あけましておめでとうございます

三橋圭介

あけましておめでとうございます。

今月、水牛に書こうと思っていたジョアン・ジルベルトの来日が中止になってしまった。11月がだめになり、12月もだめになり。ボサノヴァ誕生50周年の最後を飾るはずの公演はすっぽかされて、終わり。個人的にはブラジル文化にはまだまだ飽き足りていない。トロピカリアのなかでは、唯一いまだ前衛のトン・ゼーが一番おもしろい。最近でたボサノヴァを彼らしく斜めに読み換えたアルバムは、その鬼才ぶりが発揮されておもしろい。ボサノヴァ誕生50周年はトン・ゼーの斬新なボサで締めくくられたことになりめでたしめでたし。もうボサは横において、来月からずっと関心を持ち続けてきたのはシコ・ブアルキを紹介していこうと思う。カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルなどは日本に何度もきていて有名だが(トン・ゼーはきていない)、同じ世代でもシコはあまり日本で知られていない。来月から翻訳を中心に彼の人生などをここで紹介していこうと思っている。お楽しみに…。

ジャワのスス(牛乳)屋の話

冨岡三智

今年は丑年ということで、今月はジャワの牛にちなんだ話、というか牛乳の話をしよう。

観光ガイドブックの類には載っていないが、ジャワの都市・ソロの名物として有名なのものに「スス屋=ワルン・スス」がある。ワルンは屋台、ススは牛乳のことで、牛乳を中心とした軽飲食を提供する屋台のことである。ソロでは、牛乳は朝ではなく夜の飲み物で、ワルン・ススが開店するのも日没後である。ワルン・ススがソロに多いのは、乳牛の盛んなボヨラリ県が郊外にあって、毎日新鮮な牛乳が調達できるかららしい。朝に搾った牛乳がソロに届くのが昼ごろ、それから煮沸をして屋台に出せるようになるのが夕方以降なので、牛乳は夜の飲み物というわけなのだ。

私のお隣さん一家はスス屋を経営していたのだが、スラバヤの人からスス屋を開業したいと相談を受けたことがあるという。スラバヤにはスス屋がないので当たるかもと思われたらしい。だが牛乳は温度管理も難しく、毎日調達しないといけないから、スス屋の経営はソロ以外の都市では難しいだろう、と我が隣人はアドバイスしたそうだ。隣人によれば、スス屋というのはどうも他都市にはないようだという。確かに、少なくともジャカルタの下町には全然なかった。

ここでふと、守屋毅著「喫茶の文明史」の一節を思い出す。イギリスの砂糖入りミルクティーの成立は、大航海時代のイギリスをとりまく世界構造を反映している。植民地からもたらされる砂糖だけでなく、都市生活者にいたみやすいミルクを恒常的に供給するには、それなりの流通メカニズムの成立が必要で、それがヨーロッパでできあがるのが1600年代だというのだ。ソロのスス屋が成立するのも、郊外との流通パイプがあるからこそなのだが、日本のように安価な殺菌牛乳が大量流通しているわけでないから、スス屋という形態は全国どこでも成立するには至らない。

スス屋は夜に開店する。しかもジャワは、飲酒も女性の夜の一人歩きもないイスラム文化圏だ。ということは、スス屋にたむろするのは男性連れが多いということになる。もっとも屋台や立地によっては男女のカップルが多い所もある。ジャワでは男の人同士が夜、牛乳をいっぱいひっかけながら長話するという話をすると、たいていの日本人男性は仰天する。日本ではお酒を飲まないと男同士で話もできないようだが、ジャワでは牛乳だけで十分話が弾むのだ。

それでは、スス屋にどんなメニューがあるのか。飲み物としてはスス、コピ・スス(コーヒー牛乳)、スス・チョクラット(ココア牛乳)、スス・ジャヘ(生姜入り牛乳)や、STMJ(牛乳+卵+蜂蜜+ジャムー漢方)といった滋養強壮に良さそうなメニューが定番だ。またメニューにはないが、生卵を呑む男性客も時々いる。どうやら精力増強のためのようだ。それ以外には普通の屋台同様、ファンタ類やソーダ・グンビラ(炭酸ソーダ+練乳+グリーンサンド=ノンアルコール飲料)が置かれている。意外なのは、お茶の産地なのに、ジャワにはミルク・ティーという飲み方がないことだ。このことは留学中には全然気づかなかった。

軽食としては、ナシ・ゴレン(焼飯)やナシ・バンデン(魚つきご飯)といったご飯もの(1人前ずつバナナの葉で包んである)に、ビーフン、揚げ物、豆腐の煮付けや鶉卵、焼き鳥、ゼリーなど。そしてロティ・バカール(トースト)を忘れてはいけない。パンにバターを塗ってトーストし、チョコ・スプレーを振りかけ、8等分程度に包丁目を入れて出される。ちなみに、パンにチョコ・スプレーをかけて食べるのは、オランダの影響なのだそうだ。どのメニューも基本的に量は少なく、ちまちまといろいろと食べる楽しみがある。また焼き飯やおかずなどは、頼むと炒め直してくれる。これらのメニューだが、ご飯ものや多少のおかずはスス屋が自分で用意しても、お惣菜類やデザート類に関しては、ルート・セールスで個人が売りにくるのを置いていることも多い。特にたくさんの種類を並べて流行っているスス屋ほどそうである。

