しもた屋之噺(75)

杉山洋一

春が近づいてきているのでしょう。毎日、庭にさまざまな鳥がやって来るようになりました。去年はそんなこともなかったと不思議に思っていると、どうやら庭の端の落ち葉を積んだ堆肥に、昆虫が増えてきたようです。今朝も、梢で黒い鳥が尾を揚げて求愛していると思った途端、どこからともなくもう一羽が屋根の上を通り越してゆき、先ほどの鳥も、思いつめた必死な形相でいじらしく追いかけてゆきました。

ボローニャの仕事が終わって、そのままスイスのイヴェルドンへ録音のエディティングを仕上げるため出かけたときのこと。録音技師の親友宅に泊めてもらうと、それは落ち着いた素敵な内装で、飾り付けられた果物や紅茶まで用意されていて、キャンドルがともされた朝食のジャムも紅茶もそれは美味しく、さすがにイタリアとはもてなし方が全然違うと感嘆していました。

さて帰ろうという段になり、これほど良くして下さって、どうお礼を言えばよいか、と言った途端に気まずい雰囲気になり、「請求書はどこに出せばいいのかな、レコード会社かね、それとも君に直接請求すればいいのかな」、とぼそっと言われびっくりしました。その場を取り繕いお金を払うと、ていねいに領収書まで切ってくれて、「いやあ本当に来てくれてありがとう! また、いつでも来てね」とご主人に突然抱擁されたのには、二度びっくりしました。

面白かったのは、録音技師のスタジオにゆくと、部屋中がベトナムだらけなのです。ベトナムの大きな地図があり、ベトナム戦争時の大きなポスターがあり、ミキサーの上には、ベトナム語でなにやら入力のガイドが貼ってあって、思わず「ずいぶんベトナムが好きなんだねえ」と言うと、「そりゃそうだよ。娘はベトナム人だもの。ほら、この写真がうちの娘だ」。と、愛くるしい12、3歳の少女の写真を見せてくれました。
「ベトナムに行ったことがあるのかい」と尋ねると、「何度かあるよ。素敵なところだね」。
楽しそうに話す様子から、ベトナムに住んでいた風でもなく、夏にイタリアで録音したとき、金髪のご婦人を彼女だと紹介されていてこちらは少し頭が混乱しましたが、どうやら養子にもらったベトナム人の娘さんと一緒にイヴェルドンに住んでいるようで、2年前のベトナム旅行の写真を楽しそうに見せてくれました。
「それでこれが上の娘でね」、とアルバムの続きを見せてくれると、今度はイスラムの真っ黒の布を全身をかぶり、目のところだけが四角く窓があいているニカーブをまとった女性の写真を見せてくれました。
「彼女はカサブランカにいてね、先日下の娘と会ってきたときの写真なんだ。これが娘婿。ハッサンという気のいいヤツさ」。

こうなると、こちらはいよいよ頭は混乱するばかりで、「娘さんの宗教は何なの」と質問するのがやっとでした。
「彼女はもちろんイスラムだよ」と嬉しそうに微笑みました。
真っ黒のニカーブの女性と、可愛らしいベトナム少女の娘さんをもつ録音技師が淹れてくれた日本茶をすすりつつ、自分はベトナム語のインターネット・テレビの普及に力を注いでいるんだ、と話してくれました。海外に住むベトナム人たちがベトナム語で見られるニュースを、配信を始めて、今ではスイスやフランスなどヨーロッパに限らず、アメリカなど各国からアクセスがあり、そのなかで突出しているのが台湾なのだそうです。彼はその昔はマダガスカルに駐在していて、マダガスカル初のラジオ局を開設して文化的にとても貢献したので、今でも行きたいと言えば、マダガスカルからいつでも旅費から滞在費まで全部賄ってもらえる立場だとか。何とも不思議な録音技師との出会いでした。

スイスから帰ってきて数日して、ブソッティの未初演のオペラの楽譜を読みに出かけました。近所だからと気を許して読んでいると、時間が経つのも忘れて、朝10時過ぎから午後の5時くらいまで、さまざまな大きさの黄ばんだ紙にインクでていねいに書かれた、手書きの原譜を読み続けました。

そのうちの一つ、実に壮大なメロドラマ「悲しみの父 Patre doloroso」は、ルネッサンスの画家、ルカ・シニョレッリについて美術史家のヴァザーリが書いた伝記に想を得ていると言います。シニョレッリは、構図の性別に関わらず常に自分の息子にモデルをしてもらっており、女性の場合は、後から体型を加筆したのだそうですが、言うまでもなくシニョレッリにとって息子はとても大切な存在だったわけです。その息子が他界してしまったとき、シニョレッリは三日三晩その息子を惜しんで絵を書きなぐった、という逸話に基づいています。

「パリのスタジオ。写真家・ルカ・シニョーリが、息子を使ってその昔ルカ・シニョレッリが書いた壁画を写真で再現しているところに、今度トウキョウで執り行われる皇太子の納采の儀(婚約の儀)の写真を撮ることを許された唯一の西洋人写真家だと告げられ、神秘のベールに包まれた街、トウキョウへ向かう。ところが、その仕事の最中、パリから息子セデリック急逝の知らせが入る。仰天した父親は、すぐさまパリに戻り、その昔ルカ・シニョレッリがしたように、美しい息子の姿三日三晩一心不乱に写真に撮り続ける。そして、まばゆい光に輝く霊安室に亡骸を運び、最後は、ブソッティのパートナー・ロッコの故郷にある、海辺の墓地へ埋葬される」。

居間のソファーで楽譜に夢中になっている傍らで、ブソッティは大きなロッキング・チェアーに身を沈めていて、奥の台所では、ロッコがかいがいしくご飯の用意をしていました。小説を読むようにひき込まれながら読んでいると、「どうだ、とても宗教的だろう」、と誇らしげにつぶやきました。

