うつくしかる(けいようしい、その2)──翠の虱(27)

藤井貞和

反・河を流し、反・池へそそぐ、
われら、反・樹のかげに。

へどろのうえに、きよらを掬い、
このきよらもて生かす、反・泉のよごれ。

にごり、またにごり、くさる葉を浮かべ、
そうしてまでも、

みずは上澄みを、
たくみに地上にもたらす。うつくしかる……

われらを生かしめる、うつくしかる上澄みを、
これ以上、よごさないで!

(「美しい、正しい解」という作品を去年書きながら、うつくしく、うつくしかるべき、うつくしからず、……文法的に言うと、カリ活用というやつですが、欧米語にもそのままあるんです。クラシック、クラシカル、クリティック、クリティカル、シニック、シニカル、……、-k, -kalの対立は、日本語でk音をのみのこしたというに過ぎないにして も、なぜだろう。偶然の一致と思ってしまうひとはたぶん、どうかしている。うつくしく、うつくしかる、と言っちまうんです。)

宣言

三橋圭介

新年あけましておめでとうございます。

現在、港大尋と小島きり率いる「がやがや」のCDを画策しており、4月か5月には発売にこぎ着けたいと思っております。いやいや、訂正です。ただ、思う だけではどんどん延び延びになって来年、再来年と繰り越されていきます(前例があります)。ですから、ご……ご…5月発売です、と思い切っていってしま います。男前です。いま決めました。できたら発売記念ライヴなんてあるといいけど、悲しいかな、これは確実にあります、とはいえません。でも練習所が広 いので、人を集めて発表会という形式でやるのがいいかもしれません。そうしましょう(よ!)。そういうスタイルのほうがこのCDにはふさわしいと思いま す。今、港や「がやがや」のみんなは、我を忘れて練習に励んでおります(練習は月1回か2回ですが・・・・)。最近は港の宮沢賢治の童話「よだかの星」 に基づく作品から2曲練習しています。練習ではみんなぴょんぴょん飛び跳ね、歌い、踊りしています。でも練習を重ねたからといって、歌がうまくなるとい うのではありません。均質な声で揃った合唱ならどこにでもあります。通常の意味を反転させ、相対化する港の歌を、それぞれ個性を持った厚みの声で奏でる のです。できたらみなさん買ってくださいね。ではお楽しみに…。

福寿草

大野晋

日本の新春を彩る代表的な縁起物の植物といえば、松竹飾りに南天、そして鉢植えの福寿草ということになるだろうか。雪解け後、すぐに花茎を伸ばし、先端に黄色の花をつける。古来より園芸に用いる植物だったが、最近は、園芸ブームで、特に自生地からの盗掘が後を絶たないらしい。しかし、私には窮屈な鉢植えの福寿草よりも伸び伸びと葉を伸ばした大きな自生地の福寿草の方が春らしく感じられる。
日本に自生する福寿草を分類すると4種類になるらしい。詳しくは論文を見るしかないが、植物の世界は様々な同種、異種を抱えるからひとによって見解が異なることもめずらしくない。かく言う私は「まとめちゃえ派」で細かな違いならまとめてもいいのではないかなどと思う。やがては遺伝子の情報も活用して同種異種の判断もつくかもしれないが、細かな形態の変化もなんらかの遺伝情報の変化が引き起こしているのだとすればそうそう簡単に片付かないのかもしれない。

特に、春先、真っ先に咲く福寿草は同じ生育地でも株によって咲く時期が異なるため、細かな形態の変化が遺伝情報として残りやすいのだろう。今後も、違う、同じだと言う応酬は続きそうだ。
正月に鉢物が咲いているのを見るのも好きだが、やはり大きく育った野に咲く方が好ましい。関東では露地栽培で2月から、もっと寒い信州では平地で3月。有名な姫川源流では5月の連休に盛りを迎える。ならば、鉢植えのこじんまりとした姿を見ながら、まだ遠い初春の明るい落葉樹林の下に広がる福寿草の黄色のじゅうたんを思いを馳せよう。

製本、かい摘まみましては(24)

四釜裕子

前回書いたヤリタミサコさんの本のための「無用で離れ難き帯」は、高橋昭八郎さんの「ポエムアニメーション5 あ・いの国」の現物を原稿とした。この作品は小さく折り畳まれており、それを伸ばし拡げた状態で反射原稿とする。できるだけぴんとしたいが、かといってそのために手を加えることはしたくない。紙の折れ線や折り山のめくれ、弱冠の汚れは「味」と考えていたが、作業するうえでその「味」をどう判断するかは難しい。

そこで、版元の水声社、印刷会社のディグ社に時間をいただいて、「あ・いの国」を囲んだ。伸ばしたり拡げたり、折り畳んでみるがうまくいかなかったり……を繰り返し、それはつまり楽しい楽しい鑑賞の時間であった。作品の魅力で、「味」の規準はなんなく共有できた。具体的なことはなにも言葉にしなかったが、適度なズレやカスレが抜群の「味」として再現できた。うれしかった。

10月末、書店に並んだという連絡を受けて、でかける。どの帯が、どう出ているだろう。いくつか書店を回ってみるが、やはり各店1種類。取次1社につき1種類の帯で納品されているからだろう。だから、おおかたの書店でこの時期目にしたのはせいぜい2種類だ。この状況は、もちろん予想していた。水声社の鈴木社長、担当の福井さんとは、もし4種類の帯を取次が認めてくれなかったら書店を回って自分達で帯をかけよう! もし1種類しか扱ってくれなかったら差し換えの帯を持って書店を回ろう! と妄想してシキを高めたものだった、「オビゲリラ」と名付けて。

