2008年4月号 目次
イラクの匂い | さとうまき |
13のレクイエム ヘレン・モーガン(4) | 浜野サトル |
メキシコ便り(8) | 金野広美 |
製本、かい摘みましては(37) | 四釜裕子 |
港大尋 声とギター | 三橋圭介 |
ミシガンより | 冨岡三智 |
二題――みどりの沙漠42 | 藤井貞和 |
彼岸過ぎ | 仲宗根浩 |
しもた屋之噺(76) | 杉山洋一 |
ピアノという | 高橋悠治 |
イラクの匂い
夜明け前、ダマスカスのホテルを出発、するはずであったが、頼んでおいた運転手が寝坊してきたので、日が昇ってしまった。それでも、運転手は、遅れた分を取り返そうと猛スピードで砂漠をつっぱしっていく。なんと3時間で、国境に到着した。国境のゲートをくぐり、パスポートをチェックしてもらう。シリアの国境警察は、イラク警察に電話をして護衛をよんでくれるという。
まもなくして、イラク警察の乗ったトラックがやってきた。彼らは、シリア側の最後の検問で、預けておいた銃を受け取り武装する。運転手は、ハンドルの横にカラシュニコフ銃をたてかけた。助手席にも銃を構えた警官が1人。一番若いのが、荷台にのって銃を構えている。これがイラクのパトカーである。タンクローリーなどで渋滞する緩衝地帯をけたたましくサイレンを鳴らしてパトカーは、一気に駆け抜けた。荷台に乗った警官は振り落とされないようにと銃を構えながらも必死に窓枠にしがみついている。
あっという間に、イラクに着いた。この国境は、ちょうど5年前にくぐったことがある。今では、ぼろぼろになってしまって、土嚢がつまれ、有刺鉄線が巻きつけてある。まるで、基地のなかに入るようだ。それでも、ここはイラクだ。イラクの匂いがするのだ。
警官は、早くビザを出せと、パスポートコントロールの役人に命令した。しかし、役人たちは、そんなの聞いてないという。前回も、内務省の許可を取っていたのだが、現場にファクスが来ていないというのでずいぶんと待たされた。そのたびにシステムが変わるのか、門前払いにあったこともある。国境とはこんなものだ。
「ファクスの調子がわるいのではないでしょうか?」
「そんなことはない。ファクスは日本製だ」と役人は横柄に開き直った。
丁度ベルがなる。
「もしもし。。。誰も出ないな」
またベルがなる
「もしもし。。。おかしいな。いたずら電話だ」
「いや、今のがファクスじゃないかと」
しかし、役人は、私の言うことを聞こうとせず、ベルが鳴るたびに受話器をとる。
「もしもし、、、また、いたずら電話かなあ。日本製だからな、故障するはずがない」
そういうと役人は席をはずしてお祈りに行ってしまった。またベルが鳴る。今度はファックスがカタカタと音を立てて動き始めた。役人は戻ってくると、
「やっぱり、日本製のファックスは調子がいいなあ。こんな辺鄙な国境までとどくんだからなあ」
と御満悦でようやく許可を出してくれた。
今回も数時間待たされるのは覚悟のうえだ。
鎌田實医師を連れていたので、みんなが寄ってきて、オレを見てくれという。
「最近、腹がでてきたのだが何とかしてくれ」
「うーん、それは太りすぎだね」
「最近、屁がでるのだけど」
「それは健康な証拠だ」
「最近いびきがうるさいんだ」
「うーん、それは困ったね」
そんな、相談ばかりだ。もちろん鎌田先生はもう少しちゃんと対応していたが、私が訳すとこうなってしまう。2時間くらい待たされてようやくビザがもらえた。
私達は再びトラックにのって、難民キャンプへむかった。イラクに入って、1~2km行ったところに村があり、テントが並ぶ。1700人もの難民が暮らしている。キャンプは汚水の処理ができずに悪臭がただよう。水も不足がちだ。そこで暮らすのは、バグダードで迫害を受けて逃げてきたパレスチナ人だという。
彼らは、ちょうど、60年前、イスラエルの建国で祖国を追われた人たちだ。イラクで暮らしていたが、今回の戦争で、またしてもテント生活を送らなければならないはめに。彼らは、廃校となった校舎を再び学校として使っていた。先生たちは、小奇麗な格好をして子どもたちを教えていた。砂埃にまみれたテントに暮らしているとはとても思えない。子どもたちに教えること、それが彼らにとっての人間としての尊厳なのかもしれない。
キャンプでは、知り合いが、わざわざバグダッドから会いに来てくれた。5年前、10歳だった女の子の手紙を持ってきてくれたのだ。
傷ついたイラクから日本のこどもたちへ
最上の挨拶で手紙を書きます。みんなのことが恋しいし、みんなのことをもっと聞きたいです。お元気ですか?
あの楽しかった日々がまた私のところに帰ってくればと思うけど、今のイラクの現状はそれを許しません。もし私に翼があり、たくさんの国を超えて私の兄弟である日本のみんなに会えたらどんなにすばらしいでしょうか?