左の筆頭のような同性愛者のインテリが、宗教的という言葉を使うのに時の流れを感じ、思わず感慨をおぼえました。読み進みながら、確かに彼の父性の強さが心を打ち、センチメンタリズムとも違う、息子に対するまなざしは、文字通り父親そのものだと独りごちました。これは何だろう、因襲的な家族という形態とブソッティは遠い存在だと思い込んでいたのは、自分の誤りだったと悟りました。

ロッコが作ってくれた野菜のパスタに舌鼓をうちながら、最近彼らが関わったオペラの演奏について話していました。大凡気に入らないことが多かったようで、演奏よりもむしろ演出の話に花が咲きます。
「指揮者は頑張っていたんだよ。演奏はだからさほど悪くはなかった。でも、やっぱり演出が気に食わない。何しろ劇場支配人が、ぼくとロッコを使わずに、お抱えの演出家を使ってしまったからね。その演出家も若いながら、頑張ってはいたんだよ。でも自分が思い描いていたものとは違うんだ、なあロッコ、そう思わないか」。
ふと、耳を傾けながら、神経が研ぎ澄まされる気がして、思わず息をのみました。

「ぼくとロッコにとって、これが子供だから。どの家族も子供に自らの軌跡を託してゆく。ぼくらにとって、作品は子供と同じなんだ」。

(2月25日 ミラノにて)

追伸
吉清さん親子がどうか一時もはやく見つかりますように。
祖父が網元でよく祖父の船に乗せてもらいました。

製本、かい摘みましては(36)

四釜裕子

美篶堂(みすずどう)の上島(かみじま)真一さんによるハードカバーの製本ワークショップにでかける。二つ折りした紙を束ねて、無線綴じA5横型のスケッチブックを作るのだ。美篶堂のことだから、無線綴じとはいえしっかりした作りのはずで、教えてもらう機会をずっと狙っていたのだった。春一番吹き荒れるなか会場の青山ブックセンター本店に着くと、教室型に並べられたテーブルの上に、ハケやハサミ、タオル、ペン、定規などの道具や、洋紙、ボール紙、寒冷紗などの材料が一人分ずつきちんと揃えられている。短い時間で参加者が課題をこなすためには不可欠な準備と思いつつ、こそばゆさや気恥ずかしさを感じながら席に着く。両手を膝のうえにのせ、よろしくお願いしますと言う。

本文用紙にはヴァンヌーボが用意されている。20枚を二つ折りして、折山にハケで水をひと塗り。上からおさえ、折りを落ち着かせる。「水寄せ」といって、和本製本ではよく行われてきた方法だが、今回のようなやや厚めの洋紙にも応用できる。さて実は最初から、テーブルに小さな紙コップが一つずつ用意されていて、そうだな今日は風も強いし寒いから、途中いい具合でお茶が出るのかもと勝手想像していたのだが、そうではなくてこのときの、ひと塗りのための「水」が入っていたのであった。なんとも万端なことである。さてこれまた用意されたなかから好みの色の「見返し」用の紙を選んで二つ折りし、背固めにうつる。

背にボンドをたっぷり塗ってよくつきそろえ、裏貼りしていない寒冷紗を貼り、そのうえからまたボンドを塗って背紙を貼る。工程はこれだけだ。折山をたばねた背にカッターで切れ目を入れるとか、なにかしらコツがあると思っていたがさにあらず、使うボンドが肝心らしい。私がふだん使う木工用ボンドで同じことをやったら、乾いてのちに割れるだろう。固まっても柔軟性が残るボンド、それを使うのがコツなのだ。巷の本は今やほとんどが無線綴じだが、糸綴じと開きの良さにおいて甲乙つけがたいほど工夫された製本法もあるし、なんといっても、固まっても粘りの残るボンドによって、ページの開閉を柔軟に受け止めることができるようになった。商業ベースの先っぽにも目が届く美篶堂ならではの道具立てだ。ちなみにそのボンドはコニシボンドのなんとかというやつで、美篶堂のショップ(東京・御茶ノ水)で小分け販売しているとのこと。

さて続いて表紙貼り。表紙クロス(裏貼りされた布)が用意されている。これまた採寸断裁の必要はなく、色だけ選ぶ。台紙となるボール紙もすべて断裁済みなので、表紙クロスにボール紙をどう貼っていくのか、その目印だけつけてゆく。接着剤は水溶きボンド。ハケを入れるとかなり薄い印象を持つ。ボンド:ひめのり:水=1:1:1の混合で、もちろんボンドは「肝心なボンド」を使う。上島さんは、6cm幅のハケで表紙クロスに塗っていく。お、こっちですか、塗るのは。かつて製本工場の束見本を担当する職人さんを訪ねたとき、やはり布クロス側にニカワを塗っていたのを思い出す。いつのころからかの習慣で、自宅で私がやるときはいつもボール紙に接着剤を入れている。改めて習ったときのノートや本を開いてみると、確かにみんな、”ボール紙派”だ。だがそうでなくちゃならない理由はわからない。職人さんはニカワを使うからそっち、私はボンドでやるからこっち。そうかも知れぬ。だがそればかりではなさそうだ。

話戻って。上島さんは悠長に、「水分を含むと伸びますからこんなふうにそっくりかえります、様子をみて落ち着いたところで貼ってください。これは布ですからまだいいんです、紙ですともっとそっくりかえりますからその場合は一度塗って少し時間をおいてもう一度……」と説明しながら作業を進める。説明は聞きたいがボンドが乾いちゃうじゃないかとわたしは思う。「指で触って乾いていたら、ちょっと、ほんのちょっとですよ、もう一度塗ってください」。そう、乾いたら塗ればいい、位置がずれたらやり直せばいい。位置が決まったら台のうえで見返し側にタオルをあてて、内側から外に向かってしっかりなでる。表紙と見返しの隙間にボンドをまんべんなくしみこませてゆく感じ。なるほど少々塗り残しがあったとしても、ここでつじつまが合いそうだ。念入りが過ぎて過剰なボンドこそ御法度で、適切な接着剤を適切な分量だけ紙に塗ることができるなら、はみだしを気にして余計な保護紙を使ったり、プレス機に頼る必要もないのだろう。

