少女の死・2

さとうまき

僕は、オーストリア経由で、イラクに入った。今回札幌の団体から、ダンボール1箱分の薬を託された。たったの1箱なんだけど、抗がん剤がほとんどなのでお金になおすと300万円分だ。重量が18kgも超過してしまい、なんと、チェックインカウンターで10万円払えといわれた。普通は、10万円といっても5万円くらいに負けてくれる。ああだのこうだの説明するけど、まけてくれない。日本は厳しい。

薬の一部はウィーンでオーストリアのNGOに手渡して、イラクに送ってもらう手はずになっており、随分と軽くはなったが、それでも、まだ、僕のスーツケースは2kgオーバーしていたが、ウィーンからアルビル(北イラク)に向かう飛行機では、追加料金をとられることはなかった。そのあと、北イラクの病院にのこりの薬を届け、肩の荷が降りた。

その後、僕はヨルダンに飛んで、サブリーンの描いた絵をポスターにして印刷屋で印刷してもらった。この印刷屋が結構、いけてて、いい感じで作ってくれる。値段も安いのだ。40種類のポスターを印刷した。出来上がったのを眺めていると、なんとも、うれしくなってくるし、そして悲しくもなってくる。しかし、この印刷屋、あせらすと全くダメで、裁断が、少しづつゆがんでいたりするのだ。

スーツケースはすっかりと軽くなったが、そこに、サブリーンのポスター40枚を詰め込み、イブラヒムからもらったサブリーンが生前に着ていた衣服などの遺品を詰め込むとまた重くなってしまった。実際は、行きより軽くなっているはずなのに、なんだか、とっても肩の荷が重い。

イスラームでは、死後40日間は、喪に服すそうだ。日本でも49日というように、それくらいの日が経てば、悲しい気持ちも癒されることになっている。でも、なんだか釈然としないものがある。イラク戦争って一体なんだったんだろう。子ども達に降りかかった爪あとは、しっかりと検証してほしい。

12月2日(水曜日)、新宿カタログハウス 地下2階で、サブリーンのお別れ会をします。会場には、B2サイズの40枚のポスターを展示します。18:30〜21:00 お問い合わせ:JIM-NET(03-6228-0746)

擬態・2――翠の虫籠62

藤井貞和

擬態語の     はらはらと      わらわらと
 気体燃料     木の葉隠れの     革命家立つ
  北一輝      虫のいろ       まぼろしや
   期待外れの    熱き心に       夢より覚めて
    季題が一つ    眠る越冬       枯れ葉の擬態

(大手コンビニエンスストアに似せた風俗向け無料案内所〈大阪市北区〉。ファミマのそっくりさんです。文法用語に言う「擬態語」と「擬音語」との区別がどうしてもわかりません。「はらはら」は擬態語なのか、擬音語なのか。最近の発見、このまえ言いましたか、擬態語も擬音語も「らはらは」とか「たかたか」〈「かたかた」の逆〉とか、成り立たないのです。音順というのか、「擬」にはしっかりあるらしい。)

オトメンと指を差されて(18)

大久保ゆう

つい最近のことですが、ケータイ小説を書きました。この原稿がみなさんの目に触れるころには、もうすでに連載も開始され、クリスマスに配信される最終回に向かって物語が進んでいるかと思われますが、その件については私のブログでも見てもらうこととして、今回は創作についての話でも。

ケータイ小説というと、とかく批判されがちです。稚拙と笑われたり、内容がくだらないと言われたり、あるいは子どもにとって不道徳であるとか成長に悪影響を与えるとか云々。

けれども自分たちが子どもだったころを振り返って、何が好きだったか思い出してみると、それもまた大人たちから「くだらない」と言われたものだったりして、そんな発言に傷ついたり腹を立てたりしたものです。私の世代だとTVゲームがそうでしょうか。

しかし結果として私たちが悪い人になったかというとそうではなく、ゲームをしていた大部分の子どもたちは普通の大人になっています。結局のところ何ともなく、むしろ遊ぶことで人生のあれこれを学ぶことも少なくありませんでした。

ところが大人になった子どもはそのことを忘れ、新しい子どもたちが楽しむものをけなして取り上げようとします。自分がやられてむかついたことを、かつての子どもたちが同じようにしているというわけで。

こういう構図がずっと続いてきたのだと思います。たとえばマンガやテレビといった新しい娯楽メディアが現れたときには。

それでも、今の私がひとつ思いを馳せることができるとすれば、そういう状況にあっても、子どもだった私たちに「おもちゃ」を作ってくれた大人たちがいたということです。

だから私はいつも、罵倒するより禁止するより、「おもちゃ」をつくる方に回りたい――そう思います。少なくとも自分にできるのは、ひとりの創作者として「ケータイ小説」というジャンルを考え、これを洗練させて整え、子どもたちが面白いと思うものをつくろうとすること。

ケータイ小説とはいったい何なのか、という問いには、おそらくまだはっきりとした答えはないのだと思います。メディアとして若すぎるがゆえに、あるいは成長の途上にあるがために。

そこでいろいろと試してみました。ケータイ小説そのものを読んだり、様々な作品をケータイ小説のフォーマットに流し込んだり、実際の作品として書いてみたり。

その過程で気づいたのは、「どうしても客観的描写が浮いてしまう」ということです。どんな文豪の書いた文の綾でも、自分のつづった言葉でも、携帯電話の小さな画面に映し出されたとたん、意味の声が消え去ってしまうというか、届かなくなってしまうというか、はがれてしまうというか……画面と自分のあいだで、意味がばらばらになって四散してしまうというか。

もちろん携帯電話には電子メール機能があって、私たちは日々それを用いて言葉を交換しているわけですが、ふと考えてみたとき、あまり客観的な文章を送ってはいないことに思い当たります。手紙というよりもほとんど会話に近いものですし、描写よりも気持ちを載せてつづっています。

