2007年9月号 目次
がやがやのうた | 三橋圭介 |
音の遊び またはある夏の夜の夢 または遊び過ぎの懺悔 | 大野晋 |
己が姿を確かめること その1 鏡を使うこと | 冨岡三智 |
イブラヒムがやってきた | さとうまき |
メキシコ便り1 | 金野広美 |
旧盆 | 仲宗根浩 |
しもた屋之噺(69) | 杉山洋一 |
写真――(翠の虱35) | 藤井貞和 |
ふたたびどこへ | 高橋悠治 |
がやがやのうた
グループ「がやがや」と港大尋の「がやがやのうた」CD制作、ここに至るまでいろいろなことがあった。だからがやがやは今でもがやがやと騒がしい。しかしそれでもCDは期日までに完成した。8月26日のライヴも成功した。そしていよいよ発売。それに伴って、いろいろな人にCDをきいてもらい、感想や批評などを書いてもらうことにした。がやがやに参加しているデザイン担当者、演奏に参加してくれたバンドマン、知り合いの評論家、そして全く面識もなかったのにCDを送りつけて書いてもらった哲学者、評論家。それぞれの場所から「がやがやのうた」とどう関わり、どう感じたかを書いてもらった。その内容については原稿を読んで判断してください。でもかなり変なCDができたことだけは確かで、それが誇りでもあります。前に高橋悠治が「下手なものはカネでは買えない」といっていた。でも、これはきちんと買えます。どうぞよろしく。
音の遊び またはある夏の夜の夢 または遊び過ぎの懺悔
興にいるとどうも度が過ぎるというか、のめり込みすぎるけがある。今年の夏はコンサートにのめり込んでいってしまった。面白いのだが、なぜか、しんどい日々。その短い記録である。
某月28日 東京芸術劇場
Y響でメシアン「われらが主 イエス・キリストの変容」を聴く。
メシアンはなかなかない演目。まあ、難しいと言えば難しいからか。なかなか面白かった。
しかし、このときには、この公演がこれから続く1ヶ月の序章だとは気がつかなかった。
某月9日 東京芸術劇場
F管が来日。指揮者はインバル。なんか暇だなあ、と公演日程を見ていたら当日券があったのでなんとなく聴きにいく。
どうやら、東京芸術劇場の開館?周年記念らしいのだが、空席が多い。時期が悪いと言うか、なんというか。芸術劇場の開館時にF管の演奏でこけら落としをしたそうだが、指揮者のインバルは来年から都響のポストが決まったばかり、すぐに12月に来日し、マーラーを2プログラム、年末のベートーヴェンの第9まで振っていく。あまり指揮者にプレミア性がないためか? まあ、オケも花がないといえば、花がない。そこがすごいと言えばいえないこともないのだろうが、ううむ。わざわざ外タレを呼ぶような公演だったかどうか? 12月の都響に期待しよう。しかし、インバル。しっかり、拍手に応えるフリをしてしっかり女性歌手の肩を抱いているあたりはさすが。やはり、女好きの噂は本当か?
某月10日 紀尾井ホール
きょうもぱらぱらと日程を見ていたら、ファジル・サイの来日公演を発見。明日、初めて紀尾井ホールに行く前に下見にしようと急遽、チケットを入手。
雨がしとしとと降っている中、上智大学の隣まで。
はじめてみる紀尾井ホールは中小規模のいいホール。ステージの真ん中にピアノ。
ファジル・サイは比較的弾き方などは無頓着に、ピアノを壊さんばかりに様々な音を出していく。まさに、音で遊んでいる感じ。音楽を聴いたというよりも、面白いパフォーマンスを見たなという感じがした。
帰りもまた雨。
某月11日 紀尾井ホール
きょうは高橋悠治を聴きにいく。
ホールに着くと、ピアノの調律中。なぜ調律が必要になっているのか、昨日のコンサートを見ているのでなんとなくおかしい。サイ、さては壊したな!
