2009年2月号 目次

時代は変わる?さとうまき
べリンガーの時間――翠の石室52藤井貞和
オトメンと指を差されて(7)大久保ゆう
製本、かい摘みましては(47)四釜裕子
去年の秋の手前味噌斎藤晴彦
むかしの声仲宗根浩
アジアのごはん(27)ほうろう・マイラブ 森下ヒバリ
インドネシアの芸大の入試事情冨岡三智
いろいろと大野晋
しもた屋之噺(86)杉山洋一
メキシコ便り(17)金野広美
生きるための歌~聖歌となった聖杯三橋圭介
ひそやかな歌高橋悠治

時代は変わる?

昨年、12月27日、イスラエルがガザを空爆した。3週間の攻撃で、1300人のパレスチナ人が死んでしまった。私がパレスチナに住んでいたとき、3年間の死者が3000人弱だったことを考えると、いかに今回のイスラエルの攻撃が激しいのかが想像できる。JVCのスタッフがガザ入りして写真をHPに掲載している。
http://www.ngo-jvc.net/

もやもやしながら年が明けてしまった。
1月10日、ガザ攻撃に反対する集会があるというので、出かけていった。東京タワーの近くの教会は人であふれているのに驚いた。多くの日本人も、こういった虐殺にはもう我慢できないと言った様子。直前に行われたピースウォークには1500人が参加したと言うからすごい。
ちょうど、前の日に長崎でラジオ番組の収録があって、塚田恵子の「この人、この歌、ああ人生」という番組。いきなり、一曲選んでくれといわれた。なんとなく演歌っぽい。僕は、せっかくなので、アラブの音楽を紹介したいと思ったのだが、プロデューサーが、「局にCDがない」という。最初から出演がわかっていたら用意してきたのだが。とくにお勧めは、RimaKhcheich(リーマ・カチェイチ)。ちょうど、バレンタインのチョコレートの話もすることになっていたので、マイ・ファニーバレンタインのアラビア語バージョンを紹介したかったのだ。リーマはレバノン人。HPで視聴が出来る。
http://www.rimakhcheich.com/

しばらく、時間をもらって、考えていたのだが、これと言う曲が出てこず、
「やっぱり、月並みだけど、ジョンレノンのイマジンですかね」
ガザの騒動があって、今まで封印していた私の中の「パレスチナ」がよみがえってきた。というのも、2002年に僕は、イスラエルから入国拒否をされてからというもの、パレスチナのことを思うのはやめていたのだ。「パレスチナ人の人道支援を行う」=「テロリストを助けようとするあなたはつまりテロリストです」というわけだ。

  想像してみよう、国なんてないと 
  そんな難しいことじゃない
  殺すことも誰かに殺されることもない
  宗教もない世界のことを
  想像してみよう、僕らみんなが
  平和な人生を送っている姿を

イスラエルとパレスチナは国を巡り、殺し合い、大義のために死んでいく。当時、僕はパレスチナの子どもたちと一緒に、皮肉に満ちてこの歌を歌った。大人たちは、「ハマスにしれたら」と心配していたが、曲を聴かせると、パレスチナの大人たちもコンサートをやろうと盛り上がった。まだ、紛争が激しくなる前の2000年の夏のことだった。その後は、子どもたちが描いていた理想の平和は、むなしくも爆弾で壊されて言った。

子どもたちもそうなのだが、私自身が、どこかで夢や希望に蓋をしてしまっていた。ラジオのインタビューを受けながら、この歌を聞いて、希望の光が見えてくる。夢を失ったら、もっとひどいことが起こる。そう思うと、なんだか、元気になってきた。

さて、毎年、好評の限りなき義理の愛大作戦のほうはと言うと、募金してくださった方に差し上げるために作った70000個のチョコレートがほぼ品切れになりそうな勢い。こんな不景気にも、イラクの子どものために募金してくだる方がたくさんいる。オバマじゃないけど、YesWecan!

東京の日比谷で、2月13日から18日まで、イラクの子どもたちの絵画展を行います。会場にはチョコレートを500個用意しました。ぜひ、絵を見に来てください。
詳細はこちら http://kuroyon.exblog.jp/


べリンガーの時間――翠の石室52

東洋図書の学習図鑑シリーズを、
読み耽った人は多かったろう。
八木健三さんの『地学学習図鑑』には、
べリンガーの人工化石のことが出てくる。

ベリンガーは若者たちが泥岩で造って、
山に撒いておいた「化石」を採集して、
本に著した。 『化石図譜』だ。
最後に自分の名前が古代文字で書かれた石をみつけて、
いたずらであることに気づき、
今までの自説をすっかり変えなければならなかったが、
時すでに遅かったという。

八木さんの本には、
──「時はすでに遅かったのである」とだけある。
時がすでに遅いとどうなるの?
少年時からの私の疑問だ。

最近見つけた、昭和十八年に台湾で出版された、
早坂一郎さんの『随筆地質学』には、
ベリンガーのその化石図譜から、
見返しや「化石」が載せられていて、
〈時すでに遅く〉のあとのことも書いてある。
──「時既に遅く、
彼の図譜はあまねく学界に流布した後であった」と。

このたび矢島道子著『化石の記憶』が出て、
ベリンガーの「嘘石」、人工化石事件の真相が詳しく書かれている。

......

──『鉱物学習図鑑』、
──『両棲爬虫学習図鑑』、
──『動物学習図鑑(獣類篇)』、
──『進化学習図鑑』は、同シリーズの神戸(かんべ)伊三郎著。
神戸さんは生涯に七十冊出した、文字通り博物学の見本みたいな人。
少年時、奈良市内にいた私は、神戸さんの家を訪れて、
採集した石を見せた。 神戸さんは病床で仰向いて寝ており、
手だけが動くのである。 かれの掌に私は石を乗せる。
のろのろと手が動いて、顔のうえに持ってゆき、
じっと見てから、「黄鉄鉱!」。
また掌に石を乗せると、のろのろ手が動き、じっと見て、「蛍石!」。

(『図書』1月号に「嘘石・博物学」として出したのを、やはり詩集版みたいに改稿しておきたい。)


オトメンと指を差されて(7)

あんまりお金はないのです。

大学院修士課程に在籍していた頃の収入は奨学金という名の借金が月8万、風呂トイレ空調なしで賃料月2万の一間に住み、残りで学費やら生活費やらを何とかしていたのです。博士課程に進んでからは収入が翻訳業の月10万となり、増加分で風呂トイレ空調のついた部屋へと移り、1年休学することにしてただいま学費と研究費を貯めている最中です。

そんなわけなので日々節約であり、もちろん毎日まめまめしく自炊をしているのです。お米をとぎ野菜を切って、安く上げるために自動的にベジタリアンな生活です。買い物にも細心の注意を払うのです。新聞を購読するだけの余裕がないので折り込み広告は手に入りません。しかし近所にある3軒のスーパーには、それぞれ品揃えに特色があり、ものの安くなる曜日やタイミングに法則性があるのです。それを頭にたたき込んだ上で、人から譲り受けた自転車に乗りつつ効率の高い買い物をするのです。忘れずにポイントカードも貯めます。1日の食費は朝昼夜合わせて500円までです。お菓子は1日50円までです。お酒は1週間で300円までです。(けれどもなかなか月10000円の壁を崩せずに苦心しています。)

お弁当も作るのです。今流行の弁当男子です。もともと朝起きてから頭がしゃきっとするまで時間がかかる方なので、朝早く起きてお弁当を作っているとだんだんと目が冴えてくるのです。中身は昨晩の夕食の残り物に、半額セールのときに買った冷凍食品を一品付けたり、サラダを添えたりするだけです。楽ちんです(1食200円超えません)。作る料理は季節によってかなりの偏りがあります。なぜなら野菜は安くなる旬のものしか買わない(買えない)からです。野菜高騰良くないです。旬なのに安くならないと悲しくなります。

