2007年11月号 目次
新北風(ミーニシ) | 仲宗根浩 |
アジアのごはん(21)魚つみれ麺クイティオ | 森下ヒバリ |
メキシコ便り(3) | 金野広美 |
しもた屋之噺(71) | 杉山洋一 |
己が姿を確かめること(2)ビデオを使うこと | 冨岡三智 |
昔話──翠の虱(37) | 藤井貞和 |
製本、かい摘みましては(33) | 四釜裕子 |
アヤとローラ | さとうまき |
硝子体手術 | 高橋悠治 |
新北風(ミーニシ)
最近活字を読むのが段々と辛くなってきています。文庫本だとかなり厳しい。紙ジャケ仕様のCD再発ものだとお手上げ。まずジャケット裏のクレジットが読めないし、同梱されている解説も無理。今年になり急に来た老眼です。もともと近視のため読めない場合は眼鏡をはずし、近付けて読む。目は疲れる。試しに子供の虫眼鏡を使ってみたがページ全部を拡大してくれないので虫眼鏡も動かさなくていけない。面倒くさい。余計に疲れる。よって余程内容が読むその日、その時間でおもしろいと思わない場合、またはその時自分に根性がない場合、本は置かれたまま。図書館で借りたものは途中で返すことになる。窓口で借り待ちの人がいないと確認できれば再度同じものを借りる。
図書館へは歩いて十五分もかからないくらい。家から出てゲート通りを横断し、手書きの「BEER $3.00 YAKITORI $5.00」の貼り紙を横目に飲み屋街の中の町を居酒屋やスナックの看板を眺めながら抜け、図書館まで行く。この前、「パブ B・Bキング」という看板を見つけ「流れている音楽はスクィーズ・ギターの三大キングに、オーティス・ラッシュ、バディ・ガイのみという頑固なブルースの店ではなかろうか、、、」と妄想しつつ(看板がピンク地に白抜き、書体もイタリックだったのであり得ないのは承知)、以前はあった、何故、コザの中の町で「スナック中目黒」なのか、と不思議に思っていたあの看板はどこにいった、と午後、人気のない通りを馬鹿なことを考えながら歩いていると、いつの間にかミーニシが吹き秋になっていた。
十月頃に吹く北東強めの風を新北風(ミーニシ)と言う。沖縄大百科事典には九月頃、とある。今年は十月十五日にミーニシが観測されたようで、この風が吹くと秋、ということになる。十月になってしばらくすると、寝る時に扇風機をつけることがなくなり、昼は家の中にも涼しい風が入ってくる。タオルケットかけるだけでは段々寒くなったとおもったら風邪をひき、しばらく寝込んでいると、うえの子の小学校最後の運動会。蝉がまだ鳴いている。PTA参加の競技に参加するため入場門で待っていると、日射しは強い。天気がいい日の正午過ぎは暑い。昔、自分がこの小学校に通っていた頃、教室にクーラーなどは無く、体育館もプールもなかった。児童数は千人を軽く超えていた。学校の近くにはトタン屋根の家がたくさんあり、豚小屋もあった。今は校舎も建て替えられ、ほとんど風景は変わった。通ったのは三年間。復帰の翌年に熊本に引っ越した。
アジアのごはん(21)魚つみれ麺クイティオ
タイの北部の古都チェンマイで最近お気に入りのめん屋さんがある。ナイトバザールの通りから一本東のピン川よりの道、チャルーンプラテート通りに昔からある店だ。ポンピンホテルの手前、ダイヤモンドホテルの向かい辺りにある。表のガラスケースに魚のつみれがたくさん飾ってある。魚のつみれがそんなに好きではないので、積極的に店に入る気が起こらなかった。たしか、十数年前は一時期けっこうここで食べていたような気もするのだが、わりとおいしかったとは思うが、もうさだかではなかった。
先日、その店の近所で昼食となり、まあいいか、と店に入ってふつうの米めん・クイティオを注文した。出てきたのは、透明なスープに米のめん、上には魚のつみれダンゴ、魚のすり身をひも状にのばしたもの、皮もすり身のギョウザ、かまぼこなどがたくさん乗っている。すべて魚のすり身で作ったものである。何の期待もせずに口に運ぶと、つみれダンゴも、かまぼこも、すべて具がたいへんおいしいではないか。皮もすり身のギョウザはぷちりと噛むと、とろりとした餡が口の中に流れ出る。
「今まで食べた魚つみれダンゴたちの中で一番おいしいかも」
「うん、いける」
魚のつみれが好きなウチの同居人もうれしそうに食べている。スープとめんはあっさりで、ほどほど。あまり魚のつみれダンゴ系のものが好きでないというのは、おいしいものがなかなか見つからないということも関係しているかもしれない。