ここ数年の間に、シー・ジャックというお洒落な名前のスス屋が、ソロに何軒もできた。他の屋台に比べて、客は圧倒的に若者が多い。どの店でも屋台のテント柄が同じで、真っ赤なプラスチックのお皿を使い、メニューも共通している。お店の人に聞いたわけではなく又聞きだが、シー・ジャック各店は親戚中で経営していて、お惣菜も一族が一手に作って、全部の店に卸しているらしい。この店は私より後世代の留学生に教えてもらったのだが、チェーン展開で屋台を経営する話は今までに聞いたことがなかった。私が知らなかっただけかも知れないが、少なくとも、こんな風に若者向けにお洒落に展開するスス屋はなかった気がする。

留学時代は、スス屋によくお世話になった。スス屋は夜の11時、12時頃まで開いているから、夜にガムランの練習が終わった後に留学生同士で立ち寄って小腹を満たしつつ、いろいろと情報交換をするのだ。日本の喫茶店のような店はソロにはほとんどないから、スス屋が恰好の社交場になる。

これだけありふれたスス屋なのだが、牛乳を家庭で飲む習慣はあまりない気がする。ちょうどお寿司が外食のものであるように、牛乳を飲むのは家の外だけのことのようなのだ。私自身、親しい人の家を訪問したり泊まったりした時に、牛乳を出された経験が全然ない。また私はお隣りのスス屋からよく煮沸して余った牛乳をもらうので、お客があると出していたのだが、意外にも牛乳を飲めない人が多かった。日本のように、健康に良いからと子供に牛乳に飲ませる風でもない。牛乳はあくまでも、大人の社交の飲み物という気がする。

旅行けば

大野晋

浪曲だと、「旅行けば」とくれば「駿河の国に、茶の香り」と来ますが、年の瀬も迫ってその駿河の国に泊まっている。今日も富士山が遠くに見えてなかなかに景色がいい。気温も隣の相模の国と比べてもやはり高く感じ、農協の売店に出ている野菜なども寒さに弱いものもまだ出てきていることから暖かいのは事実のようだ。

茶摘の季節にはまだまだ早すぎるのだけれど、なんとなく、のんびりとした気分になる。

「旅行けば」とのんびりとした雰囲気で過ごしたくなる気持ちがわかる年末年始である。

オトメンと指を差されて(7)

大久保ゆう

水牛読者のみなさま、あけましておめでとうございます。旧年はどうもお見苦しいところをお見せしてお恥ずかしいばかりです。(よくよく考えてみれば今までの記事は私のプライヴェートをさらけ出していたわけでなんとはしたないというかそれを他人様に読まれているということに思い当たってものすごく恥ずかしくてなおかつそれを地の文で書いていたなんて赤面も赤面なので今後はお行儀よくオトメン的反応は括弧のなかに入れることにします。)本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
今年も駆け出し翻訳家としてお菓子を食べつつ研究もしつつ頑張っていこうと思うのですが、そういえばオトメンである私が女の子のなりたい職業の上位に入る翻訳家になっているというのも、ある意味象徴的なことかもしれません。
でも……私は普通の翻訳家じゃなくて、ひと味違うオトメン翻訳家ですよ?
というわけで、新年改めまして、第七回目にしてようやく自己紹介などをしてみたいと思います。しかし翻訳家が翻訳のことを語るときには比喩を用いねばならないという古来からの伝統があるので、私もそれに倣ってひたすら自分のことをわかりにくく人様から見たらシュールに見えるくらいを目指して書いてゆくことにします。

 1.私は魔法使い
なのです。しかも普通ならハリポタみたいに魔法学校(というか魔法使い養成所)に行ったり、あるいはたまたまその魔法に詳しかったがために一種類だけ使えたり、そういうのが多いのですが、私はひたすら我流で修行しまくっていたらいつの間にか魔法使いになっていたという感じです。しかも、

 2.私は魔法学者

なのです。自分だけで頑張っていたので、(好きが高じて)ひたすら昔の魔法使いのことを調べたり、魔法理論とかを考えたり勉強したりしなくちゃならなくて、そんなこんなで魔法学者にもなってしまいました。不思議なことにこの国の魔法学校では魔法の訓練はしますが、理論のお勉強はしないし、そもそも理論の研究をしているところがまったくないので、この国にいる魔法学者の数少ないひとりになってしまいました。そんなわけで

