平和――翠の水晶67

藤井貞和

     ドームのしたには、原爆部落
       (と言いました)がひろがり、
          石川孝子(女教師)は、
     教え子のゆくえをひとりひとり、
                尋ねて回る。
ある子どもは粗末な墓碑の下に眠る。
                   特撮は、
     爆風に蹴散らかされる敗都を、
       スクリーンに映じる。
 小学生たちが、みんなで泣きながら、
          手をつなぎ、
      映画館から出てくると、
なぜかきょうは平成22年4月25日です。

(新藤兼人さんはいまも言いつづけているそうです。この映画をみたら、だれもが原爆を持つまい、作るまいと、心に誓うはずだ、と。1952年〈昭和27〉、小学生たちは新作の「原爆の子」を見に、連れられて行ったのです。乙羽信子の女先生が、数年ぶりに広島を訪れます。岩吉爺さん(滝沢修)の手から孫の男の子を彼女は奪い取って、島へ連れ帰ります。というように、小学生たちには見えました。映画館を出て、私たちは誓います、「原爆ゆるすまじ」と、ね。「ほんとうに平和だったとき。もうぜったいに戦争はないんだと、蒼空が沁みてならなかったとき。そう、昭和20年代の、前半だったかな」と、井上ひさしさん〈哀悼します、井上さんほんとうにたいへんでした、お休みください〉。きょうは平成22年4月25日。ろうそくの火を両手に、人文字を作りにいま私は来ています。「NO BASE OKINAWA」、東京 明治公園から。)

しもた屋之噺(101)

杉山洋一

どこか重心がずれたまま、落ち着きのなかった一ヶ月が過ぎようとしています。今年は冬が途轍もなく長く、4月も終わりかけたここ数日、漸く庭の木々に新芽が吹き、左手の古い土壁を、中学校の校庭の方から家の屋根に向け、蒼々と繁る蔦が少しずつ近づいてきました。
東京滞在中の2月末、親しかった指揮のジョルジョ・ベルナスコーニが急逝したとの知らせを受け、ブソッティ演出の「月に憑かれたピエロ」で彼の代役を務め、ジョルジョの死を悼みました。

また、ジョルジョが関わっていたミラノ・スカラ座アカデミーでも、彼の振るはずだったロシア・プログラムを来月演奏することになり、暮らしぶりを見兼ねて「機会が出来たらお前にもぜひ仕事を回したい」と言ってくれた彼の言葉ばかりが思い出され複雑な心地です。何度となくルガーノ湖畔の別荘に家人とともに招いてくれて、大好きな日本や、カスティリオーニやロミテッリなど諸々の好きな作家について話は尽きなかったのですが、この数年お互いすれ違いで、落着いて会って話す機会もありませんでした。

毎日使うGoogleメールに残っている、最後のメッセージ。
「お前が毎日忙しく仕事をしているのはよく知っていて、とても嬉しく思っている。近いうちに会えると良いのだけれど、こちらも目まぐるしい日々にすっかり翻弄されて、友人たちとの付き合いが疎かになってしまっていて申し訳ないかぎりだ」。
半永久的に残り続けるメールは、インターネットのサーバーの中に、まるで別の時間が流れている錯覚すら起こさせます。手紙のように紙が日焼けてゆくわけもなく、まるで昨日届いたかのように、電子化され何時までも残ってゆくのは、不思議な気分です。ジョルジョの訃報のみならず、この東京滞在中は、ご両親を不慮の事故で失くされた親しい友人を日本酒片手に訪ねたり、一緒に仕事をしていた仲間が実はお母様を失くしたばかりだったのを知ったりと、身体の奥の疼痛がへばりついたまま離れませんでした。

「月に憑かれた」の大道具および小道具、衣装、照明、投影するフィルムなど、スカラ座のアカデミーとの共同企画だったこともあり、サンタ・マルタ通りにあるアカデミーで練習をしていると、当時リコルディの販促でロミテッリの連れ合いだったルイザがアカデミーの学長になっていて、こちらの練習しているのを見つけると、親しげに顔を出してくれました。
「2月にサロネンがスカラに来たとき、みんなでここにヨーイチがいないのは残念だと話していたのよ」。
今年十回忌を迎えるドナトーニの遺作「ESA」は、やはりドナトーニに学び後年も親しく交流していた指揮のサロネンが、当時音楽監督だったロサンジェルス・フィルのために委嘱した作品で、身体が不自由だったドナトーニのため、作曲を手伝った経緯があります。10年前、ヴェローナ記念墓地の一画にあるコンクリート壁にあつらわれた、無味乾燥としたドナトーニの墓を眺めながら、あと10年経ったら骨を拾って、もっと美しいお墓に移したいとマリゼルラが話していたのを思い出しました。どんなにテクノロジーが進んでも、我々の肉体は風化してゆく。そう思うと、少しだけほっとするのは気のせいでしょうか。

一昨日まで、ドナトーニが作曲した弦楽のための二つの作品「ASAR(1964)」と「SOLO(1969)」を、フェデーレやソルビアティの作品とともにミラノでヴィデオ収録していて、わざわざパリからヴァイオリンの千々岩くんが駆けつけてくれました。10人強の小さな弦楽合奏を数日間するために、パリやベルリン、ニュールンベルク、ローザンヌやイタリア各地からミラノに集い、収録が終わってすぐ元通り散り散りになりましたが、逆に言えば、こういう方が集中できて、案外充実した時間が過ごせるのかもしれません。殆ど演奏されたことのない、このドナトーニの2作品を、何某か形として残したいと常々思っていたので、本当に良い機会に恵まれたと思いますが、何より演奏してみて、特に「SOLO」の素晴らしさには驚きました。

この2作品の楽譜を開くのは二年ほど前に違う演奏者と蘇演して以来でしたが、ブソッティの「サドによる受難劇」の図形楽譜「SOLO」に基づき作曲されたドナトーニの「SOLO」は、その2年前にシェーンベルク作品23のピアノ曲第2楽章8小節目の初め3拍に基づき作曲された、「Etwas ruhiger im Ausdruck(ひそやかに)(1967)」と同書法ながら性格としては対極の、バロック的優美さと明るさをもった名曲です。

メトロノーム記号の替わりに「全弓を使って美しい音でできるだけ早く」、そして充分にヴィブラートをかけた音が指示されていて、四分音符と二分音符ばかりの楽譜から、1969年当時並んで演奏されたであろうヴィヴァルディやコレルリなどの旧き良きバロック演奏スタイルが薄く浮び上がります。
楽譜の最後に記された日時はミラノ1969年4月30日。今から41年前の明日。自分が生まれるほぼ半年前、未だ母親の胎内で過ごしていた頃の日付。日焼けし草臥れて、大きく罰点で何箇所もカットされた乱暴な書き込みばかりのパート譜。

それから30年ほど作曲を続け、それから10年かけて自分の身体が自然へと戻ってゆき、棺桶から骨を拾われるばかりになって再び作品が演奏されてみて、さて彼もどんな心地だろうかと思うのです。作品の演奏時間は楽譜には13分と記されてしますが、実際に演奏してみると到底この長さには収まりませんでした。当時は相当早く演奏したか、パート譜に残されていたカットを施した上での演奏時間かも知れません。何れにせよ、当時の作曲者の意図とは随分違った演奏なのだろうけれど、彼は書き終わってしまえばまるで自作に頓着しませんでしたから、今更どちらでも良いかも知れませんし、こんなことに思いを巡らせるのも、まるで中原の「骨」のようで、自分が日本人なのを再認識しているだけかも知れない。

1964年に作曲された「ASAR」は、10枚の図形楽譜と7枚に亙って連綿と綴られたタイプ打ちの説明書きのみ。10枚の図形楽譜にはそれぞれ21の断片が書き込まれていて、10人の奏者がそれぞれ任意に選んだ観客を観察しながら演奏します。

Asar
10弦楽器のための

演奏に際しての説明
演奏者は図のように三角形に並べられる。
前方にヴァイオリン4、2列目にヴィオラ3、チェロ2、後ろにコントラバス1

演奏は指揮なしで行う。10枚のパート譜それぞれを10人の演奏家がそれぞれ演奏する。(中略)演奏は着席し終わるやいなや開始され各パート譜の21モデルは観客のあらゆる動きにより読み進められる。演奏者は常に平土間席の観客に注意を払わねばならぬ。そして一人、もしくは複数の人間を注視し、あらゆる身体の動きをそこから見出すべく集中する。自らの視点を自由に動かすことは、一定の時間一人もしくは複数の人間を余りに無益に注視した後のみ許される。(中略)ほんの些細な動きであろうとも、注意深く観察されなければならない。例えば:人そのもの移動、もしくは上半身のみ、もしくは腕だけ、足だけ、手の動き、頭の移動、顔の筋肉の動き(しかめ面、微笑み、チックなど)目の動き、瞬き(この場合は弱音器を付けなければならない)。演奏者は先ず最初の動きを確認したら、最初のモデルを可能な限り早く演奏すること。以下、演奏を続けるにあたっては同じ。(後略)

演奏者たちが代わる代わる、巨大なパート譜の端から必死に観客を眺めるかと思えば、今度は楽譜に隠れて一心不乱に演奏するという姿は、愉快でもあるし独特の演劇的な効果も上げますが、穿った見方をすれば、躁鬱に悩んでいたドナトーニが、当時はいつも人の顔色を伺っていた姿を映し込んでいるようにも見えます。
そして実際鳴らしてみると、音響的にも「SOLO」に近しいものになるのが不思議で、図形楽譜といえども、作曲家の意思が充分に反映されていることが分かります。1964年当時、ドナトーニは巨大な紙に自らの姿を隠しつつ、時に端から頭を覗かせては息を潜めて外側の世界を注視し、そしてまたじっと自分の殻に篭って音を綴っていたのかも知れません。そんな暗さと後ろめたさを引き摺る独特のストイックさがこの頃のドナトーニを包み込んでいて、それがまた彼の音楽の魅力に繋がっている気がするのです。