自転車に限らず部屋のなかはもらいものだらけです。冷蔵庫に電子レンジといった電化製品に始まり、仕事机1台と棚が10個、少し前には食器棚までいただきました。そのほかの必要なものもまずは安く買い集めるところから始まるのです。翻訳家的なもので行くと辞書などがそうです。古本屋さんや古本市で目を皿のようにして探します。するとだいたいの辞書は500円以内で購入できるのです。何語の辞書でもそうです。「オックスフォードカラー英和大辞典」8巻セットでも頑張れば500円で手に入るのです。「ランダムハウス英和大辞典」でも200円です。

本は図書館を利用します。図書館がなければ生きていけなかったと思います。それでも年間通して借りる冊数は250冊程度です。常時借りている図書館では10冊で3週間。行って返しては借り、行って返しては借りを繰り返すのです。プラスたまに使う図書館があって、そのもろもろと計算するとだいたいその数になります。青空文庫は合計に数えていません。映画も実家でNHKBSとWOWOWを延々と録画してもらいます。そのビデオを下宿に持ち帰って、ノートパソコンにつながったビデオデッキから視聴するのです。

服も高いものはなかなか買えません。なので安く買った(あるいはバーゲンに参加した)上でどうすればいい感じになるかを工夫して考えるのです。組み合わせの闘いです。基本的にはワンポイント良いものをつけると、全体が良いように見えます。男の子の場合、意外と靴とか大事です。あとはドレスコードを微妙にずらすことも大切です。それから最終的にはオーラです。気合いで頑張るのです。ファッションにおいて思いこみがいちばんの核なのかもしれません。

節約は研究においても同じです。国内のことを研究するときは図書館で何とかなりますが、いかんせん分野がマイナーなため、国外のことをやるとなるとさすがに洋書を購入することとなるのです。しかし専門書なのでペーパーバックでも1冊4000円くらいします。今は円高とはいえ、いつも円高であるわけではないのです。そこで独自編み出したのが中国ルートでの購入なのです。実は私の専攻の「翻訳研究」は中国でかなり盛んで、そのため洋書のリプリントがかの国で出回っているのです。そのリプリントを輸入業者経由で注文すると、紙や製本の質は落ちるものの1冊500〜1000円ほどで手に入ります。注文に正確な書誌データが要りますがインターネットの時代なので問題ありません。

パソコンも中古なのです。持ち運び用のB5ノートパソコンは2万円です。机の上に据え置かれているA4のノートパソコンはDVDドライヴつきのものを4万円で3年ほど前に購入しました。ソフトもフリーソフトだらけです。さすがにATOK(&一太郎)とウイルス対策ソフトは買いましたが、それ以外のものはフリーソフトです。映画の字幕をつけるときも動画を編集するときも、PDFを作るときも自分のサイトを更新するときも、みんなそうです。翻訳の原稿を書くときもB5モバイルで作業するときはフリーソフトのお世話になります。この原稿もフリーソフトで書かれています。

で。

節約してばっかでは気が詰まるので、たまに出かけるのです! 行き先は北山のマールブランシュ(ケーキ)だったり一乗寺の中谷(和スイーツ)だったり四条河原町にあるゴディバのカフェ(チョコ)だったり! 2日分の食費に相当する甘いものをここぞとばかりにいただくのです!

はむりはむはむ(食べる音)。
ふわああええあえあうううう(至福)。
涙が出るほど美味しい(感動)。

(注:すべて心のなかの声です。)

そして今日も私は甘いものの奴隷。その日のために日々節約にいそしむのです。......って、こんなゆるゆるだけがオトメンじゃありませんよ! 誤解してはいけません、むしろオトメンの心は常に燃え上がっているのです。というわけで次回はそんな話題です

(追伸:最後に「それでも私は質の高い翻訳と研究を目指すのです!」とか言えば格好良かったのにね、私。でもそれはお金があろうとなかろうと当たり前のことだと思うので省略。)


製本、かい摘みましては(47)

雨が続きます。1月30日18時ころの東京の気圧は1016.8hPa、気温は11.5℃、湿度が62%で、この日いちにちの日照時間は0、降水量は26.0mmでした。日中は「あっそうだ!」とかなんとかひとりごち、乾ききった室内から用もないのに小雨降る中に飛び出してさぼるによい気候、しかし夏は寒くて冬は暑いってどういうことか――古いビルの空調には困ったものですが、文句言ったり息抜きするのもまんざらではないのです。以前、水なし印刷工場を見学したら、工場内はすべて温度湿度が管理され、匂いも音も埃もなく明るくきれいで驚きました。有害な廃液が出ないので環境にいい印刷方法だとことさらにフューチャーされていたころで、職場環境にも配慮したクリーンな会社ですと誇り高く説明を受けいいなあと思いましたが、あまりの快適さに息苦しさも覚えました。

九鬼周造さんの「製本屋」という詩(『文藝論』1941 岩波書店)には、パリの製本屋が描かれています。曇りの日は糊の乾きが悪いので、親方が弟子に注意をうながす場面ではじまります。

 「頁を調べたか、表紙をうまく貼れ
  糊の乾きが悪いな、今日は曇天」
  小僧を振り向く親仁の着た半纏
  ダルトア街、製本屋の主人は彼れ

  背革の金字がぼんやり浮く黄昏
  出来上つたのはモリエール、ラフォンテン
  コントの政治体系、リトレの辞典
  終日はたらいて外へ出るのも稀れ

  百貨店へ通つてる十九の娘
 「お父さん」と呼ぶと仕事の手を休め
  につこり笑ひながら食卓に坐る

  気さくなおかみを亡くしたのはこの夏
  永久に帰る筈のないものを待つ
  巴里の夜、聖心寺の鐘が鳴る

一行を十八音節で揃えて脚韻をふんだこの一篇を、鈴木漠さんは九鬼自身による押韻詩の作例として「ほほえましいソネット」とどこかで紹介していましたが、abba、abba、ccd、eedを眺むるよりまず、紙や革、金箔、糊、刷毛などの製本道具に囲まれた作業場や大切に用意された食卓や寝室のようすが、グレーのなかから金、赤、白などの色といっしょに一日のそしてもっともっと長い時間をまとって浮かび上がってきます。豊かでも華やかでもないけれど、人が丁寧に暮らすことの好ましさを深く感じるのです。

製本屋とは、どんな道具で作業をしているのでしょう。スペインの製本家、ジュゼップ・カンブラスさんが2003年にまとめた『西洋製本図鑑』の日本語版(雄松堂出版 2008.12 6,600円)で、それをかいま見ることができます。スペイン、フランス、英、ドイツ、イタリア語版がすでに出ており、製本や本の修復にも詳しい市川恵里さんが翻訳、製本家・書籍修復家の岡本幸治さんが監修しています。大判(305×235mm 160ページ)でオールカラー、西洋の製本の歴史と道具や材料、作業工程などが多くの写真と的確な解説・吟味された翻訳で紹介されています。ビジュアルで見せるかノウハウの説明かに偏らず、また、過去のものとしてあるいは芸術作品にも偏らず。写真にうつる使い古された道具とジュゼップさんの序文を読んで、それで九鬼周造の「製本屋」を思い出したことでした。

......製本とは、手書きもしくは印刷された文書を綴じて、日々の使用に耐えるように表紙をつけて保護することである。......
......製本を教えて20年、プロの製本家として35年間活動する中で、愛書家や生徒たちからよせられた数々の意見や質問、悩みから本書は生まれた。......(「序文」抜粋)