なぜ、高橋悠治なのか? というとさして理由はない。あえて理由をつければ、最近、2枚出たヴァイオリンソナタの伴奏がよかったとか、新譜が気に入ったとか、そんなところか。
コンサートは終始、ご本人の曲の紹介で進んでいく。特に休憩後のジェルジは付箋紙がびっちりついた楽譜を持って登場し、ひとつひとつ紹介しながら短いフレーズを弾いていく。まあ、紹介しないとわからないが、紹介されても短すぎて聴き入る暇もない。そう、音の遊びと言った感じの曲たちだ。あ。だから、タイトルがヤーテーコク(遊び)なのか。
帰りながら、心の片隅で音たちが遊び続けている感じがしていた。
某月12日 横浜みなとみらいホール
ダグラス・リードのパイプオルガンコンサート。
なんのことはない。単にいつも見ているだけのパイプオルガンの音が聴いてみたかっただけ。バッハから現代音楽までバラエティに富んだ曲はなかなか聞き応え十分。ただし、さすがにコンサートも連荘になると疲れてきて、一部睡眠モードの入ろうとする。パイプオルガンを聴いているとそのまま天国に行きそうになる。スリル満点。ルーシーちゃん。ばんざい。(ルーシーはみなとみらいホールのオルガンの愛称)
某月13日 東京オペラシティ
Nフィルの定期公演。指揮は立ち姿がおちゃめな広上淳一。ハイドン、モーツァルトの交響曲とプロコフィエフのチェロコンをなぜ聴こうとと思ったのかはなぞ。チケットがあったので、義務的にホールに向かう。さすがに1週間、毎日は疲れが溜まる。面白いだけに困ったものだ。
演奏はかなり楽しめたし、広上の演歌っぽいジェスチャーも見えてかなり満足。
プロコフィエフを弾いた中国のチェリスト趙静の音はどこか二胡を思い起こすような音がした。
ははは。明日は土曜日。なぜか、会社は休みだがコンサートは出勤日。
某月14日 東京芸術劇場
都響の特別公演。芸術劇場シリーズでオール・ドヴォルザークをチェコの指揮者スワロスキーで聴く。
さすがにお国の音楽、手馴れた感じ。特に後半の交響曲7番は好きな曲だがなかなか演奏会にはかからない。とても満足したが、さすがに疲れた。しかし、F管をわざわざイギリスから呼ぶなら都響でいいのに。
某月17日 紀尾井ホール
久しぶりの紀尾井ホール。たしか、前回来たのは先週か?
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルオーケストラのベートーヴェン。
紀尾井ホールの舞台にオーケストラが乗るか心配だったが、小編成のオーケストラなので乗ってしまった。しかも、ピアノコンチェルトをするのでピアノまで乗ってしまうところがなんといいますか。。。
はじめからノリノリのコンサート。まるでクラシックじゃないみたいですが、これもクラシック。コンサート後にサイン会でしっかりとサインを頂いて帰る。大満足。
某月20日 横浜みなとみらいホール
火曜日と同じく、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルオーケストラのベートーヴェン。本日は4番と7番。オーケストラだけ。
会場で来年は、パーヴォはフランクフルト放送響と来日するとの告知。あ。来日ではなく、来浜して、ブラームス全曲の演奏会だそうな。なぜか、横浜の客とは仲がいい。客が満席にならなくても、一緒に楽しんでいる感じがいいのだろう。今年、というか、最近ないようなクラシック好きと演奏家の楽しい音楽の時間を共有できた感じがした。やはり余韻も音楽。演奏中の無音の時間も音楽。
演奏後、観客で指揮者を拍手で呼び出しながらコミュニケーションを楽しんでいた。
来年、また、来よう。
某月25日 ミューザ川崎
きょうはT響。ミューザ川崎で行われるフェスタサマーミューザというイベントの開幕コンサート。
指揮はイタリア人のニコラ・ルイゾッティ。今、ヨーロッパで売り出し中のオペラ指揮者とのこと。とにかく、なにを振っても楽しく出来ることが特技。ラテンの血のなす技か?ぜひぜひ、どこのオケでもいいが招聘して、お得意のイタリアオペラの序曲などを振ってもらいたいと特に思った。
たのしい。
某月26日 東京オペラシティ
Tシティフィルって、略した意味ない?