私の家族や友人からの思いもこめて、皆さんに平安がありますように。
残念なことに、世界中の紙を集めても私の気持ちを書ききることは出来ないでしょう。
イラクに平和を。
13のレクイエム ヘレン・モーガン(4)
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美人コンテストで優勝を勝ち取ってから『ショー・ボート』でスポットライトを浴びるまでには、かなりの時の隔たりがある。ヘレンがミス・イリノイに選ばれたのがいつのことだったのか、正確なデータはわかっていない。そのあと、ヘレンはカナダで「ミス・マウント・ロイヤル」にも選ばれていて、その副賞がニューヨークへの旅だった。ニューヨークに入ったのは、1919年、俳優ストライキのさなかだったといわれる。
翌年、ヘレンは、ミュージカル『サリー』のオーディションを受け、コーラス・ラインの一員になった。主演女優のマリリン・ミラーは週給3000ドルの高給とりだったが、ヘレンが得たものはスズメの涙程度のギャラ。それでも、1922年までのべ570回の公演を続けたこのミュージカルへの出演は、ヘレンにとっては最初の安定した仕事になった。
このあと、いったんシカゴでショー・ビジネスの仕事についたあと、ヘレンはニューヨークに戻った。しかし、ショーの仕事はなく、最初に得たのは、スピークイージー(もぐり酒場)での仕事だった。禁酒法下、もぐり酒場がギャングスターたちの最大の収入源となった時代だった。
このときも、かつて鉄道の食堂で働いていた時期に彼女を「発見」したジャーナリストが、ヘレンをすくい出してくれた。ブロードウェイでヒット・レビューを次々に放っていた興行主に推薦状を書いてくれ、役を得たのだ。1925年、ヘレンは24歳になっていた。
ヘレンには、生得のものとしかいいようのない個性があった。ごく普通に歌ってもすべてが悲歌に聴こえてしまうような、悲しげな声の表情だった。その個性がブロードウェイで少しずつ知られるようになり、翌26年、ヘレンはレビュー『アメリカーナ』に出演する。ジェローム・カーンが客席でヘレンを「発見」したのは、このときだった。
その間、酒場での仕事も続いていた。舞台がはねるとナイトクラブへ急ぎ、酔客たちの前で歌った。その繰り返しが、ヘレンの日常になっていた。カーンに発見された26年には、54番街に自分の店を出すまでになった。もちろん、資金は自前のものではない。ナイトクラブは、酒の密売人など暗黒街で生きる者たちの格好の投資対象になっていた。ヘレンの個性に注目したギャングスターの1人が、彼女を「店の主役」に仕立てたのだ。
舞台からナイトクラブへという生活は、さらに深まった。舞台では相変わらずの端役だったが、クラブでは違った。シックなドレスを身につけた彼女は、ピアノの上に座って歌い、満座の注目を集めた。歌うのは、もちろんトーチ・ソングだった。それはまた、彼女を最終的に破滅へと導く、酒との縁が始まる端緒でもあった。
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1929年、『ショー・ボート』がその最終の舞台を終えたとき、ヘレン・モーガンはすでに押しも押されぬ大スターになっていた。この年、ヘレンに惚れ込んでいたカーン&ハマースタインのコンビは、彼女をミュージカルの新作『スウィート・アデライン』の主役に起用した。彼女が終生の代表作となる1曲を得たのは、このミュージカルでだった。
なぜ、わたしは生まれてきたの?
なぜ、わたしは生きているの?
わたしは何をもらえて、
何を与えてあげられるの?
(「ホワイ・ワズ・アイ・ボーン」)
このミュージカルは大きな人気を博し、翌年、翌々年と公演が続いた。しかし、その寿命は『ショー・ボート』に比べて短かった。公演期間こそ同じ3年だったが、回数でおよそ半分、234回でその灯は消えた。
『スウィート・アデライン』が不意にとぎれるようにして終了したのと同じく、舞台の裏ではヘレン自身にも残酷な運命が迫っていた。まずは、ブロードウェイの劇場主の不倫の相手となったことが、つまずきの始まりとなった。
『ショー・ボート』の地方巡業が始まると、ヘレンは今度は相手役だった男優と恋に落ちた。しかし、その恋が長続きすることはなかった。地方公演の終わりは、恋の終わりでもあった。
舞台に出る前にブランデーを数杯飲むのを習慣にしていたヘレンは、舞台のあとではさらに深く飲んだ。私生活の波乱が、それに拍車をかけた。
1933年、男優との恋と並行して続いてきた不倫が、ついに終わった。すると、ヘレンは新しい相手、モーリス・マシュケを見つけて結婚した。それが、最初の正式な結婚だった。
二人は一緒に暮らした。しかし、まともな結婚生活が続いたのは、ごく短期間だった。書類上の離婚は36年のことだが、実質的には数週間で破綻していた。
すでにクラブでの仕事からはほぼ身を引いていたヘレンだったが、今度は舞台の仕事が急激に減っていった。それだけでなく、新聞の劇評欄で酷評されることもしばしばだった。アルコールの影響と考えていいだろう。
離婚した36年、『ショー・ボート』がはじめて映画化されることになり、ヘレンにも声がかかった。役はもちろんジュリーだった。ヘレンは無難に役をこなしたが、しかし、舞台でのときのような賞賛を浴びることはなかった。舞台での初演時から9つ歳をとったヘレンは、アルコールの影響でずっと太っていて、魅力を欠いていた。
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あがけばあがくほど、もがけばもがくほど、その意志とは逆にどんどん深みにはまっていくということが、時に人間には起こる。ヘレン・モーガンについて書かれたものは少なく、彼女の場合がそうだったのかは、断言はできない。しかし、ジグソーパズルのピースのような記述をいくつかつなげていくとき、そこに想像されるのは、自分の現実から脱出しようとしてむなしい格闘を続けた一人の女性の姿である。