 3.白魔法も黒魔法も赤魔法も青魔法も何でも使える

のです。普通なら、訓練で一種類もしくは数種類の魔法を身につける(というよりは身体にたたき込む!)のですが、私はいかんせん理論からやってしまったので、基本的に呪文の解読書さえ手に入れば、どんな流派・系統の魔法だって使えます。もちろん若干の練習が必要だし、いきなり大魔法は無理ですが、小魔法や中魔法くらいだったら大丈夫です。魔法を使う本質みたいなのさえわかっていれば、何でもできるわけなんですね。初見でも『あのときの王子くん』レベルの効果は出せますし、去年はデンマーク系の小魔法を使うお仕事も致しました。もちろん、普段から色んな魔法の練習は常にしているんですけどね。

 4.日本の魔法学は遅れている

ので、数少ない魔法学者としては、古い魔法哲学の文献や、もしくは新しい魔法理論書とか魔法史書などを訳したいと考えていたり、あるいは自分で書きたいと思っていたりするのですが……。なぜか訓練書ばかりでるんですよね。訓練も大事は大事なのですが、真面目に魔法を使うだけだと、どうしても迫力とか格好良さとか相手のこととか、その場その場にあった魔法のアレンジができなくなっちゃうんですよね。もちろん経験やセンスがあればそのあたりはできるようになるのですが、その経験をあらかじめ補うのが理論であったりするので(センスは別です)。それに、そもそも魔法は何なのかっていう本質がわからないまま使うことになっちゃいます。たぶん、それを飛ばしてしまってるがための時間的無駄は、結構あるような気がします。

 5.私はまだ10年程度

しか魔法使いの道に入っていませんが(むしろもう10年?)、個人的にはやっぱり子どものための魔法とか、なぞなぞの魔法とか、大人向けのせつない魔法とか、そういうのがしっくりくるみたいです。魔導書の孫引きでもいいから、いつか色んな系統の子ども向け魔法集みたいなのをやりたいなあ、なんて風に思います。アルメニア子ども向け魔法集とか。ちょこちょこ本は買いためてるんですけどね。アルメニア魔法はいつか原典からもやってみたいです。世界の秘密的な意味で。

 6.でも誤解があって

魔法が使えると言うと、「じゃあ呪文が暗唱できるんですね〜」などと言われるのですが、魔法を使うのと呪文を暗唱するのはまったく別のことです。たとえ暗唱できても魔法を発生させて効果を生むことができない人もいるし、魔法が使えても暗唱できない人もいます。そもそも魔法を使うときに暗唱は必ずしもできなくていいんですよね。魔導書を横に置いて黙唱にせよ何にせよ唱えて使えればいいわけですから。それは一般的な誤解なのですが、時折、魔法のことを知ってるよ、みたいな感じで別の誤解をされる方が結構おられます。その、効果の大きさとか格好良さっていうのは確かに大事なんですが、魔法そのものが使えるかどうかという能力とは本質的には関係がないんですよ。「魔法ってやっぱり効果が大事だよね〜」とおっしゃりたいのはわかります。いちばん最後に見えるものですから。でもそれはけして魔法の本質じゃありません。……でも魔法哲学が普及していないから、仕方がないことではあるのですが。

……という感じで書いてみました(うーん、野球にたとえた方が良かったかな)。いや、本当に小さい頃は何と言いますか、(本物の)魔法使いになりたかったので、ある意味、その夢が叶っていることになります。こんな方向で叶うなんて思ってもみませんでしたけどね!(泣き笑い)

けれども魔法使いにもたくさんの問題があって、上記のようにその本質が知られていないこともありますが、現代においてその最たるものは「儲からない」ことでしょう! 比喩からしてもお金が結びつかないのがありありとわかるのですが、魔法使いの慎ましやかな生活はまた来月にでも。

しもた屋之噺(85)

杉山洋一

3日ほど前、クリスマス・コンサートを終えてサンマリノから戻り、家人が日本に10日ほど戻っていて、息子と二人、静かにクリスマス休暇を過ごしています。先ほどまで庭先の木が見えないほど濃い霧が立ち込めていたかと思えば、今は暴風が物凄い轟音を立てて吹き荒れています。まだ朝の4時過ぎ、辺りは真っ暗で静まり返っています。

サンマリノの演奏会は、前半が4歳から8歳くらいのこどもたち90人と、現代風にアレンジされたこどものうた、後半はジョン・ウィリアムス映画音楽という軽いプログラムで、とても楽しく、心に残る演奏会になりました。この演奏会はサンマリノでは20年以上続いている伝統ある行事で、2名の執政(Capitani Reggentiと呼ばれてイタリアで言う大統領に相当。日本の総理大臣とは少し印象が違います)が揃って列席し、ですから国歌斉唱もあり、テレビの中継も入り、最後は決まってラデツキー行進曲がアンコールで、花吹雪が舞う、という段取りです。当初はウィーンのニューイヤーコンサートよろしくシュトラウスばかりを取上げていたそうですが、近年いろいろとプログラムに変化を持たせ、何度も聴衆からリクエストされていた映画音楽を初めて取上げたとか。

