酸素スプレー

小島希里

先月末、東京で3日間にわたって開かれたコラボ・シアター・フェスティバルに、二日間通った。障害のある人たちとアーティストが表現の可能性を探求するという試み。ほかのどこにもない、ここにしかない音楽や芝居と出会えて、興奮した。以下の四つのグループの発表は、一カ月たった今も心に残ってはなれない。

●神戸 音遊びの会「音の公園」の何曲目かの曲
たどたどしい、足音のように、ドラムの音が前へと進む。歩きはじめたかと思うと、立ち止まる。ゆるゆる一歩、二歩、進み、また、たちどまるかと思うと、少し加速がつきだす。そこに、管楽器が一本、よぼよぼのおじいさんのような足取りで、弱々しく音を重ねる。別の管楽器が二本、そっけなく加わり、長く長く同じ音を吹き鳴らす。
何かが始まるときの、小さな興奮があたりに漣を立てる。たぶん、これは始まりの音楽なんだな。いや、もしかしたら、音楽の始まりなのかも。
ドラムセットを叩いていたのは、知的な障害をもつ十代前半ぐらいの年齢のこども、残りの管楽器奏者たちはプロの音楽家たち。

●大阪 ほうきぼしプロジェクト Live「こまいぬにほうきぼし」
でこぼこした発音の朗読に、観客は身構える。「ぼく」、のひとことに、全力が注がれる。
ぼぼぼぼ・・・・、ぼの音を観客の前に宙ぶらりんにしたまま、朗読者はからだを強ばらせる。静寂が深まるにつれ、観客のからだも強ばっていく。この人、あきらめちゃうんじゃないか、とわたしは不安になる。ええー、これにずっと突き合わされるのかよ、とも不安になる。とその瞬間、「く」の音が追いつく。
朗読が終わり、同じ詩を、ベースに合わせて、彼が歌う。観客が、大きな笑い声をとどろかせる。さっきまでの、しどろもどろは、いったいどこにいったんだ? さっきまで、彼をどもらせ、強ばらせ、喉に石ころでもつまったんじゃないかとみんなを不安に陥れていたものは、いったいどこにいったんだ? ぼく、とすらすんなり言えなかった同じ人が、ベースのリズムに合わせて、気持ちよさそうに歌いつづける。

車椅子の朗読者がずらっと並び、後ろにヘルパーたちが一人一人、座っている。詩の朗読と酸素スプレーが酸素を吐き出す音が、わけ隔てなくマイクを通じて拡大され、観客の耳に届く。一人ずつ詩を読み、ベース一本で歌を歌うだけの素朴なスタイルに生かされて、舞台の上にあるものがすべてくっきりと見渡せる。これ以上のことも、これ以下のこともない、これだけがしたいんだ、という意志が、すべてのやり方に貫かれている。すてきだ。

●奈良 アクターズスクールくらっぷ「ファウスト」
ファウスト博士を演じるのは4人の、いや、5人だったかな、若い知的障害者たち。対する悪魔メフィストテレスを演じるのは、この作品を構成・演出した男性、一人。
ファウストたちは、実に、自由に舞台の上を動きまわる。舞台のはじっこを歩いて、観客席を眺め回す人もいれば、まったく動かないで椅子にじっと座っている一人もいる。事前の決まりごととして了解されているのは、たぶん、人一人博士が登場する、悪魔と博士が対立している、一人の博士が歌を歌う、最後に悪魔が倒れたら博士の白衣をかける。あとは即興的なやりとりだけで、寄り道、道草、あと戻りを繰り返しながら、くねくねと進む。ファウスト博士たちは、悪魔に抱きつくかと思えば、そっぽをむくはで、ちっとも悪魔の口車には乗らない。博士たちはやりたい放題、好き勝手、数少ない決め事も危うくなる。悪魔と博士たちとのやりとりはフィクションと現実のあいだを行ったりきたりしながら、演出家と演じ手たちとの支配関係を、「健常者」と「知的障害者」との支配関係を露わにし、ひっかきまわす。もちろん、みているわたしの頭の中も、ぐちゃぐちゃにひっかきまわされた。