1941年、40歳になったヘレンはロイド・ジョンソンなる男と二度目の結婚をした。自動車のディーラーだった。
しかし、この結婚は、前回より少しは長かったものの、実質3カ月しか続かなかった。
30代に入ってからのヘレンは、重度のアルコール中毒だった。それでも、舞台に立つときには、その影響をできるだけ表には出さないようなふるまいができた。職業人としての心構えがそうさせたのだったろう。
しかし、仕事がめっきり減ると、アルコールの影響を隠す必要も、アルコールの摂取量そのものを抑える必要もなくなった。ヘレンは恋する人であり続けたが、度重ねて恋をしても、ヘレン自身が歌い続けてきた歌のように、それは悲しい結末にたどり着くだけだった。
1941年10月9日、ヘレンは歌が不意にとぎれるようにして死んだ。直接の死因は肝硬変だった。最後に舞台に出たのは2年前のロサンジェルス、作品は『ショー・ボート』だった。
ヘレンの死を看取ったのは、母親のルルだった。トムに去られて以後、ヘレンに愛情をそそぎ、ヘレンとともに生き続けてきたルルは、最終的にはヘレンにも去られて一人取り残された。ヘレン・モーガンのトーチ・ソングの世界を身をもって生きたのは、本当は母のルルだったのかもしれない。
※参照=CD『More Than You Know/Ruth Etting & Helen Morgan』
The HELEN MORGAN Page
メキシコ便り(8)
2500年前のモンテ・アルバンの旅から帰り、チアパスに行ってきました。
チアパスはメキシコ・シティーから南へバスで16時間、マヤ古典期後期を代表するパレンケ遺跡があり、ここもやはりオアハカ同様、多くの先住民の村があることで知られています。
夜8時、メキシコ・シティー発の夜行バスに乗り、チアパス州のパレンケに着いたのが昼の12時。寝不足でもうろうとした中、宿を探し、荷物を置くとさっそく街に出ました。パレンケは小さな街で、特別に見どころがあるわけではないのですが、遺跡への基点となるため、観光客も多く結構にぎわっていました。
次の日の朝、バスで25分の遺跡に行きました。うっそうとした中を少し歩くと、突然、大きな神殿が目の前に現れ、その美しさに息をのみました。緑深いジャングルの中に、たくさんの神殿や宮殿が立ち並び、天文学や、建築学に秀でていたというマヤ文明の繁栄がしのばれました。この遺跡はほかの古典期マヤ都市にみられるような石碑がなく、かわりに石のパネルや漆喰レリーフに文字や図像が刻まれ、建物や階段にはめ込まれているのが特徴です。この碑文には2世紀にわたるパレンケの王家の歴史が刻まれ、唯一「女王」が存在したという記録があるのです。この女王は西暦583年から604年にパレンケを統治した「オルナル女王」と、西暦612年から6115年まで内政をつかさどった「サク・クック女王」で、この2人の女王の存在は王朝の父系相続の原則を破っていたという話を聞いたとき、そういえば日本では、ひところ前、女帝を認めるかどうかでもめたことがあったなあと、なんだか懐かしく思い出してしまいました。
次の日はパレンケから南西にバスで5時間のサンクリストバル・デ・ラスカサスに行き、サンファン・チャムラとシナカンタンの先住民の村を訪れました。サンフアン・チャムラ村では教会のある広場で市がひらかれ、多くの人でにぎわっていました。教会の中ではミサが行われ、たくさんの人たちが祈りをささげていましたが、その様子は少し変わっていました。床一面に松の葉が敷き詰められ、ろうそくが床に直接、無数に立てられているのです。そして教会への貢物として、コカコーラがケースで置かれていました。この村では村人が身体に異常を感じた時、イロールと呼ばれる特別の能力を持った女性のところに行き、祈祷をしてもらいます。そして病気には卵と炭酸ガスが効くといわれているので、その治療薬として教会にコカコーラを供えるというのです。ここではキリスト教と伝承宗教が渾然一体となった独特の信仰があるということですが、祈祷とコカコーラの取り合わせはなんとも奇妙でした。
一方、シナカンタンの村ではバスから降りるやいなや民族衣装を着た子どもが3人、フォト、フォトと近づいてきました。どうやら写真のモデルになるからお金をちょうだいということなのです。オアハカではトルティージャの原料のトウモロコシに入れるカルを売っていたおばあさんは写真を嫌ったのに、ここの子どもは積極的に「仕事」にしていました。村をぶらぶら歩いていると織物を織っている女性がいました。道具は織機のように大掛かりなものではなく、庭の木に縦糸を束ねた一方をひっかけて揺れる糸をあやつりながら編んでいくのです。よくこんな簡単な道具であんなに美しく、しっかりした布が出来上がるなあと感心しながら見ていると、家の中でトルティージャを作っていた女性ができたてを食べるようにすすめてくれました。直径1メートルほどの大きな鉄のフライパンの上で焼いたものの中にペピータ・デ・カラバサ(かぼちゃの種の粉末)を入れて食べました。できたてのトルティージャは温かく、ふんわりとしてとてもおいしかったです。
また、ここチアパスでは小さな子どもがバナナや民芸品を売り歩く姿に頻繁に出会いました。アグア・アスルというとても美しい滝に行ったとき、マウラとパスチョの姉弟がお母さんが作ったという揚げたバナナを売りにきました。私はバナナを持っていたので、断りましたが、ずーとついてきます。あまりに熱心なので、買おうかとおもったそのとき、姉のマウラが私の指輪を、弟のパスチョは5ペソ(50円)ちょうだいというのです。急に買う気が失せてしまい、彼女たちと少し話をしました。マウラは6歳でパウチョは4歳、いつも2人で観光客相手にバナナを売り歩き、売れたお金はお母さんに渡すと言っていましたが、そのお母さんは21歳で今おなかに赤ちゃんがいるということでした。ということはマウラを15歳で産んだことになります。ちょっとびっくりしてしまいましたが、先住民の女性は若くからたくさんの子どもを産みます(前回も書きましたが平均8人)。それはマウラたちのように労働力として必要だからです。
