2007年12月号 目次
製本、かい摘みましては(34) | 四釜裕子 |
しもた屋之噺(72) | 杉山洋一 |
数え歌――みどりの沙漠37(翠の虱改めまして) | 藤井貞和 |
くあらるんぷうる | さとうまき |
エコー診断と透視 | 冨岡三智 |
とっちらかった日々 | 仲宗根浩 |
書店の棚 | 大野晋 |
メキシコ便り(4) | 金野広美 |
「がやがやのうた」と高田和子追悼ライヴ | 三橋圭介 |
響の墓 | 高橋悠治 |
製本、かい摘みましては(34)
名古屋の書店+ギャラリーの「コロンブックス」から、書家・華雪さんのミニブック『esquisse 島』が届く。「島」をテーマにした書と篆刻の作品展にあわせて、その習作として作られた本だ。会場を訪れた日、そこにはこの本の原稿となったさまざまなものが蛇腹に継がれてあったが実物はまだなくて、完成を待って送ってもらったのだ。A6判24ページモノクロ印刷、中綴じホッチキス留めされたなかに4点のカラーの貼り込みがある。袖と背幅を出して折った表紙カバーはカラーで刷られ、全体を通して原稿用紙の罫線がアクセントになっている。華雪さんが、ある島を訪れたときに手帖に残した書き文字もある。鉛筆だろうか。文字の太さはばらばらで、○で囲ったり×を重ねたり→で別の言葉を導いたり。会場に展示してあった篆刻作品のなかで一番好きだった「合同船」という文字が生まれた痕跡も見てとれる。なるほどこんなふうにして、これでもかこれでもかと書家に言葉がおりてくるのかと思う。
華雪さんは書家としての活動をはじめた当初から、小さな本を主に私家版として作ってきた。各地で個展を重ね作品集も出しているのに、あいかわらず今回もこうして小さな本を作った。豆本のように、最初からその大きさをめざして作られた小さな本をわたしは好まないが、必要な大きさを考えた結果仕上がった小さな本は大好きだ。この『esquisse 島』が、小さい本であるほんとうの理由は知らないが、過不足なく与えられた紙面に「島」という字の物語を追った華雪さんの旅をなぞるに充分な地図が描かれているようで、何度もページをめくっている。作品を観ることと図録を読むことは別だし、そもそも『esquisse 島』は「島」展の図録ではないけれど、てのひらのうちで展の全体像をゆらりゆらりと反復するのは楽しい。
コロンブックスに行く前にその日は、熱田神宮近くの紙店「紙の温度」に寄っていた。国内のみならず世界各地の手漉き紙を9000種以上、洋紙もたくさん、紙を用いたあらゆる工芸に必要な道具や材料も揃ってトータルでおよそ20000点、各種教室や体験講座も開いているという。レジ周りは普通の文房具店の匂いも残っていて、紙を扱う専門家から子供たちまで誰がきても満足できる、とにかく「紙」にまつわるなにもかもがこれでもかこれでもかと並んでいる店であった。製本に使う接着剤やへらやワックスペーパー、修理に使う和紙や箔押しの道具ももちろんあるし、初めてみるものもたくさんあった。たとえば「クイリング」。完成品は見たことがあるが、その名前は知らなかった。材料である色とりどりの細く切った紙、そして専用の道具も、きっとなにか製本に使える。
「紙の温度」の前には、活版地金製錬所を見学していた。そこは50台のトムソン型活字鋳造機のほか、ベントンの母型父型彫刻機、ハイデルベルグの印刷機、箔押し、空押し、角丸抜きなどのための小さな機械、卓上活版印刷機、研磨機、顕微鏡、積み上げられたインゴット、たくさんのパターン、たくさんの母型、たくさんの活字......。メンテナンスの行き届いたあらゆる道具が、決して広くはない場所に、これでもかこれでもかとやはり並んでいたのだった。これほどなにもかもが一つところで見られる場所が、他にあるのだろうか。帰り際見せていただいたのはなにか金属の塊で、固まりきる前に折った断面に結晶がきらめいていた。「ほら、きれいでしょう」。鉛だと聞く。美しかった。見学の間にいただいた昼飯はお櫃入りで、ふたを開けたらこれでもかこれでもかとひつまぶしが詰まっていた。そういえばモーニングは、これでもかこれでもかとゆでたまごが積んであった。これでもかこれでもか。名古屋、満喫。
しもた屋之噺(72)
頭が煮詰まってくると、庭の落ち葉をかいて気分転換をします。一本大きな木が立っているので、そこから洋芝のじゅうたんに枯葉がはらはらこぼれてくるのは風情があるのですが、ここ数日風が強かったせいもあって二日も放っておくと無残な姿になってしまいます。慣れてきて、ものの10分ほど、無心で落ち葉をかいていると、気分も庭も落ち着くし、悪いものではありません。ティツィアーノ・テルツァーニは、インドから持って帰ってきたガラスの目玉を、トスカーナにある自宅の庭の大木につけていて、インドではこうして木にも心があることを分かりやすくしている、と説明していました。
一ヶ月ぶりに日本から帰ってきた友人からの電話を受けると、声が作曲家になっているわねと言われて、自分の声色はそうも変わるものかと家人に尋ねると、意外にも納得しているので驚きましたが、いずれにせよ、ここ暫く家にこもって仕事をする時間が長かったように思います。自分の作曲のほかにも、1月に訪日するブソッティのマドリガルを演奏者用に書き直し、気の遠くなるようなCD18枚分のジェルヴァゾーニ録音のテイクを選定をしながら、シェーンベルグとプロコフィエフのピアノ協奏曲の粗読みをしていました。できるだけ効率よく済ませたいと思っていても、例によって全然ダメです。
夜、息子と一緒に9時半すぎに布団に入り、2時、3時から7時すぎまで仕事をし、風呂で少しテルツァーニの本を読んでパンと牛乳を買いにでかけ、合わせや学校がなければ、結局いつも家にこもっていました。尤も昼間は、2歳の息子がしょちゅうチョッカイを出しに来るたび、瀬名恵子さんの「ねないこだれだ」のおばけを見せたり、「利口な女狐」とか「アルジェのイタリア女」とか、子供が好きなDVDを一緒にながめて、何かと相手をしてやらなければいけません。
