太陽の布団

さとうまき

今日は、久しぶりに晴れた日曜日だ。ふかふかの布団が心地よい眠りをくれる。布団を干すことが、ここまで気持ちいいのかと、改めて思う。いつまでも寝ていていいのかもしれないけど、なんだか不安が吐き気に変わって、もはや居心地は悪くなり、布団から出る。

イラク戦争が始まってから4年。イラクは地獄に落ちてしまったが、この日本は、どうなんだろう。なんだか、息が詰まりそうで、僕の周りには、酸素が少ないような気がする。イラクでは、難民が数百万いるのに、日本ではネットカフェ難民? 街中には、ホームレスが増えている。政府がいつも説明する国益のために、賛成したというイラク戦争の効果は、どうなのか。

イラクのニュースは、今日もテロばかり。100人以上が殺され続けている現実には、胸が痛む。イラクの友人が巻き込まれていないか気になる。日本もイラクも暗い話ばかり。

そんな中で、写真が送られてきた。戦争前に出会ったスハッドちゃんという9歳の女の子がいたのだが、とっても素敵な絵をかいてくれた。両手をいっぱいに広げた少年の絵。それは、後ろにいる女の子を守っているかのようだ。それをポスターにして、何万枚も作って僕らは戦争反対を訴えた。03年戦争が始まったときに、ああ、どうしてるんだろうと心配したが、音楽学校の庭に防空壕を掘って難を逃れていたのだ。お父さんが、学校の守衛をやっているので、住み込みで学校で暮らしている。

戦争が終わると盗賊が学校をめちゃくちゃに壊していった。ピアノを壊したり、バイオリンを壊していったのはアメリカ軍ではなかった。イラク人である。隣の児童館も、ダワ党がやってきて、児童館を破壊して政党事務所にしようとした。ダワ党は、今のマリキ首相の党である。子どもたちは涙して、「イラクはひとつ!」と訴えていた。ああ、その子ども達の言葉の重み。イラクは一つになれず、イラク人同士が殺しあう状況が続いている。

そして、スハッドちゃんの写真を見るとすっかり、立派な娘になっている。もう14歳になるのだ。生きているってすばらしいなあと思う。そして、平和のメッセージを書いてくれたそうだ。あの少女の目のきらめきは、衰えることなく、輝き続けている。

先日、ジャーナリストの綿井さんの報告会に行ってきた。先月バグダッドに行っていたので、その話が楽しみだった。彼とは、04年の3月にイラクで会って、がん病棟の取材をしてもらった。スハッドちゃんにも会っているので、バグダッドに行くんだったら会ってきてと言っておいた。
「取材は厳しくて。病院の取材はできませんでした。保健省の許可がでない。挙句、賄賂を要求される」
学校もなかなか難しくて、通訳の関係する別の学校の映像を見せてくれたが、綿井さんは、危なくて行けなかったという。映画リトルバードに出てくる子ども達に再会するのだが、それも、コンクリートの壁に覆われた、パレスチナホテルまで来てもらったという。通りまで見送りたかったそうだが、外国人と一緒にいるところは見られたくないと、家族たちは、去っていった。なんともさびしい映像だった。

一方、私がであったバスラの白血病の子ども達は、この4年でほとんど死んでしまった。バスラに電話するとイブラヒムが、病院にいるという。アルラール・ジャバルちゃん(9歳)が電話口で、詩を読むように話してくれた。

神様、神様、
誰が、私たちの望みをかねてくれるの?
たくさんの贈り物で、この日を幸せにして。
私が、学級で勉強するのを助けてくれるとうれしいなあ。
科学の力で私の頭を賢くして、心をきれいにして。
私とこの国をすべての悪いことから救ってください。

うれしくなった。生きている。生きて欲しい。
この詩を友達に見せたら、「膨らませて曲をつけてみよう」ということになった。楽しみだ。
5月27日のライブで歌ってくれるという。
さあ、私はこれから布団を干して、ふかふかの布団に寝よう。
そして、子どもたちに届ける薬代、数千万円を今年度も集める計算をしなければならない。よく考えたら私の仕事はいつ倒産するかもわからない中小企業の社長のようなもの。このストレスを乗り切るのはまず、ふかふかの布団だな。太陽をいっぱい吸収して。

『イラクの子供達は今 vol.2』5月27日(日)新宿LIVEたかのや
スタート/13:00(終了〜15:30)
料金/¥3000+1ドリンク

Nights(翠の虱31)

藤井貞和

Outrageous!
Two kids died, and
then a whole bunch of
them, including her son,
was shot and
she did not hear until
a quarter to 11 at night.

In Nagasaki by terrorism
the mayor Ito was shot
and died in the hospital at
night, the peace-declared
city’s nightmares.

32 person’s faces, at CNN site, young
or aged, futurefull students
or Liviu an old professor who
protected one of the classroom’s
doors.

Ross, 20, her sophomore son who
had just declared English as his
major was suddenly attacked by the
discontinuing of his dreams.

