109むらさき・みどり――夕暮駅・2

藤井貞和

群咲きの花園を荒らそう、
ぼくらが這入ってゆくみどりに変わる遊園。
天上の信号機気動車の笛、
ゆうべの使令幼年舎歩行者の足音、
そろそろそろそろ飛ぶ火野の鹿の園。
紫苑にゆき向かい帰らぬ兵士は、
きみらの足音聞かすすべのない帽を、
耳朶に傾けていま朽ち果てる。
みどりに変わる遊園の人々、
天上の信号機に乗って歌姫行かす。

(11月尽、12月へ、訃報つづきです。お国はヘイト・スピーチ〈嫌いね!言説〉が現代詩を覆いつくし、短歌も、それから俳句も被災することだろう。逆かな、どこへゆくのかな。きのうは辻井喬さんの追悼文〈普通の詩人の普通の声〉を書いていました。ブランド文化というのは一種の差別社会の創生です。辻井さん(堤清二)は西武百貨店のごちゃこちゃした棚をつくり、パルコを用意して私らのようやく這入れるお店を作り、ブランドに対抗しては無印良品、西友、一時は牛丼の吉野家、イベント空間、ちいさな詩の雑誌、若い詩人のしごとにまで目を配ってくれました。近況としては先週にはダライ・ラマの来る一週間前の京都精華大学でイベントや「うたの文化論」をやってきました。いろんな質問が出て、言いのこしたことをあとから受講生諸君に以下のように回答しました。〈感想シートをありがとう。物語と歌との関係は? 詩が現代に「よい子」向けになっているのでは? 最近の歌をどう思うか? ファンタジー紀のあとには何がくるのだろうか? ぜひ、いろいろ考えて下さい。蛙の文様を始め、土器に貼り付けてある動物や人間は、みな激しく舞踏の姿をしていますね。歌声、リズムや動きが伝わってくるようです。宮藤官九郎さん、大友良英さんが、「あまちゃん」のそこここで、80年代歌のしかけをいろいろ試みています。「もんじゅ君」のサイトと言うのがあり、ゆるキャラのもんじゅ君が大友さんにインタヴューしていて、その細かいしかけをつぎつぎに質問しています。私ですか? 少し古く、60年代、70年代ですね。童(わらべ)うたや子守歌は、永遠にうたの原点だと思います。古代歌謡で童謡と書くと「わざうた」です。90年代初頭の「踊るポンポコリン」を現代の「わざうた」ではないかと論証していた論文がありました。湾岸戦争の前後の世相とかかわる。20年に一度、とみると、現代ではフォーチュン・クッキー何とか(AKB48)あたりかも。「わざうた」が出てきそうな危うい現代ですね。「あきらめそうになった時、読む詩はないか」という質問がありました。中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』、同『括弧』(みすず書房)は元気になると思います。中井さんは精神科医です。「ファンタジー紀のつぎに何が来るか」という質問。どんな理想郷もデストピアも、たとい人類の破滅でも、ファンタジーの得意とするところだから、その限りでファンタジー紀の延長です。現実がほんとうに壊滅し始めたら、という予感のさきはまだ考えられなくてよいと思います。〉)

チョコで「絆ぐるぐる」

さとうまき

最近イラクと日本を行ったり来たりしている。あまり日本のニュースを追っかけていなかったのだが、特定秘密情報保護法の話を聞いてびっくりした。こういう法律がものすごく簡単に衆院を通過してしまったことも。

東日本大震災では、世界中から支援が集まった。イラクやヨルダンその他の途上国も支援してくれている。しかし、日本はそんなことはすっかり忘れ、経済成長、日米関係ばかりを気にしている。先日は、アメリカが、シリア政府が化学兵器を使用した確固たる証拠をつかんだので、攻撃すると言った。日本は、アメリカに情報を見せてもらい、アサド政権が使ったと判断するに足るとして、攻撃を支持したが、「証拠」は、国際社会どころか、アメリカの議員も説得できないお粗末なものだったのだ。一体、日本が何を見せられたのかは、「秘密」だという。

公明党の大口議員は、「(法律がないと)日本は、某国から情報が入ってこなくなる。どの国とは言いませんよ。大量破壊兵器の情報が入ってこなくなる。国際テロの情報が入ってこなくなる。これは日本の国民の生命 身体、財産を傷つける、しっかりとした的確な情報が入ってくるなら紛争を未然に防げる。正確な情報が入ってくると外交政策、防衛政策を誤らない。」と国会で説明したが、情報を分析するリテラシーすら持ちえない国に、秘密情報保護法が出来たら、イラクのような戦争に加担しても全部秘密にしてしまえば責任を取らされることはない。そういう魂胆なのかとも疑ってしまう。

日本は、そんな排他的で閉鎖的な国になってほしくない。そこで、今年のチョコレートは、「絆ぐるぐる」世界にまわして平和を創ろうともくろんだ。

【アカベコにかけた願い】
福島の復興のシンボルにもなっているのが赤ベコ。会津に伝わる伝統玩具だが、首が揺れてかわいらしい。赤い牛は神社建立に、最後まで重い荷物を運ぶことができたという伝説から、赤ちゃんが生まれたら無病息災を祈願して赤べこを送ったという。それで、僕たちは、イラクのがんの子どもたちが早く治るようにと赤ベコをお土産に配っている。

北イラクは、シリア難民が20万人くらい入り込んできて、路上には物乞いの子どもたちも増えている。私たちの事務所があるアルビルは、イラクで悪化する治安をよそに、クルド人たちががっちりと治安を守ってきたのだ。そのおかげもあり、経済成長も著しい。しかしアルビルから少し離れると、これといった産業もなく貧しい生活を送っている人たちも多い。

今回、チョコのパッケージの赤ベコの絵をかいてくれたイマーン(8歳)は、モスルに住んでいたが、治安が悪化して避難してきた国内避難民だ。アルビルからは100キロ離れたソーランというところの空き地に勝手に家を作って住んでいる。2009年1月(当時4歳)に急性リンパ性白血病で入院。1年半の化学療法がうまく行ったかと思われたが、2010年に頭痛と痙攣が続き、再発を確認、放射線治療をうけたが、2012年12月に頭痛と視力低下を訴え、骨髄を調べたら再発していることがわった。輸血が原因と思われるB型肝炎も発症しているとのこと。彼女が救われる可能性は骨髄移植しかない。同行した井下医師の説明だと、「今年の暮れが山かな」という。

イマーンちゃんの部屋に行くと、薬がきついのかぐったりと寝ていた。
ちょうどごはん時だったので、「ご飯食べないの?」と聞くと「いやだ」とそっけない返事。「おじさんといっしょに食べよう」とスタッフのイブラヒムがしつこく誘うと起きてきて、話し始めた。「もうすぐしたらわたしのおうちには雪が降るので、雪をまるめて友達にぶつけて遊びたいの。ひひひ」とお茶目に笑う。

「隣の人が、鳥をたくさんかっていてね。一羽もらったの。でもね、死んじゃったの。きっと熱が出たんだと思うの。それでね、もう一羽くれたの。そしたら、また死んじゃった。きっと熱が出たの」
イブラヒム「お医者さんに連れ行けばいいのに」
「お医者さんは、鳥なんか見てくれないでしょ。隣でね、猫飼っていてね。それが、鉄砲で撃たれて死んじゃったの」
イブラヒム「なんだか、死んじゃう話ばかりだね。動物は何が好きなの?」
「馬が好き」
イブラヒム「馬は高いからロバを買ってあげようか?」
「ロバはいうこと聞かないからいらない! 全然かっこよくないし。この間、近所の黒い牛が追っかけてきて、とっても怖かったの。だからひよこが好き」
イマーンの話を聞いているととても楽しくなってくる。生きてほしい。
チョコ募金でどれだけがんの子どもたちを救うことができるか、今年のチャレンジが始まった。

チョコ募金出だしが遅れています。是非皆様ご協力をお願いします。
12月2日から受付開始です。http://www.jim-net.net/choco/

やっと暑さから開放されて

仲宗根浩

いや〜、寒い。十一月は半ば過ぎまで普通に半袖で仕事をしていたけど、ここ最近は半袖の上から一枚羽織るようになった。最高気温も二十度を下回ると風が強いので余計に寒くなる。そりゃ内地と比べればまだ暖かいだろうけど。我が家は暖房を使用しないもので部屋も寒い。エアコンから暖かい空気が出るとなんか気持ち悪いので暖房機能は使わない。その上、乾燥してくると鼻の穴が乾いてむずむずし、鼻をつまんで動かしたりしていじることが多くなる。がまんできなくなり指を鼻の穴にいれて掻いたあと、指の先には血がついている。乾燥するとすぐ鼻にくる。