去年の秋の手前味噌

「ウーマン・イン・ブラック―黒衣の女」は、ロンドンはウェストエンドの一角にあるフォーチュンシアターで20年余り上演されつづけて現在に至っております。で、不肖私はこの作品の日本語ヴァージョン(川本曄子・訳)に15年前から出演しております。無論15年ぶっつづけで上演しているわけではありませんが、再演、再々演を繰り返し、私としてはずいぶんのステージ数になっていると思います。2008年も、7、8月に大阪のドラマシティーから始まり、福岡、広島、仙台、札幌、名古屋、新潟、渋谷のパルコ劇場でやりました。そして最後に思いがけず本家のフォーチュンシアターで5ステージではありますが上演が実現したのであります。驚きました。そして実に楽しかったと言うのが本音です。共演者の上川隆也さんが素晴らしい演技をしたこともあって、自画自賛ですが、実にやって良かったです。そこで、賞味期限もとっくに過ぎてしまい、味もにおいもなくなってしまった去年の秋のロンドンで味わった手前味噌のお話を恥ずかしながらいたしたいと思います。
9月4日(木)16時35分、ヒースロー空港着。機内眠れず。宿舎のウォルドーフ・ヒルトンへ。少し休んで近くにあるフォーチュンシアターへ。現在上演中の「ウーマン・イン・ブラック」を観る。こちらではこの作品、かなりの数の俳優たちが演じてきている。終って、ホテルのレストランで上川さんと食事。

9月5日(金)、案の定眠れず。時差ボケ開始。天気も曇り時々小雨時々薄陽。肌寒い。14時から一幕の稽古。演出のロビン・ハーフォード氏と再会。舞台はパルコ劇場よりも小さく、客席は三階席まであり、舞台に向けて急角度で迫っている。舞台上の小道具等は日本での時とほぼ同じ状態に設定され、スタッフも当然同じメンバー。舞台はかなりの斜角状態。多少の修正をしただけで一幕の稽古終了。対訳の文字の明るさも気にならず。終って、上川さんと彼のマネージャーの松岡さんと近くのシーフードレストランへ。生牡蠣旨し。

9月6日(土)時差ボケ最高潮。二幕の稽古、10時から12時半まで。上演中の「ウーマン・イン・ブラック」がマチネーのため。こんな体調不良の時って不思議と芝居はうまくいくもの。終って、演出助手の三砂氏と「Brief Encounter」という芝居を観に行く。映画で有名な「逢い引き」である。劇場は映画館。スクリーンの映像と舞台の芝居を巧みに融合させ、出演者が生演奏と唄で悲恋物語を盛り上げる。ラフマニノフのピアノ協奏曲が強烈な印象を残した名品であった。夜食は「ウーマン」の関係者たち多勢でレバノン料理。これ、ちょっと苦手。

9月7日(日)今日は休みの日。天気相変わらずすっきりせず。ホテルのレストランで朝食。フルーツ多い。コーヒー旨し。フライド・エッグとハム旨し。コヴェントガーデン界隈を歩く。広場で胡弓聞こえる。中国人と思われる男、プッチーニのアリアを弾いている。妙な感じ。

9月8日(月)14時から舞台稽古。順調。はじめて楽屋に入る。小さな個室だけど、なんか雰囲気がある。なにしろこの劇場は19世紀のはじめに出来た劇場。なんかワクワクしてくる空間だ。舞台稽古が終って、件のシーフード店で演出のロビン氏、上川さんと食事。ロビン氏は常に上機嫌。その笑顔が救いだ。

9月9日(火)初日。16時から一幕一場、二場などの抜き稽古をやり、たっぷり休息をして、20時の開演の時が来る。大いに楽しもうと思っていた気持ちがどこかに消えてしまい、ただならぬ緊張感に攻めたてられてしまっている。観客の明るい笑い声、話し声が舞台袖にガンガン聞こえてくる。時々日本語も。そして、始まっちゃった。三階席が急角度で舞台に迫ってくる客席はかなり息苦しい。そして、スリリング。それと目のやり場にとまどう。三階席の前っ面あたりを見るのが一番安定感がある。兎に角、汗びっしょりで終る。あたたかい拍手が救いだった。終って、関係者、観客の方々と客席でパーティー。「ウーマン」の初演の時に私の役、オールド・キップスを演じた俳優に会う。むかしの芝居仲間の伊川東吾氏に会う。彼はロンドンで俳優を生業にしている。二次会は、日本人経営の店に行く。パルコのプロデューサーの祖父江さんも時差ボケとたたかいながらずっと一緒。午前3時頃まで騒ぐ。

9月10日(水)昼頃まで横たわっていた。昨夜の酒盛りで時差ボケ徐々になくなりつつある。その代り二日酔。ホテルのレストランでフレンチオニオンスープ、ラムのミディアム焼。パン少々、アップルタルト、アイスクリーム。二日酔ふっ飛ぶ。コヴェントガーデンの先の方のスーパーでサンドウィッチとフルーツ盛り合わせを買う。上演前に食べるのだ。「イヴニング・スタンダード」という新聞に昨夜の劇評が出た。三つ星の評価。初日の劇評が次の日に出るなんて、なんか、我々はかっこいい所で芝居をやってるんだなあ、なんて思うと嬉しくなってきてしまった。おかげで今夜の芝居は時々科白をトチる。日本語だから多分わからなかっただろう。終って、ロビン氏がこっちでの「ウーマン」の出演者たちを我々に紹介するパーティーをやってくれた。彼らは日本人の俳優が自分たちと同じ芝居をやっていることに興味津々であった。いろいろ話が出来たけど、通訳なしで話が出来たらと思うと、ホント、日本語だけしか喋れないことの自己嫌悪が湧いてきてしまった。今夜は友人の椎名たか子さんが日本からわざわざ観に来てくれてびっくり。本当は知り合いのアーノルド・ウェスカー夫妻に会うのが主目的だったのだけれど、でも嬉しかった。

9月11日(木)朝のうち降っていた雨も午後にはあがっている。でも相変わらず雲いっぱいの空。寒くなってきている。ホテルのロビーで端整な身なりの老人がピアノを弾いている。スタンダード・ジャズ。うまくない。気が付くと、ピアノの脇の小さなテーブルにティーポットが置かれていて、曲の合間にゆっくりと紅茶を飲んでいる。この時のピアノ弾きの老人は、まるで映画のワンカットだ。ホテル近くを散歩。今夜もいい観客。対訳があるからかも知れないが、観客の反応が実にきめ細かい。この芝居をすでに観ている観客が多いのかも知れない。今夜は上川さんのファンが大勢日本から観に来ていて、終ってから記念写真。私は関係がないのに一緒に写真におさまる。今夜は伊川氏、椎名さんも一緒に関係者たちと、現在、ウェストエンドでやっている芝居の出演者やスタッフたちが集うサロンへ行く。「センチュリー」という名の所で、ゆったりした部屋の中では人々が飲んだりお喋りしたりしている。我々も5回だけの舞台だけどちゃんと登録されていたのだ。パルコのプロデューサーの大竹氏も一緒。こういうのは日本ではちょっとない。

9月12日(金)20年前に「レ・ミゼラブル」で子役のコゼットをやった黒田はるかさんが観に来る。彼女はロンドンの演劇学校で学び女優をやっているとのこと。記憶にない。その時の舞台写真を見せてもらったけど、私の20年前の顔は記憶にあるけど彼女の20年前となると無理。楽屋で不思議な思い出話をして別れる。今夜はロンドンの稲門会、それに大竹氏の母校の立教会の方々30人程が観に来てくれて飲み会。音楽の音量凄まじくあまり話出来ず。