翌朝、一晩寝かせたスケッチブックをやや強引に開けてみる。机にきれいに、平らに開いた。素材や道具の改良に常に耳を傾けて、確かな技術で受け止めて今も制作を続ける製本職人の、そしてそれを伝えてくれる美篶堂の、うつくしい仕事の一端なのだなあと思う。

とりつばさ――みどりの沙漠41

藤井貞和

とりつばさ 翔ぶ、

西日のうえ。

とりが留まる、

茅の輪をくぐり。

霊また霊よ 去り、

また去ろうとして。

撃ちおとされる、

悲しいかな。

つばさをのこし

(「鳥翔成」をツバサナスと訓んだのは賀茂真淵。山上憶良に「鳥翔成す有りがよひつつ見らめども、人こそ―知らね。松は―知るらむ」〈『万葉集』巻二〉。有間皇子は刑死して、後人の和歌がいくつかのこる。古代に死刑があったから、中世にも死刑が行われ、近世でもの凄くさかんとなって、近代や現代になおつづいている。戦争の起源は死刑の起源と、それこそ起源をともにする。死刑確定の物語が、DNA鑑定の導入とともに100名以上、1990年以後に無罪になったというのだから、これももの凄い〈『極刑』岩波書店、2005〉。裁き方としての拷問で犯罪を自白させようという方法が終わって、まだ何十年も経ってないのである。戦争の起源と拷問の起源、法の起源とは至近の位置にある。おや、マルクス主義の「国家の起源」…… ちなみに鳥が留まるから鳥居というのだって。「とりつばさ」は鳥の方言。)

メキシコ便り(7)

金野広美

長い冬休み、オアハカとパレンケを旅してきました。今回はそのオアハカの報告です。

オアハカはメキシコシティーから南西にバスで約6時間半。世界遺産にも指定されている中央アメリカ最古の遺跡モンテ・アルバンがあることのほか、多くのインディヘナ(先住民)の村があり、今もなお昔ながらの暮らしを営んでいることで有名です。街の中心はサントドミンゴ教会をはじめとして、たくさんの教会やカテドラルがあり、活気あふれるにぎやかな街です。ウイピルというそれは美しい刺繍をあしらった民族衣装を着ている女性たちを見ることができるのもここならではです。このウイピルを買うためだけにオアハカを訪れる観光客もいるほどなのです。確かにメキシコシティーで買うより、種類も豊富で安いのです。すばらしい刺繍のワンピースも300ペソ(約3000円)位から買えます。ほかには、ショールやかばん、インディヘナの世界観を表現したような壁掛けなど何時間見ていても飽きない先住民文化の宝庫がここオアハカなのです。

私がここに着いたのが木曜日、先住民の村オコトランで金曜日に市が開かれると聞き、行って見ました。オアハカからバスで45分のこの村の市は今まで見たことがないほど大きなものでした。果物や野菜はもちろんのこと、日常品や民芸品、革製品や生きたヤギ、七面鳥まで売っていました。タマーレス(トウモロコシの粉を練って作った直系5センチ長さ15センチ位の丸い筒状のものの中に肉や野菜を入れトウモロコシの皮で包んで蒸す)も、もちろん売っていたのですが、なんとここではチャプリンというバッタのような昆虫のから揚げを入れたものがありました。から揚げだけが皿にてんこ盛りしてあり、食べてみろと勧められました。最初はちょっとしり込みしたのですが、ええいままよと食べてみると、これがカリカリと香ばしく結構いけるのです。ビールのつまみに丁度いいのではと思いました。

また、カルというトルティージャの原料になるという白い岩のような塊を売っていたおばあさんが民族衣装を着て頭に木の小枝をつけていました。私は彼女とカルを写真に撮りたくて、頼んでみました。するとしぶしぶオーケーしてくれたのですが、カメラをむけると彼女は後ろを向いてその場を離れてしまいました。先住民のなかにはカメラは魂を吸い取ると思っている人がいるので、カメラを向けないようにとガイドブックにありましたが、やはりそうでした。カメラには白いカルだけが寂しそうに写っていました。またそのとなりでは日本の2倍はあろうかというよく育った大きなキャベツが山積みで売られていました。ここでキャベツを8個も買うおばあさんがいたので、何か商売でもしているのかとたずねると、明日が息子の結婚式なのだとうれしそうに答えてくれました、マグラデレナと名乗ったその彼女にお祝いを言いがら、年を聞いてみました。私は75歳くらいかなと思ったのですが、なんと55歳だというのです。もうびっくりしてしまいました。たくさんの子どもの世話(先住民の女性は平均8人の子どもを産むといわれています)、掃除、洗濯に主食のトルティージャづくり、畑仕事に、その合間の民芸品づくりなど、彼女たちの労働の厳しさがこんなにも早くマグラデナを老けさせてしまったのかと、大きな袋にキャベツを入れて帰っていく彼女を見送りながら胸がつまりました。そして、どうか明日は楽しい結婚式になりますようにと祈らずにはいられませんでした。