各4種類、全8種類の帯がずらりと並んだ姿が理想であったし、「オビゲリラ」っていうのは笑えるナと思ったが、実際出ると印象は変わった。なにしろ複数の帯は同数刷っているので、時間が経てばいずこよりか、別柄の帯をしめたヤリタ本が出てくるはずだ。そもそもこの2冊は、このあとずっと長く読まれる本である。売るための役割を果たさない帯であるが、流通する帯の柄の変化が時の流れを飾って寄り添い、細く長く在るべき本を支えることはできるんじゃないか。新刊書店で、そして古本屋さんで。長く、長く。いつでもどこでも、出会うのが楽しみです。

しもた屋之噺(61)

杉山洋一

今晩は久々に深い霧が立ち込めています。朝の4時過ぎ、地階の寝室の窓からこちらをしばらく覗いていた猫の影がゆっくり去ってゆき、5時半過ぎ、寝室と壁一つ隔てて走っているモルターラゆきの線路を、そろそろと列車が通り過ぎてゆきます。クリスマスの連休も終わり、朝霧に包まれて今日から街は少しずつ活気を取りもどします。

12月初めはジェルヴァゾーニの練習の合間にボローニャのアンサンブルとドナトーニやブーレーズの本番があって、毎日の移動中にモーツァルトの交響曲をフューチャーした学校のセミナーの準備をこなし、自分の授業と3日間のセミナーを立て続けに終わらせて気がつくとクリスマスでした。

時間の使い方が下手なのでしょう。学校で教えるときは9時半に教室に入り夜の8時半に部屋を出るまで、水一口も飲まず教えて続けている有様で、時にはお手洗いにすら出ることなく11時間も教室にこもっていることになります。そうやって準備しても、生徒たちはセミナーでオーケストラを前にすると、やはりガチガチになってしまいます。

指揮クラスでは恩師ポマリコのアシスタント役として、新入生のテクニックを担当する気楽な役目の約束で、当初は皆で楽しくがやがややっていたら、一人また一人と、上級の生徒たちが「申し訳ないんだけど、時間が余っていたら見てもらえないかな」と不安そうな顔で入ってくるようになり、結局先に書いたように不安な人にまみれ11時間も教室にこもることになります。

ハフナー・シンフォニーとジュピター、可愛らしい29番がテーマでしたが、ハフナーを選んだ生徒たちは、幾ら教えてもオーケストラを目の前にすると最初の出だしで気後れしてしまい、収拾がつかなくなってしまいます。ジュピターの4楽章を持ってきた生徒はいなかったのですが、天国的な2楽章を伸びやかに歌わせるのは難しいと思うし、実際出だしの8小節を教えるのに1時間かけても、オーケストラを前にすると緊張で全く手が動かなくなってしまいます。イ長調の29番の1、2楽章はシンプルだし、テクニックも取っ付き易いはずですが、付点で飾り付けられた珠玉のメヌエットは侮れません。

今年の新入生は珍しく皆若くて平均23、4歳に見えますが、その他の生徒は30歳代、40歳代で、既に音楽家としてステータスがある人ばかりです。今年新しく入った生徒の一人はミラノ・クラシカというオーケストラの1番フルート吹きで、今年は指揮科の伴奏をミラノ・クラシカがやっているので、先日のセミナー中、彼はずっとオーケストラのなかにいて、降り番になるとこちらの教室で他の生徒と一緒にテクニックをやっていました。新入生たちにもオーケストラのセッションを見学させて、自由に意見を言わせてみたところ、言うことが奮っています。

「オーケストラとの授業はやっぱり胸がおどります。感激しますね」などと最初は調子のいいことを言っておきながら、「どの生徒も点がしっかりしていないと、オーケストラがぐちゃぐちゃになるよね」、「一々オーケストラに向かって注文をつけ過ぎ。何を言おうとしているのかもよくわからないし」。
彼らの中には、さっきまでオーケストラで演奏していたフルート吹きまでいるので、勢い話が盛り上がります。
「身体がぐらつくと、棒が見えなくてイライラする」、「最初のフランチェスコは駄目だったなあ、二番目のパオロも好きじゃなかった。あのジュピターの子でしょう? 三番目のアルフォンソだったかな、あれも好きじゃなかったなあ…」。
さすがに生徒たちが可哀想になってきて、何とか話を纏めないと思っていた矢先、
「もっと棒でやりたいことをしっかり表現しないと、駄目ですね!」
一刀両断ばさりと斬り捨てられたところに、「駄目でした…」と足を引きずりながら打ちのめされた生徒が入ってきました。

5、6年前から通って来ているジャズ・ピアニストのロベルト。イギリス人でロンドン生まれだけれど5歳からミラノに住んでいて、ロバートより寧ろロベルトと呼ぶほうがしっくりきます。背が高く白髪もずいぶん混じり40歳台も半ばを過ぎたというところ。不器用な上すぐにパニックに陥ってしまいます。暗譜で振るのが怖くて指揮台に上るだけで髪をかき乱して混乱してしまうのです。2拍子を振らせれば、どちらが1拍目だか分からなくなるし、メヌエット(3拍子)を振らせれば、物凄い目つきで4拍子を振っている。違うよというともっと目玉を飛び出しそうになりながら2拍子を振っている。止めれば慌てるのは分かっているので、そのままピアニストについていって貰い、最後の小節は当然字あまり。