今月はじめ、作曲科生に指揮の基礎をおしえるワークショップのため、マントヴァの国立音楽院にでかけたときは、この調子で夜半に自分の仕事をしてから、朝6時すぎに家をでて、夕方までぎっしり教えてから、そのままレッジョ・エミリアの劇場に直行し、ダニエレ・アッバード演出のオペラ「ミラノの奇跡」を見て、最終のミラノ行に飛乗って中央駅に着いたのが0時0分。それから2回ほど立て続けにあった、スカラ座オケのソリストたちのガラコンサートも似たようなタイム・スケジュールでしたから、さすがにメヌエルが怖くなって、ジェルヴァゾーニの編集にでかけるジュネーブは、来月に延期させてもらいました。
拙宅のあるロサルバ・カッリエーラ通り向かいの停留所から、郊外に4駅ほど、ものの3、4分ほど路面電車に乗ったところ目の前の、茶色い目新しい高層アパート最上階に住んでいるのが、1月東京にゆくシルヴァーノ・ブソッティです。メゾネットと呼べばいいのか、エレベータで最上階までゆき、そこから更に階段でもう一階上がったところにシルヴァーノの玄関があります。中に入ると、イタリアらしくとても整頓された部屋に、来客用のソファーと机でできた8畳ほどのスペースがあって、クローゼットで仕切られた向こうに、アップライトピアノと大きな仕事机のある15畳ほどの仕事部屋になっています。窓の代わりに天窓があって、この部屋が大きな屋根裏のスペースを利用したものであることがわかります。1階下に住む連合いロッコ・クヮーイアの部屋とは、玄関脇の螺旋階段でつながっています。
部屋が全体にこざっぱりした印象を与えるのは、シルヴァーノ自身がものすごく几帳面で、彼「神経質なほどの整頓癖」のため、全てきっちりとアルファベット順に整理してあるからだと思います。同じようにいつも整頓されていた薄暗いランブラーテのドナトーニの仕事部屋を思い出します。シルヴァーノの部屋の違うところは、部屋中いたるところに絵や彫刻が飾られていて、それら殆どが男性器か男性の肉体美をモティーフにしたものであることです。ドナトーニは仕事部屋向いの台所の食卓前に、3、4枚ほど、女性の臀部のステッカーをペタペタ貼っていて、これを眺めてフランコは食事を摂るのかと納得すると微笑ましかった記憶がありますが、シルヴァーノの部屋はずいぶん違って、一種耽美的ともいえますが、美術品以外はこざっぱりしているので、すこし違う気もします。
客間のスペースと仕事部屋を分けるつい立て代わりのクローゼットには、彼の楽譜やレコードなどが、それは奇麗にぎっしりと整理されているのですが、木製のクローゼットの表面全体には、無数の男性の裸体の写真の切り抜きが、ぺたぺた貼られていて、その上改めて全体を彩色してあったかもしれません。「ぼくが作ったんだよ。どうだい、ちょっとした美術品だろう」と偉くお気に入りでした。
年代ものの木製の大きな仕事机も、一面に数え切れない裸体や局部の写真がひしめきあっていて、これを見ながら作曲しているのかと思うと、彼の音楽がよくわかるような気もするし、これでよく仕事ができるものだと感心もさせられます。歩いても出かけられる程の近所で気軽に遊びにゆけそうだけれど、結局日々の忙しさにかまけて、なかなか実現できません。ただ1月に日本でやる演奏会のため、シルヴァーノの音楽や楽譜を勉強している時間はかなりあって、いつも彼の部屋が頭に浮かんできます。
ブソッティのマドリガルを東京で演奏するにあたり、歌手の皆さんが各自効率よく勉強できて、譜面を読みやすく合わせ易くするため、結局2曲ほど全部書き直すことにしました。オリジナルの楽譜は、譜表そのものがオブジェか絵のように扱われていて、たとえば「愛の曲がり角」など、まったく実用的ではないのです。自分ですべて書き直すまで、どんな曲なのか見当がつきませんでした。誰がどこを歌い次にどう繋がるのか理解出来なかったのです。正直に告白すれば、果たして楽曲として本当に魅力ある作品なのか、ただ美術品の価値のみの作品なのか、判断しかねていました。
ですから、全て書き直してゆくプロセスは、自分にとって目から鱗が落ちるような経験で、驚きと発見の連続でした。この絵にしか見えない楽譜が、どれだけ精巧に、緻密に計画され組み合わされて、丹念に書き込まれているのか、よく分かったからです。高校のころから慣れ親しんだ「ラーラ・レクイエム」など、イタリアの現代音楽に於いて将来に名を残す傑作中の傑作の一つだと思うし、彼の才能を疑ったことはなかったけれど、でもこれだけの響きのヴァラエティや音色の魅力がこの絵に詰まっているとは、想像もしませんでした。
最も基本的な音の定着は、素朴な12音に従っているようだけれど、それを膨らませるプロセスは、安易な方法論に陥らないし、とびきりのファンタジーと遊び心に満ちていて、その表面を大げさなほど飾り立てながら、元来置かれていた音の意義そのものを全く別な次元へと変容させるかのようです。それが素晴らしいと思いました。
だから、「愛の曲がり角」を例のとれば、幾ら演奏し易くても、どんなに理解し易くても、彼の書いた絵の楽譜の意義は絶対的にあって、演奏者、少なくとも指揮者は、たとえ演奏用スコアを別に作ったとしても、原曲があの美しい楽譜であることは忘れてはならないのでしょう。
これが生産的な芸術かどうか考えるのは、あまり意味があるとは思いません。単純に音楽を理解するため必要とされる煩瑣な手続きを、演奏者が実際喜ぶかどうかも別問題です。ただ、イタリアが連綿と継承してきた「マニエリスム」という言葉を思い出すとき、シルヴァーノに勝る存在はいないと合点が行くし、それだけ意味ある存在なのだと実感させられるのです。挑発的で遊び心に満ちた、でもどこか合理的な奇矯な部屋も、彼の音楽と同じだとに気がつきます。
さあもう御託はやめにして、夜が明ける前に自分の作曲に戻らなければ。すっかり寛いで長居してしまいました。こんな処でくだを巻いているのを中嶋香さんに見つかったら大変です(でもすぐに着替えて、朝から12月初めにトリノで演奏するペソンとシェーンベルグの練習に出かけないと。どうしましょう!)。ああ、ごめんなさい!