初めて「サンマリノ共和国国歌」をやったわけですが、渡された楽譜には歌詞がなく、どこでフレーズが切れるのかも分かりません。一度こどもたちの合唱の練習を覗いた折、息継ぎの場所などチェックしたので問題はなかったのですが、合唱団との顔合わせのときは、初めてで緊張していて、声もよく出ていないようでしたので、ぺらぺらの楽譜をあちらに見せながら、「一つ頼みがあるんだけどね、貰った国歌の楽譜、何と言葉が書いてないのよ。悪いんだけどさ、ぼくに教えてくれるつもりで、一つよろしく頼むよ」というと、途端に声が出るようになりました。可愛らしいものです。
ちなみに、ピアノを弾いていた合唱団指揮者の奥さんに、もちろん彼女もサンマリノ人でしたが、ちょっと言葉を教えてよ、と休憩中に話しましたら、「ええと、肝要な…誉れ高き…あれれ、どうだったかしら?」という按配で、なかなか美しい旋律はともかく、歌詞は余り浸透しているようには見受けられませんでした。子供たち、あっぱれ!

子供たちのうたは、ボローニャのフランシスコ修道会がつくった合唱団「金貨(ゼッキーノ・ドーロ)」のために1967年に作曲されたPopoff(ポポフ)、La lucciola nel taschino(ポケットに一匹のホタル)、La minicoda(ミニしっぽ)などの童謡が、クリスマス唱歌に雑じって編曲されていて、これが実に味わい深く、素敵なのです。
「黒猫のタンゴ」など、「みんなのうた」を通して日本や世界各国に紹介された「金貨」合唱団のレパートリーは多いです(「黒猫のタンゴ」の「原曲の原曲」は「モダンタイムス」でチャップリンの歌う「ティティナ」)が、この3曲は日本では未紹介のようなので、何方か上手に訳をつけて「みんなのうた」に持ちかければ、とお節介が頭をもたげるほどでした。ちなみに「ポポフ」は、「カリンカ」風にイタリア人が書いた、40年以上経った今も歌い継がれる名曲で、イタリアでは誰でも知っている童謡とのこと。
ボローニャの子供たちにとって、「金貨」合唱団はやはり憧れだそうで、入団試験もとても難しいと聞きました。今や「金貨」合唱団がテレビに登場するのが、クリスマスの風物詩になっているほどです。

「内気なぼくは猫や犬なんて飼えないけど、ポケットに一匹、大切なホタルを入れているんだ」と、寂しげに短調で始まる「ポケットに一匹のホタル」など、小さい子供たちは感情移入して、泣きそうな顔で歌い始めるのです。その後、ホタルが自分を照らし出してくれて長調に転ずるところで、顔の表情が活き活きと漲り、いきおいオーケストラの音色もがらりと変化しました。
練習のとき、誤まって「じゃ次は『レ・ルッチョレ(蛍)』ね」と言うと、小さな女の子に「違うわよ、『ラ・ルッチョラ(一匹の蛍)』よ」と、いみじくも直されてしまいました。ポケットにたった一匹ホタルがほんのり明かりを放つのと、沢山のホタルが賑々しく明滅するのでは、意味が全く違いますから。

ジョン・ウィリアムスは、E.T以外、スターウォーズ、スーパーマン、ハリーポッター、ジュラシック・パーク、インディージョーンズなど、個人的に映画には馴染みがありませんでしたが、特に、アレンジャーや弟子の筆が加えられていない、ウィリアムスオリジナルのスーパーマンとジュラシック・パークのスコアは、明らかに他の作品と格段の差があり、並々ならぬ才能を実感させられました。

これらオリジナルのスコアには相当難しいパッセージも散見されるのですが、これらを捨て置かず地道に練習してゆくと、思ってもみなかった効果が現れたりするのです。明らかにスタジオ録音を念頭に書かれた、ラッパ4本に対しフルート2本というアンバランスなオーケストレーションで、結局は金管が咆哮するのだから、このパッセージを丁寧に演奏する必然性があるかと疑いたくなりますが、早いパッセージのぴたりと焦点があうと、別の模様がさっと浮き上がってくるのです。こうなるとオーケストラの方が面白がって、互いにどんどん聴きあい、寸時を惜しんで個人練習を積んでくれて本番は見事な演奏になりました。

或る日練習の合間の食事休憩のとき、控室で着替えて廊下に出ると、隣の部屋にフルートのクリスティーナやオーボエのロレンツォ、インペクのローモロなどオーケストラの6、7人が集まっていて、一斉に手招きするので何かと思うと、何とそれぞれ美味の食事を持ち寄って立食パーティーをしているのです。ほらこれを食べなさいよ、これも食べて、味見してみて、と大変な騒ぎで、乾燥ラードのような珍味にまでありつけました。前菜のサラミから主菜を経てデザートのフルーツや自家製のケーキまで、全て揃っているのには驚かされます。流石は美食家の多いエミリア・ロマーニャ地方だけのことはあります。