十一月のはじめごろはえびが値上がりして大変だ、というので事情通に聞いてみたら、今の多く流通している養殖のバナメイエビが病気で不足した分ブラックタイガーの注文が増えてきたのだが、養殖業界ではブラックタイガーから生産性の高いバナメイエビにシフトしてブラックタイガー自体も不足で高騰している。もう少しすれば天然と同じくらいの値段になるだろうと。その後すぐ表向きメニューの誤表示という偽装がニュースになって、安いえびの代名詞みたいになった可哀そうなバナメイエビ。バナメイエビは今高いんだぞ、手に入らないんだぞと思いながらそのニュースを見ていた。

夜、Youtubeで大瀧詠一と山下達郎の昔の新春放談を見つけて聴きそこからエヴァリー・ブラザースの「Let it be me」、次にジョージ・ハリソンのバージョンを見つけ、そこからバングラデッシュ・コンサートの「Something」の動画でジェシ・エド・デイヴィスがしっかりとへろへろのクラプトンに代わってきっちりとサポートしているのを発見。このDVDがリマスタリングされて出た時はジョージ・ハリソンのストラトの音がやたらいいのにびっくりしたことを思い出す。どんどん聴いていくと朝になっていたりする。
パソコンを交換して三年余り、取り込んでない音源がかなりある。ジェシ・エド・デイヴィスもライ・クーダーもタジ・マハールも。ベッシー・スミスやスタックスのシングル集他もろもろのボックス物。そろそろ整理しないと、と思っていたけどその前に段ボールに入ったままのCDがある。置く場所は確保しているけど、これがなかなか進まない。一気にやらないと来年になってしまう。それまでCD類は買うの禁止。最近は車の中ではNHKのFMを流している。同じ時間だけど曜日によってクラシックだったり昭和歌謡だったり。車も一月には車検なので余計な買い物はできないので禁止しなくても買えない。

アジアのごはん(59)波照間島のトゥナナマシ

森下ヒバリ

「あ〜、いい感じのアジア食堂だねえ、何にしようかな〜」メニューを眺めると、ラフテー定食、島豆腐チャンプル定食、島の干物定食、島野菜のカレー、そして一品ものがいくつか。よし、きのう売り切れで頼みそこねた島豆腐チャンプル定食を頼もう。

この店の島豆腐チャンプルには、豆腐のほかにキャベツ・ピーマン・もやし・にんじん・青パパイヤがたっぷり入っている。定食には島かぼちゃの千切りサラダ、にんじんしりしり、白菜浅漬け、四角豆のサラダが少しずつと、アオサのみそ汁とごはんが付く。野菜たっぷりですんごい好みの味なんですけど。赤米を混ぜて炊いたごはんもおいしい〜。

ここは波照間島の「あやふふぁみ 島のもの食堂」である。この食堂、何を食べてもおいしいのさ〜。オリオン生ビールを飲みながら、島豆腐チャンプルに夢中になっていると、「道に迷った〜」と言いながら今回一緒に旅している友達夫婦もやって来た。

食べたことのない一品料理をいろいろ頼んでみることにする。お店は昼しかやってないのだけれど、ビールも泡盛もあるので、すっかり宴会モード。「トゥナナマシ? これ、なんかふしぎ‥」メニューの説明によるとトゥナナマシとは、自家栽培のトゥナンパ(アキノノゲシ)を流水でもみ、サバの味噌煮と酢で和えたものだという。えっ、サバの味噌煮で和える? 何だそれは。

波照間の家庭料理ということなので、さっそく頼んでみる。アキノノゲシらしい葉っぱを千切りにしたものとサバの味噌煮を崩したものが酢で和えて出てきた。一口食べてみると、「ふーむ、経験したことのない味‥でもイケル」。ちょいちょいつまんで、ビールのお供にぴったり。

それにしても、野草をサバの味噌煮と酢で和える‥とは考えたこともなかった。サバの味噌煮を作ったら、すべて食べつくしてしまうしなあ。もしかしたら、台風や強風で航路が欠航することの多いこの島で、保存のきくサバ缶を使った工夫料理なのかも。庭に生えているアキノノゲシを摘んできて、あくが強いので流水にさらしてもみ、サバ缶と和えたのだろうか。それとも、ちゃんとこのためにサバ味噌煮を作って、トゥナナマシを作るのだろうか。まあ、ヒバリが波照間の住民だったら、もちろんサバ缶使いだな。

そう思って、京都に戻りしばらくして近所のコンビニでサバの味噌煮缶詰を見つけたので、トゥナナマシもどきに挑戦してみた。アキノノゲシのかわりに、ぴりっと苦みのあるワサビ菜を使ってみた。作っては見たが、おいしくできなかった。ワサビ菜は、あまり味が近くなかったし、何といってもニッ〇イのサバ味噌煮がまずい。これでは何かあった時のサバイバル料理にもならないぞ。もっとおいしいサバ味噌煮缶詰があったら、こんどはアキノノゲシを採取してきて、作ってみたいものだ。いや、あの、サバの味噌煮をちゃんと作ってもいいんですけどね。

アキノノゲシは、調べてみたら、二センチ位の黄色いタンポポに似た花をつけ、葉っぱがアザミのようにギザギザして尖っている植物である。なんだ、いつもアパートのまえの花壇に生えている、あの草ではないか。キク科のアキノノゲシは波照間島に限らず、ノゲシとともに昔から食べられてきた野草だ。苦みがあるが、やわらかい葉を採取し、茹でたりしてアクを取り、炒めもの、和え物、てんぷらにして食べる。稲作と同時に日本列島に伝わったと言われるほど古い起源の野の菜なのであった。葉っぱをちぎると白い乳液が出るので乳草とも呼ばれ、ウサギの大好物でもある。ちなみにレタスもキク科アキノノゲシ属で、近縁種である。それならさくさくしたロメインレタスなどがサバの味噌煮と合うかもしれない。

沖縄にやって来たのはかれこれ十年ぶりだ。今回は石垣島、西表島、波照間島と八重山地方だけを廻った。十年前との一番の違いは、なんといっても食事(外食事情)が格段においしくなっていること。以前何度か来た時には、「暖かくて、のんびりしていいんだけど、ごはんがな‥」と何度も思ったものだ。内地からの旅行者、移住者、情報の流入で外食が洗練されてきたのだろう。うれしいけど、ちょっとさびしい気もするような。

波照間から石垣に戻って、港の近くで八重山そばを食べたときに、昔ながらの味に出会った。「あ、このもったりした味‥」「だいたいこいう味の店ばっかりだったな」とちょっと懐かしい。店のおじいとおばあの感じはとてもよかった。でも、すんません、味の素てんこ盛りでまずかったです。

石垣の公設市場で青パパイヤを買い、京都に帰ってさっそく豆腐チャンプルを作ってみた。豆腐は堅豆腐という、水分の少ない豆腐があるのでそれを使う。そういう豆腐が手に入らない場合は、固めの木綿をしっかり水切りするか、厚揚げを使って下さい。青パパイヤは皮を剥き、しりしり器ですって千切りにする。にんじんもしりしり器で千切り。ピーマン細切りともやしも加えて、ごま油で豆腐と炒める。味付けは塩とコショウ。ピーナツがあれば潰して加えるとコクが出る。タイの生トウガラシの荒潰しを少々入れるとさらにおいしい。ほんの少〜し隠し味にナムプラー。味の基本はあくまで塩味です。

しりしり器は、沖縄地方の台所の必需品である。「しりしり」は、「すりすり」の意で、すりおろし器のこと。木の枠にはめ込まれた金属にあいている穴は斜めに向かっている。しりしり器を斜めに立てて、にんじんやパパイヤを当ててすりおろしていくと、千切りになって出てくる。千切りと言うにはちょっと太い。少しぎざぎざした千切りは火の通りも味の馴染みもよく、一度使うと、もう手放せなくなってしまった。にんじんをしりしりして、さっと炒める、生のままサラダにする、なますにするなど、にんじんの消費量がぐっと増えた。

ちなみに、沖縄で売っている、台湾製の金属部分が銅のものは、ちょっと千切りにぎざぎざ感が少ない。わたしが使っているのは、小柳産業の歯の部分がステンレススチール製のもので、かなりぎざぎざ千切りができる。こちらのほうが、切れ味は少し劣るが、味の染みが断然いい。

青パパイヤの残りで、タイの和え物ソムタムも作ってみた。小柳産業製は、千切りがけっこう柔らかめなので、搗いてなじませる工程は省いて、調味料と和えるだけにする。青パパイヤの千切り山盛り。プチトマト数個とインゲンは軽く潰す。ピーナツの荒潰し、調味料はナムプラー、柑橘のしぼり汁、さとう、トウガラシ、ニンニク、そして最後に塩辛の液体部分を小さじ半分入れれば、タイの味。

豆腐チャンプルとソムタムをつまみながら、泡盛を飲む。泡盛は石垣島や宮古島の宴会風に、水でかなり薄めてゴクゴク飲む。酔いが回ると波照間島や石垣島で眺めた青い青い海と、星降る夜空がよみがえってきた。明るすぎるくらいの満天の星たち。おおらかに流れる幾つもの星。ああ、あの南の島々はなんとうつくしい場所なのだろう。