(Three 18, four 19, six 20, one 21, four 22, ……。以前に服部君のお父さんお母さんの尽力が功を奏してか、銃規制の時限立法をかちとったことがある。銃社会下で、武器を持たない大学社会が無防備であることの悲劇は、銃規制を強化することに一縷の望みをかけて再発を繰り返さないようにする。やれるのか、アメリカ合衆国は。)

11月のスリンピ公演〜舞踊について

冨岡三智

……ここまで書いて、はたと、公演の周辺のことばかり書いていて、肝心の舞踊については何にも書いていないことに気づく。というわけでそれはまた来月に。(続く)

と先月号の最後で書いたけれど、舞踊そのものについて書くというのは難しい。別に舞踊だけに限らないけれど、当事者が自分の作品なり上演なりについて文章を書くと、主観と言い訳だらけの描写になってしまう。と、言い訳をしておいて、それでも書いてみる。

   ●音楽のイラマ

音楽のイラマ(テンポ)は、現今の宮廷舞踊のイラマよりも少し遅めに、私の好みの速さでリクエストした。だから当然、現役の宮廷音楽家や、宮廷舞踊を知っている人からはイラマが遅いという批判があった。しかし別に気にしていない。私だって宮廷の舞踊練習に5年間参加していたから、そのことは百も承知している。それでもなお、ジャワ舞踊の動きを生かすという点から見ると、現行のイラマは少し早い気がするのだ。現在の宮廷のイラマが最上のものかどうか、舞踊が作られた当時からそのイラマで演奏していたかどうか分からないのだから、「今回はこのイラマしかありえない」と私が信じるイラマを提案したいと思っていた。

だからこの公演を見たある芸大音楽科教員が、「この公演のイラマは多数派とは言いがたいけれど、こういう可能性もあって良いと思った。自分たちは、マルトパングラウィット(宮廷音楽家、芸大の教育でも重要な役割を果たした)の教えを指針にしているけれど、そこに(従来になかった)彼独自の解釈が入っていなかったと断言することはできないのだから。」と言ってくれたことは、私には大いに嬉しかった。

音楽の演奏もよくでき、舞踊家・振付家として実力のある芸大教員2人からは、「音楽家のことも考えないと。特にあのイラマではグンデルの人が(遅すぎて演奏しづらいから)かわいそう。」とコメントされた。正直なところ、私には何でそんなことを心配するのかよく分からなかった。同じ曲でもクレネガン(演奏会)スタイルで演奏する時は、舞踊伴奏よりもイラマは遅いのに。念のため当のグンデル奏者(芸大教員)に感想を聞いてみたら、別に全然つらくないとの答え。

ただ私は大ベテランのこの先生に対してもイラマについて注文をつけたので、若輩で外人のくせに失礼な…と思われていただろうなと思っていた。しかし、この人は意外にポジティブに受け止めてくれた。踊り手が演奏家に対していろいろと希望を伝えるのはむしろ良いこと、それによって演奏家もその踊り手の好みが分かるのだし、と言ってくれた。そして、スリンピというのはどちらかというと成熟した大人の舞踊なのだから、これくらいの方が舞踊のウィレタンが生きて良い、芸大の速い短縮版スリンピでは演奏した気にならないと言った。さらに続けて、「芸大短縮版のスリンピは(1970年代に作られている)、イラマをダイナミックに変えるとか、時間短縮のため曲の移行部で無理なつなげ方をしたとか、従来の伝統音楽ではなかったことがたくさんあって、当時はそれになじむのに時間がかかった。」

そうなのだ。1970年代に音楽を不自然な風に変えたことに対して、現在の舞踊科教員たちは疑問を感じていないのに、なんで今回のオーソドックスな演奏に対して、音楽家がかわいそうだなんて思うのだろう。

   ●入退場

宮廷でスリンピ上演する時は、入退場ともパテタンを演奏するというのが基本だ。パテタンというのは雅楽の音取りみたいな感じである。舞踊の入退場に使う場合、パテタンの速さや長さ、繰り返し回数はすべて踊り手の歩くイラマに合わせるのが基本だ。しかし芸大では舞踊本体の時間の短さとイラマの速さに合わせてパテタンも短く速く設定してあるから、踊り手の方がそれに合わせて入場してくる。

私はパテタンの調べにのって、踊り手が一列になって奥の方から厳かに会場に入っていき、そして退場していきたいと思っていた。パテタンのこの入退場のシーンが長すぎるという声が、一部の観客や他の踊り手からあった。確かにどちらも約7分かかっている。宮廷で一番重要な儀礼舞踊ブドヨ・クタワン(上演時間1時間半)を大プンドポで上演するときの入退場でさえそんなものだし、芸大で15分くらいに短縮したスリンピを上演するときは、1分くらいで入退場する。だから通常の感覚でいけば7分というのは長すぎるのだ。