「おいしい店なのに、なんで来なくなったんやろ?」
「高いからかなあ? けど、まあちょっと高いだけやし」
ふつうのめん屋さんよりはたしかに10バーツほど高いが、この味ならまあいいだろう。食べているうちに、以前「タンマダー(ふつう)」とわざわざ注文しないと外国人には自動的に「ピセー(スペシャル)」のクイティオが出てきて、ちょっといやな思いをしたのだということを思い出した。注文でとくに何も言わなければ「ふつう」でしょうが。
店の一角で白人旅行者のカップルがめんを食べているのが見えるが、明らかに器の形が違う。料理屋では区別のため値段で器を変える。あれはピセーに違いない。そういえば、めんを注文するとき、ふと気になって、ふつうはとくに言わない「タンマダーね」という確認をわざわざしたのも、かすかな以前の記憶があったためかも。タイのめん類の「ピセー」は、ふつうより具が多くなって、値段が5バーツから10バーツ高くなる。もともとタンマダーでもぎっしりと具がのっているので、つみれがあんまりたくさん食べられないわたしには、むしろ迷惑なスペシャルであって、しかも注文もしていないのに勝手に出してくるその根性がまたイヤなのである。たぶんそれで、若かったわたしは来なくなったのだろう。タイのめん類は、めんの量がとても少ないので、めんの量を増やしてくれるのならまだいいのだが、残念ながらそういうピセーは存在しない。
短い旅行者には、どうでもいいようなレベルのことなのだが、タイ生活が長くなり「暮らしている」感覚になってくると、こういうのはうっとうしい。タイで外国人には値段の高いピセーを持ってくる店はけっこう多い。でも、屋台の汁めんでも外国人には3倍、4倍の値段を言って絶対引かないのが当たり前のベトナムなどに比べたら、ちょっと高いものを食べさせようとするなんて気持ちはカワイイものである......とベトナムに行ってから思うようになったけど。
丸い魚のつみれは、タイではルークチン・プラーと呼び、焼いたり、揚げたりして食べることもあるが、もっぱら米めんクイティオの具として活躍する。魚のつみれダンゴやかまぼこをたくさん具として上に乗せる、というのはタイ以外の国ではあまり目にしないめん料理だ。日本でも和風ラーメンにはかまぼこやなるとをのせるが、せいぜい一枚か二枚。チャーシューを敷き詰めたラーメンはあってもなるとを敷き詰めたラーメンはない......。というのも、タイのこの魚つみれ入り汁めんのルーツはめん料理ではなく、ルークチンなどのつみれやかまぼこ類を野菜と煮た、広東料理のイェンターフーというスープ煮料理にあるからである。それにめんを添えたものが、タイのクイティオの始まりである。なので、クイティオにとって、重要なのはめんよりもルークチンなどの具。なので、一杯のめんの量は大変少ない。
クイティオをタイに持ち込んだのは18世紀から19世紀のバンコク王朝時代にバンコクに移住してきた華南の広東、潮洲出身の華僑たちである。潮洲というのは、広東省と福建省の境にある地域で、広東省に属するが、広東語とはかなり違う潮洲語を話す。バンコク王朝の王が潮洲出身の中国人の血をひいていたので、潮洲出身者がバンコクで優遇され移住が奨励された。そのため、今でもタイの華僑の7割が潮洲出身者である。クイティオというのは潮洲語で米の粉から作っためんのことで、めん料理をさす言葉ではないが、現在では米のめんを使った料理の総称としても使われる。以前は広東語のイェンターフーがめん料理をさす言葉として使われていたが、その呼び名はすたれ、今では赤い腐乳入りのクイティオだけをそう呼ぶようになっている。
タイでは、このルークチン入り汁めんのあっさりクイティオが現在ではめんの主流となりつつある。しかし、もっと古い時代に中国雲南省から伝わったと思われる、汁めんのカオソーイの系統も地方に行くとまだまだ健在である。カオソーイと呼ばれるめんの系統はトリガラスープに鶏肉入りや、牛肉ダシの牛肉入り、豚骨ダシに肉味噌のせなどである。これらはクイティオに比べると、けっこうコテコテで濃厚な味が多い。米のめんもきしめんぐらいの幅が多い。チェンマイのカレーめんの「カオソーイ」は北部地方のめん類の呼び方がカレーめんだけに残ったものである。同じタイ族のラオスやビルマのシャン州では、魚つみれ入り米めんのクイティイオはほとんどない。カオソーイ系列の米めん料理が中心である。小麦粉の中華めんも、これらの地域ではあまり見かけない。中国人の店でしか商われておらず、純正中国料理、というたたずまいだ。魚つみれ入りめん料理というのは、ルーツは中国ではあるもの、タイ王国でふしぎな形でおいしく発展した料理といえるだろう。味つけに醤油ばかりでなく魚醤油のナムプラーを使うことも忘れてはならない特徴のひとつだ。