9月13日(土)千穐楽。三階まで満席。昨日までは三階には空席があったけど、今夜は違った雰囲気が劇場に充満している。かなりスリリングな観客と舞台になった。カーテンコールは毎晩素晴らしかったけど、今夜は観客が立ち上がって拍手してくれた。月並だけど、やれてよかったと本心思った。上川さんと舞台で握手した。彼も、やったねって顔をしていた。ま、たまには自画自賛もいいか。袖にひっこんで関係者たちと喜び合った。殊に感動したのはフォーチュンシアターの劇場付のスタッフの方々が喜んでいる顔を見た時だ。やる前は、日本人の「ウーマン」はどんな代物か興味津々だったと思う。でも、結局は、芝居が好きな者どうしだということに帰結するのだ。また多くの友達が出来た。楽屋口の責任者の若者に「来年も来い」と言われた時、うまいお世辞を言う若者だと感じ入ったね。彼は楽屋口の小さな部屋にいて、関係者が来る度にドアを開閉する係なのだ。彼には楽屋入りの時と出るときしか会わない。ま、こんな経験はもうないと思うし、良かった良かった、だ。打ち上げは大勢で大騒ぎ。大酒盛りとなった。この打ち上げだけは日本だろうとこの倫敦だろうとまったく同じだ。


むかしの声

子供がお年玉で買ったニンテンドーのDSi。インターネット接続ができるという。うちには無線LANの環境はないが、窓際だとワイファイ経由でネットにつながる。子供は無償のソフトをダウンロードする。近所のどなたかの無防備な環境からネット接続できる。甘いセキュリティ。これだからワイヤレスはいやだ。ワイヤード派のわたしは15メートルのケーブルを引きずりながら家のどこからでもネット接続をしている。

アレサ・フランクリンが出る、というのでアメリカ大統領就任式を見る。ああ、声出てない、年齢か、それとも寒さか。昨年、勝利宣言のときサム・クックの歌詞の引用のようなその筋のファンの話題になるものはなかった。それを期待するほうもへんだけど。その後のクラシック演奏、楽器編成がメシアンの「夜の終わりのための四重奏曲」と同じだった。テレビではゲバラの映画のCMが頻繁に流れる。報道番組だったか忘れたがゲバラの特集でビートルズの「レボリューション」が流れた。イントロのギターリフはエルモア・ジェイムスの三連符。エルモア・ジェイムス伝記本もまだ読み終わっていないうちに、ハウリン・ウルフの伝記本が届く。ネットでイギリスのギタリスト、デイヴィー・グレアムが昨年、亡くなったのを知る。10年前、次々とCD化される過去のアルバム。3枚購入したところでやめた。ジョン・レンボーン、バート・ヤンシュ、ジミー・ペイジ、ポール・サイモンから彼を知った。

久しぶりに図書館へ行くと去年、地元の新聞でも話題になっていた「沖縄映画論」という本があったので借りる。子供の頃、すぐ近所に映画の撮影が来たので見学に行ったことがある。車の中で寝ている俳優を見た。巻末にある映像作品リストを見るとその俳優が出演している映画は1976年の東映作品「沖縄やくざ戦争」。撮影が前年だったしてもその頃は沖縄にいない。記憶違いか。以前、従兄から1966年の「網走番外地 南国対決」については懐かしい沖縄の風景が見られる、と教えられていた。本の内容はお決まりの意味不明な言説が並んだ文章ばかりで、「読み解く」という知的なことに一切の興味がないことがわかった。

沖縄の古典芸能を鑑賞しようと思い、あれこれさがす。沖縄には今年で五周年になる国立劇場があるが、新聞で県立芸術大学音楽学部琉球芸能専攻学内演奏会、というのを見つける。入場無料で会場は学内の奏楽堂。400ちかく入る立派なホールだった。十数年ぶりに所作台が置かれた舞台を見た。間近で見ると踊りに使われる小道具、曲によって変わる地謡の編成など初めて見るものばかりだった。会が終わり外に出ると、暗い中、朱色の首里城が浮かんでいた。

ここ数日、旧正月前に亡くなったブラジルのおばさんの三十数年前に送られたきた、肉声が録音されたカセットテープ、約400分をコンピュータに取り込み、ヒスノイズを取り除いたり、音量を持ち上げたりする作業をずっとやっている。残された音源はすべて方言で、今では使われなくなった言葉が声として残っている。


アジアのごはん(27)ほうろう・マイラブ

どういうわけか、ほうろうが好きである。旅の放浪も好きだが、ここでは鋳鉄にガラスの釉薬をかけた鍋やうつわのホウロウ、琺瑯の話である。先日も近所の北野天満宮で25日の天神さんの縁日をやっており、友達に誘われておだんごでも食べに行こうと出かけたところ、なぜか帰りには大きな古いほうろうの鍋をふたつも抱えて歩いていた。北野の天神さんは骨董市で有名である。ココア色をした大きい鍋は新品のまま忘れられていたデッドストックらしく、OSAKA JAPAN ENAMELという古いラベルがついていた。輸出用だったのだろうか。さびも出ているし、何に使うのかといわれても困るのだが、あまりの色と形の愛らしさについ手に入れてしまった。薄っぺらいが、まあ、染物にでも使えるかも。 

日本でも昔はほうろう製品をよく使っていたようだが、戦後はすっかり廃れていたようである。子供の頃の記憶にもあまりほうろう製品はない。小学校のトイレの汚物入れの白い三角箱、保健室の消毒用たらい・・。あまりほうろうが愛しくなるような記憶ではないなあ。実家の台所にあったのは赤いふちの白いボウル。これは好きだった。

しかし、アジアに旅するようになると、そこらじゅうでほうろうに出会うことになった。市場でおいしそうな惣菜を盛ってある花柄の洗面器タイプの大きなボウル、お盆。屋台のお皿は白いほうろう、屋台で調理スペースにいくつも置いてある調味料入れの青いほうろうの壷、ふるい中国式旅社の部屋においてある華麗な花柄のタン壷に洗面器。水差し、カップ。そういえば、アジアのほうろう製品は赤い花柄が多い。詩人金子光晴の「洗面器」に出てくるマレーシアの遊女がおしっこをする洗面器も、必ずやこの赤い花柄のほうろうの洗面器であったはずである。

この花柄ほうろうを作っているのは、中国とタイ、ベトナムである。ほうろうはアジアの旅でおいしい食のイメージと繋がっている。そして、何に使ってもいいという自由さとも。

アジアのほうろうは、あまり頑丈でもなくぺらぺらで、鍋にもあまり使わない。うつわとしての存在が大きい。一方で西洋のほうろうは鋳鉄にしっかりと釉薬をかけた頑丈なものが多い。その代表がフランスのル・クルーゼという鍋だろう。ル・クルーゼは、数年前に一つ買って使っていたのだが、最近さらにもうひとつ買ってしまったほど気に入っている。ル・クルーゼは、はっきりって、重い。ものすごく、重い。いろいろな料理がおいしくできるという話はたくさん聞いていた。ほしくてたまらなかったのだが、実物を持ってみて、力持ちとはいいかねるわたしの腕には無理、と一度はあきらめた。しかし、近所の店で売っているのを見て、鍋を両手で持ち上げてみた。

「・・あと10年ぐらいなら持てるかな。いや、あと5年でもいいやん」今、ここで買わなければ一生この鍋を使うことはないだろう。いくら重いといってもヨーロッパではふつうに使われているのだし、気をつけて持ち運びすればなんとかなる。なによりその姿、佇まいにもうメロメロである。これをうちのコンロの上に置いて、眺めたい、料理したい! ル・クルーゼがほうろうでなかったら我が家にやってくることはなかったに違いない。

こうして、七割ぐらいは見た目で選ばれたル・クルーゼちゃんはわたしの台所にやってきた。彼女は大変重いので、棚に仕舞うよりもコンロの上に置かれっぱなしになり、そのまま使われることが多くなり、それまで台所で女王の座にいた圧力鍋をあっというまに棚の奥に追いやってしまった。