ただ私は、舞踊では舞踊本体もさることながら踊っていない時間、特に最初の出が一番大事だと思っているから、あえて時間をかけて登場したかった。プンドポというのは普通の額縁舞台とちがって、1つの「世界」だ。能にしろ舞楽にしろ、そういう方形の舞台が描く「世界」へと出て行く舞踊は、出をとても大切にする。パテタンも、単に踊り手の入退場を伴奏するというだけではなくて、無の中からその「世界」の雰囲気や観客の方の心構えを徐々に作りあげてゆく機能があると思っている。そして舞い終わった後には余韻や名残を舞台にとどまらせながらも、徐々に世界を無に帰していく役目があると思っている。芸大の短縮版のようにスタスタサッサという入退場では単なる空間移動であって、他のどの舞踊でもない、「世界」を描く舞踊を見る醍醐味というのは激減する。

   ●動きを揃えること

動きを全体で揃えようと努力しないように、各踊り手にはそれぞれにウィレタンを追求してもらいたい、というのが私が他の踊り手に出したリクエストだった。それについては昨年11月号の水牛で書いた。

公演の時には、スリンピという舞踊が1970年代に短縮されたこと、その時以来ジャワ舞踊でも踊り手全員の動きを揃える方向に進んできたこと、しかし今回の公演では短縮されていないバージョンで1時間、あえて皆の動きを揃えることをせずに公演するのだということを、開始の前にナレーションしてもらった。だから、観客の見方を誘導したことになる。しかし誘導がなければ自由な見方をしてくれるのかといえばそうではなく、今までの惰性と先入観だけで判断されてしまう恐れがある。しかもそれは全くの素人よりも、舞踊のプロの方が陥りやすい。

1人だけ違うとか、間違っているとか言われることを嫌がっていた他の踊り手たちも、このナレーションのせいか、ビデオで見るとある程度のびのびと踊っていたようだ。そしてそれに対する観客からのコメントも、まちまちだった。私1人だけ違うと否定的に言った人もいれば、やっぱり他の3人は長年の習慣で揃ってしまい、その癖を取るのは難しいねと言った人もあり、また他の3人の中にもその癖から抜けつつある人もいる言った人もいれば、四者四様の持ち味が出ていたという人もいた。

コメントはバラバラだが、しかし、もし皆の動きがビシッと揃っていたら、おそらくこんなにバラバラなコメントは出てこなかっただろう。また長時間の舞踊だからこそ、1人1人の踊り手に目が向けられたという気もする。15分の短縮版では、さまざまに変わる踊り手全体のフォーメーションに目がいってしまい、個人にまで目が向けられなかったと思う。そういう意味で、観る側の先入観も少しは変えられたかな、踊り手をマスとしてでなく、個人として観てもらえたかなと思っている。

   ●笑み

宮廷舞踊では顔の表情を作らない。表情で観客の注意をひきつけるなんてことはせずに、己を無にして踊る。ところが私は笑みを浮かべていたということで、宮廷舞踊はそういうものではないというコメントを何人かの人からもらった。しかし私自身には笑顔を作っているつもりはなかった。とは言え表情を無にしようという努力もしなかったから、そういうコメントがあるかもしれないとは予想していた。

「宮廷舞踊は神聖なもの」とキャッチフレーズのように言われているけれど、実は曲の性格はいろいろである。そしてこのゴンドクスモという曲は、全スリンピの中で一番ルラングンlelangenな、つまり心を悦ばせるような曲であるように思える。そして舞踊の動きでも特に波打つようなものが多い。鎮静的な舞踊ではなくて、ある種官能に訴えかけるような舞踊なのだ。だから別に無理をして表情を殺す必要もないのではないかと思っている。

上のように宮廷舞踊はそういうものじゃないと言った人は皆、音楽家だった。宮廷音楽家だとか、そうでなくても宮廷音楽のことを知っている人である。自分では踊らないために、よけいに宮廷舞踊はこういうものという固定観念が強いのではなかろうかと感じた。逆に舞踊の人からは、笑みを浮かべているのが良かった、と言う声が複数あった。2002年にスリンピ、ラグドゥンプルの完全版を上演したときにもそう言ってくれる人がいた。だから見ていて表情に不自然さはなかったのだろう。念のため、宮廷でよく踊っていたある舞踊家に私の表情についてどう思ったかと聞いてみた。「三智はもともとそういう顔じゃないかなあ。だから表情を殺そうと意識してしまうと、今度は舞踊の動きの方に悪影響が出てくると思う。そのままでいいんじゃないの?」というのがその回答だった。おそらく私の舞踊がもっと深まっていけば、「もともとそういう顔」でも、表面的でない深い表情ができるようになるのだろう。

そういう未熟を承知で言うのだが、私は表情というのは踊り手が意識して作るものではなくて、おのずと生まれてくるものだと信じている。つまり、踊り手の身体が空の容器となって、そこに音楽が流入してくるようになれば、その作品にふさわしい表情は音楽によって自然と作られるものだろう、と思うのだ。だからこの舞踊ではもっと笑ってとか、逆に笑ってはいけませんとかと人が指導したり評したりするのを見聞きすると、違和感を感じてしまう。そしてそういうテクニック的な理解は伝統舞踊に多いという気がする。