さっぱりしたクイティオはお昼ごはんや、ちょっとお腹がすいたときに手軽に食べられ、毎日食べても飽きない。タイのめん類は、基本的に薄味に作ってあり、テーブルに置いてある調味料で最後の味の調整は自分でする。食べ飽きないのは、これで自分好みの塩分や酸味、辛味を作れるからでもある。組み合わせでいろいろなバリエーションのめん料理を食べることが出来、まさにタイはめん食いのパラダイス。あとは化学調味料の使用をもっと少なくしてくれれば文句はない。
アジアの料理人が、化学調味料を汁めんの仕上げにばさりと大量に入れる習慣のおかげで、わたしはタイ・ラオス・雲南省・ビルマ・カンボジアなどのアジア各国の言葉で「味の素を入れないで」と言えるのだが、あまり自慢になるような、ならないような......。ちなみにタイ語では「マイ・サイ・ポンチューロット」、ラオ語では「ボー・サイ・ペンヌア」である。
メキシコ便り(3)
毎日、先生と追っかけあいをしながらのクラスもいよいよ最終週。木曜日にはオラリオ(先生との会話と5分間のスピーチ)のテスト、金曜日にはクラスのメンバーがそれぞれの国の料理を作って持ち寄るパーティー、週明けには筆記の進級テストと、予定がつまってきた9月の終わり、しっかり勉強しなければと決意していた日曜日の夜、勉強を始めると突然爆発音が聞こえてきました。ガス工事でもしていて爆発が起きたのかと思うほどの大きな音。それも10分、15分間隔で聞こえてきます。勉強どころではなくなり、何度も窓から外を見ましたがよくわかりません。別に人が騒いでる様子もなく、表では向かいの公園に移動遊園地がきていました。大音量で音楽が流れ、たくさんの店が並んでいます。あまりのうるささに勉強どころではなく、あきらめて耳をふさぐようにしてその日は眠りました。
しかし、次の日も学校から帰ると同じ状態が続いています。いったいなんなのだとその辺りにいた人に聞くと、教会のお祭りだという答え。中に入ってみると、ちょうどミサの真っ最中。神父さんが歌いながら説教すると、前にずらりと並んだ15人位の楽団が、トランペットやトロンボーン、ギターなどで伴奏し、中にいる人たちも唱和します。楽団のソリストによる賛美歌もリズミカルで、ヨーロッパの教会の荘厳な雰囲気とは全く異なり、ここでは教会音楽もにぎやかなマリアッチでした。外ではシスターたちが手作りのお菓子やタコスの店を出し、やはり別の楽団が広場で演奏しています。その前ではもちろんみんな踊っています。
しばらくそれを見ていると、またもあの爆発音が聞こえてきました。そこで私のアパートのガードマンのフィデルにいったい何の音かと聞くと彼は「戦争が始まったんだよ」と一瞬、私を脅かし「本当は花火だよ」と笑いながら言いました。よく気をつけてみるとあがっていました。子どもがよくやっているあの打ち上げ花火です。でもその花火、とてもしょぼいのです。細い火がシュルシュルと短くあがってパッと消えます。なのに音だけはめちゃくちゃ大きいのですから閉口です。その日もまたまた勉強できず寝ることにしました。
そして、次の日も相変わらずです。おもいあまって、私はフィデルに「ここの住民はこんなに遅くまでうるさいのに文句言わないの」と聞きました。すると彼は「言わないよ。みんな祭りに参加してるんだから」ですって。なるほど、それではいうわけないわなー。そこではたと気がつきました。あ、そうか私も見ているだけじゃなく、参加すればいいんだと。もう試験勉強はすっぱりあきらめて出かけることにしました。ナタという今川焼きのようなお菓子をほおばり、大音量のロック音楽をききながら縁日を見て回りました。
