2010年7月号 目次

美(ちゅ)ら、二――翠ぬ宝69藤井貞和
オトメンと指を差されて(25)大久保ゆう
電子書籍はiPadの夢を見たか大野晋
クロスオーバーラップ冨岡三智
犬狼詩集管啓次郎
アルビルでワールドカップさとうまき
インタビューの「あとがき」若松恵子
夜のギター話し笹久保伸
まだ初々しい夏至の夜にくぼたのぞみ
製本かい摘みましては(61)四釜裕子
しもた屋之噺(103)杉山洋一
掠れ書き(2)高橋悠治

美(ちゅ)ら、二――翠ぬ宝69

ふじーさだかず

沖縄戦の、
継続を望んだ男が、
5月4日以後になると、
沖縄への関心をうしない、
本土決戦準備へと、向かう。
側近を九十九里浜などへ派遣して、
調べさせるも、不十分であると知り、
6月22日、ついに和平工作へと、指示する。
   (林博史『沖縄戦が問うもの』214ページ)
その日、沖縄の壊滅。 ヤマトの人と、もうあまり話すことがなくなった、と、
高良勉さんのメールから、声がする。 ヤマトの人たちは沖縄を三回殺した、と
声が力なく遠ざかる。


〔前回のコメントを、すみません、以下のコメントに取り替えます。〕(昨夜は「水牛」のサイトへ連載の原稿を入れるために、数年まえ、二〇〇五年四月のアップを取り出し、どうしようかと思案した。六十八回の連載で初めて「再録」を今回はやってみようと思いついた。この〈琉歌〉は私一箇にはいまの時にいちばん相応しいという気がみずからする。「抗議の 三千日」は、二〇〇五年四月に出した際に、「三百日」と適当にやってしまい、やんわり注意してくれた人がいて、今回は訂正できた。「三千日」というのも適当ながら、琉歌としての語呂もあって、正確に何日とすべきか、むろん毎日、ここは変える必要がある。「の」は沖縄語で「ぬ」と聞こえるので「海人ぬ」「八八八六ぬ」などと書き、「抗議の」は「の」にしてある。海の死は人類の死である。けれども、二十八日(五月/二〇一〇年)、深夜になって、力強い報道がはいってきた。嘉陽のオジー(八十七歳)の言う、いつか「四度目の日米合意」があるさー。名護市での市民集会で、最も湧いた場面がある。嘉陽宗義氏が訴えたときだと言う。「もし鳩山首相から莫大なお金と感謝状とが来ても、辺野古の海に捨ててください。将来、必ず、子や孫からありがとうと言われる日がきます」。嘉陽氏にとって、今回の日米合意(三度目)は気にも留めないという。鳩山氏は、徳之島、桟橋方式などのダミーを空砲のように打ち上げながら、三度目の日米合意(県内移転)へと帰ってきた。これもダミーだろうと私には見られる。ダミーはだれかが言い出すと、ある程度は現実化する危険があるにしろ、辺野古の海へ桟橋を張り出してヘリポートなり滑空路なりを作る案について、米軍が「それではテロ攻撃の危険に対して守れない」と言い出す始末で、沖縄へ新たな危険を呼ぶ案なのだと図らずも明かされてしまう。おなじく深夜になり、福島瑞穂氏(社会民主党党首)が、「私は沖縄を裏切れない」。喜納昌吉氏の新刊『沖縄の自己決定権』(未来社、二〇一〇・五)の表紙に、「この本で世界が変わる」。一ヶ月まえ、四月二十五日には、沖縄県民が意見を一つにまとめた英知を見ることとなった。県外国外への普天間基地移転を求める県民大会が九万人余で開催されたという。「ヤマトからは来ないでね、沖縄の人たちだけでやるから」と、ヤマト(県外のことを沖縄からは「ヤマト」と言う)の人たちは釘をさされ、各地で沖縄県民大会を支援する集会が同日に取り持たれたはずである。沖縄の、じつにさまざまに意見がある、それが一つにまとまることの意義は、ちょっと類例のないぐらいだ。すじを通してゆけば〈自己決定権〉にたどりつくと見る人々も、「県外国外への基地移転」で統一させることとなった。考えてみると、「国外」よりも「県外」のほうが過激なのだ。ヤマトの一人一人へ、あなたたちはどう考えるの? と投げるボールが「県外」には籠もる。「国外」では何も考えないヤマト人を増やす。それから一か月、見ていると、ヤマトは冷たくて、無関心を装い、沖縄に対しての、ほんとうに差別感がある。ふつうは出てこない、差別感情が、ヤマトにはあるんだ、沖縄への、と気づくときがある。何をいまさら、と私に向かって言わないでほしい。この一か月、ヤマト人が、ちらちら覗かせる底意にふれて、その場では平然と、ときには口汚く、私には帰宅して何度か泣きたい感情的な気分に襲われる。何もできないんだな、これが。ヤマトのなかには、沖縄のなかで言われてきたことがほんとうなんだ。沖縄研究をすこしは、長年やってきたつもりのおまえが、わかっていない。何としても政権離脱をしないように、というのが私の意見だ。たかが対米交渉で、ヤマトが割れることぐらいみっともないことはない、沖縄、そして徳之島の人びとを見習うなら。五十年という安保体制。困難をきわめるぐらい、みんなで許し合えるのでなければ。......でも、福島さんの顔がこんやは輝いてる、かぐや姫みたい。「沖縄を裏切れない」って。罷免を受けいれてよいと私は思った。政権離脱もやむをえないと、いま許すきもちになった。さいごまで連立の道をさぐり(小異を捨てて、何とか可能性をひらく、というのがこれまでの沖縄のがまんだったのだから)、「四度目の日米合意」(嘉陽氏がちゃんと見ている)へと、希望をつないでゆくことがいまだいじだろう。でも、どうしても政権離脱以外に道がないなら、それなりに福島氏の自己決定権であり、尊重しよう。五月二十九日、朝)