惑星が聞きたくて、飯森泰次郎指揮のコンサートに。
まず、パンフレットをもらってびっくり。こと細かく、コンサートでの注意が書かれている紙が封入されていた。
ここまでマナーが悪くなっているのか、と思って座ると前席に小学生くらいの女の子と祖父母らしき観客。おっと、と思っているとなにやらもじょもじょとコンサート中、落ち着かなく、話したり、いすをゴトゴトと音を出したり。いやはや。マイッタ。
急遽、次の日の川崎での同じ演目のコンサートに行くことにする。
某月27日 ミューザ川崎
Tシティフィルで惑星。指揮は変わらず、飯森泰次郎。
これで今月のコンサートもお終い。来月もオケの定期演奏会はなし。でも、臨時の演奏会にちょろちょろ行く予定。しかし、毎日のように演奏会通いをしてしまうと疲れてしまうのを発見。結局、それでストレスをためてもしょうがないので、ほどほどがいいってことでしょう。
ホルストの惑星って、パイプオルガンが加わっているのを昨日発見。あの金属音って、オルガンだったのね。
そして、次の月も、その次の月も適当に続く。
己が姿を確かめること その1 鏡を使うこと
伝統舞踊の稽古で鏡を使うのは良くない、とはよく言われることである。ジャワ舞踊でも鏡を使う習慣はない。そのことに私は基本的には賛成しているが、では私は鏡を使わないのかと言えば、使う。鏡も使いようだと思うのだ。
まだ留学してきたばかりの頃の私は、いくら鏡に自分を映して見ても、自分の動きのどこが悪いのか、師匠との動きの差がどこにあるのか、実はさっぱり分からなかった。
私がメインとする女性舞踊の場合は、師匠の振りを見て倣うという、昔風のやり方で稽古をしていた。それがある程度進んでから、今度は芸大の先生についてアルス(男性舞踊優形)の稽古も始めた。この先生は、当時決まって、鏡がずらりと並ぶ舞踊科の化粧室で稽古をつけてくれた。それは鏡があるからという理由でなく、別の理由からなのだが、この先生にある時、「いま、鏡を見てごらん」といわれたのである。
鏡には先生と私が並んで映っている。その時に初めて、先生のとっているポーズと私のポーズとの出来具合の差が自覚された。自分1人の姿をいくら鏡で見ても客観的に眺めることができなかったけれど、比較対象者と一緒に鏡に映りこむと、彼此の差がある程度客観的に分かるのだ。それ以降、目の前にいる先生の動きを確かめつつ、鏡もちらっと見て先生と自分の動きの差を確かめてみるということをやっていくと、自分1人を鏡に映していても、その横に比較者の存在をイメージすることができるようになって、自分のできていない部分が次第に、ある程度自覚できるようになった。
芸大の授業では、下手な生徒も上手な生徒も一斉に踊る。これを見ることができたのは有益だった。初心の段階では、上手な人が踊っているのを見てもその上手さはよく分からないし、また下手な人の下手さ加減も分かりにくい。けれど両者が一緒に踊るのを見れば、両者の差が見えてくる。そして自分のレベルが上がっていくと、横に比較対照者がいなくても、自然と目の前にいる1人の踊り手のレベルがどの程度か判断ができるようになる。
鏡に映した場合も、そんな風に見ることができればよいのだ。ただ自分だけに魅入ってしまうと、それは自己陶酔になってしまう。だが、そうならないためにどう鏡を使うのか、あるいは鏡を使わないのか、ということを考えてみるのは、有益なことのように思う。
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その数年後の2度目の留学の時、今度はアルスでもウィレンと呼ばれる宮廷舞踊を習っていた。これは2人の踊り手が向き合って同じ振付をシンメトリに踊るという種類のものである。その練習を、鏡のある部屋で1人でやっていて気づいたのだが、鏡があると、1人で練習していても、相手がいるように見える。ウィレンではいつも相手と対称に位置する。向き合ったり、背中合わせだったり、右肩/左肩あわせの位置だったりする。鏡だと左右反転してしまうが、それでも鏡の向こうに自分と同じ動きをしている人がいて、まるで2人で練習しているかのように錯覚してしまう。
