梅雨にはいると

仲宗根浩

五月の連休最後の日、法事で実家に帰っていた奥さんと娘を空港へ迎えに行く。
ふたりを迎え、空港から家にむかう。

空港からの道は58号線に合流する。左側に那覇軍港が見える。返還が決まった軍港のゲートはいつも開いている。ここはどのように変わるのだろう。十年くらいたったらなにかできているかもしれないしそのままかもしれない。

58号線、那覇を過ぎて浦添。左側のフェンスはキャンプ・キンザー。
ここも返還が決まっている。返還後は開発されるらしい。基地があるために残されていた海岸線は開発によってくずされる。

さらに進むと、宜野湾の伊佐交差点を右折する。
坂をあがると右側には北谷の海が見える。海はやがてキャンプ瑞慶覧のハウジングに視界を遮られ、今は誰も住んでいないフェンスの中の家々。少し奥のほうでは高いクレーンがいくつもたっていて何か新しい建物をつくっている。

普天間神宮を過ぎ、キャンプ瑞慶覧のPXも過ぎて、屋宜原のA&Wも過ぎる。
ライカムの交差点。右側は泡瀬ゴルフ場。返還が決まっているがなんだかんだで少し遅れるらしい。このゴルフ場のクラブ・ハウスはIDカードを持たない地元の人でも入ることができた。ドル紙幣さえあればアメリカン・サイズのチーズ・バーガーを食べられた。もう使われていないゴルフ場は草がかなり伸びている。
この交差点、過ぎるとすぐ沖縄市に入る。
プラザハウス、山里三叉路過ぎそのまま進むとゴヤ十字路。
左に行くと嘉手納飛行場の第二ゲート。ここからはもう家までは歩きの圏内。

連休明けて、六日に梅雨入り。雨が続いたあとの少し晴れた日、入道雲が出た。長い夏が始まる。だんだんと夏の暑さがこたえるようになったけど、まだクーラーのお世話にはなっていない。

テレビでは「抑止力」ということばが毎日のように、いろんなひとがいろんな立ち位置でいっているがぼんくらの頭では理解できない。理解しようとも思わない。

騒音対策。普通に建てた家の窓をアルミサッシにしたくらいで音が軽減できるわけじゃない。音は屋根を、壁を振動して入ってくる。戦闘機、ヘリコプター、輸送機。出す音は全部違う周波数。

ここではないほかのところの事に思える。錯覚、結局は他人事。

美(ちゅ)ら――翠ぬ宝68

藤井貞和

美ら 辺野古(へのこ)岬(みさち)
ならん いくさ基地
海人(うみんちゅ)ぬ 心(くくる)
舟(ふに)を守(まぶ)ら

八八八六(るく)ぬ
琉歌 湧(わ)ちぬぶい
海ぬ 守り神(かん)
ざん(儒艮)よ 遊(あす)ば

海人ぬ 旗や
抗議の 三千日
波ぬ 巻(ま)ち踊(うどぅ)い
命(ぬち)どぅ 宝

(上は「緑の虱(6)」〈琉歌の巻2005/4〉の再録です。、〈2010年5月〉28日、嘉陽のオジー(87)の言う、いつか「4度目の日米合意」があると。深夜になり、福島瑞穂、「沖縄を裏切れない」。喜納昌吉、『沖縄の自己決定権』(未来社)に、「この本で世界が変わる」。――〈4月〉25日、沖縄県民が意見を一つにまとめた英知。それから一ヶ月、じっと見ているのですが、ヤマトは冷たくて、冷酷で、沖縄に対して、ほんとうに差別感があるのですね。ふつうは出てこない、差別感情が、ヤマトにはあるんだ、沖縄への。信じられないけれど、この一ヶ月、ヤマト人が、ちらちら覗かせる底知れない悪意にふれて、その場では平然と(ときには口汚く)、私は帰宅して何度か泣きたく。悲しいね。何もできないんだな、これが。ヤマトのなかには、そう(沖縄のなかで)言われて来たことはほんとうなんだ。何としても政権離脱をしないように、というのが私の意見です。たかが対米交渉でヤマトが割れることぐらいみっともないことはない(沖縄、そして徳之島を見習うと)。50年という安保体制。困難をきわめるぐらい、みんなで許し合えるのでなければ。……でも、福島氏の顔がこんやは輝いてる、「沖縄を裏切れない」って。罷免を受けいれてよいと思います。政権離脱もやむをえないと、いま許すきもちになりました。さいごまで連立の道をさぐり(小異を捨てて、何とか可能性をひらく、というのがこれまでの沖縄のがまんでしたから)、「4度目の日米合意」(嘉陽さんがちゃんと見ている)へと希望をつないでゆくことがいまだいじでしょう。でも、どうしても政権離脱以外に道がないなら、それなりに福島氏の自己決定権であり、尊重しましょう。5月29日朝)

核廃絶

さとうまき

5月、NYに行くことになった。核非拡散条約の見直し検討会議NPTが開催される。昨年オバマ大統領が、「アメリカは、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として行動する道義的責任がる」とし、「核兵器の無い世界の平和と安全保障を追及するという米国の約束を表明する」と宣言した。

アメリカの大統領がいうのだから、核兵器が本当になくなるかもしれないし、5年に一度のNPTの会議でも、核兵器廃絶に拍車がかかるのではないかと期待する。日本からも多くの被爆者の方々が、高齢化したこともあり「これで最後だ」とNYで核廃絶を訴えるために渡米したのだ。私も、歴史的な瞬間に立ち会いたいとNYへ出かけることにした。

直行便は席が無く、ミネアポリスで乗り継ぐことになったが、出鼻をくじかれた。僕のパスポートには、シリア、イラク、ヨルダンなどのアラブ諸国のスタンプがたくさん押してある。「なんですか、これは。こちらへきてください」僕は、別室に連れていかれ、4時間くらい尋問され(というよりは、待ち時間がほとんどだったが)なんとか無事に入国はさせてもらったものの、乗り継ぎ便を逃してしまった。同盟国のはずなのに、ひどい扱いである。

それでもNYにたどり着くと、NGOの主催のワークショップなどに参加したのだが、国連の事務総長の講演も聞きにいった。場所が良くわからず、案内の人に片っ端から聞いてまわっていると、なぜか一番前の席に案内してくれた。隣には、広島からやってきた森瀧春子さん。彼女は、核兵器廃絶とともに劣化ウランの廃絶運動も積極的にされている。
「バンギムンさんに要請書をわたさなければ」という。
「アポとっているんですか」
「いや、忙しくて、時間が無かったのです。」
そりゃ無理でしょう。何とかしてあげたいのだが、僕は、事務総長には会ったことも無いのである。

実際、SPらしき人が何人か、客席の前に陣取って監視している。立ち上がって写真を撮ろうとしただけで、注意されるのだ。これでは、近づくのも難しい。現在の事務総長は、なんとなく存在感が無いような印象を持っていたが、スピーチそのものは素晴らしかった。要請書をわたすのなら、降壇する瞬間が狙い目。SPの目をごまかすのには、僕がSPになればいいのだ。

「森瀧さん。今ですよ」僕は、彼女に耳打ちすると、たちあがって、彼女をエスコートした。「さあ、こちらです」
その瞬間、道が開けた。SPは、森瀧さんのことをSPにエスコートされた要人だと思ったのだろう。100メートルの直線をだれもさえぎらず、降壇する事務総長に真っ直ぐとつながったのだ。森瀧さんが事務総長に書類を渡し終えたころ、要人たちが握手を求めて殺到した。作戦は見事成功!