数え歌――みどりの沙漠37(翠の虱改めまして)
人食えば、
蓋も食いたい、
蜜の味。
寄っといで、
いついつまでも、
睦みあい。
なななんと!
やややっちまえ!
こここんな!
とおまり〈十余り〉一つ
(『グランツビー航海記』に日本国の北海洋上、ノチベット王国あり、青年をへびに食べさせるはなしがなかにある、と。「巴里にて刊行せられたる北京版の日本小説その他」〈宮崎市定『日出づる国と日隠るる処』1943〉)に書かれている。それは人身犠牲。旅人がイエナの森へさまよい行って、祭のあいだひとりづつ人が殺される祭場だと教えられる。平林広人『ヴァイキング』〈1958〉より。ジョージ・秋山『アシュラ』は食人場面で有害図書指定。十久尾零児『五大御伽話の謎』〈1970〉の「食人について」より。これはカニバリズム。)
くあらるんぷうる
マレーシアで会議をすることになった。
何でもイラク人が、ヨルダンの会議を嫌がったからだ。最近、難民のようにヨルダンに逃げてくるイラク人が多く、さすがに100万人もこられては困ると、入国を制限し始めた。医者であっても、しつこく尋問されて、挙句、宗派の違いなどで入国を拒否されることもある。意外と穴場は、マレーシア。イスラム国ということでビザなしでイラク人を受け入れている。というかやっぱり遠いから、わんさかと押し寄せることもないのだろう。
今回は、会議だから、会議以外は何にもしない。ホテルに缶詰。日本からは近い。直行便が飛んでいるからずいぶんと楽だった。深夜にホテルに到着すると、先についていたイブラヒム(ローカルスタッフ)とジナーン医師が散歩から帰ってきたところだ。結構アラブ料理の店もあるらしい。中国とアラブとヨーロッパの植民地が混ざり合ったような多国籍な雰囲気が漂う町だが、案外とこぎれい。でもうるさい。ホテルのバーでは、へたくそなバンドが演奏をしている。カラオケバーみたいだ。
結局、会議とその準備で、外をほっつき歩く時間はほとんどなかった。せめて、マレーシアらしいものはと考えるとやはりドリアンである。ホテルにはドリアン禁止の標示があった。イブラヒムは、「これは、爆弾か」というから、「違う! 果物の王様だ」と説明すると、「なんで王様が禁止になっているんだ」と不思議がる。「とっても臭いんだ」とは言うものの私もドリアンの臭さはどんなものか良くわからない。
屋台にいくとドリアンがぶら下がっているので、イブラヒムに、これがドリアンだとおしえてやった。「おお、これが王様!」とはしゃぐ。「ドリアン、買ってくれ」とイブラヒムがせがむが、「これは臭いんだ。どうせ、あんたは、ろくに食べないだろう」イラク人は、概して、珍しいものとかは食べたがらない。しかし、果物といえば、そんなに変なものはない。バナナやイチゴ、柿、万国共通、甘くて、素敵な香りがするもの。しかもその中の王様とくれば、食べたくなるのが筋だ。「ケチなんだろ! だからだまそうとしているのだ」とでもいいたそうだ。イブラヒムは、納得したような納得していないような顔をしていた。
ドリアンを買うのはやめて、代わりにドリアンチョコなるものを発見した。これならそんなに臭くはないだろう。イブラヒムも喜ぶに違いない。会議のお茶請けに配ろうと買っていった。まもなくバレンタインチョコレート募金が始まるのだが、イラクの子どもたちが描いてくれたチョコレートのパッケージを持ってきていたので、それにチョコを詰めて配ろうというわけだ。
しかし、プラスチックの入れ物のセロテープをはすしてふたを取った瞬間、プーンとすっぱいにおい。なんというか、エステル系のツーンとしたにおいと腐った卵が混在するような感じ?ともかく強烈だ。部屋の中ににおいが充満してしまった。
でも、食べてみないとわからないから、一粒食べてみると、これが、また、胃液のような味。おぇーとなってしまった。においがなかなか消えない。もし、ドリアンの持ち込みがばれると、どうなるんだろうと心配になり、ビニール袋を何重にも包んでしまっておいた。イブラヒムに食べさすこともすっかりと忘れてしまったのである。イラクに帰っていったイブラヒムは、未だに俺のことをケチだと思っているのかもしれない。
今回は混乱を防ぐために先行予約を受け付けています。
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エコー診断と透視
9月に帰国して、あっという間に12月がきてしまった。12月といえば、昨年の入院を思い出す。11月26日の公演が終わってから腎臓腎炎と腎臓結石でダウンして、インドネシアで入院する破目になってしまった。インドネシアには計3回、通算6年3ヶ月長期滞在したけれど、大病をしたのはこの時が初めてである。もともと体が弱い方なので、無理をしないよう用心して過ごしていたせいか、マラリアやチフスやデング熱が流行して、留学生の過半数が入院したときも、元気にしていたのだ。
結石で猛烈な痛みを感じて、排尿困難、七転八倒したのは、11月30日から12月1日にかけての深夜のことだった。その夜はビデオ撮りをしていて、0時過ぎに帰宅したところで、急に痛みが襲ってきたのだった。
けれど、日記を読み直してみると、10月20日頃から背中から腰のあたりが痛いとしきりに書いてある。そういえばそうだった。昨年は10月24、25日がイスラムの断食明けの大祭で、世間は10月21日(土)から月末まで連休になっていた。その頃はまさかそんな大層な病気だとは思わず、それでも腰が凝ってしんどいと思って、ひたすら指圧器具(留学には必ず日本から持参する中山式快癒器)でコリをほぐしていた。