ここは観光地に近いので電気や水の設備はありますが、少し奥にいくと、まったくそれらのサービスがうけられない村がいまだに多くあります。そんな中で多くの子どもを産み、育てている母親たちの生活の厳しさは想像を絶するものがあります。ここでガイドをしてくれたラウルは、チアパスの先住民はとても貧しく、不便な生活をいつまでも強いられているが、これは未だに根強く残る差別が原因なのだよと静かに語ってくれました。そういえば先住民族の諸権利と文化の認知を求め活動しているサパティスタ民族解放戦線のたて看板が多くみられ、彼らへの住民の支持が高いチアパスが、サパティスタの活動の中心になるのもうなずけます。ものがあふれ、活気に満ち、毎日お祭りをしているようなメキシコ・シティーだけにいたのでは、決して見えてこないメキシコのもうひとつの現実を、この旅で知ることができました。
製本、かい摘みましては(37)
あるレーベルのCDジャケットを作るのに、きまってお願いする目白の紙工所がある。工場の近くには桜並木があるから、この週末はみなさんでそぞろ歩いて、ちょいと一杯やったのかなあ。本の函作りを発端として、その技術をさまざまな紙製品に活かしているが、最近は本に代わって、DVDや化粧品などのパッケージが増えているようだ。奇抜だったり豪華だったり。そういうパッケージの仕事も面白そうですねと言うと、「いやうちは本の函を作っていきたいんですよ」と社長が言う。かっこいいなと思いつつ、私も本ではないもののパッケージをお願いしているわけです。
本の函は大きく分けて、手で貼るものと機械で作るものがある。普段目に触れる本の函のほとんどは機械貼りだが、どれだけ機械で量産するにしても、最初に見本となるものを作るのは手だ。函の土台となるボール紙などの台紙をまずロの字型に組み立てて、底の部分をあててその上から全体に紙を貼るのが手貼り函の基本。パーツの組み合わせ方と素材の厚みを考慮して製図すること、また、入れる本の大きさに対してどれだけ遊びをもたせるか、ボール紙の強度、紙の伸びなどをどう計算するか。函の形はそれなりにすぐできるので簡単に見えるが、良い函はめったなことで作れない。以前通っていた製本教室では、函を横にして天地を両手で持って軽く一、二、三振りしてすーっと出るのが良い函、と習ったが、そんなの無理無理。
手貼り函の工程は、最近増えたカルトナージュ関係の本やウェブサイトで似た方法を見ることができる。いろいろ見ると、台紙のパーツを組み立てるときにその接触面を補強するために貼る「水張りテープ」というのが、カルトナージュ界では必需品のようだ。ロールで売っていたので、買ってみた。目白の工場で手貼り函の工程を見学したときに、やはり同じ場面で細長く切ったハトロン紙を貼っていた。それを「ジャパン」と呼んでいたのがおもしろくて、社長にその名のいわれを聞いたのだった。「上貼りの下に貼るから『じゅばん』、それがなまったと聞いたことがあるけれど、どうかなあ......」。
ほかにもいくつも、独特の呼び名があった。「亀の子」「チョウチョに切る」「トンネルにする」。順番に、亀甲型に切ったハトロン紙(使い方はジャパンに同じ。使う場所が違う)/ハサミでハの字に切り込みを入れる/台紙のパーツをロの字型に組み立てること。このあたりは今思い出しても納得がいくが、「ジャパン」はやっぱり、ふにおちない。機械貼りの工程でも、おもしろい呼び名を聞いた。「ビク抜き」「トムソン」。いずれも、函の台紙を、展開図通りに断裁すると同時に折り筋などもつける、打ち抜き工程のことである。
「ビク抜き」は、英国のビクトリア社の平打ち抜き機械が由来のようだ。「トムソン」は関西地方でよく使われているらしいということだけで、名の由来はわからなかった。いずれにしても、この工程は何ですか?との問いに、ビク抜き(ならまだしも)とかトムソンといきなり応えられると、ちょっとおもしろい。折り抜き加工を特集した『デザインのひきだし4』にも、この工程の呼び名はやはり「トムソン」「ビク抜き」さらに「オートン」と紹介され、「トムソン刃」と呼ばれる刃型を使うから「トムソン」、また「オートン」も機械由来の通称だとある。きっと「トムソン」も、刃のメーカー名かなにかなんだろう。業界人にしかわからない、先端の、誇らしい呼び名であったことだと思うのだ。
『デザインのひきだし4』は、工程や実例を写真付きで詳しく説明している。その中にも出てくるが、ベニヤ板に、小さなオレンジ色のゴムと刃が端整に並ぶ打ち抜きの型は、ほんとうに美しい。事情を言うと、断裁や折り筋、ミシン目など、製図されたラインに添って様々な高さ長さ形の刃(トムソン刃)が並んでおり、その板に函の台紙を一枚ずつ押し付ける(平打ち抜き機械でプレスする)ことで、切り抜いたり跡をつけることができる。ゴムは、押し付けた刃を紙からスムーズに抜くためにあり、波形をしたオレンジの点在ぶりがまたいい。打ち抜きの「型」はそのための唯一のもので、残しておけば増刷のときにすぐに使えるわけだが、いつそのときがくるかわからないのに保管するというのは現実的ではない。でも目白の工場にはそれがたくさんあって、それこそ年代物もあり、誇らしげで静かで宝物のようだった。
直線を中心としたシンプルな抜きは「ビク抜き」で行い、もっと細かな形を抜くときには別の方法がある。刃の種類が違うので、単純なものと複雑なものを混在させてプレスするときは別工程にすることがあるようだ。実は最初に言った「あるレーベルのCDジャケット」は、断裁と折り筋をつけるほかにレーベルのロゴを空押ししている。一度のビク抜きでロゴの空押しもできていると思い込んでいたのだけれど、ちょっとしたハプニングでそうではないことがこのたびわかった。なにごともなく進むに越したことはないけれど、起きてしまえば、起きたのだから、なにごともなければ会うはずのないなにかに会っているのだろう。
