックになんかなれない。

そこで、私は、井下親父とまた話し合った。
「やっぱり数学の先生しかないだろう。イラクから治療を受けに来ている子供たちは学校にも通えないというから、彼らの家庭教師として派遣するのはどうかね」ということになり、イブラヒム先生の算数教室がはじまったのだった。

製本、かい摘まみましては(7)

四釜裕子

ちいさな床屋をみかけると、建物全景を写真に撮りたくなる。わざわざ探しに出かけることもカメラを常に持ち歩くこともないけれど、二十歳過ぎからの癖なので、結構な枚数になっている。フィルムで撮ってプリントして箱に入れておくだけなので、必要な一枚を探すには全体をひっくり返すことになる。デジカメで撮ってCDに焼いたこともあるけれど、こうして度々ひっくり返して記憶を塗り重ねていくことが、わたしにとっては一番いい整理法みたいだ。

家庭用のインクジェット・プリンタでも写真がきれいに出力できるようになり、プリンタ・メーカーのみならず、専用の紙を販売するところも増えてきた。PCM竹尾では、4月下旬に「DEEP PV シリーズ」として新アイテムが加わるようだ。186g〜300gと厚めでふんわりした質感は、プリント写真の再現ではなく、印刷された写真の美しさを楽しむためのものである。こういう紙なら、数枚の写真を選りすぐって小さな冊子を作ってみたくなる。片面印刷対応とのことだが、表と裏の質感の違いを活かして頁構成すれば、両面印刷して糸かがり本にすることも可能だろう。ちなみに、A4、A3ノビともに縦目、A4一枚136円〜272円といったところ。

DPE窓口やフィルムメーカーのウェブサイトなどで、写真集のオーダーを受けるところがある。写真やコメントのレイアウト、表紙のバリエーションなどは各社異なるが、だいたいどこもCDサイズで24頁以下、中綴じミシンかがりした本文に、コの字型のカバーを貼りつけるという、絵本によくある製本法だ。いずれも、本文紙はアート系、表紙はPP貼りで、やけに丈夫なつくりが全体の野暮ったさを引き立たせ、こちらの好奇心をそぐ。どうしてそんなに丈夫にするのか。耐水性のためばかりとは思えない。「アルバム」からの発想が、丈夫な表紙とテカテカ本文紙を大前提にさせているに違いない。

この仮説を確かめるべく、「Photo Imaging Expo 2005」(2005.3.17〜20 東京ビックサイト)に出かけた。いくつかのブースで、写真集のサービスをみた。ホワイト・フォトブックとでも呼びたいような、究極の「写真集」もあった。これは、ネットで送られた写真データをプリントして両面テープで貼るというもので、表紙は背バンド付き風の革装丁、タイトル箔押し、本文紙(というかそれはアルバム台紙そのままなのだけれど)は1ミリ厚、20頁程度だが重たくて、ものすごい豪華である。これで値段は、数千円。

アルバムでは売れないので、写真集の束見本みたいなもの(=ホワイト・フォトブック)として安くリサイクルしているんでしょう、きっと。これは極端な例だけど、他にもいくつかみるにつけ、仮説は正しいように思えてきた。写真系の企業は、アルバムの延長としての写真集をより安く提供することに邁進し、努力実ってほぼ底値の態である。さぁこれからどうするか。全体として、アルバム系写真集ではまずい、と感じているようにはみえない。なにしろ、「このテカテカの紙はいやなんですけど、どうにかならないんですか?」と問うと、「オンデマンド印刷ですからねー、紙は選べないんですよー」とあっさり応えるところがほとんどですから。

ウェブサイトでいくつかの写真集サービスをおこなっているアスカネットの応えは、ちょっと違っていた。「マイブック」は他社とほぼ同じだが、「マイブックデラックス」では本文紙をラミネート加工せず、特殊ニス加工しているとのことで、紙の表面の印象がいくぶん柔らかい。聞けば、ラミネート加工するのは、オンデマンド印刷専用の液体インキの剥がれと変色を防ぐためだが、結果、独特なテカりが生じると言う。その機能を持たせながら、少しでもマットに仕上げるために、通常は印刷機のあとにかがりと折り機がセットされているが、そのあいだに機械を入れ、ニスびきしているのだと言う。表紙のPP貼りや透明ビニールケースにはまだ疑問が残るけれど、うれしい工夫じゃないですか。

この「マイブックデラックス」をずっと試したかったのだが、編集ソフト(無料)がWindows版のみだった。4月末、ようやくMac版が出るようです。

振付家名のクレジット(3)