典型的なブリティッシュ・コメディーのような性格なのですが、ジャズ・ピアニストとして活躍しているし音楽の才能はあるのだからと、辛抱強く身体と頭をほぐすことに費やしてきたところ、去年あたりから俄然調子が出て来ました。ポマリコにもやめてほしいと言われながら、もう一年もう一年と頼み込んでここまでやって来たのだから、彼も相当な頑固者です。そんな頃を知っているので、彼がオーケストラを振るだけで感激するのだけれど、そのロベルトが今回のセミナーでは、上手にジュピターの1楽章を振ったらしい。生徒たちが言うには、オーケストラの音を引き出すのは彼が一番上手だったし、とても勇敢だった。はて勇敢な指揮とはどんなものかわかりませんが、妙な賛辞ながら口を揃えて褒めていたし、自分でも狂喜して髪をかきむしっていたそうだから、直前まで緊張でガチガチのロベルトを落ち着かせるべくレッスンしたのも報われました。

そういう按配で昔の師匠との関係は続いていて、今年のクリスマス25日にはポマリコが昼食に招いてくれました。こちらの25日は日本の元旦そっくりで、家族が集ってゆっくり昼食を頂く習慣です。今年は、厳かで静まり返った朝に抜けるような青空が広がって、見事な一日でした。
数年前にご主人が亡くなったショックから、アルツハイマーが始まったお母さんエンマに会うのは3年ぶりでしょうか。思いがけなく明るく、陽気なエンマの姿に、初めは少し戸惑いました。「エンマの記憶が少しずつ混濁してきていてとても辛いんだ」とポマリコからも聞いていたし、ご主人の喪失から間もない3年前のクリスマスに会ったときの、力のこもらない笑いと大違いで、見違えるように愉快で闊達なおばあちゃんになっていました。
冴え渡るヴァレーゼの白い尾根が、鮮やかに青空に突き出しているのに見とれながら、車中ポマリコとエンマの会話に耳を傾けていると、大方クリスマスのお祝いの電話をどこから貰っただの、親戚の誰それがどうしただの、ごくありふれた家族の会話に聞こえました。

ポマリコが振ったモーツァルトの39番をかけると、嬉しそうにステップを踏んで「わたしはね、若いときに主人と一緒にずいぶん踊ったもんだよ。コンテストでも随分優勝したし」。「音楽を聴くのは嬉しいけれど、弾いてる若者たちの顔が見られないのはちと惜しいね。良く見りゃあんたもいい若者じゃあないか。音楽はいいねえ、若くて器量良しの男の子や可愛らしい女の子が集って一緒に弾くんだから、楽しいよねえ。見ているだけでも楽しいさ」。

前菜のサラミからトルテッリーニのブロードに移った頃でしょうか。「フランチェスコ、ねえフランチェスコや。このトルテッリーニは美味しいねえ」、エンマが思わず声を上げました。傍らに座っていた娘のラヴィニアが、「おばあちゃん、お父さんはエミリオだよ。フランチはエミリオの弟」と優しく言葉をかけると、「ラヴィ!」と小声で諌める声がしました。
それから暫く、純白のテーブルクロスの食卓は、12月とは思えぬ眩い太陽の光が、きらきらと輝くばかりでした。

(12月27日 ミラノにて)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

こころに深く刻まれた人生の場面はどれも記録に残す。時間のあるなしは問題ではない。写真でもなく、イマジネーションでもなく、絵画でもなく。あの日わたしはピンパーと出会った。わたしはその若い女性の奥底に炎を見たように感じた。彼女の両眼にタバコに火をつける際のライターの灯がともったかのように。

孤独にさいなまれたある夜わたしは王宮前広場を周るコンクリートの道をあてもなく歩いては時間つぶしをしていた。もう11時過ぎだというのに若いカップルが幾組もまだ芝生で愛を囁きあっている。それをながめると妬ましい気もわいてくる。自分の恋人を思い出したりもする。彼女はさっさと結婚してしまった。。。それだけだ。わたしたちの恋もそれで終わりだった。彼女が大きなお腹をかかえている姿を思い浮かべてみる。あと何年かすればもう何人もの子持ちになっているだろう。子供たちを学校に行かせるために少しずつ蓄えをしていくことだろう。40歳になるころには勤勉でい続けるにはもう疲れてしまっているかもしれない。異性間の愛情には夫婦となること以外にはいったい何があるのだろうか。寡婦のこころのうちに、背中をさする老婆の掌に、静謐な光と風の中に、彼女は何故暖かさを見出そうとしないのだろうか。

道路には車も通らなかった。たまにバスが疾駆してくるくらいだ。王宮前広場を一周する歩道を歩いていると前方から3、4人の男がやってきた。そして酒の匂いをプンプンさせて通り過ぎていった。タクシーを停める声が聞こえる。それから値段の交渉をする声。そのあとかれらはシートに身を投げかけ脚を投げ出して目的地まで眠っていくのであろう。

わたしが自分の影を見つめているときタマリンドの並木の中の一本から男の呼び声を聞いた。わたしはあいかわらず歩き続けていた。自分が呼ばれているとは思わなかったからだ。

「ちょいと、あなた。。。」その声が大きくなった。それとともにコンクリートに当たる靴の音がついてくるのを感じて振り向いてみると、靴音の主は髪をきれいに梳かしつけた清潔な身なりの小柄な男だった。腕時計をしている。ほの暗い灯りの中でつるっとした顔の肌と笑みを浮かべた眼が見て取れた。