次の日は、別の先住民の村サアチラに行きました。ここはオアハカからバスで30分。ミステカ人とサポテカ人が住むというとても静かな村でした。ぶらぶらと歩いていると大きな庭のある家でトランポリンで遊んでいる子どもが2人。その庭には立派なナシミエント(イエスが生まれた情景を人形で表したモニュメント)がありました。ここでも写真を撮らせてもらうよう頼むと快く引き受けてくれ、こどもたちと話し込んでいると、父親のマリオが帰ってきました。そして、フアミリーで食事をするので食べていかないかと誘ってくれました。なんと親切な人なのだろうと、感激しながら、おいしいセビッチェ(魚介類の酢の物)やカルネ・アサーダ(焼き肉)をいただきました。ここサアチラでもどんどん混血が進むなか、マリオは純粋のサポテカ人だということを聞きびっくりしました。というのは、紀元前500年頃から紀元後800年ごろまでの1300年間モンテ・アルバン遺跡はサポテカ人が創ったサポテカ文化の中心として機能していたのです。はっきりした文字体系を持っていたサポテカ文化は多くのサポテカ文字を刻んだ石碑や土器や壁画を残し、現在それらの解読作業が進んでいるということです。今から2500年も前に文字を持ち、最盛期には2万5千人にも及ぶ人口を有しながら、盛んな社会活動をしていた、そんなサポテカ人の純粋な末裔が目の前にいるのかとおもうと、サアチラ王朝を描いた絵文書で見た王様の顔とマリオの浅黒い精悍な顔がだぶって見えたりして、ちょっと感動してしまったのです。

次の日、小高い丘の上にあるモンテ・アルバン遺跡に行きました。ピラミッドの上に立ち、さわやかな風にふかれていると、どこからともなくマリオに似たたくさんの人たちが現れ、大通りを行き来し始めました。私はしばしタイムマシンに乗って2500年前の世界に飛んで行ったのでした。

拍手

大野晋

コンサートで拍手が難しいと感じることがある。
特に、クラシックのコンサートではさまざまなルールや習慣がありややこしい。私自身も完全に把握しているわけではないが、こんな感じで拍手をしたらどうかと提案したい。

もともと、こんな文章を書く気になった原因は、最近、切羽詰ったような拍手や他人と競争するような性急すぎる拍手を聴く機会が多かったせいだ。いつの世も、新しい方がクラシックのコンサートに来られるようになると、不思議な拍手が時たま起きる。まあ、ここでぼやいてもなくなるわけではないのだけれど、拍手は聴衆が音楽家に直接渡すことのできるメッセージなのでぜひとも大切に使いたいものだと思うのだ。

開場の拍手:音楽家がステージに出てくると拍手をおくる。このとき表現する気持ちは、「私たちはあなたの登場するのを心待ちにしていましたよ」ということになる。だから、晴れ晴れしく、しかも演奏の邪魔にならないようにするとよいだろう。オーケストラではフランチャイズ(そこの会場を演奏の基盤として定期演奏会などを行っている)の場合には登場の時の拍手をしないのだそうだ。もちろん、全員が揃った後に、コンサートマスターが一人で登場してご挨拶(一礼する)ような場合には、全員の分は省略して、コンサートマスターで代表させてもらうのだが、この場合にはフランチャイズかどうかは関係ない。一方、遠方からツアーに来たオーケストラは登場した全員に拍手をおくるのが慣習のようだ。

曲間、曲後の拍手:本来は「感動した!」「よかった!」という気持ちを表現するので、どこで拍手してもいいはずだが、実際には曲の間にまとめて拍手することになっている。ただし、演奏された曲になじみがないと拍手するタイミングが難しいが、総じて、演奏家が終わりましたよと一息入れたタイミングで拍手をすればよい。現代曲などに多い小さな曲や休止符で終わってしまう曲なども、演奏家がくれるタイミングで拍手を入れれば問題ないので、心配する必要はないだろう。初心者なら他の多くの方が拍手をするのを聴いてから拍手すればよい。

困ってしまうのが我先にと先走る拍手で、どうも初心者をちょうど卒業したくらいの方がやってしまうことが多いようだが、休止符で終わっていたり、最後の音の余韻を味わうように演奏者が工夫しているような場合にはこの類の拍手で演奏者と観客との意図が無に帰してしまうのが残念だ。どうも、テレビなどで「感動した!」と我先に拍手をするような場面に毒されているように思われるが、本当の常連は、演奏を味わった上で、演奏家自身の緊張が解けたのを見計らって拍手をするのだよ、ということをぜひテレビでも教えて欲しいと思う。

最後の拍手:演奏後、何度も演奏家を拍手で呼び出すことをカーテンコールと言う。カーテンコールは演奏を聞いた気持ちを正直に表現すればいいと思う。良かったと思ったら「良かった!」という気持ちを表せばいいのだし、わからなければ「わからなかったがご苦労さん」でもいいだろう。もちろん、「ご苦労様、でも面白くなかった」というのでもいいと思う。そのときの気持ちを正直に表すことを心掛ければよいだろう。

よく気になるのが、カーテンコールもそこそこ(というのか、演奏家や指揮者がまだ舞台の上にいるのに)で、帰り支度をして帰ってしまう方たちだ。もちろん、「良くなかった!」という意思表示のためにそうやることもある(確かに年1回かそこらは)のだろうが、どうも見ていると帰りの混雑を避けたいがためにやっているようにしか見えないときの方が圧倒的に多い。特に学生ならまだしも、分別も社会もわきまえているであろう人生のベテラン諸氏がやられているのをみると、非常に残念に思えて嘆かわしい。願わくば、そういうマナーの悪い先輩たちを若い世代が見習わないことを願いたい。

最近、見ていると舞台上で、いろいろなやり取りを見ることができるのが面白い。指揮者がはずかしそうにカーテンコールの時に下がってオーケストラを立たせて拍手を受けさせていたのを、コンサートマスターが起立させずに「あなたが受けるべきです」と指揮者を立てて見せたり、演奏中に素晴らしいパフォーマンスをした演奏者を探し出してコールに応えさせてみたりといったやり取りが繰り広げられていることも少なくない。拍手を送りながら、そういったやり取りを楽しんで欲しい。

最後に、コンサートで観客が演奏を聴いて、演奏者と一緒に参加できるのが拍手という行為である。
ぜひ、拍手もコンサートの一部として、楽しんで欲しいものだと思う。
では、お後もよろしいようで。しゃん!しゃん!