ジャワでは、ときどき鍼灸治療に通っていた。先生は中国系の人である。断食明け大祭の翌日には早くも営業するというので、こうなるとは知らず以前予約を入れておいたのだが、このときに先生から、「あなたが痛いというところはちょうど腎臓のところだよ。ここは単に疲れただけでも痛くなるけど、腎臓の検査をしたほうがいいかも知れない。今度もし痛みを感じたら、すぐに病院に行きなさい。」と言われていた。
それから1ヶ月、指圧器具でそれなりに乗り切りながら、知人に検査をどこでしようかなどと聞いたりはしていても実行に移さずにいた時に、猛烈な痛みがやってきたのだった。翌朝6時半頃、すぐに最寄の女医さんの家に行く。インドネシアでは、病院勤めのお医者さんが、朝夕は自宅で開業しているのだ。診療だけなら無料で、薬が出されると薬代を払う。女医さんからは、尿検査と血液検査とエコー検査の結果を持ってきなさいということで、とりあえずの薬を処方してもらい、Budi Sehatという総合検査所のような施設に紹介状を書いてもらう。
Budi Sehatのエコー検査の結果は卵巣炎。私としては鍼灸の先生の言葉が頭にあったので、腎臓は? 腎臓は? と繰り返し聞いたのだが、異常なしという。私にはエコー写真を読み取る能力はないが、検査判定はいかにも怪しい。検査では1つ1つの臓器のエコーを撮ったのだが、判定までの論法が「○○異常なし、○○異常なし、○○異常なし、腎臓異常なし、よって卵巣炎」というもので、しかも卵巣になんらかの異状が見られるといった特記が一切ない。消去法で卵巣炎と判定したのではなかろうか...という感じである。
さらには検査料金が42万ルピア(日本円にして6000円くらい)とえらく高い。女医さんの話では高くても30万ルピアくらいということだったのに。この結果を持って女医さんのところに行くと、女医さんもその料金に驚く。たぶん検査器械が最新のものだろうということだった。
このBudi Sehatの判定にしたがって治療するのも不安だし、またせっかく海外保険にも入っているので、ジャカルタで日本人のお医者さんに診てもらったほうがいいということになって、女医さんに紹介状を書いてもらった。インドネシアでは医療に結構なお金がかかる。病院で入院するには前金が必要で、2500万ルピアくらい用意しないと駄目だと言う。(しかしあらゆる病院がそうかどうかは私もまだ知らない。)2500万ルピアというと35万円近い。一杯のミー・アヤム(ラーメン)が2500ルピアで食べられるこの国では、大した金額である。当時の私は公演の支払いが終わった直後で、しかも助成金は分割払い。ということで、インドネシアでの口座の預金残高は、とてもとても前金の額に満たなかった。治療を受けるのはお金持ちのすることなんだとしみじみ悟る。
この日本人のお医者さんがいるジャカルタの病院は、幸いにも海外保険のキャッシュレスサービスがきくところだった。そこで再検査をしてもらった結果が最初に書いた腎臓腎炎と腎臓結石なのだった。一応卵巣炎という診断だったので、念のため産婦人科の検査も受けたのだが、卵巣炎ではありえないと断言される。こういうわけで、いくら立派なエコー器機を導入していても、診断する医者のレベルが低ければ病気を見つけることはできない、とつくづく痛感する。
けっきょくジャカルタで入院し、退院した後はソロの自宅で静養していたのだが、全然良くならない。足がものすごくむくんで、足を床につけただけで、足裏の腎臓のツボが痛む。いろんな物が不足してきて、とうとう大晦日の昼頃に意を決して買い物に出たところ、スーパーで知人にばったりと出会う。その人の知り合いに、念を飛ばして「見る」ことができる人(インドネシア人)がいるという。その人に私の状態を一度見てもらってあげようと言ってくれて、携帯電話のカメラで私の写真を撮り(写真がある方がよくわかるらしい、カメラつき携帯というのはこういうときに便利!)、その人に見せて聞いてくれたところ、腎臓が少し濁っているけれど、足のマッサージをすればよくなるとのこと。私はまだ外出できないので、足のマッサージに私の家まで来てあげようと言ってくれたのだった。
そして年が明けてからRさんが足のマッサージに来てくれたのだが、初回からものすごく症状が改善した。マッサージは悲鳴を上げるくらい痛かったのに、そのあと足裏のツボがずきずきするような痛みが取れて、ともかく歩き回れるようになった。このマッサージは別に何の怪しいものでもない。足の裏や甲の特定の部位をほぐすような感じである。この人(やその「見る」ことのできる人たちの団体)はお金を受け取らない。自分たちは医者ではないからだと言っているけれど、また営利行為になってしまうと、純粋な気持ちが消えて病気が治せなくなるのだろう。その後3回ほど来てくれて、その時に食事指導も受け、日本に一時帰国(別プロジェクトがあったので)できるまでに、体力が回復した。
こんなことがあると、インドネシアの人々が民間の治療を信用する気持ちがよく分かる。医療には高額なお金がかかるくせに、医者のレベルは高いとは言いがたい。私が入院していたときも、隣のベッドのおばさんは、治療費が5000万ルピア(約70万円)に達したのにまだ直らない、もう支払えないから退院する!と言って退院した。