移動遊園地は回転木馬、コーヒーカップ、バイキング、小さいですが観覧車まであります。たくさんの露天が出て、お菓子やパン、何十種類もの豆やチレ(メキシコの唐辛子)、直径50、60センチはあるチチャロン(豚の皮を油で揚げたもので、細かくちぎってサルサソースや、チレをまぶして、そのままおやつとして食べたり、スープの具にする。食感は少し油っぽい車麩かな)そのほかには、ろうそく、アクセサリー、各地の民芸品など、さまざまなものが売られ、臨時食堂では親子連れがタコスやポソレ(鶏肉やとうもろこしが入った実だくさんのスープで、9月16日の革命記念日の前夜には必ず各家庭独自のものを食べる習慣がある)を食べ、子どもたちはヨーヨーつりや、鉄砲打ちに興じています。そのそばでは父親が笑いながら子どもを見ています。こうしてみんな日付けが変わるまで3日間のお祭りを楽しんでいました。お陰で私はトホホ......の成績でしたが、なんとか進級だけはできました。
さあー2週間のバカンスです。ホンジュラスに6日間と、グアナファトで開かれる国際セルバンテスフェスティバルに4日間の予定で行ってきます。ホンジュラスはJAICAに勤める友人がくれた今年の年賀状に「ホンジュラスに赴任することになりました。近くに来られることがあれば是非お寄り下さい。」とあったので、近くに行くでー、とばかりに訪問することにしました。それまでどこにあるかも知らなかった国でしたが、初めて地図で探しました。メキシコのとなりがグアテマラ、そのとなりがホンジュラスでした。ニカラグアと並んで中米の最貧国のひとつだそうですが、メキシコとは違ったラティーノの姿を見ることができるだろうと、今から楽しみにしています。
しもた屋之噺(71)
冬時間に戻ると、途端に季節が突き抜けてゆく気がします。ヨーロッパの晩秋というと日本より深い闇の印象があるのは、街のネオンが少ないからかでしょうか。イタリアでネオンの目立つ街を思い出すと、トリノの寂しい街角ばかりが脳裏に浮かびます。トリノは寂れた街ではないのですが、夜、それも今日のように雨がずっと打ち続けている夜に訪れると、へろへろのピンクや緑色のイルミネーションが妙に悲しげに見えるのが不思議です。
今月中旬のある夜。レッジョ・エミリアのオペラの本番が終わり、ホテルでシャワーを浴びたあと、0時の鐘の音をドームの階段に座り、一人聞いていました。本番の後に皆で騒ぎたい方でもないので、こうして何を考えるでもなく一人で居るのが好きなのです。閉店間際のヴァッリ劇場前のバールで買った、エルバッツォーニという土地のパイをキノットと一緒に食べながら、小一時間ほど誰もいない寒々とした広場の噴水を眺めていました。
3週間も毎日欠かさず通っていれば、色々な人との出会いもあり、再会もあり、有意義で楽しい毎日でした。仕事場の雰囲気が本当に素晴らしく、最初から最後まで、心地よく仕事が出来たのが嬉しかったですね。文句を言うまでもなく、歌手の皆さんがここを教えて、あそこを返して、と厭な顔一つせず、最後まで真摯に楽譜と対峙してくれたのにも感激したし(初日に指揮台に上がると、譜面台の上に、主役のニコラスからメッセージ入りのプレゼントが置いてあったりしました)、俳優の皆さんの声には、心がいつも揺さぶられたし(ミケーレ・デ・マルキも、本番の後にお礼の電話までくれましたし)、彼らに対し、とにかく丹念に演出を施すフランコ・リパ・デ・メアナの腕前と粘り強さからも沢山のことを教わりました(フランコとは、楽日の翌日、ミラノに戻る列車で一緒になり、記念に上げる、と趣味で集めている折り畳み傘をくれました)。
いつもは、クラウディオ・アバードやら大御所とばかり仕事をしている照明の巨匠グイド・レヴィも、こんな右も左もわからないような若造に、気がつかないうちにさらりとご馳走してくれたり、色々と気を利かせてくれたりして(だからという訳ではないけれど、今日は思わず、彼が照明を担当している、パリ・オペラ座の「アルジェのイタリア女」のDVDを買ってきました!)、その他の裏方の皆さんも一人一人本当に気持ちよく働いてくれて、毎日仕事に出かけるのが楽しみでした。演奏家の皆さんも、文字通り最初から最後まで全て協力的でしたし、本当に言い出したら切りがないですね。
合唱指揮のアルフォンソ・カイアーニとは、最初に家で打ち合わせをしたときから、ウマが合うと思いました。直感で、ああすごい才能だな、耳がいいなと思えたし、実際彼が居たから何とかなったとも思います。定期的にパリのオペラ座で仕事も始めたけど、ヴェニスのフェニーチェから引抜かれたから来年1月から暫くヴェニスで頑張ろうかと思っているんだけど。でも、考えてもみろよ、冬のヴェニスなんて一ヶ月も暮したら鬱病になっちゃうだろ。本当はさ、バルセロナに行きたいんだよな。劇場もいいし、海もある。メシもうまい。ヴェニスか、まあ、取りあえず様子見だな。