港大尋 声とギター
5月1日、水牛レーベルから港大尋の弾き語りのアルバム「声とギター」を発売する。2年くらい前にエレガットの弾き語りをためこんでいることを知って、CD化を計画していた。「がやがやのうた」に続く港との共同プロデュースで、弾き語りから相棒の澤和幸のギター(デザイン担当)、シャンティのコーラス、Bakuのワイゼンボーンなどを加え、新曲を含む12曲を録音。独自の詩の世界がボサノヴァ風からブルース風まで色とりどりにギターのさわやかな風にのって運ばれる。「声とギター」というタイトルは、ブラジルのジョアン・ジルベルトやカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルなどの傑作にあるように、音楽の基本だ。バンド「ソシエテ・コントル・レタ」を率いる港が数年前、再びギターを手にし、中学時代、ギター少年だったころの熱い思いをよみがえらせていることから、あえてこの名前にした。もちろん音楽の基本へと帰ることだが、それは同時に素のままの自己をさらけだすことでもある。自己の世界に酔いしれなければできない。だが、一方でそれではダメと、魅力的な仲間の力を借りて距離を保とうとする港がいる。「港大尋 声w?とギター」はそのあいだにあり、港大尋という音楽家の素顔をのぞくことができる。CD発売に合わせていくつかライヴがあるので、まずはライヴで弾き語りを聴いてもらえるとうれしい。
ミシガンより
今アメリカのミシガンに来ている。3月29日~30日の民族音楽の学会で論文発表するのが第一目的なのだけれど、その学会に合わせてアレンジされている、ミシガン大学のジャワ・ガムラン音楽グループのコンサートも実は大きなお目当てであった。
ミシガン大学ではインドネシアからガムラン音楽と舞踊の指導者を夫婦1組で1、2年という単位で招聘し、指導に当たらせている。ここ10年以内のことに限っても、ソロのクラトン(王宮)の血筋にあたり音楽も舞踊もできるB氏が元宮廷舞踊家の妻と一緒に2001年~2003年頃に赴任し、入れ替わりに今度はソロの芸大教員でやはり音楽も舞踊もできるW氏が舞踊家の妻と一緒に赴任し、W氏にダブって私が男性舞踊を師事していた芸大の先生P氏も娘を伴って1年間赴任した。私は特にP氏からミシガンでのビデオを見せてもらったり話を聞いたりしていて、その活動ぶりに興味を持っていたのだった。
ミシガン大学のガムラン・プログラムは1967年に始まり、今回の学会で基調講演をしたジュディス・ベッカー教授の下で開花した、とコンサートのチラシにはある。今年は何らかの理由で誰も招聘できなかったそうで、由々しき事態だというのが関係者の反応だった。現地から音楽家を招聘して指導に当たらせるというのは、アメリカではミシガン大学だけに限らないが、日本ではほとんど考えられない。日本では1980年前後に東京芸大がインドネシア人講師を5年間日本に招聘したという例があるばかりである。
3月27日 ミシガン着
私がはるばる海外から来るというので、学会の幹事長自らデトロイト空港まで迎えに出迎えてくれ、その晩のミシガン大学でのリハーサルに連れて行ってくれることにもなった。この日は夕方から雪が降り始める。今年は異常気象で例年より雪が多かったらしく、3月末に雪が降るのは異例だということだった。結局リハーサルは急な予定変更のせいで、予定時間に予定の場所(明日のコンサート・ホール)ではなかった。けれどグループを指導している大学院生で、昨年もソロに短期で勉強に行ったという人と連絡がついて、その人がいるガムランの通常の練習部屋に向かう。
練習部屋は音楽学部棟の地下にある。リサイタルホールの他にもオーケストラ用、室内楽用などの小さな練習ホールが3つくらいあり、民族楽器の展示などもある。ガムランの練習部屋はソロの芸大の音楽科の教室よりは小さいけれど、じゅうたんの上にフルセットが広げられ、座布団が敷かれ、ホワイトボードやお茶のポットなども並んでいる。なんと贅沢な練習部屋だろうと思う。壁には今までに招聘したインドネシア人舞踊家や音楽家らの写真、このグループの公演ポスターなんかが額縁に入れられて、3段に展示されている。上で書いた以外にも多くの知った顔ぶれが見つかる。これだけの人を今まで招聘してこれだけの公演をやってきたという歴史の深みに圧倒されてしまう。
3月28日 ガムラン・コンサート
今日の予定は10:00~ガムラン楽器をコンサート・ホールに移動。14:00~16:30リハーサル。17:30~スラマタン。20:00~コンサート開始。コンサート・ホールはヒルズ・オーディトーリアムという所で、巨大で壮麗な建築で、天窓もあり、舞台奥には古いパイプ・オルガンが設置されている。このホールは大学の中心部にあって、シンフォニー・コンサートをよくやっているらしい。
私は14:00のリハーサルから見せてもらう。今回の公演ではアンダーソン・サットンが特別ゲストで参加した。この人は1982年にミシガン大学で博士号を取ったガムラン音楽研究者・演奏家で、今は違う大学で教えている。私も会いたかった人だ。結局ずーっとインドネシア語で話す。スラマタンには、ナシ・クニン(黄色い儀礼用のご飯)やらインドネシア料理が並ぶ。インドネシア人の人が何人も関係者の妻や夫にいて、その人たちはこういうことがあると食事を用意したり着付を手伝ったりするみたいだ。サットン氏が乞われてスラマタンで挨拶し、黙祷ののち円錐形に盛られたナシ・クニンのてっぺんを切るという儀礼をする。氏によれば、自分の大学では公演前に必ずスラマタンをする、ミシガン大学では時々やっている、ということだった。私が以前所属していた日本のガムラン・グループでは、スラマタンはやったことがなかったなあと思う。もっとも、日本人同士、手探りでガムラン音楽をやっていた時期だったから仕方なかったのだけれど。