ウィレンでは2人が対照的に踊っているけれど、これは1人の人間を2つの違う次元から眺めただけではないか。2人で踊っているけれど、本質は1人で踊っていることと変わりないのではないか、と気づいた。さらに言えば、4人で同じ振付をシンメトリに舞うスリンピ(舞楽のような舞踊)もまた、やはり1人の人間を4つの次元から眺めた姿をそれぞれに描いているのだろう、と思っている。
そう気づいてからは、私はウィレンやスリンピを鏡のある部屋で積極的に練習するようになった。しかし、あえて鏡をのぞき込むことはしない。そもそも踊っているときに相手の方ばかりを向くことはないのだし、鏡に背を向けることだってある。重要なのは、鏡に映っている自分自身の姿を見ることではない。鏡の向こうに次元の異なる、しかし一続きの空間が広がっていると知覚すること、そして鏡の向こうに自分を客観的に見ている誰か(ここでは自分、実際の舞踊であれば相手方、ひいては神)がいるという気配を感じること、なのだ。
私はよく自分の背後に鏡を置いて舞踊の稽古をする。鏡の方は向かない。世阿弥の離見の見というのは、背後からでも自分の姿を確かめることができるような境地を言っていたような気がするが(手元に本がないので確認できない)、自分の背後を知覚しようとする意識状態を作るのに、鏡も1つの助けとなるような気がする。
イブラヒムがやってきた
とうとうイブラヒムがバスラからやってきた。8月6日に日本に到着してから、各地をツアーで回っている。東京、大阪、広島、徳島、長崎、久留米、宮崎、横浜、札幌、旭川と回ってきた。残り後10日。35日間のツアーだ。
このツアーの目的は、支援が一番必要なのにイラクの報道が少なくなって、支援が集まらないから、イブラヒムに、呼びかけてもらおうというわけ。
そして、2番目の目的は、イラクといえば、戦争とかテロのイメージばかりになってしまい、怖い国のこわーい人みたいになっていることを覆したいことだ。そういう偏見が戦争してもいいという気持ちを作る。
そして、3番目は、エネルギー問題。石油埋蔵量世界2位の国であるイラクは、大国に翻弄されてきた。石油欲しさに戦争するのなら、エネルギーの節約が戦争に頼らない生き方。そこで、今年の夏は、このツアー中冷房をとめて、超自然エネルギーに頼ろうという試み。つまりは、冷房の代わりにうちわを使おうということで、イブラヒムがバスラでいつも使っているというやしの葉っぱから作ったうちわを持ってきてもらった。
1、2はなんとか成功している。イブラヒムは、茶目っ気たっぷりで、日本語を話したり、日本語の歌を歌ってすっかり人気者だ。「あしーたがある。あしーたがある、あしーたがあーるーさー」音痴なのがまた愛嬌がある。でも、本当にイラクに明日があるのだろうか? このツアー中に、イブラヒムの親友の患者の父が、爆弾テロに巻き込まれてしまった。イブラヒムにだって明日があるのかわからない。生き残れるのは運がいいか悪いかだ。だから、ぼくは、イブラヒムの音痴なうたを聞いてるとなんだか悲しくなってしまうのだ。
そして、3番目。これは、もう今年の夏の暑さといったら。イブラヒムの国では、気温が55度を超えているのに、電気が一日2時間しか来なくて、うちわが大活躍。ぼくたちもイブラヒムの真似をしよう。少しは暑いのを我慢してみようとしたのだが、肝心のイブラヒムが暑さでへばってしまい、「冷房、冷房」と騒ぎ出す。日本の蒸し暑さには耐えられないようだ。
夜、少し涼しくなったかなとおもって窓を開けると隣の家のクーラーのファンから暑い空気がながれてくる。ますます、地球は暑くなっていく。
さて、そんなイブラヒムとの35日間もあとわずか。
一般講演は、9月1日、2日、4日のみとなりました。
詳しくは http://www.jim-net.net/notice/07/notice070712.html
メキシコ便り1
お久しぶりですが、お元気ですか。
私はこちらに来てはや2週間がすぎました。ここは2200メートル余りの高地にあるため、頭痛が続き、着いて2、3日は眠ってばかりいましたが、最近はすっかりここでの生活にも慣れてきました。
私の住んでいるのはメキシコシティーの中心街でとてもにぎやかなところです。