ホルンのジョヴァンニが作ってきた自家製のワインまであって、何度も勧められたものの、練習の前には流石に呑めない、呑んだら寝てしまうと言い、一杯だけ紙コップに注いでもらって控室に持帰りました。その日無事練習も終わり、控室で残っていたワインを呷ると、強烈な酸味で目が覚めました。先ほど、なかなかワインのボトルが空かなかった理由もこれでわかりました。
とはいえ、お陰でとても心温まる、素敵な誕生日になった、と残っていた手焼きクッキーを齧り、教会に掛かるクリスマスのネオンを眺めつつ、深夜のホテルに戻りました。

(12月25日 ミラノにて)

メキシコ便り(16)

金野広美

踏んだりけったりの経験をしたチワワからバスで南に12時間、中央高原北西部にあるサカテカスに着きました。ここは16世紀にメキシコ随一の銀鉱として栄えたところで、当時の貴族が富みをつぎ込んだ壮麗なバロック建築がそのまま残っているところです。古い石畳の道や小さな噴水のある広場がいたるところにあり、バロック建築のチュリゲラ様式と呼ばれる緻密な装飾がほどこされたカテドラルやサント・ドミンゴ教会がそびえたっています。サカテカスの街並みを一望できるというゴーファーの丘にテレフェリコと呼ばれるロ-プーウェイで登ってみました。ここでは色とりどりの花が咲き乱れ、どこからともなくかすかにいいにおいがただよってきます。さわやかな風にふかれながら展望台から眺めるサカテカスは、赤みがかった建物の色のせいか、かわいらしい箱庭のようで平和そのもののように眼下にひろがっていました。

このあたりで採れる砂岩は赤みがかった色をしていて、その石でつくられた建物は全体に濃い桃色をしているため、ピンクシティという愛称もあるほどです。この丘はいまでこそサカテカスのビュースポットになっている場所ですが、1914年、連邦政府軍とパンチョ・ビージャ率いる革命軍によって激闘が繰り広げられ、革命軍の勝利によりメキシコに新しい時代が到来する契機になった場所でもあります。この時の戦闘の様子などを当時の武器や写真などで知ることができるサカテカス占拠博物館を訪れ、多くの生々しい戦いの記録を見ました。まだあどけない顔をした若い娘が肩から銃弾のぎっしり詰まったベルトをかけ、銃を持って少し緊張しつつ、わずかに微笑んでいるかのような表情の写真がとても印象的でした。きっと彼女はとても怖かったでしょうが、誇りを持って戦いに参加したのではないかと思わせる一枚でした。

博物館を出たあと下りは別のルートで帰ろうと、客待ちをしていたタクシーに乗りました。タクシーだと15分40ペソ(約400円)の距離なのですが、陽気におしゃべりしていた運転手が、なんと途中で知り合いの女性を見つけて助手席に乗せました。そしてなにやら彼女と楽しそうに話し出したのです。私はちょっとびっくりしてしまい、「相乗りは料金頭割りやでー」と大阪のおばちゃんになろうかと思いましたが、200円くらいのことなので、まあいいかと、ここは我慢して寛大な日本人でいましたが、日本ではちょっと考えられないことですよね。

ここサカテカスには個人のコレクションとは思えないくらい中身の充実しているといわれる2つの博物館があります。ひとつはペドロ・コロネル博物館で、ここサカテカス出身の画家ペドロ・コロネルの収集品を展示してあります。エジプトのミイラ、中国清王朝の青磁器、ギリシャの彫像、インドの神像、アフリカの木彫品、ピカソ、シャガール、ミロ、ゴヤ、歌麿の浮世絵と、その数も種類も半端ではありません。ミロなど「UBUの子供たち」という一連の作品をはじめとして約60点、浮世絵も歌麿呂や豊国など約40点ありました。そしてここの出身の画家ピラネシが描いた宮殿やカテドラルは、まるで巨大な設計図のようで、緻密な細い線を多用し建築物の美しさを表現していました。日ごろメキシコ人の大雑把な仕事ぶりをみている私にはこんな几帳面なメキシコ人もいるのかと驚きでした。だって私のアパートの床板など寸法を間違えているのか、きっちりはまっていなくてすきまだらけなんですよ。ほんと、これで売り物になっているのがなんとも不思議です。

次に仮面博物館とみんなが呼んでいるラファエル・コロネル博物館に行きました。メキシコの伝統的な宗教儀式や祭りのダンスに使われる鹿、ジャガー、牛などの動物、老人や子供、スペインのコンキスタドール(征服者)、またこれ以上気持ち悪くできないといった角を持った悪魔の仮面など、さまざまな仮面が約3500点展示してあります。日本でも能面や鬼面など多くの仮面がありますが、ここの仮面たちの派手ばでしさにくらべれば、日本のものはとても簡素で美しいと思いました。1メートルはある大きな悪魔の仮面など、恐ろしくしようと蛇や狼などをいろいろとつけすぎて、かえって滑稽になってしまい、日本の夜叉面の方がよほど恐ろしいのではないかと思われました。