彼はスカラの少年少女合唱団の指揮の責任者で、こちらもまだ暫くミラノに住んで、息子が後何年かして、どうしても音楽がやりたいようだったら、アルフォンソに頼んで、少年合唱団に入れて貰いたいと思っていたのだけれど、ヴェニスにゆくならスカラと両立は時間的に難しそうだからちょっと残念、などと考えつつ、一緒にミラノまで夜半の汽車で戻ってきたりしました。
劇場監督のダニエレ・アバードと、2、3度立ち話をしましたが、演出にも作品にも満足してくれたし、何より短い合わせでここまで形にしたということに驚きだったようです。レッジョでは今頃、彼の演出で別のオペラを準備しているはずで、時間の都合が付けば是非見にゆきたいところですが、ここまで全ての仕事が遅れていると難しいかも知れません。彼と話していると、こちらが素人臭いだけなのか、何とも言えない上級のオーラが漂ってきて、こんな人と話していていいのかな、などと思ってしまう程です。
ピアノ付きの舞台稽古で、どうせ朝から晩までピアノのマルコと二人、皆からずっと離れた誰もいないところで振っているだけだから、と靴を脱ぎリラックスして指揮台に上がっていたところ、或る日ふと気がつくと、すぐ目の前で突然テレビ・カメラがこちらを舐めるように撮っているではありませんか。仰天しながらも、どうか足元は撮られませんようにと祈りつつ、振り続けながら靴を履いたりしている有様では、どう贔屓目にみてもお里が知れるというものです(あれはRAIのニュースだったらしく、友達から見たよと報告を受けましたが、指揮者は遠くで振っているだけだったと聞き安心しました)。
数日前に、サウンド・エンジニアをしていたアルヴィゼ・ヴィドリンからメールが来て、よく困難な条件であれだけやったねえ、と書いてありました。このオペラもなんでもDVDにするとかで、指揮者にインタヴューをとか言って、午後誰もいない舞台で、演奏者の椅子に座り、盛りだくさんの打楽器が写るアングルで質問されたときも、このような難しい演奏は、どうでしょうか、実際やられてみて、と言っていたし、まあ全てのキューをヴィデオカメラに向かって左手の指の数1から5までで出しているのを見ている方からすると、なんだかすごいことをしているように見えるのかも知れません。そうですね、別に特に指揮者は大したことはしていないんですよ。歌に合わせて振っているだけで、全体がつつがなく流れてくれるようにやっているだけですけどね。等と答えたら、インタヴューの人たちはちょっとがっかりしていました。
こうして、色々な人に支えられてオペラは出来るわけですが、最後の最後、本番は、とにかくしっかり指揮者が纏めないと、これだけ素晴らしいメンバーが朝から夜中までかかって準備したもの全てが水の泡になってしまうわけですから、何を考えて振っていたかと言えば、ただそれだけ。皆の努力が報われるように、素晴らしい舞台になりますように。普通に演奏するのと、何が違うかといえば、やっぱりこの部分だったと思います。最近、仕事で厭な思いをしたことがないのですが、結局周りに恵まれているのでしょう。有難いことだと感謝の念を新たにしつつ、とにかく詰まっている仕事を少しでも片付けるよう努力しなければ。
己が姿を確かめること(2)ビデオを使うこと
私がまだ留学する前で、ジャワで習った舞踊を一人で細々と練習していた頃、鏡を使って練習するのはよくない、ビデオを使う方が自分の動きが客観的によく分かるとアドバイスしてくれた人がいた。たぶん、鏡を見て練習すると自己陶酔する危険性があるけれど、ビデオに撮ればその心配はない、ということだったのだろう。けれど、実のところ私にとってはどちらも大差なくて、ビデオに撮っても自分の動きは客観的には全然分からなかった。それは―その1 鏡を使うこと―でも書いたように、横に具体的な比較対照者が写りこんでいないと、まだ判断できなかったからなのだった。
今では、公演のビデオ記録を見て動きを見直してみることがある。けれど、自分で意識できている自分の癖はよく見えるけれど、まだ意識できていない癖は見えない気がする。さらに、ビデオを見ることによって、他の人と比較して自分だけが違っている箇所がどこだか分かっても、それが修正すべき悪癖なのか、他の人にはない個性に成り得るものなのかは、私にとってはまだよく分からない。鏡やビデオという外部視線によって自分の動きを確かめるのは、本当は、そういうことがはっきりと分かりたいがためなのだが。