5月2日には、核廃絶を求める大規模なデモがあり、日本人もたくさん詰め掛けて、盛り上げた。それに参加したけど、翌日の新聞には、なにも出ていない。さびしい限りである。

先日、NPTの再検討会議は、最終合意文書を発表した。「中東地域の非核化に関する決議」の実施に関して、国際会議を2012年に開くことを盛り込み、イスラエルによびかけた。案の定イスラエルは、参加しないといっている。核兵器の廃絶、まだまだ道は遠い。

アジアのごはん(34)山椒マイラブ

森下ヒバリ

五月は、緑がきれいだ。
山や野の緑だけでなく、食卓にのぼる緑もうつくしい。ワラビ、こごみ、山ぶきなどの山菜。やわらかなリーフレタス、ぷくぷくふとったスナップえんどう、はじけそうな実えんどう。タケノコに添える山椒の葉。

今年の山椒の実もそろそろだろうか。山ぶきはもう八百屋の店先に出た。山ぶきを見ると、きゃらぶきを炊きたくなる。きゃらぶきというのは、山ぶきの佃煮である。山ぶきは普通の栽培種のふきより細いふきで、五月の始め頃から店先に並び始める。京都ではたいがい、実山椒を一緒に炊き込む。山ぶきと実山椒は出会いもので、絶妙の味のコンビである。わが家ではこのふたつはけっしてはずすことの出来ない組み合わせだ。さらにちりめんじゃこを参加させると、完璧。

しかし、山椒の実が出るまで大人しく待っていると、いつのまにか山ぶきの姿が消えていたりすることもあるので、うかうかできない。山椒の実が店頭に並ぶのが五月末から六月前半のほんのいっときのせいである。ふたつが同時に店頭に並ぶ保証はないので、山ぶきを見つけたらすかさず買う。そして、まだ山椒の実が出ていない場合は、去年の山椒の実をつかって、きゃらぶきを作ることになる。

かつてタイミングを逸し、きゃらぶきのない六月を過ごしたわたしは、山椒の実を保存することを考え、生のまま冷凍してみた。冷凍するとかなり長い間風味が持つ。これで、好きなときに実山椒が使えるぞ。冷凍保存が一番の策かと思えたが、去年、友人が別の保存方法を教えてくれた。生の山椒の実を、みりんに漬け込むというのである。
「ええ、みりんに〜? 生のままで?」「うん、どうせ、みりんもいっしょに使うでしょ」
たしかに。山椒の実を使う料理は、わが家の場合、きゃらぶき、タイのあら煮、いわし煮、鳥きも煮…。はい、たしかにどれもみりん使います。あまり期待せずに小瓶に半分ほど山椒を入れ、みりんを注いで冷蔵庫の奥に置いておいた。

五月のタイは、すさまじかった。
元首相のタクシンを支持する人たちの連合UDDが3月半ばからバンコクに集まって、バンコク一の繁華街を占拠していたのだが、ついに政府が軍隊を使って強制排除を行った。そのときに、UDDの幹部は解散・撤退を表明するも、納得のいかない過激派、そしてそれに乗じた暴れ者たちが街に火をつけ、略奪を繰り返し、銃を乱射したのである。

UDDのシンボルカラーは赤だったので、タイではUDDのことを、ただ「スア・デーン(赤シャツ)」と呼んでいる。3月半ばに初めて大規模な赤シャツ集会が催されたときは、わたしもまだバンコクにいた。赤シャツ集会に参加すると、地方では一日200バーツ、バンコクでは500バーツの手当てが支給された。スポンサー(タクシン派)からのお金の切れ目が集会の切れ目だろうと、タカをくくっていたが、なかなか終わらない。

バンコクでいつも泊まる宿の近所の顔見知りのおじさんが、「赤シャツ集会に行ったか? 楽しいぞ!」とまるでレジャーに行くように誘ってきたのにはまいった。集会に行って、叫んだり、騒いだりしてすっきりしたうえにお金がもらえるのだから、楽しいのか。

しかし、バンコク一の繁華街にデモ隊を移動させ、その周辺を占拠したあたりから、UDDはどんどん武闘派や強硬派に牛耳られ、暴力的集団になっていく。ちなみに占拠したラチャプラソン交差点周辺というのは、東京で言えば渋谷と新宿を足したような場所であり、京都で言えば四条河原町の交差点である。

日本や欧米では、タクシン元首相が選挙で選ばれた正当な首相であるとか、そのタクシンを支持するグループの赤シャツ派は、つまり民主主義を要求しており、非民主的な政府に反対している農民や貧困層を中心とした民衆であると思われていることが多い。しかし、タクシンはやり方のうまいフィリピンのマルコスである。民主的な方法で選ばれた首相であったというのも幻想。金で買った票である。だいたいタイの地方の選挙は金で動いており、資金力のある人間が政治家になる仕組み。

タクシンは汚職を裁判所でさばかれ、有罪になり資産もある程度没収されたのだが、海外に隠し持っている資産や、妻や家族名義の資産は没収されなかったので、相当の資産がタクシンの元に残っているはずだ。この莫大な資産は、まっとうに携帯電話事業などで築いたわけではなく、国家元首の地位を最大限に利用して儲けたものである。法律をねじ曲げ、利権を独占し、賄賂を集めて築いた。

いくら、目先のバラまき政策がうまいといっても、国家を利用して私腹を肥やす男に、なぜタイでこれだけの支持が集まるのだろうか? ただ、金で雇われて集会に来るだけでは、いくら集会でタクシンを理想化し、現政権の悪口を言い募って洗脳しても無理があろうというものだ。

タクシンを支持する人は「金を儲けて何が悪い」「金儲けがうまいのは偉い、すばらしい」と思っているので、有罪になっても、彼の何が悪いのか理解できないのではないか。考えてみると、タイという国の成り立ちからして、集落の有力者が集まって、小さな連合を作り、その連合が集まって国家に近い邦を作り、それが……というものなのだが、この有力者というのは常に金持ちである。金が有れば戦力ももてるし、田んぼを耕す人を雇える。タイが国家らしくなった頃、王とは国一番の金持ちであり、外国との貿易を牛耳る商人であった。この延長で、現在の王家があるのだから、タイ人の一般的なメンタリティとしては、当然、金持ち=偉い人、ということになる。

日本では成金とか成り上がり、というと軽蔑や卑下をともなうが、タイにおいて成金とは、一代で財を築いたすばらしく有能な人物、という肯定的評価だ。もちろんタイの経済界を牛耳る中国系の考え方でもある。つまり、(法律を犯しても)大金持ちになりさえすれば、そのひとは偉大なのだ。となると現政権のアピシット首相などはいくらオクスフォード大学の修士でも、名門貴族で医師一族の出身でも、スーパー大金持ちではないのでダメなのかも。

それにしても、今回の騒乱で多くの死者も負傷者も出た。街の被害は甚大である。ぎりぎりの局面で、妥協した政府の出した和解案を一度は受け入れたUDDが土壇場で拒否したためである。そのときパリで買い物三昧の生活を楽しんでいたタクシンが、UDDの幹部にノーと言ったからだ。ノーといえば、死傷者が出ることは分かっていた。だが、強硬手段に出ればむしろ批判は政府に集まるので、タクシンにとっては好都合だった。

なぜ、ここまでしてタクシンは返り咲きたいのであろうか。もちろん、犯罪をなかったことにして、またタイの権力を握りたいから。そして権力を利用してもっともっとお金を儲けたいからである。タクシンが儲けているお金が、じつはじぶんたち国民の下から集められているということに、UDDに集まった人々は気づくことがあるのだろうか。

細く刻んだ昆布でダシを取り、そのまま3センチぐらいに刻んだ山ぶき入れて煮る。よく料理の本には下茹でして水にさらしてアクを抜けと書いてあるのだが、そんなことはしない。今の時代に八百屋で売っている山ぶきにアクはあんまりないので、下茹ではしないほうがおいしいと思う。手間もかからないしね。きのこ、ちりめんじゃこを加え、醤油、みりんで味つけして、コトコト煮る。
そして、みりんに漬けておいた山椒の実を加える。山椒の実の入ったビンを冷蔵庫から取り出してふたをあけると、ふわあっと予期せぬ香りが立った。うわ、なんだこの優雅な香りは! まるで、バラのようなうっとりする匂い。みりんのほかに何も入れてないのに、なぜバラのような香りがするのだろう。

そういえば、バラにはゲラニオールという香味成分があるが、山椒の実にもゲラニオールが含まれている。香りは、さまざまな香味成分の組み合わせで、わずかな成分の違いがまったく違う香りを作る。生の山椒の実からバラの香りはしないし、想像したこともなかった。みりんに漬かっている間に、何が起こったのだろう。う〜ん、ミラクル。

出来上がったきゃらぶきは、口に入れると、うっとりとする香りがかすかに喉を通り抜ける、絶妙の味。山椒のみりん漬け、素晴らしいぞ!

