144 希望の終電——土人のうたえる

藤井貞和

ふしぎな自由  力とことば  制度は火  燃え、
機動隊はきみを「土人」と言っちゃって  老者の「生」をぬり込む絵、
急ぐ流れる注ぐ  死の側溝に水の絶え絶え、
注ぐ意味  「ハート」はぼくら  自由な入り江。

跡は白波  申し込み用紙に  ものを洗う野の声に  二等車に、
捕虜の迷路に  映さない虐殺に  洩れるうぶごえに、
うた湧く胸に  藻の花に  捧げるぼくらの自由に、
それでも祈る  まだ性懲りもない友情に。

呼ぶ声がこごえに  しずかに  舗装する田に、
倒れるきみのひとばしらに  戦場のなわしろに  垂直に、
きみののこした陸稲が穂を垂らすこと  祈る。

無事で  生きて  兵舎にもどってと、
ぼくら  先生  国家の生殺与奪に負けないと、
平和と暴力  ことばの落下にそれでも祈る!

ものいみの国  ものを恋う心のさびし!
遭難のかなし!  埋めた吐息をなぜ発掘し!
だれかがきみを呼ぶ  泡のなかのあさまし!

ちがうな  ぼくらは平和産業  つまり産廃で  自殺ええ、
罪悪  きみの救いは「あら、えら、やっちゃええ、
どうしても、どうしても、助けねばならん、ええ」――

うたうらをやみのちまたに  投げあたえて、
たましいの踏切に希望の終電がさしかかって、
それでも  汚れた手のなかへ繭をにぎりしめて。

(「どこ摑んどるんじゃ、おんどれゃ、土人」と大阪から派遣された機動隊員が言ったそうです。土人の詩を書いてみました。自サ由ルへトのル道子さーん、終電です。)

夜のすみか

璃葉

つめたい風と 夜空が からだの中に 吹き込んで
しばらく居座る
月といっしょに 静かにかがやいて
星は縮み 膨らんで 暗く 明るく 消えて 現れ
音もなく 夜が留まる
呼吸だけ 耳に返り 循環し続ける
楽しくも つまらなくもない 夜

明けの霧
額 目 喉 心臓 ハラワタ 足の裏へ降り
夜は僕のからだを そっと通り抜けていく

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しもた屋之噺(178)

杉山洋一

道玄坂を自転車で下ると、機動隊の車が連なっています。物々しく何かと思うと、今日はハローウィンだからだと教えてもらいました。10月末に東京にいるのは何年ぶりか思い出せませんが、着実に日本の現実から乖離してきた自分を感じました。クリスマスもヴァレンタインも日本とどう関りがあるのかと不思議に思っていましたが、ハローウィンに至っては流行すら知りませんでした。小学生のころ、米軍座間キャンプでハローウィンに連れて行ってもらい、見ず知らずの家に出かけてはお菓子を貰う行為が子供心に理不尽だったこと、どれも派手なパステル色をしたお菓子はどれも口には合わず困った記憶が蘇ってきました。

 10月某日 ミラノ行車中
朝5時40分に目覚ましをかけると、その時刻直前に目が覚める。寝静まった朝、こちらも静かにシャワーを浴びて荷物を息子が小学生低学年の時に使っていた初代ランドセルにつめ、そっと家を出る。見かけが悪いので彼は使わないが、ここ数年どんなに重たい荷物を入れ仕事場と往来しても未だに壊れない優れもの。
自転車をサンタゴスティーノ地下鉄口に留め、中央駅まで緑線に乗るのが一番早い。9月はこうして3週間レッジョエミリアの劇場と毎日行き来したし、今日はボローニャ国立音楽院で二日目の授業。中央駅では決まって野菜ジュースを頼み、店の妙齢に生姜も入れるよう頼む。車内で仕事をしていると瞬く間にボローニャ中央駅に着く。所要時間1時間2分。
国立音楽院は市立劇場のあるレスピーギ広場を右に折れ、1本目を左に入ったところにあって、徒歩15分くらい。授業が9時から12時までだから、8時40分くらいにはレスピーギ広場の喫茶店で朝食を摂る。

ボローニャは若者の街、大学の街。行き交う人々はみな若く、活気に溢れる。古くから先進的なヨーロッパの文化都市として発展してきた。音楽にしてもしかり。チェロが独奏楽器として成立したのは、ボローニャ楽派のチェリスト兼作曲家の一群がいたから。バッハのチェロ組曲もボローニャで職にあぶれた彼らが各地へ流浪しなければ生まれなかった。若いモーツァルトがイタリアを目指した理由の一つは、ボローニャのマルティーニ神父に作曲を習いたかったから。彼がボローニャに着いた日は、ちょうど息子の誕生日と同じなのでよく覚えている。

そんなことを思いつつ音楽院の薄暗いへろへろの階段を昇ると、目の前にマルティーニ神父の像が立つ。フランシスコ会神父だった彼は授業料を受取らなかったので、イタリアのみならずヨーロッパ各地からの来訪者は、彼に無数の貴重な本を寄贈し、彼の周りには益々ヨーロッパ中の叡智が集まり、図書館の蔵書はヨーロッパ随一と呼ばれた。

大学院課程の作曲科生を対象とした、自作を振り自ら稽古をつけるちょっとした指揮講座。イランからの留学生ぺドラムは不思議な音楽感覚。カラブリア生まれのマリアステッラは優等生。子規の「汽車道に低く雁飛ぶ月夜哉」を歌詞に選んだ。
「この句は楽しく明るい印象なのですが、間違いありませんよね」、と尋ねられ、咄嗟に答えられない。楽しいとかそうでないとか、そういうものかいと答えに窮す。雁はガチョウと伊訳されていて、生物学的には間違いではないのだろうが、我々が、「汽車道に低くガチョウ飛ぶ月夜哉」と詠まれてもどうにも雰囲気がでない。その上、「ここは沢山のガチョウが騒がしく愉しげに啼いているところ。があがあ」と歌う箇所まである。
マッテオの新曲は、少しイタリア未来派の音響詩のよう。マリネッティ風。

 10月某日 ミラノ自宅
日本で育児休暇や産前産後休暇の問題が取り沙汰されて久しい。欧米ではこれら休暇がタブーではないのに、日本ではどうして定着しないのか、という論調が一般的かと思う。うちの大学では、7月秋の試験日程の調整をする大事な時期に、それまでまめまめしく日程調整をこなしてきたマウラが産休に入り、9月それらを片づけなければならない時期に、音楽院長に次ぐ役職の総括部長を長年務めたエウジェニアが、両親の介護のため無期限で休暇に入ってしまった。

当然、学校の機能は麻痺し、学内の試験も入試日程も混乱しただけでなく、当然今年の授業日程の采配すらままならない。学院長のアンドレア始め、事務局の女性陣揃ってこの処不機嫌で、とても声を掛けられたものではない。怖いので、そろそろと事務局の前を通り過ぎようとすると、中から大声で「ヨーイチ!」と声がかかる。
厄介で複雑な契約書が複数、それも幾つもの学部にまたがって必要なのに、日程すら決まらず、よって正確な時間数すら判らず、みな憤りのやり口がない。学院長秘書のシルヴァーナは契約書を作らなければいけないので、傍らにいるクラシック学部長のホセや作曲現代音楽部長秘書のカティアに、ヨーイチの時間数や日程がなぜまだ決まらないのかと声を上げ、対する彼らも、学校がこんなに混乱しているからいけないと応戦する。何しろ授業の開始日まであと3日だというのに、学生たちに授業の日程が伝えられないのだから堪らない。目の前でのやり取りに何とも居たたまれない心地になる。

もしかしたら、「何でこんな時に彼女たちは休暇を取るのかしら」、と喉元まで出かかっているのかも知れない。でも皆それは言わない。彼女たちの休暇は、正しい権利として認められている。自分も生まれてくるとき、母親は仕事を休んだかもしれない。両親が年老いたら介護しなければいけないかも知れない。当然だと誰もが思っている。
日本の論調では、推奨している休暇の結果会社に負担はないような、非現実的な書き方がされているが、少なくともイタリアではそんなことはない。休まれた側はとても苦労するけれど、迷惑とは捉えずに、単に大変だと割り切っている。「solidarietà」互助の精神。日本は迷惑を極端に恐れる、良くも悪くも慮る社会構造。

 10月某日 ミラノ自宅
家人が三宅榛名さんの「北緯43度のタンゴ」を練習している。今度息子と一緒に出演する日伊国交正常化150周年の演奏会で弾くとか。題名の北緯43度は札幌のことだとか。ミラノは北緯45度だからほぼ同緯度という繋がり。息子は中学校でフルートを始めた。下からドレミファソと5つ音が出るようになって、まず一人で吹き始めたのは、「火の鳥」のフィナーレの有名なホルンの旋律。もちろん調性は全然違うのだけれど、よほどあの旋律が吹きたかったのだろう。