オトメンと指を差されて(25)

好きな相手には振り向いてもらえなくて(うまくいかなくて)、その代わりと言ってはなんだけれども、自分になついてくれる子やいつも顔を合わせたりする子に対してはついつい優しくしてしまう――なんて言うと、恋愛の話なんかに見えちゃうかもしれませんが、私にとっての紙とデジタルの本との関係はおおよそのところこういう感じだったり。

最近、紙との関係が悪くなってしまうような出来事がもろもろありまして、遠からず私は紙に絶望してしまうのではないかと我ながら心配になってしまうのですが、しかし個人の関係というものはえてして世の中にはたいした影響を持ち得ないものでありますから、私と本の間柄なんていうのはどうでもいいことのひとつで、また気になる人がいたとしても、無料の翻訳はありがたいからそれなりにデジタルとよろしくやっててくれ、というのが大方のところでしょう。

ここで愚痴を書いても仕方なく(むしろ書いてから消しました)、何か楽しいことでもしゃべりたいのですが、それならば美しい本といちゃいちゃ(あるいはきゃっきゃうふふ)するようなのが精神衛生上よろしいような気も致しますので、せっかくなので前回に引き続き〈本ガール〉の話でもしようかなと思い至ったりするわけなのです。

先月の発言はまことに思いつきで見切り発車過ぎるものがあり、何ら受け入れ体制もできておらずたいへん申し訳なかったのですが、それなりに反響もあったということでぼちぼちと本腰で準備を始めておりまして、近いうちにちゃんとしたサイトなりメアドなり窓口なりコンテンツなりを用意しようと考えておりますので、興味おありの方は今後の展開を注視していただけると幸いです。

少なくともシーズンごとに1度ずつやっていければと愚考しておるわけなのですが、本格的に始めるとなると、やはり対外的に趣意書なるものをばばんと掲げた方がわかりやすいですし、これまでの経緯をご存じない方にもよろしいのではないかと感じる次第でございますから、ここで3つほど〈本ガール〉企画の意義などを立てておきたいと思うのです。

1.本をかわいいもの/美しいものとしてめでる・楽しむ。
 これがまず基本です。本の表紙とかデザインとかをかわいいものとして扱いたい、そのひとつのあり方として本そのものを組み込んだ〈本ガール・ファッション〉を提案してみる、ということなのです。ただ外からながめるのだけではなくして、自分に関連づけて楽しむということでもあるのでしょうが、むろんのこと本は本だけで成立するわけでなく、読者との関係のあいだにあるわけで。その多様性の選択肢としてファッションはどうでしょうかと。かわいい本の表紙からそれに合ったコーディネートへ、あるいはコーディネートに合わせたおしゃれな本を選んでみるなどなど。そういえば私は昔から本を読むより、本をモノそのものとして愛でる方が好きだったなあというか、ということを思い出しつつ。

2.一種の表紙批評・デザイン批評のエンターテイメントを試みる。
 書評というと本の内容について触れたものでちまたにありふれておるわけですが、本の表紙やデザインの批評というものはそれに比べると少ないものであります。そして存在してもえてしてそれはどこか専門的なもので、一般的に人が読んで楽しむものではありません。しかしそれをファッションという文脈に置いてみることによって、表紙やデザインに別の視点から光を当てて楽しげに考えてみようというわけです。(さらに書評だと本のデザインでなく内容に触れているので書影の引用要件を満たさず原則は許可が必要なわけですが、本ガールファッションをデザインへのひとつの批評とすれば、書影を写真のなかに引用することは可能になるということでもあります。)

3.あえて本の"モノ"としての側面・性質を売り込む。
 近頃は電子書籍元年などと言われて、遅かれ速かれどんどんとそちらの方へ本が移行したり同時発売されたりするのでしょうが、その中身が同じでもなお紙の本を売るとするならば、いったい何が紙の本のメリットなのかと問わずにはいられないでしょう。そこで私はやはり〈外身/外見〉だと言いたいし、言えると思うのです。電子書籍ではファッションとともにコーディネートしにくいけど、紙の本ならばそれができるのですよ、というかやりましょう!ということを声を大にして。そこでは厳然たる本の〈モノ〉としての側面がクローズアップされざるを得ませんし、もうひとつの紙のあり方というものが考え得るのではないかと感じる次第なのです。(むろんこれまで歴史上、紙の本は幾度となく飾りやアクセサリーとしても扱われてきたわけですから当たり前と言えば当たり前なのですが。)

......というわけで、前回のちょこっとした表現をまじめにまとめ直してみました。むろんやるからには本文化の活性化やら売上の増加やら何やらを目指したいところでありますので、使わせていただく本の出版社さまや著者さまにおかれましては寛大な心をもって見守っていただけると幸いです。(積極的にご協力いただけるのならばさらに嬉しいです。水牛執筆陣さまの御本を対象にしても、どうか怒らないでくださいね。)

こういうことをつらつらと考えるとつけ、自分は近江商人の息子なのだなと思わずにはいられません。いわゆる三方よしといいましょうか、本とその送り手と受け手にとってそして社会にとってよろこばしいものになればいいなと思っております。実は他にも子どもに本をどう届けるかとかあるいはもろもろたくさんアイデアはあるのですが、それはまた何か機会がありましたら。