冨岡三智

 宮廷舞踊家クスモケソウォ(1909〜1972)は、「スラカルタ宮廷の舞踊」を「スラカルタ地域の舞踊」へと広めた。宮廷舞踊家はそれまで匿名の存在だったが、宮廷外で舞踊教育をリードするようになったために、名前を残すことになった。

   ***

その次の世代でジャワ舞踊を代表する振付家といえば、ガリマン氏(1919〜1998)とマリディ氏(1934〜)である。この2人は「スラカルタ地域の舞踊」をさらに発展させ、古典となる作品を作り上げた。2人の作品を見ていると、宮廷舞踊の儀礼性を残しながらも、より純粋に芸術性を追求している。振付に個人の個性が見てとれる。そういう意味で2人は近代的な舞踊家・振付家だと言えるだろう。2人の作品は現在の芸術高校や芸術大学で教える舞踊の中心的なレパートリーになっており、その曲の多くはカセットで市販されている。

市販カセットには、2人の曲の他にASKI・PKJT、あるいはPKJT・ASKIとクレジットされているものがある。PKJTは中部ジャワ芸術センタープロジェクト、あるいは中部ジャワ芸術発展プロジェクトのことであり、ASKIはアカデミー(1964年設立、現在の芸術大学)のことである。PKJTはインドネシア政府の開発プロジェクトの1つで、1969〜1981年に実施された。ゲンドン・フマルダニ(1923〜1983)がリーダーである。またフマルダニは1971年からアカデミーの学術部門長、1975年から亡くなるまで学長を務めた。トップが同じであるため、両機関は一体化して芸術活動を行っていた面もあり、そのためPKJT・ASKIと並び称される。PKJTで手がけた古い舞踊のリメークや創作のレパートリーは芸術大学のカリキュラムに定着している。ガリマンもマリディもPKJTやASKIで指導していたが、いわゆるPKJT・ASKI版を手がけたのは、2人よりも若い世代である。

PKJT・ASKIで作られた作品の場合、カセットにしろ公演の場合にしろ、その振付家名はあまりクレジットされない。芸術大学の内部の人ならば誰が中心となってその振付を手がけたのか知っているが、外部の人間には分からない。そのことに私は以前からやや違和感を抱いていた。ガリマンやマリディという著名な振付家が活躍する時代になったのに、なぜPKJT・ASKIでは振付家個人の名前をクレジットしないのだろうか、まるで宮廷舞踊家が匿名であった時代に逆行したみたいだと、最初私には感じられた。

その理由の1つとして、グループ振付が多かったということが挙げられる。フマルダニの考えでは、振付は分業すべきであったようである。たとえば2人で踊る舞踊ならば、1人ずつがそれぞれのパートを振り付ける。これには、PKJTが地方で行われた国のプロジェクトだということも関係しているかも知れない。プロジェクトとしては中部ジャワ州の多くの人々が制作にコミットし、成果を分かち合うほうが成功だと言えるからだ。これは共同体的な発想でもある。とはいえ、同じ国のプロジェクトだったラーマーヤナ・バレエでは総合振付家や振付アシスタントの名前はクレジットされている。それは公演主体のプロジェクトであったからかも知れないし、また年齢的にも地位としても突出した人がいたからこそ可能だったのかも知れない。

それはともかく、PKJT・ASKIが振付家名をクレジットしない理由として他に考えるのは、フマルダニの指導の影響力が大きかったからではないかということだ。PKJT・ASKI版ではグループで振り付けていても、フマルダニが手を入れて変えた部分が多いと多くの人が語っている。それに明らかにフマルダニが著作物で主張している考えが振付に実現されている。

(話がそれるが、そのフマルダニの主張とは西洋舞踊に影響を受けた額縁舞台用の振付、全員の一糸乱れぬ揃った動き、速い動き、などだ。フマルダニは1960〜1963年までイギリスとアメリカに留学しており、インドネシア人の中でも早い時期に西洋舞踊を鑑賞し且つ学んでいる。一方、現在においてもスラカルタの芸術高校、芸術大学にはバレエやモダンダンスの実技はない。)

また練習や振付の後には毎回フマルダニの講評と全員でのディスカッションがあったから、実質的な総合振付家はフマルダニだと言っても良いくらいのものではなかったか、そしてフマルダニ自身にそういう自覚があったために、PKJT・ASKIでは実際に振付に当たった人をクローズアップしなかったのではないか、とも私には思えるのだ。それではなぜフマルダニは自分の名前を出さないのかということにもなろうが、それはやはりプロジェクトの長としてプロジェクト全体の成果を強調したかったのだろうという気がする。