そんな大金が払えない庶民は、民間の治療に助けを求めるしかない。けれど、そういう治療者の中には、超音波エコーを使わずとも症状を「見る」ことができる人がいて、そういう人たちも人を治せている。こういうことができる人をインドネシアではドゥクン(呪術師、ただし否定的に使われるので自称はしない)ともいったりするけれど、Rさんは自分たちはドゥクンではなく、単に体のメタボリズムを整えているだけなのだと言う。タイトルでは透視という単語を使ったけれど、Rさんの「見る」力を透視と呼ぶのは正確ではないかも知れない。とりあえず、タイトルとして端的な表現を使っただけである。
今度インドネシアで病気になったら、もちろん病院で検査もするけれど、やはり「見る」ことのできる人に見てもらって、検査結果の裏づけを取りたいと、大真面目に思う。
とっちらかった日々
ここ数ヶ月、小沢昭一「ものがたり 芸能と社会」という本を繰り返し借りていて、読んでいるとわたしがあちこち横道にそれ、全然読み進むことができないために何度も何度も借りている。「商いと芸能」という章でのテキヤさんのくだり、薬屋さんと芸能の関係、「ヤシ」は「薬師(やくし)」がつまった、という郡司正勝説についての記述、アメリカのメディスン・ショーに似ていること、以前、アメリカのギタリストでシンガー、ライ・クーダーがインタビューでメディスン・ショーについて言及していたのを思い出し、雑誌から切り抜いていたインタビュー記事を探し出す。山口昌男の本でもメディスン・ショーの記述があって、たしか文庫本で持っていたはず、とそれも引っ張り出す。バスター・キートンがメディスン・ショー芸人夫婦のあいだに生まれた文章で、幼い頃、1910年代のジャグ・バンドやブルースを含む音楽をキートンは間近にしていたのかなあと想像しながら、とちらかっているCDから戦前のブルースものを整理しつつ、いっしょに借りていた郡司正勝の「かぶきの美学」をちょこちょこ読んでいると、三味線音楽の官能性に書かれていている箇所で、官能性なら「さわり」だろう勝手に思い込み、今度は七月に神田神保町で買った、田辺尚雄「三味線音楽史」に琉球から日本に伝来した三味線にいつ頃から「さわり」がついたか確認する。頭の中がとちらかっている。小沢昭一の本にいつ戻ることができるだろうか。ほかにも読みかけが四、五冊あるけど。
読みかけは読みかけのままほっといて、整理していたCDの中でまだパソコンに取り込んでいないのを見つける。立派なオーディオ再生装置もないので、最近はパソコンでCDも聴いている。取り込もうと、ソフトを起動させるとアップデートしますか、と聞いてくる。新しいバージョンがでたらしい。素直にアップデートする。ソフト起動せず! おい! 別のマシンも同じようにアップデートしたら問題なし。おい! おい! 英語で「ちょと見つからないファイルがあるから、もう一度インストールしてやってください。」と表示が出たので、一通りのトラブル回避策を行い削除、再インストールを行うが現象変わらず。あちこちいじること数時間格闘するが、変化見られず。パソコンさんもお疲れだろうから、ここはひとつ休んで、明日にしましょう、と翌日、ソフトのホームページで同様のトラブルがないか確認。完全削除の方法があったのでそれを見つつ、なにか削除できていないファイルがないか確認したがなし。(あたりまえだよ、こっちは関連するレジストリ全部切ったし。)気をとりなおし、今度はダウンロード、インストールではなく、最初と同じようなアップデート・ソフトからインストールする。すんなりインストール完了、すんなり起動。問題なく稼働。意味わからん。パソコンに取り込み再開。次はボックスセットのCDを整理しようと思い、1940年代のブルース、ブギなどを集めたCDを聴きながら、ピアノ、ギター、ベース、ドラムの4リズムでのセッションでギター・ソロはシングル・ノート、ノリはロックンロール。録音年を確認したら1948年。アイク・ターナーが「ロックンロールは俺たちがブギウギと呼んでいた音楽だ。」というような発言を何かで読んだ記憶があったので家にあるか探そうとおもったが深みにはまりそうなのでやめる。はやく部屋を整理してくれ、と最後通牒を受けたばかりだ。
数年間いわゆる「IT 業界」というところにいたが、年々、コンピュータが苦手というか、面倒になってきている。一つのソフトを使い倒すことができない、覚えることができない。パソコンは五台あるが実際動いているのは三台。メール用、インターネット用、音楽再生用。ハードディスクの容量が小さいのでそれぞれ分けて使っている。一台は壊れたものを貰い、他は格安で購入。OSも、マシンパワーも違う。他に一台、OSが古いものはメールのバックアップ用に月に一回くらい起動している。二十年近く前、最初に購入したマシンは埃をかぶっている。三年ぶりくらいに起動するか試した。専用の外付けハードディスクの電源を入れ、本体の電源を入れる。ケーブルが焼け焦げる臭いとともに、ハードディスクの横から煙が出てきた。
書店の棚
まず、ほんとうはまだ続いているコンサート狂いについて書こうと思っていた。
だいたい、コンサートなんてものは会社帰りに寄るのは、月に4回も行けばお腹いっぱいになるものだ。それが週に2回、3回なんて回数になるとけっこう堪えるようになる。そんな毎日の話を書くつもりだった。つい最近までそういう気でいたのだが、ある書店の棚の前で気が変わった。ということなので、今回は本好きの見た本屋の棚の話で勘弁願いたい。