「今もう何時ころですか?」と彼は訊いた。
わたしはその男の腕時計を不可解な気持ちで見やると、彼はゆっくりとわたしに近づいてきた。香水の匂いが鼻についたのでこの男が何者であるかはっきりと分かった。
「君は時計持ってるじゃないさ。わたしはないのに。うるさくついてくるなよ。あっちへ行けよ」
「そんなに急いでどこへいくんですかあ?」男はそう言うとまだついてくる。

この男の汚れた口の中、淫らな熱い息を思うと吐き気がした。話をする気にもならない。時によってはこの種の連中を疎ましいとは思わないこともあるのだが、時によっては疎ましいと思う。いじめてやりたくなる。そこでわたしはわざと笑顔を作って言った、
「家に帰るのさ。いっしょに行くかい。バスももうなくなる。来いよ」と手を広げて見せた。
男はためらいを見せた。彼の顔色が青褪めていくのを見た気がした。それから失望したように戻っていった。わたしは勝利して意地の悪い快感を味わうと男の背後からどなった、
「お〜い来いよ、この化けもん!」

(続く)

アジアのごはん(16)南インドの米粉パン

森下ヒバリ

南インドは、なんとなくアジアの気配がする。はじめてチェンナイ(旧マドラス)の街に一歩踏み出したとたん、ここはアジアだ、と感じた。ここよりもアジア地域に隣接しているバングラデシュでは濃厚なインド世界なのに、南インドでは、いくつかの町を旅したが、どこもゆるゆるとした独特のやさしさが漂っていた。

なにがアジア世界で何がインド世界なのかと聞かれても困るが、チェンナイの町を歩いたり、オートリクシャで出かけたりするときの気分が、ほとんどなじみのアジアの町バンコクにいるときのようなのである。ふしぎにすぐに町になじんで、リラックスしてしまった。

もともと南インドは紀元前からドラヴィタ族の国で、北部のアーリア系の住民とはかなり違う。ドラヴィタ族をはじめインドの先住民族たちは、かなりアジアっぽい人々だったのではないかと思う。色は黒く、背はあまり高くなく、顔つきは丸くてくしゃっとしていたはずである。南ではそういうタイプの顔の人が多い。こういう顔つきのおじさんが、雑貨屋で袋など見ていると「どこから来たの?」とにっこり笑ってくれたりする。

チェンナイから50キロほど南のマーマッラプラムという小さな町には、BC700年ぐらいに作られた磨崖彫刻がたくさんあり、のびやかな造形の神様や牛や民の姿が岩山の壁面にいまも残されている。このまち以外にも古い遺跡はこのあたりに多い。

マーマッラプラムには海岸に「海岸寺院」という遺跡があり、波の高い激しい海に向かって建っている。この7世紀に立てられた海岸寺院が向かっている海のずーっと向こうには、アンダマン・ニコバル諸島があり、その向こうにはマレー半島がある。マラッカ海峡を越えてインドシナ半島、さらに中国まで、アラブやインドの人々が渡って交易していたのは、何も15世紀や16世紀のヨーロッパの進出を待つまでもなく、かなり古代から行われていたらしい。

インドシナ半島の東側一帯は、北部をのぞいて2世紀ごろから15世紀ぐらいまでチャム族の国、チャンパ王国だった。彼らは海洋民族といわれ、交易・海賊で財をなし、そのほか絹織物や稲作、陶器、灌漑など高い技術と文化を持っていた。チャム族は、南インドから移住してきたという説もある。
古代チャンパ王国のミーソン遺跡群は現在のベトナム中部ホイアンの近くにある、チャム族の宗教的聖地だった場所である。ここは山に囲まれた静謐な場所で、その地に立てば、チャム族が聖地に選んだのもすぐに納得できるような神々しさに満ちている。

ミーソンの歴史は4世紀から13世紀にわたる。ベトナム戦争でかなり破壊されてしまったが、今も残るれんがの建物たちは多くがヒンドゥー様式の寺院で、インドの影響を強く受けている。アンコールワット遺跡群がこのチャム族の建造物を真似て、いや参考にしていることは一目瞭然だ。ベト族がほろぼしたチャム族の、その遺跡を世界遺産としてベトナムがいま、一生懸命修復保存に努めているのもなんだか皮肉なものではあるが、ベトナムでは文句なく一番すばらしい遺跡群であろう。

マーマッラプラムの海岸で、チャム族のルーツはこの海岸地方かも……などと妄想にふけっているとおなかが空いてきた。さっそく食堂に入り、南インドの名物料理だというマサラドーサを注文した。そのマサラドーサが出てきて、本当に驚いた。うわさには聞いていたが、レンズマメの粉で作ったパンケーキがこんな形で出てくるとは。

それは直径が50センチはあろうかという巨大なパンケーキで、それをくるりとまいて太い筒状にしてあり、中にカレー味のじゃがいものマッシュが入っていた。もちろんバナナの葉っぱをしいた皿から大きくはみ出している。ほかに2種類ほどのカレーソースのようなものとヨーグルトがついている。

味の方はというと、なかなかふしぎな味である。なるほど豆の粉から作った、といわれればそういう味がするかも。中のカレーじゃがいもはおいしい。もちろん、どの店でも巨大なロール状のものを出すわけではない。ドーサというのがプレーンタイプで、チャパティやナンのように焼いたものをちぎってカレーソースにつけて食べたりもする。