フマルダニは、皆で寝食も芸術活動も共にする共同体を作りあげることを理想としていた、それは1970年代も終わりになってくると半ば実現していた、と私には思われる。そしてそれは欧米の寄宿制の舞踊学校を備えたバレエ団のようなものを念頭に置いていたのではないかという気がする。(しかしまたそれはかつての宮廷の舞踊家のあり方にも共通する。)事実、PKJTの拠点でありASKIのキャンパスでもあったサソノムルヨ(宮廷敷地内にあるコンプレックス)では、練習スペースとなる中心のプンドポ(ジャワの伝統的な儀礼空間)を囲む建物群が寮になっていて、多くの学生や教官、そしてフマルダニ自身も住んでいた。サソノムルヨでは5:00にはフマルダニが率先してクントゥンガン(スリット・ドラム)を叩いて皆を起こし、アカデミーの授業前から舞踊練習が行われた。そしてアカデミーの授業が終わると、また夜中まで各種練習が続く。その間フマルダニはつきあって指導し、細かくコメントを与え、ディスカッションをする……。(ちなみに1時限目の授業は7:30に始まる。しかし舞踊訓練の前の4:00にスンダ・ガムランの練習がある。また一番空いている時間帯だからということで、アカデミーの音楽試験公演もしばしば4:00過ぎから行われていたらしい。)

脱線ばかりになってしまったけれど、いずれの理由にしろ、誰か1人を振付家としてクローズアップするということをしなかったのは、フマルダニがPKJT・ASKIを共同体的なものとして指導したためだと言えるだろう。しかしPKJT・ASKIの時代=1970年代、の終わり頃から振付家が脚光を浴び始める。つまり1978年からインドネシア若手振付家フェスティバルというものが始まるのだ。(1986年でいったん終了し、1991年から現在のインドネシア・ダンス・フェスティバルに引き継がれる。)このフェスティバルは現代舞踊をインドネシアに定着させようとジャカルタで始まったもので、初めて踊り手よりも振付家に焦点を当てている。

(続く)

琉歌の巻──緑の虱(6)

藤井貞和

チュラヘノコミサチ
イクサキチネーラン
ウミンチュヌククル
フニヲマブラ

ハチハチハチルクヌ
リュウカワチヌブイ
ウミヌマブリカン
ザンヨアスバ

ウミンチュヌハタヤ
コウギヌサンビャクニチ
ナミヌマチウドゥイ
ヌチドゥタカラ

(沖縄国際大学では米軍ヘリコプターのつっこんだ一号館わきの宿泊施設で2日間、泊まってきました〈奄美沖縄民間文芸学会公開講座〉。翌日、辺野古岬テント座り込みに参加し、さらに海上をリーフまで出て、オジー、オバー、ウミンチュらが、防衛施設局のつくったやぐらを占拠しているところへ行って、チバリヨー。帰りつつある私の船に、オバーのひとりが「私たちのやってることは限界があります。一日延ばししているのです。みなさまにそのことをつよく訴えてください」と、風のなか、叫び返してくれました。防衛施設局の船がマイクで、「観光気分で来ないでください」と遠くから。すっかりこのじゅごんとマングローブとのたわむれる海を私は「観光」してまいりました。漁協のなかには賛成派もいるために村をまっぷたつに分けたかたちです。やぐらの上からくろいかたまりが海に落ちてきたので何かとおもったら編みかけの編み物。オバーたちはからだをしばりつけたまま、しっかり編み物をしているんですね。抗議は〈8年と〉344日目にはいっていました。)

ちょうど35年前の今日

御喜美江

「先週はどのように過ごしましたか?」と人にきかれたら、スケジュール表を見ながら、それでもあれこれ考え込んでしまう。すでに忘れたこと多し。ところが大昔のこととなると不気味なくらいよくおぼえている。見たこと聞いたことはかなり細部まで具体的に、話した言葉も聞いた声も人の表情までもかなり鮮明に覚えている。さらに部屋の匂いも、絨毯の感触も、夕暮れの色も。記憶は五感に浸透して、体が昔のことを現在にまで伝えてくれる。

昔話を好むのは年をとった証拠かもしれない。でも年をとれて良かったな、って思うときもある。若い人たちは顔も体も美しく将来の可能性も大きいけど、その年令を羨ましいとはほとんど思わない。昔を回想できる年令になって、かえってほっとする時すらある。