着いた時は、お祭りでもあるのだろうかと思ったほどたくさんの屋台が所せましと出て、タコスや服、CD、DVD屋が大音響で音楽をかけながら、商売をしていました。しかし、これはお祭りでもなんでもなく、日常の風景でした。地下鉄やバス、市場、観光地など人の多いところに、テントをはっただけの屋台があふれているのでした。人々はよく食べ、よくしゃべり、いつも音楽にあわせ体を揺らせています。道路は車であふれ、信号は無視され、人々は止まった車の間をすいすいとぬけていきます。そして、土曜、日曜ともなると、公園ではマリアッチの楽団の演奏にあわせて、老若男女がダンスを楽しんでいます。ここは、働いている時以外はいつもお祭り状態の街です。
3日前には、世界遺産にもなっているグアナファトに小旅行してきました。ここは昔銀山で栄えた街で1810年スペインからの独立運動の始まったところでもあります。街中に張り巡らされた地下水道が、今では道路として使われバスやタクシーなどが走り、歩道もありすっかり生活道として定着している珍しいところです。街には色とりどりの家があふれ、とても楽しい気分にしてくれます。ここもまた、金曜の夜から日曜にかけては、音楽にあふれた街になります。私がこの街に着いたのがちょうど金曜の夕方。広場ではコンサートが始まっていました。ギター、マンドリン、ウッドベースをかかえた12人の男たちがセレナーデを演奏し、そのそばではおばあちゃんが踊っています。30分も演奏すると、彼らが、ちょうど鳥が尾を上にたてたような瀬戸物の容器にワインを入れ50ペソ(日本円で約500円)で売り出しました。CDを売るならともかく、いったい何なのだと思っていると、彼らは演奏しながら歩き出し、客は手に手にその容器を持って、彼らの後をついていきます。そして、迷路のようになっている小道を、音楽を聴きながら、ワインを飲みながら移動していきます。それは昔、チンドン屋について行き、帰り道がわからなくなった遠い日々を思い出させる懐かしい出来事でした。
また、ここでは毎年10月に国際セルバンテスフェスティバルが開かれます。海外から多くの音楽家やダンサー、俳優がやってきて、芝居やコンサートが約1ヶ月にわたって催されます。私もキューバの楽団、アルゼンチンタンゴ、メキシコのジャズとダンスの4枚のチケットをゲットしました。これだけ買っても8800円です。安いでしょ。バスで5時間かかりますが、何の苦もありません。
明日はフリーダ・カーロの展覧会が近くの国立芸術院宮殿で開かれるので行くつもりです。ここは総大理石でできていて、正面階段を上がると、四方がメキシコの壁画運動をになったリベラやシケイロス、オロスコ、タマヨらの壁画が迫ってくるギャラリーにもなっています。
このように、毎日メキシコ生活を満喫しております私ですが、来週の月曜からはいよいよ学校が始まるので、先生のスペイン語がさっぱりわからないという苦学の日々になると思います。
旧盆
八月十九日の朝、八時半頃電話がなる。実家から、今日お墓の掃除に十時に行くと。
すっかり忘れていました。旧暦の七夕はお墓の掃除をし、お花、お茶、お水をお供えしてお盆を迎える準備をするのです。こちらでお盆は、旧暦の八月十三日にお迎えをし十五日にお送りします(地域によっては十六日にお送りするところもあるようです)。お盆の三日間は親戚をまわり、お中元を仏壇にお供えし、手を合わせます。夜は離れて暮らす兄弟姉妹実家に集まり食事をしますので賑やかになります。今年はお盆の中日に姉ふたりが沖縄で一番有名な斎場御嶽(せーふぁうたき)にまだ行ったことがない、というので島の南部、久高島が見えるところまで行ってきました。わたしが以前行ったときとは少し違い、新しい道路が造られ、御嶽の前には建物ができ、市町村合併で市となって御嶽を含むいろいろな聖地が観光資源となり、それらを紹介するパンフレットが用意され、別料金でガイドの方もつけることができるようになってました。
帰りに通った国道五十八号は普天間基地でのイベントのため、それにに向かう車で上り、下りとも渋滞。やっと抜け沖縄市に入ると、今度はエイサーに遭遇。お盆の三日間、夜は各シマの青年会がエイサーで練り歩きます。太鼓、三線の音がどこからか聞こえて来て、音が近付くとそれをたよりに外に出て見物に出るひとたち。しかし最近は太鼓の音がうるさい、と苦情が出るそうで、練り歩くコースを変更したり、別のシマと遭遇したときの競い合いが無くなったりしてるそうです。せっかく御先祖様にむけた唄と踊り、太鼓の音なのに、生きている人の都合に合わせるのはどこも同じか。