その後は着替え。どうせ公演まで2時間くらいあるから手伝う。演奏は、今年からガムランを始めた初年度グループと、その上のクラスの2グループが交互にしたのだが、上のクラスの人たちはカイン(ジャワ更紗)にクバヤ(女性の上着)かビスカップ(男性の上着)を着るという。金髪の人が多いから、ジャワで使う黒髪のサングル(かつら)はつけないで、地毛で逆毛をたててそれらしく結い上げる。そこは私のお手の物ということで、5人分くらいの髪結いを手がける。助っ人のインドネシア人女性は2人いたけれど、髪結い以外に着付もしてあげないといけなかったから、この2人で全員分をやっていたら絶対に間に合っていなかっただろう。というわけで非常に感謝される。
公演のレベルは、正直なところそれほど高かったわけではない。けれどベテラン指導者がいない――指導している大学院生も専門はインドネシア音楽ではない――ことや、皆の経験年数を考えれば、かなり健闘しているように思える。サットン氏の助演(太鼓、グンデル・パネルス)があったのも大きい。それにホールの音響がすばらしかった。リハーサルの時は楽器のすぐそばで聞いていて、演奏のアラが目についたのに、本番にホールの真ん中辺りに座って聞いていると、音がふんわり豊かに聞こえる。音響も建築も良いホールで、舞台裏をいろんな人に助けてもらって、スラマタンをしてコンサートができるという彼らの環境がなんだか羨ましいなあと思える。
3月29日~30日 学会
学会はミシガン大学ではなくてイースターン・ミシガン大学で行われる。学会はなんと両日とも朝の8:30がセッション開始、初日の受付とコーヒー・タイムが7:30から始まるという日程で、インドネシア並に朝が早い。けれどアメリカの人文系の学会はたいてい朝早くからやるものらしい。午前と午後に一度ずつコーヒー・ブレークがあり、昼食も用意される。結局、会場のスペースからは一歩たりとも外へ出ないで過ごす。食べ物と飲み物が大量に用意されていて驚くけれど、アメリカの学会ではそうするものらしい。
自分の発表については、緊張した上に語学力のなさもあって出来は反省することしきりだったのだけれど、日本の人たちとは違った観点から有意義なコメントをたくさんもらえ、同じインドネシア研究をしている人たちや、また日本留学の経験のある人たちと知り合えたことは大きな収穫だった。当初は、アメリカでこんなにインドネシア語や日本語で会話できる機会があるとは、夢にも思っていなかったのだ。インドネシア研究者といっても、その調査年代も1960年代から2000年代とばらばら、調査地もジャワ以外が多くてばらばらというわりには、共通のインドネシア人の知人がいたり留学生の友達がいたりして、あらためて世界の狭さを痛感する。
●
あっという間に2日間の学会は終わり、この原稿を30日の夕方に書いている。日本はここより13時間進んでいるので、いま日本では31日の早朝になっているはずだ。明日31日昼にここを発って、日本に着くのが4月1日の夕方。エープリルフールということで、なんだか1日ごまかされているような気にもなる。短い間だったけれど、そして英語にも論文にも自信はなかったけれど、思い切って来てよかったと思っている。
二題――みどりの沙漠42
番犬(三ノ宮)
震災のあと、
番犬のきみは、
自信をなくし、
自分を見失い、
番犬であることをやめて、
きみの家で、
ペットとしての生活を、
養っていた。
12年間、
ご苦労様。 きみはりっぱに、
番犬の役割を果たした。
お眠り、やすらかに
(中井久夫さんの著書から。)
*
伝え(新大阪)
(新大阪へむかう車中で、
大江さん勝訴のテロップが走る。
去年の県民大会では、
3世代7人家族が出かけようとしたその朝、
97歳の父親に打ち明けられた、
「沖縄戦のとき、
日本兵に自決用手榴弾を渡された」と。
――照喜名正亀さんの伝え)
(謝花直美『証言 沖縄「集団自決』より)
彼岸過ぎ
暖かくなり、家の中では潜んでいたヤモリがまた夜に鳴きはじめた。
彼岸の前、風邪で咳がひどく寝たり起きたりの生活。風邪が治るまで、時間がかかる。一週間ほど咳で明け方は必ず寝られず。なるべく咳が出ない時間帯に寝ることにし、夜の睡眠はあきらめる。
風邪が治らぬまま、彼岸のため実家へ。仏壇のお供え、あの世で使うお金のウチカビを燃やす。墓参りはしない。今年は墓参りするのを見かけたと姉が言っていた。一年のうち、墓参りに行くのは二回。旧暦七夕の墓掃除と四月の清明(シーミー)のみ。あとはなんらかの理由で墓を開けるとき。
最後に墓を開けたのは十二年近く前。墓がある土地を立ち退かなくてはいけなくなったため墓を引っ越したあと、引っ越した新しい墓に父親が入ることになったときだ。こちらでは葬式から納骨まで一日で済ませる。その時、誰が墓を開けるかをお伺いをたてるべきところへ行き、親戚の中で条件に適ったものが墓を開ける係となる。それ以外のものが開けてはいけない。沖縄に戻って十年以上経って親戚の葬式が二回あったが、その係にまだあたったことはない。
わたしが生まれる前に亡くなった祖父が最初の火葬だったようだ。墓を開け納骨のとき、祖母が火葬以前、戦前に墓に入ったお骨をカメから取り出し全部洗骨したはなしを、墓の中が見える状態のとき、誰かから聞いたおぼえがある。洗骨が行われたのは小さい頃、上にあがってよく遊んだ、大工をしていた祖父自身が作った墓だとおもう。シーミーのときなど子供が墓の上で遊ぶのはにぎやかでご先祖様が喜ぶ、ということで怒られない。風葬は戦後、久高島では行われていたが、ある出来事以来行われなくなった。久高島とは別の理由で昔からの葬り方は概ね「衛生」という理由のもと、力がはたらいてなくなってしまう。
少しの間だけ暖かかったのがいつの間にか暑さに変わる。車で十数分走ると、泡瀬の干潟に面した公園に着く。大きな公園の中、昔ながらの地形を利用した古い墓がいくつかある。アーサ(海藻で汁物に使われる)が近くの畑から流れて来たのか多く岩や砂地に見られる。たいらな津堅島も望むことができる。沖合は埋め立て工事をやっている。バブルの頃、その島より大きな人工島をつくる、埋め立て事業がたてられた。人工のリゾート・ビーチが多い中、当初の計画通り、人工のリゾート施設を作ろうと躍起になっているひと、反対するひと。