   ●

というわけで、やはり言い訳だらけの文になってしまった。しかし踊り手がこんなことを考えているということを分かってもらえたら嬉しい。

Night Hike in Matsumoto

大野晋

老舗の鰻屋で一杯飲んで、ほろ酔い気分で夜の街に出た。
ぶらぶらと、まだ肌寒い空気を感じながら、あちらこちら暗い街を歩くのが気持ちよい。
ところどころ、街の空気が写真に納められないかとシャッターを切ってみる。
信州のぴんとした空気には夜の街の光が似合うように思う。
街角の電灯、緑の公衆電話ボックス、人もまばらなナワテ通り、女鳥羽川に架かった橋の欄干、
そんなものを見ながら歩いていると、やがて、酔いが覚めてきた。

Night Hike in Matsumoto。

どうも、止められそうもない。

しもた屋之噺(65)

杉山洋一

ミラノに引っ越して良かったのは、子供が遊べる庭があり、虫や鳥や草木に毎日触れることが出来ることです。大きな木がどんと一本立っていて、特に春になり色々な鳥が毎日遊びにきては、庭の芝をちょんちょん跳ね回って何やら啄ばんでいます。すっかり馴れっこで、水まきしても逃げませんから、二歳になったばかりの息子はチッチ、チッチと大喜びです。

ここはポルタ・ジェノヴァ駅からのびる国鉄の線路脇にあって、庭は低い垣根を隔てて小学校の校庭になっています。朝は子供たちの体育の授業を見ながら朝食のコーヒーをすすったり、垣根のところで、息子が小学校の女の子相手に得意のダンスを披露したり、水まきをしていれば、サッカー少年たちが「ペットボトルに水入れてよ」と集まってきたりするわけです。

カーテンすらない全面ガラス張りで外から丸見えですから、裸で家を闊歩などできませんが、採光は問題ありませんし、お陰で冬も殆ど暖房を使いませんでした。その昔工場だったところを住居に改造してあるので、半円形の大きな分度器のような天井は、当時のままだそうです。ちょうど日本の体育館の天井のような造りを想像して貰えば良いでしょう。一箇所、大きな天窓が開けてあり、ここから朝日が具合よく差し込みます。今は夜明け前で、外の鳥たちのさえずりが最高潮に達しようかと言うところ。ミラノにも、これだけ変化に富んだ鳥がいるものだと感心させられます。実に心地良い住宅には違いないのですが、ひとつ問題があります。
どなたも気軽に拙宅にお上がりになれるのです。

庭の左側には鉄道の線路、目の前は校庭、右側には金網越しに人通りの少ない道路という按配で、パヴィリオンのガラスのブースよろしき開放感溢れる造りです。住むには少々勇気がいるかも知れません。それどころか、家が完成するまで庭壁の向こう、線路ぎわにはジプシーのバラックが建っていたし、夜半や朝方、麻薬中毒と思しき怪しげな通行人が、線路上をふらついているのも見かけます。昨年9月の完成後、既に3軒程並びの家が泥棒にやられていますが、拙宅が物色に値しないのを常日頃から誇示しているからか、幸い被害にはあっていません。泥棒が、熱心に観察しているのは確かですけれども。

5日前の午前1時過ぎ、子供を寝かしつけてから家人と居間で話していると、天井が妙な音をたてました。天窓脇あたりで、むぎゅっというような、重みがかった軋みがしたのです。ふと予感がしてすぐ外に飛び出し、線路脇に顔を出すと、線路脇の壁面に、随分大きな梯子が天井まで架かっているではありませんか。やれやれ天井を這っているのが人間だと分かったので、早速天井のつながっている隣の家に走り、奥さんを呼んでくると、流石に彼女も仰天しています。
「おいお前、何やっているんだ」と叫んだ矢先、慌てふためきながら大柄の男が、どたどたと梯子を降りてきて、生い茂る雑草によろめきつつ、線路に向こうへ逃げてゆきました。

庭から線路まで2メートル半ほど高さがあり、真夜中には飛び降りられず、仕方ないので、近所を巡回していた市の夜間警備員を呼んで状況を話し、並立する8階建てマンションの非常階段からうちの天井を俯瞰しましたが、空の果物籠が放置されているばかりで、人影はありませんでした。どうやら単独犯だったようです。こうして見ると、天井伝いに簡単にマンションに侵入できることがわかり、少なくとも拙宅には興味なかった模様です。警備員曰く、「俺はもう18年も辺りの警備をしているが、事件一つ起きたこともないし落着いたものだ」。こちらは泥棒が入ったから呼んでいるのに、何とも呑気なものです。今までは、警備員がいるからと少しは安心していたのですが、迂闊にあてにも出来ないことが分かりました。
「今晩泥棒が戻ることもないだろうから、安心して寝てください」と相変わらずのんびりした警備員に引き取ってもらい、次の朝早く梯子を取りにゆくと、これがとんでもなく重たい代物で驚きました。間違って通報でもされると厄介だと心配しつつ、梯子を庭壁に架け泥棒気分で家に戻ってから、引き上げて庭の端に片付けました。それから暫く、あの梯子が線路脇から壁に架けてあったのよ、泥棒から盗んだ梯子よ、などと話題になっていました。