そういえば、昔「美しい国へ」なんてスローガンを掲げた総理がいたなあ。改憲、戦争、秘密保護法、原発事故隠ぺい‥あの人の「美しい国」とは、まったく想像できない、とんでもない「美しさ」だ。美しいなんて言葉をあの人に使ってほしくない。嘘とごまかしと策略で出来ている政治が、ただ目先の欲のためにだけ動いていくこの国の有り様。闇はあまりに深く、波照間島のような星空は望むこともできないのか。

「ライカの帰還」騒動記 (その2)

船山理

昭和の57年ごろ、クルマ雑誌「ホリデーオート」に異動した私は、それまでのバイク雑誌とはまったく違う環境に四苦八苦していた。当時は月刊で60万部という、とっぴょうしもなく売れていた本でもあり、業界自体も読者層もケタ外れだった。会社は中閉じ週刊誌タイプの装丁では入り切れなくなった広告対策に、月2回刊へと踏み切るのだが、部数は落ちるどころか各60万部が実売りでサバケてしまう。えらいところへ来てしまった。

この雑誌の返本率は毎号20%を切ることが至上命令だったから、巻頭カラー、モノクロ合わせて32ページからなる第1特集を担当するのは、胃がどうにかなってしまうほどの重圧になる。2班体制で1班7人編成となる編集部でも、第1特集を任せられるのは2〜3人に絞られていて、企画立案、取材マネージメント、執筆やデザイン依頼とそれらの回収、入稿までを、ほぼひとりで行なう。この担当になると、残業は月150時間を軽く超えた。

月2回刊の実売り部数が、それぞれ42万部あたりで落ち着いたころ、編集長はどこから吹き込まれたのか「この本に連載コミックを入れよう」と言い出した。「売れてる雑誌にはコミックが連載されているもんだ」そうである。コミックは「折り」の都合上、16ページであることが望ましい。ということは、活版の16ページ分がコミックにとって代わるわけで、企画2〜3本が「お休み」になる。残業対策にはいいアイディアかも知れない。

ところが「ホリデーオート」という雑誌は情報量が勝負になる。活版16ページがコミックにとって代わってしまうと、その分だけ情報量は希薄になる。その懸念を編集長に告げると「んじゃ、情報のいっぱい詰まったコミックにしてくれ」と返ってきた。何じゃ、そりゃ? である。コミックは入れたいが、情報量でクオリティは下げたくないってことか。作家さんとの付き合いがあるという1点で、すでに担当は私に決まっているようだった。

さっそく小学館の友人のところに相談に行くと、彼は他人事だから、面白そうに「やれ、やれ!」というのだが、どこから手を付けていいものやら完全に五里霧中なのだ。逆に「お前はどういうものが望ましいと思う?」と訊かれ、クルマ雑誌に載せるものだから、クルマ関係の、他では読めない類のものだろうなぁ、と言うと「だったら、お前が原作書いてみろ。作家はオレが何とかしてやる」ときた。簡単に言うなぁ、もう。

仕方がないので粗筋を仕上げ、彼に見てもらうことにした。すると、どうしたわけか、えらくお気に入りである。「お前、これを誰の絵で考えた?」というから、正直に浦沢直樹さんだよ、と答えた。浦沢さんは今や大御所中の大御所だが、このときはまだ「パイナップルアーミー」を執筆していた新進作家さんだった。もちろん、面識などない。彼は紙切れにサラサラと何やら書くと「これ、電話番号。うまくやれよ」…はい? である。

粗筋から6〜7話分を起こし、電話でアポをとってから浦沢さん宅に向かう。作家さんの連絡先は出版社にとって社外秘であり、間違ってもライバル社の人間に知らせる類のものではない。友人はそういった意味では自社にとって裏切り行為を犯したわけだが、幸いなことにウチの会社はライバルどころか、歯牙にもかけられない存在なのは明白だ。できるものなら、やってみろということだったのだろう。やるしかない、のだが。

浦沢さんは初対面の私に、柔和な態度で接してくれた。そして目の前で私の原作を手に取り、入念に読み込んでいる風だった。正直、生きた心地はしなかったし、突っ返されることは充分覚悟していたのだが、出てきた言葉は意外だった。「まさにボクのために書かれたような話ですね。是非とも描かせて下さい!」目がテン、である。からかわれているんじゃないか? いや、この人の目は真剣だ。天にも昇るような心もちだった。

さっそく小学館の友人に報告すると、別段意外な様子も見せず「よかったじゃないか」とにこやかである。編集部に戻って編集長にことの次第を伝えると、そんなことは当然と言わんばかりの態度で「いつからの連載になる?」と訊くから、連絡待ちですが、早ければ来春からという感じですね、と答えた。季節は晩秋だったと思う。さあ、これから資料集めやら、話のウラをとるための取材やらで忙しくなるぞ、という矢先に電話が鳴った。

電話は浦沢さん本人からで「来年の春に小学館で新しい連載がスタートすることになってしまいました。だけどこれって1年で終了するはずなんです。どうしても、あの話は描きたいので、待っていただくわけにはいかないでしょうか?」という連絡でだった。個人としては、彼に描いてもらえるなら何年待ってもいいのだが、編集長の判断は冷酷だった。「そういうわけにはいかん。だったら他の作家に依頼しろ」ときた。絶体絶命である。

後日談になるが、浦沢さんの新連載とは「ヤワラ!」であり、ご存知のように空前の大ヒット作となった。連載は1年などで終わるわけもなく、この作品は彼を不動の売れっ子作家にのし上げてしまう。こちらは完全に振り出しに戻ったわけで、例の原作は彼が戻ってくれたときのために封印し、まったく新たに作戦を練り直さねばならない。今度はテーマを絞り、正攻法で臨む。スタイルは1話完結。テーマは「クルマでナンパ」にした。

あらゆるカテゴリーのクルマを1話ごとに登場させて、そのクルマでナンパするなら、どういったタイプの女のコが狙い目なのか。また、そんなコたちはどんなところに生息しているのか。デートコースはどうあるべきか。これらの情報を山ほど詰め込んだギャグストーリーを考えてみた。主人公は軟弱な予備校生として、友人に中古車屋の道楽息子を設定する。これなら毎回、クルマをとっかえひっかえできるというわけだ。

これらの煮詰め作業は、互いの家が近かったせいもあるが、小学館の友人宅で行なった。彼の奥さんが私の美大予備校の同窓生だったという奇遇なめぐりあわせもあり、学年こそ違えど子供たちも同じ小学校に通う。彼女の手料理をいただいた後、2人で庭をぐるぐる歩きながら、自然にブレインストーミングになって、パズルが次々に組み合わさっていった様子は、今でも懐かしい。とにかく「クルマ別ナンパ講座」はこうして出来上がった。
原作は私としても、女のコがらみのファッションを含んだ情報やデートコースの詳細は、さすがに一般誌の女性フリーライターにお願いすることにした。問題は作家さんだが、これは正直イメージがなかった。すると小学館の友人は「神部さくみという女流作家さんがいる。これ適任だぜ」と言う。今度は私が難色を示す。女性作家じゃクルマの描写はキツイだろ? すると「ファッションや魅力的な女の描き分けが男にできるか?」ときた。

言われてみれば、もっともである。半ば押し付けられた気もしないではないのだが、メインタイトルを「I CAN C!」とした全12話のこの作品は半年の間、ホリデーオートの誌面に載った。これがモーターマガジン社で私が手掛けたコミックの第1号である。評判はまずまずで、私が気にしてやまなかった実売り部数には微塵の変動もなかった。16ページ分の情報量は、どうやらカバーできたのだろう。これには正直、ホッとしたものだった。

「I CAN C!」は連載の終了後、総集編のカタチでB5サイズのまま1冊にまとめられたのだが、取次のコミックコードを持たないウチの会社では単行本として世に出せない。総集編は本誌の別冊という形式になるため、書店では2週間しか置いてもらえず、出版社としては旨味が乏しい。そんな理由でホリデーオートはこれ以降、連載コミック掲載に消極的になっていく。肩の荷が降ろせた気もしたのだが、難題は別の方角からやってきた。

しもた屋之噺(143)

杉山洋一

昨日は、酷いガス漏れで学校前の通りが警察と消防で封鎖されていて、行き付けの食堂も臨時休業させられていました。それから息子を迎えにゆくと、今後は息子が遊びに行った友人宅のアパートで火事があり、消防車と救急車が駆けつけ、住民は全員避難させられて大変だったと言います。そんな話をしながら家に着くと、庭に通じる勝手口が開け放たれたままになっています。どうやら庭に泥棒が入ったようですが、今回は防犯ベルに慌てて逃げたようです。庭に置いてあった芝刈り機など、既に前回全て泥棒にやられておりましたから、今回は特に盗まれるものもなく、有難いやら情けないやら。師走やらクリスマスの声を聞くと、どうも世間が世知辛く物騒に感じられるのは、まあ、考え過ぎということにしておきます。