4月29日ミラノにて

作曲家って

笹久保伸

作曲家ってどんなことでしょう

後生の歴史に名が残る作曲家もたくさんいるが その何倍、何十倍、何百倍もの 世に知られずに過ぎていった作曲家がいる 中には一人くらい 天才的な人もいただろうが

最近亡くなった、知り合いの作曲家Edgar Valcarcel(ペルー)は生前「自分が死んだら 楽譜は家族に捨てられる、もし息子が残したとしても その子供(孫)が 保管する保証はない、楽譜は売れないから、捨てるしかない」とよく言っていた まあ、確かにそれは そうだと思う

現に もう捨てられている有名作曲家の作品もある 人によっては 後に誰かが注目し、探し、捨てられたと思っていても 後で 楽譜の複写が発見されたりする事もある だが それは幸運で 全体の0.1%くらいだろうか

そう考えると、作曲家を志し、勉強し、生涯それだけに生き しかし 自分の死と同時に 楽譜も捨てられる 評価も賛同も批判も受けず 過ぎていく それは どういう事なのだろう

一方 多くの人々に知られれば それでいいのか と言えば どうなのだろうか?

Edgar Valcarcelで言えば 彼はいつも お金を持っていなかったし リマの国立音楽院の院長もしていたが 年金は月2万円で いつも 文句を言っていた しかし 彼を見ていると いつも楽しそうだった 幸せだったと思う

それが作曲家なのかも しれない と思ったが Edgarが「親が病気の時にも 金がなくて病院に連れて行けず……」と言っていた時は 何とも言えず 作曲家って大変だね……と答えた

演奏者にしてみれば 新しい(最近できたというだけの意味で)作品を弾くというのは面白くて 新しい作品の作者というのは大体生きているから その気になれば 作曲家とコミュニケーションを取ったり共同作業をしたりできる それは 音楽を演奏する際の魅力的な動機の一つだと思う 舞台上に立ち一人で楽器を演奏していても 音楽演奏は自分と他との共同作業

例えばショパン(今健在でない人なら誰でもいいが)にちょっと質問があっても 電話するわけにはいかない だいたい書かれた楽譜の音符を弾くしかない こうなってくると 演奏者は準備の過程で共同作業感はほとんど感じず あたかも一人で考え 一人で黙々と練習し 一人で演奏する 最後には 作品を勝手に崇拝?する そんな感覚になってくる まあ だから楽譜とコミュニケーションして 一応共同作業 というような事にしているのか

過去に書かれたものは 作者がここにいないと 紙に書かれた通りに弾く以外に方法はないかのように人は思うらしい 書かれた通り弾かなくてはいけない と言い切る事もできないし 勝手に弾いていいか と言えば そうとも言い切れない つまり 作者はもうこの世にいないから 仕方ない わからない もうあとは弾き手の判断

絵画なら 絵が残る 誰もその作品に あとで絵の具を塗ったりはしない

音楽は 芝居に近いか 内容(台詞)が同じでも演出家や役者によって だいぶ伝わる印象が変わる それは うまい へた の話しではなくて

平面から立体化し 浮かび上がり 動きだす 動き出したら 台詞にそって勝手に動き出す

音楽も 作曲家が作ったものから 個々一人歩きしても いいのではないか

「あるアイデアの土台」の提供が作曲家の役割 演奏者への動機の提供 まあ 作曲家の役割とか言って、それを言い出せばきりがなくなるくらい たくさんの役割を持つ

作曲家が表現したかった事 それを奏者が忠実に表現する という思想の基に演奏される音楽 これは どうなのだろう

書かれた文章を読み間違えないように気をつけながら復唱する=間違えずに読む練習
書かれた文章を 筆者の語り口で、またはそれを想像し語ってみる=筆者の心境を探る
書かれた文章を歌ってみる=自分のために またはその他のために
書かれた文章を会話のように語ってみる=誰かが答えてくれるかもしれない

作者が気づかなかった事を 読者や視聴者が発見する事もよくある

言葉は 書かれる前に生まれ 書かなくても 語られる

音も 書かれる前に生まれ 書かれなくても すでに音はでている

またEdgar Valcarcelの話しに戻るが 彼は言っていた「世の中に作曲家であると名のる人がこうもたくさんいると、むしろ自分が作曲家であると名のる事が恥ずかしくなってくる」

これは どう取るべきか 世の中に 素晴らしい作曲家がたくさんいるから 自分が作曲家となのるのが恥ずかしいのか それとも つまらない作曲家がたくさんいるから 自分が作曲家と名のるのが恥ずかしいのか

今から考えれば 彼に聞いてみたかったとちょっと思う Edgar Valcarcelの死は残念だ

長年連れ添った奥さんとはやっと離婚が決まり 家も無事に売却し これでやっと長年交流(世間的には別の言い方も使われるが)を続けた彼女と暮らそうとしていた その矢先の事だった 新しい生活が始まる事をとても喜んでいた 彼のあの顔が忘れられない 人生色々だ しかし まあ これは 作曲家に限った話しではないが

彼はヒナステラの助手をしたり アメリカに渡りコロンビア大学他で学んだり ペルーに戻れば 国立音楽院の院長になるも 仲良くなった生徒には勝手にディプロマをあげてしまい それが問題になり、反対する生徒が裁判を起こし 裁判に負け 院長クビになったり 国立交響楽団の指揮もしていたのに ケンカして 自分の作品を永久に演奏させない手続きをしたり 何かと スキャンダラスな人生を送ったEdgar Valcarcel 彼はプーノ県出身、アイマラ文化圏の人間で 自分のルーツについても「自分にはアイマラの血が流れている」それが原点だと言い 前衛的な作品をたくさん残した

コンピューター音楽を作っていたのに パソコンは扱えず メールも打てず 楽譜も最後まで手書きだった 家に行けば 黒い木の ぼろぼろのテーブルと調律されていない2台のピアノがあり 「弾いてよ」というと「嫌だよ」と言っていた 大昔の作曲家って もしかして こんなだったのかな と想像していた

ペルー音楽の ある分野の 一つの時代が終わろうとしているような そんな気がする

作曲家って そういう感じか

ギター遊び

仲宗根浩

まだ、ガ〜〜〜〜、ダッダッダッやらの音が響いている。いつ終わる補修工事。いつ布団がまともに干せる、と思いつつものんべんだらりとテレビを見ていたら、化粧品のCMで聞き覚えのあるメロディの歌が流れた。ネットで調べるとすぐに曲名がわかった。「What A Friend We Have In Jesus (邦題:賛美歌312番「いつくしみ深き」)」、歌っているのはUA。旋律はライ・クーダーがアルバムでやっているバハマのジョセフ・スペンスの曲と同じ。ジョセフ・スペンスは1920年代にメディスン・ショーの一行とアメリカ南部を旅していた、と昔のライ・クーダーのインタビューにあるからそのころに覚えてバハマでもずっと歌い続けたんだろうか。それが1965年にフィールドワークで採録され、ギター・スタイルはライ・クーダーに影響をあたえ、日本では高田渡の音楽にも影響が見られる。ジョセフ・スペンスのギターのチューニングはドロップDでキーはDなので似たようなフレーズがどの曲でも聴こえてくる。

先月の笹久保さんのギターのチューニングの文章がとてもおもしろかった。ほんと、なんでEADGBEといういわゆるレギュラー・チューニングというものがこんなに勢力を増したのだろう。次の弦との音程は四弦まで完全四度なのに五弦で長三度、それからまた完全四度となっている。ためしに全部完全四度、EADGCFにしてみて、六弦からドレミファと一弦まで弾いてみる。弾きづらっ。そりゃ慣れていないから。それ以外にも指の動きが二弦から一弦はポジションが下がる。音は上がるのに指は後ろにあと戻り、というのが気持ち悪い。それを無くすために、六弦と一弦を2オクターブ違いのEにして、同じフレットに収まりよくしたいがため、途中で長三度にしたのだろうか。四弦に二弦をたしてそうなったのだろうか。遊びついでに、次は六弦を一音下げてDADGBE、ドロップDにしてみる。そうすると、五弦、六弦の単音弾きでそれらしい、ブルースのなんちゃってリフができる。一音下がった六弦は張力が弱くなっているのでチョーキングをグイっと入れるとなお効果的。六弦から四弦までのDADはお三味線だと二上がり。次は五弦を一音下げて本調子にするとDGDGBE。今度は五弦から三弦で二上がりができここでおいしいフレーズを作る。ついでに一弦を四弦のオクターブ上のDに合わせるとオープンGでストーンズの「ホンキー・トンク・ウィメン」のチューニング、ふるくはデトロイトのジョン・リー・フッカーがよく使ったチューニングになる。これでワン・コードでブギ、なんちゃってジョン・リー・フッカー、もっと古いと、デルタ・ブルースの父チャーリー・パットン、もしくはサン・ハウスごっこができる。ここまで古くなると親指で六弦をバッツンバッツン弾くので、まわりの方々の迷惑になる。家族に邪険に扱われるので家に誰もいなときにやってみる。