机に向かって仕事をしていると、何度となく傍らに来てはぽうぽう吹いてこれは何の音かと尋ねる。それがいつもどうともつかぬ音程で、一々ラの音と比較しなければ良く分からない。最初のチューニングも未だ出来ない上に音程も取れなければ、不思議なくらい判別不明の音が出る。これはこれで興味深い事実の発見ではあるのだが、こちらもそれどころではないので、痺れを切らし、息子を連れて電子チューナーを買いに出かけ、ついでに古書の楽譜で何か面白いものはないか物色し、カセルラ校訂のショパンのバラード1番と夜想曲集の楽譜を購う。併せて10ユーロ。

特にバラード1番は、冒頭4小節目のルバートは自分なら2拍と3拍を16分音符のように演奏して4分の3拍子にするとか、13小節目はパデレフスキが右手の変二音を二音で弾くのを不思議に思って或る時問いただすと、原典版を単にパデレフスキが勘違いしていたとか、愉快な雑学が事細かに書き込んであって、読むだけで得をした気分になる。昔は誰でもこのような説明に想像を逞しくしつつ、紙媒体を通じて伝統を受け継いでくることが殆どだったろう。
興味深いのは、カセルラが校訂した当時、ショパンが解決を遅らせた倚音など、一時的に不協和音になる部分を、印刷ミスと勘違いして音を変えて演奏する習慣があったらしいことだ。7小節目右手親指の変ホ音を、ブルニョーリ版などは「怖ろしいこと」に二音に直してしまっているが、カセルラは、これらの一時的な不協和音程こそが音楽の美しさを際立たせているのだから、絶対に直して弾いてはならない、と強い口調で忠告している。今は先に音源を聴いてそれを真似するから、情報こそ正確かもしれないが想像力も理解力の深さも、当時より劣っているのかも知れない。

リヤ・デ・バルベーリスのインタヴューを見る。彼女は南イタリアはプーリアの端、レッチェの生まれで、スカルラッティの校訂で有名なナポリのロンゴにピアノを習い、37年から47年までローマやシエナでカセルラのもとで研鑽を積んだこと。初めてカセルラにピアノを聴いてもらった際、彼はほとんど何も話さず、物静かで怖かったこと。ローマで学校に入学するまでは、自宅で無償でレッスンをしてもらっていたこと。カセルラは厳格で完璧主義者だったこと。カセルラの没後、パリでマルグリット・ロンに習ったことなどを、人懐こい南訛りでよく話す。指揮者になりたかったが、フランコ・フェッラーラから女には無理な職業と言われ泣く泣く諦めたこと。

彼女曰く、カセルラも決して裕福な家の出身ではなく、チェリストの父とピアニストの母のもとで育ち、11歳くらいまでには音楽を志すようになったという。才能を見込んで13歳で私財を売り払って家族でパリに引っ越し、パリ音楽院に入学し、まずルイ・ディエメのもとでピアノを学び、続きフォーレのもとで作曲を学んだ。ディエメはコルトーやイヴ・ナットの師であり、サラサーテの伴奏者だった。フォーレのクラスの同級生にはラヴェルやケックラン、エネスクらがおり、後にはドビュッシーと親しくなり、ともに4手ピアノをしばしば演奏したという。
インタヴューでカセルラの生涯が辿られたのはそのあたりまで。その後のさまざまな政治的な関わりについては触れなかった。

面白いのは、ディエメの師はアントワーヌ・マルモンテル、マルモンテルの師はピエール・ジメルマン、ジメルマンの師はフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー。ボワエルデューのピアノと作曲の師は、ボローニャのマルティーニ神父になること。
バルベーリスがカセルラの没後教えを乞うたマルグリット・ロンは、カセルラの師であるルイ・ディエメの死後、後任としてパリ音楽院の教授となっている。

 10月某日 ミラノ自宅
週末息子が弾くカセルラの「子供のための小品」を聴きに、仕事を中断し雨天自転車を飛ばす。とても気持ちよさそうに弾いていて、堂々たるもの。幼少期の自分に容貌こそ似ているが性格のまるで違う息子を、何とも不思議な心地で眺める。ここ暫く彼のガールフレンド騒動が続いていて、家では謹慎中の身。

ミラノの授業、新年度が始まる。学校全体が混沌としている。指揮クラス初回。今年の新入生の一人にEがいて、生まれてすぐにルーマニアのジプシーの家庭からイタリア人家庭に里子に出された、と入試で話してくれた。ヴェルディオーケストラの合唱団で歌っているという。なかなか音楽的で面白い。バルトークなどやらせると「さて自分のルーマニア人の血が試される」などと真面目ともつかぬことを言うが、筋は良い。音楽は楽譜より、耳から入る気質と見える。明るくよく喋る。確かに血は争えない感。

唐の時代の面影が残っていると言われる、雲南省納西族の洞経音楽を、繰り返し聴く。この文革後に再編された儒教音楽などの混交音楽を、台湾などの儒教音楽を思い出しながら聴く。一つの旋律に対するさまざまな装飾を耳で追いつつ、いにしえの日本の雅楽の姿に思いを馳せる。

野平さんの楽譜を眺めていて、彼は本当に音符を書く瞬間に喜びを感じていると思う。無邪気とさえ感じられるほど、純粋な音への喜びが伝わってくる。頭をよぎるのは、「牧神の午後への前奏曲」や「海」、「遊戯」などさまざまなドビュッシーの譜面なのは何故だろう。どう書かなければという強迫観は皆無で、書くのが楽しいという肯定感、充足感に満ちている。ラヴェルの譜面があまり浮かばない。ドビュッシーの一見整然としているが、表面は全くそうではなくて、然しながら内面はとても太く重厚な、ともすればワーグナーのように歌が連綿と繋がっているあたりも、似ている。

 10月某日 ミラノ自宅
ボローニャ市立劇場でカザーレ「チョムスキーとの対話」のリハーサルが始まる。久しぶりにエマヌエレに会って、カバンからスコアを取り出すと、「Vedo che la partitura e’ sufficientemente logorata, che’ mi fa piacere!」、訳せば「おい、好い塩梅に楽譜が擦り切れているじゃないか、こいつぁ嬉しい」、とまるでマフィアの挨拶のようなシチリア訛りの台詞を呟くので、思わず笑ってしまった。logorataなんて勿体ぶった言い方は、ミラノでついぞお目にかかったことがない。

練習の最初、暫くぶりですっかり風格が出た監督補佐のフルヴィオが「漸くだなあ。お帰り」と声を掛けてくれる。見ればオーケストラにも懐かしい顔が並んでいて、胸が一杯になる。ドナトーニの演奏会以来だが、あの時よりオーケストラの音はすっかり瑞々しくなって、新鮮で情熱的な印象。練習が終わって駅に飛んでゆき、最初の特急でミラノに戻り、「作曲家の個展」の譜読みを続ける。車中一時間は昏々と眠りこけ、家について巨大なスコアを広げる。楽譜のサイズが大きすぎて電車の机には到底載らない。

 10月某日 ミラノ自宅
先月、レッジョエミリアの本番の日にダイヤがすっかり乱れて慌てふためいたので、練習の2時間前にはボローニャに着くように家を出る。特急ホームの上に、広い吹き通しの空間があって人も少ない。ここの喫茶店なら1時間半以上机を使っていても文句は言われないし、音楽もかかっていないので、ここでぎりぎりまで来週の譜読みをし、バナナを齧りつつ走って劇場に向かう。道を行き交う人々からは奇異の目。
それでも譜読みが間に合わない。我ながら譜読みが本当に遅くて自己嫌悪に陥りそうになる。有難いのはボローニャでのリハーサルが順調に進んでいることで、午後のリハーサルは彼らの希望を叶えて已めることとし、これ幸いとミラノへとんぼ帰り。夜明け前まで譜読みを続け、朝6時40分には自転車に乗って地下鉄駅まで。特急に乗っている間は熟睡し、云々。
こんな毎日では体が持たない。劇場のオーケストラが練習を減らすべく必死に集中してくれて、心より感謝するばかり。こういうのを利害の一致というのか。ぼやけた頭でそんなことを思う。

 10月某日 ミラノ自宅
1日目本番を終えて帰宅。午後のリハーサルを終えて、早速軽く食事をし、本番まで控室のベンチにクッションを敷いて昏々と寝込む。ディアナが隣の控室で声を出し始めて、ようやく目が覚めた。
エマヌエレの「チョムスキーとの対話」第2版は、5年前にレッジョエミリアで初演した第1版とは全く違うコンセプトで、それでも6割方は近しい素材で作曲されている。随分違って驚いたが、前回よりずっと具体的で強く芯のある内容となっている。
前回3人の俳優が登場した部分は、チョムスキー自身ののヴィデオを使って、言語学、経済学などに於ける、有名な彼の言葉に直接同期するよう音楽がつけられている。ヴィデオには、レーガンやブッシュ、ピノシェ、サッチャーやベルルスコーニなどの国会中継、記者会見などの映像も挟み込まれる。終演後久しぶりに二コラに会う。3年越しで実現した演目に、彼も作曲者もすっかり満足していて、漸く溜飲が下がる。
先日ボローニャの音楽院で教えた生徒たちも終演後控室を訪れてくれる。「最初から最後までもう興奮しっぱなしで、先生もう何だか凄かったです!」上気した顔で言われると、何だかこちらもロックミュージシャンになった気分。