●湖西市 手をつなぐ親の会「すべてを越えて」
舞台にぎっしり立ち並んだおおぜいの踊り手たちが、いっせいに舞台の床を踏み鳴らす。踊り手たちは観客席に向かって、ずんずん迫ってくる。衣装の黒や赤の水玉が近づいてどんどん大きく、派手になってくる。見るからに、鍛錬を積んできた体つきのプロのフラメンコ・ダンサーたちと、見るからに障害をもつ人々と、見るからにそっくりでその母親だとわかる女性たち。踏み鳴らし、踏み鳴らし、唱えているのは、「希望」「愛」「夢」といったことば。陳腐な、手垢にまみれたことばづかいと、型にはまりきらない生々しい動きとが、母親たちのたぷたぷした贅肉と、男性ダンサーたちの厳しく背筋を伸ばし叩きならす拍手の音とが、ちぐはぐに絡み合う。けして調和の取れることのないこのちぐはぐさが、この踊りの強烈な力なのだ。くっきりとした動きの型、リズムの型が、踊り手たちを竦ませる抑圧とはならず、はみ出すもの、ねじれたものを際立たせるばねとなっているところが、ほんとうにすばらしい。

しもた屋之噺(60)

杉山洋一

ミラノは朝晩の冷え込みがずいぶん厳しくなってきて、ひどい日は、明け方は2℃近くまで下がります。そんななかしばらく前に庭にまいておいた芝の種が、10日以上も経ってから、少しずつ芽を吹き始めましたのには、少し驚きました。当初は春になったら種をまくつもりでしたが、このマンションに来ている造園業者が、冬に芽を吹かせて寒さに耐えさせると、芝はずっと強くなるといわれて、試しに種を蒔いてみたのです。

11月は瞬く間に過ぎてしまいました。月の初めはレッジョ・エミリアの音楽祭でフューチャーされたノーヴァの新作を振っていて、パンソニックという有名なフィンランドのテクノ2人組が、インプロヴィゼーションとヴィデオで参加していて、彼らがおかしいほどまったく無表情だったのが印象に残っています。ベルリンを中心に活動していて、かなり有名なテクノ・アーチストなのだそうですが、何しろこちらはまったくの門外漢で、最初はサウンド・エンジニアの人とばかり思っていました。演奏会のあと、「ご一緒できてとても楽しかった」と全く無感情に話してくれましたが、友人に言わせると、それはかなり喜んでいたに違いないということでしたから、普段なら全く何も話さないところだったのでしょう。

演奏会の後すぐに車でミラノに戻り、身支度を整え、次の日の朝早くロスに出かけました。練習させてもらっていたロスのイタリア文化会館長・ヴァレンテさんと知り合い、お寿司を食べながら、色と話題を交換できたのは楽しかったし、ダンス・カンパニーとの合わせもスリルがありました。何しろダンサーたちが準備するために用意された録音がとんでもなく遅いテンポのものだったため、こちらが妥協するより仕方がなかったからです。イタリア現代音楽を、ロスのミュージアムで紹介する企画でしたが、なるほど、こういう風にアプローチをするのがアメリカ流なのだなという感じ。

本番直前、ダンサーの踊りが気に食わないとナーヴァスになったプロデューサーが突然どなりだし、これじゃ全てが終わりだ、なんだかんだと大騒ぎして、最終的にイヴェントが済むと、感激して涙ぐみながら彼らは肩を抱き合って大喜び、という典型的なハリウッド映画のストーリーを目の当たりにしたのも、ちょっとした収穫でした。さすが、ハリウッドの本拠地、ロスだけのことはあります。