スハルト大統領の芸術

冨岡三智

1月27日にスハルト元大統領が亡くなった。私の1回目の留学は1996年から1998年5月8日までで、帰国して約2週間後の5月21日にスハルトは辞任した。スハルト本人に芸術的素養があったとは思えないが、芸術を国家イベントでめいいっぱい利用することには長けていた。今回は留学早々に見たスハルト絶頂期の産物である舞踊劇と、堕ちる寸前に見たスハルトのあがきとでも言えるワヤンについて書いてみたい。

  ●ハルキットナスの舞踊劇

ハルキットナスはHarkitnas、つまりHari Kebangkitan Nasional(民族覚醒の日)の略称で、5月20日がその日にあたる。祝日にはなっていないが重要な国家記念日の1つで、毎年式典が行われる。1996年には私の留学先の国立芸大が、この式典に続いて上演される舞踊劇の制作を指名された。毎年全国の芸大などが交代で指名されていたというが、1996年のこの時が舞踊劇が創られた最後の年だったと聞いている。翌1997年にはスハルト政権下で6回目となる総選挙があり、4月末から選挙戦が始まっていた。その年はスカルノ元大統領の娘メガワティが対抗馬として登場したこともあって選挙期間中の5月はかなり不穏な雰囲気になっていたし、1998年は暴動の真っ最中で、どちらもハルキットナスの式典どころではなかったと記憶する。そしてそれ以降の大統領は、もはやこの”伝統”を引き継がなかったようである。

話は1996年に戻る。ハルキットナスの式典はジャカルタのコンベンション・センターで実施され、テレビで全国に生中継された。巨大な舞台の両脇にはスクリーンが据えられている。私のいた芸大では、教員や学生のたぶん過半数が踊り手、演奏家から化粧・着付、舞台スタッフとして動員され、その練習があるために1ヶ月くらいまともな授業はなかった。

その舞踊劇の内容は、簡単に言えば、インドネシアの歴史をざっと振り返り、現在の繁栄の頂点を描くというものである。この当時はまだ留学したてで何も分からなかったけれど、今から考えてみると、この舞踊劇にはインドネシアの典型的な自国認識が反映されていた。

まず最初の時代は暗黒未開の時代で、アルカイックな感じの鬼(の面をつけた踊り手)が暴れまわっているシーン。東南アジアの歴史については、古代―ボロブドゥール寺院などが建てられた頃―から近代にすっ飛んで中世がないということがよく言われる。が、古代についても具体的な生活風俗がよく分かっているわけではない。だから舞踊劇化しようと思えば、そんな風に描くしかないのだろう。

次にくるのが近代=オランダ植民地時代。ちなみに日本で言えばその頃はちょうど徳川時代にあたる。この舞踊劇に限らないが、インドネシアの舞踊の中で描かれるオランダの姿は決まって軍隊である。考えたらこれは当然のことで、来るべき民族独立運動の歴史を描くには、その抵抗相手は軍事征服者でないといけない。で、その後、オランダに抵抗するディポネゴロやら女性解放運動の先駆者カルティニ女史やらが登場し、インドネシアの独立に至る。

そして現在。蓮の花のつぼみの作り物が舞台に出される。この蓮が花開くと、中からガトコチョが飛び出ると同時に、舞台にも何人ものガトコチョが登場する。一方で、舞台脇のスクリーンには離着陸する飛行機の映像が映されている。つまり、空を飛べる能力を持った英雄ガトコチョ(ワヤン=影絵芝居によく登場する)は飛行機の象徴であり、ひいてはスハルトの「開発」政治の成功の象徴というわけなのだ。インドネシアは、この前年にアセアンの国々で初めて国産の飛行機の開発に成功しているから、この舞踊劇を見た人は誰だってそのことを思い出したはずである。この現在のシーンでは、大量の紅白の傘が舞台で花咲き、巨大なインドネシア国旗が何本も振られる。そして、舞台全編を通してインドネシア語のナレーションが入り、この壮大なる歴史物語をいやが上にも盛り上げる。この舞踊劇はまさにスハルト絶頂期の産物であった。

留学したての私には、この舞踊劇は全く驚きの代物だった。それまでの私にとって、ジャワ舞踊というのは即ちジャワ宮廷の舞踊のことで、どこまでも優美で、心の内面を重視し、象徴的なテーマを扱うものであって、こんな風に応用可能だとは思ってもみなかった。それに、戦中はともかく、現在の日本ではこういう「国家事業芸術」を見ることもない。だが長期滞在していると、インドネシアではこういう風に記念イベント行事を作ることが多いと分かってくる。

このように、踊り手と音楽家を数百人動員して、巨大な舞台でスペクタクルなドラマを上演するのは、1961年に国の観光事業として始まるラーマーヤナ・バレエが最初である。確かにそれ以前のジャワでも、イベントを記念するために舞踊を作るということはあった。しかし、そもそも巨大なステージやそれに見合う音響設備はそれまでは存在しなかったのである。この舞踊劇が始まったのはスカルノ時代のことだが、スハルトは就任早々の1970年に全国ラーマーヤナ・フェスティバル、ついで翌年には世界ラーマーヤナ・フェスティバル(参加したのは東南アジア各国とインド)を開催し、このラーマーヤナ・バレエを、インドネシアのアイデンティティとして政治的に活用した。スハルトはこの種のマス芸術を活用するのに長けていたのだ。

  ●経済危機のルワタン

1997年の終わりからルピアはどんどん暴落し、油や砂糖など生活物資はどんどん急騰し、1998年に入るともう人々は公然とスハルト批判をするようになった。そういう時期にスハルトは全国各地で(確か50ヶ所くらいと聞いた)国家的ルワタンとも言えるワヤン(影絵芝居)の上演を命じ、「ロモ・タンバック」を上演させた。ルワタンとは魔除けのことである、通常のルワタンでは個人を対象とし演目も決まっているが、この時は国家のお祓いで、またスハルトが重視していたラーマヤナから、ロモ=ラーマがアルンコ国に渡るためにサルの援軍の助けを借りて川を堰とめるという演目が使われた。