初めてその鍋で作ったのは、オリーブオイルをたっぷり入れてじゃがいもと鶏肉を蒸し焼きにする料理。にんにくは皮付きのまま粒で何個も入れる。庭のローズマリーを一枝。塩を振る。弱火で20分。あまりのおいしさに、ル・クルーゼが重いことなど、まったく気にならなくなった。
しかしオリーブオイルをたっぷり使う料理はおいしいのだが、やっぱり食べ続けていれば太ってくる。これはまずい。西洋料理ばかりでなく、和食はどうかな? その前にカレーを作ってみた。え、うまいじゃないの。野菜のうまみがとてもよく出ている。じゃあ、根菜の煮物はどうよ? うわ、おいしい〜。鶏肉もごぼうもにんじんも蓮根もサトイモも、野菜自身の持つうまみがダシと一体になり、何日も煮込まれたような味になっている。ル・クルーゼはフランス生まれだが、日本の料理も大得意だったのである。

最初の鍋は水色でふつうの円筒形だが、新しいル・クルーゼさんはクリーム色で鍋の側面がボウルのように曲線になっている。口が広いので鍋料理にも使える。鳥の手羽元があったのでさっそく炊いてみた。これが、もう絶品。少しだけ大根を入れて炊いたが、手羽元よりもとろとろの大根のほうがもっとおいしい。次からは主役は大根で、手羽元は脇役に転落。しかも、翌日ちょっと残ったダシがあんまりおいしそうだったので、これにネギとあげを加えて卵でとじ、(親はダシだけの)親子どんぶりにしてみたところ、もう言葉に出来ないほどのおいしさ。それ以来、我が家では大根と手羽元の煮込みの翌日は必ず親子どんぶりという不文律が出来た。
インドの北東部の紅茶の町ダージリンで食べた、チベットのスープ麺トゥクパを思い出して、麺は抜きの野菜スープをこの鍋で作ってみた。ダージリンにはチベット人がたくさん住んでいて、中国のチベット侵攻ののちに難民として逃げてきた人も多い。町にはチベット食堂がたくさん並んでいた。

ヒンドゥー、イスラム社会のカレー三昧に疲れ果てていたわたしは市場の近くの小さな店で極上のトゥクパとモモに出会った。仏教徒のベジタリアン料理しかないその店のメニューはチベット餃子のモモと、米麺か小麦粉麺のスープ麺、小麦粉麺の炒めた物の三つ。とにかくカレー味でないものが食べたかった。野菜を山盛り食べたかった。

出てきたのは、野菜のうまみたっぷりのベジ・モモと、カリフラワー・玉ねぎ・大根・ニンジンがたっぷりと、とろけるように煮込まれたスープに米麺が入ったトゥクパ。塩味もほんのりとしかついていない。自分で塩味をつけ、トウガラシ味噌を加える。やさしいやさしい、でも思わずため息が出るような野菜のスープ。ああ、こういう料理が食べたかったんだ、と思わず泣きそうになった。

カリフラワーは小さめに刻む。大根もにんじんもたまねぎも1〜1.5センチ角ぐらいに刻む。水と塩を少しを加えてたっぷりの野菜をル・クルーゼでゆっくり煮る。じゃがいもやかぼちゃをいれてもいい。ル・クルーゼならチキンスープの素は入れなくてもおいしい。塩と荒挽き黒コショウ、隠し味にナムプラー少々、レモンなどのかんきつを絞ってもいい。好みで月桂樹の葉、イタリアンパセリ、パクチーなどを入れても。カリフラワーと大根とたまねぎは必ず入れてください。スープというより野菜のおじやに近い。

やさしく淡い味の向こうに、朝日に染まるヒマラヤ、カンチェンジェンガが見える・・、かもしれないダージリンスープ、いかがですか。


インドネシアの芸大の入試事情

頃は2月、日本では受験のシーズンというわけで、今月は私が留学していたインドネシアの国立芸大スラカルタ(通称ソロ)校の入試事情について書いてみたい。ここでいう入試はもちろん、外国人ではなく現地の人たちが受験する入試のことである。実は、私は2度の留学を終えた半年後(2003年)に舞踊教育の比較調査に関わって、インドネシアの部を担当させてもらったのだった。それまで友達や先生にどんな入試なのか聞いていたけれど、実際に試験前の会議や試験当日の様子を目にしてみると、いろいろと考えさせられることが多かった。詳しいことは報告書に書いて提出したのだが、パソコンが壊れたドサクサにまぎれて消えてしまったので、ここでは記憶に頼りながら書いてみよう。

インドネシアでは8〜9月初め頃に大学が始まるので(断食月のズレに合わせて毎年入学日が変わっていた)、入試は毎年8月早々にやっていたと思う。確か午前中は筆記試験、午後から身体検査、体力測定、実技試験があった。試験前の会議で確認していた学生の採用方針は、定員なし、ともかく何らかの見どころがあれば皆入学させるというものだ。このことは留学時代から先生に聞いて知ってはいたが、実技試験を見て、ほんとうにどんな「見どころ」でも良いのだなあと驚く。

入試要項には、自分が踊りたい曲のカセット、サンプール(ジャワ舞踊で必ず腰に巻く布)、舞踊小物などを持参するようにとある。実技試験は1人ずつで、中に入るとまずは面接である。それまでの舞踊歴やら、志望動機やら、家庭環境やらを聞かれる。その後、では何かやってみてくださいと言われて何かをする。これは別にジャワ舞踊である必要はない。町の舞踊教室ではいろんな地域の舞踊を教えているから、西ジャワのジャイポンガンなどを踊る子もいる。

東ジャワから来た受験生で、東ジャワの伝統的な民間芸能レオッグ(巨大な獅子面をつけて踊る)に出てくる、アクロバティックな踊りを披露する男子がいた。これはまあ言えば大道芸で、芸大で教えるようなアカデミックな舞踊ではない。彼は小さい頃からこの芸能に携わっているようで、体もよく利いていた。それで先生たちも楽しんで、次々にリクエストしてはいろんな技をやらせていた。実技試験は1人ずつのはずだが、3人まとめて試験された男子たちもいた。彼らはみなソロの国立芸術高校出身なので、まとめてやらせることにしたという。彼らの場合は試験官のほうが曲を指示して踊らせ、さらにサブタンなど基本的なジャワ舞踊の型もやらせて見る。芸術高校出身者には求めるレベルも高く、とりわけ基礎がきちんとできているかどうかを厳しくチェックする。またある女の子は、試験官(+観察者の私)を前に、おしゃべりあり、歌あり、踊りあり、笑いありの楽しいショーをやって見せた。この娘なら芸大に入らなくても、これで食っていけそうな出来栄えだ。こういう実技でも良いのか、と軽くショックを受ける。

逆に全然何もできない人も来る。日本人にとっては不思議なことだが、芸大に入ってから舞踊なりガムラン音楽なりを初めて習うという学生が、実は毎年数人いる。では、なぜ芸大を受験したのかという問いに多かった答えが、「イヌルちゃんみたいになりたいから」というもの。イヌルちゃんというのはダンドゥット音楽の歌手で、腰をセクシーにくねらせて踊りながら歌うスタイルで大人気だ。しかしダンドゥットは庶民層に人気のある流行音楽で、芸大のようなアカデミックな機関では決して教えない種類のものである。こういう勘違いは田舎出身の人に多い。それでも試験官は何らかの実技試験をする。たとえば、試験官がジャワ舞踊の簡単な型をやって見せて真似させる。音楽科なら、簡単な音楽のフレーズを聞かせてから演奏させる。まだ何もできない人には、ともかく真似してついてこれるかどうかを見るのだ。中には、舞踊の真似も恥ずかしがってしない人がいた。試験官が、それでは替わりに何かできることはないか、歌はどうかと聞くと、歌も苦手だという。彼女はイスラム式にスカーフを被っていたので、コーランの朗誦はできるかと聞かれて、それでやっとコーランの朗誦を始めたのだった。