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 11月某日 自宅にて
息子の日本の国語の教科書に「饅頭こわい」が載っていたので、枝雀の「饅頭こわい」を見せる。早すぎて何を言っているか分からないようなので、小さんを見せると笑った。少しは慣れたかしらと枝雀の「代書屋」を改めて見ると、今度は大いに笑っている。子供のころテレビで落語を見ていて、聴衆がどっと笑う直前に空気がすっと一瞬無音になるのが新鮮だった。

 11月某日 自宅にて
17絃のための新作の素材を探していて、当初「越天楽」と「富貴」から素材を得るつもりだったが、三善先生が亡くなられて、すっかり思いが失せてしまった。色々と音源を聴いて一番心に馴染んだのが「誄歌」だったのは、自分でも意外だった。
粗方を採譜してから、盤渉調を基本にした調絃を考える。17絃を8+1+8と分けて中心に盤渉が来るように並べると、最高音あたりで絃に余りが出て纏まらない。古代中国の雅楽の音律旋法などを参照しながら、最低音と最高音を盤渉とし、盤渉調を基本とする4音ずつで埋めてゆくと、少しバランスが取れたので、沢井さんに見ていただく。当初楽箏の盤渉調に等しい調絃をとも思ったが、倭建命が薨じて八尋の鳥になり、野をゆき海を飛び磯を伝ったように、さまざまな調をわたる曲が書きたい。

 11月某日 市立音楽院にて
マントヴァの音楽祭のため、赤色を絡ませた新作を何かとアルフォンソより頼まれる。黄鐘調は赤の意味だったと思い出し、舞楽のヴィデオを眺める。宮崎駿が好きな息子が盛んに雑面を見せろとせがむので「安摩」を探すと、早速白紙に書き写し頭から被り踊った。
階下では、家人がフィオレンティーノによるピアノ編曲のバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタをさらっていて、子供のころに練習していた記憶が蘇る。グライダーに乗って宙をなめらかに滑ってゆくような奇妙な感覚。

 11月某日 自宅にて
頼まれているフルートとトロンボーン新作の演奏会で、一緒にヴェラチーニも弾きますと村田さんよりご連絡を受ける。ふと、ダヴィンチの文字が頭に浮かぶ。鏡でヴェラチーニを写し、改めて歪んだ鏡でヴェラチーニを写し、斜めに立てた鏡でヴェラチーニを写す。魚眼レンズで映した奇妙なヴェラチーニの譜面が、薄ら見えるような気がした。幾つかのヴェラチーニ曲なら、小学校に上がる頃までに、ヴァイオリンの手ほどきを受けていた篠崎菅子先生から教わった筈だが、レッスンの度にピアノの前のソファーではしゃいで怒られた記憶以外、しっかりした当時の記憶が殆どない。レッスンは余程愉しかったようだ。

 11月某日 自宅にて
10月から指揮を始めたばかりのフランチェスカが「子供の情景」をレッスンに持ってくる。終曲の「詩人は語る」を硬く振るのを不思議に思ったが、最後まで聴いて一理あると膝を打つ。コルトーの神秘的な印象に囚われていたが、考えてみれば子供が語っていて、当の子供も前曲で眠込んでしまっている。だから夢のなかで滔々と語る子供の姿にも見えるし、話し始めて睡魔に襲われ最後には寝てしまうようにも見える。すると俄然途中のフェルマータが説得力を帯びて見える不思議。「雄弁に」という言葉が頭に浮かび、フランチェスカのカルロ・ゼッキ校訂版の譜面を覗き込むと、そっくりそのまま「雄弁に」と書いてある。

 11月某日 ローマからミラノにもどる車中にて
ローマで平山美智子さんと高橋アキさんによる湯浅先生の「おやすみなさい」を聴く。平山さんは湯浅先生が長田弘さんの詩につけたこの曲について「生きる希望を与えるため」と説明した。マウリツィオのコンフェレンスでは、ユージさんの「ニキテ」がローマで演奏されていたことを知る。時にアキさんの話す語尾が美恵さんを思い出させるのは、髪型のせいか、それともどことなく顔の輪郭が似ているからか、強かにローマの道を打つ雨を眺めながら思う。「あなたのことは、ずっと昔に功子さんから聞いていたわ」と言われて、悪いことは出来ないと反省。雨のローマは思いの外冷え込む。

 11月某日 市立音楽院にて
ゴルリのアンサンブルで、来年一年かけてドナトーニの独奏作品を全曲演奏するそうだ。会場の壁に弟子たちが手書きの思い出を書いた紙きれを貼るというので、キリスト教大でレッスンした後に清書し、サンタンブロージョ駅前のポストに投函する。ロンドンから録音する新作の演奏内容の確認が届き、アンドレアからはオルガン新作の仮録音が送られてきて、レジスターを何箇所か変更しなければと思いつつ、ずっとどこかでニューヨークで初演する作品に使うための歌詞を探している。アイメルトの「久保山愛吉のための墓碑銘」を聴く。

 11月某日 自宅にて
日本の食品誤表記のニュースを読む。有名オペラ劇場来日と銘打ちながら、劇場オーケストラの実際は、正団員より寧ろ大方エキストラだったと聞いたことがある。評論家が有名な録音の演奏解釈や音色について書いていても、本人からすれば出来の良い演奏を繋いだだけかもしれないし、録音監督の意向で演奏解釈すら変更しているかも知れない。それらは、人を陥れるための行為ではないし、寧ろ良心の賜物にちがいない。自分が好きならそれでよい。尤も、友人の写真家は毎日モデルの顔をフォトショップで直すのが嫌で、植物の写真ばかり撮るようになったが。

(ミラノにて 11月29日)

羽根のひと

璃葉

電車の中で、大きな羽根のピアスを付けた、
おじさんのようなおばさんを見つけた。
おばさんのようなおじさんかもしれない。
両耳朶に引っ掛けられた黄色と深緑色の羽根は大きく、
ふわふわ揺れていた。隣に座るサラリーマンよりも大きな身体だったが
極端に撫で肩。
文庫本を持つ手は大きく皺だらけで、爪はピンク色だった。
とにかく目立っていた。

決められた制服や目立たない服を着ている人達が多い平日の朝の箱の中で、
独特で鮮やかな格好をした人を見つけるのが少しだけ好きだ。
1秒程見つめると、彼(彼女)達は、私の頭のなかに三日間ぐらい居座っている。

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システム

大野晋

おおまかに分類するとシステムの構築とその理解に関するお仕事をしている。最近、特にシステムについて考えることが多くなり、自分のことをそう思うようになってきた。

システムは実際にはモノではなく、システムとはもののミカタなのだそうだ。だから、同じものでも見方によってはシステムに見え、見る人によってはシステムに見えることはない。

もともと、生物分野の人間なので、自然の姿を見てもその中にある食物連鎖のつながりに感じたり、植物の構造が見えてきたりするが、一般の人にはそういうものは見えていないのが普通のようだ。

システムの面白いところは見る人間の見方によって、違う面が見えるということだ。例えば、更地になった土地を見ても、見る人によっては土地で暮らした思い出に見えることもあるだろうし、人によってはその土地の経済価値からお金に見えることがある。そんな見方の違いを中学生の頃に思い知ったので、随分とませた子供になっていたことだろう。

見方の違いというと、最近では音楽も聴く人間の違いによって、聴こえ方が違うということに気づかされた。まだ、ジェームズ・デプリーストが存命の頃だから、結構前になるかもしれないが、ひとつのアニメ、コミックがきっかけになって、クラシックが注目を浴びた時期があった。そこで聴いたのだけれど、子供の頃からクラシック音楽を聴いたことのない子供にはオーケストラの響きは混雑した音の塊にしか聞こえないらしいというのだ。小さなころに、親が買った世界の音楽全集?などといった名称のレコード付の本の音楽を聴きながら育った私には思いもよらなかったが、音楽の認識もひとつひとつの音を認識して、それを識別するところからアンサンブルが聴こえるようになるらしい。

ところで、私はそのシステムの複雑さに心を奪われ、最初はコンピュータのプログラムに心魅かれたのだが、その後、関係した人間関係というシステムに鞍替えをして随分と経ったことになる。なぜ、プログラムよりも人間の方がよいかというと、複雑さがコンピュータとは比べ物にならないと感じられるからのように思う。

さて、写真、絵画、音楽など、様々に散らかした領域に共通するのは、私の興味がそこにあるシステムの構造に心魅かれるということなのかもしれない。かくして、一歩ひくか、頭上2メートルからモノを見る自分が出来上がることになる。

ジャワ舞踊とクロスジェンダー

冨岡三智

本当は先月の続きで「ジャワ舞踊作品のバージョン2」を書くつもりだったのだけど、11月末に来阪したジャワの舞踊家ディディ・ニニ・トウォ氏に絡めて、ジャワ舞踊のジェンダーについて先に書きとめておきたい。