3月というのは私にとって一年の節目のような月だが、今からちょうど35年前の1970年3月、当時中学一年生だった私は、南ドイツのトロッシンゲンという町にアコーディオンの専門学校があると聞き、何が何でもそこへ行きたいと両親に頼んで、毎年3月に行われるイースター講習会に参加しました。それは生まれて初めての一人旅かつ海外旅行で、私は母が作ってくれた日英両国語カードを首から数枚ぶらさげ、重いアコーディオンを軽そうに左肩にかけ、新しく買ってもらった水色のトランクを右手に、赤い帽子、赤いコート、白のハイソックスにミニスカートという、今思えばカーニバルでも出るような格好で期待に胸を膨らませ、見送りに来ていた両親と兄に手を振りながら颯爽と日本を飛び立ったのでした。飛行機のエンジン音が急に大きくなり、機体が宙に浮きはじめた瞬間は感動で震えました。

尚、チケットを購入した両親は、少なくとも往復のフライトは一人ではないようにと、ある団体旅行グループの中に娘を参加させ、まわりの皆さんは私の存在を不思議に思いながらも、いろいろと親切に面倒みてくださいました。しかし南回りの旅は想像を遥かに超える長さ、バンコックあたりから気分が悪くなり、カルカッタ、カラチでは、もう吐くものもないくらい食べたものは全て吐き出し、ローマ経由でフランクフルトに着いたときは、すでに廃人同様にフラフラでした。でも空港の出迎え、中央駅、そして汽車へのケアはパーフェクトに準備されていて、何とか生きて目的地、トロッシンゲンにたどり着きました。それはほんとうに長い長い旅でした。

それからの一週間は夢のようでした。左手も単音システムのフリーベース・アコーディオンを器用に操りながら若い奏者たちが弾くバッハやスカルラッティはほんとうに美しく、私は日本へ帰る気をすでにこの時なくしていました。大体、あのフライトがもう沢山。あんな地獄のような思いはもう二度としたくない。それに苦労して帰国したところで、あえて日本で勉強したいことが、もうありませんでした。でも学長さんや周りの人たちから「義務教育は終えること、そしてドイツ語が出来なければ、ここの音楽学校には入れません」と厳しく言われ、「なるほど、そういうことか〜」と納得しました。講習会の閉会式では、一番遠いところから来た、という理由で表彰状と南ドイツ名物のカッコウ時計をいただきました。新聞に載った写真には、絣の着物を意外とちゃんと着たおかっぱ頭の小さな私がうつっています。

さて、帰りはトロッシンゲンから汽車でチューリッヒまで行き、そこから飛行機でパリへ飛び、パリのホテル・アンバサドールで再び団体旅行グループと合流することになっていました。ところがその連絡を取るときになって、ドイツ国内の通信機関が全てストライキに入り、電話もテレックスも通じない、どうしても誰とも連絡がとれないのです。仕方がないので学校の運転手さんがロットワイルという駅からスイスへむかう国際列車に乗せてくれて、一人チューリッヒまで行きました。でもこれが思いのほかおそろしかった。いつチューリッヒに着くのかわからないし、そこがどんな駅かもわからない。汽車が止まるたびにホームに降りて「チューリッヒ?」と誰かに聞く。何度目かに「チューリッヒ?」と聞いて「ヤー!」と言われたので、大急ぎで荷物を持って降りました。そのとき小指をドアにはさんで爪が剥がれ、興奮しているので痛みは感じなかったけれど、見ると血が流れ出ている。血を見た途端に涙がポロポロ出てきた。痛くはなかったが、限りなく心細かった。近くにいた車掌さんに血の出る指を見せたら、陽気な声で笑顔がかえってきた。「あ〜、メソメソしないで、頑張りなさい!」ということだ、と気持ちを取り直し、重い荷物を持って駅の出口の方へ行った。

しかし今度は空港への行き方がわからない。しばらく駅前をうろうろしていたら、飛行機の絵が書いてあるバスが来た。多分空港行なのだろうとそこへ進むと、停留所に見るからに優しいそうな若い女性がいたので、彼女に私の航空券とパスポートを見せると、何だかひどくびっくりして、いろいろ話しかけてきた。全然わからないけど「大丈夫!」と言われているような気がした。彼女はバスの中で私の隣に座ってくれて、空港に着くと、すぐに私をスイス航空のオフィスに連れゆき、そこで機関銃のように喋りまくった。その結果、私はある部屋に拘置され「絶対にここから動かないように!」とスイス航空スタッフから言われた。実はその時、ものすごくトイレに行きたかったのだが、絶対に動いてはいけないので、我慢してそこに座っていた。この部屋には他にも数人いたが、身体障害者、知能の遅れた人、車椅子の老人、そして小さな子供が2人いた。