私はどういうことか書店好きである。
物理的な「本」というものも好きなのだが場所として「本屋」が大好きなのだ。つい最近になって、本屋も来た人間に好かれようと思って、コーヒーを出したり(もちろん有料で)、椅子を置いたりしているようだが、そんなサービスは図書館に任せておけばいい。私はそうではないモノを得られるから本屋が好きでいる。
とは言え、最近はオンライン書店を利用することが多い。
あるコンビニで本が受け取れるサービスはあまりにも近所のコンビニの従業員の態度が悪かったので止めてしまったが、大手のオンライン書店は資料を探したり、面白そうだなと興味のある本を購入したり、ときには青空文庫の入力に使えそうな作家の本を探したりするのに重宝する。ただ、重宝するが、利便性があるが面白みはない。最近は一生懸命にひとさまの購入履歴を参照して本を薦めてきたりするが検討外れも甚だしい。大抵の場合は、すでに購入済だったり、必要ないとドロップした本ばかりである。そもそも、このシステムを作ったり、メンテナンスしたりしている担当者は実際に本など読むことはないのだろう。だから、面白みのない推薦本ばかりである。
図書館と違って本屋で面白いのは、棚がいつも動いているからだ。
図書館の棚も動く(別に可動式の書架であるという意味ではない。変化するという意味である)が、面白い書店の本棚はダイナミック且つ繊細に動いている。素人目には同じように見えるかもしれないが、本屋の棚はいつも一緒ではない。新刊書がやってきてはどこかに入り、既刊書が売れればそこに空きができる。これに書店の店員の機転が加わると、俄然面白くなる。売れていなかった本でも、推薦人がいると売れるようになったりするから面白い。その第一のファンであって欲しいのが書店の店員である。私はファンからの有形、無形の後押しのある本を一度は手に取るし、大抵の場合、購入しているような気がする。
いい本屋の棚とはこんなものだ。
まず、整然と整理されて並べられている。まあ、本屋によって並べ方には若干の違いがあるのだが、例えばある文庫が違うシリーズの文庫の間に挟まっていたり、シリーズがばらばらに配置されてたりするのは論外だ。棚は、棚の配置、棚の中の配置がしっかりと認識しやすい方が気持ちがいい。そういえば、ある書店で「北杜夫」が「は行」に並んでいるのを見たことがある。また、「丹羽文雄」が「た行」に並んでいたこともある。「星新一」ならば「さ行」である。ある意味すごいと思うし、失笑ものだが、とても店員のレベルはほめられたものではない。まあ、そういう店員もここ数年で急に増えたような気がする。
整然と並んだ上で、その棚から会話してくれるととてもうれしくなってしまう。
別に、棚がしゃべるわけではないが、例えば、売れ筋の本はヒラ積みになっているとか、シリーズものは何巻あるのかがわかるように棚に出ているとか、例えば最近の「カラマーゾフ」のように売れている本は何種類かある場合には全て揃えてあるとか、3社から別々に出ている時には揃えて並べておいてくれるとか、店員の手書きのポップで3種類の違いがまとまっているとか、もとになった記事がさりげなく掲示してあるとか、季節に応じて並ぶ本やこちらを向いている本の種類が変化するとか、テーマをかえながら書店から本を提案してくれるとか、例えば冬には落葉樹の図鑑と散歩の案内書と鳥の図鑑とバードウォッチングの指南書なんかが揃えて置かれているとうれしいわけで、そういうひとつひとつが見ている人間に話しかけてくるのだ。そうなっていると、予定外であっても「じゃ、これも買ってみようか」と手にとってしまったり、面白そうだからこのシリーズを集中的に読んでみようなどと思ったりもする。そうでない棚は幻滅だ。何を言っているのか、皆目わからない棚の書店で私は購入はおろか、本を手に取ろうという気にもならない。
最近、私をこの文章を書かせるきっかけになった書店は比較的棚も多い大規模書店だ。
1年位前に開店したのだが、それだけに面白い在庫があり、通うのを楽しみにしていた。だが、この間、久々によって驚いた。最近出版された、良く売れているだろう本のシリーズが棚にないのだ。「あれ?」と思い、そういえばとあちこちの棚も覗いてみたが、どこもかしこも全て一緒だった。棚自体は整然と並んでいるので私はこういうことではないか、と想像する。開店当初は本に詳しい店員(コンサルタントだったりするともうその書店には幻滅なのだが、ここはひとりくらいはそんな素晴らしい方がいると思おう)が書籍の仕入れや棚のレイアウトを行った。(これできれいな棚ができた)その後、詳しい店員氏は辞めたか、もとの職場(別の店舗)に戻ったか、とにかくその本屋にはいなくなった。で。後を継いだ店員はさほど本には興味がなく、書籍流通の言われるがままに棚のお守りをしているため、最初の状態から棚が育っていない、いや、退化してしまっているのだろう。とにかく、文庫が網羅されていてこそ、大きな売り場面積の書店の存在意義があるのだが新刊書すらまともに補充できていない状態に唖然とした。
本好きは棚と会話を常にしている。そして、多くを語ってくれる本棚がとても好きだ。
ついつい、薦める言葉が多い棚のある書店では多く本を買ってしまうことも多い。
全国の本屋の皆様。ぜひ、一度、本棚を介して会話を楽しみませんか?