それからと言うもの、夜半になると天井が気になって仕方なかったのですが、先ほどのこと、仕事を片付けて漸く布団に入ってまどろみ始めたところ、庭に下りる階段で足音がして、話し声が聞えるではありませんか。先日の今日ですから飛び起きて窓を開けて、「何やってる」と声を上げると、思いがけなく「警察だ」と言うのです。何事かと庭に出ると、果たして制服姿の警官二人が庭の階段のところで、線路の向こうを覗いています。

何でも、追い駆けている犯人が線路に逃げたらしく、ここから線路にどうやって下りられるのか尋ねるので、物盗りの置き土産の梯子がありますと答えると、おおそれは具合良いねと言いながら、泥棒梯子を庭からたらして、するすると降りてゆき、「後でまた上がってくるから、片付けちゃ駄目だよ」と言い放って、懐中電灯片手に線路の向こうへ走ってゆきました。折角の機会なので「先日もこの梯子を使って物盗りが天井にいたのですけどね」、と一応声をかけてみましたが、全く関心を払って貰えませんでした。近くにパトカーも居ませんでしたが、警官二人もどこから入って来たのやら。そろそろ夜も明けようかと言う頃ですが、未だ泥棒梯子から警官が登ってくる様子はありません。

(4月30日ミラノにて)

アジアのごはん(18)ココナツミルクの誘惑

森下ヒバリ

バンコクではいつもプラトゥーナムという地域に泊まっている。初めてタイに来たときから、だいたいこの周辺に宿を取っている。どうもプラトゥーナムから抜け出せない。もう少し違う場所にも泊まってみようかとも思うが、二の足を踏む。それは、宿の近所のラーン・カオ・ケーン、日本では一膳飯屋とでも言おうか、おかずかけごはん屋さんのせいに違いない。

近所のごはん屋さんは毎日、朝から午後一時か二時くらいまで開いている。ガラスケースの中には五、六種類のおかずがトレーに入れられて注文を待っているが、十二時ともなると、すでに人気のおかずは売り切れて、残りはほんの一、二種類。
「しまった、取り置きしといてもらえばよかった・・」

用事をしたりして、少し遅くなると目当てのおかずがなくなっていることは珍しくない。もっと大量に作ればいいのにとも思うが、この店のおばちゃんは淡々と同じ量のおかずを作り、売り切れたらおしまい。最近はあんまりくやしいので、昼ごはんを少し早めに食べるようにしたほどである。つまり、それほど、この店の料理はおいしい。

作り置きのおかずなど、正直言っておいしいとはあまり思っていなかった。以前は、その場でさっと炒めたり、揚げたりしてくれる注文料理屋が最高で、昼もそういう店に行っていたのだが、この路地のおかずかけごはん屋さんに出会って、すっかり考えを変えてしまった。

もちろん、この店のシェフのおばちゃんの腕がすばらしいのが大きな理由だが、作り置きおかずかけごはん屋にもいいところがたくさんあることに気がついたのである。まずは実物を見て注文できることと、名前の知らない料理や食べたことのない料理を食べられることにある。また、以前食べて、今ひとつ、と思っていた料理に改めて開眼することもある。

注文の仕方はこうだ。皿にごはんを盛ってもらい、その上に好きなおかずを選んでのせてもらう。この店では一種類だと15バーツ、二種類で20バーツ。三種類で25バーツが基本。指差しであれとこれ、と注文できるのでタイ語ができなくてもだいじょうぶ。さらに、スープもののおかずなどを碗に入れてもらって別皿にすることもできる。

「今日は・・もやし炒めと・・う〜ん、何かなこれ」
ごはんの上にもやし炒めと、鶏肉とキノコの入ったスープのようなものをかけてもらった。はじめはトムヤム・スープかとも思ったがカレーのようにも見える。口に入れてみると、さわやかな酸味とココナツミルクのとろみと微かな甘み。後から辛味ががつん。
「うん、おいしい! あれ、これってもしかして?」

店のおばちゃんに聞くと、トム・カーだよ、と答える。スープの正体は、トム・カーと呼ばれるココナツミルク・スープであった。だが、今まで食べたことのあるトム・カーのどれよりも素晴らしくおいしいではないか。トム・カーはカーという生姜の一種の南姜(なんきょう)を味のベースにして、ココナツミルクをたっぷり入れて鶏肉などを煮込んだスープである。だいたい、ココナツミルクが多すぎて甘ったるくどろんとしていて、おいしいと思ったことはあまりなかった。