ビデオを使いこなせるのは(このことは録音にも当てはまる気がする)、先生=自分が真似したい見本の動き(演奏)を完璧に真似しようと思っている人だという気がする。最初から先生を真似しようとビデオを見ていて、たぶん先生の動きを見取ることにも長けている。だからビデオに自分1人しか写っていなくても、その横に先生の姿を想像して、比較して見ているのだろう。
それはつまり、自分の外部に既にモデルがあるということなのだ。けれど自分の上達したい先のモデルは既にあるとは限らない。漠然とはしているものの、ある理想のイメージを追う時には、ビデオの中に答えが見つかることはないような気がする。
留学中、私がビデオや録音に精を出さなかったのは、完璧に真似する能力がなかったからでもあるけれど、理想のモデルが現実の先生ではなかったからだ。私は、その時点において先生が達している状況を理想にしていたのではなくて、先生が目ざしていたであろう方向の先に、私の理想の方向を重ねていた。
私の理想は当初は茫漠としていたけれど、それが自分にとってある程度具体的な像を結ぶようになった頃から、比較対照者が一緒に映っていなくても、ビデオを練習に活用することができるようになってきた気がする。とはいっても、以上のようなことだから、私は細部の動きのチェックにビデオを使うことはあまりしない。上記の通り、ビデオを見ても、映っている私の動きが悪癖になるものか個性になるものかを判断してくれるわけではないからだ。そういうところを見てくれるのは、やはり師匠のまなざししかないような気がする。
昔話──翠の虱(37)
(今回は「翠の沙漠37」と名を改めまして)
『竹取物語』研究者としましては、
かぐや姫(衛星探査船)をね。
あけがたの水星を追う天体望遠鏡で、
月までをも視野にいれようとするとき。
midu(水)、midori(水色)、
見えてきたのは水の地球で。
かぐや姫は地球のすみずみを、
見てるはずなのに、満ち欠けをさ。
何でも知りたいと思ったら、
その昔、地球にやってきて。
おうな、おきなのみどりめとなりまして、
あたいを育てておくれよ、しばらく。
みどりの沙漠が美しいね、
みどりさん
(「藤井さん、さいきんはどんなしごとをやってるんですか?」「11月に、戦争の本をだそうとしています」「わあ、いや。戦争はきらいです」と、拒絶反応が大きいです。「非戦、非武装を起源から探求する本ですから」「そうですか、じゃ買いましょう」と、しぶしぶ同意させても、分厚いかべです。)
製本、かい摘みましては(33)
ある大学の図書館が主催する年に一度の製本講座を担当して3年目、今年は10月開講で、ちょうど先週終わったところです。学生や図書館のスタッフのかたにアシストしていただいて、参加者はだいたいいつも15人くらいでしょうか。卒業生や近隣のかたの参加も増えてきて、運営する私たちにも段取りだけにモウマイしない余裕がやっと出てきたように思います。
毎回その日の作業の説明とデモはわたしが一度はやりますが、あとはそれぞれのテーブルで、アシスタントを中心にして、先にできたひとがまだのひとにこうやったよと話しながらまた自分でもやり直すなどして進めていきます。先にできたひとには、その場で早速先生になっていただくわけです。ひとりでこっそり仕上げて悦に入っているひとを見つけたら、「はい、ここにいい見本がありますよー」と呼びかければ、あとは自然にそこで談義がはじまるものです。
少し前に他の講座でこんなことを言われました。「先生が言った通りにしたのにうまくできない!」。器用なひとでしたので、失敗したことがよほどくやしかったようです。応えました。「馬鹿だなあ、初めてやるんだからそうそううまくいくわけがないじゃないか。わたしなんかどれだけ失敗してきたことか。そんなに簡単にうまく作れるわけがないでしょう」。かつてわたしが習っていた製本教室ではありえない会話です。そこはいわゆるカルチャースクール系でしたので、生徒が決して失敗しないように、一人一人に丁寧に教えてくれました。どうしてもできないところは先生が仕上げてくれたほどです。それはそれでとてもよかったのですが、図書館の講座を持つにあたってわたしが考えたことはただ一つ、失敗のない作品を仕上げてもらうことではなく、失敗しない方法を考える場所にしたいということでした。
紙を貼る説明をするときにも、ノリの説明はあまりしません。
