……ここまで書いて、はたと、公演の周辺のことばかり書いていて、肝心の舞踊については何にも書いていないことに気づく。というわけでそれはまた来月に。(続く)
と先月号の最後で書いたけれど、舞踊そのものについて書くというのは難しい。別に舞踊だけに限らないけれど、当事者が自分の作品なり上演なりについて文章を書くと、主観と言い訳だらけの描写になってしまう。と、言い訳をしておいて、それでも書いてみる。
●音楽のイラマ
音楽のイラマ(テンポ)は、現今の宮廷舞踊のイラマよりも少し遅めに、私の好みの速さでリクエストした。だから当然、現役の宮廷音楽家や、宮廷舞踊を知っている人からはイラマが遅いという批判があった。しかし別に気にしていない。私だって宮廷の舞踊練習に5年間参加していたから、そのことは百も承知している。それでもなお、ジャワ舞踊の動きを生かすという点から見ると、現行のイラマは少し早い気がするのだ。現在の宮廷のイラマが最上のものかどうか、舞踊が作られた当時からそのイラマで演奏していたかどうか分からないのだから、「今回はこのイラマしかありえない」と私が信じるイラマを提案したいと思っていた。
だからこの公演を見たある芸大音楽科教員が、「この公演のイラマは多数派とは言いがたいけれど、こういう可能性もあって良いと思った。自分たちは、マルトパングラウィット(宮廷音楽家、芸大の教育でも重要な役割を果たした)の教えを指針にしているけれど、そこに(従来になかった)彼独自の解釈が入っていなかったと断言することはできないのだから。」と言ってくれたことは、私には大いに嬉しかった。
音楽の演奏もよくでき、舞踊家・振付家として実力のある芸大教員2人からは、「音楽家のことも考えないと。特にあのイラマではグンデルの人が(遅すぎて演奏しづらいから)かわいそう。」とコメントされた。正直なところ、私には何でそんなことを心配するのかよく分からなかった。同じ曲でもクレネガン(演奏会)スタイルで演奏する時は、舞踊伴奏よりもイラマは遅いのに。念のため当のグンデル奏者(芸大教員)に感想を聞いてみたら、別に全然つらくないとの答え。
ただ私は大ベテランのこの先生に対してもイラマについて注文をつけたので、若輩で外人のくせに失礼な…と思われていただろうなと思っていた。しかし、この人は意外にポジティブに受け止めてくれた。踊り手が演奏家に対していろいろと希望を伝えるのはむしろ良いこと、それによって演奏家もその踊り手の好みが分かるのだし、と言ってくれた。そして、スリンピというのはどちらかというと成熟した大人の舞踊なのだから、これくらいの方が舞踊のウィレタンが生きて良い、芸大の速い短縮版スリンピでは演奏した気にならないと言った。さらに続けて、「芸大短縮版のスリンピは(1970年代に作られている)、イラマをダイナミックに変えるとか、時間短縮のため曲の移行部で無理なつなげ方をしたとか、従来の伝統音楽ではなかったことがたくさんあって、当時はそれになじむのに時間がかかった。」
そうなのだ。1970年代に音楽を不自然な風に変えたことに対して、現在の舞踊科教員たちは疑問を感じていないのに、なんで今回のオーソドックスな演奏に対して、音楽家がかわいそうだなんて思うのだろう。
●入退場
宮廷でスリンピ上演する時は、入退場ともパテタンを演奏するというのが基本だ。パテタンというのは雅楽の音取りみたいな感じである。舞踊の入退場に使う場合、パテタンの速さや長さ、繰り返し回数はすべて踊り手の歩くイラマに合わせるのが基本だ。しかし芸大では舞踊本体の時間の短さとイラマの速さに合わせてパテタンも短く速く設定してあるから、踊り手の方がそれに合わせて入場してくる。
私はパテタンの調べにのって、踊り手が一列になって奥の方から厳かに会場に入っていき、そして退場していきたいと思っていた。パテタンのこの入退場のシーンが長すぎるという声が、一部の観客や他の踊り手からあった。確かにどちらも約7分かかっている。宮廷で一番重要な儀礼舞踊ブドヨ・クタワン(上演時間1時間半)を大プンドポで上演するときの入退場でさえそんなものだし、芸大で15分くらいに短縮したスリンピを上演するときは、1分くらいで入退場する。だから通常の感覚でいけば7分というのは長すぎるのだ。
ただ私は、舞踊では舞踊本体もさることながら踊っていない時間、特に最初の出が一番大事だと思っているから、あえて時間をかけて登場したかった。プンドポというのは普通の額縁舞台とちがって、1つの「世界」だ。能にしろ舞楽にしろ、そういう方形の舞台が描く「世界」へと出て行く舞踊は、出をとても大切にする。パテタンも、単に踊り手の入退場を伴奏するというだけではなくて、無の中からその「世界」の雰囲気や観客の方の心構えを徐々に作りあげてゆく機能があると思っている。そして舞い終わった後には余韻や名残を舞台にとどまらせながらも、徐々に世界を無に帰していく役目があると思っている。芸大の短縮版のようにスタスタサッサという入退場では単なる空間移動であって、他のどの舞踊でもない、「世界」を描く舞踊を見る醍醐味というのは激減する。