サン・ハウスは再発見され映像も残されている。初めて見たとき、その手のでかさとバッツンバッツン連発にびっくりした。今じゃネットで「Son House」で検索するとすぐ見ることができる。見るべし。ここらへんまでは主にアメリカのものでイギリス、ブリティッシュ・フォークになるとデイヴィー・グレアムのDADGADというチューニングがある。このチューニングはバート・ヤンシュ、ジョン・レンボーンを経てジミー・ペイジもよく使うチューニング。アフリカを調べると、マリのアリ・ファルカ・トゥーレがまたちょっと違うチューニングをしてるし、ハワイのスラック・キー・ギターになると弾く人でそれぞれ異なるチューニングがあるので手に負えない。これはスティール弦だからできたのであって、ナイロン弦のギターであればゆるくて弦がベロンベロンで音にならないと思う。六弦がふつうにBまで下がったりする。

こうぐだぐだと遊んだ原因はエリック・クラプトンがクリームの時代にカヴァーしたスキップ・ジェイムスの「I’M SO GLAD」を通常の調弦でやっているのをスキップ・ジェイムスと同じようにオープンDmにしたらその時代に連れっていってくれる感覚、錯覚がしたから。今のロックは、異なる響きとニュアンスを得たいときその調弦で演奏するようになったのか。

で、いろいろ遊んでみて結局自分は一番はったりがきく、DADF#ADのオープンDに落ち着き、堅気の仕事にもどる。

片岡義男さんを歩く(4)

若松恵子

片岡さんへのインタビューの日に、初めて雨が降った。お話を聞く喫茶店、2階の窓際の席から雨の降る通りが見える。質問について考える間の沈黙。「謎はとけたでしょう」と片岡さんは笑うけれど、後から片岡さんが書かれたものを読むと、こちらの受け取ったよりはるか遠く、片岡さんの思考が延びていたことに気づく。新しい短編集が届いて、あとがきのページを開くのが、とても楽しみだ。

――短編集の出版がもうすぐですね。私は新刊を手にすると「あとがき」を最初に読んだりします。片岡さんの「あとがき」がいつも楽しみです。ジェリー・ガルシアをインタビューした翻訳本『自分の生き方をさがしている人のために』(草思社/1976年刊)の翻訳者あとがきを切り取って本を処分してしまって、後から本文も読みたくなって買いなおしたことがあります。

では、今日は「あとがき」の話をしましょう。最新の短編集のあとがきに何を書けば良いかについて。

――ファンにとっては「あとがき」は特別楽しみなのです。
最近早川文庫の『花模様が怖い』に収録された「狙撃者がいる」について、岸本佐知子さん、山崎まどかさんが書評を書かれていました。今の小説は、あの作品のような分かりやすさはないように感じますが。

いや、同じです。何かをやるわけだから、主人公が。今日はその話になりそうですね。長編であろうと短編であろうと、主人公が何かを体験する話でしょ。だから10歳くらいの子どもから主人公になれるのです。10歳の少年を主人公にした短編小説はたくさんありそうです。

――『少女時代』も好きです。

あの作品は典型的でしょう。少女たちが何かをやるわけですから。主人公は10歳からあとなら、何歳でも良いのです。100歳でも、幽霊でも。幽霊が何かやるなら。

――幽霊小説! でも「狙撃者がいる」の場合、アイデアがスカッと出ているように思えます。

やっていることが単純ですからね。撃つだけだから。当てればいいわけだから、射的屋で楽しんでいるようなものです。

――でも、当てることができるというのは凄いことです。

『少女時代』の少女たちも、何かをやるわけです。何かをやるとはどういうことなのか、そのことについて考えるとおもしろいかもしれませんね。

――少女たちはいなくなったり、死んでしまったりします。

死ぬというのは、何かをするということの究極みたいな感じもします。本当は究極ではないのかもしれないけれど、文芸的にはそうです。

――変化の最たるかたちのようにも思えますね。

ええ。変化の究極みたいなかたち。でも、あまりにも文芸的だから好きではないですけれど。

――今の作品の方が良い?

主人公たちは生き延びるために何かをしているわけだから。何もしない主人公っているのかな。いないでしょうね。

――でも、片岡さんの主人公は特に波瀾万丈な生き方をしているようには見えません。その人の変化がわかりにくいように感じます。また、そこが魅力なのですが。

以前はそうですね。主人公は暇な人です。オートバイに乗っているだけの人とか。

――そこがおもしろいと感じました。取り立ててストーリーがあるというわけではなくて。

ええ。生き延びようとしている人たちというのは、社会的なのです。端的に。

――片岡さんに、健康的な社会性というものを感じます。社会とは違う生き方をしているけれど社会性があるというか……。

社会性と簡単に言うけれど難しい。給料を貰っていればそれでいいというわけではないでしょう。今回の短編の主人公というのは、かろうじて食っているというか、クリエイティブなことで生活を支えているというか。「食っていく」というものの言い方がありますよね。もう少しやわらかい言い方だと「生活を支える」という言い方。その問題で主人公をつくるとおもしろいかもしれない。

――ええ。

主人公って、ある時あらわれて、その時には彼らなりの一定の生活をもっているわけです。どういう風に生活を支えているのか、そこが決まらないと主人公が決まらない。稼ぐということだけが主題ではなくて、主人公として何をしているのかということで問題になる。

――どういうふうに片岡さんのなかから主人公が立ちあがってくるのですか。

僕のなかから出てくるのでしょうね。みんな僕が書くわけだから。一番楽なのは、働かなくてもいい人です。おじいさんが大変な資産を残してくれて、お父さんがしっかり管理してそれを受け継いだというような人。そういう人は、純粋に知らない街を歩けるわけです。純粋に酒場に入れるし、純粋に酒場の女性と口をきくこともできる。そして純粋に話が始まるのではないかな。だめでしょうか。何かをやることによって、社会のなかに、どこかに引っかかっているわけだから、バイアスがかかるし、そこからの視点になるわけです。フルタイムで働いている人というのは難しい。たまに書くことはできますが。たとえば仕事と仕事の間の1年間とか、ずっとしてきた仕事と次の仕事の間の空白期間とか。何にもしばられていないか、それに近い状態の主人公が良い。

――「図書」(岩波書店)の連載「散歩して迷子になる」の4月号で、「働くとは、なけなしの自分であっても、その自分が全方向に向けてまんべんなく発揮されることをとおして、全能力がこてんぱんにこき使われることだった」と書かれていて印象深かったのですが、自分の全身をフルに使って社会と関わることができる場所にいる人なのですね、片岡さんの主人公は。

極端に言えばね。そのストーリーの限りにおいては辛うじて。危なっかしい面はあるけれど。どうやって稼ぐかというのはおもしろい話ですね。それにプラスして何かが重なっていく。

――『動物のお医者さん』という漫画があって、その漫画の影響で獣医学部が人気になるということがありました。ある仕事が魅力的に書かれているとその職に就く人も増えるということがあるでしょうね。

獣医という存在もおもしろい。犬と猫だけでライフワークになり得るでしょうね。何かをできないといけないのです、主人公って。できればできるほど魅力的になるのかな、主人公として。あるいは、主人公の魅力はある一定の範囲内にとどまるけれど、話がどんどんおもしろくなっていく、そういうことがあるのかもしれないね。

――話はいつまででも続くのです。

続くでしょうね。この世に動物がいる限り……。きっと波乗りもそうですね。この世に波がある限りひとつとして同じ波はないわけだから。その波をめぐって、その前後の状況があるから話になるわけです。でも書く方も大変です。書く方もほとんど獣医でなければならないのだから。

――漫画家のまわりには、リサーチャーがいる場合もあるようですよ。

僕としては、ひとりで苦労する以外にないですね。主人公をめぐって。主人公の彼にとっても毎日があるのだから、夜になるとどこかに帰って、どこかで寝て、朝はどこかで目覚めて何か食べなければならない……ということを考えておかないとストーリー自体がつまらなくなる気もするな。面倒ですね、主人公って。自分より面倒です。自分そっくりに書くといけないのかな。自分そっくりでも主人公として成り立つならいいけれど。

――読む人は、主人公のことを片岡さんだと思っていたりします。

それは読む人の勝手ですから。書いてしまったら、読む人の自由です。今は書く段階のことについて話しているのです。簡単に言うと社会的な存在なのです。社会のなかにいて、どこかに引っかかって仕事をしたり、友だちがいたり、両親というものがいて、育った歴史があって、そこまできちんと考えておかないと、後で整合しない部分が出てくる。その時々うまく辻褄をあわせたようになるのでは嫌だなと思うのです。

――そういうことは、直感的にやっているのですか。

だいたいは、直感的にやっています。でもメモを書いたりしますよ、時々。

――そんな風に水面下で色々と考えているから、使っている言葉は少ないけれどイメージがはっきり出てくるのですね。

水面下はないとだめでしょうね、もちろん。でも、水面下ゼロというのもいいな。本当に表面だけの。

――どうやって書くのですか。

時間的に短い話なら書けるかもしれません。今日、明日の話。でも、時間が出てきてしまうかな。時間が出てきてしまうとだめです。過去が一切出てこない主人公というのはあり得るかな。ある部分楽だけれど、ある部分めんどうくさいだろうな。要するに、過去でしょう、その人って。今この瞬間って置物みたいなものでしょう。そういうことを「あとがき」で書いてもいいでしょうか。主人公とは何か。

――今回の短編集はそういうことを書いているようには思えませんが。(既に作品を読んでいる八巻さんの発言)