しかも時に言葉はかなり断片化され、大胆に記号化もされます。それは今まで私たちが使ってきた日本語なるものの実態とも規範とも違っています。

そうすると、この携帯電話なるものは、私たちが普段使っている様式から考えるかぎり、「心と会話しか載らない新しい記号体系の運搬デバイス」ということができるでしょう。

そしてまた、この島国で少女マンガの文法が心と会話を軸として、かなり特殊な発展をしたことを考え合わせると、ケータイ小説が少女のなかで生まれたというのは、どこかうなずけるものでもあります。

であるとしたら、今ここでできるのは、この携帯電話の記号体系というものを物語りに最適化させて、その上で本質的なケータイ小説なるものを展開させること。たくさんのケータイ小説のなかで、萌芽として生まれている核のようなものをかき集め、整理し、まとめあげ、そこから新しい文学の可能性を拓いてみせること。

そうしてみてはじめて、ケータイ小説独自の文体や表現が手に入るのだと、「よりおもしろいもの」ができるのだと、そう私は考えています。もちろん、ケータイ小説以外にも同じことが当てはまるわけで、私はそうしてきた先人たちに深く敬意を抱くものでもあります。

けして直接的ではありませんし、表にも出てきませんが、誰か・何かに対するその種の敬意が創作という行為を駆動させることもあるのだと、強く感じています。

1960 年代のインドネシアを視た人

冨岡三智

11月、ベネディクト・アンダーソンの講演、「革命後のジャカルタ-アクセス可能な都市」を聞きに行く。アンダーソン(長い名前なので、失礼ながらこの後は彼と呼ぶことにする)は政治学、東南アジア学の専門家で、あの「想像の共同体」の著者である。タイトルの「革命後」というのはインドネシアが独立した1950年代から1960年代半ばまでの、スカルノ時代を指している。彼は1960年代前半にインドネシアで調査していて、今回の講演は、1960年代の都市ジャカルタが、さまざまな文脈においてアクセスしやすい都市だったことについて語るものだった。

アクセスのしやすさというのは、ジャカルタのメイン通りでさえべチャ(輪タク)や自転車がまだ走っていて、車が少なかったこと、だから今のように都市は暑くなかったこと、今のように高い壁と守衛によって守られた高級住宅コミュニティーは存在せず、主人と召使の居住空間を分ける外と内を分けるエアコンもなかったこと、大統領宮殿で催されるワヤン劇は民衆に開放されていて、政治家も、大学、学校も近づきやすかったこと、売春婦や狂人らも特定地区に閉じ込められていなかったこと、ストリート・カルチャーが生きていたこと、敬語をもたないインドネシア語が日常的に話されていたこと、などを言っている。

現在のメトロポリス・ジャカルタしか知らない私にとっては、信じられない光景だ。けれど60年代のジャカルタを懐かしげに語る彼の口調を聞いていると、私の留学していたソロ(=スラカルタ)の町の、90年代後半の雰囲気とあまり変わらない気もする…。ソロではいまだにべチャが走っている。高い壁で区切られた空間といえば、王宮があるけれど、逆にそれしかない。それに今ではだいぶ崩れてきたとはいえ、王宮より高い建物を建ててはいけないという不文律があったから、市内には高いビルもなかった。ストリート・カルチャーだって生きているから、夜ごはんを食べに屋台に行くと、流しのミュージシャンに出会える…。

この講演に強烈に惹かれたのは、実は1960年代という点にある。いろんな芸術家にインタビューしていても、1960年代の状況というのが一番分かりにくい。それは、1960年代末で政治や世代が大きく断絶しているからなのだ。インドネシアでは、1965年9月30日の事件でスカルノ大統領が失脚し、1968年にスハルトが正式に第2代大統領となるまで政治的混乱が続いた。その間に共産党が非合法化され、大粛清されている。

ソロで活躍する舞踊家には、1940年代後半から1950年代前半の生まれの人が少ない。それ以前の生まれの人達は、現在の芸術学校の基礎を築いたり、スタンダードナンバーの作品を残したりした世代の人々である。そして、芸術大学の教員に多いのは、1950年代後半から1960年代前半の生まれの人たちである。彼らは、1970年代の、スハルト大統領の経済開発政策に伴う伝統芸術復興の気運に乗って、芸術高校から芸術大学に進学し、そのまま芸大教員になったという、恵まれた世代である。そして、両世代の谷間の世代というのは、1960年代にソロで芸術高校を卒業したものの、就職先がなくてジャカルタに出て行った人達が多い世代なのである。そんな谷間の時代の1960年代というのは、どんな雰囲気だったのだろう。そして、そんな谷間の世代が集まったジャカルタが、現在のようにメトロポリスとして発展するのは1970年代以降のことである。

ここで、彼(アンダーソン)のことに話は戻る。彼の講演を聞きたかったのは、そんな1960年代の様子を知っているという以上に、その頃にソロの王宮に入っているからなのだ。そのことで、1つ彼に直接聞いてみたい質問があったのである。彼は当時コーネル大学の大学院生で、1963年にティルトアミジョヨという、コーネル大のインドネシア人留学生と一緒に、ソロの王宮の即位記念日の式典を調査している。ちなみに、このティルトアミジョヨは、バティック作家として有名なイワン・ティルタのことである。ジャワの宮廷舞踊として有名な秘舞「ブドヨ・クタワン」は、この即位記念日のときだけ上演されるのだが、その内容が一般に知られるようになったのは、この調査報告を通してだと言っていい。ついでに言えば、コーネル大学の東南アジアプログラムが出版する雑誌「インドネシア」の第3号(1967年)に、彼とティルトアミジョヨのレポートがそれぞれ掲載されている。

私が王宮の人々にインタビューしていたところによると、1960年代が宮廷舞踊の一番の危機だったという。王宮の女性の踊り手は、かつては幼少から後宮に住み、長じては王の側室になる人が多いのだが、1960年代にはそんな踊り手ももうほとんどおらず、必要な9人の踊り手を揃えるために、年長者が踊ったり、外部から踊りの上手な人を招いたりもしていた。現在ジャカルタで活躍するレトノ・マルティ女史もその1人である。宮廷で最も重要な儀礼舞踊「ブドヨ・クタワン」を踊るのは穢れなき処女でなければならず、花嫁の衣装を着て、花嫁のように額に剃り込みをし鉄漿を施して踊るのだが、鉄漿をしなくなるのも1960年代のことらしい。多くの招待客を迎えて華々しく行われ、宮廷の威信を振りまいている「ブドヨ・クタワン」が1960年代には廃れかけていた、というのも現在となっては信じがたい。