そして何とか無事13:45発のパリ行きエールフランス683機に乗った私は、一刻も早くトイレに行きたかったのですが、離陸後すぐにフランスへの入国審査書が配られました。もちろんチンプンカンプン全然わからない。「困ったな〜」と思っていたら、後ろから何と日本語が聞こえてくるのです。そこでおそるそる「すみません、この書類の書き方、おしえていただけますか?」と聞きました。それは若い日本人のご夫婦で、初めはかなり驚いていらっしゃいましたけど、男性の方が全部書き込んでくださいました。当時私は13歳でしたが、体は細く背は低く非常に小さかったので、このご夫婦は私の一人旅を信じられないといった様子。

「パリの出迎えは大丈夫ですね?」(男性)
「ドイツの通信機関がストライキをしていたそうで連絡がつきませんでした。出迎えはないと思います」(美江)
「それは大変だ!着いたらすぐにJALのカウンターに行って、誰か面倒みてくれる人を探しましょう」(男性)
「はい……」(美江)
「とにかく僕たちから離れないように」(男性)
「はい……」(美江) 〔あ〜、これでまたトイレに行けない〕
それからパリのオルリー空港に着くまで、このご夫婦は
「どうしてたった一人で?」
「何が目的で?」
といろいろ聞いてくれました。そしてパリに着いたらすぐにJALカウンターに行き、いろいろと交渉してくれて、気がついたら私だけタクシーに乗っていました。そして私は無事ホテル・アンバサドールに着きました。

尚、この御夫婦はパリで乗りついで、どこか他の地へ飛ばれたはずです。ご主人がヨーロッパ勤務を終えられて、世界旅行をしながら日本へ帰ると申されました。お名前、ご住所を聞く余裕が全くなかったのが何とも遺憾で、35年経った今、「もしあの時、あの飛行機の中に、あの御夫婦がいらっしゃらなかったら……」と思うのです。

私がクラシック・アコーディオン奏者になることを決めたのが、この1970年3月でした。でもあのチューリッヒ→パリの旅は、まさに宙に浮いた時間で、13歳の私は不安と恐ろしさ、そして小指の怪我、さらにトイレにいきたさで、もう死にそうでした。あの御夫婦にめぐりあわなかったら、「人生そんな甘いものじゃない、もうこんな無茶な冒険は二度としないように!」と自分を戒めていたにちがいありません。そして帰国後は日本の高校へ大学へと進み、まったく違った人生を歩んでいたことでしょう。

その2年後の1972年秋、私はドイツへ留学しました。そしてクラシック・アコーディオン奏者になりました。しかし、もしあの御夫婦に助けていただけなかったら、私の人生は全く違う方向へ向かっていたような気もして、一度「ありがとうございました」を言えたらな〜とこの頃、よく思うのです。心の中では何百回と言ってきた「ありがとうございございました」を声に出して。ご年令は現在、60〜70歳くらいでしょうか……。1970年3月27日(当日の天気は晴れ)チューリッヒ発13時45分、エールフランス468便で13歳の日本人の女の子を助けてくださったご夫婦です。『水牛』を読んでいらしたら……と願いながら書かせていただきました。どうかお目にかかれますように……。

この日は私の人生で一番長かった日、かもしれません。

(2005年3月27日東京にて)

瞬間の音楽 きっかけの

高橋悠治

シューベルトのメガネ あの小さな丸い枠
もっと昔の音楽家のメガネをかけた肖像画は
思い出せない
紙の上にしっかり固定された音楽 音の絵
古典主義の単純さと大きくなっていく構成
白いアクロポリスの神々
色あせた廃墟

メガネをはずすとぼやける楽譜
それでも頭のなかで鳴りつづけるダクティル
中心のアクセントからはずれて
あてどなくさまようリズム
トンタタ トンタタ 駆り立てられて
行き場のない内側の旅

個人主義と個人の力ではどうにもならない
システムの大きさ
窓のないモナドのモザイクに 組みこまれないように
つなぎとめる ことばのない歌の
語らないことばが 検閲をくぐって
くりかえし くりかえし 執着する
かなしみ
音楽の政治思想