 10月某日 ミラノ自宅
ボローニャ本番二日目。今日は全国交通機関ゼネスト中。それでも国鉄の特急は走ることになっているが、ダイヤが乱れることを考えて、学校から帰宅した息子と家人と連立ち、随分余裕を持って家を出る。思いの外早くにボローニャに辿り着けたので、日野原さんの新作を音楽博物館で聴く。彼が藤富保男の絵本「やさいたちのうた」につけた1時間弱の作品を、ソプラノの薬師寺典子さんとファエンツァの5人の演奏家が奏でた。日本歌曲で言葉も旋律もこれほど自然で美しく、音の美しさの際立つ作品は久しぶりに聴いた気がする。イタリアオペラに精通した日野原さんらしいユーモアやエッセンスに溢れる。薬師寺さんの歌も素晴らしく、家人と息子と三人揃って、こちらも本番前だと言うのにすっかり魅了されてしまった。
もう随分前になるが、ヴェローナの劇場で、メルキオーレの「碁の名人」に演奏した時の主人公、バリトンのマウリツィオと久しぶりに再会。お互い老けたと笑う。

公演直前、劇場近くの喫茶店で軽食を摂っていると、ルイジ・アッバーテが通りかかって話込む。彼もカザーレを聴きに来る途中だったそうで、その上丁度彼の誕生日だった。
息子は日野原さんの美しい歌曲に聴き入ったからか、大音量が続くプログレッシブロックのよろしい「チョムスキー」の公演中、半分くらい寝込んでいたとかで愕く。
帰りしな、劇場のあちこちで「本当に素晴らしかったですと」はにかんだ声を掛けられると、こちらも少し気恥ずかしい。ミラノ行特急終電の時間まで、いつもの吹き通しの喫茶店の机で譜読みを続ける。
今日の演奏は全く文句の付けどころのないもので、歌手もオーケストラも見事な集中力を見せた。息子は珍しく夜更かしして興奮状態。電車に乗り込んだ途端に眠り込んだ。

 10月某日 三軒茶屋自宅
朝、支度をして家を出て、カドルナ駅でマルペンサ空港行き列車に乗り込むところで、家人より電話。「厳しい父親が居なくなって寂しいってあの子ったら泣いているのよ。一寸電話で話してやってくれる」。
大森さんから今度の「作曲家の個展」にメッセージを書いて頂戴と頼まれて、野平・西村作品をカツカレーに譬えたので、成田に着くとカツカレーを食べなければいけない気がしてレストランへ赴く。形状のある野平さんはトンカツ部分。アジアの薫り高い液体部分は西村先生。ええと、協奏曲はどんなだったか、そう思う間もなく、瞬く間に食べ終わる。
家について早速スコアを引っ張り出すと、紙きれが一枚するりと落ちた。何かと思って開いてみると、黄色い蛍光ペンで「がんばれ Su Forza!」と書いてある。

 10月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりの都響との練習場に着いても、どこまで自分で譜面を読めているのか皆目見当がつかない。時差ボケと寝不足で頭も働いていないのだけれど、こんな困憊した体でも本能的に見えてくるものがあって、面白い。
野平さんの音楽のロマンティックさ。これは楽譜の向こうに初めから見えていたもの。一見易しそうな西村作品の難しさを、オーケストラと自分が最初のリハーサルで把握できて、漸く向こうの地平が見えてくる。表面が複雑なものは、出来るだけ単純化して表現すべきだし、表面が単純なものは、実は複雑な内実を、的確に理解しておかなければいけない。最初のリハーサルでこれだけ見えてきたのは、演奏者一人一人がどれだけ音を読み込んであったかということ。

ところで、野平さんの曲のリハーサルで、独奏ピアノを弾く野平さんに注文をつけるのは妙というか、申し訳ない思い。
オーケストラを野平さんが書いた部分は、ピアノパートを西村先生が書いたので、自分の書いたものではないから当然弾くのが難しい。一方、野平さんがピアノパートを書いて、オーケストラを西村先生が書いたところも、独奏部分をご自分が書いたとは言え1楽章以上にピアノパートは難しく、その上オーケストラパートは西村先生担当だから、ずれるわけにもいかない。ちゃんと西村先生からもリクエストが飛んでくる。ピアニスト兼作曲家は、自虐的な気質があるのかもしれない。
終わってから渋谷のトップに寄り、子供の頃から飲みつけたマンデリンとブラジルのコーヒー豆を挽いてもらう。

 10月某日 三軒茶屋自宅
都響との練習後、上野入谷口の翁庵で天せいろに舌鼓を打つ。旧い店構えの入口で算盤をはじき注文を食券に書き付けているご主人に向かって、中年女性の黄色い声が店に響く。
「おじさん、本当にここ美味しいです。インターネットで皆が美味しいって書いてるから、どうしても食べたくて。本当に美味しい! 記念写真撮って貰っていいですか? 有難うございます!。戸惑いながらも、渡されたスマートフォンでご主人はポーズを取る女性を写真に撮った。そば湯を堪能して外に出ると、目の前には店構えを写真に収める中年男性がいて、こういうリクエストには、きっとご主人も慣れているに違いないと納得した。

夜、暫く顔を出していなかった割烹に足を向けると、勝手が違っていて驚く。女亭主がこちらの顔も覚えていなかったのは仕方がないが、常連客が静かに徳利を空けていた以前と違って、隣の一団は幹事が大声で場を盛り上げ騒ぎ立て、それが漸く去ったかと思うと今度は、大学生6人組がやってきて、酔った勢いで嫌がる後輩の頬にタバコの火を押し付け、タバコを吸わせようとしたり、酒を呑ませたりと散々で、居たたまれなくなって席を立った。同席の友人がいなければその場で怒鳴っていたに違いないが、勘定を払うときに店員にあれでは危ないと言うに留める。聞けばこの店がテレビで紹介されるようになって、客も増えたが客層も変わったという。

 10月某日 三軒茶屋自宅
「作曲家の個展」のドレスリハーサルのためホールに入ると、録音の高嶋さんがいて再会を喜ぶ。彼とはピサーティの録音やブソッティの録音で本当にお世話になった。ブースには昨年カニーノ宅でご一緒した井坂さんがいらした。まさかカニーノ宅の次にサントリーホールの舞台裏でお目にかかるとは想像もしていなかった。
本番前に野平さんと西村先生が舞台上で、マイクを持って話す。二人の出会いや、共同作業のプロセス。液状管弦楽は委嘱者へのオマージュだとか。果ては気を遣って指揮者まで持ち上げて頂いたりして、申し訳ない思い。
本番最初から最後までとても気持ちよく演奏できたのは、傍らの友重くんがずっとニコニコしてくれていたから。彼が微笑んでいると、みんなも揃って微笑む。でも集中度と熱気だけは火傷しそうなくらい途轍もなく高かった。だから、野平さんの作品は、豊かにのびる開放的な音となったし、特に本番、彼のロマンティックな瞬間を、オーケストラはこちらが何も言わないのに、それはロマンティックに表現してくれた。
西村先生の作品は、スローモーションで飛んでゆく溶岩を眺めているような、燃え滾る流星のような瞬間を、演奏中何度となく感じた。ホールで液状に音を響かせるためには、液状の音を出しては駄目で、ずっと熱く質量の詰まった音でなければならなかった。これもリハーサル一日目からオーケストラと試行錯誤を繰り返して見えてきたことだった。本番の独奏者としての野平さんの集中力と体力には、心から脱帽。

一連の練習の終わりや本番後の空いた時間に、U君にプルソ導入をアドヴァイス。気が付くと、昔エミリオが自分にしてくれたことを、何時しか自分が生徒にやっている。

 10月某日 三軒茶屋自宅
朝、沢井さん宅で「マソカガミ」を聴かせていただく。聴き手へ燦々と振りかかる音ではなく、線香花火を見入るように、七絃琴の響きに囚われる。演奏者の意思を聴き手に伝えるのではなく、沢井さんが自分のためにつま弾く音に聴き手が寄り添い、何かを見出すとき、点と点の間にじっと横たわるのみだった沈黙に無数の風景が鮮やかに浮かび上がり、耳というより、五感全てが音に鋭敏に反応するのがわかる。

(10月30日三軒茶屋にて)

アジアのごはん(81)紅玉りんごと秋花粉

森下ヒバリ

九月の後半にタイから日本に戻って来たのだが、あっというまに激しい秋花粉の花粉症を発症して苦しんだ。しばらくして、落ち着いていたのだが、またもや10月も終わりだというのに、激しく鼻水、頭痛、のどの痛み、咳き込みが始まってしまった。おとといから咳が痰に絡み、だんだん激しくなって、昼間はしんどくて寝込んでいる。夕方になると、花粉が飛ばなくなるようで、復活。

それは風邪だろうと思う方もいるだろうが、これが秋花粉の症状である。何人もの人から風邪が治らない、という話を聞いて症状を聞くと、たいがい秋の花粉症である。風邪の症状との大きな違いは、熱がほとんど出ないこと、そして食欲がふつうにあることだ。微熱が出ることもあるし、ぼおっとすることもあるが、けっして高熱は出ない。鼻水も風邪の場合は粘着性があるが、花粉症は水のようにさらさらだ。