そうですね。僕自身もそう感じます。では、何を書いているのでしょう。短編集の作品を最初から順番に思い浮かべてみると……決して生活を支える話ではないですね。

――でも、つながっているのではないですか。

つながっていますね。例えば、最後の作品などは、ラストシーンが成立するためには、主人公があのような生活をしていないと成り立たない。

――それが主人公の社会性ということですか。

きっとそうですね。あの最後の場面に向かって、彼女のことが色々つくってあるわけです。

――書き始める時に、最後のシーンは頭のなかにあるのですか。

あの作品についてはなかったと思います。ごく普通にあり得ることを順番に書いていったのです。
「あとがき」に書くべきことが見えてきました。書きたいというか、一番大事な一瞬、あるいは一場面があるのです。それを実現させてくれる主人公を考える。主人公はどんな生活をしているかを考え、その生活のある場面から書き始める。これさえわかってしまえば、誰でも書けますね。

――そういう場面はどこから出てくるのですか。

わからない。

――何かを伝えている場面なのでしょうけれど。

いや。何も伝えていないでしょう。託したものは何もないし、何かの象徴でもない。
例えば最後に彼女だけが振り返るラストシーン。映画としてあの場面を見るとしたら、振り返るととても良い、振り返るのだったら、カメラをまっすぐ見る視線が良いと思う。でもその視線に意味はないのです。レンズの位置に視線があると良いということ。どこか、斜めに視線がずれていたらおかしいと思う、きっとそういうことなのでしょうね。表紙の絵についてもそう。ストーリーに出てくるものが、テーブルの上に色々と載っている絵になる予定なのですけれど、物の配置がとても大事です。僕はめんどうくさい人です。ほとんどのものが気に入らないのだから。

――小説論ですね。

書きたいことがたくさんあるわけではないのです。ある瞬間を書きたい、そこにもっていくために、いろいろ考える。

――その瞬間をとっておきたいのですか。

いや。書きたいだけです。書けるかどうかということです。

――読んでいる方も、その瞬間が手に入るだけで良いと思って読んでいます。書きたい瞬間がなくなったりはしないのですか。

瞬間だから、いくらでもあります。考えれば、おそらく。

――どこかで経験したことなのでしょうか。

わからない。もっとあやふやなものを書いたらおもしろいかな。ほんとうに一瞬で消えてしまうようなこと。いずれにしても、彼女だけが振り返る、それを書ければ良いのです。写真についてもそれで説明できるかもしれませんね。次は、写真集についての話にしましょう。

(2010年4月20日)

製本かい摘みましては(59)

四釜裕子

Uさんに20年間続けた番組の資料を借りた。雑誌のいくつかが猫のひっかき傷でやられている。Uさんの匂いのするものをこうする癖のある猫だったらしい。文藝春秋のある号は裏表紙から数ページが等高線を描くように破られている。なにかで濡れたのだろうか。臭いはない。間にティッシュペーパー、というか、ちり紙が数枚はさんである。水分を吸わせたのか。もうこれは捨てていいかな、でも念のためと中を開くと押し花。ワレモコウ? これがなにか「事件」の証拠品ならばテレビ的にはじゃじゃじゃじゃーんだが、Uさんに聞くと「押し花の趣味なんてないない。なんだろうね」。

ジェラルディン・ブルックスの『古書の来歴』(武田ランダムハウスジャパン)は、サラエボで見つかった貴重な古書を修復するために、留め金の跡、羊皮紙の間にはさまれていた蝶の羽根の破片やワインの染み、塩、毛などから当初の装幀を探るもので、その過程がおのずとボスニアの歴史をたどることになる。ワインの染みがついたのは1609年、わずかの血が混じっていたこと、塩の結晶は1492年、スペインの浜辺で波をかぶってできたこと……。一流の古書鑑定家は全てを鑑み、すなわち〈汚れも含めて、あらゆる点でほんものそっくりの複製本〉を作ることが可能になる。そして2002年、オーストラリア人である古書鑑定家はモートン湾のイチジクの種を落す、ほんものの証しに。

川村二郎さんの『孤高 国語学者大野晋の生涯』(東京書籍)に、大野さんが父親について語る言葉がある。〈おやじが昔の大学にあったような書写だけをする「写学生」の仕事にめぐり合っていたら、きっと幸せな一生を送れたと思うな〉。砂糖問屋を継いだ父親だったが商売はうまくいかず南画や書にひたるばかりで、子供の目には疎ましく手を上げたこともあったらしい。昭和25年、研究のために『仮名遺書』を模写しなければならないと父親に話すと「私がやりましょうか」。和紙を朝顔やザクロの花の汁で染めて原本に似た紙をつくることから始めたという。〈父親にそんなことができるとは考えたこともなかったから、目を疑った。見事なできばえに言葉がなかった。それからは模写は全部父親に頼んだ〉。雑誌であれ稀覯書であれ、ホンモノであれ複製であれ、紙の束である本一冊ずつが持つ寿命を思う。

時差と時間

冨岡三智

3月にクアラルンプールに行ったときの話を再び。

マレーシアの時間は日本より1時間遅れに設定されている。けれど、マレーシアとほぼ同じ経度帯に分布しているインドネシアのジャワ島やスマトラ島は、日本との時差が2時間遅れのゾーンになっている。だから、ジャワ島では、1年を通して午前6時頃に日の出、午後6時頃に日没なのに、クアラルンプールでは午前7時過ぎでもまだ暗くて、午後7時半でもまだ明るい、ということになってしまう。

こんな風に時差を決めたのには、政治的な配慮もあるみたいなのだが、ここでは、まあ真相はどうでも良い。それより、時差の設定がずれると、感覚がちょっと狂うものだとあらためて感じる。驚いたのが、国立劇場の開演が午後9時だったこと。マレーシアではこれが普通らしい。インドネシアでは、夜の公演は午後8時に開演する。

聞いてみると、マレーシアでは午後9時開演にしないと、イスラムの人たちが日没後のお祈りと食事を済ませて家を出てこれないから、ということだった。イスラムでは、日の出や日没の時間を基準に、お祈りの時間帯が決められている。確かに、午後7時過ぎまで外が明るければ、お祈りの時間は7時半頃になる。インドネシアではちょうど6時半頃に皆お祈りするから、夜8時に開演できるのだ。

こう書くとマレーシアの人達は宵っ張りに見えるけれど、日の出が遅い分、やっぱり朝も遅い。私が出席した会議は朝10時から始まり、午後1時から昼食だった。本来の時差、つまりインドネシアと同じ時間に直すと、朝9時から会議開始、午後12時から昼食をとっていることになる。でも、インドネシアでは、会議は朝8時から始まるものだった。これだけ見ると、インドネシア人は勤勉に見える。

金曜日にマレーシアの国立芸術大学を訪問したとき、金曜は昼11時半過ぎからイスラムの一斉礼拝があるから、早く行かねばと思って焦ったのだが、それはインドネシアの話。マレーシアでは、この礼拝は午後1時頃からしか始まらないのだった。

けれど、これは「何時から礼拝が始まる」と考えるから、ややこしくなるのだ。日の出/日没後、何時間以内にお祈り、と考えれば、インドネシアの人もマレーシアの人も、それにアラブの人たちも、1日を同じようなお祈りのリズムで刻んで生活していることになる。

それだったら、マレーシアでの挨拶はどうなるのだろう。インドネシアではだいたい朝9時頃になると「こんにちはselamat siang」という挨拶になり、午後2時過ぎになると、もう「こんにちはselamat sore(soreは夕方の意味)」となり、午後6時で日没頃になると「こんばんはselamat malam」となる。マレーシアでは午前10:00頃から「こんにちは」なのだろうけれど、会議が10時始まりという国ならまだ「おはよう」かな、午後6時頃ならまだ「こんにちは(sore)」かな、と想像してみたりする。

時差の設定がずれると、なんだか生活時間帯がえらくずれているような気になってしまう。朝早くから会議するインドネシア人が勤勉な田舎者に見える一方で、夜遅くまで演劇を見ているマレーシア人が宵っ張りの都会人みたいに見えてくる。両国の仲が悪いのは、案外、こんなところにも理由があるかもしれない。

いつかどこかで

大野晋

ときどき、いつかどこかで見たような光景に行き当たることがある。まあ、大抵の場合には以前来たことがあったりするのだけれど、場合によっては来たことはないけれど夢の中で見たとか、似たような状況になったことがあったとか、そういうことが原因のようだ。昔から夢想ぎみのところがあったから、ときどき、体験したのは現実だったのか、夢の中だったのか、わからなくなることもある。まあ、そんな状況が長く続くと、そのうち、あの世に召されるのかもしれない。

先日、二度寝したときに見た夢はふるっていて、全てうまくいかないと、「ああ、これは夢なんだから適当にできたことにしてしまえ!」なんて、結構いい加減に対応していた。夢の中で、これが夢だと思っているのだから、まあ、ややこしい夢だったことはこの上なかった。

さて、ずっと購読していたコミックが完結してしまったので、何か新しいものでもと、ずっと避けていた(あまりにもファン過ぎて雑誌を定期購読しそうだったから)浦上直樹氏の「ビリー・ザ・バット」の単行本が新しい3巻が出たのをいいことに大人買いして読み出したときも「どこかで見た感じ」を感じた。浦上直樹氏はどちらかというとアクションのある作品に特徴があり、昨年も「20世紀少年」や「MONSTER」などで注目を集めた人気作家である。ところで、ビリー・ザ・バットの中でキリストが出てくるくだりを読んでいて、似たようなシチュエーションのキリストをどこかで読んだなあ、と、ふと、光瀬龍(+萩尾望都)の「百億の昼と千億の夜」を思い出していた。