スハルトはクジャウィン(ジャワ神秘主義)に凝っていた。そのクジャウィンの流儀の一つとして、その人の性格をワヤンの人物になぞらえるというのがあるらしく、スハルトはそのクジャウィンの師からラーマにあたると診断されたらしい。ちなみにスカルノはクンボカルノだとされていた。クンボカルノはラーマの敵ラウォノの弟ながら忠義の人物(怪物)なのだが、敵ゆえにラーマの手により倒れる。そうやって、スハルトはスカルノの後を襲った自分を正当化していたのだという。

というわけで1998年のルワタンに話を戻す。「ロモ・タンバック」はソロでは2月20日にグドゥン・ワニタ(婦人会館)で、女性の女性問題担当国務大臣を迎えて上演された。有名どころの歌手をズラーッと並べ、客人にも有名なダランたちが多かった。ワヤンの導入部では、慣例の曲を使わず、スカテン(ジャワ・イスラムの行事に、王宮モスクで演奏される音楽)をアレンジした曲を演奏していたのを覚えている。この演奏は芸大によるもので、この通常の倍くらい大きいスカテン楽器はガンガン演奏され、厳粛というよりは壮大なルワタンという雰囲気を盛り上げていた。

しかし、この時期、物価は何倍にも跳ね上がっていたのだ。起用された芸術家らにとってはラッキーな仕事だったと思うが、こんなことに散財せずに、もっと庶民に金を寄こせ!と怒る人々もいただろうと思う。そういう私も、ルピアで預金していたのが通貨危機で一気に目減りして、帰国のチケット代(ドル建て)が足りなくなってしまい、あわててドル送金してもらっていたのだった。

  ●

このルワタンから3ヵ月後の5月に退陣し、7月に脳梗塞で倒れたスハルトは、意外にもしぶとく生き続けたなあと思う。スハルトは1996年の4月26日に(あの絶頂のハルキットナス式典の1ヶ月前に)夫人を亡くしている。だいたい妻を亡くした夫というものは早死にするというのが相場なのに、その上に大統領退陣と病気のダブルパンチに見舞われながらも、この10年近く屈しなかった。それはなぜだったのだろうと、死んだ今になっても不思議に思う。

旧正月、外出禁止令、後生正月(グソーソーガチ)

仲宗根浩

二月六日、年の夜(トゥシノユール)、旧暦の大晦日、ニュースでは旧正月を迎える糸満の市場の様子を映す。実家に行き揃ってソーキ汁(骨付きの豚のあばら肉)をいただく。

二月七日、テレビの旧正月番組は年々減り今年は一月三日に放送された民謡番組の再放送が目についただけ。ニュースは相変わらず糸満の様子を放送。小学生の頃、旧正月は学校も休みだったことを子供に話すとうらやましがる。糸満は復帰以後しばらく、市役所も含めて休みだったような記憶していたが、今はその休みもいつの間にかなくなっている。学校は早めに終わるかもしれない。近所に一件、「旧正月のため休みます」と貼り紙をしている店があった。中部のここら辺では珍しい。ラジオでは夜、旧正月特番をやっている。実家からかまぼこ、てんぷら、三枚肉、豆腐、お菓子など仏壇に供えたものをもらい、夕ご飯のおかずになる。

で、事件。新聞はとってないのでテレビのニュースを見る。発端となった現場が近くなので見慣れた街の風景が流れる。商店街を歩いていたら東京のテレビ局のひとから時間があるか声をかけられたが、待たせているひとがいたため急いでいることを伝える。応じたら全国ネットのテレビに映っただろうか。地元のテレビは街の様子とともに商店主の話も流す。見知った顔が数人映る。軍人、軍属の外出禁止令が出たあと通りは閑散としている。夜、嬌声も聞こえない。Yナンバーの車も走っていない。

基地依存 マリン、アーミー、ネイビー、エアフォース 続く事件 抗議のシュプレヒコール 議会の決議 過去の映像 地位協定 自立 基地撤去 その他出てくる問題 県民集会 いつもと同じ報道 同じ論調 同じ映像 同じ反応。こちらの神経は麻痺してしまった。

二月二十二日(旧暦一月十六日)十六日祭。グソーソーガチ。あの世の人のためのお正月。去年、あの世に行った方々の家をまわる母親と叔母の運転手。宮古などではお墓の前で大宴会。うちでは四月の清明(シーミー)に墓の前に集まる。

砂漠の待雪草作戦

さとうまき

ヨルダンに到着したときはまだ肌寒かったが、シリアに向かうと、なんだかぽかぽか陽気ですっかり春。

今回は、「砂漠の待雪草」作戦を実行する。その中身は、イラク戦争から5年たとうとする3月20日に向けて、イラクから待雪草を摘んでくるという作戦だ。待雪草の花言葉は、「希望、慰め、楽しい予告」今のイラクにぴったりである。

マルシャークの戯曲「森は生きている」の中にも登場する花。
わがままな女王が、冬の大晦日に待雪草を摘んでこないと、新しい年にしないとダダをこねる。待雪草を摘んできたものにはご褒美をたくさん上げましょうと聞いて強欲で意地悪な継母が心の優しい孤児に寒いさなか森の中に、この時期にあるわけもない待雪草を摘みに行かせる。それでも奇跡が起こり、まま娘は、待雪草をたくさん摘んで帰ったという奇跡のお話。

もともとはロシア民謡の話だから、砂漠には咲くはずもない花なのだろうが、「アダムとイブの2人が楽園を追い出されて困っていたとき、降ってきた雪を天使が待雪草の花に変えた。」とある。アダムとイブの楽園は、バスラの近くのクルナ村辺りにあったといわれているから、イラクにも無縁ではない花だ。そういえば、1月11日、バグダッドに100年ぶりに雪が降ったというから、これもイラクに平和がくる前触れかもしれない。