しかし、その後二回目に作ったきゃらぶきは、山椒のみりん漬けを気前よくたくさん入れすぎ、見事にバラの香りがぷんぷん。香水みたいで食べにくいったらない。ああ、過ぎたるは及ばざるが如し・・。

終りのない欲望にとりつかれたタクシン。喉の奥を通りすぎる微かな香りにうっとりするようなシアワセは、けっして感じないのだろうな。

最後のメキシコ便り(33)

金野広美

長い間みなさんに読んでいただきましたメキシコ便りもこれが最後、私は今帰国の途につきアトランタでの16時間の待ち時間に最後のメキシコ便りを書いています。

メキシコに来た時には全くいなかった友人も今ではたくさんでき、一人ひとりとの別れの挨拶はとてもつらいものでした。いつも大学のキャンパスで会話の練習にと時間をとっておしゃべりをしてくれた、インディヘナ・アートのクラスの友人アドリアーナ、トイレでさいふを拾ったことから友だちになり家族ぐるみのつきあいをしたバネッサ、「今度はいつくるの」といつも聞いてくれ、メキシコ料理の作り方を教えてくれたデルフィーナ、「メキシコの歴史と政治」のクラスで知り合ったラウラはメキシコの現状や問題点について、常にわかりやすく説明してくれました。また私のクラスに教育実習に来て親しくなったタニアは毎回進級のためのオーラルテスト(みんなの前で5分間話すもの)の下書きを添削してくれました。全過程を無事に終了できたのも彼女のお陰だと思っています。また、日本語とスペイン語をお互いに教えあい両国の文化について語り合ったエマ。サルサ教室で知り合いよく一緒にディスコに行ったロサルバとアロンドラ姉妹。私のアパートでトラブルが起こった時、助けてくれた、となりのマリオ。そして若いミゲルは私にメキシコの負の部分も知って欲しいと貧しい人々が住む地域に彼のお母さんとともに案内してくれました。

彼のお母さんは通りで物売りをする母親のために寄付を募り、保育所を建設し運営しています。ミゲルは保育所で子供を預からないと子供が通りに放り出され、いつしかドラッグに手を染めてしまうといいます。彼はその保育所でギターを教えたり、そこで開かれるさまざまな勉強会に積極的に参加したりしながら、保育所運動の必要性をいつも熱っぽく語りました。若い彼が一生懸命に少しでも社会をよくするためにと活動している姿は、とてもすがすがしく頼もしいものでした。そんなミゲルがある日、メキシコ・シティー近郊のトルーカにあるプレイスパニコ(スペイン人がメキシコにやってくる前の時代)から続いているテマスカルと呼ばれるサウナ風呂につれていってくれました。

大きなセメントで作られた直系5メートル位の円形のサウナで、中央で炭が燃やされます。約50人位の人が中に入り壁に沿って座ります。家族連れもいて7ヶ月位の赤ん坊もいます。そしてなにやら巫女のような人のお祈りのあと中は真っ暗になり、笛や太鼓の激しい音が鳴り出しました。すると赤ん坊が激しく泣き出しました。それは当然です。真っ暗な上に赤ん坊にとっては恐ろしげな音楽なのですから。そして20分たつと明るくなり、音楽も止み、赤ん坊も泣き止みました。他の人たちは汗だくになり外で水をかぶったりしています。

20分サウナ、10分休憩を4回繰り返すのだそうです。私は赤ん坊のお母さんは外に出てきっとそのまま帰ってこないだろうと思っていましたが、彼女はまた赤ん坊を連れて中に入ってきました。そして再び真っ暗と激しい音楽、赤ん坊の泣き叫ぶ声、私はリラックスするどころか、たまらなくなって耳をふさぎました。

20分が過ぎ私はミゲルに「なぜあのお母さんは子供があそこまで泣き叫んでいるのに平気なの? そして他の人たちはなぜ誰も注意しないの?」と聞きました。するとミゲルは「あの家族はこの辺りに住むインディヘナだけど彼らとは文化が違うのだよ」といって、自分は熱すぎて4回も入れないからと出て行ってしまいました。私はその答えに納得できないままサウナに残りましたが、またもや始まる激しい泣き声。思い余って次の休みに赤ん坊の母親に「あなたの赤ちゃんはこんなに怖がっているのに、どうして泣かせたまま放っておくの」と聞きました。すると彼女は「ずっと抱いているけど泣き止まないのよ。子供は泣くものだから」と平然というのです。私はその答えにびっくりしてミゲルにいうと彼は「さっきも言ったように彼女たちはずっとそう考えて生きてきているんだし、イスラムの人たちが豚肉を食べないのと同じで文化が違うのだから」といいます。

しかし、私はこれは文化の違いの問題ではないと思うのです。それは彼女に子供の気持ちを考えるという思考方法がないからで、これは教育の問題だと思うのです。確かにそれぞれのインディヘナたちの持つ文化、習慣を重んじるというのは大切なことですし、文明の名のもとに進める近代化がすべて良いとも思いません。しかし、こればかりは違うと思います。子供にとって幼いころの恐怖体験は、きっと心に傷を残すし、そんな子供の心理を学ぶという教育が彼女たちには必要だと思うのです。

このできごとにも見られるように、メキシコには教育の欠如、不備による多くの問題があります。平気でゴミを道端に捨てる人、最後まで責任を持って仕事をしない人、駐車場と化している道路でこずかい稼ぎをする警官、いつまでたってもなくならない政治家の腐敗、保身と蓄財しか考えていない労働組合の幹部などなど、いいだしたらきりがありません。

親が子にしっかりと人間としてのエチケットやマナー、責任感について教えられない家庭教育。また、学校の施設が足りないため午前と午後の2交代制で十分な勉学の時間がとれない学校教育。こんな中では人間としての豊かな感性を磨き、人としてどう生きるべきかを学ぶための時間などは当然削られてしまいます。そして、ただ同然の国立大学(ちなみに私の通っていた大学はメキシコ人なら年2ペソ、約16円です)は、あまりにも狭き門で、私立は高すぎるという大学教育の現状、メキシコではわずかの秀才かお金もちでない限り大学まではなかなか進学できません。

これらのことをみるにつけ、トータルな人間教育がここでは十分できていないのだという気がしてくるのです。国の根幹をつくるのは教育だといわれますが、そういう意味ではメキシコはかなりお粗末な状況にあると思います。

この話を友人のラウラにすると、彼女は「メキシコは生まれて200年の若い国なので、まだまだ発展途上にあり国としての成熟が遅れているのよ」といいます。「え? 200年? メキシコには紀元前からの歴史や文化があるじゃない」というと彼女は「それらは文化遺産としては残っているけれど、スペイン人がメキシコを征服した時、私たちの歴史を証明するものはすべて焼き尽くされ、我々の歴史としてはスペインから独立した後の200年しかないのよ」というのです。うーん、なるほどそういう見方もあるのかと妙に納得させられてしまいましたが、そういえばミゲルも「この国が変わるにはあと3世代100年はかかる。スペインに征服されていた期間と同じ300年はかかる」といっていましたが、私は彼に「メキシコ人はなにごとにもゆっくりだからあと100年じゃ無理よ」なんて茶化したりしましたが、それにつけても300年に及んだスペインの征服。この征服がメキシコに及ぼした大きすぎる影響について別の友人のエマとこんな話になりました。

ある日、私が常日頃感じていたメキシコ人についての疑問をエマにぶつけた時のことです。その疑問というのはメキシコ人はとても我慢強いというか、なかなかお上に対して抗議行動をおこさないのです。いつまでも放って置かれている道路の大きな穴や、出っぱった杭、これらをを直すように役所に文句をいう人はいません。4日も5日も断水が続いても、水が出るまでだまって黙々と水運びをします。けた外れに荒っぽい地下鉄やバスの運転にも何も言わず耐えています。のろのろした役所の仕事ぶりにも長い列をつくってひたすら待ちつづけます。