仮面は簡単に変身できる手軽な小道具で、とても興味深かったのですが、なにせ3500個もあるのですから行けども行けども仮面ばかり、お客は私ひとり、歩いているうちにジャガーや大きな牛、おぞましい悪魔が突然動き出し、襲いかかるのではないかという気がしてきて、だんだん怖くなって早足になり、最後は小走りで展示室を出てしまいました。

外に出ると薄暗い博物館とはうってかわって澄み切った青空がひろがり、通りから甘いにおいが漂ってきました。そのにおいのする方に近寄ってみると、大きなカモテ(さつまいも)を直径1.5メートルはある巨大な鍋で炊いて売っていました。砂糖をふんだんに入れ、グアジャバという小さな果物と一緒にぐつぐつ煮込んだ芋菓子のようなものなのですが、これが安くて本当においしいのです。日本だと「石焼きいもー」となるところでしょうが、だいたい日本の石焼きいもの倍はある大きさのカモテで10ペソ(約100円)です。なべの中は大きいものから小さいものまでさまざまなカモテがありましたが、どれでもみんな10ペソだというので、もちろん一番大きなものを選び、くたくたになったグアジャバもいっぱい入れてもらいました。これを歩きながら食べていると、さっきの怖かった仮面のこともすっかり忘れて、幸せいっぱいお腹いっぱいになりました。

製本、かい摘みましては(46)

四釜裕子

10月、鯖江の助田小芳さんから、句集『よみづと』の案内が届く。戦前から夫・茂蔵さんと謄写版印刷業を営むかたわら、茂蔵さんの孔版画と小芳さんの句や随筆などをまとめた本を私家版として刊行してきたかただ。案内の冒頭に、茂蔵さんが2カ月の患いののち2008年4月に亡くなったとある。春に予定していた刊行が、半年遅れた。できる限りの準備を尽くして逝った父にかわって、あとの印刷、製本、案内、頒布その全てを息子の篤郎さんが引き継いだ。

帙入り保護箱付きと貼り箱入りが用意され、迷わず帙入りを注文する。まもなく届いた『よみづと』は、小芳さんが平成15年から19年にかけて詠んだ句が茂蔵さんの筆文字で刷られており、ほかに12篇の随筆と花の孔版画3葉が添えてある。紙はすべて越前和紙、大きさはB5変形(8寸9分×4寸5分)、黄色の糸と黄色の角布で5つ目の和綴じにくっきり仕上げられ、厚さ18ミリながら表紙に入れられた折れ線と黄味やわらかな越前和紙によりページは至極しなやかに開く。

表紙の花は、2007年夏に助田家の庭によく茂り、あたりを黄金色に照らしたというオオマツヨイグサである。実際の黄の色は淡く銀の輝きを感じさせ、昼夜、時間によって表情を変える。茂蔵さんが描いた花の絵を篤郎さんが孔版画製版し、オオマツヨイグサは10回、なかに綴じられたハギは8回、ハゲイトウは10回、それぞれ刷りを重ねて1枚ずつ仕上げている。ガリ版でいったいどうやってこんな風合いを出すのだろう!と見入りながら、「ガリ版」のことをほとんどなにも知らないくせにそんなふうに感じることが可笑しくなる。句は1ページに2つ。四季の草花やできごとがいとおしさとユーモアを傍らに詠み継がれていて、小芳さんと同年代の身近なひと、そしてまもなく自分に重なる。ひとり詠んだ誰かの句を、かまびすしさと解釈に疎くひとり繰り返し読む時間がぐるぐる過ぎた。

2007年春、このご家族にお会いした。NHK「ラジオ深夜便」で放送された助田夫妻のインタビュー(聞き手は西橋正泰アナウンサー)を「ラジオ深夜便こころの時代 第4号」(NHKサービスセンター)に再録するため、写真家の大沼ショージさんと訪ねたのだった。助蔵さんが勤めていた木綿問屋で仲間と作っていた同人誌主催の詩の展覧会でお二人が出会ったこと、戦時中は小芳さんが謄写版の道具一式を疎開させたこと、子どもたちに作った絵本のこと、二人で歩いたお遍路、そののちに謄写版で私家本を作りはじめたこと、ある一年間は毎日一つ地の花を二人で探し水彩で描いたこと……。米粒をじぃと見つめていると「小さい」という観念がなくなって、それでその中に字を書くことができるようになります、誰だってできますよ。人の真似して美しいと言っているあいだは美しさは見えていません、そういうことに気づいたらなにもかもが美しく見えて、自然にいりびたるようになったんです。そんな話をたくさん聞いた。

句集『よみづと』。著者・助田小芳、発行者・助田茂蔵、印刷製本・助田篤郎。最初はあまりに大切で恐る恐るめくっていたが、ぐるぐる時が過ぎたころには背を机にべったりと置き、何度も開ききっていた。美しく仕上げようとして作られたものは破壊を嫌うが、美しく仕上がってしまったものは破壊を怖れないのだと、つくづく思う。助田さん一家が送り出してきた本は、砂時計を落ちる一粒ずつの砂を思わせる。心身に得た恵みのありがとうを絵と言葉にして、手渡し読んでもらうためのカタチをひとつずつ仕上げる。小さないくつもの砂時計の細い首をいつもまっすぐに落ち、こうしてたくさんのひとの肚に宿を移してきたことだろう。「よみづと」とは、「黄泉苞」であり、「詠み苞」でもある。