ロスから帰ったその日に、モーツァルトの40番とショパンの1番の協奏曲の本番があったのですが、本番3日前に突然メールがきて、ショパンのソリストが事故で手を痛めて弾けなくなったので、モーツァルトの21番の協奏曲に変更といわれて、まあ21番なら前に振っているからミラノに戻れば自分のスコアがあるものの、当日のドレス・リハーサルぶっつけで本番というのも嫌なので楽譜をロスで買い求めようとするとこれが大変で、結局ロスにはなくて、隣の街まで1時間以上も車を走らせなければいけなかったのですね。それでもベーレンライター版はなくて、ドーヴァーの廉価版のみ。あちこち楽譜を探しているとき、ハリウッドの楽譜屋にも立ち寄りましたが、店内にはカントリー・ミュージックが朗々とかかっていて、当然何もないだろうなと思ったら、ありますよ! と誇らしげに店員がいうので、何かと思うと、2台ピアノのリダクション版でした。これがあるのはこの辺ではうちだけだ、と相変わらず誇らしげでしたから、まあおそらくその通りなのでしょう。何しろハリウッドですから。

ロスからミラノ、という旅程を、勝手に東京とミラノ程度に軽く考えていた自分がいけないのですが、実際は倍とまでは言わないまでも、ロスからフィラデルフィアまで飛んで、そこからミラノまでが東京―ミラノ間という感じでしたから、ミラノに朝早く着いて、家でシャワーを浴びて着替えて、自分が使ったモーツァルト21番の楽譜に目を通しながらドレス・リハーサルに出かけるのは、正直言ってかなり疲れました。それでも練習、本番はとても順調に終わり、お疲れさまと皆がピザを食べている傍らで、あれはおそらく大いびきをかいて寝込んでいたに違いありません。後で起こされたときに体の節々が痛くてびっくりしました。いったいどういう格好で寝ていたのか、考えたくもありません。

それからしばらくの記憶がないのですが、学校で生徒を教えたり、ボローニャに中嶋香さんのリサイタルを聴きにでかけて、思いがけずパリから来た権代さんに再会したり。中嶋さんのリサイタルはすばらしいもので、演奏会の最後をかざった権代さんの曲も素晴らしかったし、その前に演奏された悠治さんの「乱れ乱れて」も周りの観客から絶賛されていました。「乱れ乱れて」の演奏方法について、中嶋さんがコメントをしてくれたのも聴き手にとって良いガイドになったのかも知れません。リハーサル中、中嶋さんが「乱れ乱れて」も権代さんの曲も、演奏会の最後の演目でしか弾いたことがないから、続けてこれらを二つ弾くのは集中力が持たなくて大変、と仰っていたのが印象に残っています。全然そんな感じはしませんでしたけれども。

何が忙しかったのか、とにかく子供を中心に時間が動いていると、自分の用事の記憶がきれいに消えうせてしまうようです。さもなければ、本当に子供のことばかりしていて、自分たちの用事は捨ておかれていたのか。
もっとも、基本的に日記でもつけていない限り、普段でも何も覚えていないわけで、だとすれば子供はあまり関係ないようです。もうここ暫く、自分が何をどうしなければいけないのか、身の回りのことすら十分把握できないまま、毎日を過ごしていて、朦朧としている感じです。

一昨日、ベートーヴェンの2番とヴァイオリン協奏曲の演奏会があって、練習に出かけると、オーケストラに思いがけない知り合いやら、前にオーケストラ・クラスで教えていた生徒がいたりして愉快だったのですが、とにかく一体どうやって勉強したのか自分でも不思議です(毎朝、4時位からもそもそ起き出してはいましたが)。

ともかく演奏会は無事終わり、昨晩家人と子供を空港まで見送りにゆき、これから暫くの間、久しぶりの一人暮らしに戻ります。家人は空港に向かう電車の中で、ずっと台所の換気扇をどうするか気にやんでいました。2ヶ月かけてようやっと届いた換気扇が(一度はどう間違ったか、ベッドの骨組みが送られてきました)、どうやらうちの部屋の形状に合わないということがわかったから。

まだまだ、家も完成というところには程遠く、下の部屋につけるランプは用意してあるもののまだつけていないし、まああちこち足りないものがあるわけです。それも、頭のなかの「しなければいけないリスト」に書き加えてはあるのですが、はなから朦朧として回らない頭をどうやってやり過ごすのか。数日後にリハーサルを控えているドナトーニとブーレーズの譜面はまだ全く開いたこともないし、これから出かける税理士さんは(全てがこんな調子なので)いつも怒られるからおっかないし、数通既に届いている新作の催促のメールはぐるんぐるん頭を巡っているし。とりあえずまずは今日出来ることを何とかこなしてみることにします。家人とすっかりヤンチャになった赤ん坊が、無事に東京にたどり着くのを祈りつつ。