私はエマに「いったいどうしてメキシコ人は我慢するの? なぜ抗議しないの?」と聞きました。するとエマは「抗議をしても無駄、何も変わらないとあきらめているのと、それにも増して権力にたてつくのが怖いという気持ちがあるのよ。そしてこの恐怖心は300年に及んだスペイン征服時にメキシコ人にすりこまれたものなのよ」というのです。そして「あまりに長い期間だったのでいまでもお上は恐ろしいという気持ちがなかなか消えないのよね」と続けました。うーん、そういえばメキシコ人はよく思い通りにならない時に、ニモド(仕方ないね)といいます。いつもこの言葉を使ってあきらめてしまい、あまりものごとを深く追究しようとはしません。そしてフィエスタで飲んで、しゃべって、踊って忘れてしまいます。

しかし、私は今はもうスペインの征服者は居ないし、おまけに現代に生きる人たちが、まだその恐怖を覚えているというのはどうにも納得できません。彼らがあまり抗議行動をしないのは恐怖心の記憶というより、私には別の理由があるような気がするのです。それはメキシコは1810年にスペインから独立しましたが、依然として、うっとおしい他国による征服状況は続いているのではないかと思うのです。というのはスペインは去ったけれど、代わりに米国が今、メキシコ経済を牛耳るという形で領主国のようになっているような気がするのです。大きなスーパーマーケットやホテル、レストランチェーンをはじめとしてたくさんの米国資本がメキシコに入り、利潤は米国に持っていかれます。そしてまた、危険を覚悟の上で多くの人が国境を越え、米国に出稼ぎしています。家政婦をしたり、工事現場で働いたりする彼らがメキシコに送金してくるドルはいまやメキシコ経済の大きな支えになっているのです。米国がくしゃみをするとメキシコは風邪をひく、といわれるほどメキシコの経済は米国によりかかっているのが現状です。スペイン人による破壊、略奪、暴力という征服のやり方とは変わりましたが、経済生活における相変わらずの他国による圧迫感と閉塞感があきらめの感情を呼び起こし、それがなかなかプロテストできない原因のひとつになっているのではないかと思うのです。

しかし、このラテンアメリカに共通する図式は今ブラジル、チリ、アルゼンチン、ベネズエラ、ボリビアなどの動きとあいまって少しずつ変化が現れてきています。困難さはともなうでしょうが、いつの日かメキシコがスペイン300年の呪縛と米国のくびきから解き放たれ、名実ともに明るい「太陽の国」になって欲しいと切に願います。

思えば2年5ヶ月前、メキシコに着いた時、言葉のできない異国で一人でやっていけるのだろうかという不安感と、しかし、来てしまったのだという開き直りが交錯する中での武者ぶるいにも似た感覚ではじまったメキシコ生活でした。

右も左もわからないまま行った大学はあまりに広すぎて入り口を探すだけで何時間もかかったり、構内バスに乗ったはいいけれど同じところを何度も巡回して地下鉄の駅にたどり着けなかったりと、散々な目にあいながらも私の学生生活は始まりました。先生のいうことはさっぱりわからず回りは欧米から来た若者ばかり。みんなよくしゃべり、理解できているように見えて何度も落ち込みました。彼らの何倍もやらなくてはついていけないと悲壮な気持ちになりましたが、逆にいうと何倍かやればついていけるのだと思い直し必死で勉強しました。毎日12時間はやったでしょうか。私は今60歳、世に言う還暦です。友人たちは記憶力がなくなってきた。集中力が落ちてきたと嘆いていますが、私は自分でもびっくりするほど記憶力が増し、若いころより数倍も集中して勉強できるようになりました。メキシコに来るまでは能力低下を年のせいにする傾向がありましたが、今では若いころに流行した根性論ではなく本当に「やればできる」と思えるようになりました。やりたいことに対する深い思いとそれをやれる環境をどうつくれるかで、いくら年をとっていても「やればできる」のだと思えるようになりました。もちろん強靭な身体に産んでくれた両親に感謝しつつ、この自信でこれからはあまりいいわけをしない人生を歩んでいきたいと思っています。

時にはメキシコ大好き、時にはメキシコ大嫌いとさまざまな思いが交錯したメキシコ生活でしたが、メキシコは私に学ぶことの喜びと大きな自信、そしてすばらしい友人たちを与えてくれました。私にとっては人生の中でもっとも充実した2年5ヶ月だったと思います。めまぐるしくいろいろなことがありましたが、今ではメキシコだーーーーーーい好きです。

マニラより

冨岡三智

5月27日からAPIフェローシップ(日本財団)の10周年記念式典で、フィリピンはマニラに来ていて、いま、ホテルのチェックアウト直前にこの原稿を書いています。昨日30日に、フェロー・アーチストによる作品展があって、日本人フェロー4人でコラボレーション・パフォーマンス作品を上演させてもらったので、その紹介だけをここで少ししておきます。このイベントの詳しい内容は来月にまた書けると思います。

作品タイトルは「クロスオーバーラップ」。クロスオーバーとオーバーラップという単語を1つにした造語です。作曲は田口雅英、パーカッションが伏木香織、舞踊がタイ舞踊がベースの岩澤孝子、ジャワ舞踊がベースの私、そしてフェローではなく現地からのゲストプレーヤーとしてCriselda Peren、若くて愛らしい女性です。アジア、伝統、西洋、コンテンポラリ…といったものが、私たちの身体を通して、思いがけない方向へとクロスオーバーし、波紋のような感じでオーバーラップして出てくることをテーマに作品が作られています。

会場は、この10周年記念式典も行われたアテネオ大学の構内にあるアート・ギャラリーの中です。この会場には他のフェローの写真や映像作品も展示されています。そこで、インスタレーション的な作品として、通りすがりに見てもらうような感じとして36分余りのこの作品を作ったのですが、ばらばらに到着するバス(この日は展示会場があちこちに分散していて、フェローはバスでそれぞれの会場を巡ることになっていました)が一度に到着してしまい、さらにアカデミックなフェローたちには、作品は最初から最後までじっと息をひそめて見るもの、という気持ちも強かったのでしょう、結局最初から最後まで大勢の人たちに囲まれて、じっと動物園の動物を真剣に見るような感じで見られてしまいました。それもありなのですが、じっと見ているのはつらかっただろうな、と、ちらっと脳裏を横切りました。

というわけで、そろそろチェックアウトタイムなので行きます。

作品作りの前にいろいろと事務的なレベルで様々なすったもんだがあり、上演できるのかどうかが危ぶまれた上に、リハーサルをしていた会場では、ライトの位置を調整しようとして照明レール自体が外れてしまったり(本番中にライトがレールごと落ちてこなくてよかった…)という、フィリピン人のアバウトな準備ぶりにいらいらしていたので、ともかく実施できて良かった、無事終わって良かった…という安堵感にいま浸っています。

作曲のメモ

笹久保伸

楽譜には音符を書かず
奏者の演奏(パフォーマンス)を助けるための○○○を書く(もしくは準備する)
奏者はその○○○に助けられながら 自分で作品を作りあげてゆく
作品は奏者によって その内容が変化してゆく
しかし 即興ではない
作者は「作曲」という作業の中で 奏者の手助けをし
奏者は演奏という作業の中で 作者の手助けをする
作者は奏者を作品内へと導く
奏者も作者を作品内へと導く

作者の意思を(石を)奏者が表現するとか そういう事はしない
また個人的感情を(しかも知らない人の感情を)一度紙に書かれた記号をまた音に出し 他人に押しつけるというのは あまり

また奏者は作者のために演奏している という精神もあまり

作者と奏者の距離感を一度考えてみる
どうしても作品やその演奏―演奏会などの活動は「共同作業」の中で成立する  

○○○とは何でしょう(三文字でなくても良い)
この場合は「指示」というのはだめ 指示は上から落ちてくるし
大体一方通行になって ある一定の形がきまってしまう
「テーマ」ってのは普通すぎる
「合言葉」とか「ひみつ」 くらいがいいか

しかし料理の本を見ながら料理しても 本から味はわからないし
本のようにはならない
もし本に書いてある通りに作ったとしても
「本の写真にある料理の味になったか」 を確かめる事は
著者と読者の関係性ではなかなか難しい
著者が死んでいたら会えないわけだし
料理なら一度覚えて自分で勝手に作ったほうが都合がいい
即興性がある

しもた屋之噺(102)