こんな、内容もレベルも多種多様な試験方法を取るのは、将来どんな才能が花開くか現時点では未知数だからということだった。それに芸術機関の使命やカリキュラムが昔とは異なってきたこともある。昔の芸術機関が最重要で養成していたのは、既存の伝統舞踊の演目を踊りこなせる舞踊家および舞踊教師だった。しかし現在はコンテンポラリ舞踊が盛んで、振付のアイデアがますます重視される時代になっている。だから、ジャワ舞踊がうまく踊れなくても、その他の能力が振付に役立つかも知れないと考えられるようになったのだ。やりたい者にはとりあえずやらせてみるという方法には、私は最初に留学したときには大変驚いたものだが、今から思えば芸術という将来の果実が予測できない分野の教育法としては良くできた制度(何もしない制度だとも言える)ではないかと思っている。


いろいろと

さて、先日、ケージに、一柳、コリリアーノと聴く機会があった。さすがに聴きやすい曲を選択したらしく、居心地のよいコンサートだったが、曲を聴きながら、昔、初めて現代音楽を聴き始めた学生時代を思い出した。
高校の音楽ではさすがにロマン派止まりで、学校教育で聴く現代音楽はブリテンだけとなんとも偏った傾向だなどと考えながらも、ストラヴィンスキーを最初に聞いたときの衝撃やベルク、シェーンベルグ、ブーレーズに、ショスタコーヴィッチ、プロコフィエフと今や古典となろうとしている曲を始めて聴いたときのなんとも言えない不安感を思い出して、ケージをのほほんと聴いている自分に驚いていたりする。音の感覚を解放して、きれいな和音だなあ、などと聴いているのだから慣れとはなんとも怖ろしいものである。

と、言いながら、モーツアルトを聴きながら、キーボードを打つ自分もいるわけで、なんなんでしょうね?である。ちなみに、最近のお気に入りは、スメタナの「我が祖国」のダブルピアノ版のCDだったりする。

さて次のもうひとつの話題は本の人相書きについて。

手配書:古い雑誌
大きさはたぶんA5サイズ付近。戦中なので紙質は悪いはず。表紙には右から横に「につぽん」の文字。
発行:名古屋新聞社出版部、編集:興亜日本社
昭和16年7月号〜昭和17年1月号
大坂圭吉(もしくは大阪圭吉):弓太郎捕物帖の掲載号
S16.7:屋形船異変
S16.8:夏芝居四谷怪談
S16.9:五人の手古舞娘
S16.10:千社札奇聞
S16.11:花盗人
S16.12:丸を書く女
S17.1:ちくてん奇談

と何年も前から手配をあちらこちらにかけているがなかなか見つからない。これは著作権保護期間50年の悪い見本だろう。死後50年もたてば、著作はどこにも見当たらなくなるかもしれない。それを考えると、もっとパブリックにして著作を読んでもらうことを良しとすべきなのかもしれませんね?

さてさて、こちらの本は、そろそろ、「開運、なんでも鑑定団」ででも募集してみようかな?


しもた屋之噺(86)

昨日、聳え立つ山の頂きで乳白色の深い霧に包まれたサンマリノの街から、車で一気にリミニまで降りると、気圧で思わず耳がツンとつまりました。

元旦明けの2日から、雪景色のブレッシャでエマヌエレ・カザーレ作品の録音のため、スタジオにこもっていました。その翌日から、再び大雪に見舞われ、ミラノですら70センチは積もったでしょうか。きめ細かく美しい、ふわりとした雪で、思わず家人が庭に小さな雪だるまをつくりました。頭に小さなバケツをかぶせ、目に黒オリーブ、鼻にニンジンをあしらった、それなりに愛らしいものでしたが、夜半、オレンジ色の街灯が一面の白い雪を照らし、ぼんやりと薄ぼらけた風景に空ろに浮上る姿は、やはりどこか頼りなげでした。もっとも夜が明けて、あちこちで子供たちが声をあげて雪合戦に興じる姿は、日本もイタリアも一緒です。子供のころ、自分も手がかじかんだのを思い出しました。

なかなか溶けない雪だるまを眺めつつ、9月末に仕上げるはずだった新曲を漸く送り、翌日にはコントルシャンの演奏会のためジュネーブ行のチザルピーノ特急に乗っていました。毎日、スイス・ロマンドのアンセルメ・ホールで練習をしながら、時間ができると、演奏家たちの溜り場になっている、辻ひとつ先のポルトガル人の喫茶店で、オムレツやらケーキに舌鼓をうちました。ベルリンに住んでいるノルウェー人のメゾ、トーラは、少しでも時間が空くと控室で余念なく勉強に精を出していて、演奏会とFMの録音を兼ねたアンセルメ・ホールの本番は、それは素晴らしいものでした。

朝7時40分、夜も明けぬジュネーブ駅を列車が出て、まもなく車窓一杯にひろがるレマン湖に映る朝日に見入り、イタリアン・アルプスのどことなく繊細な雪景色に目を奪われ、イタリアに戻り、やがて姿をあらわす、マッジョーレ湖の幽玄な島々に美しさに思わず溜め息がもれました。特に旅が好きでもないのですが、仕事にでかけるときは、いつも決まって楽譜に齧りついているので、帰途は周りの風景に驚くことばかりです。

洗濯を兼ね、雪があちこち残るミラノで2日ほど慌しく譜読みをし、ルツェルン劇場でのみさとちゃんの新作オペラに駆けつけました。ミラノからコモを通り、ルガーノ湖のほとりを暫く走り、イタリア語圏・スイスにベッリンゾーナで別れを告げ、アルプスはゴッタルド峠の荒々しいほど男性的な風景に息をのみます。雪も1メートル以上は積もっていたでしょう。そそり立つ山々と対照的に、点々と続く街は、雪に沈んでいるようにみえます。

車窓の風景が、暗く重く圧し掛かるように感じられるようになると、周りの人々もつられて無口になり、雪ばかりの風景を思いつめたように見つめていましたが、やがてルツェルン湖が見えてくると、お伽噺にでてくるような愛らしい家が点在するなか、丘に羊や牛が群れる、文字通り牧歌的な風景に心がなごみました。

みさとちゃんのオペラは、時間が深く進行してゆく1幕と、作曲者の時間感覚、皮膚感覚が直截に聴衆に伝わるような、畳みかける2幕とも、まるで時間の経つのも感じられないほどに面白くて、見に来て本当によかったと感激しました。彼女らしい書法と、さらさら流れるように書き綴ったような書法、それを引立たせるよう所々に忍ばせた仕掛けのバランスにも脱帽しました。

翌朝、もと来た道をミラノまで戻り、サンマリノまで下り、先昨日、サンマリノの山の頂き近くにあるタイタン劇場で、オーケストラ選抜メンバーとアウシュヴィッツ解放記念の演奏会をしたところ、一ヶ月前のクリスマスコンサートにも駆けつけて下さった二人の執政(大統領にあたる)が来賓としていらしていて、何とまめまめしいのだろうと驚きました。

朝の練習が終わり、フルートのクリスティーナとクラリネットのマルコなどと連立って、「リーノ屋」で特製の手打ちガルガネッリを食べながら、ひょんな事から、イタリア人のクリスティーナが、サンマリノのコンヴァトの職を今年限りで失うのだと打ち明けられました。彼女の教え子が去年見事にディプロマを取り、早速来年からサンマリノで教職につくことを望んでいるのですが、サンマリノの法律によると、どんな教師であれ、サンマリノ人がそのポストを望めさえすれば、外人である限り、自らの職を無条件で譲らなければなりません。