(11月30日ミラノにて)

製本、かい摘まみましては(23)

四釜裕子

10月に水声社から刊行されたヤリタミサコさんの2冊の評論の装丁を担当した。最初の打ち合わせは夏の暑い日で、これまでの作品や活動からヤリタさんが今回どのようなものを望んでいるかは想像できたが、詩人・高橋昭八郎の作品を表紙に使ってね、という課題には、咄嗟に喜んだがたちまち内心凍りついた。どうしよう、好きすぎる。ヤリタさんに、背中を押される。

作品をいくつか選んでラフを作るが、何度やってもどこかで見たようなものに仕上がる。さんざんやったあとで気づくのは遅いのだけれど、昭八郎さんは「gui」という同人誌の表紙をご自身の作品を用いて長年デザインされていて、私も数年前からその同人誌に参加しているものだから、憧れをもってずっと見ているのであった。単純な憧れはたやすく意識下に入り込み、こうもたやすく言動に現われる。これはきっといくらやってもダメだな――と、思った。

ガックリきて作業を放置していたある日、水声社さんが「帯はあってもなくても良いですよ」と言っていた(ような気がする)ことを思い出す。帯なしならばデザインするうえでのハードルはひとつ減る。そもそも、日本の出版文化は独自に帯の聖域を育んできたけれど、たいていの人は本を買ったら帯をはずすだろうし、買うときにどれほど頼りにしているかわからないし、書店にすれば破けたりはずれたりで厄介だろうし、出版社にしてもその効果はつかみにくいからお決まりでつけるのはどうかなと思いつつ、かといってなくても良いとは言いにくかろうに、思いきりの良い版元さんだ。

帯といえば3年前に、作るうえでの幅の限界を知るべく、製本工場を見学したことがある。「トライオート」という機械で、帯は表紙カバーと一緒に掛けられていた。続けて、スリップやはがき、しおりなどもはさみ込む。この一連の工程は日本独自のものなので、機械も国産である。西岡製作所というメーカーで、昭和46〜50年頃に開発したと聞いた。この機械の性能によって掛けられる帯の幅に限りがあり、見学した工場では2.5〜13cmだった。確かに帯幅はだいたいみなそんなもの。範疇外なら一冊ずつ手で掛ける。今でもそういう業者さんが健在なのだ。ただここ最近は幅広の帯が増えているように感じるから、機械の性能が向上しているのかもしれない。

さて話は戻って。「帯はあってもなくても良い」と聞いたことにして、ダメモトで好きに考えてみる。手元の数冊の本の帯をはずして拡げて戯れているうちに、高橋昭八郎の「ポエムアニメーション5 あ・いの国」(1972年)が頭に浮かぶ。この作品は、同じ大きさのごく細長い長方形の2枚の紙を交互に三角に折り畳んだ4つのセットからなるもので、合計8枚の紙にはそれぞれ別の美しい印刷がなされている。この8枚のパーツこそ、本の帯に形が似ているではないか、細長い、まさに帯状の。これをヤリタミサコの2冊の本の帯としてそのまま8種類再現してはどうだろう。なぜか知らないが1冊につき4種類の帯がアトランダムに付いている。帯には書名も著者名も版元名も、宣伝文句も推薦文も何もない。従って本体と離れたらそれがなにものかわからないが、極めて美しい。ああなんて無用で離れ難き帯! (つづく)

ヤリタミサコの2冊の評論外観
「あ・いの国」のこと

師を亡くす

冨岡三智

本当は11月26日に行った公演のことについて書きたかったのだけれど、その公演の前にインフォーマントだった師匠を亡くした。それで、今回はまずは追悼の文を書き残しておきたい。