指で塗るかハケを使うか、水で薄めるのか、薄めるならどれくらい水を入れるのか。かなり大きな面積を人差し指だけで器用に塗ってしまうひともいましたから、それぞれがまず自分のやりやすい方法を探して試してもらいます。資材の用意についても、必要な分量をなるべくそれぞれで切り出してもらいます。「糸は何センチ必要ですか?」と聞かれたら、「どれくらい必要でしょうねえ。考えて切ってください」というふうに。糸の運びが頭に入っていれば、どれくらい必要か、考えることができるのですから。
さてそんなことが、参加するみなさんにとっては面倒なのか面白いのか、わかりません。でもわたしとしては、それぞれが別々の方法でノリを塗っていたり、先にできたひとがまだのひとに説明している様子を見るのがとても楽しい。失敗するともう一度やってみたくなるもので、講座が終わってから自宅で作り、図書館のスタッフに見せにきてくれるひともいるようです。なにしろここの図書館には製本で使う基本的な道具は揃っていて希望者には貸し出しもしているし、スタッフのほとんどが一度は講座を受けていますから質問にも応えられるのです。なんて魅力的な図書館だろう、と思います。
アヤとローラ
先日、「ガラスの動物園」というお芝居を見に行った。テネシー・ウイリアムスの古典的なお芝居。高校のときに、クラスメートが演劇部に入っていたのを知らず、文化祭のステージに出てきたので驚いた。高校生とは言えど、本格的なお芝居を見たのは初めてだったのだが、今まで隣に座っていたクラスメートが急にまるで違う人、つまりはすっかり役者になっているのでこれまた驚いたのだ。
今回は、文学座の粟野史浩さんが青年紳士の役をやるという。粟野さんは、永井愛さんの「やわらかい服を着て」というお芝居に、NGOボランティアの役を演じた。役作りのために私の報告会にも来てくれたことがある。
私が、見たのは、30年も前だったが、なんとなくストーリーも覚えていた。なぜだか、青年紳士が、チューインガムを自慢げに噛むシーンを一番よく覚えていた。ローラは、子どものころから足が悪くて、そのことが気になり、自信がもてず過度の内気になってしまい、婚期を逃してしまう。学校では、足につけていた補助具の音を、皆に聞かれたらどうしようといつも不安なのだ。ビジネス学校にいっても、極度に緊張して、適応することができずに一日でやめてしまう。このお芝居が作り出す、ローラの内面の繊細な世界が心地よい。お母さんは、どこにでもいるような、娘の売れ残りを心配し、おせっかいを焼こうとしている。
この間、アンマンに行ったときに、バグダッドからアヤちゃんが検査のためにやってきた。アヤちゃんは、ガンになって右足を付け根のところから切断している。義足をつけて歩いているが、この義足がよくこわれるので、転んだりする。この間は、バグダッドから成績表を持った写真を送ってきてくれた。よく見ると、10点、10点、8点、8点、とまあまあの成績だ。無事に進級できたようである。
今のバグダッドは、宗派対立が激しくなって、こどもたちが町を歩くのも大変だ。誘拐されたり、テロに巻き込まれたり。誘拐されると身代金を要求される。彼女の父はスンナ派、母はシーア派だ。この間までは、イラクでは、彼らのように宗派にかかわらず結婚するものも多かったのに、なぜここまで宗派が対立するのだろうか? そこで早速しらべてみた。
シーア派のイスラム教徒は、アル・フセイン(フサインと表記することも多い)の肖像画を家に飾っていたりする。本来イスラム教では、偶像崇拝を禁じているのだが、シーア派は少し違うようだ。このアル・フセインは、預言者ムハンマッドの孫に当たる。ムハンマッドの死後、イスラム共同体は、誰をその指導者(カリフ)にするかで、もめた。長老の合議制で決めるというのがルールだったが、血筋を主張した人々がシーア派である。彼らは、アル・フセインを担ぎ出して、当時のカリフのウマイヤ家に反旗を翻した。アル・フセインの軍隊はたったの72名だったが、カルバラで4000人の軍隊に囲まれ、まず、水を欲しがった乳飲み子のフセインの息子のアリに矢があたり絶命する。そして、フセインの体にはたくさんの矢が刺さり、首を切られて惨殺される。シーア派の人達は、フセインを特別に崇拝しており、毎年、フセインの殺された日を記念日として、自らの体に鞭を撃ったり、ナイフで額を切りつけて、悲しみを共有するのである。この儀式はアシューラといわれている。シーア派はこの「悲劇」こそが、根本あるのだろう。