というわけで、ちゃんと支度できましたらまたみなさまにご連絡申し上げます。まずは今夏(あるいは今秋)の本ガールから。楽しみにしてお待ちください。


電子書籍はiPadの夢を見たか

二ヶ月ぶりです。このところ、時間が経つのがおかしくて(もしくは私の感覚がおかしくて)、とうとう先月は気が付いたときには6月になっていました。いや、驚いたこと。さて、日本でもiPadが発売になりましたね。私は店頭に並んで買うことはしなかったのですが、購入した人間のものを触ってみてよかったので、すぐに入手できそうなので注文して手に入れてしまいました。うちには、このようにして購入した電子書籍端末のなれの果てがうずたかく積み重なっていますが、いまのところ、iPadはその中の最善。やはり、最善の選択は一番新しいものなのかもしれません。早速、電子ブックアプリケーションのiBookとi文庫HDを入手して、青空文庫読書端末化しています。

実際に使ってみるといろいろと気になることはあるものの、読書端末としては大きな文字とともに秀逸なインタフェースのように思います。ようやくここまで来ましたね。特に、論文や国際規格などを持ち歩いたり、参照したり、読んだりといった機会が多い私にとって、情報端末としての利用価値が高いように思っています。現在、学会の論文やジャーナルは出版費、運送費、学会運営費の圧縮のために、軒並み電子化されてきていますから、そうした意味ではこういった端末がノートや冊子の代わりに教育機関や研究機関で使われるようになる素地はあるように思っています。むしろ、ディスプレイを立てないと使えないPCの方がそうした用途には不向きだったように思います。

一方、雑誌や新聞など、一時的な情報を提供する媒体もこうした端末向きの「情報」のように思いますね。新聞紙がなくなると古紙回収の仕事がなくなったり、箪笥の引き出しなどに新聞紙を敷くこともできなくなったりするので寂しい気もしますが、情報だけを得ることを考えると月額500円くらいでこうした端末への配信サービスに切り替えるといいように思います。ただし、販売店網の対応も含めていろいろと問題があるのか、実際のマスコミの動きが遅いように思います。(Web版に舵を切った日経あたりがもっと頑張って欲しいものです)
まあ、同様に書籍や雑誌の出版界も、一気にこうした端末になだれ込めば、書籍取次ぎや書店の反発にあうために二の足を踏んでいるような気もします。はてさて、いつになれば、適正な分野のコンテンツが電子書籍として提供されるようになるのか、なかなか見えません。

結局のところ、青空文庫が唯一、最大規模の電子書籍コンテンツの提供母体だったりするのはこの10数年なかなか変わらないわけで、今のところ、日本の電子書籍端末の雌雄は青空文庫をいかにして取り込んだか、であったりするわけです。それとともに、なかなか、日本の出版界そのものが変わらない現状があるわけで、いくら著作権論議をしたところで、実際の書店店頭の大きさは変わりませんから、人気のある新刊はそこに置かれ、あまり売れない書籍は結局、返品、絶版という流れは変わりようがありません。むしろ、書店自体が減ってきていますから、競争自体は激化しているのかもしれません。そして、売り場にない書籍の著作権も、それは経済的な価値は無に等しいわけですから、突然の映画化でもない限り、二度と読者に届く機会もなくなると言えるでしょう。まあ、そもそも、関係者の目にも触れない著作物が二次利用される機会もないわけで、返品された時点でそういう意味では経済物として書籍は一生を終えてしまうと言えるのかもしれません。著作権の経済価値は思いの外、短いものです。

これは、おそらく、青空文庫やアマゾンの電子的な本棚やショーケースでも同じことで、タイトルがたくさん並んでしまえば、多くのインディーズコンテンツはアクセスされる機会がほとんどなくなる可能性は高いですから、そこに経済的な論理が働く限り、電子書籍の価値も有限だと言えるかも知れません。残りは青空文庫のようなところの奥深くに潜伏して、好事家の目に触れる機会を待つしかないでしょう。まあ、それでも古書店の店頭で見つかるのを待つよりはずっと機会は多そうです。

そう言えば、今年の年頭に伊藤永之介の作品を公開しましたが、同作品が掲載されている書籍の市場価格がどーんと上がってしまいました。(底本に選んだ時、言いかえれば著作権がまだ有効だったときは古書市場で今の4分の1程度の価格で購入できました)そういう意味では、市場は著作権の有無ではなく、需給に敏感です。(全作品を電子化したら下がるかな?)

ということで、電子書籍の世界ではリアル書籍の世界よりも、書籍というコンテンツに関してはプロモーションが大切になるということなのでしょう。コンテンツの著作権を過剰に主張して露出機会を減らすよりも、無償と有償をうまく使い分けて、ファンを維持しながら増やす努力が必要なのだと思います。

故郷に文学館を建てて欲しいと懇願した現役作家がいたというニュースがありましたが、自分の文章を読んでもらえない文学館でいくら紹介してもらっても本が買えなければ読んでもらえません。それよりも、過去の代表作を青空文庫で公開して、読んでもらった方がよほど目に触れる機会が増えるように思います。あとは、実力の世界ですから、面白ければファンが増えますね。フェアユースの落とし所って、そんなところにあるようにも思えます。

さて、皆さんはこの文章をなにを使って読んでいるのでしょう?