師の名はSri Sutjiati Djoko Soehardjoといい、ブ・ジョコ(ブは女性に対する尊称)と呼ばれていた。亡くなったのは11月8日(水)20:10で、その前日昼に容態が急変して入院した。2003年4月、私が留学を終えて帰国した1、2ヵ月後に、最初にストローク(とインドネシアで呼んでいる、脳梗塞?)倒れて入院し、今年の3月に2度目の入院をしていた。最初に倒れたときのことは「水牛」2003年10月号に「舞踊とリハビリ」として書いている。このときブ・ジョコはかなり回復して、ゆっくりながらも歩き、言葉も話せるようになっていた。2003年の夏、2004年の夏、2005年の夏と私はインドネシアに調査に行き、ソロに滞在している間はブ・ジョコの家のプンドポ(表の広間)で練習させてもらい、そのときはブ・先生もプンドポまで出てきて、横で私の一人練習を見てくれていた。

2度目に倒れて入院するしばらく前に、私は偶然ブ・ジョコに電話し、助成金が取れたので今年の8月からインドネシアに行き、先生に習ったスリンピ・ブドヨの調査研究を続けるのだと伝えていた。先生が亡くなったあと、その息子が語ったことなのだが、ブ・ジョコはこのときにかなり深刻な容態になり、8月に私が来るまでは到底もつまいと思っていたそうである。師は私が来るのを待っていてくれたのだろうか。

今年8月に来たとき、ブ・ジョコが意外にも元気なのに私は驚いてしまった。歩くスピードはむしろ以前より速くなっていたし、顔の色艶もとても良い。ただ声はほとんど言葉にならなくなっていて、私や他の人がその声の真意をはかりかねていると、とてももどかしげな表情になるのだった。それでも私は時にはなんとなく先生の家に遊びに行き、プンドポで一人練習したり、先生のベッドの横にあるテレビで昔撮ったビデオを見たり、また単にテレビドラマを見たりしてすごす時間を作っていた。先生の家は灯が消えたように寂しくなっていた。以前は、私をはじめ大勢の留学生らが舞踊を学びに来ていて、プンドポには音楽の絶える間がなかったのに。先生はいつもプンドポを自分で箒がけして、私たちがやって来るのを待ってくれていたのに。今プンドポは、その中央の4本の柱の間(ここで舞踊が踊られる)にも応接セットがおかれていて、誰もここで踊る人がいないのは明らかだった。

10月25、26日はレバラン(断食明け大祭)で、一族で最年長のブ・ジョコの家に皆が集まるのが習慣だった。私も遊びにいって先生に断食明けの挨拶をした。先生は新しくおろしたオレンジ色の服を来て化粧もし、私は何気なく先生とその長女と3人で写真を撮った。このあと先生はにこやかに子供、孫をはじめ一族、たぶん30人以上いたと思う、の挨拶を受け、元気そのものだった。

11月7日昼に入院した時、さっそく病院に駆けつけたのだけれど、そのときはまだブ・ジョコはICUで治療を受けていて、私はおろか家族の誰もその中に入れなかった。夜に再び来た時、もうICU入室が許されているからといって、先生の妹さんがICU室に導いてくれた。先生はそのときずっと目を開けていた。妹さんが、「三智が来ましたよ」とブ・ジョコに声をかけてくれた。私には先生が何を見ているのか、聴覚がまだ残っているのかも分からなかったが、11月26日の公演、その前の録音の練習が順調に進んでいて、ぜひ先生にも公演を見てもらいたいのだと声に出して伝えた。後で聞いたところでは、先生の末の娘さんが昼に入室したとき、先生はふと微笑して、パチャ・グル(舞踊で首を動かすしぐさ)をしたのだという。それは一瞬のできごとで、そのときには意識はもうなかったはずなのに、先生は確かに踊っているとしか思えなかったという。