この店のトム・カーは、南姜のほかに、レモングラスとトウガラシが入っていて酸っぱくて辛くて、ほのかに甘い。酸っぱくて辛くて、といえばトムヤム・スープとどう違うの? と言われそうだが、こちらの味の主役はやはり南姜とココナツミルク。トム・カーとは、辛いのが苦手な観光客やお子さま向けの甘ったるい料理、というイメージをあっさり崩してくれた。
「トム・カーってこんなにおいしいスープやったんや〜」
わたしはうう〜んとうなりながら、トム・カーをのせたごはんを食べた。ココナツミルクのコクとかすかな甘み、レモングラスの酸味と南姜のピリッとした香りとが絶妙のバランス。はあ、しあわせ。料理というのは、ほんのちょっとしたさじ加減で、快楽の味になり、また苦痛の味にさえなる・・。

トム・カーによく似たスープがお隣のカンボジアにもある。いや、むしろ、カンボジアの方が本家であろう。レモングラスとココナツミルクと鶏肉のスープや、またアモックという魚介類をココナツミルクで甘酸っぱく煮たものもある。これはタイではホーモックといい、魚介のすり身にココナツミルクをまぜて蒸したものだが、カンボジアで食べたものはまったくのどろりとしたポタージュ状のタイプであった。

しかし、とにかくカンボジアのココナツミルク入りスープの類は、とてつもなく甘い。ココナツミルクがたっぷりと入っているのだが、さらにヤシ砂糖なども大量に加わっているかもしれない。お菓子のようだ。タイ料理にもけっこう甘みの利いた料理は多いが、カンボジアはタイよりもさらに甘い料理が多い。ココナツミルクを大量に使うし、チャーハンや野菜炒めに甘みとしてパイナップルを入れたがる。トムヤムに似た酸っぱ辛いスープにもパイナップルを入れる。わたしは、このパイナップルを料理に入れるのが大変苦手で、というか正直言って大嫌いである。好きだという人もいるので、まあ、これは好みの問題もあるとは思うが、ナムプラー味のチャーハンや野菜炒めにパイナップルを入れるという感性は理解不能である。パイナップルは、そのまま食べるに限る。
つい、パイナップル問題に力が入ってしまったが、ここで話題にしたいのはココナツミルクなのだ。ココナツミルクは、いまやタイ料理にもよく使われるが、実はもともとものタイ料理にはなかった素材である。

タイ族は3世紀ごろから11世紀にかけて、中国西南部・ベトナム北東部あたりから大規模な移住を繰り返して現在の地に落ち着いた民族だ。まず中国雲南省南部、ラオスとタイ北部、ビルマ東北部のシャン州、かなり遅れてタイ中部へ進出した。そして、進出した先にはたいがい先住民族が居たので、先住民とあるときはまあまあ平和的に、あるときは武力で服従させて自分たちが主導権を握ってきた。その先住民族を皆殺しにしたりはせずに、自分たちの中に取り込んでタイ族化させてしまうのである。と、同時に相手の文化も惜しみなく吸収する。

そんなタイ族が、インドシナ半島を南下して行く中で高度な文化を持っていたモーン族とクメール族にぶつかった。モーンは現在のタイ王国の中部から南部、そしてビルマの東南部にいくつかの国をつくっていたし、クメールは現在のカンボジア、タイ東北部の南部、ベトナムのメコンデルタ地域に勢力を持っていた。かれらは、モーン・クメール語族と言語学的にも分類されるように、タイ族とはかなり系統の違う民族で、インド南部やインドネシア地域の民族にルーツを持つ。また文化的にもインドの影響が大きい。

地域によって、その地の先住民族たちの料理が取り込まれてはいるが、中国の雲南省やビルマのシャン州のタイ料理、またラオス北部の料理はかなりもともとものタイ料理に近いと思われる。これらの地域ではほとんどココナツミルクを料理に使わない。もっぱらお菓子に使う。トムヤムの原型のような酸っぱいスープはあっても、ココナツミルクは入れないし、ココナツミルクたっぷりのカレーもない。料理はあまり甘くない。共通しているのは、もち米をよく食べること、魚を発酵させた調味料、そして発酵した肉・魚・野菜をよく食べること。酸っぱいものが大好きなこと。食べることを大切にしていること。

そんなタイ族の一派が南下して、現在の地にタイ王国を作り、先住の民から自分たちの料理に取り込んだのがココナツミルクなのだ。もちろん、亜熱帯のこの地域にはココナツミルクの元になるココヤシをはじめ、アブラヤシ、砂糖ヤシと有用なヤシの木がたくさん生えている。当然ながら先住の民たちはヤシの利用に長けていた。

そして、彼らがヤシから取れるココナツミルクや花蕾から取れるヤシ砂糖の甘みを深く愛していたことは、モーン・クメールの文化を大量に取り込んだタイ族=現在のタイ王国のタイ人たちが、ほかの地域のタイ族たちから見て過激なほど甘党なのからも、明らかというものでしょう。