杉山洋一

ミラノのスカラ座劇場のほの暗い控室は、フィーロドランマーティチ通りに面した2階にあって、深紅の猫足の長椅子に身体を横たえ目を閉じていると、ちょうど通用口の真上辺りだからか、外から聞こえてくる演奏者の話し声が耳に心地よく、薄い眠りを誘います。あまり広くない控室には、年代物の大きな仕事机と猫足椅子、そしてこのモケット張りの旧い長椅子に、スタンウェイのアップライトピアノが置かれていて、通りに面し大きな半月の明かり窓が開けられています。よく磨きこまれた洗面台の鏡には、スカラ座の印章が彫りこまれていました。

今月はしばらくスカラ座アカデミーの現代アンサンブルと仕事をしていて、昨日スカラ座での本番が終わったところです。リドット・トスカニーニと呼ばれる小ホールのちょうど真中に、品がいいとはいえない黄金のトスカニーニの像がプッチーニと相対して鎮座していて、その傍らのボックス席に潜り込み、次の舞台の大道具が組み立てられる様子を眺めつつ出番を待っているとそれは面白くて、子供のように心を躍らせ見入ってしまいました。

昼過ぎのリハーサルが終り、劇場の食堂で音楽部長のダニエレと食事をとっていると、同じく昼休みになったところなのか、周りは練習着ののバレエダンサーに埋め尽くされて、バレエが大好きな息子が頭を過ぎり、しばらくぼんやり彼らを眺めていました。

「バレエが美しいことは確かに認めるけれど、彼らのストイックな人生は人間らしさとは程遠いものだから」。
傍らでダニエレが呟きました。
「自分の子供にはやらせたいとは思わないな。週末も正月もお盆もクリスマスもなにもない。他の連中が休んでいる間も、毎日劇場に来ては稽古をする。しなければ身体が駄目になってしまうからね。その上、スカラに来るようなダンサーは、みな子供のころから競争のストレスに晒されているのだし。いずれにしても、音楽家とは比べ物にならない大変な職業さ」。

今月練習に通っていたスカラ座アカデミーは、スカラ座からほんの少し下ったヴェッキア・ミラノと呼ばれる旧市街の一角、サンタ・マルタ通りにあって、何番教室、何某教室といかめしい古い看板が架けられているので、昔は何か別の学舎だったに違いありません。

廊下を進むとあちこちの教室の扉が開け放してあり、さまざまな授業風景が垣間見られるのも愉快な経験でした。毎朝ずっとマネキンの頭部と真剣に向合っているカツラのクラスから、ライブ録音専門技師のクラス、化粧台の前で白塗りされるメーキャップ・クラス、衣装を作るクラス、とヴァラエティに富んでいます。当然、オペラアリアのレッスンも聴こえてきますし、バレエや児童合唱のクラスもあるそうですから、どこかに大道具や小道具クラスもあるのでしょう。練習風景を撮りに来る写真科学生もいれば、本番も録音技師クラスの実施授業として、見事に録音されていました。

オペラという総合舞台芸術を学ぶアカデミーに、何故現代音楽アンサンブルがあるのか不思議に思いましたが、微塵も無駄には使われていない印象を受けました。スカラ座という晴舞台が与えられれば、演奏学生も奮起するでしょうし、文化省の学校改革、教育カリキュラムに縛られた国立音楽院では対応しきれない、現実のニーズに則した学校体系が実現できるのでしょう。

ちょうど去年の春、大凡同じ世代の音大オーケストラと東京でご一緒したのを思い出しつつ、また違う土壌で音楽を学ぶ若者と演奏会を共有できたのは刺激的で、自らの未熟さを改めて痛感する上でも、実に有意義な時間でした。

その昔は、研鑽を積み重ねて自分の表現に到達できるものと信じて疑わなかったものですが、或るときから、教えられて学ぶことと、自分が自ら表現したいこと、つまり自分の意志で思考することは、平行に伸び続ける一対の鉄路のようなものではないかと考えるようになりました。教えられて学んだことだけでも脱輪してしまうし、自分の表現だけ追及しても脱輪してしまうので、二本のレールに渡された車輪のバランスをとりつつ、学んだことから自分の表現を見出そうとする推進力、表現したいことを実現する技術を磨くために学ぼうとする推進力、この二つの力によって前に進むことが出来るのではないか、とそんな気がしています。

先日1年半ほど前から一緒に勉強しているMより、チューリッヒ音大マスター入試が、及第点で通過したものの席が空かず次点に終わってしまった、この間の自らの成長は実感できるけれども不安に感じることも増えてきていて、今さらながら自分の個性は何なのか考えてしまうというメールを受け取り、2本のレールの話を思い出したところです。

旧市立のエミリオの指揮クラスが閉められ、放出された生徒のため寺小屋を始めて2年が過ぎましたが、耳の基礎訓練のクラスのため旧市立には今年も細々と通いました。2年前にエミリオを解雇した学長は5月をもって解雇されました。
「とにかく今はお前が何らかの形で名前を残していることが大切だ。この状況下では今すぐにどうにもしようがないが、きっと将来機会が見つかるかもしれない。それまでとにかく粘ってくれないか」。
疲弊した学校再建を任されたアンドレアからメールが届きました。

Mと同じように不安にかられながら昔エミリオの下で学んでいた頃と、状況は大差ないのかも知れません。頼るものなど皆無で、果たして道が正しいかすら判然としないまま、乳白色に煙る深い朝霧のなか、風に揺れるへろへろの高い吊橋を、小刻みに震えつつ、今も毎日渡り続けているのですから。

(5月31日ミラノにて)

犬狼詩集

管啓次郎

   7

目に見えない情感を語るのが抒情なら
そのための最適の速度をどうやって調整しようか
南方の沙漠から窓辺にやってくる蜂鳥が
空中で静止したり急に方向転換したりするのを見た
ブーゲンヴィリアが炎のように成長する
だが史実はそれ自体としては現在に及ばない
緯度と体感温度の戦いではつねに緯度が敗北する
経度は経典の正統性に非関与に留まる
映像はかつて事実に密着したというが
ペルナンブコの正午の海岸におけるポルトガルの
ユダヤ人とオランダのユダヤ人の口論については
何の情景も覚えてくれなかった
精霊のフィルムは未だに露出を知らない
修道女は私的なカタコンベでの抱擁を拒絶した
名前を知らない十七世紀の果実が道端に落ちて
甘く腐った匂いをいまも漂わせている

   8

鳩が海から帰ってくる
この砂浜の太古からの経験に
枯れた流木が散乱する荒れたさびしさを
小さな足取りで点検するために
灰色の空と鉛色の波のあいだで
光として点滅しつつ
この世界に打ち込まれた懐疑を探している
彼女、荒涼の天使は、そんな懐疑に責任をもつからだ
別の鳩が山から帰ってくる
渓谷を分割する気流の分かれ目をついて
遡上する魚たちの試みを励ますように
生殖の塩のイオン交換を調査したらしい
(群れはこれから梯子により登山する)
広葉樹と針葉樹が陽光をめぐって戦う
その入り組んだ緑を羽根裏に映しながら
彼女はあらゆる懐疑の彼方にふわりと着地する

Proteze ou baba

くぼたのぞみ

その海できみはなにを見たの 
偶然にも 迂回して立ち寄ることになった ちいさな島
泊まったのは 屋根が藁葺き 壁もポーチの四角い柱も 
真っ白に塗られて ちいさな高窓をくった 瀟酒なコテージ

インド洋の真珠 モーリシャスのホテルの
レセプションカウンターには 流行ではないのだ たぶん
男はかくあるべし といった風情で髭をたくわえた 
黄色いシャツ姿の男が2人いて 人差し指を
鼻の下にあてがった1人が なにやら
考え込むようにして 相方の作業をじっと見ている

浜辺では コバルトブルーとはこういう色
と主張する海と すばらしく晴れ渡った空に抱かれて
ひろった記憶のなかの砂は 黒い土の砂ではなく
ふぞろいの白いビーズのような 珊瑚や貝殻の細かな砕片 
波に洗われ エッジはすべて失われ 手のひらを切ることもなく
しゃらしゃらと ひたすら しゃらしゃらとこぼれ落ちた

Proteze ou baba──そう書かれた 2ルピーの記念切手が 
出さずに終わった火炎樹の絵はがきに いまも3枚貼られたままだ
クレオール語の意味も いまならわかる 
赤ちゃんを守ろう 結核 百日咳 ジフテリア 破傷風 ポリオ 麻疹