11月8日夜8時過ぎ、先生が亡くなった時間、私は芸大大学院長のスパンガ氏の家のプンドポにいた。私は今度の公演で、ここで練習している芸大の先生たちやおじさんたちに演奏してもらうことになっていた。公演前に行う録音では、ついでに先生が振付けた作品「クスモ・アジ」の曲も録音しておこうと思って、この日初めて練習していたところだった。練習しているときにスパンガ氏がプンドポに出てくるのが見え、終わると私を手招きした。「重要な話があるんだが・・・」とスパンガ氏が切り出したとき、私はてっきり録音費用についての話だと思っていたので、わざとにこやかに「あらー、なんですか?」と切り替えした。それがブ・ジョコの訃報だったので、私はフリーズしてしまった。昨日病院にお見舞いに行きながら、私はブ・ジョコがこんなにすぐに亡くなると思っていなかったのだった。そうしているうちに芸術高校からもブ・ジョコの訃報を伝える使者がやってきた。ブ・ジョコはなにしろ芸術高校の1期生として学び、その後教員となって定年まで勤め上げ、多くの芸術家を育てた人だから、芸術高校は電話であちこち連絡するだけでなく、主な関係先には使者を立てたのだった。私たちはそこでいったん練習を中断し、使者の人が先導して皆でお祈りをささげた。

その後、公演演目であるスリンピの練習をはじめたのだが、結局その日は私も他の踊り手も心ここにあらずだったらしい。踊っていると、ブ・ジョコに習ったことのあれこれがいろいろと思い出されてくる。それに、この夜は雨季に入って本格的に雨が降った最初の夜だった。ものすごい土砂降りと雷雨で、たいていの地域で停電した。この雨もブ・ジョコの死を悼んでのことだったのだろうか。私も、そしてブ・ジョコの子供たちにとっても、この雨はブ・ジョコが安らかに神に召された験(しるし)のように思われた。そしてちょうどブ・ジョコの亡くなったときに私がその作品を練習していたということも、遺族はそのような験の1つとして受け止めてくれたようだった。

この夜私は練習を終えてから12時過ぎにブ・ジョコの家に駆けつけ、通夜をした。亡きがらはプンドポの奥のダレムと呼ばれるスペースに、バティック(ジャワ更紗)にくるまれて安置されていた。表の方では近所の人たちによって明日の葬式の準備が進められている。ダレムでは続々集まってきた遺族がそのまま雑魚寝している。私は明け方の5時にいったん家に戻って水浴びをし、服を着替えて朝8時にもう一度ブ・ジョコの家に行った。そのときに最後のマンディ(水浴び)をさせるのだという。日本で言えば湯灌だろうか。先生の亡がらは先生の娘2人と妹に抱きかかえられて清められ、その後イスラムの白い装束にすっぽりくるまれて、棺おけに安置された。そして確か12時過ぎから告別式が始まり、2時に墓地に埋葬された。

これから公演しようというときに、その公演のインフォーマントのブ・ジョコを亡くしたことは、私にはこたえた。もっと早くに先生に成長した姿を見せるべきであったのに。けれども、先生はもしかしたら、もう私の手を離しても良いと思ってくれたのかも知れなかった。あとは一人でその道を進みなさいということなのだろうか。先生はいつも「舞踊教師が教えられるのはマテリアル(演目)だけなのです」と言っていた。どのように踊るのかは先生ではなくて生徒が自らが探求すべきことだとブ・ジョコは考えていた。いつだったか、ブ・ジョコに「どうして先生はスリンピ、ブドヨを必死で習得したのですか」と聞いたことがある。宮廷舞踊のスリンピ、ブドヨは1969年から始まったPKJT(中部ジャワ芸術発展プロジェクト)の一環で初めて一般公開されたのだが、多くの演目を習得し書き残している人はほとんどいないというのが実情なのだ。そのときのブ・ジョコの答えは、「もう私には舅(1972年に亡くなった宮廷舞踊家クスモケソウォ。ブ・ジョコはクスモケソウォの助手をずっと勤めていた。)がいない。もう甘えずに、自立しなければいけないと思ったのよ。舞踊教師として私は宮廷舞踊を伝えなければいけないと思ったの。」というものだった。私はそれまで、ブ・ジョコは単に宮廷舞踊tが好きだから伝承してきたのだと思っていたのだが、自分の道をそこに見出していたのだった。そしてよく考えてみたら、ブ・ジョコが偉大な舅を亡くしたのは今の私くらいの年齢の時なのだった。私ももう甘えられる年ではなくなったのだな、これからは一人なんだな、ということを感じながら、私は11月26日の公演に臨もうとしている。