メキシコ便り(4)
行ってきました。ホンジュラスとグアナファト。
まず、ホンジュラス。メキシコと同じラテンの国とはおもえない程、地味ーな国でした。首都テグシガルパの空港はとても小さく、搭乗口も4、5ヶ所くらいしかなかったと思います。街も小さく、高級住宅街のまわりには山肌にはりつくようにバラックの家々が頂上ちかくまで建っていました。よく停電や断水があるらしく、私の友人の家ではいたるところにきれいにデザインされたろうそくが置かれ、大きな水のタンクが常備されていました。
ここにはコパンルイナスというマヤ時代の大きな遺跡があります。もちろん世界遺産にも指定され多くの観光客が訪れる場所なのですが、バスで8、9時間かかります。さんざん迷ったあげくここはやめて飛行機で45分のカリブ海沿岸のラ・セイバという港町に行きここから、ウティラ島にいくことにしました。ラ・セイバは明るい陽光がさんさんと降り注ぐ街で黒人の比率がぐんと高くなります。街には多くの露天が並び、あふれんばかりの野菜や果物が売られていました。店のおばあちゃんと話し込んでいると、学校から返ってきた孫のカテリーナちゃんがそっと椅子をもってきてくれました。デジカメで写真を撮ってすぐに画面を見せると、私も私もと子どもたちが寄ってきます。そして画面に映った自分の姿に大喜びです。ここでは学校は昼までで終わり。そして子どもたちは昼からは働きにでます。よく働き、よく笑うかわいらしい子どもたちでした。
ウティラ島はラ・セイバから船で1時間。ダイビングのライセンスが安くとれるということで、欧米から多くの人が来ていました。海は透き通るようなエメラルドグリーンで私もさっそく泳ぎました。でも美しいといわれる浜までの足がなく港の近くの海岸だったので、ごみが多くちょっと残念でした。そしてやっぱりやられました。蚊の大群、100ヶ所くらいは刺されました。現地の人は刺さないのに、観光客の血はおいしいのでしょうか。これだけ刺されてデング熱にならなかったのはすごいことだと友人に感心されてしまいました。そう私は悪運の強い人間なのです。
ま、このように、楽しくもかゆい経験をしたホンジュラスでしたが、私がこの国にいちばん感じたことは、はがゆさでした。すばらしい観光資源があるにもかかわらず、交通手段が整っていません。コパンルイナスにも隣のグアテマラからの方が近いのでそっちに人が流れています。カリブ海のように美しい海と島があるのですから、ハリケーンで倒れた家をそのままほっとかないで、こぎれいにしたら、メキシコのカンクンとまではいかなくても、もうちょっとは観光客も呼べ、国も豊かになるのではと、まるで行政官のように頭のなかにいろいろなプランを描いてしまいました。人々は朝早くからよく働き、メキシコ人のような底抜けの陽気さはありませんでしたが、少し、はにかみながらも、とても親切にしてくれました。
ホンジュラスから帰ってすぐグアナファトの国際セルバンティーノフェスティバルに行きました。10月3日から21日まで、27カ国、約2400人の出演者で開かれたこの催しにはメキシコ国内はもとより世界各地から大勢の人が集まりました。テアトロフアレスというすばらしいメイン会場をはじめとして17ヶ所の会場でコンサート、ダンス、芝居が、また、大学や美術館、博物館で映画や写真展、絵画展、モダンアートなどさまざまな催しがあり、街の広場では一晩中若者のロックコンサートやアフリカンダンス、大道芸などが楽しめました。
このように大掛かりな、市をあげての催しですが、コンサート会場は劇場ばかりではもちろんなく、大きな広場の特設会場だったり、農場の建物の一角だったりと、いろいろ工夫がこらされていました。こんなに多くの会場を用意できるというのも、建物の中にはパティオと呼ばれる中庭があったり、街中にプラサといわれる噴水のある広場があったりと、いたるところに余裕の空間がたくさんあるからだと、狭い大阪の街を思い出しながら、うらやましくなりました。各プラサをはしごしながらアフリカンダンス、キューバの楽団、アルゼンチンタンゴ、メキシコのジャズ、コンテンポラリーダンスを見ましたがそれぞれにおもしろかったです。特にアルゼンチンタンゴは日本で聞いていたものとは全く違っていました。シンセサイザーを中心にギター、ドラム、ピアノ、チェロ、胡弓、そしてバンドネオンが即興的に音楽を作っていくというもので、最初は変わった楽器の構成だなと思っただけでしたが、聞いているうちにその音作りに引き込まれました。
グアナファトから帰った次の日からさっそく始まった学校でしたが、11月1、2日は休み。この日は死者の日といって日本のお盆のようなもので、死んだ者たちが帰ってくる日なのです。メキシコ古来の伝統行事にキリスト教の行事ハロウィーンがドッキングしたようなものです。1週間くらい前から街中にはきれいに着飾った骸骨人形が現れ、お菓子も骸骨、パンも骸骨、家々のドアやベランダには骸骨がかざられ、街の広場には骸骨のモニュメントと、街中が骸骨だらけになります。しかし、この骸骨、日本のようにおどろおどろしいものとは全く違い、とてもユーモラスで、エレガントなのです。
1日の夜は子どもの霊?が帰ってくる日、みんなお墓をきれいに掃除して、花やお菓子で飾り一晩中墓場でフィエスタをやります。こどもたちはかぼちゃや骸骨の仮装をして、手にかぼちゃをかたちどったコップのようなものを持ち、家々をまわり、街行く人々の間をちょこまかと行き来しながらお金やお菓子をその中に入れてもらいます。多くの露天が軒を連ね、オールナイトで大騒ぎです。
日本では死は恐れられ、骸骨は忌み嫌われますが、ここでは死は恐れるものでも悲しむものでもなく、死者の象徴である骸骨は友達のようなものなのです。死者の日はこどもたちにとっては楽しい楽しいお祭りで、待ち遠しくて仕方のない日なのです。このようにメキシコでは死に対する考え方、感じ方が日本とまったく違うことに驚きつつ、死を祭りや商売に変えてしまうメキシコ人のしたたかさに感心してしまいました。
「がやがやのうた」と高田和子追悼ライヴ
「あいだ」
港大尋とグループ「がやがや」のCDを作ることにした。きっかけはライヴを見に行ったことだった。こんな自由な歌をきいたことがないと思った。歌には決められた歌詞やメロディがある。普通ならうまく歌うことを心がけるかもしれない。しかし港も「がやがや」代表のきりさんも「声をそろえよう」とか「もっと感情をこめて」などとは決していわない。もちろん間違ってもそのままうたいきる。バラバラそろわない声、ふぞろいの即興的なリズム、いい間違えなどなど、それぞれの自発的な声が集まって、がやがや歌となって連なっていく。そこでは間違いは間違いではなく、失敗は失敗ではない。そういえば、かつて「水牛楽団」のCDのライナーノートにこんな風に書いた。