そこできみはなにを見たの ざくざくと金貨の入った鞄のように
天からふってきた旅が観=光でなかったはずはないよね

製本かい摘みましては(60)

四釜裕子

東京製本倶楽部のお誘いで姫路に皮革工場を訪ねる。姫路は革の出荷額が全国の半分(成牛革は約7割)を占めるそうだ。10時前の姫路駅に集合、天守閣の修復がはじまった姫路城を遠くに見て、タクシーで(株)山陽さんへ。運転手さんに社名を告げると、「山陽は日本一の革工場、住所言われなくてもわかるよ」。道すがら地元のうわさ話に笑いまもなく到着、会議室でひととおり説明を受ける。創業1911年、敷地3万坪。生後半年〜2年の中牛皮と2年以上の生牛皮を月にそれぞれおよそ5000枚と2000枚出荷しているそうだ。今日はこちらでクロム鞣しとタンニン鞣しの工程を見せていただく。

事務所を出て原皮の貯蔵庫へ。ドアを開けるとひやりとした湿気と臭い。白っぽい中に肌色や灰色をした皮が、血や汚れをつけたまま、たたまれてコンテナに積み上げられている。主に北米から、塩漬けされた状態で輸入しているそうだ。あたりまえだけど革の元は皮。貯蔵庫を出て隣の棟へ。窓の外に水色の革の端切れの山が見える。大量注文を受けた色なのだろうか――。場内は広い。大きい。左に大きな牛乳瓶が昼寝したような機械、奥には水車のような丸いものが並んでいる。床は水で濡れている。圧倒される。事務所でいただいた工程図を手元で確認しておく。(1)準備(脱毛)して、(2)鞣し(皮に耐熱性と防腐性を付与)て、(3)仕上げ(乾燥、塗装)。

まず、原皮の汚れや血を取り除く。同時に、水分を補ってもとの生皮の状態に戻して、皮の内側についている肉片や脂肪を取り除くために裏打機に1枚ずつ(大きな皮は背筋に沿って半分に分けておく)入れていく。水分を含んだ皮はいかにも重そうだ。少し高いところに機械があるのは、取り除いたものを落としやすくするためだろうか。次に、皮を石灰に漬けてアルカリにして膨張させて、毛や脂肪、表皮を除く。皮自体を柔らかくもする。それから分割機に入れて皮の表面(銀面)と裏面(床面)を分ける。床皮は皮革としても使われるが、おもに食用・工業用・医療用のコラーゲン製品となる。

もう一度皮を石灰に漬けて柔らかくする。そのあと、アルカリになった皮を酸性溶液に浸して中和させる。いろいろな工程において、先に見たドラムが使われている。ドラムは木製で、大きさは大中あったが直径3メートル、高さ3メートルくらいの円柱が横になって備えてあって、水車のように回転する。この中に溶剤と皮を入れて回すと、内側にある突起に皮がひっかかっては落ち、ひっかかっては落ちする。穏やかに回るのでうるさくはない。近くに溶剤が、柱に沿って置かれた棚には道具が、きれいに並んでいる。場内をブーンと1人乗りの荷台が過ぎる。床はあいかわらず濡れている。どれだけ水が大切なことだろう。こちらではずっと、井戸水を使っているそうだ。

いよいよ鞣し。まずはクロム。皮に鞣し剤が浸透しやすいように先に酸性の液に浸してからクロム塩の溶液につける。これもドラムで行われている。ちょうど仕上がったものが、ドラムに開いた四角い口からのぞいて見えた。青い。そうか、クロム鞣しは一旦必ずこの色になるのだとようやく気づく。どうりで水色の皮ばかりが積み上げられているわけだ。ドラムから皮を引き出すのも、ドラムの中を洗浄するのも、たいへんそう。資料には「鞣し工程で皮から革になる」とあるので、ここから「革」と書くことにする。このあと革は1枚ずつ、男性2人が呼吸を合わせて水絞り機にかけていく。これまたいかにも重そうだ。絞られた革は薄い水色になり、きれいに重ねられている。触れてみる。しっとりと、少し温かい。

革はタイヤ付きの担架のようなものに載せて、シェービングマシーンに運ばれる。厚みを一定にするのだ。先に見た水色の革の端切れの山は、ここにあった。このあと、用途に合わせてもう一度鞣したり染色や加脂が行われ、セッティングマシンで水分を取りながら伸ばしては、熱風などで乾燥させる。再び水分を与えてもみほぐす。そして、網板に形を整えて張って乾かす。革の周囲にあるひっかけたような穴は、この時につく。見上げると、黒い革が1枚ずつフックに吊り下げられて、ゆっくりと奥のほうに流れて行く。これも乾燥の一手段。そういえばここのところ洋服屋はシャツでもジーンズでもこんなふうに1つのフックにひっかけて並べるところが増えたな、と、思った。

奥に水槽が並んでいる。タンニン鞣しのためのもの。濃度の異なる3つの液に順番に浸すのだそうで、仕上がりまでに30〜40日もかかる。様子をうかがいながらじっと待つ――先に見たクロム鞣しとは、化学的な違いもさることながらあまりにわかりやすい物理的な違い。タンニンは南アフリカ産のミモザ。クロムの青に対してこちらは茶色、このあと漂白してから加脂、伸ばしなどの工程に進む。クロムとタンニンを組み合わせて鞣したり、タンニン鞣しもドラムを使うところがあるようだ。

網板に張って乾かした革は、このあと銀をむいたり塗装したり、艶出しや型押しなどの表面加工がほどこされる。このあたりには、タイヤがついた、高さ120センチくらいの大小の馬鞍型のものが随所にある。色とりどりの革が、これにかけて運ばれていて、きれいでかわいい。艶出し機械の横には、へら状の道具が並んでいる。目の粗さがいろいろあって、これで革の表面をなでるようだ。機械化される前はすべてこうした道具で行われていたわけで、今でもちょっとした加減をみるのに使っているのだろう。革はこのあと、計量して検査のうえ出荷となる。

ここまで2時間。工程を目で追うのが精一杯だった。水分を与えては絞り、与えては絞りの繰り返し。気候をかんがみ、皮の様子をみながら、傷つけることなく、長所を活かし、短所を補い、鍛え、柔らかく、強く、美しく……。何かに似ている。スポーツだ。「皮」という運動能力の高い人を、工場の人がトレーナーとなり、「革」という選手に育てているのだ。名残惜しいが、(株)山陽のみなさまにお礼を言って後にする。昼ご飯を食べ、午後は白鞣し保存会へ。(この項続く)

オトメンと指を差されて(24)

大久保ゆう

立場上、よく学会やら勉強会やらに出向くことがあるのですが、その際の服装について少々思うところがあります。教員になれば背広やカッターシャツのみで出てもいいのでしょうが、当方はまだ大学院生ですし、フォーマルすぎる装いにはどこかしら違和感があって、かといってカジュアルすぎる服では学問の場にはあまりそぐいません。そこで、たいていは自分(紳士服屋の息子)の思うフォーマルとカジュアルのあいだくらいの服装をして行くのですが、たまたまそのあたりの格好で後輩たちの前に出ることがありまして、するとこんな反応をされました。

「おおお、執事! それは執事というやつですね!」

えっ、執事? これが? ……確かに、今は英文学の研究もしているので、そう呼ばれることはやぶさかでありませんが……私自身の思う執事のイメージとはかなりかけ離れていたので、その発言は寝耳に水で。

服の組み合わせとしては、ごくごく簡単です。黒・ダーク系のシンプルなジャケットに、高めの襟をもった柄もののカッターシャツ、細身のネクタイに、下はそこそこタイトな同色系のデザインパンツ――と、ここまでだと下手をすればホスト風にも見えなくもないのですが、違うところはさらにベストを合わせているところです。たぶん、このベストが〈執事〉と言われるゆえんなんだと思うのですが、まさか執事と呼ばれるとは思っておらず……。

しかし、今の世の仲(とりわけサブカルチャー文脈)では〈執事〉キャラが女性に大人気であり、「お帰りなさいませ、お嬢さま」と女性客を迎える〈執事喫茶〉なるものもあるとあっては、ホストと執事のイメージは紙一重なのかもしれません。(今年の春は寒く、時折手袋をはめていたのも原因のひとつかも。)

そう考えれば、世の20代後半から30代前半の男性に対して、あえて〈執事風ファッション〉を押していく方向性も考えられます。いわゆるオトメンファッションのひとつとして。オトメンのあり方として〈少女マンガから出てきたような〉というイメージがあるとするなら、今流行っている〈執事〉を取り入れないでどうするか! というふうに煽っていってもよいでしょう。
そう――紳士らしく、執事らしく、カジュアルなジャケットの下にもフォーマルなベストを着るのです!