世界の混乱、騒乱のもとが、ひとつの神という絶対なモノを信じることに由来する排他主義にあるのだとすると、一神教を説いたキリスト自身は果たして善だったのか? 悪だったのか? 神学者ではないので安易に答えを求めるものではないのだが、ものの善悪といった問題を取り扱おうとするとどうしても、信じることは正しいのか、と同じようなシチュエーションにたどり着くのかもしれない。苦しいときの神頼みで、どんな神仏にもすがるときはすがり、忘れるときは忘れる典型的な日本人のおかげで、どうみても不信心な、果てしなく無信教に近い多神教主義者なのだが、果てしない信じるものに基づく争いを見るにつけ、ときには相手の神様も信じてみるべきだと思った。

そういえば、どこぞでも、果てしない論争が続いているが、論理で説得できない者は根底から信じてしまっている人の信条なので、そこは論争で解決しようとせずに、一度、相手の立場になってみるという思考訓練をしてみてはどうかと思っている。まあ、まず、その前に、仲直りをして、仲良く腹を割りながら酒を飲むというのもいいと思うんですけどね。飲みニケーションは非常に有効な融和手段ではあります。先人の知恵ですね。

ルサカの闇

くぼたのぞみ

飛行機から降りて2時間まった 空港内のコンクリ壁に囲まれて
荷物のうえに腰をおろしていた あたりに夕闇の気配がしのびより
そこここの売り場やカウンターに 橙色のライトが点いたが 
迎えの車はこない そしていきなり 男たちがあらわれた 
たくましく 鋭い目をした 4人の黒い男たち

強く記憶に残っているのは 車の後部座席に 押し込められるように
座った窓の 外の闇─闇─闇 ルサカの闇だ 車はいちめん
墨色のなかをゆっくり走る 目をこらすと 地平線のところどころに 
低い樹影 遠くにぽつぽつと灯りが見える 
ライトは点けない 

唐突に 山二線の なめらかな土の道が 浮かんできた 
未舗装のじゃり道ばかりの 旧植民地北海道の8月 村の盆踊りの帰り道だ
月はなく 隣を歩いている 1歳ちがいの兄の浴衣も見えず
うつむくと 自分の下駄の緒さえ見えない なのに
数歩先の水たまりが 鈍い灰色の鏡面のように ぼんやり浮かんでいる 
この先なにがあるかわからないという 一瞬の不安 それでも 
包まれているという感覚 濃密な一体感 ふしぎな豊穣さ 

やがて車は闇に車体を愛撫されるようにしてホテルに着いた

オトメンと指を差されて(23)

大久保ゆう

実に与太話で恐縮なのですが、花粉症ならぬホラー症というものがあると思うのですよ。花粉症というと、よくコップのなかの水があふれることにも喩えられますが、生まれてから吸った花粉がどんどん自分の身体のなかのコップにたまっていって、それがついにあふれてしまうと、くしゅんずるずると花粉症になってしまう、なんていう話がありますよね。それと同じように、ホラー分というものも摂取しすぎるとあふれてしまうのでは、と思ったりなんかしたり。

ただ、あふれたときに起こるのがくしゃみや鼻水なんかではなく、「笑い」であるところがホラー症の恐ろしいところなのです。何を言ってるんだと思われることでしょうが、私は小さな頃からホラーやら怖い話やらをたいへん好んでおりまして、幼稚園や小学校や中学校といった少年期に、それこそ浴びるように、いやお菓子みたいな感覚でホラーを食べて、日々怖がって(楽しんで)おりました。

しかし!

ある日のこと、というより、ある日を境に(残念ながら特定の日を思い出すことはできません)、私は人を怖がらせようとするコンテンツや遊具なんかに接すると、爆笑してしまうようになってしまったのです! 何と言うことでしょう! 一種のホラーアレルギーというわけですね!

そうなってしまうと、たとえ怖い映画を見ても、それこそ画面上が真っ赤だったり手足が大変なことになったりしていても、あるいは足がぶらんぶらんとしてぐるぐると何回転もするジェットコースターに乗ったりなんかしても、もうお腹をかかえて笑うしかなくて。あっはっは、あっひゃっひゃ。空と地面が逆になってる、あははははっ、みたいな。

笑うことでかなりのストレスの解消にはなっているんでしょうが、私が欲しいのはそんなんではなくて、戦慄するほどの恐ろしさだったりするんですけどね。もうダメなのです、何をやっても怖さよりも笑いの方が先に出てきてしまって。お化け屋敷なんかでもそうです。女の子と一緒に入ったりして、隣で「きゃーこわい」とか言って女の子がありきたりに震えたりなんかしても、私はそのそばで吹き出しそうになるのを必死でこらえているわけです。何と言いますか、怖がっている人そのものもおかしいですし、何とかして怖がらせようとして待ちかまえているお化けスタッフも面白いですし、そのあいだに挟まれて歩いている自分自身ももう馬鹿馬鹿しくて(お仕事されている方への他意などはございませんので、念のため)。

かと言って驚かないわけではないんですけどね。いきなり出てこられたらびっくりしますし、でも驚くことと怖がることは違うじゃないですか。それに、お化け屋敷の場合でも私より連れの方がひどいなんてことがないわけでもなく、かなり剛胆というか物怖じのしない人もいるわけで、入るなりずんずん進んでいって、お化けさんが出てきてもぴくりともせず、そのままお化けさんをにらみつけて挙げ句の果てにはお触りしちゃう女の子もいたりしたんですけどね、そのときは私も追いかけつつお化けさんにひとりひとり「うちの彼女がすいません」などと謝ったりして、怖いとか面白いとかいうより、変な汗が出まくったわけなんですが。

閑話休題。で、そもそもなんでそんなふうになってしまったのかと考えてみると、どうやらホラーというエンタテイメントを、客観的に受け止めてしまうようになっちゃったからではないか、と思ったりもしてみます。あまりに見過ぎた(読み過ぎた、参加し過ぎた)ために、それが作り物だっていう感覚がしみついちゃったのではないかと。少なくとも映画でもテレビでも、モノとしての画面がそこにあるわけですし、本でも読む自分とのあいだにやっぱり隔たりがあるわけで、お化け屋敷でも遊園地という特別な場所があって、他にも、たとえば肝試しにしても基本的には効果みたいなもので、グループ内の雰囲気や場所の意味に頼り過ぎているところがあって、心霊写真にしてもアナログカメラというメディアに依存しすぎなところがないわけでもなく。

ともかくこっちの気持ちなりなんなりに左右されることが大きすぎて、こっちが冷静になってしまうともう楽しめなくなっちゃうわけで。じゃあ落ち着かなければいいじゃないか、という話にもなりますが、摂取しすぎるとこっちの都合に関係なく自動的にそうなってしまうんでしょうね、きっと。いろんなものが透けて見えてしまって。だから高校生になる頃には、例の「リング」とかが流行っていたわけですが(呪いのビデオ!)、あれのどこか怖いのかまったくわからなくなってました。

でもそんな逆行に負けてなるものか、と私が最終手段として取り出したのが、いわゆる「悪夢」なのです。どんなにホラーが作り物であろうと、夢というのは自分の意識や感覚と直結しているわけですから、めちゃくちゃ生々しいわけで。それがどんな荒唐無稽なものでも、たとえば新撰組が池田屋に巣くう長州ゾンビどもを斬りまくる、という頭の悪い設定でも、自分の目の前にゾンビがいてこっちに襲いかかってくる、という身体感覚が夢だとびっくりするほど鮮明で、ぞくぞくっとしてしまいます。ああ、なんて素晴らしい! 私のかわいいかわいい戦慄ちゃん!

これが自分の自由にできるといいんですが、本の内容を夢に持ち込むとかそういう高度な技は使えないので(できる人はできるらしいですね)、ほとんど偶然と運に頼るしかありません。たとえ怖い本を読みながら寝ても、まずは入眠時催眠で勝手に本の続きを妄想しだして、そのあとの頁を捏造するだけですから、夢のなかでは私がただ頁をめくっているだけで、けしてその中身が再生されるわけではなく。

ともかく、こうして私はホラーを悪夢によって自給自足することになり、ほとんどホラーコンテンツを外部から摂取することがなくなってしまったのですが、夢さえも「これは夢だ」と客観的に見るようになってしまったらどうしよう、と危惧しないでもありません。そうしたら私はどこか現実の危険な場所へ行ってしまうのでしょうか。でもリアルに自分も含め誰かの命が脅かされている、そんな場所に行ったとしたら、私はきっと倫理や正義などの方が先に立って、かえって恐怖など感じないでしょうから、いくらなんでもそんな悪趣味なことはしないと思います。

やはり、フィクションとホラーのバランスなのでしょうね、どこまでも作り物ではあってほしいけれど、できるだけそれがバレないようなものであってほしい、という娯楽のあり方というんでしょうか。それすらもどうしようもなくなったとき、どちらかというと私は、宇宙的な不可解とか、そういう方面へ行ってしまうような気がしています。宇宙の誕生とか、宇宙の果てとか考えるだけで恐ろしい。人知の及ばないところへ思いを馳せる、理解できない謎に対する恐怖、というような。

そういう意味では、悪夢から目覚めたとき、落ち着いて枕をじっくりと見つめてみると、まつげが大量についていたりなんかして謎です。恐怖ですらあります。あれって、なんであんなにたくさんあるんでしょうね。もしかすると私だけかもしれませんが。私のまつげって長いですし。それにしてもあんなにたくさん取れたら、私のまつげはなくなってしまうんではないかと思うのですが、鏡を見るとそうでもないあたりが怖すぎます。もしかすると、眠っているあいだに謎の宇宙生物が私の枕にまつげをこっそりとばらまいているのかもしれません。おのれ、まつげ星人め!