秋花粉はブタクサ、ヨモギ、カナムグラ、セイタカアワダチソウ、そしてイネ科の植物などで起こる。だいたいスギやヒノキの春花粉症と同じ症状が出るが、違う点が、咳、喉の痛み、人によっては痰である。ヒバリも秋花粉でもここまで激しく咳と痰がでる症状は今まで記憶にない。なぜこんな症状が出るのか調べてみると、どうやら花粉の種類がかなり違うためらしい。諸説あるが、ヨモギなどの花粉は気道に入りやすいので咳が出る、またイネ科花粉はたくさん種類があるが、食物アレルギーに似た反応を起こすため、ぜんそくのような症状が出ることもあるとか。

たしかに、咳が出て痰が絡むだけでなく、胸が苦しくてぜんそくみたいな症状もある。気道がヒューヒューとまではいかないが、その一歩手前。これがイネ科のしわざなのか・・。関西のイネ科の花粉飛散ピークは5月と8月~10月なのだが、今年はいつまでも暑かったので、たくさん花粉を飛ばしているのだろう。はあ。

気道に入り込んだ花粉を排出するために、咳や痰が出ているのは、まあいいとして、痰は要するに免疫細胞が活躍した後の残骸である。花粉を敵だと思って、ヒバリの免疫力はたくさん使われまくっているということになる。つまり、免疫力が他のところで足りなくなっているかもしれない。こんなときに強力なウイルスが侵入してきたり、がん細胞が大量に発生したりしたら危ないじゃないか。え~、程々にしてくださいよ‥げほげほ。

花粉症がこんなに増えてきた原因の一つとして、花粉が排気ガスやpm2.5、黄砂などと合体すると凶悪化する、ということが考えられる。もちろん微粒子の放射性物質であるホットパーティクルとも結合するからこれは最凶最悪。花粉の時期にpm2.5や黄砂が重なると、ほんとにしんどくて重症化する。いくらスギやヒノキを花粉が飛ばない品種に変えていったところで、環境自体が悪化していれば意味なしかも。秋花粉のほとんどは雑草だし。

春に続いて秋までもがユーウツな季節になるとはほんとうにやりきれない。だが、まあそんな気分をわずかに上げてくれるのが秋の果物、大好きな紅玉りんごである。りんごは好きなのだが、甘酸っぱい紅玉以外はほとんど食べない。他の品種はたいがいべたべたと甘すぎるからだ。蜜が入って~とか、なんでも甘けりゃいいってもんじゃないつーの。

紅玉はお菓子やジャムの需要で、なんとか品種が絶えずに栽培されているが、酸味のあるりんごはほかにはあまりない。ジョナゴールドがやや酸っぱいくらいか。紅玉は出回る期間も短いので、無農薬や減農薬の紅玉を見つけたら必ず買うことにしている。紅玉はそのまま室温においておくと味がすぐぼけてしまうので、すぐにジップロックに入れて冷蔵庫にしまっておかなくてはならない。赤くて可愛いので、ついかごに入れて置いておきたくなるが、がまんがまん。

刻んで、ジャムよりも甘み少な目で、形の残るぐらいに煮たものを作って冷蔵しておけば、豆乳ヨーグルトやパンケーキのトッピングに重宝するし、アップルパイもすぐ作れる。さらに生のりんごを刻んでかんたんにケーキも作れる。焼きりんごもいいです。紅玉がない場合は、レモン汁で酸味を足して作ってください。

★紅玉りんごの米粉ケーキ 15センチの丸型1個分
・紅玉りんご1~2個
・米粉120g (その内、ひよこ豆の粉、ココナツフラワーまたは黄粉などを20~30gにするとコクが出る)
・お好きな砂糖80g
・卵2個
・ココナツオイル50ml(できればバージンオイル)
・ベーキングパウダー小さじ1
・豆乳大さじ2~3、調整用
・くるみ、シナモン、ラム酒、ココナツフレークなどお好みで

りんご1個は皮付きのまま、いちょう切りで刻む。残りのりんごの半分または1個はトッピング用にくし形に切る。ボールに粉と卵、砂糖、ベーキングパウダー、ココナツ油を混ぜ合わせ、豆乳で調整する。固さはホットケーキよりもちょっともったり。イチョウに刻んだりんごを混ぜ、油を塗った型に流しいれる。上にくし切りにしたりんごスライスをきれいに並べて、170℃~180℃で40分オーブンで焼く。ふわっとしたケーキがいい人は卵の卵白を泡立ててまぜるといいかも。粉は小麦粉でも作れるし、パン粉でもおいしくできる。

★ストウブで焼きりんご
STAUB de GOHANという1合炊きの鋳鉄の鍋を入手した。一人の時のごはん炊くのに重宝している。しかも、りんごが1個ちょうど入る大きさなので、焼きりんごにぴったり。これでオーブンなくても作れます。ストウブのない人は、オーブンで。ストウブ鍋もオーブンもない人は、りんごをスライスしてフライパンで焼いても美味しいよ。
・紅玉りんご1個
・ココナツオイルまたはバターを少々
・メープルシロップ、などお好みの砂糖少々
・好みでシナモン、ラム酒、コアントローなど

りんごが半分くらい隠れるぐらいのアルミホイルをストウブ鍋に敷く。敷かなくてもいいけど鍋にりんごと果汁がこびりつくので。まるっと包んでも可。りんごの芯は芯抜き器があれば抜いてもいいが、なければスプーンでちょっと汚れが溜まっていそうな軸のところだけ削るぐらいでもOK。へつったところにココナツオイルと砂糖を少しのせる。
蓋をして弱火で35分ぐらい焼く。何にも足さずに焼いてもおいしいい~。いい匂い! これで、なんとか秋の花粉の季節を乗り切ろう。

グロッソラリー ―ない ので ある―(25)

明智尚希

 「1月1日:『またある時なんか、何がきっかけかわからないけど、7,8人のごろつきと大立ち回りを演じて、それを止めに来た警官が、そいつを取り押さえようとして4人がかりで挑んだんだけど、全然つかまえられなくてもう1台パトカーに応援を求めたんだってさ。総勢八人でやっと取り押さえることができた。そのままトラ箱行きだよ』」。

トリャア≡(:D)┿━<☆(/+O+)/ウワア

 生前、特に目立ったところもなく友人・知人も限られており、世間に相手をしてもらったとはとても言い難い人が亡くなると、途端に主人公の座にのし上がる。親族はもちろん、少しだけ交流があったかどうかという人までが、話題の一番目のネタにしてどれだけ人に好かれていたかを論じだす。生を辞めた人間を褒めそやすのはどうしてだろう。

ナンマイダー Ω\ζ゚) チーンッ…

 ぬのうして/ぬのうめかして/ぬのうして/ぬのうまみれに/きてかんこけう

ヾ(。ё◇ё。)ノ ぐへへへへ♪

 毎度毎度お騒がせしております。まるで百獣の王ターザンが、かくかくしかじかの事由で来日し、二子玉川と錦糸町の区別がつかず、サンフランシスコ平和条約の調印式で、キャミソールを販売して七転八倒、荒川を流れる荒川にぶち込まれたような塩梅ではありますまい。大した役者は白湯など虚仮にする。以上の理由で辞任します。八十年後。

ターザン (;-0-) ア〜アア〜

 街の中は一長一短に満ちている。色とりどりの看板にめまいにもまがう目移りをし、人や車の音声に歩く集中力を減退させられ、すれ違う人々がいちいち顔を見る。その一方で、むき出しだった精神状態を群衆の中にまぎれ込ませることに成功するし、混濁した思考は、体臭の移り香や人間の実在性そのものによって、ある程度取捨選択される。

・・・(・・*)ノ ⌒◇ポイッ

 「1月1日:『トラ箱から出て自分が何をやったのか警官に聞いたら『何も覚えてないのか!』と一喝されたんだってよ。警官八人と大立ち回りを演じながら、本当にな〜んにも覚えていないなんてすごいよな。公務執行妨害でてっきり逮捕かと思ったら『よっぽど逮捕しようかと思ったよ!』とまたどなられたって。酒の力はすごいもんだ』」。

∵. バキッ (゚O゚(C=(`皿´

 「もらう」とは、AとBがいた場合、AがBに我が物としたい意思を伝えたり、BがAに心中の思いや特にめでたさなどの気持ちを込めたりして、兌換貨幣や日常用の物体などをAに渡して、Aの所有とすること。また、実子でない者を養うために親となる時や、男性にとって配偶者となる女性を家族に加える時などにも用いる。

畄ヽ( ̄ー ̄*)アリガトウ♪

 懸賞に頻繁に当たる人。トラブルに巻き込まれがちな人。いつもどこでも人の輪の中心にいる人。人間には役割がある。配役と言い換えてもいい。良くも悪くも彼らが「自分役」から抜け出すのは不可能だ。いかなる努力をしたところで、役割に甘んじなければならない。役割の殻を破る唯一の方法は、他人か自分の命を終わらせることである。