製本、かい摘まみましては(28)

四釜裕子

バックアップのつもりで、ブログに書いたものをたまに印刷している。ブログサービスには、それを「本」として印刷製本する機能が今やあたりまえのようについているので便利だ。私がよく使っている「エキサイトブログ」は、欧文印刷株式会社とイースト株式会社による「MyBooks」と提携していて、文庫本サイズを選べるのがいい。書きなぐりの文章をプリントするのは勇気がいることで、A5サイズでは、ちょっと耐えがたいのである。

書き込みが半年ほどたまったところで、白無地表紙、モノクロ印刷、文庫本サイズで注文する。だいたい250〜300ページ、料金は3000円(消費税、送料込)を超えたことがない。写真もあるからカラーにしたくて毎度見積もりだけはとるが、10000円を超えるのでやめる。ページ単位の計算になるから高いのだ。ブログ本は注文して一週間ほどで届く。改めて読み返すようなたぐいのものではないけれど、ウェブのブログよりは、はるかによくページをめくる。

ハードカバーに仕立て直そうかな。と思って、表紙の紙をぐっと開いてみる。すると背から2ミリくらい手前、天地中央に13ミリのホッチキス針。なんとこの本は、針金平綴じであった。丹念に読むものではないから柔らかな表紙ごと片手で持ってぺらぺらめくるだけだし、なにしろこの冊子に「開き」を求めるつもりはなかったので全く気にならなかった。それよりも、オンデマンド製本にも強力な接着剤があってそれで十分であろうに、わざわざ針金で留める理由が気になる。

「はてな」で去年作ったブログ本(はてなダイアリーブック)を見てみると、ごく普通の無線綴じだ。印刷は株式会社デジタオで、同社のオンデマンド印刷製本サービス「book it! 」のウェブサイトでは、460ページまで可能になった、とある。束にすれば2センチくらいまでOKということか。頼むほうにしてみれば、できるだけ多くのページを一冊にしたほうが割安だから、要望が強かったのだろう。ただし「book it! 」では判型がA5変型以上。「MyBooks」で作ったのは文庫本サイズだったから、針金で留める必要があったのかもしれない。

「はてな」では早くから、「この世にたった一冊しかない大切な日記を、質感の高い上製本で仕上げて見ませんか」として、上製本仕様を受け付けてきた。どんなものかと一度頼んだことがある。表紙の色は10種類から選べるが、紙はもみ紙風の一種類のみ。背にも表1にもタイトルなどの印刷ができず、表紙の芯にするボール紙が2ミリ厚なので、ある程度の束がないとバランスがとれない。値段は通常のタイプに加えること3000円。背に補強の寒冷紗、花ぎれ、見返し、表紙貼りと、その手間がかかることはわかるが、ただ堅い表紙をつけたところで本の質感があがるわけではないことの、いい例だ。

書いたものを誰かに読んでもらいたくて、コピーをとったりプリントして複製し、運びやすく読みやすいように製本したのがかたちとしての本である。今手にしているブログ本もかたちとしては本なのだけれど、書き散らかしたものを自分の手元に置くために、たった一冊作ることがおもしろい。しかも、お金を払って。バックアップのつもりなら自分でプリントして製本すればいいものを、やるとなったら手間をかけたくなるし、とは言え手間が見合うような内容ではない。だから快く、注文できるというわけだ。

炎(最終回)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

ピンパーはため息をつくと過ぎていく街へ眼をやりながら、わたしの方へ手をのばし小声で言った、
「タバコもう1本ちょーだい。お願い」
それから彼女もわたしもずっと黙ったままでいた。そしてついにわたしが声を上げた。さっきよりさらに気後れしながら。
「ぼくのところに泊まってもいいよ、でもぼくひとりじゃないんだ」
「いいわ、かまわないでくれていいの。わたしここら辺で降りるから。次のバス停でね」と、彼女は身体を動かした。
「家に帰れないんだったらほんとにうちに泊まっていっていいんだ。友達に君が親戚の子だって言うから。どうってことないさ」
「やめとくわ。わたしなんとかするし。。 いつかまた会おうよ、地球は丸いんだからさ」

バスが速度を落としたとき、わたしは彼女の腕を掴んでいた。ふたりともまばたきもせずに見つめ合った。わたしはまだ彼女の腕を離していないし、もう離しはしないだろう。触れ合っている感触が再び気持ちを高揚させるや最前話されたことはもう忘れていた。

「行ってくれ、誰も降りないから」わたしは運転手に向かって大声を出した。
けれどもバスは道路脇にしばし停まった。降りようとしている乗客が文句を言っている声がする。わたしは申し訳ないことをしたのだと気づいた。それから他の乗客がもう数人しかいなくて、みなわたしに視線を注いでいるのがわかった。けれどもわたしと視線が合うとみな眼をそらした。自分はどうも恥ずべき変なやつになっているらしい。