けれど彼も、1960年代のソロの王宮は、メランコリックな気分に満ち満ちていたと言う。「ブドヨ・クタワン」は、いま見ておかねば、いつ廃止になってもおかしくない、という雰囲気だったと言う。人数が足りないため、すでに盛りを過ぎた踊り手が踊り、当時すでに王は王宮には住んでおらず、ジャカルタからやってくるだけになっていた、と語る彼の口調は、ソロの王宮の人々の誰よりも苦悩に満ちていた。現在の王宮の人たちは、再び隆盛した現在の王宮の状況を知っている。けれど彼は、1972年に政治的な理由でインドネシア入国を禁止されて以来、スハルトが退陣する1998年まで彼の地に足を踏み入れることがなかった。彼の記憶は、1960年代始めの宮廷の空気をそのまま冷凍保存しているように見えた。

私がこのソロのことについて彼に聞いたのは、講演会が終わって懇親会になってからのことなのだが、その語り口を聞いて、彼に思い切って聞いてみて良かった、とつくづく思った。その時代の空気を「彼」がどのように体験したのかということは、いくら彼の文を読んでみても分からない。論文とか調査レポートというのは、そんな「私」を入れ込まずに客観的に書かれてしまうからなのだ。

また、彼はきれいなインドネシア語で話してくれたのだが(私が英語でなくてインドネシア語で話して良いかと断ったもので…)、その話す姿には、思わず「バパッ(インドネシア語/ジャワ語で年長の男性に用いる尊称)」と呼びかけたくなる何かが彼にはあった。谷間の世代以前の、私の舞踊の師のジョコ女史なんかが持っていたような佇まいに似ている。70年代より以前の時代を知っている人の佇まい、なのかも知れない。

四辻のブルース

仲宗根浩

信号がない交差点。こちらは右折しようと右ウィンカーを出し、直進する対向車が過ぎるのを待つ。対抗車の窓から手が出てこちらに早く右折するよう促す。あれっ、と思ったら車はYナンバーではなかったがドライバーがアメリカさんだった。アメリカなどでは交差点での優先権は先に入ったほうにある。基地の中でもそのルールだ。ちょいとお礼に手を挙げそれに従う。車のルールは地方性があるらしいが、こちらで車を走らせるとまずYナンバーには注意する。交差点、車間距離とか。その土地のルールはからだに染み付いているのですぐには順応できない。観光で来るひとは最近レンタカーばかり。「わ」ナンバーと「Y」ナンバーの事故現場に遭遇すると、「あ〜、やってしまったのね。ここは基地の街なんだよ。」と遠目で眺める。観光ガイドにそこらへんの注意は書いてないのかいな。

ちょっと小銭がたまったので久しぶりに最新のマックの購入でもと考える。メール環境はいまだにマック。それもマシンはシェル型iBook。メールソフトはOSX上でのクラシック環境。過去、OSは6.0.7の日本語版から始まり、6.0.8英語版、7.1の英語の混在した環境のあとOS8.1から8.6(これが一番使いやすかった)、9.2を経てOSX10.1から10.3の今の環境のままだらだらと。ネットショップで欲しいソフトなど最低限のカスタマイズで見積もってみたら家賃半年分になったので諦めた。諦めたがすぐ貯めるほうにまわさないのはいつものことで、長い間手直しもされずにほったらかされたギターが二本、これを復活させようと大修理に出す。一本は十三のときに買ったもの、もう一本は十八のときに知人から買った、三十年前の代物。家賃二カ月分くらいかかって見事蘇る。弾くと楽しい。今どきこの値段で単板のものなんて手に入らないし、しっかり鳴る。うかれて弾いて夕方仕事に行き帰ってきたら、ついクリック予約してしまったマイルス・デイヴィスのコロンビア時代のコンプリート・ボックスセット、というのが届いていた。とりあえず重要な70枚組であること、円高でかなり安いことを説明する少し必死な自分がいる。

断然、ノスタルジア虫ぼし済み

くぼたのぞみ

切りそこなった
檸檬の薄切りみたいな
半透明の月が浮かんでいる
霜月のそらに
きみを思う

あのころ
ポーズとしてさえ
拳ふりあげることのできなかった
きみを思う

あのころって
そう
へその見えそうなラッパズボンに
男も女も
長い髪たらして歩いていた
あのころのことだよ
おまけに男は 黒ぐろと
髭まで生やしていたな

なつかしくはないけれど
思い出すのさ
霜月のそらから
陽が温暖に降りそそぐと
きみのことを
それは地球を裏返した
半焼けの
あたしのことでもあるから
かな、やっぱり

櫛の歯がこぼれて
ひとり ふたり
またひとり
雲のなかに旅だっていく
でも、あたしが準備するのは
泪でこねた泥濘なんかじゃない
ほろっと乾いた古タオル
ぬくぬくさらり
包まれて
風が花ばな揺っている
断然、ノスタルジア虫ぼし済みの
ことばの経帷子だ

白くなった
きみの髭も
そこに織り込んでくれない?