(`Д´)⊃√

 圭介がこのトラックに乗るようになって5年になる。人間、5年もすれば順応するものである。当初は道行く人の驚きと軽蔑の視線や、女子高生たちの露骨な反応に戸惑うことも多々あったが、そうした経験への慣れも加わって、現在ではマイカーを運転しているのと同等だった。圭介が運転しているトラック――透明なバキュームカーである。

Σ┌┘車└┐=3 =3 =3

 まずはじめに終わりのことを考える。しかも突然にして最悪の終わり方を。終わりと連係していると察知した案件や機会を、次々とモグラたたき式に引っ込め、あらゆる可能性を想定して予防線を張っておく。この生活は決して短くない。おそらく諾う人などいないだろう。最悪の終わりが来る前に、消耗して自滅する姿が目に見えるからである。

ツカレタ━・゜((⊂|=´Д`=|⊃゜・━

 「1月1日:『数か月に一度そうやって騒ぎを起こしてた。せっかくの断酒生活もぱーになって、また朝からウオッカ。アル中って治らない人は一生治らないらしいね。依存症もそう。ごくたまに飲む程度といっても、前後不覚になるまで飲むのは、依存症の一種でアルコール多飲症っていったっけな、立派な精神疾患の一つなんだってさ』」。

_ノ乙(、ン、)_ ウウウ……

 しかし時代は変わったね。トカゲの尻尾はどこへ行くという心境じゃよ。聞くとこによると昔は生徒の髪が茶色かったら大目玉食らったのが、今じゃ教師が茶色にしてるっつうじゃないか。一般意志は移り気だねえ。さてはデリヘルを手本にしたな。やい、腰かけのBGども、貴様たちのお豆を図形楽譜にしようと思うな。時代は変わったんじゃ。

(・。- )ノ~・゚★,。・:*:・゚☆ウフッ♪

 自分の経験や知識だけが正しいと信じている人がいる。経験のない分野についても、さも経験豊富であるかのように臆面もなく弁じ立てる。実益のない内容を長時間聞かされるケースが多い。この言うも愚かな人物は、老いて自分から離れることを知るにつれて程度の低さを自覚し、末期へ続く吊り橋を地につかぬはずの足で少しずつ瓦解させる。

(/・_・\) ガッカリ

 呼んどくれそや 張っちょろけ
乱離骨灰の でかおっぱい
もんや狩ろうと 知っちょろけ
あんだれさったれ さほうべな
損さかろうなら 出目とりを

ヾ(-_- )ゞエラヤッチャヽ(~-~ )ノエラヤッチャ /(._.>ヨイヨイ((~-~)ノヨイヨイ

 昼食は摂らない。ダイエット、我慢、健康関連、どれでもない。脳への血流が悪くなると駄目らしい。体調がさほど悪くない時、マゾヒスティックな意味ではなく、有害な神経過敏状態を総身が欲するのである。体内時計が日中も苦悩の時間として、設定されているかのようだ。そうして得たものは、夜へと持ち帰られて不眠の元締めとなる。

(; ̄д ̄)ハァ↓↓

更地の男

植松眞人

 私の実家は兵庫県伊丹市にある。この町は大阪からもJRと私鉄が乗り入れていて、大阪で働く人たちのホームタウンとして認知されている。
 その昔は城があり、城下町として酒造りと稲作で名を馳せた時期もあった。嘘のように景気が膨らんだ時期には大きなマンションがいくつも建ち、市内にはいわゆる箱物が数多く建てられた。しかし、それも過去の話である。景気が低迷し、大きな震災があり、建てられた箱物にも侘しい影が差しているように見える。それでもまだ駅前はいい。大阪まで電車に乗ってしまえば四十分分もあれば到着する。若者が夜遅くに飲み歩いていたりもするし、それなりに繁華な場所もある。しかし、私の実家へはバスに十五分、二十分と乗らなければならないのだ。通勤ラッシュの時間はともかく、それ以外はバスの数も少なく、夜は十一時前にはバスはなくなってしまう。バスの乗客のほとんどは老人だし、最近できたばかりの巨大なショッピングモールもいつまで保つのかわからないほど客が少ない。
 私の実家は三十戸程度の小さな建売住宅が密集している中にある。一時に建てられた集合住宅は、最初は同じような家ばかりだったのだろうが、一戸建て替え、一戸建て替えとだんだん当初の家々とは様子が変化している。特に古い木造住宅は震災で少しがたが来て、それを機会に建て替えられた家が多い。私の実家もそんな一つで、震災のタイミングでその場所にあった土地を買い、家を建てた。いわば、この場所では新参者なのであった。
 私自身は家族を持ち、現在は東京に住んでいる。ただ、仕事の都合で最近は関西に来ることがあり、世知辛い仕事の関係でホテルをとることもできずに、実家で寝泊まりすることが多くなった。自分が家を出たときにも、実家は伊丹にあったのだが、震災を機に同じ市内で場所を移しているので、現在の実家は私自身が子供の頃に住んでいた場所でもなければ家でもない。なんだか、馴染みのない家で寝泊まりしているような居心地の悪さを感じているのだった。
 寝泊まりしている部屋は二階で窓からは向かいの家々が見える。周囲に高い建物がないので見晴らしがいい。そう思いながら、でも違和感を感じ、私はもう一度窓の外を眺めた。違和感の原因はすぐにわかった。斜め向かいの家がきれいさっぱりなくなっているのだった。父が亡くなり、この家で一人暮らしている老いた母に聞けば、斜め向かいの家は売られたのだという。
「木造の古い家やから、家自体は二束三文やったらしいけどな。そやから、業者が更地にして売るらしいわ」
 確か、その家には五十がらみの私と同い年くらいの夫婦がいて、その父親らしき老人が三人で住んでいた。老人が亡くなったのは三年ほど前で、以降、子供のない夫婦は斜め向かいの家で慎ましく暮らしている、という印象を持っていた。他人の家のことなので、慎ましいかどうかは本当のところよくわからない。よくはわからないけれど、家の周囲にその家の奥さんが植えている小さな鉢植えの花の地味さや、時折窓から見えるカーテンの色、そして、乗っている軽乗用車の年季の入っている具合から、慎ましく生きるというのはこういうことなのではないか、と思わせる暮らしの匂いのようなものがあった。
 母からそんな話を聞いてから、二階で仕事をする時にはちらちらと、斜め向かいの家があった場所を眺めてみたりするのだが、時折、業者らしき若いスーツ姿の男が客を引き連れてきたりするのだった。しかし、あまり引き合いがないのか、客もあまり出入りすることはなく業者もほとんどそこにいることはなかった。
 それから二週間が経った。斜め向かいの家があった更地は、そのまま売れてはいなかった。『売地』と書かれた立て看板が立っているだけで、ひっそりとした時間が過ぎていた。私は東京に戻ったり、また関西に来たり、一ヵ月ほど、斜め向かいの家のことなどすっかり忘れて過ごしていた。進んだり後退したりする商談のなかで、相手の卑劣が見え隠れして、それに呼応するように私自身の底の浅さも露呈するような、そんな大阪での一日を過ごした後、私は伊丹の実家へと向かった。とっくに路線バスは終わっていて、駅前からタクシーに乗った。運転手は話し好きだったが、私はタクシーのシートに座ったとたんにひどく疲れていることを自覚してしまい、運転手の問わず語りに適当に相づちを打っている間に、実家に到着した。タクシーを実家の前で降り、母が起き出してこないように気をつけながら、ゆっくりと門扉を開けて、静かにドアにキーを差して回す。そのとき、ふと気になった私は斜め向かいの家を振り返った。両隣の家の窓から光が漏れているからか、その挟まれた更地だけが、妙に暗く、私が見ることを拒んでいるかのようだった。
 玄関脇の母が寝ている部屋の気配から、母が起きていらしいとは思ったが、母も私も互いに相手に気を遣わせないように黙ったままでいる。私はそのまま静かに足音を忍ばせて、二階にあがり、すでに私の部屋のようになっている通りに面した部屋へと入る。
 そのまま私は窓際へ行き、さっき真っ暗な闇に見えた斜め向かいの家があった更地に目をこらす。やっぱり、同じように暗闇に見えるのだが、今度は更地の真ん中に、淡くスポットライトが当たっているかのような場所があることに気づく。隣の家の明かりが届いているわけでもなく、街灯が当たっているわけでもないのに、なんとなく、そこだけに淡く淡く光が差していた。そして、よく見ると、その淡い光の中に、男が立っているのが見えた。男は、更地になる前に、つまり、取り壊された家に住んでいた私と同年代の亭主のように見えた。はっきりと顔は判らないのだが、以前見かけて、挨拶をしたときの立ち姿に似ているような気がした。男は、更地の真ん中に立ちすくんで、頭をうなだれたように自分の足下を見ているようだった。男が何をしているのか、そして、確かにそこに住んでいた男なのか、私は確かめたくて目をこらした。そのとき、男がこっちを見る、という予感がして、私はカーテンの陰に隠れた。
 私はそのまましばらくの間じっとしていたのだが、やがてその日の疲れを思い出し、風呂に入ると寝てしまった。
 翌日、母に起こされて寝覚めた時には、東京に帰る新幹線に間に合うかどうかというギリギリの時間だった。私は慌てて身支度を調えると、母が用意していたトーストとコーヒーを飲み、実家を出た。出かけに、母が言う。
「梶原さんとこ、土地が売れて、来週から工事らしいわ」
 最初、何のことだかわからずに、「梶原さんて誰?」と聞き返したのだが、母の返事を待たずに、そうか斜め向かいにあった家は梶原さんの家だったと思い出した。私は慌てていたのにも関わらず、実家を出るとバス停とは逆方向になる斜め向かいの更地のほうへと向かった。それは、何かを確かめようというのではなく、バスに乗る前に見ておかなくてはという妙な気持ちからだった。朝の光の中で、更地は夜見たときよりも広く明るく見えた。私は迷うことなく、低いロープの柵を越えて、更地の中に入る。その真ん中あたりまで来ると、じっとそこに佇んでいた梶原さんを思った。昨日ははっきりとは見えなかったが、あれは梶原さんだったのだと思う。本当に梶原さんが来ていたのか、その思いだけがここにあったのかはわからない。しかし、母が「梶原」という名前を口にした途端に、昨日の男の影は私の中ではっきりとした質量を持ち、梶原さんという存在になったのである。(了)