「常にゆれ動きながら逸脱しつづけるその音の河は、西洋音楽のようにいかに全員が歩調をあわせるかという理論ではない。進むべき確かな道もなく、音をすこしずつわけあい、寄り添うことで道を切り開いていく。/水牛楽団は歩くための理論をすてた。二歩前進のための一歩後退。足早に答えをだすことはない。何度つまずき、たおれようとも歌を通してともに歩きつづける。歩くことの実践のなか、あいまいなものをあいまいなまま正しく学ぶことで、人の歩みが交差する一本の道がみえてくる。」
港と「がやがや」にも同じことがいえる。「がやがや」は障害をもつ人とそうでない人が歌(などの表現)を通して共に活動している。身体や心に障害をもつ人は一般に「障害者」と呼ばれ、そうでない人はその名称のために「健常者」と呼ばれる。港の「名前」という歌にこんな歌詞がある。「上るは下りるがあるから上る 下りるは上るがあるから下りる 上るはありえない 下りるもありえない そのあいだあいだあいだあいだ あいだに行け」。「あいだ」とは二重拘束(ダブルバインド)された禅問答の答え(Aでもなく、Bでもない)を思い起こさせる。障害をもつかもたないかは現実的には大きなことかもしれない。しかしいろいろな背景をもつ人たちが違いを超えて集まり、「あいだ」という「あいまい」さに戯れながら楽しく歌い踊る。港と「がやがや」の歌声は、音楽のジャンルのあいだのなか、歌という目には見えない糸の「あいだ」のなかで「常にゆれ動きながら逸脱し」、どこまでも自由に羽を伸ばしていく。
ここにうたうということの根源の魅力を感じてもらえたらうれしく思う。
「高田和子追悼ライヴ」
6月20日、高田和子さんから電話をもらった。今の病状をきく。返す言葉はなかった。一週間後、学習院大学で会う約束をした。だが数日後、体調を崩し入院。そのまま帰ることはなかった。亡くなる1週間ほど前、高田さんに会った。高田さんは私に会っていない。開け放たれた病室のドアから横になっている高田さんをちらりと見た。それが私の見た最後の高田和子だった。死は覚悟していても、いつも唐突にやってくる。三絃奏者、高田和子は7月18日、脊髄腫瘍のため、亡くなった。あまりに早い死だった。
高田和子の音楽の軌跡は苦悩と共にあった。伝統のしがらみのなか、それを突き破ろうと、常にもがいていた。死の直前まで高田和子に付き添い、見つめつづけた高橋悠治は、その盟友であり同志だった。11月8日、高田和子の誕生日のその日、高橋の呼びかけで「高田和子追悼ライヴ」(渋谷の公園通りクラシックス)が開かれた(この日に合わせ、水牛レーベルから追悼盤「鳥も使いか」が発売された。
集まったのは、斉藤徹、米川敏子、志村禅保、大学敏悠、下野戸亜弓、草間路代、寺嶋陸也、高田和子が率いた「糸」のメンバー西陽子、石川高、神田佳子。みんな高田和子との大きな思い出を共有している人たち。前半、彼女のために新作や古典、即興で音楽を捧げた。後半は志村の尺八の後、高田和子のDVDが上演された。
DVDは晩年の高田和子が取り組んでいた地声と三絃の作品の映像で、ビオレッタ・パラの「ありがとういのち」と「天使のリン(編曲:高橋悠治)、林光の「新しい歌」と「花の歌」(編曲:寺嶋陸也)、さらにCDに収められている「おやすみなさい」(高橋悠治作曲)などを含めると、生と死にまつわる作品が多いことに気づく。これは偶然ではない。彼女の人生が最後にこれらの歌を引き寄せた。その深い闇に沈んでいく唄声は儚く美しい。ありがとう、高田和子さん。そして、おやすみなさい。
響の墓
11月8日 高田和子の 迎えることのなかった誕生日に向けて
友人たちにたすけられながら 追悼演奏会を組織し CDとDVDを編集した
約束していた追悼の曲を作ることはできなかった
声にならず 逝くひとにとどかなかった思いは みたされないまま
逝ったひとを忘れるための追悼の儀式ではなく
出会いの痕跡が変えた時間と空間の記憶を
響の墓に造り変えることを考えつづけ
そのあいだに いくつかのしごともした
10月には フェデリーコ・モンポウの『沈黙の音楽』を録音した
サン・フアン・デラ・クルスのことば「沈黙の音楽 孤独な響き」を
読み替えながら
11月には『子守歌』『インディアン日記』『トッカータ』
それにソナティナ6曲全部の ブゾーニのピアノ曲集の録音
『子守歌』の扉に書かれたブゾーニの詩
こどものゆりかごがゆれるとき
運命の秤がゆれている
いのちの道は消える
永遠の彼方へ
あるいは『トッカータ』にかかげられたフレスコバルディのことば
「困難なしには目標に達しない」
を読み込みながら
作曲も すこしずつすすめている
まず 中嶋香のためのピアノ曲『なびかひ』
1972年に妻を喪った青木昌彦のために書いた合唱曲『玉藻』とおなじ
柿本人麻呂代作の挽歌で 夫を喪った妻のことばを
男女を反転してたどりながら
沈黙のなかに浮かぶ音の粒子の軌跡を記す楽譜を考える
次に ロンドンに住むキク・デイのための尺八曲『偲』
ケージに似た時間枠のなかに記された指と息のうごきの明暗
連句のように長短の枠のなかで 還ることなく流れ去る響
この連句の流動は 今年の夏書いた
東アジアの箏三種とチャンゴ合奏のための
『纒繞聲』まつわる音 で試みたかたち
すこしずつ課題となった『花筺』にちかづいている
問題は楽譜を書くということ
音符として確定しながら それを演奏する人に自発性を帰すこと
この無償の秩序は どうしたら創りだせるのか
流れを流れとするために 断ち切り 静寂のなかで
響を磨き 輝かせることが どうすればできるのか
そのことを伝えるためには 何を書けばいいのか
三味線に触れてまなんだことは
ほんのわずかな指の移動がさわりによって音色を変える
その危うさだった
伝統のなかで型に押し込まれてしまった楽器の
繊細な感覚を 別の場所に移して生かすことができるだろうか
たとえばピアノという
音量と速度だけを誇りにしているような近代の楽器に
いまはそれしか手近にないから言うのだが
ピアニストの生活にはいつまでもなじめず いつも抵抗がある
残されたものがそれしかない と諦めるならば
それによって音楽を創り
そこから音楽を引き出すことはできるかもしれない
指のわずかなずれとゆれるバランスで
クラヴィコードのような微かな響を立てて
そのささやきに引き込まれてゆく
喪われた声をもとめて