ほら、怖くないですか?(何かというより、私自身が。)

穴の中で

さとうまき

ピースボートに乗ることになった。船の中で、イラクやら、平和やらの講義をするのだ。僕は、忙しかったので、横浜からシンガポールまでの10日間だったが、100日かけて世界を一周する。

乗ってみて驚いたのは、850名のうち450名が60歳以上だ。僕は、若い人たちが、世界を旅行してもりあがるのがピースボートと思っていたが、ぜんぜん違った。しかし、僕の仕事は、20代が大半の30名の学生に朝、講義をする。夕方と夜は、一般向に講演というわけで、結構忙しかった。講演を熱心に聴いてくれたのは、やはり団塊の世代だった。
寄港地は、中国とベトナム。

ベトナムでは、農家に連れて行ってもらった。ベトコンをかくまっていたという秘密の穴があるという。仏壇の脇に確かに小さな穴があって、地下の通路とつながっている。かなり小さいのだが、中にはいってみたくなった。やはり、ベトコンの気持ちは、はいってみないとわからぬ。
かなり小さい穴で、中は、土管になっている。もちろんなかは真っ暗。船の中での運動不足がたたったのか、体が途中でひかかりそうに。歩腹前進でないと進めない! 米軍が穴を見つけたら手投げ弾を投げ込んで爆破する。こんなところで、生き埋めになってしまうのはいやだなあと実感した。

イラク戦争でも似たようなことがあった。サダムフセインが、アメリカ軍から逃げて、最後につかまったのは穴の中だ。ベトナムは35年以上前の戦争なのに、今のイラクの対テロ戦争と全く闘い方が良く似ている。イラクで民家をしらみつぶしに、テロリストを捜索する米兵。そして、一般市民が虐殺されていく歴史。そんなことを思いながらようやく光が見えてきた。今年は、ベトナム解放35周年。

メキシコ便り(32)ブラジル

金野広美

いよいよ私の中南米ひとり旅も今回のブラジルで最後になりました。

日本からは地球の真裏にあたり、最も遠い国ブラジル。2014年のサッカーワールドカップや2016年のオリンピックの開催が決まり、経済発展も著しいといわれているブラジルですが、実際はどうなのか、興味津々でかけることにしました。

ブラジルまでは日本からだと24時間から30時間くらいはかかりますが、メキシコからだと9時間ほどです。夜遅い飛行機に乗り、サンパウロに着いたのは昼の1時半。友人の山下さんが迎えに来てくれ、ここでは彼の家に泊めてもらいます。

ブラジルには1908年、笠戸丸で791人が初めて移民したのを皮切りに、25万人の日本人がブラジルに渡りました。特にサンパウロのリベルダージには大きな日本人街があり、コミュニティーを形成しています。そこでリベルダージにある移民博物館に行ってみました。ここで三重県の教育委員会の人を案内している男性がいたので一緒に話しを聞かせてもらいました。

彼は10歳のときに両親に連れられブラジルに来たそうで、その経験談はとてもショッキングなものでした。ジャングルを切りひらき畑を作ったそうですが、とにかく食べ物がなく、なんでも食べられるものはすべて食べたそうで、スズヘビという毒蛇をたくさん捕まえてそれを干してだしをとったという話、豚のラードの塊の中に肉をいれ冷蔵庫がわりにして保存したという話、食料にする魚を川で取り干していると、そこにハエが卵を産みつけそれがかえり、そのさなぎを湯で洗ったという話、シュッパンサという虫が家の柱に卵を産みつけ、大量発生したシュッパンサにかまれ、シャーカ病という心臓が肥大する病気にかかり死んだ人の話、密林に住むアナコンダに子供がのみ込まれた話など、あまりに具体的で壮絶な話の数々は想像を絶するものばかりで、その苦労は私などにはかり知ることはできませんでした。また、密林を切りひらくのではなく大きなコーヒー農園で労働者として働いた人は、当初は5年契約でしたが、生活物資はみんなコーヒー農園の売店で買わなければならず、これがまた高く、貯蓄するどころか借金の方が増え、5年が6年、7年と伸び逃げ出した人も多くいたそうです。このように苦労に苦労を重ねながらがんばってきた日系人は、いまではブラジル全土に150万人となり中産階級を形成しています。

その日は日曜だったのでとなりのホールでは太鼓フェスティバルが開かれていました。ブラジル人の若者と日系人の若者が一緒に笛や太鼓でソーラン節を演奏する姿は100年以上かけて日系人がブラジルでふんばり続け、今ではすっかりブラジル社会に溶け込んでいるという証しなのでしょうね。しかし、今や3世、4世の時代になり、日本人の顔をしていても日本語がほとんど話せない人たちも増えてきています。日本の伝統文化をしっかり守りながらも日本が少しづつ遠くなってきているという現実もあるようです。

次の日はサンパウロから飛行機で1時間半のカンポ・グランジに行き、ここからバスで5時間のボニートに行きました。ここには透明度の高い川がありシュノーケリングをしながら魚と一緒に川を流れていくことができます。その中のリオ・デ・プラタ(プラタ川)に行きました。聞いていたとおり本当にきれいな川で水面の上からでも魚がはっきり見えます。この川だけに生息するというピラパタンガや金色で尾に黒いラインのあるドラードなどたくさんの魚が悠々と泳いでいます。水深1メートルの浅いところもありますが、決して立ったり歩いたりしてはいけません。ひたすら手だけを使いゆっくり浮きながら泳ぐのです。こんな風に泳いでいると、まるで私も魚になったような気がします。約3時間でしたが初の魚体験、おもしろかったです。

ここではこのほか「青の洞窟」と呼ばれる真っ青な水をたたえた地底湖のある洞窟に行ったり、ミモーゾ川ぞいにある滝公園の6つの滝つぼで泳いだり、魚がいっぱいの川がそのままプールになっている公園でのんびりしたりと、ゆっくりとボニートを満喫しました。

そしてまたサンパウロにもどり、今度はバスで6時間のリオ・デ・ジャネイロに行きました。ここは1960年にブラジリアに首都が遷都されるまで約200年にわたり首都だったところです。コパカバーナやイパネマ海岸をはじめとして長い海岸線を持ち豊かな土地から産出される農作物や金、ダイヤモンドなどの積み出し港として栄えました。

ミーハー観光客としてはここにくればまずはコルコバードの丘に登り、大きなキリスト像を見なければなりません。朝一番の登山電車に乗り行きましたが、深い霧で何も見えません。うーん残念。でもここが一人旅のいいところ、誰も先をせかす人はいません。霧が晴れるまで待つことにしました。何にも見えない丘の上でうろうろしていると1時間もすると霧が晴れてきました。すると見えてきました、リオのシンボルとなっている高さ30メートル、幅28メートルのキリスト像が、今までは空撮している写真しか見ていなかったのですが、そばで見るとやはり大きい。見られればオーケー、これで満足して丘を降りました。

そしてそのあとバスと地下鉄を乗り継いで、世界最大といわれているマラカナンスタジアムに行きました。11万5000人収容できるというその大きさにはびっくり。通路には壁一面にロナウジーニョやロナウド、カカら人気者たちの大きな写真がいっぱいです。またスタジアムだけではなくロッカールーム、トレーニング室、ジャグジールームなども見学できました。しかしその設備は案外簡素なのでちょっと拍子抜けしました。それにしてもこのスタジアムで満員のお客が入った試合の様子を想像するだけで、なんだかわくわくしてくるようなきれいで立派なスタジアムでした。

そして、ここからの帰り道、またもやひったくりに遭遇してしまったのです。地下鉄に続く大きな陸橋を歩いていました。そばには掃除のおじさん、前には女性と黒人の男性が2人歩いていました。するとその黒人の一人が急に振り向き、私に近寄りかばんをひったくろうとしたのです。中にはパスポートをはじめ大事なものがすべて入っています。ぜったいに盗られては困ります。私は「だめー、ぎゃあぁぁぁーー」と大声で叫びました。するとその男はなにも盗らずに私から離れていきました。助かったー。ブラジルは危ないと聞いていましたが本当に危ないです。日中の人がいるところでも襲ってくるのですから。きっと私の「気ぃつけてるでオーラ」が弱くなっていたのだと大いに反省した次第です。

次の日はカーニバルが開かれるというメイン会場に行ってみました。毎年2月に開催されるリオのカーニバルですが、もう会場づくりが始まり、そばの小さなみやげ物を売っているスペースでは衣装が展示してありました。これ以上派手にはできないというほど超ド派手な衣装で、1年のかせぎをこれにつぎ込むというのですから、相当高いのでしょうね。このあと近代美術館に行きカルロス・ベルガラの作品展を見ました。カーニバルがスコールで中断し、道には大きな水溜りができ、その水溜りに写ったなんともいえない表情の踊り手を写した写真がとても面白かったです。

そのあとはコパカバーナで泳ごうと往復の地下鉄代だけ持ってでかけました。ここは世界有数の大リゾート地です。大きなホテルが林立し、たくさんの人が海岸にいましたが、残念ながら波が高すぎて遊泳禁止です。せめて足だけでもつけようと海岸を歩いていると大きな波がきてすっかり濡れてしまいました。トホホー、なんとも中途半端な感じで引き上げなければなりませんでした。