製本かい摘みましては(56)

四釜裕子

間奈美子さんのアトリエ空中線10周年記念展 「インディペンデント・プレスの展開」(東京渋谷・ポスターハリスギャラリー 2009.11.13-12.6)へ。これまで手がけたおよそ120点が並び、11月28日には書肆山田創設者である山田耕一さんを迎えたトークショー〈瀧口修造の本と書肆山田の最初の10年〉が開かれた。山田さんは浅草に生まれ、療養先の諏訪で手にした『明暗』以来、本を集めるようになり、詩集については処女詩集をことごとく求めていたそうだ。やがてコレクターから版元へ。10人の詩人へ直接詩集を出したいと手紙を書いたという。本は作家のものであるからわたしはなにもしていない、詩のことはなにも知らない、と繰り返す山田さんだが、間さんと聞き手となった編集者・郡淳一郎さんの問いに応じるかたちで逸話がつまびらかになってゆく。

間さんの本づくりのはじまりは、一枚の紙を折っただけのものに書下ろしの詩がある書肆山田の「草子」シリーズにある。1973年から78年にかけて『星と砂と日録抄』(瀧口修造 1973)や『レッスン・プログラム』(岩也達也 1978)など8冊が刊行されており、瀧口修造がアンドレ・ブルドンからおくられた二つ折りの「詩集」がそのかたちのアイディアのもとで、「草子」の名は浅草生まれ(浅草っ子)の山田さんにあやかってという説もある、と、笑いながら山田さんがお話しになった。この展のために刊行された冊子はこの「草子」の”子”で1030ミリ×728ミリの一枚の紙だ。表裏にこれでもかこれでもかと小さな文字が並んでまったくもー読みにくいな……と眉間にしわを寄せながら読みたいから読む。そこには間さんの〈レコードから詩書づくりへ〉という関心の移動のこと、そしてそれら(”インディペンデント”という呼び方すら!)をなんなく走らせる間さんという身体のひたすらを感じる。バサバサと4回開いて読み、4回折って(帯をかけて)は棚に戻す。

「折り」とうことでいえば瀧口修造の”黒い詩集”こと『地球創造説』(書肆山田 1972)は黒い紙に黒い文字で刷られているが、紙を折るときの竹ベラのあとが本文紙についたものをことごとくハネたので50部刷り増ししたという。印刷は蓬莱屋印刷所。山田さんと蓬莱屋さんの関係は間さんとハタ工芸さんの関係にも等しいのだろう。展の冊子にハタ工芸会長の畑登さんが寄せている。〈ナミチャンの仕事は、儲からんしややこしいし、かなわんわ〉。〈人間が頭で想像できるものは実現可能という向こう見ずな直感を得てしまう。以来、今日に至るまで、できない筈はない、と職人さんたちに無理を言い続けることになった〉(間さん)。それはご自身にも言い続けていることなのでしょう。そしてこれから何十年かのち、間さんも言うかもね、「わたしはなにもしていない」。

つれづれに

大野晋

さて、何から手をつけようか迷っている。とりあえずは、思い付いた話から。

都響のコンサートではちょうどインバルが来日中のため、インバルの新譜が大々的に取り上げられていたが、実は同時に今年の小林研一郎指揮の「わが祖国」が早々とリリースされている。昨年のキャンセル騒ぎから大きく取りざたされた久々のコンビのライヴだったが、大抵のライヴ音源は会場の盛り上がりとは裏腹に、冷静に聴き直すとあらららとなることも少なくないのだが、少なくともこの一枚は上出来だった。ゆったりと入った二台のハープの演奏から名演の雰囲気はしていたのだが、聴き直してなおいいと思うコンサートは珍しい。最近のヒットである。

先月、札幌に行ったところで終わったが、札幌では奇しくも札響でエリシュカの指揮でスメタナの「わが祖国」を聴いた。エリシュカの「わが祖国」はN響で今年聴いているから2度目だが、若いオーケストラがいいパフォーマンスだったと思う。エリシュカが指揮をすると相変わらずチェコ節なのだが、安心して聴ける名演だったと思う。

その数日後に、毎年日本にやってくるパーヴォ・ヤルヴィ指揮でシンシナティ交響楽団のコンサートを横浜で聴いた。アメリカのオーケストラらしい非常に機能的な演奏だったが、一番面白いと感じたのは演奏ではなく、そのステージの上がり方だった。「ステージ集合」という感じで、時間が近づくに従い、オーケストラメンバーがばらばらとステージ上に集まって来る。で、最後にコンサートマスターが定刻になってでてきて、じゃ始めましょうか? という感じに始まるのだ。その様子を見ていて、「ステージ集合」というタイトルで音合わせに音や練習の音も含めて指示をした曲(パフォーマンス)ができるのではないかと思った。

さて、いくつかのコンサートを聴いていて、ふと、オーケストラと指揮者との関係がかわってきていないかと気になった。おそらく、オーケストラのいるステージ(段階)によって、オーケストラに必要な指揮者の関与は違うのではないだろうか? 例えば、自分たちの音がまだ決まらない若いオケにはトレーナータイプの指揮者が必要だろうし。ある程度、音の出せるオケならば、客の呼べる指揮者を招へいして、稼ぎにつなげる必要があるだろう。指揮者に対する要求が違えば、必要とされるスキルももしかすると違って当然なのだろう・猫も杓子も有名指揮者を! という時代ではないでしょ?

最後に、JASRAC70周年のパーティから飛び出した発言にはびっくりした方も多いだろう。まあ、このところ沈滞気味だったのだから、ちょうどよいタイミングで話が再開できてよかったと言えるかもしれないと思ったりもしている。私は個人的には次の点だけ変われば、70年に延びてもいいと思っている。
その1:著作権継承者はその著作権を延長、相続等をするに当たっては、文化の発展に寄与するために相応額の税金を払うこと。
その2:著者の死後、著作権が切れるまでの間で、過去10年以上出版されていない著作は商業的な資産価値がないものとして、以後、ネットなどで使用する場合には著作権フリーとすること。
あくまでも商用となっている権利を無理やり剥奪しろとは言わないが、使われていない権利は公に返してもいいように思うのですが?