ちなみに道を練り歩くのを「道ジュネー」、競い合いを「オーラセー」とか「ガーエー」とか言います。以前、ある青年会の何十周年かのお手伝いをしたとき、青年会 OB の方々が多数いらして昔はオーラセーが熱を帯び、エイサーのオーラセーではなく本当のオーラセーになったことも多々あったそうです。
しもた屋之噺(69)
まだ日本は暑さが厳しいようですが、ミラノは秋虫が鳴いて、朝晩はずいぶん涼しくなりました。7月まで雨が涸れ、周りの緑がすっかり萎びていたのが、8月に続いたスコールのおかげで、今ではすっかり青々と葉を伸ばし、目を楽しませてくれます。
一昨日までロヴァートのホールで、ジェルヴァゾーニのポートレートCDを録音していて、毎日のように空を見上げては、雲の美しさに見とれていました。気のせいか、かの地でその昔活躍したマンテーニャの筆致に、どことなく風景が似ていて、表現は豊かだけれども、息を呑むような視点で瞬間を切り出して見せるところがあり、録音の合間にも、窓の向こうの見事な色彩に、誰もが思わずため息を洩らしてしまう程でした。薄く色を変えて何層にも複雑に重なり合う尾根のシルエットから、飲み込まれそうに澄んだ蒼い空が溢れ返っていて、そのキャンバス一杯に、力強く積乱雲が吹き出しています。そうして、日が暮れるころには風景すべてが夕日に染まり、まばゆいばかりの黄金色に輝くのです。
ジェルヴァゾーニ作品は、時にとても悲痛に終わるのですが、録音の間、頭を過ぎったのは、目の前のこの燃え立つ夕陽でした。ここ数年、演奏や練習を繰り返しながら、自分なりのジェルヴァゾーニ観を形成してきた積もりでしたが、今回改めて楽譜と対峙してみて、また別の側面から彼の音楽にアプローチしたいと思いました。
数的につむがれた構造と、カスティリオーニのような無邪気さ、透明な音の繊細さが、劇的表現と共存していて、以前はそれらを主観的に捉えて演奏していたのを、今回は出来るだけ自分や演奏者から音楽を切り離し、音楽そのものが独自の空間を持てるよう腐心しました。
この前ジェルヴァゾーニ本人に会ったのは、パリ国立音楽院のピアノが3台置かれたレッスン室で、扉を開けるなり、引退したヌネシュから引継いだ生徒たちの楽譜を見せて、意見を求められました。印象に残っているのは、3台のピアノのうち、2台のグランドピアノは4分音ずらして調律してあり、1台の縦型ピアノは、16 分音で調律された特別なピアノで、傍らでジェルヴァゾーニが ひたすらパンを齧りながらレッスンしていて、他の練習室から聞こえてくる曲が、メシアンだったこと。
そんな中、彼がパリ音楽院教授職の最終面接にペッソンと二人残っている、と声をひそめて話してくれた時のことを思い出していました。今から2年近く前、ヴィオラのPと三人で入ったベルガモの小料理屋で、濃厚なロバ肉の煮込みと上質のポレンタを、土地の芳醇な赤ワインと一緒に食べていたこと。今回の録音の段取りなど、取留めもなく話していたこと。
今しがた受け取ったばかりの彼からの電子メールに、「根無し草のように45年暮らしてきた、こんな人生は満足よりむしろ苦労ばかりを強いるし、自分自身のアイデンティティまでも不安に晒すようだ。これから自分が何をすべきで、何をすべきでないか、よく見極めるべきところにいる」とありました。
ジェルヴァゾーニに特別な霊感を感じるのは、ソプラノなど声を使って作曲するときで、これは脱帽だと思う瞬間が何度もありました。そんな時、絶対的な彼の個性がこちらに剣の先を向けているのではなく、極度に研ぎ澄まされた感性だけが辺りを浮遊する感覚が纏わり付きます。詩から得た霊感を、個性で殺さず在るがまま活かしている、と説明も可能でしょうが、彼の流浪人生が培ってきた独特のしなやかさが、心の奥で叫ぶ悲痛な表現とともに嗅ぎ当てた、独自の空間が存在するのかもしれません。
音楽院で彼に会う前日、ルーヴル美術館で、ルネッサンスからバロックまで、イタリア絵画を中心に駈足で眺めてきました。一瞥して思ったのは、修復の趣味が本国イタリアと随分違って、ずっと鮮やかです。きらびやかなルーヴル宮では確かに見栄えがよいですが、いきなり着馴れぬ服で歩いているような感覚に囚われました。ダヴィンチはその中でも特に強烈な個性を放っていて、理知的に計算された構図に対し、中性的な人物表現と、凹凸を極力廃した神秘的な配色の妙から、追随するものを許さぬ孤高の芸術家の印象を受けます。人だかりの「モナリザ」より寧ろ、彼の他の作品をゆっくり見られたのは嬉しかった。