クロスオーバーラップ

先月号でも少し書きましたが、5月末にマニラで上演したコラボレーション・パフォーマンスについて書きとめておきたいと思います。

作品タイトルは「crossoverlap」。クロスオーバーとオーバーラップを1つにした造語です。作曲:田口雅英、バイオリン:Criselda Peren(マニラからのゲスト)、パーカッション:伏木香織、舞踊:岩澤孝子(タイ舞踊)&冨岡三智(ジャワ舞踊)。アジア、西洋、伝統、現代...といったものが、私たちの身体を通して、思いがけない方向へとクロスオーバーし、波紋のような感じでオーバーラップして出てくることをテーマに作品が作られています。

作り方としては、まず作曲ありきなのですが、彼が時間枠を作ったという感じ。その中でパーカッションとバイオリンと2人の舞踊が、それぞれのサイクルでパターンを繰り返す、けれどそのときどきでパターンの順序が変わっていったりする、という感じです。パーカッションと舞踊の人には、声を出す部分もあり、舞踊の2人には途中でそれぞれがクマナ(ジャワ宮廷舞踊で使う、バナナ形の打楽器)を叩くパターンもあります。パーカッションとバイオリンのパートについては、作曲家がそのパターンを作りましたが、舞踊の動きの選択に関しては、踊り手に任せられ、それぞれの伝統舞踊ベースの動きをしました。

  ●

作品全体についてではなくて、私が自分のパートで気づいたことを書きます。

私にはA、B、Cパターンのそれぞれがだいたい2分半から3分半というところなのですが、この時間サイクルが難しかった。ジャワの伝統音楽ガムランだと、西洋音楽ほどテンポが厳密ではないとはいえ、この形式でこの速度指示だとだいたい何分かかるというのが読めます。宮廷舞踊の楽曲で長い部分だと1周期が2分くらいなので、2分というのは1つのスカラン(一まとまりの動き)か、1分のスカラン2つ分の長さなのです。つまり、カウントしていなくてもだいたい2分の長さが取れるのです。またパーカッションは30秒ごと、1分ごとに時を刻んでくれるのですが、2分、つまり30秒の4倍を超えて、その5倍とか7倍の長さを感じるのは、意外に難しい...。ガムラン音楽が4の倍数ごとに刻むのは生理に叶っている気がします。

それからクマナの楽器を叩きながら声を出すことが難しかった、というよりもそれに抵抗がありました。作曲家からはクマナを叩く間隔について指示があったのですが、自分で声を出すと、記憶とか理性がふっ飛んでしまうのですね。自宅で時計を見ながら小さい声で練習していたときにはできていましたが、いざ大きな声を出したら、時間の長さが分からなくなりました。時を刻む音が耳に聞こえているはずなのですが、それでも分からなくなるのです。それには、動きと、クマナを叩くのと、声を出す間(ま)をつかないようにしてほしいというリクエストが作曲家からあったせいかも知れません。普通、ガムラン音楽を伴奏に歌ったり踊ったりしていると、節目を刻むゴング類の楽器が鳴るたび、「ああ今はここまできたのね」と、まるで信号を確認するように時間軸を感じることができるのですが...。

他のジャンルの人には、ジャワ舞踊は楽曲構成に当てはめて作られている、という風に思われているようです。ガムラン音楽はさまざまな節目楽器が音楽の周期を刻む楽器なので、そう思われがちなのですが、私に言わせると、ジャワ舞踊のうち宮廷舞踊の系統は、歌が作りだすメロディー、それはひいては歌い手や踊り手の身体の内側から生まれてくるメロディーにのって踊るものです。クタワン形式などのガムラン曲も、朗誦される詩の韻律が元になって歌の旋律が作られています。その証拠に、私の宮廷舞踊の老師匠は、しばしば歌いながら踊っていました。停電でカセットが途切れても、かまわず歌いながら踊ってしまうのです。つまり、流れるメロディー先にありきであって、その後で、それに合わせて棚枠の楽曲構成が作られた感じがします。だから枠の組み立ては少しゆるゆるとしていて、時間を少し前後にひしゃげることができます。けれど、メロディ・パートの踊り手と枠を作る側とで体内基本速度があまりにもずれると、1つの枠に入れ込んでしまうのがちょっと難しくなる...。

このパフォーマンスを見た猿の研究者の人が、時間枠がずれていく感じがしたと言ってくれました。クロスオーバーし、オーバーラップしていったのは、西洋とか伝統とか現代とかという以前に、それぞれのパフォーマーの体内時間だったのではないかなという気がします。でも、作曲家が意図したようには、ずれていかなかった気もしますが...。

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タイ舞踊の人と初めて一緒に踊ってみて感じたのが、タイ舞踊は木の上で跳んでいる鳥、ジャワ舞踊は地を這うナーガ(大蛇)という感じだなということ。彼女の方ばかり見て踊っていたわけではないのですが、いつも空に向かってピョンピョン飛び跳ねているような気配がありました。タイ舞踊が描くキンナリという伝説の鳥(日本に入ってくると迦陵頻伽)というのは、たぶんこんな跳び方をするに違いない、羽ばたいて飛翔はしないだろう、という感じです。私はというと、「地獄の釜の蓋をあけたみたい...」だったそうな。蛇はキンナリの方に向かっていこうとするのですが、追いついた頃にはキンナリは目の前にいないのです。私に言わせれば、鳥の逃げ足の方が早いのですが、蛇のほうがトロすぎて協調性に欠けていたそうです。そのトロさが、地獄に引きずり込んでいく感じに見えるらしい。

  ●

というわけで、今回も主観と言い訳だらけの文章になっています。

これを書いている今、インドネシアの古都・ジョグジャカルタを拠点に活動する劇団テアトル・ガラシの公演準備をしています。私の活動名「ジャワ舞踊の会」の主催で、大阪公演をすることになりました。7月1日が公演なので、来月号で公演の顛末を書きたいと思います。最後に予告だけしておきます。

2010年7月1日(木)15:30-/19:30- アトリエ・エスペース(大阪市)
テアトル・ガラシ「南☆十字路」(原題"Je.ja.l.an")公演。
伝統と現代、都市と裏通り、勝ち組と負け組など、東南アジアの都会を舞台にした葛藤・衝突・矛盾がテーマ。ダンスをベースにした身体表現と、様々なイメージを喚起する舞台装置による実験的現代演劇。
詳しくは「ジャワ舞踊の会」をご覧ください。