海開きがあちこちで行われ、短い春が終わる。
しもた屋之噺(76)
つい今しがたジュネーブ駅を7時7分に出発したヴェニス行特急で、ミラノに戻ろうというところ。車窓右手には、目にまぶしいほどの朝日に輝くレマン湖がどこまでも広がり、左手にはまだ冬枯れの丘が続いています。お筝の後藤さんもレマン湖は水がきれいと言ってらしたけれど、朝、美しくつんと澄みわたる感じは、やはりアルプスの麓だからなのかとぼんやり考えていました。
昨晩まで、ジュネーブのコントルシャンと望月京(みさと)ちゃんが溝口健二の「瀧の白糸」につけた作品をやっていて、映画音楽として成立する部分も、効果音の部分も、純粋に現代音楽作品として成立している部分もあり、1時間40分の映画を邪魔せず、無音も効果的に挿入しながら、とても濃密な時間が共有できたのがうれしかったです。
京ちゃんとは1月に東京でも会ったばかりだったけれど、東京の大学で会うのとどことなく雰囲気が違って愉快でした。今回は練習も少ないし、映画と一緒だから返しづらいし、どう振ったものかと練習前日の夜どころか、当日の朝まで随分考え込んでいたのですが、本当に演奏者の皆さんに助けていただき、杞憂におわりました。
京ちゃんの作品を勉強していると、日本の女流古典文学を読むような、さらさらした流れが感じられます。ドラマがない、という意味では全くなくて、ちゃんとドロドロすべきところはドロドロとしているけれど、それが嫌らしくならない。どんな赤裸々なことを書いていても、読む者、聴く者を停滞させず、バランスよく先へ進めてくれるようなところがあって、これこそ彼女の才能なのでしょう。彼女は「痛点」つまり皮膚感覚を直裁に表現できるのが、やはり女性の強みじゃないかと言っていたけれど、その通りかもしれません。
作品は、テンポのないカデンツァとテンポのある部分が交互に現れて、レチタティーボの挟まれたオペラをやる気分でしたが、緩急具合も自然で、彼女のさらさら具合が、重たく救いのない溝口と泉鏡花の世界には、とてもよい塩梅だったとおもいます。女性からみた女性観が、良い意味で映画に客観性を与えてくれたようにおもうのです。これが、一緒になってよよと泣き崩れる音楽では、ヨーロッパ人には到底耐えられなかったかもしれない。「わたしは白糸に共感したのよ。あの時代にあれだけ自立して凛と生きる女性像にね。自分で稼いで、一度きり縁のあった男に貢ぐなんて、すごく強いし潔いでしょう」と京ちゃんも言っていたのが、よく反映されていました。
大変細かい画面との同期もあり、指揮者はMIDIペダルで予めコンピュータで作られた効果音や電子音響を挿入するのですが、簡単だから大丈夫と音響担当のクリストフに言われていたのに、とても不器用なのか、やってみるとこれが難しい。先ず、真っ暗な中で振っていると、ペダルがどこにあるか見えないのと、靴を履いていると、ペダルに触ったのか触らないのか感じられないのです。だから押したつもりで音が鳴らなかったり、準備しているうちに、どこかが触ってしまったのかいきなり音が鳴り出してしまったりと、失敗を繰り返した挙句、三味線や筝、尺八のみなさんが靴下で舞台にあがるのを良いことに、こちらも靴下のまま振りました。こういう体験は初めてでしたが、真っ暗だから見えないと皆に慰められやってみたものの、演奏が終わって客電がついたときの情けなさは何とも。
さて、タイムコード付のDVDを予め送ってもらい、それに音楽を同期させるべく勉強して行ったので、DVDと練習しているうちは問題なかったのですが、最後に映画館に入り、指揮者、演奏者はDVDのタイムコードを見ながら、35ミリフィルムをスクリーンに映写して通してみると、DVDと35ミリフィルムが酷いときには4秒ほどもずれてしまい、つられて音楽も映画と4秒ほどもずれてしまうことがわかりました。
35ミリフィルムのコマ数は当初秒速24フレームと指示されていたのですが、実際は18フレームから25フレームという不安定な速度で修復されていたようで、結局DVDのモニターを映写室に持ち込み、そこから片時も目を離さずに、映写技師が手動で映写速度を微調整してくれるのですが、DVDに合わせるのはなかなか難しいようで、目の前でDVDと映画がせめぎあうのを涼しい顔でやりすごさなければなりません。
最初は35ミリに合わせなければと思い、同期場面の30秒前くらいから、振りながら目で35ミリとDVDのずれを頭のなかで計算してやっていると、30秒後にはそのずれが逆転していたりするのです。その30秒の間にも、こちらは楽譜も目で追わなければいけないし、現代曲なので、演奏者たちにもキュー出ししなければいけないし、ずっとスクリーンを追うわけにもいきません。そして、映写技師さんがDVDに合わせようしてくれればしてくれる程、追い越したり、追い越されたりがそれは極端に早いスパンで繰り返されて逆効果になってしまい、最後は互いに合わせるのはやめて、音楽はタイムコードだけを頼りに振ることにしました。そうでなければ、イタチゴッコになってしまうからです。なかなか愉快な体験でしたが、文字通り、音楽と映画の手に汗にぎるデッドヒートの感でした。
ゲネプロで、最後に裁判所で白糸が自殺して、欣也も川辺で果てているところから画面が引いてゆくとこまで画面を目で追い、しっかりと同期しているのを確認した後で、さあ最後の音は心を込めて仕上げようと振ったところで頭を上げると、35ミリの方はとうに終わっていて、白画面に"STOP"とコンピュータのクレジットまで出ていて、流石に悲しくなりました。おかげで本番は気をつけてつつがなく終わることができたのですが。