それから2週間ほど経って、ルーヴルを思い出しながらミラノで「最後の晩餐」を見て、ダヴィンチ独特の艶かしい中性表現は素晴らしいけれども、心底好きになれない何かがあるのを改めて思いました。完璧な表現の中、どこまでも冷徹に物体を眺める目を排除することができないのです。その冷静な視点は、眺める側の反応まで計算済みにすら感じられ、どことなく居心地が悪いと言えば良いでしょうか。
被写体を分析的に客体として捉え、瞬間を永遠化することに於いて、ダヴィンチにはきっと写真の才もあったに違いありません。彼がカメラを自在に操れたなら、一体どれほど個性的な写真を撮ったかと想像が膨らみます。
「最後の晩餐」に出かけた頃、フィレンツェから友人の写真家、メッサーナが拙宅を訪れました。彼は生まれつき脳の海馬に腫瘍があって、度々てんかんの発作を引き起こすので、8月23日に手術を受けることにした、と話してくれました。
てんかんの発作と一口に言っても色々で、彼の場合、視覚と聴覚、触覚の調整機能が一時的に働かなくなるのだそうです。視覚で言えば、今原稿を書いているパソコンを見ているとすれば、視覚の範囲のほかの部分は、見えてはいるが実際は見ていないはずです。聴覚で言えば、誰かが自分に話しかけているとすれば、他の音を聞かずに、意識的にその話しかけられている相手に耳を傾けます。その調整機能が10秒くらいの間麻痺してしまい、見えているもの全てが同じだけ目に入り、耳に入るもの全てが、同じだけ耳に入り、触感として感じるもの全てが同じだけ感じられるのです。
何も知らない人間からすると、この感覚はさぞ素晴らしいものだろうと想像しますが、感覚としては世界すべてが文字通り色めきたって迫ってくるようなものだそうで、素晴らしい体験であることは認めるが、問題はその感覚が10秒ほど続いた後、体力が途轍もなく落ちてしまうのです。周りには、発作中特に何の変化も見えないので、それまで元気だったのが突然だるくなり、何も手につかなくなる、というのは、日常生活に於いて、大きな負担だったのだそうです。
幸運にも、彼の海馬の腫瘍は、普段は使っていない部分に出来ているので、手術の危険度は比較的低く、それでも1割の確率で、記憶が消えてしまう可能性もあります。写真家として、瞬間を永遠に記憶させることを生業とするものにとって、なんと諧謔的な光景だろう、とピッツァを切りながら力なく笑いました。
「もし術後に会って、君が誰だか理解できなかったとしても、どうか気を悪くしないでくれたまえ」、そう自分に言聞かせるように言いました。
「自分で決めたらすっきりして、今のところ特に手術は怖くはないけれど、でも直前になれば急に恐ろしくなるに違いない」。
「今はアルツハイマーなどで、記憶を失いかけている人たちの苦しみがわかる。怖さもわかる。でも、もしかしてある日を境にぷっつりと人生が変わってしまう選択を自ら選ぶというのは、またそれとも少し違う。怖さよりも、快癒して健康に暮らせるという希望こそが、こうして僕の背を押しているのだから」。
そうだろうね、と相槌を打ったあと、
「とにかく大切なのは、元気でいることだと思う。もし君が僕のことを分からなかったとしても、写真はここに残っている。今までの僕と君との記録は、写真にすべて残っている。だから、僕らは初めて会ったときのように握手をして、新しい良き友人として付き合えばいいだけさ。心配なんていらない」。
写真――(翠の虱35)
友人を訪ねると、
迎え火のかどに立って、
われを手招きする。
閼伽棚(あかだな)の器をとって、
いっぱいの水をまくのだと、
友人の母ののたまわす。
(三好達治によれば、
夜るべに、
亡霊がきてそれを舐めるのだと。)
送り火となる町すじ、
家々をめぐって、
灯明を暗くする時間に。
友人が、
写真を見守(まも)りし、
60年のむかし。
(「かくばかりみにくき国となりたれば捧げし人のただに惜しまる」「国のため東亜のためとおとなしく別れし頃は若かりしかな」「さびしげに父の写真を見つめゐる吾子(あこ)に悔い起こる折檻ののち」『この果てに君ある如く―全国未亡人の短歌・手記―』1950より)