メキシコ便り(27)ベリーズ、エルサルバドル

金野広美

まるで生きているかのようなティカル遺跡のジャングルからフローレスにもどり、バスで5時間のベリーズ・シティーへ行きました。ベリーズは3ヶ月以内の観光旅行でも日本人はビザが必要です。グアテマラの旅行社にツアー代金を払う時、ベリーズのビザは国境で取るつもりだと言うと、何の問題もないというので契約したのですが、次の朝来た運転手は私に「日本人か、ビザは持っているか」と聞くので、私が「持っていない」と答えると即座にいやな顔をして、「1時間は余計に時間がかかる」とはき捨てるようにいうのです。「何、この人」とムカッとしながらバスに乗り国境に着きましたが、国境は長い列。バスを降りるとき、運転手に「私はフローレスからベリーズ・シティーまでお金を払ったのだから待っていてくれますね」と言うと、「知らん」とけんもほろろなのです。いくら抗議をしても「知らん、待たん」というばかり。私は頭にきたのですが、こんなことで時間をとってもますます遅くなるだけなので、なんとかなるだろうと長い列に並びました。

同じバスに乗っていたフランス人はビザがいりません。そのフランス人に「どうしてフランス人はビザが必要なくて日本人はいるの」と怒りをついむけてしまいました。すると彼は「それはフランスが力を持っているからだ」と答えたので怒り倍増。「くそー、これは単なる差別やー」と彼に言ってしまいました。

腹をたてながらも別室で50ドルを支払い外に出ると、なんとさっきのいじわる運転手が近づいてくるではありませんか。やはり契約通り待っていたのです。待つのならなぜあんな客を不快にさせることを言うのかまったく理解できません。グアテマラの観光業にかかわる人間のマナーの悪さにはもう閉口です。
国境からベリーズ・シティーまでは3時間、港から船で40分のカリブ海に浮かぶ全長7メートルの細長い島、キーカーカーに行きました。カリブ海を見ながらの椰子の木陰での昼寝は、これまでの1泊ずつの移動や、夜行バス、国境でのいざこざなどですっかり疲れ果てていた私をよみがえらせてくれました。

よく眠ったあくる日、すっかり元気になった私はシュノーケリングをするために船で出かけました。海は透明でたくさんのかわいらしい魚やエイを見ることができました。特にエイはまったく人間を怖がらずガイドに抱っこされているのです。このあたりは海洋保護区になっていて捕獲は禁止されているので、すっかり安心しきっているのでしょうね。夜になるとロブロスターを食べにホテルの近くのレストランへ。全長30センチほどのものでも25ドルです。焼きたてのロブスターと冷えたビールは本当に最高でした。

カリブ海に元気にしてもらい、次の日はベリーズ・シティーにもどり、ここから北に約50キロのところにあるマヤの遺跡アルトゥン・ハに行きました。公共のバスはないのでタクシーで50分です。運転手のマヌエルは陽気な黒人でレゲエを大音量でかけながら別れた妻がメキシコ人だったとかで、スペイン語でしゃべりまくります。私がラム酒が好きだというと途中で車を止めてラムとコーラを買いこみ「ラムはコーラで割るのが一番うまいんだ」とか言いながらすすめてくれます。レゲエにラムとすっかりリラックスした私をマヌエルはガイドもできるといいながら、アルトゥン・ハ遺跡をすみずみまで案内してくれました。

ここは紀元後7世紀ごろ栄えたといわれ、ふたつの広場と宮殿、神殿が残り一面緑の芝生におおわれたとても美しい遺跡です。マヌエルは「どうだ、きれいだろう、フォトフォト」と何度も写真をとってくれ、すっかりごきげんです。次の日は緑一杯の川に連れて行ってくれました。大きな浮き輪におしりを沈め、川を流されながらの水遊びです。涼しくてあまりの気持ちよさについうとうとしてしまいましたが、マヌエルがしっかり浮き輪をもっていてくれるので安心です。2日間専属運転手をしてくれ、「もう帰るのか」と不服そうに空港まで送ってくれました。

ところでベリーズの公用語は英語ですが、スペイン語を話せる人も多くいます。それはグアテマラやホンジュラスからの移民が多いためです。より安定した豊かな国ベリーズで働くため彼らはやってくるのです。外国人の私がスペイン語で彼らに話しかけると少しびっくりしたように、でもうれしそうに答えてくれます。港の前で小さな店を出すアンドレアは13年前ホンジュラスからベリーズに一人で来たそうです。そのわけを聞くと「ホンジュラスは貧しくて危険だから」と言い、クーデターに心を痛めているようでした。

確かにベリーズは他の近隣諸国に比べ豊かなのでしょう、働いている子供をみかけません。昼下がり公園に行くとたくさんの子供たちが楽しそうに海で遊んでいます。私がカメラをむけると次々とかっこよく海に飛び込んでみせ、女の子たちはびっくりするようなセクシーなポーズをとります。底抜けに明るい子供たちを見ながら、グアテマラで山の中にある家と湖を毎日4時間かけて往復しながら洗濯していた10歳のアナや、メキシコのチアパスで観光客にバナナを売っていた6歳のマウラ、4歳のパウチョ姉弟を思い出してしまいました。

あの子たち元気にしているかなあと思いながら、空港まで送ってくれたマヌエルに別れの挨拶をしてエルサルバドルに飛びました。夜8時に着き宿を首都のサンサルバドルの旧市街にとりました。エルサルバドルは危険だからと友人にも注意されていたので、少し緊張しながらの入国でした。

次の日、観光案内所を探しに街に出ました。ひょんなことからJAICA(国際協力機構)の仕事で来ているという女性に会い、宿の場所を聞かれたので答えると、その場所は危ないから変わるように勧められました。彼女は街を歩くのは危険だと運転手付きの車で移動しているそうです。私はその話を聞き、ここはそんなに怖いところなのかとびっくりしてしまいましたが、とりあえず観光案内所でもいろいろ聞いてみようと行ってみました。そして適当な宿の紹介を頼むと、きれいなパンフレットを見せながら紹介してくれたのは、なんと私のホテルのひとつ筋違いでした。「なーんだ、私のホテルはJAICAの彼女がいうほど危険な地域ではなかったのか」と彼女と現地の人との感覚の違いにちょっと驚きました。そこでホテルを変えることはせず、そのまま街に出ました。