ピンパーは相変わらず黙っている。バスはそこから急発進するとさらにスピードを増していく。その速さはタイヤがまるで道路に接していないかのようにわたしには感じられた。わたしは最前の感情を抑えようと最後の1本のタバコをとりだした。ところが火をつけるのがやけにむずかしい。ライターを持つ手がぶるぶるふるえているのだ。火がつくと深く煙を吸い込んだ。タバコの先端から火の粉が線を描いて飛び散って行く。それが身体に当って熱かった。後部座席の人にも当たっているのではないかと、謝ろうとして後ろを振り向いたが誰もいなかった。切符切りのバスボーイがひとり笑顔で座っているだけだ。ピンパーは、あれは悪霊のひとつが嘲笑っているのだ、と言う。わたしはぞっとして鳥肌がたちあわてて目をそらした。

ピンパーはさきほどよりもいっそうぴったりと身を寄せてきた。わたしの膝の上で右手をしっかり握り締めている。それからバスがスピードを上げすぎているとしきりにつぶやいた。わたしは何も言わず、ただ彼女の肩をなだめるように抱いていた。バスは疾走している。風が顔に痛いほど叩きつけている。わたしはたばこを指でとってから煙を吐き出し、左手を肩から腰へ下ろしてピンパーをしっかりと抱き寄せた。彼女はずっと黙して語らない。わたしは椅子の背に凭れかかり眼を閉じると願った。さあ、もっと速く走ってくれ、可能な限り速く走ってくれ、地獄なりなんなりと連れて行ってくれ、と。

(完)
1969年スラチャイ21歳のときの作品。1970年刊の短編集『どこへ向かって行くのか』収録。今回は2006年第11刷より翻訳。十代後半バンコクへ上京して美術学校へ行きながら詩や短編を書きはじめたころです。ギターをもつことになるほんの少し前のころのスラチャイ。家がなくて友人の下宿を泊まり歩いたり、王宮前広場で蚊取り線香1本で夜を明かしたりしていたころを髣髴とさせる作品です。約40年前の作品とはいえ、最近のものとあまり変わらないですね、まるで絵を描いているような表現のしかた、巧みさ。(荘司和子)

GS Opera メモ再録その他

高橋悠治

書く手の下から書かれた文字が立ち上がるように
楽器を弾く手の下で音の群れがまとまろうとして 
一様に流れる時間軸に添って横たわるかわりに
身を起こしてくる感じが 指に伝わる
時間が 各声部ごとにめくれ上がり
それぞれに脈打ちはじめ
葉陰からこぼれる光のように
ばらばらの音が降ってくる

毎月の最後の日に書くコラムにいつもなやまされ
書くことがみつからないでいるうち
『水牛のように』2005年3月に書いた『gertrude――肖像』
のもとになったメモを発見した 半分は意味不明になっている
それをコピーペーストし その後に別なメモを書き加える

playは こどもや子猫があそぶ もてあそぶ 光がかろやかにうごく
また playは 役割を演じる ふるまう 演じる 上演する でもある
前にはとどこおることのないあそびが
後には既成の型に押し込まれて みせかけのものになる

もうひとつ
play  あそびをもたせる ゆとり 自由にうごける範囲
この範囲をすこしずつひろげていく
くさびを打ち込んでこじ開けるようにして
あるいは遠心分離 振り回しているうちにばらばらになる

interest はラテン語 inter+esse 間に位置する 関係する から
興味・関心をもつこと もたせる力 おもしろさ その対象
したがってinteresting おもしろい には主客の区別がない
interest のもう一つの意味 利害関係 利子
間に発生する関係が 無私の関心から 私的利益に移って行く
ことばの近代化だろうか

continuous present 
全体のゆったりした進行 と相対的に自立した細部
単語が紙の上に並んで現れる 
アリの行列の線と 順序交換できる個々のアリの群
数珠と数珠玉 樹と木の葉 
書かれた文字が紙の上に起き上がろうとしてもがいている

反復か更新か リズムは変化する
changing same (Amiri Baraka)
波また波 
すこしずつ変化する写真の連鎖から映画へ
現実は直線ではなく ためらい手探りする進行
階段を降りる裸体(デュシャン) 時間的キュビズム
フィルムの一コマには写真の意味はない
反復ではなく
どこか似ているものが そこここに現れるだけ
これが逆遠近法か

毎日が新しくはじまる
始める可能性(ハンナ・アーレント)

story 作り事 物語 また 階
階は上下に積み重ねられ
物語は線に沿って伸びていく
風景としてのplay 人物の配置図は
そのたびに組み直される
進んでいくと 遠い山が何回も正面に現れる
道は曲がっている
立ち聞きした会話
物語はいらない
話題は混ぜ合わされ 解決なく放置される

小文字のi(カミングス)
everybody = every body 無名の ただの 身体
 = no body 身体のない身体
だれでもないものが 耳を澄ましている
i feel / they think
感じの直接性・即時性・具体性から
考えの間接性・非時間性・抽象性へ

common sense 共有感覚