もうひとつカレー文化の国では珍しい食べ物に、イドゥリというのがあった。こちらは米好きな南インドらしく、米粉を発酵させてつくる蒸しケーキのような饅頭のようなものである。もっともレンズマメ粉でつくるものもあるらしい。米好きな上に豆も好きなのね。これの上にカレーソースをかけて軽食とするのだが、これも少しクセがある。見た目は白い蒸しパンなのだが、粉を発酵させているのが独特の風味を生んでいるのだ。こちらはあまり好きになれなかった。

南インドの主食はやはり、なんといっても米飯で、白いごはんにカレーを混ぜて食べる。北ではターリーと呼ばれる定食が、こちらではミールスと呼ばれて、ステンレスの皿やバナナの葉っぱの中央に白いごはん、そしてその回りに何種類ものカレー、ダール豆スープ、生野菜を刻んだサラダ、ヨーグルトなどが一緒に盛られて出てくる。鶏肉を炊き込んだビリヤーニもおいしい。

もう少し南のポンディシェリーは、海岸沿いのうつくしい町で、イギリスがインドを植民地化していく中、最後までフランスが手放さなかった町のひとつである。精神修業のアシュラムが数多くあり、国際的な共同体オーロヴィル(これも巨大なアシュラムのような存在)も郊外にあり、町には少し謹厳な雰囲気も漂っている。

なにせ、泊まったゲストハウスはあとから気がついたのだが、そのオーロヴンド・アシュラム系列の経営で、受付でまず、門限は22時、ホテル敷地内での飲酒・喫煙・麻薬は禁止、これらを守れない人は宿泊できません。と書いてあるものを読まされ、同意すると部屋をくれるのである。この宿は、海岸沿いでどの部屋からも海が見え、広い庭があるというので選んだのだが、部屋に入るとオーロヴィルの創立者オーロヴンド夫妻のアップ写真がどーんと飾ってあるので、やっとアシュラムの経営だと気がついた。厳しいはずである。

一緒に行った若い友人たちは、酒もタバコもたしなむ方だったので、けっこう苦労したようである。酒は外で食事のときに飲み、また部屋でこっそり飲んでも分かりはしないが、タバコの煙は吸わない人間にはすぐ分かる。部屋で吸うわけにはいかない。環境も部屋もすばらしいので、何泊もしたのだが、その間どうしていたのかというと、スモーカーたちは門限時間直前になると、いそいで門のところに行き、門の外で何服かして、おもむろに門を閉める門番の合図で中に入っていたという。他の白人旅行社も何人かスモーカーがいて、門のところはけっこう国際的に賑わっていたようだ。門番のおじさんはもちろんスモーカーで、すっかりツーカーだったようである。

ホテルの海に面した美しい芝生の庭には茶色い猫が住んでいた。ふだんはあまり愛想がよくなかったが、テイクアウトの食べ物を持っているときと、雨の日にだけ擦り寄ってきた。雨の日には寒かったらしく、部屋までついてきた。ちゃっかりとサンドイッチのハムを食べて、眠ってしまった。猫は人間のベッドで一緒に寝たかったらしいが、それはお断りすると、素直にソファに移動した。

じつはこの南インドの旅は、ちょうど2年前のインド洋地震・津波の3ヶ月ほど前のことであった。ポンディの宿の庭の端にはヤシの木が並び、その向こうにはインド洋が広がっていた。その朝や夕べの妙なる美しさ。津波はアチェやタイ西海岸だけでなくインドの東海岸も襲った。ポンディの町でもたくさんの人が命を奪われ、建物も被害を受けたはずである。海に近いあの宿も甚大な被害を受けたはずだ。

あの猫もどうなってしまっただろう。スリランカでもタイでも津波の甚大な被害を受けたのに、沿岸の動物は犬や猫をはじめゾウまで鎖を引きちぎって事前に逃げ、動物の死骸はほとんどなかったという。あのちゃっかりものの猫もさっさとどこかに逃げ出していたかもしれないが。海に持っていかれてしまったたくさんのいのちと暮らし。いつかまたあの町を訪ねるときが来るだろうか。

007「限りなき義理の愛大作戦」

さとうまき

イラクの情勢は悪化するばかり。イラク人の友人の多くは、国を捨てたがっていて、最近、何とかならないかという相談がやたら多い。脅迫状が届けられて、いつ殺されるかわからないというのだ。亡命の仲立ちをしてくれという。毎月3000人もの市民が命を落としているというのに、僕たちは何にもできないのだ。2006年は、ともかく無力感を感じることの多い年でもあった。支援している白血病の子どもたちも、良く知っている子どもが5人亡くなった。

ともかく、病院に来るのも大変だという。バグダッドにはチェックポイントがあって、シーア派かスンナ派かで命を分ける。ルワンダの内戦と同じような状況になってきている。バグダッドの病院では患者の数が50%くらいになってしまったという。せっかく僕らが続けてきた支援も瀬戸際に立たされている。白血病の子どもたちは、今まで苦しい闘病生活に耐えてがんばってきたんだから、あと少しのところを何とか支えてあげたい。