というような、まことに勝手なファッションを流行させようとする主張を、仲間うちで戯れに試みることがあります。よくあります。勢いで盛り上げて実行してみることさえあります。ついこのあいだも、そのようなことを致しました。

パン焼き日誌-「今日の早川さん」3巻発売記念、コスプレ早川さん

私たちは〈本ガール〉というものを流行らせたく思っています。いや、そもそもは本文中にも〈早川ガール〉というように、早川書房のSFを好むような女子を『今日の早川さん』という本好きあるあるマンガにあやかって確立させたかったのですが、その後あれこれ話しあった結果、あまりにも対象層が狭すぎるだろうということで、大きく〈本好き女子〉というものにしてみました。

たとえば、本の表紙やカラーリングに合わせた地味めの服装をして、雰囲気のある書店でグラビアを撮ってみるとか。これは本屋のアイドル、というような方向性かな。または〈森ガール〉の向こうを張って、森にいそうというよりも、薄暗い埃だらけの書庫にいそうな女の子とか。OPACなんかには頼りません、カード検索一筋です、みたいな。あるいはクトゥルフ神話が大好きな〈クトゥル風ファッション〉でもいいですよ。服から触手のようなものがたくさん生えているんです、いあいあ。

それはさておき、新潮クレストブックスによく似合うファッション、ないし岩波文庫にぴったりのコーディネイト、とか考えるだけで楽しいですよね。実際、今回モデルをしてくれた友人を見る限り、とても面白そうでした。ハヤカワSF文庫の〈青背〉を基調として、全身を淡いブルーの系統でまとめて、髪型とメガネをマンガの登場人物に合わせたりなんかして。

どこで本を読むにせよ、読書の際の雰囲気は大事にしたいですし、できればその持っている本や場所に合致した服装をしたいものです。裸の本だけじゃなくて、ブックカヴァーやメガネも含めてアレンジしてしまってもいいかもしれません。そういうものを総合して空間が美しく見えれば素晴らしいですし、そうすれば結果として写真に残すに値するものとなったりなんかしたりして。

世間では電子書籍元年とか言われ、どんどん本が電子化されて形を失っていくのかもしれませんが、その逆をいって、あえて〈書籍のモノ性〉を押し出してみるのもいいのでは、と。(その方向性で行くとiPadもファッションツールのひとつとして、全身をサイバー風にしてみるとかもいいのでは、と。)

せっかく装丁なりブックカヴァーなりがあるひとつのデザインになっているんですから、それに合わせたファッションにしてみたっていいでしょう? 大好きな本に、自分の全身を染めてみるってことで。新しい文学少女の誕生かも。

世の本好き女性の方々、いかがでしょうか。これ、やってみません?

私たちはそんな本ガールのモデルを募集中であります。半分冗談ですが半分本気でもあったりして。というか今回モデルをしてくれた我が悪友が本ガールファッション仲間を欲しているというか私が広告塔を仰せつかわされているというか何と言いますか行きがかり上。私としてはそれから最終的に一冊の写真集なんかができちゃうことをただただ妄想しておる次第でございます。 

片岡義男さんを歩く(5)

若松恵子
片岡さんの写真に対して、どう受け取ったら良いかわからないという思いを抱いてきた。
小説で描こうとした一瞬、その大切な瞬間が、まさにぴったりの形を与えられて1枚の写真となっている、片岡さんの小説と写真にそんな一致を期待していたからかもしれない。しかし、片岡さんの写真は、そういうものではなかった。こちらの勝手なイメージを託すことも、何かそこに意味を読み取ることもできない、現実の風景に見えた。
今回『東京を撮る』と『名残りの東京』の写真を見ながらインタビューをして、写真を(風景を)見るとはどういうことか、その一端に触れることができたように思う。写真に切り取られた塀と生垣の緑と路地の色が、初めて見えてくる瞬間があった。
『なぜ写真集が好きか』(太田出版 1995年)のあとがきで、「撮影された写真は、被写体に対する客観的な態度というものの、高度な見本のひとつだ。」と片岡さんは言っている。そして「客観的に見たいという願望の内部には、世界や事物、そして人を、より正しく、より深く、結果としてより良く理解したいという願望が存在している。」と。その反対の態度「浅い主観で写真を撮ること、そして浅い主観をとおして写真を見ること」についても言及していて考えさせれられる。違ったものに見える片岡さんの小説と写真。その根底で、対象に向き合う態度(視線)は共通しているのではないかと思う。片岡さんの写真を見ることが、小説の読み方を深化させるような気がする。

――最新の短編集を出す左右社から写真集も出版されますね。楽しみです。写真集の題名はもう決まったのですか。

『ここは東京』です。いいでしょう。ありそうでない題名。3冊つくるといいかな。『ここは東京』『ここも東京』『ここが東京』(笑)

――その「は」と「も」と「が」の違いは?

何もないです。ただ3冊つくりたい、と。写真は撮れば撮るほど増えていくわけですから、撮らなければ増えないのだけれど。

――今、撮りたい気持ちなのですか。

ええ。よーく見ながら歩いているとあるのです、被写体が。写真集のあとがきの文章としては、エッセイと評論の中間のような文章ではなくて、ライブ感がある撮影の延長のような文章がいいかなと思っています。写真を撮っているのと同じ感じで。

――今回の写真集のために撮影した場所はだいたい同じなのですか。

神田が多いです。神田と神保町と新橋と下北沢。あまり遠へは出歩いていないのです。

――新橋のおもしろさとは。

もう少し前の、サラリーマンの時代の新橋がおもしろかった。10年くらい前。持ちつ持たれつという感じで支えあっていたサラリーマンの、会社の外の世界。昼飯と夜の酒の街。今は荒んでいるというか、サラリーマンの世界も底が抜けたでしょう。神田はまだおもしろいです。物をつくる人たちの街だから。神田は仕事場と住居が同じだったりするので、古い感じが壊れていない。

――その街の、どんな風景を撮っているのですか。

これが難しい。

――『東京を撮る』(アーツアンドクラフツ社 2000年7月)ではかなり神田を撮影していますね。この写真集では、写真の横に短い言葉が添えられています。

写真の横に言葉がないほうが良いよね。撮って終わっているのだから。

――言葉もなかなか味わい深いです。さすがにうまい、と。

写真がじょうずだと言っていただきたい(笑)。写真は、撮影して、特に印刷されてしまうと写真の出来ばえだけが問題なのです。写真の出来ばえと言うか、写真が何をどう写し取っているか、その問題だけだと思うのです。だから誰が撮ったかという問題は、できるだけ消えてしまった方が良い。

――そのように言うカメラマンはあまりいないと思います。

いないでしょうね。これが残念です。あくまでも撮った人の名前が付いてくる。どんどん名前が大きくなってきてしまって、そのことに満足する。写真ってそんなものではないのです。出来ばえだけが問題でしょう。いい景色がまだあるでしょう。(『東京を撮る』のページをめくりながら)この建物ももうない。撮影した風景の半分以上が今はない。すごいよね。

――これを撮ろうと思ってから、この構図にするまで時間はかかるのですか。

かからないです。この辺だろうと思ってファインダーを覗くと、ドンピシャリです。
これいいよね。こういう風景をみつけるとうれしい。(『東京を撮る』p55の民家が並ぶ小さな路地の写真を見ながら)

――うれしいのですね。

うれしいでしょう。ものすごくよくできている風景。これを作れと言われても作れないでしょう。これもすごい。(p81の玄関先の鉢植えの並ぶ写真)こういうのがなくなってきているよね。人々がこういうことをやらなくなってきた。これもいいでしょう。(p93を指して)