仙台ネイティブのつぶやき(19)お椀の向こう

西大立目祥子

 大根、にんじん、ネギ、ゴボウ…手近な野菜をコトコト煮て、水溶きした小麦粉のだんごを浮かべる「だんご汁」。福島県の中通り、東和町(現在は二本松市)で教わった郷土料理だ。味噌で仕立てた具だくさんの汁に食べごたえのある団子がごろごろと入っていて、からだは温まるし何よりおなかがいっぱいになる。

 小麦のだんごを手でちぎったり、スプーンですくって落としたりする料理は全国にあるようだ。「すいとん」というのが、一般的な呼び名だろう。宮城から岩手にかけての旧仙台領では、「はっと」とよばれる。

 仙台でよく耳にするのは、戦時中から戦後にかけて食べられた「すいとん」。食糧難の時代につくられた汁物は、えらくまずかったらしい。「だんごが喉を通らないのよ」という話を年配の人に何度も聞かされた。小麦ふすまの入ったざらざらした舌ざわりのだんごが、野菜もそう入らず味のないような汁に浮かんでいる代物だったのだろう。

 小麦粉のだんごが浮かんでいるスープとひと口にいっても、味もイメージも実にさまざま。お椀の向こうの風景は異なる。

 おなかも気持ちも満たしてくれる東和町のだんご汁は、もっぱら夕食に食べられた。それは、暗くなるまで田畑で働き、家の中では昼夜を問わず蚕の世話に明け暮れる主婦たちが、手間ひまかけずに仕事の手を動かしながら用意する晩ごはん。火にかけた鍋に台所にある野菜をざくざくと切って入れ、自家製味噌で味付けし、家族が集まったところで、練った小麦粉を落とし火が通るのを待ってふうふういいながら食べる。だんご汁をつくる講座で講師を務めてくださった70代の女性は、「そのときある野菜を全部使って具だくさんにするの。カボチャを入れるととろとろ溶けて、これもまたおいしいしの」と笑顔になった。その表情から、家族みんなで囲む食卓の風景が目に浮かんできた。

 夕食にだんご汁が出されたのは、夜はごはんを炊かないからだ。つまりだんご汁は、主食と副食をかねた一品なのである。いっしょに講座に参加していた地元の年配の男性が、こう話す。「東和は山間地で水田が少ないから売れる米は貴重でね、手元にわずかに残す自家米と麦を組み合わせて食生活を成り立たせていたんですよ」
だんご汁は、貴重な米を食べつなぐためにつくられる料理でもあったのだ。

 たしかに福島県の東部に連なる阿武隈山地は、尾根と谷が複雑に入り組んで、平らな広い水田を開くことは難しい。谷筋に小さな棚を積み重ねるようにしか水田を持てなかったのだから、おのずと米は換金のための大切な作物となった。その代わり、麦は小麦も大麦も栽培してよく食べていたようだ。

 小麦は近くの製粉所で粉にして、お茶箱のような木の箱に蓄えておき、升で必要な分を計って使った。だんご汁のほか、うどんを打ったり、製粉所にたのんで乾麺にしたり、重曹を入れて蒸し器で蒸しパンをつくったり、砂糖や重曹を加えて油を引いたフライパンで粉焼きをつくったりした。一方、大麦はまとめて煮ておき、ごはんを炊くときに混ぜ込んだ。

 東北といえば米と思われがちだけれど、昭和30年代ごろまでは、米を主軸にしながら大麦と小麦、これに大豆を組み合わせる穀物の栽培は、東北に広くみられた生産の仕方だ。春に田植えし秋に刈る米づくりの作業と、秋に種をまき翌年の夏に収穫する麦の作業が重ならないように工夫され、その作業の合間をぬって麦の裏作として大豆づくりが行われていた。大豆もまた、味噌にしたり豆腐にしたり納豆にしたり、自給自足に近い農家の暮らしには欠かせない作物だった。

 とはいっても、いまはもうどこにでも大きなスーパーとコンビニがある時代だから、だんご汁をひんぱんに食卓にのせたり、味噌を仕込むという人は少なくなっている。だが、舌が覚えた味はそう簡単に忘れられるものではないというもの、またたしかなことなのだ。

 講師を務めてくれた女性は、いまも自家製大豆を使ってミキサーで豆腐を手づくりする。「いまもよくつくるの?」とたずねたら「だって、うまいもの」と即答。ことばどおり、あたたかなできたて豆腐は甘くおいしかった。もう一人、味噌づくりを教えてくれた男性は、味噌の仕込みが終わると「どれ、うどんごちそうすっか?」と、どこからか大きな板を持ち出してきてあっという間にうどんを打ち、庭先のかまどで茹でてふるまってくれた。これだけうまいもんは、やめられないよ。その表情からそんな思いが伝わってくる。

 小麦粉を使った料理として、もう一つ名前が上がったのが「ぶすまんじゅう」。えっ、何その聞きづてならない名前は…ということになり、にわかに小麦粉を練ってつくり方を教わる。重曹と砂糖を入れた生地に角切りにしたカボチャを入れて蒸すお菓子は、しっとりとしてほんのり甘くどこかなつかしい味だった。おやつによくつくられたという。

 「箸をぶすぶす刺して蒸し加減をみるから、きっとこの名前なんだよ」「いや、見た目じゃないの」…講座に参加した若い世代が盛り上がって試食する姿を見ていると、この土地に根ざしこの風景を眺めて暮らし続ける人が、決して忘れない味というものがあるような気がしてくる。忘れられているように見えて、思い出す機会があれば、その味はよみがえるのではないのだろうか。お椀の向こうの風景とともに。

ハロウィンな人々

さとうまき

イラクのクルディスタンでは、10月になるとカボチャの収穫がはじまる。北部の山岳地帯に向かう街道のわきには、黄土色したカボチャが売られていて、とてもハロウィンぽいのだ。

ローリンは、シリア難民。白血病を数年前に患ったが、今では奇跡的に元気になっている。昨年は、イラクにいても、ろくな援助を受けられないから、ヨーロッパを目指して旅立つシリア難民が目立った。ローリンの親父は、60歳近く、顔はしわくちゃだが、やせていて、髪の毛を伸ばし、キース・リチャーズのような風格も漂わないわけではないが、抜けた歯を入れる金もない。

「ヨーロッパに行かないのですか?」と聞いたら、
「私はいかない。それよりカボチャだ。」
「え?」
「シリアのカボチャは白いんだ。イラクでは赤茶けたのしか売っていない。わしは、2年3カ月かけてシリアのカボチャをついに見つけたんだ。」
嬉しそうに、カボチャの種を見せてくれる。
「春になったらこれを畑に植える。秋に収穫するんだ。これでずーっとシリアのカボチャをイラクで食べられるんだ」

ローリンの親父の話には夢があった。
種を植えなければ実は実らない。
ローリンの母ちゃんは、カボチャを煮詰めたジャムを持ってきてくれた。黄金色に輝いている。

「カボチャで一儲けしましょう。日本では、ハロウィンが最近ブームになっているので、カボチャのスィーツを作れば大儲けできますよ」
私は、大儲けする話が好きだ。難民のおっさんが大儲けしている姿を想像するだけでも楽しい。

あれから一年経ちそろそろ収穫の時期だ。
「カボチャの収穫に連れていってください」
「まだ、小さいんだ」といってなかなか連れていってくれない。
勝手に収穫しないようにくぎを刺しておいて、僕も日本に帰らなくてはいけないからせかしてとうとう連れていってくれることになった。ローリンの親父が借りている畑は、3時間も離れていた。なんでも長男が住み込みで畑の見張りの仕事をしていることで、土地を貸してもらったらしい。

少し山に入ったところに農園はあった。ザクロがたわわに実をつけている。ローリンの親父はザクロをもぎとって、「くえ」と差し出す。摘み損ねた季節外れのスイカを地面からもぎとると、空手チョップで真二つに割り、「くえ」と差し出す。