ふたたびどこへ
いつも対話のなかで 音楽はなりたっていた 対話の相手は武満 クセナキス ケージ マセダ 高田和子 みんないなくなってしまった ある日 こたえが還ってこないことに気づく それでも 生きつづけ まだ歩みつづけて どこへさまよっていくのか いつまでか
そういう時に 弓の弦は過去にむかって引き絞られ 矢はどことも知れぬ暗い空間に墜ちてゆく ふりかえり たどりなおし 古道に 気づかなかった小さな曲がりをみつけるために その曲がりこそ ルクレティウスがクリナメンと名づけた偶然のはたらく地点 理由のない変化をもたらし 世界をつくり つくりなおすきっかけ
ここに 少年時代の音楽の師であり 年月を経てふたたび友人となった柴田南雄のための文章がある すでに起こったことは 二度とおなじかたちでは起こらない それでも いくつかの臨界点をさぐりあて そこから 間道に逸れることができるかもしれない
「柴田南雄の軌跡」
柴田南雄に作曲を習ったのは1953年からの3年間、いま考えると短い年月の間に多くのことをまなんだのは、その時代は日本の現代音楽の転換期にあたったからかもしれない。一応の義務のように伝統機能和声をヒンデミットが整理した本で学ぶとすぐ、クルシェネックの12音対位法をテクストにして短い曲を作曲するレッスンと柴田が諸井三郎にまなんだ楽曲分析のレッスンがつづき、柴田と入野義朗が主催していた12音技法のセミナーにも誘われて参加していたし、NHKでの海外現代音楽の解説録音にも連れていってもらった。音列技法の日本への移入と、柴田と入野による作品初演までのプロセスに立ち会っていたことになる。
しばらく日本を離れて1972年にもどってから「トランソニック」グループを組織した時、柴田南雄は最年長のメンバーとなった。当時かれの活動は作曲よりも民族音楽学に向けられていた。音楽の骸骨や模式図と命名した日本の民俗芸能の旋律図式モデルによって、合唱と尺八のための『追分節考』を書いた時、かれは新しい道をひらいた。それまでのヨーロッパ中華思想で統一されていた前衛音楽は、ポストモダンの多文化に転換しつつあった。それは一時的な戦後民主主義時代が終わり、1968年の反権力世界革命をきっかけとして起こった社会の変化に対応する文化的表現と考えられるだろう。「トランソニック」は音楽の政治性をめぐっての武満徹と高橋悠治の対立から3年間で解体したが、柴田は林光や高橋とともに離脱する方向を選んだ。理由もその後の方向もちがっていたが、柴田の場合は世界音楽史への関心と同時代の音楽についての知識から、時代の転換の意識と、自分の立場と様式についての確信があったのだろう。
柴田南雄は第2次世界大戦中に自己形成した世代で、軍事体制下の民族主義や精神主義への反発から、立原道造の建築的叙情とマーラーのメタミュージックを一生の指針とすることになった。戦後は立原のテクストをヒンデミット的に抽象化された機能主義力学で音楽化した歌曲集『優しき歌』、1950年代後半には北園克衛のモダニズム詩と12音技法による『記号説』、そして1970年代以後は『追分節考』にはじまる合唱劇を多く書いた。
これらの合唱劇の特徴は、多様式、無名性、交換可能な部分の堆積による作品、芸能成立の場を追体験するプロセスとしての作品の身体性、対象様式からの距離と抽象化をともなう新古典主義あるいは擬古典主義、それにともなう反表現主義と乾いたユーモア、メタ音楽性つまり音楽についての音楽、と言えるだろうか。多くの場合、アマチュア合唱団によって演奏され、技術主義と競争原理でうごかされる合唱運動への反教育としての効果もある。
多くの作品がフィールドワークや考証にもとづき、テクストや様式に関しては柴田純子、演奏と演出に関しては田中信昭の協力が不可欠だった。個人の自己表現から親密な小グループのコラボレーションに向かうのは、芸術にかぎらず、現在の創造的活動の基本原理であり、ここでも柴田の活動は先駆的モデルとなっている。
おなじ場所で足踏みしている 見ているだけ 考えてはいけない 考えれば いまの地点にとらわれる ただ見つづけるうちに 顕われてくるものがあれば すでにちがう場所に移動している