このフセインがシーア派に惨殺されたと解釈すれば、話は根深いが、当時からカルバラの悲劇は、宗派対立というよりは、部族間の覇権争いのようなところがあった。フセインの父のアリは、同じシーア派内部から暗殺されているし、暗殺や、惨殺の繰り返しが歴史なのだろう。今のイラクの状況そのものかもしれない。復讐、復讐の繰り返し。どこに解決の糸口があるのか、私には結局よくわからない。
アヤちゃんが、バグダッドから無事にアンマンに着いたというので早速会いに行く。片足でぴょンぴょンとはねながら、うまくバランスをとって出迎えてくれるのだ。ヨルダンに住み着いているイラク人の娘、バスナも様子をみにきた。この二人はとても仲良しだ。バスナは、アヤちゃんの義足が気になって仕方がない。そのとき廊下で猫がミャーオとないた。猫だといって二人は走って外に出る。アヤのスピードはバスナに決して負けてない。でも、外には猫はいなかった。近所の子どもが持っていた携帯電話の着信の音だったのだ。二人は顔を見合わせてげらげら笑っていた。
二人はさらにはしゃいで、アパートのベランダから身を乗り出すので、バランスを崩して落ちはしないかとハラハラする。バスナがベランダから身を乗り出すと、片足がない分、上半身に重心が偏っているから簡単におちてしまう。前もいすから転んで骨をおったことがあったからだ。
バグダッドからの旅は、いつも大変である。前回は、家族みんなで出てこようとしたが、ヨルダンは、アヤと父親しか入国を認めず、乳飲み子を連れた母は、一晩国境のモスクに身を寄せて翌朝バグダッドに戻らなければならなかった。今回は、2人できたのだが、タクシーの運転手が入国できず、ヨルダン側で別のタクシーに乗ったためにさらに100ドル払わなければいけなかった。
お父さんは、アヤがガンだとわかったときの話をしてくれた。足を切断しなければいけないといわれたときは、目の前が真っ白になり、寝込んでしまった。でも、命が助かったので、神に感謝している。イラクには、ウェディングドレスが飾ってあるお店が多い。買い物に連れて行ったりすると、彼女はそういったドレスを眺めて、「私は、大きくなったら結婚できるの?」と聞いてくる。「大丈夫だよ」というと、アヤはにっこり微笑むのだ。しかし、父はそのたびに、責任を感じてしまうという。アヤは、とても明るい女の子だ。
彼女がバグダッドに去る夜、アパートの下の部屋では、バスナの家に私たち日本人も集まってラマダンの明けのイフタールを食べながら大騒ぎしていた。アヤは、そのグループには加わらずに、父に手をつないでもらって足を引きずりながら、さびしそうにアンマンを去っていった。
予想外の出費のためにお金を使い切ってしまった。これからダマスカスに抜けて、そこからだと安いバスがあるそうだ。ヨルダン政府は、特別な理由がない限りイラク人にビザを出さなくなったので、ヨルダン―バグダッド間を行き来する車はほとんどなく、法外な値段を払わなければいけないからだ。ラマダンも中間地点にさしあたり、夜空には満月がけらけらと高笑いしている。これから、長くて危険な旅が始まるのだ。無事にバグダッドまでたどり着けることを祈りつつ。
「ガラスの動物園」のローラを見ていて、アヤのことを思い出した。
アヤは、明るい女の子だ。だから僕たちは、彼女のハンディキャップをほとんど感じることがない。だが、今までは、小さかったけど、大きくなってくると自分の体のことを気にするかもしれない。周囲の目も厳しくなるかもしれない。そしてローラのように、内気になってしまうかもしれない。
ふと、思った。
硝子体手術
1992年5月のある夕方
プラットホームで空を見上げていた時
急に幕が降りたように 視野の半分が閉じた
それはアレルギー性の白内障で
見えなくなった右目のまま 2箇月過ごした
今年の8月 町を歩いていると
また右側の風景が消えた
それでも左側はダブルイメージになって
距離のない町並みがつづく
人工レンズがずれたので こんどは虹彩の裏に
新しいレンズを縫い付ける手術を受けた
手術室ではバッハの平均律第1巻第1曲が鳴っていた
ピンクや黄色の四角形が映る目のなかを
一瞬 銀色の針が横切り
アンダルシアの犬の切り裂かれた目か
手術が終わった時には第2巻第1曲がはじまるところだった
どうやって目の裏側から縫うことができるのか
目を取り出してまた入れるのか
まだ聞けないでいる
今度のレンズは目よりも長生きするらしい