犬狼詩集

  9

ダイアンがカナリア諸島の話をしてくれた
彼女はポーランド生まれのユダヤ人
カナリアとベネスエラ(小ヴェネツィア)のあいだにはつねに
大洋を越えた人の往還があるせいで
広場から放射状に展開する町の構成は
どうも旧世界的ではないのだそうだ
その布陣は土地の人々の村にはじまり
教会がそれを踏襲し空間を制御しているの
なつかしさの名において語られる (nostos, nosotros, nuestra nostalgia)
初夏の午後五時の光が広場に射すとき
時間は驚くほどよく静止し
驚くほどよく新鮮だ
そこに遠い土地の知識をもって
風を撹拌するように燕がすらりと飛ぶ
しずかな広場には椰子の木々が植わり
私の瞼では南の雨が踊る


  10

「視線は梢をめざし指先は花をめざす
私たちの回心は寺院の回廊をめぐる」
愛らしいほど無愛想なロバにまたがり
山のごつごつした稜線を行きながら
文字に書き留められることのない思考を試すのが
その夏までの日課だった
人の生涯は短い、よろこびも悲しみも短い
大陸が卵の殻のように割れまたひとつになり
地軸が傾き磁極が反転する時間は想像がつかないけれど
それでもときどき降るように
別の時間がやってくることがある
みるみるうちに子猫が大きく育ち
みるみるうちに雲が空をわたる
海流の温度が刻々と変わり星座と鳥が落下する
私はロバの背中から手をふり
まだ受胎されないきみに挨拶する


アルビルでワールドカップ

ワールドカップで、日本が決勝リーグに進むことになった。おかげで、僕はイラクで、日本を応援することに。異国の人々の反応はどのようなものだろう。

北イラクのアルビル国際空港に到着すると、現場の加藤さんが出迎えてくれた。
「どうです。盛り上がりは?」
「それがすごくて、僕は見てないのですが、クルドの友達からたくさんおめでとうの電話がかかってきてすごい盛り上げってますよ」

日本とは異なり、それほどいろんなスポーツを楽しむわけではなく、サッカーの盛り上がりは格別なのだ。そんな様子を見ようと、早速アンカワという場所にあるカフェに行くことにした。この一角は、キリスト教徒が多く住んでいる町で、イラク復興の盛り上がりとともに、外国人にも住みやすいところで、彼らを目当てにした怪しげなバーなどもあるらしい。

こちらの新聞には、外国人の労働者を25%以内に抑えて、クルド人の雇用を増やすという行政措置がとられようとしているらしく、インド人や、中国人が活発にビジネスをしており、中華料理屋にいくと、若い中国人のお嬢さんだけでなく、エチオピアからも女の子が働きに来ているのだ。イラクといえば、日本では、危ない国と思われているが、世界はたくましく生きている。

さて、カフェは、「ワールドカップ放映中」と看板が出ているにもかかわらず、ほとんど人がいなかった。日本とパラグアイというどちらも遠い国の試合とあってか関心がないのだろう。あるいは、皆、家でTVを見ているのだろうか?

昔は、ワールドカップの試合は、TVはただで見られたのだが、ここ中東では、放映権の問題で、お金を払わないと見られない。ヨルダンでも100ドルほど払わなくてはいけないから、貧しい人たちの関心はどんどん薄れていく。タクシードライバーに聞いても、「サッカーねぇ、仕事があるからなあ」とあまりのってこないのだ。

時間があって金のない人たちは、カフェやパブリックスペースに見に来るので、それなりに盛り上がっている。しかし、イラクはまだ国が安定しないから何でもあり。地方に乱立したTV局が勝手に映像を流しているらしい。だから、みんな家族でゲームを楽しんでいるのだろう。

日本とパラグアイの試合は白熱し、両者一歩も譲らず、延長に入ってもゴールが決まらず、PK合戦にもつれ込んだ。パラグアイ、日本と一本ずつきめ固唾を呑んで見守っている瞬間、映像が落ちた!

え! 実は、今回このような事が良くあるらしく、放映しているアルジャジーラによると、誰かが妨害しているというのだ。確かに、いいところで切れてしまうと民衆の不満が爆発し、その矛先が政府に向けられると、政権崩壊もありうるわけだ。

サッカーの力は、我々の想像を超えている。「神のみぞ知る」世界なのかもしれないな。映像が復活したとき、日本は、敗れた。加藤さんの電話もならなかった。さびしい夏が始まった。


インタビューの「あとがき」

片岡義男さんをインタビューした喫茶店をひとりで再訪する。
誰もいない席を前に、5回に渡ってお話を聞いた時間について考える。

今回のインタビューは、1960年から1990年までの30年間を、片岡さんの話をたよりに振り返ってみたいという思いがきっかけだった。片岡さんなら、その時代を一番よく知っているような気がしたからだ。片岡さんが語るエピソードと共に、その時代を記憶しなおしてみたかったのだと思う。

5回のインタビューを通して、その願いはかなえなれたのか? 残念ながら、失敗に終わってしまったと言わざるを得ない。
インタビューでたびたび、片岡さんは「わからない」と答えた。
「ほとんど意識していなくても文章の端々に出てくることについては、自覚していないからわからないのです。」この言葉が決定的だった。あの時代はこういう時代だったと、あとから意味づけて単純に語るような事は決してなかった。まして、「貴重な証言」など全くなかった。それが当然なのだと思う。そもそも「時代」など人から切り離されてどこかに浮かんでいるものではない。

片岡さんは現在、岩波の「図書」にエッセイを連載している。そこで、作家としてスタートした頃のことを振り返っている。片岡さんの生き方を成り立たせることを可能にした時代について考えをめぐらせているようだ。時代の事について聞きたいのか、片岡さんのことについて聞きたいのか、インタビューではどっちつかずのままにたどり着けなかった場所に、片岡さんの思考が伸びている。


夜のギター話し

ある夜 終電で家へ帰る 時刻00:15
駅を降りるとギターの音が聞こえる
家は逆なので普段はそちらの方向へ帰らないが その日は自転車を別のところへとめたので 音のする方へ歩み寄る
「お?君は・・・」
知っている男だ 少しだけ
何してるの? 何でここで弾いてるの?