中央市場はまるで迷路のように道が入りこみ、大勢の人でごったがえしています。それにしても物価が安い。ここの通貨は米ドルなのですが、りんごが1個25セントで、きゅうりも小さいですが20本50セントです。700ミリリットルは入る大きなコップのフレッシュジュース80セントです。私の泊まったホテルもバス、トイレ、テレビつきの大きな部屋で12ドルです。
この国はインフレ率が低く中米でもっとも物価が安い国のひとつだそうですが、日本の1年分の生活費でここだと5年は暮らせるのではと思いました。

次の日はラ・プエルタ・デ・ディアブロ(悪魔の門)という景勝地に行きました。小高い山を登ると360度の眺望で緑いっぱいの美しい自然が広がっています。真っ青の空と、きれいな空気ですっかりリフレッシュ、入国したときの緊張感もほぐれていました。

あくる日はここにも残るマヤの遺跡ホヤ・デ・セレン、サン・アンドレス、そして紀元前12世紀から紀元後5、6世紀ごろまで続いたチャルチュアパ文化の中心地だったタスマル遺跡やカサ・ブランカ遺跡の4箇所を回りました。それぞれ規模は小さく、まだ調査中のところもあり、いまだにあとでつけたスペイン語の名前で呼ばれるように全容解明は困難らしく、まだまだ時間がかかりそうでした。

その中のひとつカサ・ブランカ遺跡の展示室のとなりに日本のろうけつ染めの工房があり、入ってみると、2人のエルサルバドル人の女性が作品を作っていました。そのうちのひとりのクルスさんが「日本の方ですか」と私に聞いてきました。私が「そうです」と答えると、この工房はJAICAから派遣された日本人が作ったもので彼女たちにろうけつ染めを教え帰国、今は彼女たちだけで運営しているそうです。クリスさんは「日本にはとても感謝しています。ろうけつ染めのブラウスやかばんがここに来る外国人によく売れて、私たちは暮らしていけるのです」と言います。作品はデザインもとても美しく「私も記念に一枚買います」というとクルスさんは「染めてあげますよ、時間があまりないので簡単な模様になってしまいますが」と断りながら、きれいなぼかし模様の花柄の手ぬぐいを染めてくれました。ありがたくお礼を言い、腕にかけて乾かしながら、工房をあとにしました。私の友人たちも何人かはJAICAで働いていますが、友人たちの仕事の具体的な成果を見たような気がしてとてもうれしかったです。

危険だといわれたエルサルバドルではなんの被害にもあわず、陸路でグアテマラ・シティーに戻り、コロニアル時代に作られたという水道橋を探して歩いていた時、とうとう遭遇しました、ピストル強盗です。このあたりは日本大使館などもあり比較的安全だといわれている地域です。大きな道路のそばには公園がありサッカーに興じている人がいて、近くの道路はたくさんの車が走っています。しかし、教えてもらった道を曲がったとたん、急に通りは細くなり小さな木立があり、完全にまわりから死角になってしまう空間があったのです。一人の若い男が「チナ(中国人)? ハポネサ(日本人)?」と聞いてきました。グアテマラ人はほとんど声をかけてくることがないので珍しいなと思いながら「ハポネサ」と答えると、「どこに行くの」と聞きながら近づきじっと私のベルト式のかばんを見ています。これはやばいのではと思ったとたん、シャツの下に隠したピストルをちらっと見せたのです。私はびっくりして「とうとうおうてしもた」と思ったのですが、「アクエドゥクト(水道橋)をさがしているの、アクエドゥクトはどこ」と言いました。すると男は「ノセ(知らない)」と行ってしまったのです。「助かったー」私は一目散に男の反対側に走りました。ここでは水道橋はアクエドゥクトといわずにプエンテ(橋)というらしく、もし自分が知っている場所だったら、教えると言って道案内をしながらすきを見てかばんを奪うつもりだったようですが、知らなかったため行ってしまったのでしょう。今考えるとあのピストルは本物でなかったのかも知れませんが、全く予想もしないところで会ってしまいました。比較的安全だといわれている場所でも突然死角になる場所は現れるし、世界中で安全な場所などどこにもないのだと思い知りました。それにしても私はどこまで悪運が強いのでしょう、われながら感心してしまいます。これで力を得た「天下無敵の大阪のおばちゃん」の旅はこれからも続きます。

がやがや

三橋圭介

ひさしぶりのがやがや。ひさしぶりの光ケ丘。日曜日の2時の約束で1時半に到着。ダンサーのたまちゃんが新幹線に乗りおくれたので、いつもの所でゆっくりお昼ご飯。それから集合場所へ。「あっ、みつはしさん! みつはしさん!」と風間さんが迎えてくれる。そこにはいつもの顔が。大ちゃんが手を振っている。ともちゃんがかわいらしくはにかんでいる。そのそばには小林くん。洋ちゃんはやはり座っている。猪越さんもりゅうちゃんもいる。羽賀くんだけちょっと元気がない。

この日はたまちゃんがいるので、場所をかえてレッツ・ダンス。羽賀くんだけは具合がわるく行くことができなかったが、大ちゃんと手をつないで会場へ。途中、小林くんが「もう少しで35歳になるから(結婚を)考えないと…」と打ち明けてくれた。相手はかわいい子らしい。会場は前にCD「がやがやのうた」の練習にもつかった。ひろびろした講堂にいくつもマットをならべ、いつものようにがやがやと「マルマルマル」のうた。これががやがや! そしてフォーク・ダンス。きりさんは早くからダンスのリハーサルまでしていたらしいが、なんだかとんちんかん(これがきりさん!)。手をつなぎ、マスクした風邪のたまちゃんがリードし、なんとなく輪になってくるくる、くるくる回る。