――ちょうちんがお好きなのですか。

その構図が。あり方がおもしろいでしょう。東京そのもの。どこにもない風景。ボストンにもベイルートにもバングラディシュにもない。

――この東京の風景のどこに魅かれるのですか。

風景の出来ばえたるや…。写真に撮ることによって、一段とよくなる。そう思いませんか。僕が撮ったからではなくて、写真に撮られたことで良くなる。

――確かに、こうやって写真に切り取られることで、つくづく見るようになりますね。街を歩いていてもよく見るようになると思います。

ぜひそうなってほしい。ちょうちんは、このように見上げていただきたい(笑)。

――切り取られているということが重要ですか。

もちろんそうです。僕は切り取るのが好きなのでしょう。つまり、街を歩きながら、見つけごっこを楽しんでいるのです。どんなものが見つかるか、そして見つけたら今度は切り取ることを楽しんでいる。写真になったら写真になった時の出来ばえというか、写真になった風景を楽しんでいる。

――見つける物の傾向は変わっていったりするのですか。

変わらないです。幅は広いでしょうけれど。しかし被写体は『東京を撮る』の頃の方が今よりずっと良いはずです。

――『東京を撮る』は、10年前ですね。

10年経つとわかります、はっきりと。この窓枠などは、いつ取り払われてもおかしくないでしょう。なくなったらそれきりです。全く同じように作って、20年くらい放置しなければこうならないわけだから。被写体が出来てくるまでには時間がかかるのです。だから時間のなかを歩いているというか、時間を見て切り取っているというか。一番表面に見えている形から時間がむこうに延びている。その時間を仮に止めるという楽しみもあります。

――「写真で何かを訴えているのですか」などと質問されると困ってしまうでしょうね。

社会的な意味はないのです。写真的な意味はたくさんあるけれど。

――そこがよくわかりません。

分からないと言って、怒ったりする人がいます。なぜわざわざこんな写真を見なければならないのか、どこにでもある風景ではないかと。

――カメラを構えていない時もこう見ているのですか。

見ているでしょうね。ああいい景色だな。こういうふうに切り取るといいだろうなと思いながら見ています。

――前回のインタビューのなかで、小説と写真は共通だと言っていらしたでしょう。

いや、共通ではないでしょう。

――共通のものに見えないのは、私に写真を見る目がないからだと思っていたのです。

共通したところはほとんどないでしょう。同じ人がやっていることではあるけれど。言葉だけで、こうは描けないでしょう。(『名残りの東京』東京キララ社 2009年 の1枚を指して。)この景色を言葉で描くのは難しい。これを書こうと思ったら心象で描くのかな。

――写真の順番はどのように決めるのですか。

まず見開きの組み合わせを考えます。

――見開きに並んだ作品を楽しめるというのは、本のよさですね。

そうです。結局こういう本は、見たい人は買って好きように楽しめばいい。それしかないでしょうね。楽しめる人だったらいろんな風に楽しめる、楽しめない人だったら全然楽しめない。

――突き放されたように感じるかもしれませんね。懐かしい景色の蒐集だと勘違いされるかもしれません。

蒐集と言うなら、芸術作品の蒐集です。道端にある芸術品。歩いていればいくらでもあるのです。美術館で見たら、モダンアートでしょう。

――その意見に賛成する人は少ないと思います。

残念ですね(笑)。

――ぱっと見て、片岡さんと同じように「いい」と思えなければだめでしょうか。

そうですね。

――どういう意味があるのですか、などと聞いてしまった段階でだめですね。

おしまいですね。

――この風景を作った人と、片岡さんの感性が似ているということなのですか。

技術が進歩しているから、今はこうは作らないということはあるでしょうね。戸袋なんて今はないわけだから。いったん消えてしまうとおしまいなのです。その後にできてくる物がおもしろいかというと、全然おもしろくない。
あそこ良いですね。(喫茶店の窓から見える一角を指して)4時30分。今の光、ちょうどいいな。こういうことはよくあります。ああ、いいなと思って時計を見る。ある日、4時半にこの喫茶店に来ると僕があそこで写真を撮っている。いずれ写真集のなかにその風景が固定され、この喫茶店でその写真集を見て、「どこだと思う」と質問してもわからない。

――写真集のあとがきに取り掛かる前に、撮影に連れて行ってください。

『名残りの東京』のタンメンをもう一度登場させましょうか。子どもの頃からある店なのです。ショーウインドウの同じ位置にあるから、全く同じに撮れるでしょう。今から見に行きましょう。

(2010年5月6日)

掠れ書き(1)

高橋悠治

掠れ書きは飛白体。飛び散る余白。

音楽は現場のもの。すぎさるもの。即興といってもいい。しかし即興は自己主張ではない。内側にある自己を取り出して押し付けるのとは逆に、世界のなか、歴史のなかで、自分の置かれた位置から逸れて、うごきだすために、自分の外側にあって、問いかけ、対話するもの。カフカのように、自分の側でなく、世界の側に立つ人間には、帰る場所がない。

即興する身体を他人のように見ること。危険な水路で舵を切るように身体をあやつって、かすかな風のうごきに沿って、見えない道を辿ること。過ぎてゆく時間を読みなおして、未来へと後退すること。

身体をテクストとして読みなおし、テクストを身体として組み直すことの両方によって、その場限りの消費でもなく、テクストの死化粧でもない、生きた劇場が生まれるだろうか。

1950年代以来の音楽が通ってきた道の意味はすでに失われた。ブーレーズもシュトックハウゼンも自らをシステム化し制度化してきた。ケージやクセナキスもいまや楽譜や音響だけが分析され、説明されている。どこにもなかった新しい音をもとめた冒険も、技術化され、プログラミングされ、だれにでも売りつけられるソフトウェアになってしまったが、さまざまに曲がりくねった探求のプロセスはかえって見えにくくなった。分析や説明からはなにも生まれない。

クセナキスの例をとれば、1950年代の『メタスタシス』や『ピソプラクタ』のように、いままでの拍節や半音の合理主義的な枠組みから解放された音の運動は新鮮でもあり、そしてギリシャの岩山や荒れる海、政治的暴力の記録でもあった。確率計算や群論は、自由なうごきを創りだすためのてがかりにすぎなかった。だが、方法が理論化され精緻になるとともに、音響組織そのものが一つの暴力に変っていく。技術としてとらえれば、それに挑戦する演奏家もいるし、複雑な音楽語法を制御する作曲家も現れる。だが、それは音符と方法への隷属で、音の解放ではないし、それを通じての音楽家の自己変革でもない。技術は上がり、創造性は下がる。

正弦波の組合せによる初期のセリエル的な電子音楽を、有限を積み重ねて無限に達しようとするピュタゴラス主義だと非難したクセナキスの音階理論も、アリストクセノスの不均等で変動する単位による音階論を、均等な単位に固定してしまったし、リズムの細分化や微分音による複雑な楽譜は、かえって演奏者を束縛するものでしかない。その結果、作曲家の見かけの優位とその背後にある音楽の社会的制度は変ることがない。西洋近代の数の呪いがいまだはたらいているかのようだ。

クセナキスの音楽を救うのは、理論や方法ではなく、かれの音響の暴力性ではないだろうか。夕霧のように翳り、昆虫のように軋り、地震のように震動する音の複雑な絡まり、またギリシャ悲劇の、心理や情感のかげりのない無情な声、それらは偽りの平和が覆うことのできない、この世界の現実でありつづける。

いまになって、19世紀以来の構成されシステム化された音楽がやっと終わり、自由な個人と組織の多様性にもとづく演奏が復権してきた。作られた音楽史とは逆に、流動する世界では、まず聴き手が変化する。現場にいる演奏者が新しい聴き手に応えて、ちがう音楽のつくりかたを考える。それとしてほとんど意識されないかもしれないが、それは演奏者の身体をつくりなおすところからはじまる変化の兆し、散乱する予感のきらめきとして現れる。取り残されているのは、かたまってしまった思想と制度によりかかっている、公認された演奏家や作曲家たち、その権威にぶらさがっている選ばれた若者たち。スポーツのように技術をきそい、あるいは個性的な装いだけを考えている若い音楽家は、その先に何かがあると思っているのだろうか。