けいようしい──翠の虱(25)

藤井貞和

「美しい、正しい解」という作品を去年書いたとき、

じぶんのなかでこわれたいくつかの、文法的問題点。

そのなかに、「けいようし」がありました。「けいようしい」

と言ってしまうんです。けいようしくない、けいようしかろう。

活用してしまうんです。うつくしく、ただしく、あおく、きよく、

声もなく、……

(英語やフランス語、その他でもおなじことがいえる。メランコリイ、メランコリック、アイロニイ、アイロニック、メロディ、メロディックなど、名詞/形容詞の対立はそのまま、日本語の連体形/連用形に対応する。なぜだろう。偶然の一致と思ってしまうひとはたぶん、どうかしている。うつくしっく、声もなっく、といっちまうんです。)

がやがや

三橋圭介

先日、港大尋と「がやがや」(障害者と健常者のグループ)の練習に参加した。はじめて行く光が丘駅周辺の人工的な雰囲気に飲み込まれながら、稽古場の区民会館に到着。打ち合わせで「がやがや」のメンバーが集まる一時間前に行ったが、もう何人か集まりはじめている。ぞくぞくやってくる。がやがやしはじめた。沈黙は金ではない。きっと「がやがや」という人間たちの集まりはみんなにとって大事な時間なのだろう。みんなひさしぶりに会って楽しそう。がやがや。なかにはほとんど話をしない子もいる。そこにいるだけで安心。がやがや。いつもしゃべっている子もいる。がやがや。ライヴのときに見かけなかった新入りさんもいる。私に話かけてくれる。がやがや。全員の自己紹介のあと、誰かが「歌おうよ」と言いだす。港がギターを取りだし、音楽がはじまる。ライヴのとき以来「がやがや」は歌をうたっていなかった。でもはじまると声が集まる。それまでほとんど話もしなかった子がうたいはじめる。林光の「雨の音楽」がはじける。一人の男性のはりきる声がみんなを誘う。縦ノリのリズム。それでもいい。歌わない人もいる。にこにこ笑って楽しそうに見ている。だれも彼に「いっしょに歌おう」とはいわない。でもがやがやの輪のなかに、それぞれきちんと自分の居場所がある。

反システム音楽論断片7

高橋悠治

空気の微妙な震え その変化が音となり
音を音楽という秩序におしこもうとする企ては いずれは破綻する
それが音楽史となった
究極の音楽と言えるものは だれも作れない
耳は響きに浸っていても 身体はやがてちがう音楽を要求する
身体を揺り動かす音の力は 音量ではない
かすかなリズムの揺れが身体の共振を触発し
その共振が自発的に内部で乱反射し 拡大して
身体全体を一つのリズムで揺さぶる
音はそのきっかけとなるもの
そのわずかな力がはたらきかけるのは
文化を 歴史を前提とした社会的な身体

音楽は すでにある音楽からできていなければ
身体に受け入れられることはない
そして そこに いままでなかった音が含まれていなければ
身体をうごかすことはできない
人間は いつも未知のものに惹かれるから
文化や歴史を創ってきた
そしてそれらは完結することはない
文化も歴史も したがって音楽も不満の表現だ
決して満たされることはない

振動の拡大は崩壊にいたる
吊り橋を渡るアリの群れの歩みが ついには橋を落とすように
めだたない一つの変化が 内側から全体に作用する
全体に共振する一点を発見するために ハンマーで叩いて
組織の弱い個所をさぐるように
実験が必要とされる

アフリカから輸入された奴隷たちが 数世紀かかって 
主人たちの音楽の時間枠をずらし
シンコペーションによって 対話する複数の声
抵抗する複数の時間を創りだしたこと
また
さまざまな色とかたちが組み合わされて
単一のイメージに収斂しないアラベスクのひろがり
としての音の世界を創ること

これらの実験によって
音楽は別な世界の夢でありうる

(この連載はここで中断する 書きはじめた時の予想とはちがって 以前に書いた断片はそのままでは使えなかった 音楽は変わり 考えることも変化する さらに実験をかさね 観察と発見がなければ これ以上は書くことがない)