まずはディディ氏の来日について。今回は大阪大学でセミナーとワークショップがあった。セミナーのタイトルは「性を超えるダンサー ディディ・ニニ・トウォ:芸術上演における身体とジェンダーを考える」。彼はその中で、ジョグジャカルタの伝統舞踊「ゴレ・ランバンサリ」、レンゲル・バニュマス、自作「ドゥイムカ・ジャリ」の3曲を上演した。彼はジョグジャカルタを拠点に、インドネシアでクロスジェンダー専門の舞踊家、つまり男性舞踊を全くせず、女形を専門とする舞踊家として活躍している。

インドネシアではクロスジェンダーに対する敷居がわりと低いというのが、留学していたときの私の実感だった。ディディ氏は純粋な女形だが、男性舞踊以外に女装して女性舞踊もやるという男性舞踊家は意外にいる。特に、若い舞踊家にはディディさんのスタイルを模倣している人も多い。また、伝統的にも、ジョグジャカルタ宮廷にはかつて男性のブドヨ(ブドヨは女性による儀礼舞踊)の踊り手がいたし、東ジャワの大衆芝居ルドルッは伝統的に男性ばかりで上演されていたので、女形がいた(現在では女性の役は女性が演じる)。留学していた時に、マカッサルにある男性が女装して暮らすコミュニティの芸能(名前は忘れた)を見たこともある。ディディ氏が今回上演したバニュマス地域のレンゲルという女性が踊る民俗舞踊にもまた、男性の踊り手が存在する。しかし、それでも女形に対する偏見などもあって、伝統的なクロスジェンダーの踊り手は減っているので、ディディさんはインドネシア各地の女形の伝統を伝える活動を続けている。

ジョグジャカルタとスラカルタは同じマタラム王朝から分かれたジャワの王家で、どちらの王宮にもブドヨという舞踊が存在し、ブドヨの踊り手は王の側室候補にもなる。けれど、男性のブドヨの踊り手はジョグジャカルタの方にしか存在しなかった。このことが不思議でディディ氏にも聞いてみたが、彼もなぜかは分からないと言う。これはまあ王の嗜好の違い、つまり、ジョグジャカルタの王はバイセクシュアル、スラカルタの王は女性オンリーを反映しているだけかなと、私は思っているのだが。

それはそうとしても、スラカルタ宮廷では男女の舞踊の区別はかつては厳しく、男性は男性舞踊だけを、女性は女性舞踊だけを踊った。私の舞踊の師であるジョコ女史の舅クスモケソウォ(1909〜1972)はスラカルタ宮廷の踊り手としてその教えをずっと守る人で、娘たちには男性舞踊を習わせなかった。また、彼がスリウェダリ(商業舞踊劇ワヤン・オランを上演する劇場)の指導に呼ばれたとき、女性が男性役を演じているのを見て立腹し、ずっとそっぽを向いたままだったこともあったらしい(同劇場元支配人トヒランの言葉)。

とはいえ、スラカルタ様式の舞踊では、女性が男性舞踊を踊るということはよくある。ワヤン・オランでは、見目麗しいアルジュノのような男性優形の役は女性が踊ることが多い。アルジュノはアルス(優美)の極致のような人物なので、それを女性的な外観によって表現していると一般的に言われるが、商業舞踊の世界では、女性が踊る方が観客には魅力的だという理由の方が大きいだろう。アルジュノどころか、チャキル(羅刹)などまで女性がやっていることもある。また、スラカルタ王家の分家であるマンクヌゴロ家では、ラングン・ドリヤンという宝塚歌劇のように女性ばかりで演じる舞踊歌劇が発展した。そこでのトップスターはメナ・ジンゴという王(荒型)役で、マンクヌゴロ侯はメナ・ジンゴの衣装をつけたままの踊り手を寝所に呼んで寵愛したらしい。

クスモケソウォがクロスジェンダーを嫌ったのは、舞踊を瞑想の実践だと考えていたからではないかと思う。サルドノはクスモケソウォが「ヴィパッサナ瞑想を、たえず毎日の生活でおこなっているように見えた」と語っている(水牛の本棚No.3に原文があります。この文では、クスモケソウォではなく、前名のアトモケソウォで出てきます)。性を越境しようとすると、どうしても自分の性的な魅力、他人からどのように見られるのかということを意識せずにはいられなくなる。踊り手が男にせよ女にせよ、そのような意識を滅却して瞑想である舞踊を実践し、悟りの境地を目指すことこそがクスモケソウォには重要に思えたのだろう。

ここで話はディディ氏に戻ってくるのだが、クロスジェンダーの舞踊に取り組む彼の代表作に「ドウィムカ(2つの顔)」がある。今回のセミナーで、1980年代末から彼がこの作品を何度も改訂してきたことを知った。思えば、私が1990年代初めに何度か見たディディ氏の「ドウィムカ」は、第1バージョンだったのだ。それはともかくとして、彼がそんなに2つの顔というテーマにこだわり続けることが、私には興味深かった。彼は自分のショーとしての舞踊や、プロとして最高に楽しんでもらえることに、とてもプライドを持っている人である。けれど、クロスジェンダー舞踊家には性倒錯の魅力という表面的な理由以外に、隠れた根源的な存在理由があるというプライドも持っている、と私には思える。その根源的な存在理由を探して、彼は様々な地域において伝統的に廃れつつあるクロスジェンダー舞踊を掘り起し、学び、記録するという活動を続けているのだろう。

レンゲル・バニュマスという舞踊は、昔は田植え前や稲の収穫後の儀礼で踊られたものらしい。セミナーの翌日、レンゲル・バニュマスのワークショップが大阪大学の授業の一環であったときに出た話題だが、かつては、インダンと呼ばれるものが降りた人だけがレンゲルの踊り手に選ばれていたとディディ氏は言う。インダンというのはビダダリ(天女)のようなものらしく、それが見えるのは霊的な力がある人だけのようだ。そのインダンが宿った人は、男性であれ女性であれレンゲルになるのだそうだ。レンゲルの踊り手には女性が多いが、男性もレンゲルに選ばれると、女性舞踊家として生きることになるらしい。そんな高齢男性のレンゲル舞踊家ダリア氏がまだバニュマスに健在だということで、ディディ氏はその記録映像を今年制作している。その話を聞いて、ディディ氏が考える本来のクロスジェンダー舞踊家のあり方はそういうものかも知れないと思った。何かが降りてきて選ばれてしまった、だからそれになるしかない、というもの。「ドウィムカ」の作品について、そのアイデアはどこから来たのかというような質問がセミナーであったような気がするが、彼は持って生まれたものというような言い方をしていたように思う。

ディディ氏には、やはり何かが降りているのだろう。彼は芸術アカデミー在学中、「ブドヨ・パンクル」(スラカルタ様式のブドヨ)の試験でバタッ(一番メインの踊り手)を踊っている。このブドヨにはバタッのソロのシーンもあり、普通なら女学生が選ばれそうなものだ。この抜擢にはディディ氏自身も驚いたらしい。実はその授業の担当は私の師のジョコ女史だったので、なぜディディ氏をバタッに選んだのかと生前ジョコ女史に質問したことがある。「ディディが一番上手かったのよ」というのが答えだった。たぶん、その頃にはすでにインダンだか何かが彼には降りていたのだろう。

オトメンと指を差されて(64)

大久保ゆう

さて12月がやってまいりました。みなさんもうすぐクリスマスですよっ!(わくわく)無類のクリスマス好きであるわたくしは、もうそれだけでテンションが上がってしまうばかりか、いそいそうきうきとクリスマス関係のものを観たりながめたり読んだりすることが生活の一部となります。

そういえばみなさん、赤鼻のトナカイのことはご存じですよね。有名な童謡。それではそのトナカイさんに原作の絵本があることは知ってますか? しかもなんと3冊も!

1939年にロバート・L・メイというコピーライターが著した『ルドルフ:赤鼻のトナカイ』という3色刷りの絵本がそもそもの始まりでした。そこからあのお歌に翻案されて世界中で知られるようになったのですが、絵本の方はもちろんお歌で知るあのストーリー通りでありながら、ちょっと違う(もっと詳しい!)ところもあります。

デンヴァー・ギレンという人の素朴な絵を添えながら、本文は詩の形で進んでいくのですが、サンタさんと赤鼻のトナカイはすぐに出会わずその年のクリスマスイヴがひどい天候でさんざんサンタさんが困ったあげくトナカイの村にプレゼントを配りにいったときに寝ているルドルフと偶然出会うとか、あるいは赤鼻には暗い夜道だけではなく真っ暗な部屋を照らしてサンタさんがプレゼントを子どもたちの枕元に置きやすくするという役割もあるのだとか、なるほどと思えることも描かれつつ、そのほかトナカイの勧誘シーンにはこんな記述も。

  (サンタのおじさんはここで、ルドルフをすごく
   気づかって「すばらしいおでこ」と言いました)
  「でかい赤鼻」なんて呼んだら人聞き悪いですし!