つづいてなぞなぞ。風間さんがなぞなぞ本をどくとくなよくようで朗読して、大爆笑。新たな才能の発掘。それからきりさんの案でなぞなぞの創作。まずみんなに答えをかいてもらい、それをクジで引いて、グループになって「どんなかたち」「大きさは」「いろは」「においは」など答えを連想させることばを書く。ほかの2グループは人目を忍んで入念なリハーサル。わたしのグループは連想することば(洋ちゃん、風間さん、わたし)と絵(大ちゃん)だけ書いて終わり。発表では、リハーサルの組みはさほど実を結ばず?! わがグループは風間さんの距離のあることばのよくようと羅列が、答えになぞの煙幕をはる。みんなの頭の上に???がいくつも。でもりゅうちゃんの「カレー」の一言で幕を閉じた。おそいお茶の時間のあと、それぞれダンスしたりして、おひらき。たくさんのともだちからたくさんのエネルギーをもらった。がやがやはいい。つぎは忘年会でがやがや。

しもた屋之噺 (96)

杉山洋一

中央広場すぐ裏のホテルの窓から見ると、ボローニャの街は赤茶けた屋根ばかりがどこまでも続いているのがわかります。テアトロ・コムナーレとの最後の練習がおわり部屋に戻ってきたところです。練習の録音を聴きつつ歩いて帰ってきました。

ボローニャに来るたびに思うのは、ここが典型的な若者の街だということ。大学が大きいからでしょう。昨晩10時半に練習が終わり、ホテルに戻る道すがら、街はまだすっかり若者で活気に溢れていて、ミラノとずいぶん違う生活スタイルに驚きました。ただ同じ道を歩いて帰ってきたながら、録音を聴いていると、先ほどはすれ違う若い男女の姿が、映画のシーンのように、すべて色あせたセピア色にくぐもって見えるのです。生気が誰からもぬけて、映画のフィルムも端からちろちろと焦げはじめているような、もうすぐ大きな炎に呑み込まれそうな、そんな薄い予感のようなもの。

歩きながら聴いていたのは、つい今しがたまで劇場で練習していた、ドナトーニが大オーケストラのために書いた「Duo pour Bruno」。ドナトーニがマデルナの死を悼んで作曲したものですが、この作品に関しては、実は今も胸がつまってうまく書けません。

Duo pour Brunoは、マデルナが命を落とす原因をつくった癌細胞が、体内で生まれ、少しずつ増殖してゆき、ある瞬間から癌細胞が活発に体内を駈け巡り、あちらこちらに巣食い、それぞれの癌細胞はしまいには身体全部を呑み込み、壮絶な痛みとともに、人間が朽ち果ててゆく姿を、透徹に描いています。

自宅でひとりさらっていても、何度も鳥肌が立ちました。常人の視点ではないのです。本当に痛いまでまざまざと死にゆくさまを客観的に観察している。自分がまさに見開いている目になっているのがわかり、おののきます。実際にオーケストラと演奏すると、恐ろしさはまさに現実のものとなります。素晴らしい演奏をすればするほど、自分が腐ってゆくのがわかります。最後の通しでそれは素晴らしい演奏をしたあと、演奏者たちが口々に、とんでもない作品だ、本当に怖い、呑み込まれそうに病んだ作品だ、そう力が抜けた声でささやきあっていました。

ドナトーニは普通の精神状態ではなかったとおもいます。マデルナとは親しい間柄でしたから当然でしょう。マデルナが売春婦に産み落とされたこと、身分のある家に養子に貰われても、自らの出生を一生引きずっていたこと、どれだけ彼が音楽の天分に秀でていたかということ、第二次世界大戦中、パルチザンを支援しナチスから身を隠して暮らしていて、ある女性が密告しナチスに囚われたこと、戦後女性が裁判にかけられたとき、召喚されたマデルナは過去のことだといって水に流したこと、そして自分を密告した正にその女性と結婚したこと、翌朝からリハーサルがあろうと、朝まで遊ぶ歩く破天荒な放蕩ぶりだったこと。ドナトーニは生徒たちにマデルナの生きざまを話すのが好きでした。

そしてここでは、家族が死んで腐ってゆくさまを克明に見続けて描写せよ。そんな常軌を逸した愛情が作品を成立させています。曲の一等最後、あちらこちらの病巣で癌細胞が爆発し、本人が堪え切れない痛みに悶え、絶命するところで、振っていて決まって突然足が鉛のように重たくなり、何かに憑かれたようになります。足が地面にめり込むばかりで、手が力が入らないのです。こんな経験は初めてです。

振っていて頭をよぎるのは、2000年の夏、ミラノの外れの病院の地下の霊安室で一人、フランコを眺めていたときのこと。あのひんやりした空気と、空調の音。糖尿病でくさりかけていた紫色の足の先や、のどに3本も4本も通された透明のチューブ。ひゅるひゅると喉の奥で鳴る空気の音ばかりのかすれた声。

ベネチア人だったマデルナのため奏でられるベネチアの小唄は、次第に近づいてくる弔鐘とともに、健康な細胞を食べつくす癌細胞へと変化してゆきます。うごめく無数の細胞は虐げられ、小唄は悲痛な叫びをあげます。錯乱のなか長い間かけて弦が呑み込んでゆき、トロンボーンの壮絶な叫びの向こうで、まるで街で一斉に鳴らされた鐘のように木管のきしむ旋律は、意図的にリズムが熔けてなくなっています。

こんな作品を、どうして普通に演奏できるでしょう。演奏していると、誰もが狂ってゆくのがわかります。のめり込めばのめりこむほど、反吐がでるような不快感をもよおします。演奏し終わると、体中から滴る欝がびっしりとはびこっているのがわかります。最後の大太鼓二人は、叩けば叩くほどそれは辛そうな顔をして、でも文字通り命をかけて、皮が破れんばかりに叩きます。クライマックスでかき鳴らした弔鐘をすべて胸でだきすくめるとき、若い打楽器奏者の顔がいつも歪むのが、目に焼きついています。

これほど演奏が辛い作品にめぐり合ったことはありません。ずっと昔、癌の闘病生活から復帰したばかりのエミリオが、ミラノで振ったDuo pour Brunoに立ち会ったのを思い出します。自分で感じた痛みを音楽で再現するなど、一体どんな心地だったか慮ると、言葉もありません。日本で既に演奏されたかどうかは分かりませんが、恐ろしく細部まで細かく書き込まれた作品の質と異常なほどのリアリズムにおいて、後世に残る数少ない現代作品であることは間違いありません。