しかし、肝心なカボチャは、あまりにも小さかった。しかも3つくらいしかなっていない。どうも、ここの土はカボチャには向いていないようだった。それで、僕たちは、街道で売っているイラクのカボチャを買って、ローリンの母ちゃんにカボチャのスィーツを作ってもらうように頼んだのだ。

数日後、キャンプに行くと母さんができたカボチャのスイーツをタッパに詰めてくれた。
「ごめんなさいね。シリアのカボチャがあったらよかったんだけど」
母ちゃんはでき具合に満足していないようで、何度もいいわけしていた。去年のに比べ、色もどす黒い。
「いやいいですよ、イラクの方がハロウィンぽいし」
ローリン一家のシリアのカボチャに対する思い入れは半端ではなかった。
「また、来年があるし」
といいながらも、いったい彼らはいつになったら故郷に帰れるんだろうか。

製本、かい摘みましては(123)

四釜裕子

辞書がこわれて、それで手紙が出せないという。「さっぱし字ィ、思い出さんねぐなてヨー」(ちっとも字が、思い出せなくなってしまったの……)。腰を痛めてさすがに気弱になったみたい。体調は別としてこれくらいがかわいげがあってよろしく思え、「すぐ送ってよ、直してあげるから」といってしまった。母から届いたのは、大きな文字で早引きなんとかという、厚みがおよそ4センチで並製紙表紙のもの。背が完全に3つに割れて、さらにそれぞれ1、2枚ページが剥がれている。むやみにセロハンテープで貼付けてあり、さすがにこれではみっともないと思ったのだろう。新しいのを買えばいいのに。買って送ってしまおうか。でも、違うのですよね。

セロハンテープをはがし、破れたところを和紙で補う。ページの角の折れたところはちょっと濡らしてアイロンで伸ばす。背には1ミリ厚くらいのボンドがほぼ残っている、削ぎ落とさずにこのままにしてみよう。表紙の折れや破れは直すが、これを見返しにしてしまおう。背を整え寒冷紗を貼り合体する。表紙はもちろん柔らかいほうがいい。穴とか傷とか色ムラとかで安く買っていた豚革の残りがあるから、ケント紙を芯に巻いて表紙にしてそのままかぶせてコの字に美篶堂の製本ボンドで貼ってしまおう。すぐまたどこか剥がれてきてしまうのだろうか。わからないので、むしろそれを教えてもらいたい。「壊れたらまた直すから、今まで通り使ってください」と、送り返した。

ほんとうは、どんな風に修理するのだろう。『修理、魅せます。#013 本]という動画がある。水道橋に製本工房を持つ岡野暢夫さんが辞書を修理する様子を映したもので、もともとはWiiが「Wiiの間」として配信したものの一部のようだ(ナレーション・石坂浩二)。男性が、中学時代から使い込んだ英和和英辞書の修理を持ち込む。全体ぼろぼろ、マジックかなにかで塗ったのだろう、天地小口は薄紫色。地にはイニシャル。「これは残しますか?」と岡野さん。「ぜひ消して下さい。当時つきあっていた人のものですね〜」。背の接着剤をきれいにはがし、ページの角の折れをすべてなおし、破れを和紙で補い、天地小口をぎりぎりで断裁し、スピンを替え、背の丸みを整え、古い表紙のタイトル部分をいかして表紙を張り替え、完成。受け取りには、男性がこの辞書をプレゼントしたいという娘さんもいっしょだった。

プロの修理は背の処理が圧倒的に丁寧だ。もちろんこれが肝心要。仕上がったときにはわからないが使い込むほどにあらわになる。母は予想通りのメールを返してきた。「もったいなくて使えない」。そういうことじゃなくって、お願いだから実験に協力するつもりで使って欲しいんですけれど……。

母の骨を組む

時里二郎

 機銃の静かな重さをこぼすまいとして指は聖水を掬(むす)ぶように母の骨を組んでいく。あるパーツの骨に手が触れると、おのずと片方の手がもうそれと合わさる骨に触れている。誰に教わったのでもないのに、印をむすぶ手のゆるぎない信仰の証しのように、わたしの手は母を組み立ててゆく。

 音がする。無音の音がする。
 母が軋む。その無音の軋みに、わたしの呻きを嵌め込む。

 母の骨といっても、人形だから、おのずと組み立てることができる。粗方の技は、しかし粗雑とは違った。母が生きていたときは、わたしでさえ人形であるとはつゆも思わなかった。魂(たま)の抜けたこの人形を組み立てるときにはいつも、それが母のどこに棲みついていたのかという思いにとらわれた。

 母の股間に手を入れると、母は息を一息入れて、目覚めた。股間に触れると、母の起動装置がはたらいて、魂があかるみ、蜉蝣の翅のような被膜が組み立てた母の骨格を覆って、スケルトン状のアンドロイドになる。
 おじょうずだね。
 母はわたしを息子だとは思っていない。若い情夫とでも思っている。わたしはスケルトン人形の母をあやつり、母の声色(こわいろ)で物語を語る。

 そんな古風な門付けを受け入れてくれる山間の集落や辺境の島が、いまもあるとはふしぎだ。
 母の骨をトランクに入れて、わたしの道はおのずと《あがり》の島へ続いている。
 それが、名井島と聞いたのは、まだわたしが、母が人形であることを知らないころのこと。けれども、だれに聞いたのかは、思い出せない。

さとにきたらええやん

若松恵子

映画「さとにきたらええやん」(2015年100分/製作・配給ノンデライコ)を見た。日雇い労働者のまち、大阪の釜ヶ崎で38年間にわたり活動している「こどもの里」の日々を映したドキュメンタリーだ。田端の商店街にあるかわいらしい映画館「シネマ・チュプキ・タバタ」のロードショーに何とか間に合った。

誰でも利用できます。
子どもたちの遊びの場です。
お母さん、お父さんの休息の場です。
学習の場です。
生活相談何でも受け付けます。
教育相談何でもききます。
いつでも宿泊できます。
・・緊急に子どもが一人ぽっちになったら
・・親の暴力にあったら
・・家がいやになったら
・・親子で泊まるところがなかったら
土・日・祝もあいています
利用料はいりません

「こどもの里」の説明には、こんな風に書かれている。
通いの子が遊びに来る学童保育事業、親や子どもから依頼される緊急一時宿泊、児童相談所が親子分離の長期化を判断して委託するファミリーホームの事業と、その時々のニーズにあわせて作ってきたさまざまな事業に取り組んでいる。

監督の重江良樹は、映像学校の学生時代に釜ヶ崎に撮影に行って「こどもの里」に出会い、通い始めて5年たった時に「こどもの里なら、この子達なら、スクリーンを通して観た人を元気に出来ると同時に、社会全体で考えなければならないことを示してくれるのでは」と思い、映画を撮り始めたという。カメラを回すことで「こどもの里」との関係が崩れてしまうのではないかと心配したが、関係性はさらに強まったとインタビューで答えている。

子どもたちやスタッフに受け入れられている重江だからこそ作れた作品なのではないかと思う。映画の主人公とも言える3人の子ども達の、成長していく姿が魅力的だ。映画の軸となる登場人物のひとり、ジョン君が地元のヒップホップスター「SINGO★西成」のステージを見つめる輝くばかりの顔など、重江だからこととらえることができたものだと思う。つらい状況のなかで、暴言を吐くでもなく、スタッフの言葉にじっと耳を傾けている、むしろおだやかな表情も胸を打つ。こんなにも思いやり深い子どもたちを過酷な状況に置いてしまっている大人の責任というものを感じる。

どんな親であっても、子どもは親を受け入れ、親を想う。責めたりしないのだ。人を責めない子どもの強さを見て、本当に心が打たれた。

パンフレットの解説で、映画監督の刀川和也は『子どもたちが飢えているのは食べ物だけではない。「ひと」だとも思うのだ。「わたしを無条件に受け止め、わたしだけのためにそばにいてくれるひと」、そんな存在をこどもたちは渇望している。(中略)誰からも温かいまなざしを向けられず、思いもかけられていないこどもたちは、その経験を積み重ねることによって、ひとへの信頼も、社会への信頼も、自分自身への信頼さえも失っていく。そうして、自暴自棄な暴力へとつながっていくのだ。』と書いている。社会に増えているこんな負の連鎖を、子どもの里のあり方から逆回転させていくことはできないだろうか。

重江監督は、「こどもの里」の館長荘保共子に「何でこんなところで子どもの施設をやってるんですか?」と質問して「子どもがすきやからです!」と一蹴されたという。揺るぎない荘保のこの思い、それが希望の原点だと思った。
ノンフィクションライターの北村年子は「私の知るでめ(荘保館長のあだな)は、人間でも犬でも猫でも、逃げ込んできた命を守るためには、誰になんといわれようと闘ってきた。そして命を守り抱きしめながら、自らも命に守られ抱きしめられていた。」と書く。荘保館長もまた「子どもの里」のみんなに守られ、抱きしめられながら生きている、そんな姿もさりげなく映画には描かれていて、そこもとても良いなと思った。