次の日早くサルバドールに飛行機で移動しました。サルバドールは1763年リオ・デ・ジャネイロに首都が遷都されるまで約200年あまりブラジルの首都だったところで、人口300万人の80パーセントを黒人が占めます。そのため独自のアフロ・ブラジリアン文化が花開きました。

ダンスと格闘技をミックスしたようなカポエイラはもともと武器を持たない奴隷が素手による攻撃、自己防衛として発達したもので、ビリンバウという弓のような楽器に合わせて太極拳のようなスローな動きで踊ります。道を歩いているとこのカポエイラを広場でやっていました。踊りとビリンバウをじっと熱心に見ていると、そこでビリンバウを弾いていた男性が近寄ってきて弾き方を教えてくれました。大きな椰子の実のからを共鳴箱に1弦だけを弓のように張ってあります。竹の弓と弦の間に左手をいれ、そこにこぶし大の石を持ち、弦につけたり離したりしながら音程をつけるのです。彼が弾くといい音がしますが、私がやると簡単な楽器なのに、難しくてうまくいきませんでした。

彼にお礼を言って通りを歩いていると、今度は小さなみやげ物屋からギターの音が聞こえてきました。その音にひかれて中に入るといろいろな楽器を売っていました。ガンサという20センチくらいの木筒の中に豆が入った楽器は前後にシャカタカ、シャカタカと振り、マピートという笛はピッピポッポ、ピーピポと吹くと教えてくれます。私は面白くてやってみました。それぞれで鳴らすとうまくリズムを刻めるのですが、一緒にやれといわれると、とたんにガタガタになってしまいました。おじさんは「練習、練習、日本に帰ってからがんばれ」と言いました。それにしてもここの人たちは音楽が好きなのでしょうね、通りでサンバのリズムでタンバリンを叩いて踊っている人がいますし、夜になると大音量の音楽をかけ、テーブルを道に出しみんなで体を揺らしながらビールを飲んでいます。なんだかとても楽しそうです。本当はもっとここでゆっくりしたかったのですが、先を急がなくてはならず、次のマナウスに行きました。

マナウスは世界一の流域面積を持つアマゾン河が流れるジャングルの真ん中にある大都市です。飛行機が1時間遅れおまけに荷物が30分かかってもでてこず、予定から1時間半以上遅れて出口に出ました。すると迎えにきているはずの旅行社の人がいません。彼女の携帯に何度も電話してもつながりません。ジャングルツアーや今夜のホテルの手配も頼んでいたので困り果てました。でもどうしようもないので、自分で適当に手配しようかと思いながら再度電話すると今度はつながりました。

なんと空港には彼女の夫が迎えに来ていましたが2時間待っても私が出てこないので帰ったというのです。えー考えられない。飛行機が到着する予定の時間より40分も早く来て2時間も待ったとはなんという言い草。普通は飛行機の到着の遅れなどを調べるでしょうと、その責任感のなさにびっくりしてしまいました。それでも20分後には彼が空港に着くというので仕方なく待ちホテルまで行きましたが、どっと疲れました。

その日は19世紀後半、アマゾンがゴム景気に沸き、ありあまる財を手にしたヨーロッパからの移住者が建てたというイタリア・ルネッサンス様式のオペラハウス、アマゾナス劇場に行きました。見学料金は10レアル(日本円で約550円)です。何人か集まってガイドについてでないと入れません。でもそのガイドはポルトガル語か英語だというのです。スペイン語はないかと聞くとないといわれ、私はどちらで聞いてもわからないと、入るのを躊躇していると、入り口にいた女性が「今夜8時からここで無料のコンサートがあるので、それにきたらタダで見られるよ」とそっと教えてくれました。ラッキー、コンサートの内容まではわかりませんでしたが、そんなことはかまいません。とにかく8時に来ることにし、そのまま帰りました。

8時少し前に劇場に行き中に入りました。劇場内は2階から5階までバルコニー席になり大理石の階段、屋根いっぱいに描かれた芸術をテーマにした絵などとてもきれいで、豪華な調度品が置かれ、まさにヨーロッパそのものの雰囲気でした。オーケストラピットにはアマゾナスフィルハーモニーが入り、その日の演目はブラジルの作曲家、ビラ・ロボスの曲で踊るコンテンポラリーダンスでした。舞台中央に長方形の額縁のある舞台をもうひとつ作り、ここでは影絵のような動き、手前の舞台では踊り手がその影絵に呼応しながら体を動かすという、とてもおもしろいダンスでした。ここではこのような無料コンサートがしょっちゅうあるそうで、うらやましい限りです。タダで劇場とダンスを見られて倍、幸せな気分になり劇場のすぐそばにあるホテルに帰りました。

次の日、ジャングルロッジから迎えがきて車と船と徒歩で移動しました。ロッジはバンガローになっていて、クーラーがあり、熱いシャワーがいつでも出ます。虫が部屋に入ってこないように、窓は網戸になっています。あまりの快適さにまるでリゾートホテルに滞在しているようで、ジャングルにいるのだという実感が全くなくこれでいいのかな、とちょっと疑問を感じましたが、やはり私が疑問を感じたことは正しかったのです。これではよくなかったのです。というのは次の日の朝、こんなことがありました。

ガイドに連れられジャングルトレッキングをしていたとき道で小さな蛇がとぐろを巻いてたのでひょいとまたいだのです。同じツアーの米国人のおじさんはその蛇の写真を撮っていました。先を歩いていたガイドに蛇の話しをすると、彼はびっくりして引き返しその蛇を捕まえました。なんとそれは猛毒をもったコブラだったのです。首をガイドにつかまれたコブラは鋭い牙を見せて私を見ているようでした。もし私がまたいだ時かまれていたら、死んでいたかもしれません。ジャングルに対する無知とノーテンキさがあんな軽率な行動をとらせたのです。快適なロッジに泊まり、用意万端整えられたコースに乗って動いていると警戒心がマヒし、ジャングルを知らず知らずのうちに甘くみていたのだと思います。やはり「ジャングルはなめたらあかん」のです。

午後からは別のガイドのアルテミオに連れられピラニア釣りにでかけました。その途中一匹の蜂にさされてしまいました。ヒリヒリと痛くて腫れ上がってきます。するとアルテミオが近くの木の幹を2種類切り取り傷口にあてろといいました。それをあてていると不思議なことに痛みも腫れもすっかり消えてしまいました。すごい知識です。

ジャングルは猛毒を持った動物や虫などが多く生息していますが、一方で薬の宝庫でもあるのです。彼はアマゾンの民、コカマ族の出身でここから船で6日かかるペルーとの国境近くのタバチンバで生まれたということですが、「ジャングルはあなたたちにとって何?」と聞くと「神様たちの母」だと答えました。彼らにとってジャングルはかけがえのない大切なものなのです。そんなジャングルに何の畏怖の念もなく物見遊山でやってきたことをちょっと反省しました。

彼につれられて行ったピラニアの釣り場では牛肉をえさに釣ってみましたが、難しくてなかなかひっかかりません。アルテミオや釣り場の若者は次々釣り上げますが、私はえさをとられてばかりです。でもどうしてもピラニアを食べてみたかったので一生懸命です。2時間ばかりがんばりましたがどうしても釣れず、釣り場の若者が釣り上げた大きなピラニアを持たせてもらい、いかにも私が釣り上げたような笑顔をして写真だけ撮らせてもらいました。そしてそれをロッジでスープにしてもらい食べました。淡白な白身魚でなかなかおいしかったです。

次の日は船でマナウスから下流に10キロの2河川合流点に行きました。ここはネグロ川とソリモインス川が合流してアマゾン河となり大西洋に流れ込むのですが、2つの川の水が混ざらずに境界線をもって乾季で17キロ、雨季で70キロにわたり流れているのです。その原因は両者の比重と流速が異なるためですが、ネグロ川は黒く、ソリモインス川は茶色をしています。この場所では決して混ざりあうことはないけれど、いつか混ざりひとつのアマゾンという大河となるこの2つの川を見ながら、世界各地で絶えない紛争を思い、人間たちもこうなればいいのになあ、などとぼんやり考えてしまいました。

このあとマナウスに戻り記念にピラニアの剥製の置き物とキーホルダーを買って最後の訪問地ブラジリアに向かいました。しかし、タム航空がまたまた1時間半遅れて、着いたのは夜の8時20分、到着が遅くなるためサルバドールから予約を入れておいたホテルに9時に行きましたが部屋がありません。きっと着くのが遅かったので先に来た客を泊めてしまったのでしょう。よくあることです。空き部屋を探し、2軒は満室でしたが3軒目には泊まれました。やれやれです。

ブラジリアは1955年、当時のクビチェック大統領がブラジル中央高原の荒野に新首都を建設すると宣言、区画整理された機能的な都市づくりをやり1960年にリオ・デ・ジャネイロから遷都されました。
そんな興味深い街を歩きました。道路は広く立体交差やロータリーが多く、また信号も少ないので車はスムーズに流れています。美術館や図書館の建物も非常にシンプルで、かつひとつひとつが現代アートのモニュメントのようです。各省庁のビルは緑で統一され、窓のブラインドが少しづつグラデーションになっています。そして窓を開けた部屋と閉めた部屋ではモザイク模様になりとてもきれいです。国会議事堂も斬新なデザインで、すくっと立った28階建ての細い2つのビルと、白いお椀をふせた形の屋根の上院と、受け皿のような屋根の下院とがあります。その姿は青い空にくっきりと映えとても美しかったです。