人々はイラクのことなどすっかり忘れて、募金も集まらず、このままでは、薬がそこを付き多くの子どもたちが死んでしまう。そこで、登場するのが、007こと、ジム・ボンド。今年も、バレンタインデーに向けて、チョコレートを売って、その収益金で、ガンの薬をイラクに届けるというのがその計画だ。そもそも、アメリカ軍とかイスラエル軍は、軍事作戦に文学的な名前をつけたりする。「怒りの葡萄」作戦、「砂漠の狐」作戦などなど。それが悔しくて、私は、たとえ、しょうもない仕事でも、大げさに文学的な作戦名をつけることにした。「冬のかき氷」作戦、「サンタの穴あき靴下」作戦、「砂漠のゴール」作戦などだ。しかし、うちのスタッフは、恥ずかしがって、なかなかこの作戦名を評価してくれないのが悲しい。

日本の自衛隊は、サマワでSU作戦。これは「スーパーうぐいす嬢」作戦のことで、目的は、地元の人たちに溶け込むため。サマーワ入りした際、現地の人たちが笑顔で手を振ってくれて、それが互いの心が通じ合う感じがした。それに、これだ! と思いつき、選挙運動の時のうぐいす嬢をまねて、装甲車や車両から現地の人々に笑顔で手を振らせたという。こっちの方がもっと安っぽくて赤面してしまいそうなネーミングじゃないか!

昨年に引き続き、バレンタインデーがまもなくやってくるわけだが、早速作戦会議を行う。「今年は、2007年だから、限りなき義理の愛作戦2007で行きましょう」「それ、なんだか平凡すぎない?」「どうせなら、007(ダブルオーセブン)限りなき義理の愛作戦で行こう。ジムネットのジム・ボンドというキャラクターを登場させて、中東をまたにかけて子どもたちを救うというストーリーだ。」「えー、ぜんぜんかわいくないです。女の子たちが楽しみにしているバレンタインデーのイメージが丸つぶれです。」スタッフの反応はいまいち。「つまりだね。今年のバレンタインは、007世代にフォーカスをあてるんだ。若いカップルだけのバレンタインじゃない。つまり解放だ!」「ジェームズ・ボンドのモテモテ姿にあこがれた世代が一斉に今年定年退職だ。そこを狙うんだ」「いまいちですね。2月は正月映画も終わってるし。」結局作戦会議では結論がでないまま年が明けてしまうことになるが、私の中ではすでに、007のテーマが鳴り響いている。

今年のタイトルは、スタッフの同意も得られず「007(団塊の世代の退職金でチョコレートかって!)限りなき(いつまでも続く戦争を止めさせたい)義理の(約束した支援はちゃんとやろう)愛(やっぱり愛でしょう。平和のためには)大(1万個売ります)作戦」にひそかに決定した。

大掃除も終えた2006年、12月30日、ジム・ボンドは作戦決行のため、ひっそりと孤独にパリへと飛び立ったのだった。

というわけで、今年こそは、イラクに平和が訪れますように。

注:今年のJIM-NETのチョコレートは、北海道の六花停に特注。
メッセージカードには、イラクの子どもの絵に東ちづる、酒井啓子、湯川れい子、鎌田實、坂田明、吉田栄作がお話をつけた。一個500円で1月15日より全国各地で販売予定。詳しくはHP http://www.jim-net.net/

私たちはどこへ行くのか(1)生命を売買する社会

石田秀実

去年は透析をしている者にとって、いやな事件がたくさん起こった年だった。近親者間の生体腎移植をよそおって、腎臓の売買がなされていたこと、その中には腎臓癌などの病気で摘出された腎臓も含まれていたことなど、唖然とする出来事が多かった。透析者にとってはよく知られていた事実だが、中国やフィリピンに赴いて、まだ生きている貧困層や死刑囚から取り出した腎臓を、買い入れて移植する人々が絶えないことも、ようやく公にされるようになった。恥ずかしい限りだ。

生きている人や死刑囚からの内臓売買が、アジアで公然と行われていること、その主な買い手が、日本や香港から移植のためにやってくる、その国ではそれほどでなくとも、他のアジア人から見ればとんでもなく富裕な腎不全患者であることは、関係者の間では、前からよく知られていたことだ。かれらはそれが違法であることを承知の上で、海外渡航して腎臓を買いあさっている。

驚き呆れるのは、それを行っている患者の言動だ。売買による腎移植を正当化するに事欠いて、「移植以外に助かる道はない、死ぬしかない」などという虚偽を平然と述べ、不幸極まりないようなそぶりをして見せる。同じ腎不全患者として、人一倍高い医療費をむさぼり続けることに恥じている私や幾人かの透析者仲間は、そんな実情などどこ吹く風、余りにも身勝手で空々しいうそをつき続ける人々を、苦い思いで眺めるしかない。

この国では、腎不全になっても普通は死ぬことなどありえない。人工腎臓(ダイアライザー)をもちいた透析さえ続ければ、移植などせずとも30年以上も生き続けることができる。しかもほぼ無料で。

透析医療そのものがなく、腎不全になれば死んでいくしかない地域や、福祉制度の関係で、富裕層しか透析の恩恵に預かれない地域は、世界に多い。3時間以下の透析しか受けられないアメリカのような場所や、福祉制度が整っていても、日本をはるかに越える広い国土に、70箇所しか透析施設がないスェーデンのようなところさえある。狭い国土に3000を超える透析施設がひしめき、長い透析時間が確保されている日本の腎不全患者は、恵まれすぎているというほかない。

そんな場所で生きながらえているのに、それにすら満足できず、海外にまで赴いて、他者の生命を売買する違法な腎臓売買に走る人々の本音が、「これ以外に助かる道がない、死ぬしかない」などであるわけがない。透析が苦痛を伴い、厄介である、というだけのことだ。彼らが死ぬ可能性は、あいにくなことにほぼ100パーセントないといってよい。