●動きを揃えること
動きを全体で揃えようと努力しないように、各踊り手にはそれぞれにウィレタンを追求してもらいたい、というのが私が他の踊り手に出したリクエストだった。それについては昨年11月号の水牛で書いた。
公演の時には、スリンピという舞踊が1970年代に短縮されたこと、その時以来ジャワ舞踊でも踊り手全員の動きを揃える方向に進んできたこと、しかし今回の公演では短縮されていないバージョンで1時間、あえて皆の動きを揃えることをせずに公演するのだということを、開始の前にナレーションしてもらった。だから、観客の見方を誘導したことになる。しかし誘導がなければ自由な見方をしてくれるのかといえばそうではなく、今までの惰性と先入観だけで判断されてしまう恐れがある。しかもそれは全くの素人よりも、舞踊のプロの方が陥りやすい。
1人だけ違うとか、間違っているとか言われることを嫌がっていた他の踊り手たちも、このナレーションのせいか、ビデオで見るとある程度のびのびと踊っていたようだ。そしてそれに対する観客からのコメントも、まちまちだった。私1人だけ違うと否定的に言った人もいれば、やっぱり他の3人は長年の習慣で揃ってしまい、その癖を取るのは難しいねと言った人もあり、また他の3人の中にもその癖から抜けつつある人もいる言った人もいれば、四者四様の持ち味が出ていたという人もいた。
コメントはバラバラだが、しかし、もし皆の動きがビシッと揃っていたら、おそらくこんなにバラバラなコメントは出てこなかっただろう。また長時間の舞踊だからこそ、1人1人の踊り手に目が向けられたという気もする。15分の短縮版では、さまざまに変わる踊り手全体のフォーメーションに目がいってしまい、個人にまで目が向けられなかったと思う。そういう意味で、観る側の先入観も少しは変えられたかな、踊り手をマスとしてでなく、個人として観てもらえたかなと思っている。
●笑み
宮廷舞踊では顔の表情を作らない。表情で観客の注意をひきつけるなんてことはせずに、己を無にして踊る。ところが私は笑みを浮かべていたということで、宮廷舞踊はそういうものではないというコメントを何人かの人からもらった。しかし私自身には笑顔を作っているつもりはなかった。とは言え表情を無にしようという努力もしなかったから、そういうコメントがあるかもしれないとは予想していた。
「宮廷舞踊は神聖なもの」とキャッチフレーズのように言われているけれど、実は曲の性格はいろいろである。そしてこのゴンドクスモという曲は、全スリンピの中で一番ルラングンlelangenな、つまり心を悦ばせるような曲であるように思える。そして舞踊の動きでも特に波打つようなものが多い。鎮静的な舞踊ではなくて、ある種官能に訴えかけるような舞踊なのだ。だから別に無理をして表情を殺す必要もないのではないかと思っている。
上のように宮廷舞踊はそういうものじゃないと言った人は皆、音楽家だった。宮廷音楽家だとか、そうでなくても宮廷音楽のことを知っている人である。自分では踊らないために、よけいに宮廷舞踊はこういうものという固定観念が強いのではなかろうかと感じた。逆に舞踊の人からは、笑みを浮かべているのが良かった、と言う声が複数あった。2002年にスリンピ、ラグドゥンプルの完全版を上演したときにもそう言ってくれる人がいた。だから見ていて表情に不自然さはなかったのだろう。念のため、宮廷でよく踊っていたある舞踊家に私の表情についてどう思ったかと聞いてみた。「三智はもともとそういう顔じゃないかなあ。だから表情を殺そうと意識してしまうと、今度は舞踊の動きの方に悪影響が出てくると思う。そのままでいいんじゃないの?」というのがその回答だった。おそらく私の舞踊がもっと深まっていけば、「もともとそういう顔」でも、表面的でない深い表情ができるようになるのだろう。
そういう未熟を承知で言うのだが、私は表情というのは踊り手が意識して作るものではなくて、おのずと生まれてくるものだと信じている。つまり、踊り手の身体が空の容器となって、そこに音楽が流入してくるようになれば、その作品にふさわしい表情は音楽によって自然と作られるものだろう、と思うのだ。だからこの舞踊ではもっと笑ってとか、逆に笑ってはいけませんとかと人が指導したり評したりするのを見聞きすると、違和感を感じてしまう。そしてそういうテクニック的な理解は伝統舞踊に多いという気がする。
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というわけで、やはり言い訳だらけの文になってしまった。しかし踊り手がこんなことを考えているということを分かってもらえたら嬉しい。