えええっ! と思ってしまいますが、このあと本文でもルドルフの赤鼻を参照しようとするときは毎回「ルドルフの……その……おでこが」と言いよどむあたり、配慮が徹底していたり。ただしこれは例の歌が流行ったあとの改訂版では、〈赤鼻〉が有名になったためか、すべて消えてしまうのですけれども。

さらに書かれた2つの続編については、もっと知る人の少ない絵本です。ただし1951年の『ルドルフの二度目のクリスマス』は、詩から散文になり、同じ人の書いたものとは思えないやや精彩を欠いたものになっていまして。

赤鼻のトナカイは、その主人公の持つ特徴から、差別をテーマにした作品とも受け取られているのですが、その観点からすると、二作目はその側面を捉え間違ってしまったのか、詳しいお話は省略しますが、いわゆる〈フリーク・ショー〉を無邪気に肯定してしまう結末になっておりまして、少々問題があります。とはいえ、元々絵本用・出版用に作られたものではないらしいので、各キャラの雰囲気が違うことも含めて、仕方ないことなのかもしれません。

しかし3作目、同じく詩によって書かれた正当な続編たる『ルドルフに光ふたたび』(1954)は、今でも〈赤鼻のトナカイ〉へたびたびなされる批判に対しても真摯に答えており、1作目と比べてもまったく遜色ない作品になっています。

ルドルフはその赤鼻という希有な特徴、言い換えれば〈一芸〉によって注目され、活躍し、周囲にもてはやされたわけなのですが、この作品で語られるのは、その〈一芸〉に対する嫉妬や不安、それにまつわる自己認識や挫折、そして再生です。

1作目の結末では、ルドルフが一転いじめられっこからトナカイたちの人気者となるのですが、3作目ではそれから時間も経ち、周りの目も変わり、次第に〈憧れ〉は〈ねたみ〉へと移っていきます。

  聞こえてくるひそひそ声。「なんであんなやつが」
  「オレたちの方が強くてでかいし」「年上なのに」
  「こっちは腰痛めてるのに、あいつだけ目立って」

そして始まる陰湿ないじめに、やがて消えるルドルフの鼻の光。唯一の〈一芸〉がなくなってしまった彼は、自分の存在価値そのものが失われたと感じて、クリスマスを前にサンタの元から家出してしまいます。夜の闇のなか、かつての自分のことを知らないような、できるだけ遠い場所へ行こうとするのですが、その先で出会ったウサギの群では、子どもたちが行方不明になっていて。このままでは野犬に食べられてしまうと嘆く両親、光る鼻があればすぐ見つけられるはずなのに……

そのあと描かれる、単なる幸運ではなく、自分の力によって自信を取り戻していくルドルフの姿には、とても強く心を打たれます。この3作目と1作目がひとつになった絵本も昔に出ているのですが、合わせて読むと、ただ個性を尊重しようという楽観的なものではなく、都市伝説的に流布しているルドルフのお話とはまた別の趣が、原作絵本にはあったことがわかります。

いずれも未訳。いつか全編を日本語でご紹介できるといいのですが。

アラスカ事件、その後

植松眞人

 真っ暗というよりも、深い青に見える夜。大きな満月の光が夜を青くしているんだろうな、と渡辺由布子は思った。そんな青い夜に五年ぶりに集まった五人の男女は、同じ映画学校の夜間部の卒業生だ。
 業界での仕事は終わる時間も不規則だということで、夜の八時に設定した集合時間に集まったのは由布子と平澤達也の二人だけだった。結局、五人が顔を揃えたのは学生時代によく通った居酒屋の閉店時間ぎりぎりの十一時前。ちょっと学校に行ってみいひんか、という平澤の声にみんなが従ったのは、まだ話したりないという気持ちがあったからに違いない。
 結局、学校の校舎の脇にある非常階段を上がり、屋上へと出た。周囲にはそれなりに高いビルもそびえてはいたが、さすがに屋上まであがると空が広く気持ちが解放されるような気がした。
 学校に行ってみいひんか、と平澤が言ったときには珍しく気持ちが高まるのを覚えた。由布子はもっと純粋に話したかったのだ。
 映画の学校を出て、映画の業界に飛び込むこともせず、いつかは自分の映画を撮るのだと思い続けることも難しく、最近では映画館に足を運ぶことさえ避けるようになっている。そんな自分自身のいまを誰かに聞いて欲しい思っていた。もしかしたら、映画学校の仲間と再会することで、また自分の映画が撮れるのではないかという期待も持っていた。でも居酒屋ではそんな話はこれっぽっちも出なかった。由布子も自分からそんな話をすることができなかった。

   ■

「五年ぶりに集まらへんか」
 と電話をしてきたのは岡崎恭平だった。恭平は映画学校の夜間部の五人の仲間の内、いちばんの年上で、入学時にすでに三十七歳だったから今は四十二になっているはずだ。
「なんかな。昨日久しぶりに深夜のテレビでナベちゃんが好きやったフランス映画やってたんや。それ見てたら、なんやみんなに会いたなってなあ」
 岡崎は大学を出てから役所勤めをしていて、妻も子どももいるのに映画が撮りたかったんや、と映画学校の夜間部にやってきた変わり種だった。その年の夜間部の最年少だった由布子とはひとまわり以上も歳が離れていたが、映画の好みはいちばん合う相手だった。
 由布子と岡崎は、自分たちがそのフランス映画を真似て撮った小さな映画の場面の話などをして電話を切った。
 夜間部に入学したとき、由布子はちょうど二十歳だった。中途半端な私立大学を一年で中退して、やっぱり好きな道で生きていこうとアルバイトでお金を貯めて、映画の専門学校へ入学したのだった。昼間働いて夜勉強がしたいと思ったわけではない。ただ、夜間部の学費が安かっただけのことだった。しかし、結果的に、年齢的にもばらばらな学生が集まる夜間部は、由布子にとってとても面白い二年間になった。
 卒業するまでに由布子は四本の映画を撮った。十六ミリのフィルム作品が一本、ビデオ作品が三本。どれも、二十分に満たない作品だが、ひとつ一つに想い入れがある。
 五人が忍び込んだ学校の屋上も、かつて由布子が監督した作品のうち二本に登場する場所だ。夜の撮影はしたことはなかったが、こんな青い夜空を背景に、男と女が別れ話でもしているシーンが撮れたら面白いだろうな、と由布子は思っていた。
「けど、ほとんどの同期が業界を離れてるとは思わへんかったわ」
 岡崎が本当に驚いたように言う。
「ほんまやなあ」
 そうのんきな声を出したのは、由布子より二つ年上の桑原ゆかりだった。ゆかりは、撮影が押して緊張感が走る現場でも、のんびりとした空気で場を和ました。
「結局、五人の中で、いまでも撮影所で撮影の仕事をしてるのは高橋くんだけね」
 ムードメーカーだったからこそ、ゆかりは卒業後もみんなから仕事や恋愛の相談に乗っていたらしい。
「岡崎さんは最初からちゃんと仕事してたからええけど、それ以外で業界に残ってるのは高橋君だけって、不思議な感じがするわ」
 由布子がそう言うと、平澤が大きくうなずいた。
「そやろ。高橋なんて撮影中いっつも文句ばっかり言うてたからなあ」
 平澤が大げさに言って笑う。
「そやけど、それは高橋君が、学校におる間も真剣に撮影に取り組んでたからかもしれへんなあ」
 岡崎がそう言って、みんなが少し静かになる。そうやんな、という顔で岡崎は由布子に同意を求める。
「そやで。高橋君、なんやかんや言うても、現場が好きやったからな」
 卒業以来、アルバイトで食いつないでいる由布子は、そのアルバイトが先週で契約切れになったのだった。
 最近の由布子は何をしてもうまくいかない。卒業してから二年間続けたCDショップはネットの通販サイトに押されて閉店してしまったし、心機一転、映画に近いところで働きたいと勤めた映画館は、シネコンになってしまい人件費削減でリストラされてしまった。みんなも似たような状況ではあったが、由布子にはその中でも自分が一番ついていない気がして、居酒屋で飲んでいる間、ずっと自分の近況を言い出せずにいた。おそらく、仕事だけではなく、付き合っていた男との別れや、父親の死や、同い年の従姉妹の結婚など、ここ数年、心をざわつかせるような出来事ばかりがあったせいだ。そう由布子は思っていた。
「そやけど、俺は自分が卒業する時に思ってたこと、なんにも出来てないわ」
 ふいに平澤が言う。
「思ってたことって?」
 岡崎が聞き返す。
「年に一本は短編でもええから映画を撮ろうって思ってたこととか」
 平澤がそう言うと、みんなが少しずつそれぞれに遠慮がちに視線を送る。
「そういうたらそうやなあ。みんなで集まって映画撮ろうって、言うてたなあ」
 岡崎がそう答えると、
「ま、なんとなくこんな感じになるかなあとは思ってたけどね」
 と平澤が苦笑する。
「あんたは、いっつもそうや」
 由布子は平澤に低く声を荒げる。
「なにが?」
「なにがって。あんたはいっつも、そういう嫌なことをいうやろ」
「嫌なことって、ほんまのこと言うてるだけやん」
「ほんまのことなら、何を言うてもええんか」
 由布子の剣幕に、達也は黙ってしまう。
「ナベちゃん、そんな怒りなや」
 年長の岡崎が取りなそうとする。由布子は平澤の隣から、いちばん離れた岡崎の隣に移動する。
「ナベちゃんらしいなあ」
 ゆかりが、そんな由布子を見て微笑む。岡崎も由布子を見て笑っている。
「そうやねん。ナベちゃん、撮ったカットが気にいらんかったらすぐ怒るしなあ」
「けど、ええカットが撮れたらニコニコしてなあ」
 自分を話題にされて、居心地の悪そうな由布子。
「あんたら、私の話はやめてえな」
「いやいや、相変わらずナベちゃんは可愛らしいわ」
 岡崎が少しからかうように言うと、由布子が、「しばくぞ」と本気ではなく毒づく。
 そんな由布子を岡崎は愛おしそうに眺めて笑う。
「そしたら、俺はそろそろ帰るわ」
 岡崎がそう言うと、由布子が慌てる。
「なんで、もうちょっとおれるんとちゃうの」
「俺、明日仕事、朝早いねん」
 岡崎がすまなさそうに言うと、ゆかりが
「そしたら、私も一緒に帰るわ」
 と同調する。
「私もアルバイトがあるから」
 と言うゆかりを岡崎が笑う。
「アルバイトって、歳いくつやねん」
「ほっといてください〜」
 岡崎の質問に、おどけて答えるゆかりも、なんとなくいまだにアルバイト勤めであることの羞恥のようなものがあり、ただ可愛いだけの女の子ではなくなって、人の暮らしの中のよどみのようなものが見えるようになったなあと由布子は思ったのだった。しかし、由布子はそれがむしろゆかりの味のようなものになっているのではないかと思えて、微笑みながらぼんやりとゆかりを眺めていた。
 みんなが帰ってしまうと、由布子と平澤だけが屋上に残った。相変わらず、空は濃い青色をしていて、手すりにもたれて眺める空のど真ん中に大きな満月が黄色く浮かんでいる。
「さっきはごめんな」
「ごめん言いながら笑ってるやん」
「笑ってないよ」
「いや、笑ってる。だいたい平澤は、ほんまに人の心に遠慮なしに、土足で踏み込んで、それに気付かへんねん、昔から」
「そうかなあ」
「そうやねん。そやから、みんな映画とか撮ってへんなあ、なんて平気で言えるねん」
「平気やないよ」
「そうかなあ」
「俺はナベちゃんが映画を撮るなら、手伝うつもりやし。な、また一緒に撮ろうや」
「撮ろうやって、サラリーマンが手伝えるわけないやろ」
「いや、手伝う。仕事を辞めてでも手伝う」
「うわっ。何いうてんの、それ。頭悪いわあ。嫌やわあ」
「頭、悪いって」
 平澤は笑い出してしまう。
「なに笑てんねん」
「いや、なんかもう渡辺らしいなあと思ってな」
「笑うな」
「笑うわ」
 二人、顔を見合わせて笑っている。
「だいぶ、平澤らしい感じになってきたな」
「そうか。なんか五年ぶりに会うって、緊張してたんかもしれんなあ。やっとリラックスしてきたんかもしれん」
「遅っ。リラックスまで、どんだけ時間かかってんねん。あんたはずっとそんなふうに、人の気持ちも考えんと笑てたらええんや」
「はいはい。そうさせてもらいます」
 由布子、平澤を眺めながら居住まいをただしてみる。
「なんか平澤くんも調子出てきたことやし、学校の中に忍び込んでみよか」
「よっしゃ、忍びこんだれ!」
 二人、芝居がかった声を上げて、屋上から外付けの非常階段を降りはじめる。なるべく足音を立てないように階段を降りながら、平澤が小さく鼻歌を歌う。
「それ、私の卒業制作で使ってた、ドビュッシーの曲やん」
 由布子は、前を行く平澤に声をかけてみたのだが、平澤には聞き取れなかった様子で、問いかけには答えず、そのまま階段を降りていく。由布子はその後ろ姿を眺めながら同じように階段を降りて、校舎の裏側にある地下へと潜る階段から、夜の学校へと忍び込んだ。