情報のことなど

大野晋

このところ、訳あって、Wikipediaの記事を少し書いている。訳の部分を先に書くと、ワインのことについて調べていく中でどうもWikipediaの記載に不信を感じたのがことの起こりである。そこで、技術論文や紙の本をいくつか当たっていく中でやはりおかしいということになった。

Wikipediaの記載は誰でも書くことができるが、いくつか見ていくと専門家というよりも、専門家以外の人が記事を書きたいと思って記載している節がある。しかし、それぞれの元ネタを辿っていくと、決してニュートラルだとか、多くの文献に基づいているとは言えないケースがある。そんな例を見かけて、生来の調査癖がむくむくと頭をもたげてしまったというところである。

いくつもの文献を漁ると記述者によって、ひとつのできごとがネガティブにもポジティブにも書かれることが多い。やはり、ものごとは一面的ではない。もうひとつ気になったのは、信憑が怪しい記述が意外とあちらこちらに転載されてしまっていることだ。そんな様子を見て、混乱を収めるためにもとWikipedeiaの記載の訂正と追加にいそしんでいる。

この作業をしていて気付いたことがある。それは、ネットの記事を直すために、多くの紙の本に当たらないといけないということだ。しかも、図書館の蔵書があてにならないと自前で買い込む羽目になる。世はネット社会などというけれど、結局、正しい情報に当たろうとするとネット以外を使わないといけないという皮肉な結果を受容せざるをえないのだ。

まあ、この傾向は青空文庫の入力といっしょと言えば、いっしょなんだけれども。

デジタル恨み

仲宗根浩

年々、暑さが苦手になっているのに、いつになったら涼しくなってくれる、と呪ってみるも、それはおのれのやる気のない怠惰な生活を暑さのせいにしているだけだ。仕事終わり、涼しくなり車のエアコンをつけず窓全開で気持ちよく帰宅した翌日は、蒸す。往生際の悪い残暑はやっとのこと月の終わりにおとなしくなり、朝の九時ごろから冷房状態にすることもなくなった。

沖縄防衛局に行く。だいたい二百メートル、基地側のほうに引越すと、沖縄防衛局から封書が来たのが七月ごろだったか。中身はNHK受信料補助手続きの案内。補助の理由は騒音でちゃんとテレビの音が聞こえないから受信料を半額にしますので手続きしてくださいという内容。騒音もあるが、プロペラ機が上を飛ぶとテレビの画面にノイズが出て、ひどい場合は音が切れたりする。でもこれは飛行機だけの問題とも言えず飛行が無いときも出たりする。賃貸なのでアンテナの微妙な向きかもしれないし、ケーブルかもしれない。デジタル放送になってすべてクリアに受信できると思っていたらそうでもない。アナログノイズでは途切れることが無い絵と音がデジタルのノイズだとバッサリと切れる。防衛局に入るためには用意された用紙に目的やらどの部署に行くのか、時間はどれくらいかかるかを書き、用が済んだあとはその部署から確かに用は済みました、という印までいただかなくてはいけない。三十分くらいで手続きは済んだがその半分くらいはこちらの状況に対して質問したことを回答をもらうまで待ち時間だった。

那覇の映画館で「レッキング・クルー」という映画が上映されているのを知る。近年よくある、クレジットされないスタジオ・ミュージシャンのドキュメンタリー。休みの日でも行こうと思ったら輸入盤しかなかったブルーレイの日本盤がいつの間にか出ていたのですぐ入手手続き。うちではブルーレイが再生できるのはパソコンだけ。ディスクを入れるとなんとかの更新が必要の表示で再生できない。調べると再生ソフトを新しいヴァージョンのものに入れ換えなくてはいけないような書き込みがある。実家にあるブルーレイプレイヤーではちゃんと再生できる。これだからデジタルは、とデジタル恨み。

庭を出て

高橋悠治

1950年代には 音楽を音の庭とみなし そのなかを歩きまわる演奏のための図形楽譜を作ることもできた 空間のイメージ図式を一曲限りの楽譜として それを音楽作品とみなすのは浪費のような気がする 図形を音にする作業を演奏家にまかせると 時間内の音のまとまりとして演奏を構成していくうちに いつのまにか劇的な対照や効果が忍びこんで来たらどうなるだろう

庭は囲われた空間で そのなかにあるものは はじめからそこに置かれて 訪れる人を待っている 回遊式池泉庭園は 歩きながら変る眺めを考えて設計されているにちがいない

そういうしかけなしに 歩くにつれて風景が変わり 細い道は思いがけなく曲って 先を見通せない 一歩一歩足場をたしかめながら進むよりない そんな音の風景 足を停めるたびに発見があるかもしれないが 通り過ぎると 何を見たのか 記憶がたちまち薄れて 近くに見えてくるものに置き換わり あるいは何も現れない闇に迷う 発見と迷いを織り交ぜながら 半透明な迷宮空間を探り抜け その記録を楽譜に作って もう一度おなじところを辿る いままで見えてなかった景色に出会うことがあるだろうか 

あざやかな印象が一瞬で褪せると聞くと 香のように 獣のまわりに 見えない微粒子となって漂いながら 獣のうごきにつれて渦巻きながら流れていくありさまが思い浮かぶ 音の群れと群れのあいだに 彩りというより 翳りが 響きを包み 響きにまつわり その余韻に あるときは予感になる ざわめきのなかに離れた音をひとつ打つ 短い旋律線の途切れ 長い線の意外な逸れ 一つの線に別な線が延びて絡まる 音は別な音や線の干渉で曲り たわみ そりかえる 物語をつくらない 音の戯れ うごめき

自由な音のあそびを 楽器の上で即興する たとえばピアノで 両手が別なうごき 遠ざかり 近づき 組み合い 交代し いっしょに 別々に 休み うごきまわる音の地図を 弾いている身体の表面 その前後左右上下に映して 鍵盤上の指の感触と同時に 皮膚の上の勘所と 筋肉と神経を伝う響きの流れとして感じる 世界のイメージが音となって身体に入ってくると そのとき音には身体の運動感覚が埋め込まれ それを手がかりに 弾いている身体が その場の響きや そこにいる人びと通じて 世界とつながっていく それが音楽を演奏している人にとって 音楽をすることの意味として個人的に感じられるとすれば その場に立ち会う人びとにとっては 音の動きのなかに 意味やことばとならない世界が現れてくる

即興は経験から生まれてくる能力でもあるし それまで経験したことのなかった偶然にこたえるやりかたでもあるだろう 対抗して積極的に何かしなくても 避けたり まわりこんだり ためらう両手が それぞれちがうことをするにつれて 二つの手のかかわりはいつも変る 対位法や和声のように使い古された技術を持ち出さずに このあそびをどこまでつづけられるだろう

即興はその場で生まれ そこで消滅する 弾き続けていると 波が途切れずに高まり ある軌道に落ち込みそうになる 気づいたらすぐリズムを外し 波をやり過ごし 躓いたリズムが静まったころ 別な空間から入り込む 一回の即興は 失敗とやり直しの乱れ 隣り合う音のわずかなちがいと 遠くからでもわかる切り立った断面とを往復する切り替えの見極めでなりたっているとも言える

作曲は抽象的な構想からはじまるように思われているが 実際の作業は 演奏の場や楽器 コンサート・プログラムの順番などの具体的な条件があり 昔は机の上に紙と鉛筆や消しゴムをそろえ いまはコンピュータの楽譜ソフトでページを設定して まずは書き出してしまう 紙の上で即興するとも言えるほど なめらかに一貫した作業のこともある そういう場合は 何日か経って見直すと それ以上続けられなくなっていることに気づいて はじめからやり直しになったりする 断片をいくつも作ってから それらをコラージュしてもいい その場で即興するのとちがって 楽譜を書くのに慣れていても その音を出すのよりはずっと時間がかかる 作曲は 音楽を遅らせる装置と言ってもいいだろう 顕微鏡で花粉を観察するように 音の細部を見て 強弱や連結や揺れを定着する そんなことが20世紀音楽には多かった 実際には 細かく指定された楽譜は 指定通りに行かないばかりか 想像したようにおもしろくならない

いまやっているのは 使う記号をすくなくして 隣り合う音とのかかわりをあいまいにする あれこれの実験だ さまざまに長い音と短い音と休止があり 空間のなかには決った方向も中心もない かってに動き回り かかわり合い 逸れていく音の運動がある この音楽をどう書いたらいいのか 書きかたにもこれという方式はない いつもすこしずつ記号も使いかたも変えて試す 図形楽譜のように 作曲家が新しい記譜法を発明しても ほとんど定着しなかった 音楽が職業になると 基礎技術を共有していないと いっしょにしごとができない 新しい記譜法の説明ページが楽譜の最初にあると 現代音楽の専門家でもなければ 説明は読んでいないことが多い バッハの原典版の注釈を読んでから演奏する人はすくないのと似ている この状況で 使い古された記号の使いかたをすこし変え それが説明なしに通じるのには どうすればいいだろう

即興があり 作曲があり 演奏はその後で変る クラシックの楽譜も 指の感触と身体に投影された方向や運動イメージで 古典的な和声構造 ロマン主義的な感情のうねりのパターンから自由になって 響きの微細な揺れや 不規則なアクセントで 別な音楽の顔を見せることがあるかもしれない