もちろん長年の透析者として、私にも透析生活の厄介さや苦痛はよくわかる。だが、人工腎臓による透析は、なんと幸いなことに、他者の生命を奪ったり傷つけたりせずに、何十年も生きることができる方法なのだ。こうした人工臓器の開発されていない重い肝臓病や心臓病とは、精神的にも肉体的にも、苦痛のレベルが違いすぎる。
人工腎臓に縛られることのない、より快適な生が欲しいからというだけの理由しかないのに、「ほかに道がない、死ぬしかない」などという虚偽を垂れ流し、経済的格差を利用して、生きている他者の生命を買い漁る人々は、自分が買った他者の生命や生活のことを考えたことがあるのだろうか。毎日のように「恥の文化」とか「国家の品格」とかをこの国の人々が説きまわっているのを見ると、これはたぶんそうしたものがどこにもないからなのだな、と思わずにはいられない。

患者に漬け込む医者の言動も、あきれ返るとしか言いようがない。癌になってしまった腎臓は言うまでもあるまい。機能が正常でなくなって切除しなければならないような腎臓を、免疫機能が落ちた腎不全者に移植することがどんな結果を生むかなど、子供にだって分かる(本当は切除する必要もなかった腎臓を、病気の腎臓と偽って切除し、移植に用いたのかもしれないが)。

どうしても生体間の腎移植をおこなうなら、生体腎提供希望者の身元を調べ、カウンセリングを行い、言い訳ではないちゃんとしたインフォームドコンセントを繰り返した上で、倫理委員会の手続きを経て、慎重に行わねばならないはずである。そうした手続きを一切行わずに、利益目当てで機械的に生体移植を繰り返して来た医者が、テレビの前では「癌が転移しないかと祈る気持ちでやった」などとうそぶく。そうした報道を、何の批判もなく平然と垂れ流すマスコミの科学部には、医学の常識やイロハを調べる機能がないとでもいうのだろうか。

臓器移植を待つ人が何万人もいる、という報道は事実だが、その9割以上が、人工腎臓で30年以上も生きながらえることができる腎不全患者であることは、なぜかあいまいにしか報道されない。ほんとうに「それ以外に助かる道がない」人々は、ほんのわずかである。それなのに、9割を超える腎不全患者を含めた何万人の人々がみんな、「それ以外に助かる道がない」患者であるかのような虚偽報道が延々と続いているのだ。

夢の医学として語られる再生医学となれば、そのための移植を待つ人の大部分は、「それ以外では助かる道のない」人ではなく、「寿命として死ぬべく定められたすべての人々」になる。人は誰でも衰え、死んでいくはずなのだ。そのすべての人にとっての「あたりまえ」を、再生させて元に戻し、不老長寿にしようとすれば、地球上のすべての人は「常に必ず」臓器移植適応となる。そうなった時に、私たちはみんなで互いに他者の臓器を当てにし、「私は世界で一番不幸です」という顔をして見せ合うのだろうか。

もちろん再生医学が実現した暁には、そうした再生医学の恩恵にあずかれる人と、そうでなく逆に人体利用の原料提供者となる人々との格差は、今をはるかに越える形で開いているだろう。移植に預かれる人々は、「もっとも幸福で裕福な」一群の人々だけになるはずである。

人体利用の原点である臓器移植について言えば、それに不可欠ないわゆる脳死状態の人が、実は「死者でもなんでもない」ことは、1998年のA・シューモンの論文で、科学的にすっかり明らかになった。「脳が死ねば身体の有機的統合性が失われ、すぐに心臓も拍動しなくなって人は死ぬ」というアメリカ大統領委員会の公認した説は、脳神経学者シューモンが実証的に検討してみると、完全な誤りだったのだ。

脳が死んだ(つまり脳の不全状態)だけの、概念の上では真正の脳死者は、その言葉と裏腹に長い間生き続ける、いわば「慢性の」脳死者である。「慢性」という言葉は、「死者」という概念と矛盾していること注意したい。

かれらは「身体の有機的統合性」を失っていないどころか、次第に安定させ始める。不当にも「脳死者」と呼ばれた人々が、出産したり、体温を安定的に保てたのは、そうした身体の有機的統合性が保たれていたからである。いわゆる「脳死者」を「長く生き延びさせる実験」や、「脳死者を使った生体実験」について、得意げに語った人々は、単純で愚かな誤りをしていたことに気づくべきであった。死んでなどいない人に「死者」の名をつけ、そのうえで「その人が生き続けていること、生かしうること」を、矛盾と感ずることもなく得意げに報告していたのだから。

終末期を迎えて苦しんでいるこうした病者を、どう扱うべきかについて、まともな解答を与えていたのは、皮肉にもナチスが1931年に制定した人体実験の被験者についての規正法である。「終末期にある患者には、尊厳があるので、人体実験を行ってはならない」と彼らは(彼らでさえ)規定している。終末期に差し掛かって「深昏睡」状態となり、苦しんでいる患者を前に、どういうわけか「この患者をどう利用しよう」という問いを立て、そのためには「死の概念」まで捻じ曲げて恥ずることのない私たちとは、いったい何者なのか。苦しむ患者を看取ることと、その身体から生きたままの臓器を抜き取って殺し、功利的に利用することとは、まったく別の次元の事柄であるはずである。

