七十一

北村周一

 祖父も伯父も父までもよわい七十一にして逝きぬふともあのいくさ思えり

祖父は胃に、伯父は前立腺に、そして父は肝臓に、悪性の腫瘍いわゆるガンができて他界した。偶然かもしれないが、享年は三人とも71歳だった。むろん亡くなった年の年次はそれぞれ違うのだけれど、こうもつづくと妙な気分になって来るから不思議だ。

葬儀等でごくごくたまに顔を合わす従兄弟たちともこの話題になったことがある。しかしだんだんその年齢に近づくにつれて、だれも没年については口にしなくなった。かんがえてみれば、もうとっくにこの歳を越えている者も何人かいるのだ。

祖父も伯父も、死ぬまで清水のしらす漁師だった。父も戦争にとられるまでは同じ舟に乗っていた。とうぜん朝昼晩、新鮮な魚料理を食していたわけだし、体力には相当自信があったはずだ。清水でのしらす漁の風景はかつて、水牛のように、2020年2月号茹でじらすでも取り上げたことがあるので、お読みいただければと思います。

 やさしかりし祖父の名を持つシラス舟熊吉丸は清水のみなと

祖父の名は熊吉。名前は怖そうだけれど、寡黙で怒ったことのないやさしい笑顔の持ち主。どちらかというと小柄な体形ではあったが、骨格はしっかりしていた。子どもは、上から順に、男、男、男、女、男の五人。跡継ぎの長男は、体格に恵まれていたために、二度戦地に送られて、南方にて戦死。生まれたばかりの赤ん坊にはちゃんと会うこともなかったらしい。結局次男が跡目を継いだ。伯父さんである。中国戦線でたたかってきて無事帰還した。伯父さんは豪放磊落な性格で、からだもがっちりしていたし、漁師にぴったりの人だった。そして三男がぼくの父親で、中国に送られて南京で敗戦を迎え、命からがらに帰国。からだ頑健な父は健康そのものであったが、漁師を断念して会社員になった。四男は、からだが弱くて物のない時代だったから、戦時中に若くして病死。唯一のむすめである叔母さんは、当時としては大柄なからだつきで、懸命に漁師の家を盛り上げていた。とはいえ、こんなこともあんなこともみんな生前の父から聞いていた話なのだけれど。戦争に行っても行かなくても、重苦しく嫌な時代であったことは十分に推察される。

戦争の最中も、その前も、そしてその後も、つぎつぎに訪れたであろう厳しい時代の制約は、人々の日々の暮らし方だけではなく、それぞれの遺伝子さえも傷つけずには置かなかったと思われる。このような副次的作用は、さらに次の世代へもすがた形を変えて、なんらかの変異をもたらしているのかもしれない。戦争は、最大の環境破壊といわれる所以でもある。

 遺伝子は傷みやすくて夜になると寝床のゆかを軋ませては泣く