         ■

 由布子と平澤は、学生時代によく一緒にこもっていた編集室の扉を開ける。
「相変わらず不用心やなあ」
「ま、私らにとったら編集機はお宝やけど、一般の人はこんなもんもらってもどうしようもないからね」
「そらそうや」
 そう言いながら、二人はフィルムの編集機を懐かしそうに眺めている。
「ビデオ機材増えたね」
「そらそうやろ。今どきフィルムやる奴も少ないと思うよ」
 平澤はフィルム編集機の前に座ると、電源を入れてみる。薄く赤い光がともる。由布子もそこに座り、じっと光を眺めている。赤かった光がゆっくりと橙色になる。
 編集機の上に、十六ミリフィルムの小さなリールが出しっ放しにしてあり、由布子がそれを引っ張り出す。
 編集機を照らすうっすらとした光の中に、フィルムを掲げて、そこに定着された映像を見つめる由布子は、フィルムを上下に送りながら、映像の動きを眺めている。
「私はフィルムの質感が好きやけどなあ」
「そやけど、卒業制作、ビデオで撮ったやん」
「それは、カメラの高橋くんが『フィルムの質感よりもビデオの機動性が今度のお前の作品にはあってるんちゃうか』って。そういうたんやもん」
「出た。すぐ人のせいにする」
「人のせいにしてないよ。最後は自分で判断したんやから。そのくらいのことはわかってます」
 そう言いながら、由布子は笑う。笑いながら、目の前の十六ミリフィルムをまた眺めている。学生がテスト撮影でもしたのだろう。フィルムには学校の近くのビル群がただ延々と映し出されている。じっと目をこらして眺めていても、露出が暗く、ピントも中途半端で、何より構図がずれていて、何を写したいのかわからないカットが続く。そんな、ただフィルムを回したのだ、という結果が目の前に定着されている。由布子にはそれがとてもうらやましいことのように思え、同時に、とてもくだらないことのようにも思えた。
 最近になって、由布子は考えるようになった。いくらフィルムを長く回しても意味はない、と。長い間、フィルムを回しても、ビデオを回しても何の意味もない。問題は、きちんとラストまで撮れるかどうかだ。どんなに短くても、きちんとラストまで撮られた作品はきっと自分自身の明日につながる。それは、映画だけに限らない。小説でも絵画でもスポーツでも同じだろう。テニスの素振りだけを繰り返しても意味はない。うまくはなるだろうが、コートに出て勝負をしなければわからないことがたくさんある。
 数週間前、同窓会の誘いの電話をくれた岡崎と昔話をしながら、由布子はそんなことを考えたのだった。岡崎が、由布子の映画の趣味を誉めてくれるのを心地よく聞きながら、その心地よさが由布子から映画を引き離してく感覚を刻みつけられたのだった。
 その点、いま目の前にいてぼんやりと編集機材を触っている平澤には、昔からいらつかされたことはあっても、癒されたことはなかった。追い詰められた「もう、これでいい」と絵コンテを決定した後に、「こんなカットより、こっちの方がよくない?」などと言い出して、よくケンカになった。「あんた、どっちの味方やねん」と由布子が声荒げて聞くと、「どっちの味方って…。俺はおもしろいもんが出来たら、それでええねん」と言い放ち、その通りに平澤は誰の味方にもならずに、常に中立の立場で映画と接し続けた。だからこそ、いまから思えば、平澤の意見には真っ当なものが多かった。だからこそ何か迷うことがあれば、よく平澤に意見を聞いたものだ。由布子はそんなことを思い出しながら、平澤に聞いてみた。
「なあ、アラスカ事件、覚えてる?」
 由布子が言うと、平澤が少し驚いて苦笑いをする。
「もう、やめてくれよ。アラスカ事件言うの」
「けど、アラスカ事件って聞こえたんやろ」
「はいはい。そうですよ。誰かがこの話をしたときに『あ、ラストカット事件やろ!』って言いよったんや。それが俺にはアラスカ事件に聞こえたの」
 散々からかわれたことを思い出したのか、平澤が吐き捨てるように言う。その様子を見て、由布子が笑う。
「怒らんでもええやんか」
「怒ってません」
「怒ってると思うけどなあ」
 そう言われて、今度は平澤が笑う。
「けど、誰がラストカットを勝手に変更したんやろ」
 由布子が目の前のフィルムを触りながら、怪訝な面持ちで言う。
「だってな。夜間部の同級生はみんな知らんいうし、卒業制作の発表会の時にラストが変更されたあの映画を見たときもみんなびっくりしてたもんなあ」
「そやねん。おかしな事件や。もしかしたら、監督が誰かに恨まれてたんとちゃうか?」
「なんで、私が恨まれるねん」
「誰かとラストシーンについて、議論してたわけでもないしなあ」
「犯人はあんたか」
 そう言われて、平澤の動きが一瞬止まる。
「びっくりした。なにを急に言うねん。唐突に言われたから、びっくりして一瞬動きが止まったわ」
「あんたはどっちが好き?」
「なにが?」
「そやから、私が最初に編集してたオリジナルと、上映会の時に見た変更されてたラストと」
「どうやろ。どっちもありかなあって。どっちも味があるし」
「なんか、怪しいなあ」
「怪しないって。そやけど、正直、あの映画のラスト、ちゃんと覚えてないねん」
「私はもう絶対自分が編集したやつが好きやねん。だって、変更されたラストやったら、女がめっちゃ冷たい女のままやねんもん」
 言いながら由布子は、手に持っていたフィルムをクルクルとフィルムリールに巻き取り、平澤に笑いかける。
「なあ。あの卒業制作、もう一回見てみよか」