「俺、今ブルーなんです、実は最近生活に困っていて、明日このギターを売りに行きます、だから 今ここで弾きおさめしていたんです」

そうか ギター売るのか
「そう 一人暮らしするんで 色々必要なんです」
大変なんだね

ついでにちょっと弾いてみる 
ぽろろん ぽろろん がががががー

ここで見回りの警察が登場
「ちょっと君たち何してるの? へ?、ギター弾くんだ、ちょっとアルハンブラの想い出を弾いみてよ」
仕方ねーなー
てぃーらーたーらーたー、てぃーらーたーたーりーたー(音楽)
「い〜ね〜、クラシックギターはいいよねー。俺もギター弾くんだ 結構いい値段のマーチン持ってる。でも忙しいし 家庭があるからもうあまり弾けないんだよ、でも弾きたいんだよな。」

別に家庭があってもギターなんて弾けますよ それが趣味ってもんでしょおまわりさん

「そうかー そうだな、またやろうかな。じゃあもう遅いから 家に帰りなさい、あまり夜中にここにいてもらうとよくないからさ」
それを言うために アルハンブラの想い出を弾かせた おまわりさん


まだ初々しい夏至の夜に

百日紅の
花房散り敷く
しっとり湿った土のうえを
それが道というなら
道を
きみは歩く
ほの暗い
十九の夏の夜に向かって

どこへ誘われるのか
知らぬままに
知りたいと思わない
慢心の一瞬を嫌悪しながら
ひりつく舌で
在ることの
苦味を
かすかに確かめながら

それからというもの
憧憬の砂塵へはげしく突っ込み
未練の岩をまたいで
太古から枯れない涙の湖を見渡し
屍の大河をながめて
球体のファンタジーに
☆をちりばめ
飴色の知の光を追いかけ
こまやかな人間の移ろいは避けて通り
それでいて
ひとりよがりの
喜悦の滝に打たれることはない

かくして
まるはだかの
十九の夏の夜に向かって
湿った土の
それが道というなら
道を たどる
百日紅の花房とじて
いまも十九と変わらない
きみがいる
まだ 初々しい
夏至の夜に


製本かい摘みましては(61)

(前回より続く)
東京製本倶楽部のお誘いで姫路に皮革工場を訪ねた日、午後になって雨脚が強くなった。昼ご飯を食べた店の前は一方通行、広い通りまで駆け足してタクシーをひろう。分乗して新敏製革所へ。姫路に伝わる白鞣しについて、社長の新田眞大さんに話を聞くのだ。川沿いの道をどんどん行くと3階建てくらいの無骨な建物が見えてきた。看板はないけれど、中をのぞくと午前中に(株)山陽で見たドラムが静かに回っている。がらんとしたその奥には天井から白い革が数枚ぶらさがっている。右手には真新しいドラムがあって、突起など中の構造がよく見える。なるほど、こんなふうになっていたのか。この突起の形も試行錯誤があるのだろうな......など勝手に見ているが人の姿がない。こんにちわーこんにちわー。いずこからか新田さんが現れて、さあどうぞと階上にお招きいただく。外観からは想像しがたいウッディな小部屋、白鞣し革で作った鞄やブーツや、革をキャンバスにしたアート作品が並んでいる。奥は工房だろうか。

新田さんは製革業を営むいっぽうで、失われつつあった従来の白鞣しを保存研究するために、2000年に地元の元職人さんたちと「姫路白鞣し保存会」を立ち上げた。今はその技術を自らに獲得することに集中していて、工場はお一人で守っているそうなのだ。保存会を作るきっかけになったのは、同年5月にドイツから自治省に届いた手紙。100年前にドイツの製革専門家が姫路の白鞣しの技術を調査した記録を読んだというロイトリンゲン皮革研究所鞣し技術学校のモーグ校長からのもので、「環境保護からみて先例のないこの白鞣しの技術を保存するべきだ」とあったという。白鞣しは印伝などと同じ油鞣しで、用いるのは塩と菜種油のみ。手紙が届いたころすでに姫路市内でこの技術を持つ人は一人しかおらず、工程が分業されていたこともあって散り散りになっていた情報を保存会がなんとか集めて再現し、2年後には革の展示会に出展するなどして保存研究につとめている。

「白鞣し」なんて知らなかった。姫路のお土産品の白地に小花が描かれた財布が思い浮かぶくらいで、地の白について考えたことがない。聞かれれば、白く染めてるんじゃない?と答えただろう。そうではない。この方法でなめすと白くなるのだという。「漂白の技術ということですか?」「違う違う、革が白いんです」「......」。この日午前中に見たクロムとタンニンの鞣しはそれぞれ溶剤の色に染まっていたから、それが何もないとすれば皮そのものの色があらわれるというのはわかる。でもそれが白なのか。せいぜい肌色とかベージュとか、そんなような色ではないのか。実際の白鞣し革はとろりとした白さがあって、乳白色といっていいだろう。新田さんに「ミルクの匂いがするでしょう」と言われればそんな気もする。野球のボールに使われていたこともあり、「白球」とはこの革の白さに由来するらしい。竹刀に使われている白い革もこれ。自分の手の甲の皮を見る。色が白いね、と言われるけれど、白ではない。この皮も、白鞣しすれば白くなるのか――。