自ら教えた生徒に、教師が職を追われる。良い教師であればあるほど、外人であれば、自分に不都合な優秀な生徒を世に送り出すことになるのさ。サンマリノ人の同僚たちは、自虐的に声を潜めて話してくれました。せめてクリスティーナが、サンマリノの男と結婚してくれれればなあ、彼らは、冗談とも本気ともつかぬ笑いを浮かべつつ、残念そうに繰返しました。コンヴァトの校長はクリスティーナの友人だし、あれだけ親しければ、きっと助けてくれるでしょう、と思わず口にすると、皆、揃って頭を横にふりました。こればかりは、彼にもどうにもならない。法律なんだよ。昔から長く続く伝統なのさ。彼女がここを去ったとて、僕ら以外誰も心を痛めやしない。

30年前に初めてコンヴァトを開いたときは、イタリアから錚々たる教師陣を集めてきたのだけれど、数年経つうち、彼らは揃って若くてろくでもないサンマリノ人の同僚に根こそぎ挿げ替えられてしまったというわけだ。演奏会の夜、サンマリノの街は深い霧に沈み込んでいて、下界とは隔絶の感がありました。まるで宙に浮かぶ島のようです。

戦時中、短い間ながらサンマリノにもファシスト政権が誕生したことがあり、タイタン劇場は実は当時の残滓でした。全体に小さいながらも、確かにファシズム建築らしい厳(いかめ)しいつくりで、正面玄関の装飾は、紛れもなくファッショ(束棹)そのものでした。
演奏会が終わり、関係者も引払ったがらんどうの劇場で、管理人の男性が乾いた笑い声をあげました。よりによって、ここで、アウシュヴィッツ解放記念の演奏会とはなあ。

翌日、ミラノにもどると意外なほど肌寒く、思わずコートの襟を立てました。

(1月31日ミラノにて)


メキシコ便り(17)

メキシコのお酒といえばテキーラ、いろいろな飲み方がある中で、カクテルのテキーラ・サンライズはあまりにも有名です。私もテキーラが大好きでよく友人と飲むのですが、私の飲み方は彼がやっているやり方で、小さな細長いグラスにテキーラを入れ、そのグラスを持った手の親指の付け根あたりに塩をのせます。そしてもう片方の手でリモンといわれる、こちらのレモンで小さなすだちのようなものをかじりつつ、塩をなめながら飲むのです。テキーラの高いアルコール度による強い刺激をこの辛さとすっぱさがほどよく緩和してくれ、まろっとしたさわやかさに変えてくれるのです。

人によってはレフレスコとよばれる、コーラや炭酸飲料、ジュースを混ぜたり、水割りにしたりと本当に人それぞれで楽しんでいます。店で飲むとサングリアと呼ばれるトマトジュースがついて出てきたりもします。値段はピンきりで高いものは数万ペソ(数十万円)もするそうですが、だいたい平均すると500ペソ(5000円)くらいから安いものだと50ペソ(500円)くらいでしょうか。私はもちろん安いものしか飲めませんが・・・・。

このテキーラの産地、グアダラハラに行ってきました。グアダラハラはメキシコ第2の都市でハリスコ州の州都です。メキシコシティーからバスで北に約7時間。夜中にメキシコシティーを発ち、着いたのが朝7時ごろ、街はもう動きだしていました。宿に荷物を置きコーヒーをゆっくり飲み、さあ行動開始です。

私がここでどうしても見たかったのがハリスコ州庁舎にあるオロスコ作の「立ち上がる僧侶イダルゴ」の壁画と、もちろんテキーラの生産工場でした。まず、街の中心のソカロに向かい、すぐそばにある州庁舎に行きました。メキシコ独立の英雄であるイダルゴ神父がここで宗主国スペインに対して独立闘争を開始したのです。壁画を探しながら中央階段を昇っていくと突然眼前にイダルゴ神父が現れました。階段を覆うように天井まで描かれた壁画の中で大きな大きなイダルゴ神父が私に手を差し伸べていました。「さあともに戦いましょう」とうながしているような、その真摯な表情には本当に圧倒されました。イダルゴ神父が1810年9月、ここで行ったスペイン打倒のための「ドローレスの叫び」がメキシコの独立への第一歩でした。しかし、彼は1811年7月にチワワでその志半ばにしてスペインに捕らえられ、政庁舎で銃殺刑にされます。そして、首は晒されました。私はしばらく階段に座り込んで、苦難のイダルゴ神父と、多くの血が流されたメキシコ独立の歴史に思いをはせました。

次の日の朝、バスで北西に約50キロ、その名もテキーラ村にあるテキーラ生産工場のホセ・クエルボ(スペイン語でカラスの意味)社に向かいました。途中は行けども行けどもアガベ(竜舌蘭、テキーラの原料)の畑。アガベはアロエの葉を幅4倍、長さ4倍くらい大きくしたような肉厚の葉が地中から直接、放射線状に出ていると想像してください。全体の大きさは直径約1メートルから1.5メートルくらいです。植えられてからだいたい、6年から8年で収穫され、葉と根を特別の鎌で切り取り、茎を大きなボールのようにします。私もアガベ畑で切り取りを体験させてもらいました。本当によく切れる鎌で、ちょうどホタテ貝の貝殻のような形なのですが、たいした力をいれなくてもスパスパと切れてしまい5人のツアー客だけで不十分ではありますが、ひとつのボールができました。畑から工場に着くと玄関には5、6メートルはあるかと思われる、大きな恐竜のようなカラスの彫刻があり、本物のカラスが2羽、鳥かごに入って迎えてくれました。この会社の創業者がホセ・クエルボさんなのですが、よほどカラスを愛していたのでしょうね、その巨大さにはちょっとびっくりしてしまいました。

この工場は1795年に創業した、世界でも売り上げナンバーワンの会社なのですが、その長い200年あまりに及ぶ歴史のビデオを見せてもらったあと、さっそく工場内を見学させてもらいました。一歩中に入ると大きなボールになったアガベがたくさんころがっています。このボールはパイナップルによく似ているのでピーニャ(スペイン語でパイナップルの意味)と呼ばれます。これをいくつかに区切られた部屋のようなところで蒸します。するととても甘いにおいがしてきます。この段階で絞って飲むとアガベジュースが楽しめます。そして、ピーニャを1週間ほど置いたのち絞り、この絞り汁を発酵させて、蒸留し、テキーラの出来上がりです。工場では蒸しあげられたピーニャがコーヒー色をして次から次へと小さな出口からごろんごろんと出てきます。周囲には甘いにおいが充満しています。

できたてのテキーラが試飲できるというので、もちろん飲んでみましたが、塩もリモンもない中でキュッといくとさすが、ちょっと強すぎてくらっときてしまいました。それでも同じツアーで一緒になったマリアはテキーラが大好きだそうで、何度も試飲して、お昼を食べに入ったレストランでも、また何杯もマルガリータを頼み、私にも勧めてくれます。マルガリータはホワイトキャラソー(オレンジ風味のリキュール)やレモン、ライムジュースとテキーラを混ぜたものですが、その名前のかわいらしさとあいまってとても人気のあるカクテルでとってもおいしいのです。マリアはとにかくよく飲み、よく食べ、よくしゃべり、その勢いで、お勘定も全部払ってくれました。ラッキー、ラッキー、テッキーラ、自分も相手も幸せにしてしまうテキーラだーい好きです。


生きるための歌~聖歌となった聖杯

シコ・ブアルキ(Chico Buarque de Hollanda)に関する連載をはじめるにあたって、どうしてかれに関心をもったかを最初に書いておきたい。ひとつの歌との出会いだった。

2年ほど前、大学でアメリカのジャズの展開と黒人差別の係わりを歴史的に取りあげていた。黒人音楽でもジャズとおなじく奴隷として黒人たちの音楽に源をもつブラジルのサンバ(国民音楽となった)はまったく異なる。とくにリズムの音楽サンバとの比較は興味をそそられた。そこからショーロ、マルシャ、サンバからボサノヴァをふくむ近年のブラジル・ポピュラー音楽(Música Popular Brasileira [MPB])や文化などを勉強しはじめた。