    ■

 学内の試写室で由布子と平澤がスクリーンを見つめている。その顔がプロジェクターの光に照らされて、暗闇から浮かんだり、また暗闇に消えたりしている。
 由布子が監督した作品がだだっ広い試写室で上映されている。ポツンと座る由布子と平澤。平澤は由布子の一つ後ろの席で、由布子の肩越しにスクリーンを見ている。ラストシーンが近づいてくると、由布子の肩が少し緊張したような気がして、平澤は思わず「もうすぐやなあ」と声をかけた。声をかけることで緊張が解ければと思ったのだが、由布子は小さな声で「うるさい」と返して、振り向きもせずにスクリーンに見入っている。
 主人公の女が男と別れ話をして、部屋を飛び出すシーンだ。女が階段をどんどん降りていく。男が女を追いかける。カメラは男の見た目の一人称で、女を追いかけていく。付かず離れず、女の後ろ姿が近づいたり遠くなったりしながら、風景が少しずつ変化していく。
 由布子が監督し編集したオリジナルは、ラストで追いかけてきた男を振り返り、愁いを含んだ笑顔を向けて手を振る。そして、再び背を向けるともう二度と振り返ることなく雨の中に消えていく。
 しかし、五年前の卒業制作の発表会の日に由布子たちが目にしたのは、男を振り返る直前でカットされたラストだった。最初は上映設備の故障かと思った、とその場にいた夜間部の同級生たちは話し合ったものだ。だが、その途切れたカットの後、スタッフやキャストを伝えるエンドロールがきちんとつながっていたところを見ると、それが意図的に編集し直されたものであることは明白だった。
「もうすぐやなあ」
 平澤が声をかけたその瞬間に「もうすぐや」と固唾をのんでいた由布子は、その絶妙なタイミングに思わず「うるさい」と平澤に返してしまったのだった。
 スクリーンでは淡いピンクのニットを着た女の後ろ姿が画面いっぱいに映っている。長い黒髪がピンクのニットの上で前後左右に踊り、女の足取りの軽さを伝えている。由布子はどんなタイミングでカットが変わるのか、五年ぶりなのにも関わらず逐一覚えていた。女が階段から降りて、右に曲がり、小さな鉢植えの赤い花をチラッと見る。次のカットは女の右肩に黒髪が乗ったままになっていて、それを女が自分の手で払い、また歩き出す。
 そんな細かなことまですべて覚えていることに、由布子は自分で驚いた。自分はどれほどこの小さな映画を懸命に撮っていたのだろうと、あの頃の自分を振り返ると胸が締め付けられた。そして、あの頃を自分自身がまだ微笑ましく思えないほどに、生々しく思い出していることに情けなくなってしまう。映画を撮りたいんだなあ私は、と由布子は思う。いま、自分の映画を見ながら、すぐ後ろの席いる平澤が驚くほどに大きな声で「映画が撮りたい」と叫びたい衝動に駆られる。そして、そんな衝動を持ち続けていることに由布子は呆然としてしまうのだった。ピンクのニットが画面を覆ってしまうたびに、女の黒髪が左右に揺れるたびに、由布子は自分の気持ちがはっきりとしてくることに気持ちを高ぶらせた。
 女が男の主観であるカメラから少し距離を置くところまで早足で歩いていく。「ここや」とまた背後から平澤の呻くよう声が聞こえる。すると、女が立ち止まったのだった。立ち止まった女は見ている観客の方を振り返り、許しているような怒っているような、そんな微妙な笑顔を見せて、手を振るのだった。
「渡辺のオリジナル通りや」
 平澤が独り言のようにつぶやく。
 スクリーンに映った女は一度振り返ったあと、二度と振り返ることなくどんどんと歩いていく。その小さくなっていく後ろ姿を見ながら、由布子は「ああ、私の映画や」と思っていた。
「俺、こっちのラストのほうが好きや」
 平澤が言う。
「ほんまにそう思う?」
 由布子が平澤に聞く。
「うん、ほんまにこっちのほうが好き」
 平澤が間の抜けたような声で答える。平澤の緊張感のない声が、由布子には胸に染みいるように入ってくる。そして、いま一緒に映画を見ている平澤が「こっちの方が好き」だと言ってくれただけで、なぜか、涙が溢れてきた。
「どうした?」
 と聞く平澤に「そやから、学生時代からあんたは妙にタイミングがよくて気持ち悪いねん」と心で思いながら、由布子は無言でエンドタイトルを見ている。
 あと数十秒でエンドタイトルが終わる。それまでに、この涙を止めることができるだろうか。後ろの席に平澤の気配を感じながら、由布子は泣き、そして、同時に微笑んでいた。(了)

掠れ書き35

高橋悠治

リズムには緩急(agogique)があり、メロディーには強弱(dyanmique)があり、ハーモニーには転調(modulation)がある。これはヴァンサン・ダンディの演奏についての教えらしい。その愛弟子だったブランシュ・セルヴァの『ソナタについてひとこと』(1914)という長い本のなかのことば。要素ではなく、それらの微妙な変化から考えはじめるというのは、この場合は作曲ではなく、すでに作曲されたものの演奏が問題だからかもしれない。ジャン=ジョエル・バルビエは『サティとピアノで』のなかで、この教えがダンディの学校スコラ・カントルムで再教育を受けたサティに影響して1910年代の小曲、特に『スポーツと気晴らし』(1914)のなかで、民謡の一節からとられたメロディーをわずかに変化させながらミニマルなバランスとはっきりした輪郭を作り出している、と書いている。全体を要素という最小の構成単位に分解し、そこから逆行して全体にたどりつくという合理主義と検証の考えかたは啓蒙主義的に見える。変化からはじめると、要素のように厳密なシステムを作れるかどうかわからない。

スコラでは対位法をまなんだようだが、サティの対位法は、もともとの意味での点対点の場合がある。『ノクターン』(1919)の2番から4番までは、2度と4度、裏側の5度と7度の響きだけを選ぶような、伝統とは逆の規則、また5番では逆に3度と6度を選ぶが、逆の逆なのに伝統的な響きにはならない。

音が響きを作り、それが変化していくのか。それとも、動きが先で、響きは後から追いつくのか。あるいは、動きは線で響きは点なのか、線は点から点への飛び石で、響きは内部変化を含んだ層なのか。逆から見れば、線は回廊で、響きはそのなかの斑点なのか。どのように考えても、対象となる音はすでに消えていて、記憶のなかにしかないから、響きも線も実在する物体とはいえない、残響と軌跡にすぎない。

音符は紙の上の黒い点で表される。それを使って楽譜を書きながら、直接表せないもの、緩急・強弱・転位にもとづいた音像を思い描くのが作曲作業で、それも19世紀的に記号やことばによる指示を細かく付け足していくのとは反対に、できるだけそれらを取り除いていくと、どうなるか。ユダヤ教聖歌とビザンティン聖歌の楽譜は動きのパターンを記す動機譜(ekphonetic)で、グレゴリオ聖歌は動きの単位によるネウマ譜、それ以後の音楽史では各音の表記へと変化した。タブラチュアのように指譜や文字譜ではなく、5線譜は図形と記号の綜合で、それ以上の改革の試みは、慣習の力に勝てなかった。

バッハの原典版のような強弱や速度指定がない楽譜か。さらに、拍子記号も調子記号も小節線もなく、音の位置と出現と消滅の順序だけを記した楽譜になれば、17世紀フランスのクラヴサン奏者たちの、特にルイ・クープランの白い楽譜プレリュード・ノン・ムジュレにたどりつく。演奏慣習や時代様式を知らないと読めないような楽譜だが、かえってすべての緩急・強弱・転位は固定されることなくそこに現れてくることも、たしかにありうることだ。ジョン・ケージの最晩年のナンバー・ピースも音の出現と消滅のおおまかな時間枠を記すだけの楽譜だった。

変化の音楽を作るには、変化を直接指示するのではなく、書かれていない余白の空間として残しておくほうがいいらしい。