ビデオで製法を見せていただく。まず、原皮の周囲に紐を通して川の水に漬け、毛根に発生する酵素で脱毛をうながす。漬ける日数は気候によって4〜12日、短くては毛が抜けないし、長くては皮が腐ってしまう。ほどよく見計らって河原にあげて天日で乾かし、かまぼこ状の道具の上に広げて毛を抜く。皮の裏の脂と毛根をかきとって塩をもみこむ。そのあと、乾かしたり濡らしたり菜種油を塗りこんだり、膝やかかとや手やヘラで伸ばすことを繰り返し、原皮からおよそ3カ月でやっと仕上がる。牛1頭分の皮を鞣すのに用いるのは菜種油がグラス1杯、塩は両手いっぱい程度。塩や菜種油を中央に置いて皮で包み込むしぐさはパイ生地にバターを練りこむようでもある。皮が徐々に白みを帯びてゆくのは確かに漂白ではなく、毛穴を押し広げてはそこにひそむあらゆる雑味を抜いてゆくことなのかなと思う。ビデオが終わる。外は雨。昼よりもさらに激しくなっている。新田さんが言う。「晴れた日のほうが白鞣しの革はより白い」。そして、革を手にとりちょっとくすんだ部分を両手でもむ。「もめば白くなります」。ほんとうなのだ。

この日の午前中、タンニン鞣しが30〜40日もかかると聞いて驚いた。でも皮の鞣しをはじめて見たのに、いきなり「30〜40日もかかる!」と驚くのはおかしな話だ。その前にたまたま見たクロム鞣しと比べたら時間はかかっているということで、そしてそれが値段に反映するのを想像できたというだけのことだろう。午後にビデオで見た白鞣しの工程では、かかとや膝や両手をぐっと突き出し全身の力を込めて皮を伸ばす作業が1日8時間、それがおよそ50回繰り返されると説明があった。数字としての時間の長さもさることながら、牛1頭の皮を革にしていく人1人ずつの体力とその動きに圧倒されてしまった。なにもこんなに白くなるまで丹念に鞣さなくてもいいのではないか、ほどよく柔らかくなったところでやめたっていいのではないか、そう思わせる強烈な迫力に満ちていたのだ。

この方法は越前や出雲経由で大陸から4〜5世紀ころに姫路に伝わり、日照時間が長くて温暖で風通しもよく、きれいな水に恵まれた高木地区(新田さんの工場のあるところ)に定着したようだ。地域を流れる市川という川がことに適していて、同じ姫路の龍野地区を流れる川では発酵が進みすぎて向かない(こちらでは醤油が有名)という。市川の河原は40年くらい前まで草1本なかったそうだ。農業のかたわら製革業に携わる人たちが作業をする場所として、常に掃除をしていたからだ。明治4年にドイツから製革の技術者が和歌山に招かれて植物タンニン伝習所が作られたのが日本におけるタンニン鞣しの始まりで、姫路はその下請けとして製革業に携わる人が増えたという。白鞣しも戦後は化学薬品を用いるようになったそうである。新田さんは従来の白鞣しの手法を再現したうえで、川の水を場内にひいたりドラムを用いるなど現代にみあった改良を重ねている。またもともと白鞣しは牛皮であったが、鹿皮もやられているようだ。「技術はまだまだ」と、自分に厳しい。最後に新田さんが鞣した牛革を見せていただく。重たい。なにしろまるまる牛1頭分だ。なかほどに小さな汚れがある。「なんだと思う? 血ですよ、僕の」。執拗に繰り返される強烈な手もみの痕。白鞣しとは格闘技なのであった。(この項おわり)


しもた屋之噺(103)

数日前に夏休みで日本に戻った家人や5歳の息子と、普段なら晩御飯を食べ終わるのが午後8時前。外は夕暮れにすらならなくて、階下で家人が子供を風呂に入れたりしていると、食卓のベンチに寝転んで思わず空を見上げます。抜けるような深い青空に、薄い綿菓子のような雲が幾筋か棚引いていて、目を凝らしつつどこまで地球なのだろうと考えます。重力がなくなれば、あの深い空に真っ逆さまに落ちてゆくのかと思うと、こちらが雲の上にいる錯覚を覚えて、空が深く碧い海にも見えてきます。

今月はずっと家で仕事をしていましたから、子供が風呂から上がって寝る前に、ベッドで一緒に物語を読むのが常でした。日本語の絵本は沢山ありますが、イタリア語のレパートリーは少なくて、決まって三匹の子豚かヘンゼルとグレーテルをせがまれました。ヘンゼルとグレーテルの父親が森に子供を捨てる下りは読んでいて気分が悪くなるのですが、それでも飽きずにどうしても、とせがむのです。

庭で芝刈りをしていると、その息子に何気なく、どうしてせっかく咲いた花を刈ってしまうのかと聞かれ、答えに窮すこともありました。確かに芝の雑草を抜いていると、無心で懸命に生える雑草が哀れに思えることがあります。先生の方針なのか、息子の通う幼稚園では絵を良く書いていて、朝起きるとそのまま机に向かって一人でせっせとペンを走らせていて、親よりよほど創作意欲が旺盛なのです。花をたくさん書くようになったと思っていると、春先から、庭の芝生や大木を描くようになりました。