水――翠の羨道 51

藤井貞和

途で疲れて本道を離れ、一樹の翠のもとに
仏(ほとけ)は憩う。 阿難に言うには、
阿難よ、願わくはわが身のために衣を地に布け。
吾、疲れたり。 しばし憩わん。 休みたい。

阿難の言う、世尊よ、うけたまわりました。
四つにたたんである衣をひろげると、そのうえに
仏は座して、また阿難よ、願わくはわが身のために
水を持ち来たれ。 私は渇いた。 飲みたいのだ。

阿難の答える、世尊よ、いま五百輌の車が、流れを
過(よ)ぎりました。 水はしばらく濁ったままで、
澄み切らないのです。 大河がほど遠からぬさきに
あって、水清く、涼しく、いましばらくの我慢を。

仏がふたたび言うには、願わくはわが身のために
水を持ち来たれ。 私は渇いた。 いますぐに。
阿難尊者に告げてみたび言うには、願わくは
水を持ち来たれ。 私は渇いた。 いますぐに。

(阿難はどうしたかって? そんなに飲みたい飲みたい言われるのだから、轍で乱れ濁った水とて、水は水、飲まして進ぜようとした。『仏陀の福音』〈鈴木大拙、明35〉によれば、流れは澄みに澄んで、一点の塵もなかった。これではつまらないね。汚れた水でもよいから飲ませようとした、阿難の瞬間の心がそれではわかりにくい。ジナ教によると、命(jiva)について、「善悪などの業分子侵入の多少の程度によって、現実の命の本質を水の流れるのにたとえる」と。濁水が一時澄みたる時を止業、その濁分を他へ移したる時を滅業、両者の中間を混業、業が力を揮い初めたる時を起業、命が命そのものの状態に復帰したる時を円満位と言うと(「入諦義経」第二品の解説、『耆那教聖典』世界聖典全集七、大9、154ぺ)。著者鈴木重信は満十三年にわたる病魔とのたたかいのすえに、この一冊を遺して三十一歳にて遷化する。それももの凄い執念。)

Tomorrow is another day.

仲宗根浩

ある日、家での音楽の聴き方を変えよう、と考えパソコンに取り込んだCDの音源を消すことにした。20GB以上あった音源ファイルは盤があるものを削除し2GBに減る。これからは盤を取り出し、CDプレイヤーに入れる、という作業を再びすることになる。家の中での音楽の垂れ流しはこれでなくなる。

ある日、夕ご飯の餃子、餡を皮に包むよう命じられる。冷蔵庫からかわを取り出す。わんたんのかわと書かれている。すこしいやな予感。袋を開け取り出すとほら〜、形が正方形じゃないか〜。しょうがないので餡をのせ対角線で折、包む。出来上がった三角形はどうみても生八つ橋。

ある日、水谷隆子が亡くなった、というメールが来た。メールの日付は昨日だった。不幸があるとメールのやり取りが多くなる。りゅうちゃんと初めて会ったのは澤井先生のレッスン場だった。りゅうちゃんは見学に来ていた。こちらはレッスンを受ける側だった。レッスンは時間が押して一番最後のわたしが終わる頃は終電も無くなり、最後まで見学していたりゅうちゃんは入門前にしてレッスン場に泊めさせられ、その日は飲み会へと突入した。真面目なりゅうちゃんは内弟子となり、内弟子卒業後はアルバイトをしながら演奏活動を続ける。一度、りゅうちゃんから代役を頼まれた。彼女が参加していた、コントラバスと複数の箏で即興をするグループ。場所は今はなくなった法政大学の学生会館ホールだった。りゅうちゃんの代役などつとまるはずがなく、下合わせからなんかおさまりきれてない、自分の居所を見つけられないまま本番まで終わったしまった。そのあと、こっちはいつの間にか箏の世界からコースアウトし東京を離れる。東京から離れる数日前、その頃住んでいたアパートまで会いに来てくれた。うちの奥さんとはNHK邦楽技能者育成会で同期だったし、子供の顔が見たかったのかもしれない。それが会って話をした最後になった。それ以後はEメールだけのやり取りになった。彼女が東京で最初のリサイタルをするとき、舞台スタッフのこと、音響のことなどの相談を受けた。その時が一番やりとりしたかもしれない。そのうち文化庁の在外派遣研修員として彼女は渡米した。新しい音楽をつくる楽しみに満ちたメールが来た。こちらの内容は仕事の愚痴とおふざけと馬鹿話だけ。東京のいろんな人の近況報告も全部りゅうちゃん経由のメールで知った。派遣研修後もアメリカで暮らし、結婚したこと、癌が見つかって手術する、という報告メールが来た。治療の副作用で丸坊主になったこと、トルコブルーのカツラを付けた写真も送ってきた。こちらからは禿げ仲間が増えてうれしい、と返信した。詳しく書かれた治療の様子、副作用のこと、苦しさなんて当人でないとわからない。いつも通りふざけるしかできなかった。季節ごと、新年を迎えるごとに連絡は取り合っていたがだんだんとその数は減っていき二年半ほど途絶えた。でも活動はホームページやブログを見て知っていた。その後、沖縄にいるりゅうちゃんの知り合いの近況を伝えたり、育成会の同期会に関しての連絡を頼まれたりと、年に数回のやりとりが再開した。去年、久しぶりに東京を訪れたときは入れ違いでりゅうちゃんは、IIIZ+という自らのグループの公演のため東京に来た。今年四月にはここからは東京よりも近い台湾まで来ていたので沖縄経由すればよかったのに、と書くと「台湾ー沖縄経由、思いもしなかったよ。次回はそうしよう。」と返事がきた。りゅうちゃんは上手に癌と付き合って世界中を飛び回りつづけているからそのうち会えるだろう、思っていた。だけどTomorrow is another day.と、タイトルがついてブログは十月十日を最後に更新されないまま、二ヶ月後にりゅうちゃんはみんなにバイバイしていった。澤井先生宅にての、りゅうちゃんを偲ぶ会の案内メールが来たが欠席の返事を出す。