日本語、英語、ブラジル・ポルトガル語など、手に入るさまざまな著作や楽譜集、CD、DVDなどを集めた。そこに「PHONO73」というCD+DVDがあった。これはボサノヴァの「恐るべき子どもたち」(カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルなど)がはじめた前衛的な「トロピカリア」という芸術運動(1968‐69)の数年後の1973年、当時のブラジル・ポピュラー音楽の中心を担う若者たちが一堂に会したコンサートを抜粋、収録している。もちろん、トロピカリアの中心人物カエターノ、ジル、ガル・コスタが登場する。そのほかにナラ・レオン、ジョルジュ・ベン(現ベンジョール)、カエターノの妹ベターニア、エリス・レジーナ、MPB-4、トッキーニョ&ヴィニシウスなど、そうそうたるミュージシャンが登場する。そのなかにシコ・ブアルキがいた。

コンサート(DVD)では、当時のさまざまなMPB音楽を見ることができる。そのなかでとく興味を引いたのがシコとジルがうたう「Cálice(聖杯)」(詩:シコ、曲:ジル)だった。2人はギター弾き語りでうたいはじめる。ジルに対してシコはどこか投げやりで、刺々しく、精神的にいら立っている。ジルはうたいながら、シコを気にして横を向いたりもしている。しかも歌の途中でマイクが入っていないと怒りだし、止めてしまう(映像の音源には、なぜかうたっていないにもかかわらずシコのうたがかぶさっている)。そのときのシコの表情、しぐさ、斜めな感じ、さらに中途半端に終わった歌がどうしても気になった。そしてこの曲を収録しているCD(「Chico Buarque」1978)を探した(後にCDと同じ音源によるヴィデオ・クリップを収録したDVDを見つけた)。

録音でシコはミルトン・ナシメントと歌っているが、ライヴと比べると、シコの歌声はけっして激しいものではない。逆に、祈るような語りかける声でナシメントと歌を交換しながら、ことばをまっすぐに突き刺していく。しかししだいに2人の声は叫びへと変わり、ドラム連打のあと、ユニゾンする声とコーラスの呼びかけとともにクライマックスを迎える。荒涼としたその声の風景は、ヴィデオ・クリップでは途中に市民が闘争する写真が挿入され、その意味するところを補足してくれる(映像の真正面を見据えたシコのブルーの視線が私を貫く)。ブラジル・ポルトガルの詩はわからなかったが、そのいわんとするものは十二分に伝わってきた。

あとで知ったが、シコが怒って歌を止めてしまったのは、警察がかれのマイクの音を消したからだった。ジルのマイクは消されていないことからも、それが詩を書いたシコに向けられたものであることがわかる。当時、軍事政権(1964-1985年)だったブラジルでは、歌詞の内容がきびしく検閲されていた。政府を批判する歌詞は、変更を余儀なくされるか、発売されたとしてもすぐに発売禁止となった。1967年頃、シコは政府を批判する歌をうたいはじめた。翌年の1968年に逮捕され、1年ほど家族と幼少期を過ごしたイタリア、ローマに自主亡命の道を選ぶ。「Cálice」での妨害は、帰国後も要注意人物だったことを証明するものであり、映像はそのドキュメントでもある。

「Cálice(聖杯)」

父よ、この杯を私から遠ざけてください。
血に染まったワインを

どうやってこの苦い飲み物を飲むのか
痛みに耐え、苦労を我慢するのか
口は閉じても心は開いている
だれも町の沈黙を聞くことができない
聖女の息子であっても、それにどんな価値があるのか
他人の息子であったほうがましだ
まだくさり具合のましな他の事実
あまりに多くの嘘とあまりにひどい暴力

父よ、この杯を私から遠ざけてください。
血に染まったワインを

無口になりながら目覚めるのはなんと難しいことか

私は夜の沈黙に絶望している
引き裂くような叫び声をあげたい
それが他者に聞こえる唯一の方法だ
あまりの静けさに気が遠くなる
呆然としながらも注意深くしている
どんな瞬間にも観客席から
沼の怪物が現われるのをみられるように

父よ、この杯を私から遠ざけてください。
血に染まったワインを

(ベアトリス訳)

これは「Cálice」の詩の半分までを訳したものだが、読むといかに反政権的な内容であるかが分かるだろう。タイトルの「聖杯」は同時に「試練」を意味し、ポルトガル語のおなじ読み「カリシィ」(Cale-se)には「黙らせる」という意味もある。聖杯は沈黙を余儀なくする試練であり、軍事政権下の不自由や苦悩をコーラスの声を重ねながら呼びかけている。カトリック教徒だったシコにとって「Cálice」は黙ってはいられない皮肉に満ちた「試練」だった。

1966年「A banda」の空前のヒットによりブラジル人の心をつかんだシコは、ノエル・ホーザの再来ともいえるマルシャやサンバを書き、その姿勢をトロピカリアの人、カエターノに批判されたこともある。しかし5枚目のアルバム「CONSTRUCÇÁO」(1971)で一変する。デビュー当時の愛称「青い目の貴公子」というアイドル化された自己を拒絶するように髭をたくわえ(ジャケット写真のシコは攻撃的な、覚めた視線でこちらを睨んでいる。ライヴのシコもおなじ髭と視線がある)、一人の生活者、表現者として現実をみつめる歌を自らたぐりよせた。そのどんより重苦しい空気や世相をあぶりだすことばの刃はこの「Cálice」へとダイレクトに結ばれている。

「芸術は自由のなかにあってこそ発展するものだ」。シコは書いた。しかしこうもいえる。自由のなかで伸び伸びと歌を書くより、軍事政権下の検閲をかいくぐるように比喩や象徴などを使って黙した声を荒げ、訴える、そこに芸術家としての真実の声があぶりだされる。だからこそ単なる歌詞ではなく、詩でなければならなかった。「Cálice」はシコ・ブアルキにとって「生きるための歌」だった。歌はライヴのあと禁じられ、10月には再び逮捕される(74年から75年、シコの作る曲はすべて禁止された)。「聖杯」はプロテスト・ソングとして独裁政治と戦う「聖歌」となった。


ひそやかな歌

「うたのイワト」で 『高橋悠治ソングブック』からいくつかの歌をうたってもらって思ったこと

ヨーロッパやアメリカにいた頃は じぶんのことばでないことばで あてさきもなく 歌は作れなかった それ以前にはアルトーの詩を 以後にはブレヒトや毛沢東の詩を歌にしようと試みたこともあったが メロディーは作れても それに楽器をつけることができないでいるうちに 原稿がどこかへ行ってしまった 歌はメロディーであるより まずことばをきくやりかたなのかもしれない

歌は詩のよみかたのひとつなのか
歌になることばをさがして詩をよむのか
ことばのひびきと くりかえされるひびきの間隔のリズムで
詩をよんでいく
語りの波が ささやき となえ 
光がさしこむ瞬間に 歌が地上すれすれに浮かんで消える
歌はそれをうたう人の声といっしょになっている
 死んだだれかを思いださせるよ と
 老人は部屋に羊を飼った
そんな一節が頭のなかで鳴っている
(長谷川四郎詩集にはなかった)
 声にはせずにうたってた
 忘れぬために 花のうた
(これは佐藤信と林光だった)

卵の殻がついたままのひな鳥のように
ことばの錘りが離れず 歌になりきれない語りの
ひびきのいろどりと不安定が
ことばを書きつけるひとの心を映して
こどもであることをまだしらないこども
こどもを国にとられた母
名前をなくしたからっぽのすがた
忘れられた病気の子ども
 うたは問いかけ
 うたいながら すぎてゆく
(水牛の歌)
いる場所も行きどころもない魂が まださまよっている