マデルナは最後、ミラノ・イタリア放送響の指揮者の地位にありましたが、亡くなるほんの数日前に演奏した、確かブラームスだかの最後の録音には、オーケストラとともに、マデルナのぜいぜいと振り絞るような呼吸音がずっと収録されていて到底聴いていられない、と友人が話してくれました。

(11月28日ボローニャのホテルにて) 

* * *

追記

悠治さんよりお便りがとどきました。

・・・・・・・・・

ずっと忘れていたマデルナやあの頃のことを思い出しました
最初はドメーヌ・ミュジカルのアンサンブルと日本に来た時1961年 あの時クセナキスには会ったが マデルナは指揮を見ただけ
その後西ベルリンでRIASに雇われてアイヴスのTone Roadだとおもうけれど ピアノパートを弾いたときの指揮者がマデルナだった オーケストラは言うことをぜんぜんきかなくて それでも演奏は活力があったから あの感染力がはたらいたのかもしれない 練習の合間に話もしたけれど なんだったか
シェルヘンもベルリンではRIASしか指揮させてもらえなかった シェーンベルクのOp.16で 指揮台にたってかすかに手をうごかすだけで 音が息づいて来るのが見えるような
でも マデルナの場合は そういうカリスマ的なものではなくて 
マデルナに最後に会ったのは 場所も時も忘れたがオーボエ・コンチェルトの演奏を聴いた後で 別人のように痩せて 座っているのも苦しそうだった

こういうことは どこかに書いておかないと だんだん忘れてしまいます 意味のあることではないかもしれないが

高橋悠治 

・・・・・・・・・・

こういうこと、つまりその場にいたら、その時代にいたら、当然のこととして受け止め、特に何も注意を払わなかったりする日常が、時間というフィルターにかけられると、まるで別次元のかなたに連れ去られてしまいます。何となくおぼえていられるのではないか、何となく誰にでも理解してもらえるのではないか、そういうことをぼんやり思うにしては、時間は途轍もないスピードで今を駆け抜けていってしまう気がするのです。だから、伝えられることは、伝えられるときに、伝えられるひとが、伝えておかなければいけない。

今回、ボローニャの本番の日に、ドナトーニと長く連れ添ったマリゼッラと一緒に、演奏会直前まで、ドナトーニの生前のヴィデオを映写しながら、テアトロ・コムナーレのきらびやかなフォワイエで、ドナトーニについて小さなコンフェレンスをしました。彼がミラノ放送響で自作のVociを指揮する姿です。意外なほど指揮が上手で驚きました。気がつくと、フランコの次男のレナートも駆けつけてくれていました。
「遠くからだけど、いつも君のニュースは聞いているよ。頑張っているね」
「10年に少し欠けるくらいか。すごく久しぶりだね」

余りに凡庸な物言いで書くのが恥ずかしいくらいですが、今回ドナトーニの巨大な楽譜を毎日ながめて過ごし、あらためて作曲はどれだけすばらしい職業かと痛感しました。楽譜をひろげると、日記よりもっと生々しく、すべての記憶、感情、空気、そんな全てが、活き活きと甦り、溢れだしてきます。

演奏会がおわり、マリゼッラとふたり、明りが落ちた夜半のホテルのロビーでしばし話し込みました。
「大げさかもしれないけれど、結局エミリオやフランコから学んだことを、次の世代に伝えてゆくことが使命だとおもっているんだ」
「何があっても、絶やしてはいけない。一度消えてしまうと、もう再現することは不可能だとおもう。それはもう再現ではなくて、想像の範疇だから。だから、どんなに辛くても、伝え続けてゆかなければいけない」
「オペラ劇場つきのオーケストラで、しかもこれだけ切り詰めた練習日程で、ドナトーニのような複雑な作品に対して一体何ができるのか本当に不安だったけれど、みんな信じられないほど誠実に、音楽にむかってくれた。心をこめて演奏してくれて、自ら感動してくれた。ぼくなんか本当にちっぽけで、何もしていない」
「どこも不況で、世知辛い毎日だけれど、悪いことばかりじゃない。こんな時代でも、音楽は捨てたものじゃない。現代音楽だから、と色眼鏡でみることもない。大変だけど、絶やさないで、とにかく頑張って伝えていかなければいけない」。

(12月3日ミラノにて) 

近づく気配から身をかわし

高橋悠治

すぎてゆく
はなれる
<どこへ>はない
近づく気配から身をかわしつつ曲がる跡を残して
未来へ後ずさりしつづける
<どこから>が<生きられた瞬間の闇>(エルンスト・ブロッホ)を透かして
無数の可能性を唆している

即興からはじめる
まずうごきだす
うごきによってうごきの外側に世界がつくられる
うごきの内側には何があるのか
うごいているものはあっても
うごきそのものは見えない
霧箱のなかのうごきの跡にしばらく残るかたち
空間も時間もリズムとしてしばらくは瞬いている

世界はいつも外側にある
霧のようにうごきをつつみ
うごきに押しのけられる空間を残し
墜ちながら手の届かない空間をふりかえる時間を感じる

雨は落ちながら曲がる(ルクレティウス)
交差とかかわりの予想できないなりゆきから
いまでないいつか ここでないどこかから
ちがう線がのびてゆくそのとき
うごきはひとつのうごきでなく
可能性の束がもつれながら
断ち切られないうねりとなってつづく
上も下もなく 前も後もなく
偶然の選択というより瞬間の意思として
世界に問いかけながら 応えながら
くりかえされる試みの重ね書き

ブレヒトとベンヤミンをよみかえしながら
軋りながら紙を掻きむしるペンの紡ぎだす物語についていった
カフカを思い出しながら
世界の実験室を口述するエルンスト・ブロッホをよみすすめながら
プロセスそのものからつくりだされるまだない音を追って
20世紀音楽の構成主義
固定され順序づけられた要素の組み合わせから離れられない方法主義のかなたに
さかのぼりながら宙に浮かぶ鬼火に照らされた歴史の闇にはいってゆく