ここはいつでも見学できるというので入ってみました。すると実際に国会が開かれ、質疑応答をしていました。緑と黄色のブラジルカラーのアクセントのある木の壁、さざなみのようなやわらかい光を放つようデザインされた天井、議場の周りにはスタジアムのように傾斜して椅子がとりつけられ、いつでも、だれでも会議の様子を見ることができるようになっています。中央の議場は明るく周りの観客席は薄暗くしてあり、まるで劇場で芝居をみているような、ちょっとわくわくする空間でした。
ここでひとりのブラジル人の女性と友達になりました。彼女の名前はイベッチ、家具のデザイナーをしているそうで、スペイン語が少しわかる彼女とポルトガル語を少し話す私とで何とか会話が成立しました。

ブラジリアはホテルはホテルゾーン、銀行は銀行ゾーン、官公庁は官公庁ゾーン、住宅は住宅ゾーンと機能第一に考えられているためホテルゾーンにはスーパーマーケットが一軒もありません。いつもスーパーで野菜や果物を買い、食事代を安くあげている私にとってはとても不便です。おみやげにブラジルコーヒーを買いたいのですがどこにいけばいいのか全くわからなかった私を彼女は自分の住宅ゾーンにあるスーパーに連れて行ってくれました。

ブラジルは今すごい勢いでレアルが上がり、ドルが下降しています。対日本円でも1レアル55円と上昇しているので、物価が高く日々泣いていたのですが、ここはとても安くてびっくりです。彼女に教えてもらったおいしいコーヒーは250グラムで2.65レアル、150円ほどです。ここで安いパンや果物も買うことができました。この住宅ゾーンの物価は特に安く押さえてあるのではないか、という気がするほど他の都市より安かったです。
ブラジリアの都市づくりは確かに機能的で合理的でかつ美しいと思います。道路も広く信号が少ないので車はスムーズに流れます。しかし逆にいうと通行人にとって信号の少ないのは不便です。
またホテルゾーンや官公庁ゾーンにはレストランはありますがスーパーはありません。ここで働く人たちの昼ごはんはどうするのだろうと思っていたら、やはりありました。官公庁の近くの公園のまわりにはたくさんの食べ物を売る露天が。そしてバスターミナルのまわりには小さなファストフードの店やジューススタンドが。最初はずいぶん整然とした芸術的で上品な町だと思っていましたが、やはりここも多くの庶民が生活している場所でした。

多種多様な民族が生活する商業都市サンパウロ、200年間ブラジルの首都として繁栄し、今なお国際観光都市としても賑わいを見せるリオ・デ・ジャネイロ、音楽好きの人々が暮らすサルバドール、広大なジャングルが残るアマゾンにあるマナウス、そして機能的な近代都市ブラジリアと5つの特徴ある都市を見て歩きました。それぞれの都市は違う国だといってもいいほどの全く異なる顔を持っていました。

しかし、その中で共通しているのは、人々は明るくとても親切だったことです。言葉のわからない私にも一生懸命いろいろ説明してくれますし、男性は必ず重い荷物を持ってくれます。地下鉄やバスでは席を譲ってくれます。それでいて興味半分で声をかけてくることはありません。ひったくりにあったりして怖い目にもあいましたが、ブラジルで暮らすのもいいかなーなんて思わせるほど私にとっては波長のあう国でした。

しかし、その一方で、この国の問題点も少しかいま見えました。実際はどうかわかりませんが、ブラジルは今すごい勢いで経済発展しているといわれていますが、その原動力になっている国民の購買力が盛んな原因は、健全な経済状態にあるのではなく、どのような品物でも月賦払いができるため、借金が増えているのだという意識がなくものを買いまくっているためだという指摘もあるのです。
そしてブラジル人の労働意欲の低さです。ここブラジルはいつも手の届くところに果物がたわわに実るような豊かな大地があり、川や海に行けば魚が取れます。たいした衣服もいらない熱帯気候、もしくは温暖な気候です。そのためブラジル人はそうあくせく働かなくてもいいんじゃないのと思っています。できればなるべく働きたくないと思っています。そして大のお祭り好き。祭りのためならどんな犠牲もいとわず一生懸命ですが、労働意欲という点では日本人とは比べ物にならないくらい低いと思います。

ブラジルには広大な国土があり、土地は豊かな農作物を生み出し、石油も出る。鉱物資源も豊富、川や海にはおいしい魚が住み、観光資源もいっぱいと、発展していける要素は十分です。ブラジル人がほんのちょっとだけやる気を出せば、ブラジルは底知れない可能性を秘めた、とんでもない国だと思います。でもやっぱり無理かなー。

犬狼詩集

管啓次郎

   5

海岸段丘の上で強い海風にさらされる
一本の樹木をプラテーロと見に行った
行ってみると樹木は老人だった
帰ることのできない老人なのだ
居住を合法化できないまま事実としてそこにいる
その事実において自然を肯定している方でした
「私はかつて種子として鳥の体内に宿りここに来た」
(それで「種子島」の語源すらわかった気がする)
伝えることのできない彼の言葉は
耳の長い私のプラテーロが翻訳してくれた
樹木は支配をめざさない植民者で
繁栄をめざさないひとりきりの群衆
ぼくは強い風に飛ばされそうになりながら
樹木の肌をそっと舐めてみた
樹木の肯定がざらざらと
風を摩し、宇宙を磨き、舌を傷つける

   6

草の反乱を鎮圧するために
牛百頭の群れが導入された
かれらはゆっくりと草をすり潰す
牛の胃の内容物と詩の内容物が
等価であると考えるなら
莫大なバクテリアが生産するアミノ酸に牛の巨体が育てられるように
詩によって育てられたのは何か
地質学的な時間は生物の尺度を超えるが
生命のはかなさには成長というはなやぎがある
詩にできるのはその予感をことほぐこと
燃焼という事実に感情的色彩を与えること
それからふたたび草そのものに帰り
その細胞壁の成長をじっと見つめるといい
草たちがミリ単位で上方に伸びてゆき
何も気にせず道端に寝そべる牛たちを
力強く、そっと天に近づける

クセナキ スの演奏から

高橋悠治

(これは近刊予定の Performing Xenakis, Pendragon Press, 2010 に書いた文章から思いついたこと)

逆年代順に言うと  Kyania(1990) を指揮したのが1992年だった 極端におそいテンポで密集した音の壁の向こう側にある光の予感 ピッチもリズムもない色をオーケストラの楽器で表現するパラドックス 絡み合った線や響きが空間を埋めて 空間も時間もない持続をつくろうとする エレクトロニクスやコンピュータではどうしても均質になってしまうが 異質な生の楽器音を重ねていくと 息づくような音の密林が生まれる しかもその響きはそれを聴くためにではなく その隙間からわずかに漏れてくる彼方の光(それが濃い青の領域というタイトルの示唆するものなのか ギリシャ語の kyanos はヒッタイト語源らしい ラピスラズリも意味するようだ)を感じるために置かれたハードルだという感じ カフカの「城」で 電話からきこえる城のなかのざわめきのように そこにあるのはわかっていても 辿り着くことはできない場所を 間接に描き出すためのメカニズム

おなじコンサートで演奏したマセダの Distemperament は調律された楽器をつかって 音律から逃れるための音のスクリーンだった アジア熱帯の密林の音 あるいはちがう村でそれぞれに調律されたガムランが風に運ばれて空で出会うような音楽 マセダはヨーロッパやアメリカでまなんだピアニストだったが フィリピンに帰ってルソン島の山腹に天から降りて来るような棚田を見たときに それまでのヨーロッパ音楽とこの風景とのちがいに目覚めて音楽学者になった オーケストラもそれぞれの楽器が ちがうタイミングと装飾で一つのフレーズを受け渡しながら織り上げる布のようだった

1970年代に演奏していたクセナキスのピアノとオーケストラのための Synaphai (1969) ピアノソロの Evryali (1973) には メドゥーサの髪にたとえられる一つの図形 枝分かれし成長していく木の見えない生命力の不気味さがある メロディーを一本の曲線としてではなく 断層の連結(これが synaphai の意味)とみなす 連続する音をわずかに切り タッチを変えて 線の一部ではなく 同時に織り合わせたたくさんの面の切り口として透視するならば 荒れた海を鎮める魔力(everyali の語義)に近づく

それ以前の Herma (1961) と Eonta (1964) では 密度を変えながら進行する二つ以上の面の出会いが 全域にばらまかれた音のあいだから一瞬見えるかたちを追っていく 疲れて手をうごかせなくなっても 意識的なコントロールを離れてまだつづく手の運動が 二種類の尺度(5連音と6連音)の網にかかった音を 耳が想像する音のかたちに仕立てては崩していく記譜のためのリズムの二重の格子がかたちを歪めるとしても 確率分布によって配置された音自体も すでに一つのシミュラークルなのだから その再現や 細部の精確さではなく 耳はそこにない彼方のものを聴いている

こうして書いていると それも一つの感じかたにすぎないと思えてくる クセナキスの作品を解釈するのか それともクセナキスを通して見たと思ったものを書いているのか

エレクトロニクスやコンピュータの不器用さと生真面目な能力にあきたらず 人間の集団である大オーケストラにもどると 今度はその心理学や組織につまずくし 権力や娯楽の社会的な機能に組み込まれ それら全部が経済に還元されてしまうようにも思える

一本の旋律が 情緒を運ぶ舟にならず 織り込まれた地層透視に展開できるなら 大オーケストラ機構を使わなくても 一人からはじまって増殖する音楽の感染力 わずかな音の多面性を考えてみようか