さて、待雪草とは、暗号名で、つまりは、イラク人のこの5年間の物語を集めてくるという指令である。そこで、まず、わたしたちは、イラク難民であふれているというシリアのダマスカスへ向かったのである。

サイダ・ザイナブには、シーア派ゆかりのモスクがある。イラクからの難民が多く集まり、リトル・バグダードと呼ばれることもある。イラク料理や、イラク茶屋、イラク土産の店など、なんとも懐かしくなるのだが、ちょうどわれわれがついた日は、アルバイーンというお祭りの日。これは、シーア派のイスラム教徒が崇め奉るアル・フセイン(預言者ムハンマッドの孫)がカルバラの戦いで殉死した悲しみの記念日でもあるのだ。

イラクだけでなく、レバノンや、インド、イランなどから殉教者がたくさん集い、アル・フセインの苦しみを体現しようと、男たちは上半身裸になり、自らを鞭うつ。その鎖で出来た鞭の先には、包丁が着いているものもあり、背中からダラダラと出血。違うグループは、包丁を額につけて頭から流血している。目の前には、地獄絵が繰り広げられる。

見ているだけでも、すっかり体力を使い果たしたわたしたちは、食欲もうせ、待雪草をつんでくるどころではなくなってしまった。

(ダマスカスにて)

13のレクイエム ヘレン・モーガン(3)

浜野サトル

  
ニューヨークのブロードウェイの代名詞となっているミュージカル・ショーは、もともとはイギリスで生まれた娯楽舞台劇だが、発展したのは1920年代のアメリカだった。その大きなジャンプ台となったのは、女流作家エドナ・ファーバーの原作をジェローム・カーンがオスカー・ハマースタインIIと組んでミュージカル化した『ショー・ボート』(1927年初演)だった。

『ショー・ボート』以前のミュージカルは、基本的には「お笑い」を生命線とする音楽劇だった。「笑い」ではなく「お笑い」とあえて書くのは、風刺や諧謔でぬりこめた笑いではなく、要はドタバタ劇だったからである。
現在のアメリカのショー・ビジネスの多彩さからすると信じにくいことだが、それ以前、アメリカ独自のショーといえば、ミンストレル・ショーぐらいしかなかった。ミンストレル・ショーというのは、白人の出演者たちが黒人に見える化粧と扮装をし、黒人奴隷たちが合衆国の土の上で伝統的に育て上げてきた歌や踊りをまねて演じる、これまた滑稽音楽劇である。日頃黒人たちを徹底的にいためつけている白人の観客たちが、黒人をとことん笑いものにするために生まれたショー、と言っていい。

余談だが、1960年代にわが国でも大ヒットしたミュージカル映画『ウェスト・サイド物語』では、ジョージ・チャキリスなどの白人俳優が顔と肌を黒く仕上げてプエルトリカンを演じた。チャキリスがアイドルだった当時中学生の僕は、来日した彼の「真っ白な」顔を週刊誌のグラビアで見て、驚愕した。いまにして思えば、華麗なミュージカルを俳優たちが力感あふれる演技で演じた映画を支えていたのは、ミンストレル・ショーの嘘くさい伝統だったのである。
作曲を担当したユダヤ系アメリカ人、レナード・バーンスタインは、いったいこのことをどう思っていたのか。40年以上経って、本人がとっくに世を去ったいまも気になる。

それでは、『ショー・ボート』は、どこがどうそれ以前のミュージカル、さらにはミンストレル・ショーと違っていたのか。一言でいえば、リアリズムを基本精神として「人種問題」を織り込んだドラマを提示したことである。その意味で、『ショー・ボート』は、はるか後年の『ウェスト・サイド物語』の源流といってもいい。

  
『ショー・ボート』という標題に使われているショー・ボートとは、まあ、説明の要はあるまいとは思うが、近頃の無知な若者たちのために書いておけば、19世紀半ばにアメリカはミシシッピ河で運航が始まった、船そのものが劇場になった劇場船(フローティング・シアター)のことである。劇場で行われるもの=ショーと船=ボートを合わせて、ショー・ボートと呼ばれた。
ショー・ボート自体は、1920年代になって人気を失ったといわれる。それとすれ違うようにして人気を得たのが、ミュージカルの『ショー・ボート』だった。

『ショー・ボート』は船上でショーを演じる一家の年代記であると同時に、恋の物語である。恋物語となれば、主人公は2人。船長兼座長の娘マグノーリア(この名がアメリカ南部のシンボルともいうべき花の名前でもあるのは、多くの人の知るところだろう)と流れ者の賭博師ゲイロード。物語はこの2人の恋と結婚、別離、そして再会を大河ドラマ風に描く。
しかし、それだけではない。物語にはもう1組のカップル、一座の花形スターである美人女優ジュリーと、相手役でも恋人でもあるスティーヴとの悲恋が織り込まれ、いわば二重のストーリーとして展開する。
そうして、『ショー・ボート』を『ショー・ボート』たらしめたのは、実はお話の本筋よりも、伏線であるはずの後者のカップルをめぐるエピソードなのだ。

それはなぜか。
ジュリーは、とびきりの美人だった。アメリカを牛耳る白人社会にあってさえ、そうそうお目にかかることはないほどの美人だった。しかし、彼女は白人ではなかった。見た目は白人だが、実際には黒人との混血で、戸籍上は黒人だった。

ジュリーに恋をした男がいた。しかし、相手にされなかった。悔しさと嫉妬にかられた男は、ジュリーの出生の秘密を知り、密告する。官憲は、法的に禁じられている結婚だとしてジュリーとスティーヴの仲を裂く。
『ショー・ボート』は、そうして物語の様相を一転し、悲恋の物語となる。悲恋に隠されているのは、そう、誰が見てもわかるアメリカという人種差別社会が落とす濃い影なのだ。