ある日、十九年使った掃除機がついにこわれた。これで結婚以来使っていた家電製品はすべて代替わりとなった。奥さんは掃除機の下見に行く。店の人に明日のセールから六万四千八百円の製品ですが今日までであれば四万七千円でいいです、と言われ内金を払いもどってきた。価格ドットコムで値段を調べる。損はしてない。最近の掃除機、収納の形態が四種類もある。「トランスフォーマー」みたいだ、と子供と遊ぶ。

ある日、十年前に購入したパソコンをメーカーに回収してもらう手続きをする。リサイクルマークが無い頃のものなので有料になる。支払いを済ませしばらくすると、発送のため伝票が送られてきたので箱に詰め郵便局へ持っていく。Apple Power Book 2400/240。いいマシンだった。80MBのメモリー、2GBのハードディスク。今ではビデオカードには80MBでは足りず、2GBはメモリーの標準。

ある日、新聞についてくる年末年始のテレビ番組表を見ながら演芸番組をチェックする。生の落語も七、八年前に立川談志独演会を近くのホールで見て以来、ご無沙汰している。この番組表を実家から貰っているのだが、これを見ていると日曜日にある「みんなのケイバ」が「みんなのゲイバー」に見えていつもドキっとする。最後のゲイバーは高校の同窓会の二次会、場所は新宿。だれが手配したか知らないが、店に入ると貸し切り状態。男子校だったので店の中は男だけだった。

おおむねいつも通りのひと月は過ぎる。

冬のなかで2009年

高橋悠治

『透明迷宮』からはじまり『冬の旅』で 2008年も終わった
『花筺』『なびかひ』『しぬび』は追悼の音楽
柴田南雄の『歌仙一巻「狂句こがらしの」』(1979)の演奏
如月小春によるシアターピース『トロイメラ』作曲と上演
結城座の『破れ傘長庵』の音楽担当で発見したこといくつか
沈黙に点在する いくつかの即興

先の見えない森の小道を 自由への歩みに変える ささやかなこころみ
刻まれる文字をつかうなら カフカやベケットのように
手のうごきにみちびかれて 未知の空間をひらくこともできるだろう
音はその場で消えるもの ひとりのものではなく
にんげんのあいだにあるもの
きっかけをよみ 舵を切る
連句の付けと転じは シュールレアリスムの「妙なる死体」とはちがって
型の自在な運用を必要とした
この場合の型はかたちではない
連句の月の座 花の座も
義太夫の七つユリや ウレヒ三重も
ホメーロス以来の叙事詩的定型句の反復のように「見えるもの」ではなく
場の遠景に佇む見えない力と言おうか
潜在する知識として いったん個人の内部に沈み
空間をきっかけとした表現として 異なるかたちでよみがえる
音楽は「あいだ」のものだから
地図のない道 全体のない部分
座をつなぎ 場をつくるもの
即興とその記録のあいだで どっちつかずにゆれている

1960年代には草月アートセンターがあった
そこを通じてクセナキスにもケージにも出会った
1980年代には 世界はひろく散らばって それでも
遠く離れてはいても 友人たちがいることを知っていた
いまは みんないなくなっていく

音楽は ここにはない
ヘテロフォニーの曼荼羅も 人力コンピュータも
知的退廃にしか見えないが
どこかに 知らないだれかが
まだきいたことのない音楽をつくっているだろう

もう旅はしない
世界の向こう側に行かなくても
内側へおりてゆく井戸がある
時間はさかさにまわりはじめる
未知の過去に未来はある
背後にはひらいた窓がある
そこから出てゆくまで
もうしばらくはここにいる