息子が一足先に日本に帰ってしまったので、彼がこの一年創作した絵やイヴェントの写真を幼稚園から受け取ってきました。家に着いて中を覗くと、今年一年の作品を集めたバインダーの表紙は、自分で切り絵とペン書きを組合わせて作った庭の大木で、今も目の前に見えていますが、毎朝目を覚ますとまっさきに目に飛び込んでくるこの木が、幼い息子にはどんな風に映っているのだろうかと思います。

バインダーをめくると、ヘンゼルとグレーテルの話が出てきて、自らお菓子の家と兄妹二人の絵を描いていました。ヘンゼルとグレーテルばかりをせがんだのは、こんな伏線があったからで、どうして読みたいのかと聞いても、ただ面白いからとそっけなく答えていたのは、学校のことを説明するのが面倒だったのか、イタリア語が厄介だったのかわかりませんが、もっと読んでやれば良かったと省みたりします。

自分が五歳の頃、父とどう接していたのだろう。電車で漢字の書きっこをしていたのは覚えているけれど、こんな風に父親にも本を読んで貰っていたのだろうか。だとしたら、覚えていないのは少し悔しい気がします。父にはよく肩車してもらったけれど自分が息子に肩車をしてやった途端持病の眩暈が出て寝込んでしまったし、公園で一緒にシーソーをしただけで目が回ってしまうありさまですから、今も矍鑠としている父と比べるのにも無理があるのですが、その昔、父がいつも徹夜で働いているのを、子どもながら感心しつつ不思議にも思っていました。自分があんな風に働いたら倒れるのは確かなので、改めてそこまでして家族を養ってくれたことに感謝の念を新たにします。

アメリカから戻ったばかりの瀬尾さんと加藤くんからメールが届き、書き送ったばかりの4手の新作をこの短い時間で立派に仕上げて初演してきてくださったとのこと。仕事の遅い自分に愛想が尽きることもしばしばですが、にも関わらずこうして声をかけてくれる人がいるのだから、やはり頑張らなければと励まされる思いです。

この原稿を美恵さんに送ったら、来週から練習の始まる貰ったばかりのカザーレのチョムスキーによるトーク・オペラを読み始め、8月以降の譜読みと平行して日本に戻るまでにビエンナーレや松原先生、大井くんの新作に目処をつけることは、或いは出来ないかも知れないけれど、やれるところまでやらなければいけない。子供が色砂で書いた太陽のような明るいひまわりの絵を机に飾って、シャワーを浴びてこようと思います。

親子はこれから益々離れてゆくでしょう。あれから35年後、思いも及ばなかったミラノと東京という距離で暮らしているとしたら、35年経って自分が生きていたら、果たして息子とどれだけの距離があるのでしょう。この朝焼けでどこまでも透明な空を見上げながら、そんなことを思います。

(6月30日ミラノにて)


掠れ書き(2)

音楽が通りすぎた痕跡を紙の上で見通せるように、構造に還元し、それを生み出す方法を推測し、理論やシステムにまとめる。こんな分析には足りないものがある。

聞こえる音のなかから、いくつかの音のかたちをききとる。それらの音を指先でなぞりながら、音のうごきを身体運動と内部感覚に移し替える。そのような経験からはじめて、そこからちがう軌道に踏み出してみる。停まりそうになったら、どこかにもどってやりなおす。このプロセスは即興でもあり、作曲でもある。即興はその場の聴き手の共感が感じられるあいだはつづく。聴いているひとたちの自発性が、じっさいはその即興に干渉し、その道筋をつけている。失速しないうちに、完結しないように、音を中断して、想像力だけがまだしばらくはうごきつづけて、どこともなく消えていくように誘うのはむつかしい。

作曲は、計画された即興とも言える。楽譜に書かれた音のかたちは、一定の意味や情報と言うよりは、さまざまに見えるインクのしみのようだ。演奏は一つの見かたにはちがいないが、それがまたさまざまな聞こえかたや聴きかたにひらかれている。聴き手の主体性をスペクタクルで惑わしたり、反復パターンで麻痺させれば、演奏は支配の道具になってしまう。聴くよりどころになる回帰するパターンは、筋感覚的運動イメージと同時に起こる。それは個人の内側のもの、一人称的表象と言われているらしいが、むしろ無人称の視覚像にならない感覚ではないだろうか。回帰はただの反復ではなく、もともと隠れていた逸脱の芽、わずかな歪みが、回帰のたびにちがう回路をひらくように仕組まれている、それはベンヤミンが書いていたカーペットの模様のほころび、あるいはラドクリフ=ブラウンの注目した籠の編み残した目、「魂の出入り口」。

楽譜は、何世紀もかけて洗練されてきた表記法だから、図形楽譜のような発明はなかなか共有されなかったし、すべてを最初から定義しなおす試みはわずらわしく、演奏者の自発的なうごきをさまたげる。だが、それらの記号の集まりは、5線記譜法の場合は18世紀的な合理主義を背景にしているし、日本の伝統的記譜法のようなものは、流派の排他的な符牒だったりする。精密に書こうとすれば、思わぬところで過去の音楽の構造に囚われるだろう。まったく新しい発明もできないし、そのまま受け入れることもできず、部分的につけたすのも有効でないならば、逆に、記号の有機的関連を断ち切り、粗いが繊細に使える表記法をくふうしてみる。粗さは要素の数がすくなく、まばらだが記号の適用範囲が一定でなく、領域があいまいで、配置によってちがって見えるような状態、繊細さは思うままにうごくのではなく、うごいている波の合間に現れる足掛りを伝って、落ちないように渡っていく、細く、いまにも切れそうな蜘蛛の糸、夢にあらわれる小径のように、どことなく見覚えがあるが、ここには二度ともどれない予感を手放さずに、一歩ごとに辿る足元から崩れていく、一歩ごとに前の一歩を忘れていく石庭の風景。見られているのを意識しながら回しつづけるネズミ車。