「脳死」なる虚偽の概念が形成された過程も、いまでは明らかになっている。俗称ハーバード脳死委員会と呼ばれる委員会が、「深昏睡」という「実は生きている状態」を、「死んでいることにする」ために、「脳死」というテクニカルタームを作り上げたことは、今では明白な事実だ。それを追認したアメリカ大統領委員会で、「科学的脳死概念」として喧伝された「身体の有機的統合性をつかさどっているのは脳なので、脳が死ねば有機的統合性が失われ、心臓もすぐに止まって人は死ぬ」というドグマはといえば、グリセやボイルなど委員会のカトリック神学者の説に過ぎず、科学的検証などされていない代物だった。21世紀になったというのに、私たちは科学的概念と神学的概念を取り違えるほど愚かなままなのだろうか。

こうした非科学的で神学的な概念を、先端科学だと偽って日本にもたらした厚生労働省とその御用科学者は、ここまで明白になった事実にどう答えるのだろうか。1990年代になっても「脳死を人の死と認めぬ人間は、非科学的な野蛮人だ」などと語っていた日本の移植医たちは、肝心の自らの科学性こそ問い直すべきだろう。ちなみに彼らの科学的脳死判定なるものには、肝心の「身体の有機的統合性」を調べる項目が入っていない。それどころか「身体の有機的統合性が喪失していない」ことを示す指標である「体温が維持されている事実」は、かれらの脳死判定基準によると、なんと「脳死の証拠」になっているのだ。

「脳死」という言葉そのものが、今では科学的に認められる言葉ではない。したがって臓器移植は、それを論理的ないし科学的に認めようとすれば、殺人としてそれを構成するしかない。さもなければ悪名高いパーソン論を使って、脳の不全状態に陥った人々や植物状態の人、理性のまだ発達していない胎児・幼児を、人間ではない「異種としてのヒト」として、差別的に利用するしかない。

R・トゥルオグなど、科学的事実をきちんと踏まえようとする医学者は、臓器移植を「正当化された殺人」として認めようとしている。安楽死を認めていこうとする風潮に習い、移植を殺人として認めたうえで、その行為を違法性阻却に当たる行為だとして、論理を組み立てていこうというのである。一方で、P・シンガーなどパーソン論者は、感情ある動物の権利論と組み合わせた形で、感情を喪った人間の「異種化」という解決策を提示している。異種移植だということになれば、殺人ではなくなるからだ。もちろんどんな動物に感情があり、どんな人間に感情がなくなっているかという彼らの線引きは、きわめて杜撰で恣意的である。

だが、最も一般的で非科学的な、そして残念ながら最も一般受けする解決策は、軍事利用と一体のものである原子力の「平和利用」なるものと同様、科学的事実を認めて論理的にことを考えていこうとするものではない。逆にその非科学性と残忍性を隠し、脳死という今では否定されたはずの概念の真の姿をあいまいにしたまま、あくまで科学的に認められたものであるかのよそおって使い続けることだ。

脳死概念が科学的に否定されたことには一切触れようとしない日本の臓器移植改正法案も、この方向で一般人を欺くことをめざしている。アメリカでもヨーロッパでも、脳死という科学的には完全に否定されてしまった概念の真実の姿については、あいまいにしたまま、既成事実となった臓器移植を続けていこうという意思だけが一人歩きしている。科学的真実がどうであれ、21世紀の資本と技術は、生命、とりわけ生きている人間の生命を操作し、売買し、利潤を上げる方向に、社会の舵を切ってしまったからだ。

日本でも、一連の報道の背後に、バイオテクノロジー開発を至上命令とする厚生労働省と経済産業省の、情報操作があることは、素人の目にもよく分かる。シンガポールや、共産主義国を僭称する中華人民共和国など、開発独裁のひしめくアジアの中で、先の見えた石油やITを乗り越えて、バイオテクノロジーを推し進めようとすれば、人体利用の道を開かねばならない。

そのために必要となる原料として注目されているのは、生きている中絶胎児や、いわゆる「脳死」扱いされた、生きている人の身体、さらには植物状態の人、先天的障害を持って生まれる人々、更に不法入国した人々の身体なのだ。生きている腎臓の売買など当たり前であるかのような風潮をつくり、できればそれを明文化して既成事実化することこそ目指されなければならない。欲にぼけた医者や患者の行動であっても、黒い夢をめざして将来を誘導するためには、都合のよい情報として利用するにしくはない。

ちなみに生きている中絶胎児について言えば、その人体売買市場での価値は、1体が3万円ほどだという。生きたまま切片にして、様々なバイオテクノロジーの材料に用いるのだ。もちろんこの値は、売買の値ではなく、「加工料」という形で抜け穴が作られている。小泉元首相が座長を務めたバイオテクノロジーの戦略会議の中で、2010年における世界の人体利用市場市場価値として掲げられているのは、230兆円である。

prefigurative

高橋悠治

望む変化を いまのありかたにする
音楽は変化の先取りの場
日常性は 哲学ではない
日記のように てがみのように
いまならブログか
ちいさなもののつらなりが
そのまま変化であるような
よわい音 ゆれるうごき
音のスケッチ
断片でしかありえない感覚
はじまりも終わりもない
途中も途切れて
まがる線のからまり
唐草
くりかえしのない
おなじもののない
対立もない
ずれる中心
とける結び目
ほそり
かげり
かるみ
しおり
わけいる
しみわたる

来るべき年のしごとに