それだけに、これが大衆を楽しませるミュージカルになろうと考えた人はいなかった。そのことを最もよく知っていたのが原作者で、小説に惚れ込んだジェローム・カーンがミュージカル化を申し入れてきたとき、エドナ・ファーバーはただ困惑するだけだった。それでも、彼女は最終的には受け入れた。
曲折はさらに続く。この作品のプロデュースは、1920〜30年代に「レビューの王様」と呼ばれたフロレンス・ジーグフェルドにゆだねられた。舞台稽古が始まると、そのジーグフェルドが真っ先に題材に疑問を持つようになった。これはミュージカルに向くお話ではない、と彼は判断したのである。
ショーの世界を牛耳っているのは、いうまでもなく白人たちである。そして、観客もまた白人。人種差別を取り上げることが白人社会でいかに微妙なことだったかが、この一事でわかるだろう。

それでも、カーンは、公演を強行した。初演は1927年11月15日。ところはワシントン、ナショナル劇場だった。
開演は夜8時半。第一幕が終わると休憩が入るが、観客たちは黙りこくっていた。やがてこの作品を代表する曲となる「オール・マン・リヴァー」の熱唱のあとも、拍手はほとんどなかったという。

ジーグフェルドは、即座にこのミュージカルを失敗作と断じた。しかし、カーンとハマースタインの自信はゆるがなかった。そして、12月27日、ブロードウェイのジーグフェルド劇場で本公演の幕が開いた。
6週間前のプレヴュー公演とはうってかわって、終演時、今度は嵐のような拍手が爆発した。観客は声をあげて出演者を讃え、それが1929年まで、計572回続く連続公演の始まりになった。

主演は、マグノーリアを演じたノーマ・テリス。しかし、観客の目を奪い、その名を記憶に刻みつけたのは、脇役のジュリーを演じた俳優だった。
それが、ヘレン・モーガンだった。

(続く)

※参照=CD『More Than You Know/Ruth Etting & Helen Morgan』
    The HELEN MORGAN Page

反システム音楽論断片(二)

高橋悠治

コンピュータのなかの疑似乱数は初期値が決ればそっくり再現される はじめ新鮮に見えた予測できないうごきも 回をかさねて予測できなさが予想されるにつれて ある顔をもつことになる クセナキスの使った確率関数も ケージの易占も 論理的にはアルゴリズム思想 認知主義と言えるだろうが いままでになかった音をもたらしたこともたしかだ

コンピュータのように孤立した記号と それと相対的に独立した規則を組み合わせた操作で作る表象世界は 啓蒙主義の作り出した機能和声の究極の姿であったシェーンベルク流の音列操作以後のトータルセリエルと同時代の考えかたで そういう背景からアルゴリズムによる作曲法が生まれた

クセナキスはコンピュータによる作曲オートマトンを試みて その成果に失望していた 60年代にコンピュータを使った作曲では多数の結果から 音楽的におもしろいものだけを残して組み合わせる 作曲家の判断が介入して いままでになかった音の雲の移りを生み出した その後古代ギリシャからビザンティン文化にかけての音階論の研究から 論理演算によって非周期的音階を作る「ふるいの技法」と音運動のベクトル的協調による集合メロディーの「メドゥーサの髪」によって アルゴリズムを必要としないテクスチャーの貼りあわせで オーケストラ曲を書き それは単純化されたクラスターに収斂していった

ケージの易占の発見は 1950年代のはじめ ヴェーベルンの『室内交響曲』上演の衝撃とほとんど同時に起こった ヴェーベルンの音楽を音列の展開として 抽象に還元するのではなく 孤立したピッチの不規則な反復として 耳に聞こえた現象から方法化したのが フェルドマンの音域と時間単位を格子状にしたグラフィックであり 数個の音の組み替えと音色変化によるクリスチャン・ヴォルフの作品であり おそらくそれらの影響からケージの孤立した音色を易占で配置する作品が書かれたのだろう

最晩年のケージは 易占をコンピュータアルゴリズム化しながらも 水墨のような音の内部変化を多層時間に分散並列化したナンバーピースを創り アルゴリズムからセルオートマトン的な音響空間の創発を試みた

これらの作品は たしかに方法と介入を使い分けながら 未知の音の道を切りひらいた そのために使われた方法 アルゴリズムや カオス フラクタルを含む複雑系の考えかたは いわば乗り捨てられた筏にすぎない その後これらの方法を使っても はじまるものは何もない 介入なしの方法は自立できない

アルゴリズムは 要素と操作 あるいはデータとプログラムを分離する 複雑系の方法は いまのところニューラルネットワークのように 複合的なアルゴリズムにすぎないのではないか 疑似乱数は 単純化されたシミュレーションモデルを作るのがせいぜいで パターンとしての単調さから逃れられないから 視点の転換をもたらすようなアートには追いつけないだろう

それにもかかわらず 先駆的な実験が さまざまに読み取れる「はじまり」の地点であったとすれば そこにはたらいていた介入 攪乱 繊細さなど 身体化された あるいは身体に埋め込まれた心のはたらきを追求するところから 次への道が見えてくるのではないか それには 理論や方法よりも じっさいに身体をうごかして観察する現象学 あるいは瞑想が最も直接的ではないのか

今の段階では コンピュータはプログラミングやデータという操作主義からはまだ自由ではないし 複雑系のロボットも手の自由さにはほど遠い コンピュータやロボットが手のうごきにあらわれるような 言語的・歴史的・文化的・社会的文脈を理解するのはいつの日か それとも そんなことはもう期待されてはいないのだろうか

それでも アルゴリズム コンピュータアート メディアアート エレクトロニクス ノイズ 音響系などがないとやっていけない人びとの政治的・文化的・心理的状況がある 『道はない だが進まねばならない』というノーノのタイトルだが この世界に根拠はない だから根拠が必要だ というのは いったい何だろう