MIDIペダルの効果音など、観客のためにもどうしてもスクリーンとずれるわけにはいかないので、幾つかは音響技師のクリストフに助けてもらうことにし、事なきをえました。例え、MIDIペダルのタイミングが正しくても、音響が流れているところで、映写技師さんがDVDとのずれを補正してゆくと、画面とコンピュータの音響がずれていってしまうので、何箇所かはDVDに合わせないようお願いして、補正もできるだけ優しくなだらかにとお願いして、漸く形になりました。
モントルーを過ぎた辺りで、湖の向こうには、まだ頂には雪がかぶった、雄大な山々の尾根が朝日に輝きながらせりだしています。イタリア・アルプスの始まりでしょうか。あと2時間ほどこの山々のなかを走りぬけて、ドモドッソラからイタリアへ入ってゆきます。
つまるところ、自分にとってとても興味深く、勉強になる経験でした。演奏者と映写技師と音響技師がコラボレートしながら作り上げる、あくまでもアナログの皮膚感覚で、同時に「テンポ」や音の持続の意味をあらゆる機会に考えさせられました。たとえば、白糸を心理描写する単音の持続が、6秒あったとして、ただ6秒のキューを演奏者に出すだけでは伸ばすだけでは何の感情移入も出来ないし、音の方向性も出てきません。これが、いわゆるスタジオ録音の映画音楽であれば、もっと徹頭徹尾ニュートラルに演奏することも可能なのですが、あくまでもライブ演奏で、観衆を包み込むわけですから、音の正確さだけでは物足りませんし、やはり演奏者のパッションが感じられるかどうかが、観客にとって大きな意味を持つに違いありません。それをどうすべきか、最後まで悩んでいました。音楽は、いくら書いてある音を正しく演奏しても、ただ無感情に演奏するのでは、音楽にはなりません。その辺りが難しいところでもあるし、ライブで演奏する醍醐味だともおもいます。
シオンを過ぎ、車両もずいぶん混んできました。今週末は復活祭なので、休暇を取ってヴァカンスへ出かける人や、帰郷する人たちでごったがえしています。3月半ばの復活祭と言えば、3年前に息子が生まれたときもやはり3月が復活祭でした。あの頃は、ウルグアイ人の友人宅に寓居して、法王の弔鐘が街中に鳴り響くなか、名物の兎のチョコレートを食べていました。この混み具合では、朝一番の電車で正解だったと独りごちていました。さもなければ座ることなど到底できなかったかもしれません。時たまイタリア語もぼそぼそ聞えますが、話し声の殆どは、元気のよい妙齢たちの甲高いフランス語です。先日東京に戻った折、東京から新宿まで通勤ラッシュの中央特快に乗ると、誰一人として声を出さず、しんと静まり返っていて、子供のころ電車はこんなに静かだったかと考えこんでしまいました。
何時しか車窓の目の前一杯にアルプスの雄大な山々がそびえ、晴れ渡っていた空もくぐもった山の天気になっていました。夕べは京ちゃんが打ち上げに買ってきてくれた海苔巻と赤ワイン旨かったなどと考えつつ眠り込んでしまったようで、気がつくとブリーグを過ぎたあたりなのか、長いトンネルがどこまでも続いていました。あの神々しいアルプスをこうしてトンネルを掘り突き抜けること自体、少し自然の摂理に反している気もするし、それこそ人間の強さと英知も感じます。こんな長いトンネルは、速度の感覚も、時間の感覚も麻痺させます。思わず、川端の「雪国」が思い出されて、彼の文章はどうしてこんなに美しいんだろうね、と昨日ホテルの朝食で後藤さんと話し込んだのが懐かしくなりました。
時たまトンネルを抜けると、周りは切り立った崖や男性的な岩肌ばかりの荒涼とした風景で、文字通り地獄のような谷底を列車は這うように進んでいきます。自然が人間を拒絶しているように感じられて、この地を初めて歩いた人は、一体どんな思いだったろうかと考えました。そうして最後の長いトンネルを抜けると、突然見晴らしのよい平地が広がって、途端に家々が目に飛び込んできたかと思うと、いきなり街が姿を現します。「間もなくドモドッソラです。国境の税関検査があります」、と出し抜けにイタリア語で放送が入り、フランス語のアナウンスに馴れた耳にはとても新鮮に聞えます。
ドモドッソラ駅で20分ほど停車している間に、今までフランス語を話していた周りの人たちが、一斉にイタリア語を話しだしたのには驚きました。それまでフランス語で話していてスイス人かと思っていた親子や夫婦が、途端にイタリア語にスイッチするのです。それも途轍もない南イタリアの田舎訛りだったりして、復活祭のために帰郷するのがわかり、これがヨーロッパなのだなと実感させられます。
今回はご飯もいつも美味しくて、旅を充実させてくれた理由のひとつです。特に、リヨン料理のビストロ「赤い牛」でランチを食べて、筝の後藤さんが食後に期せず頼んだデザートの巨大メレンゲなど、なかなか忘れられるものではないでしょう。確かに卵の形をしたものがカスタード・クリームに浮いてはいましたが、ダチョウの卵くらいの大きさでしたから。
列車もミラノに向けてドモドッソラの駅を後にしたようです。美しいベッラ島など眺めつつマッジョーレ湖畔を暫く走ればもうミラノ。少しばかり目をつぶり、明日からに備えることにします。
ピアノという
持ち歩けない楽器
運ばない
置いてある楽器 響く家具
蓋をあけて 音を取り出すには
椅子にかけ
両腕平行にさしだし
手首から指の骨がひろがる
小指を軸に 腕は傾き 回り 移る
座骨の上に 放り上げる身体の影
背ではなく 身体の中心に近くある脊髄
肩はなく 腕があり
手首があるが 手はない
爪はなく 指の腹がある
鍵盤の溝をたしかめている
指は押し込むのか 掻き寄せるのか
その両方か
どこを押しても 決った音だけなら
慣れた平均律の耳は
共鳴のちがいをききとれないか
どこを押しても 揃った響が返るだけなら
鍵盤に固定された音階は
音の抑揚ではなく
ない色を一つだけのねいろに映し
不揃いな指 抑えたひびき
ずらしたリズム 崩した和音
すれあう余韻 逸れるふしまわし
かすめ取るふち 息づく空間
弱さに引き込まれ
揺れうごく余地を残した
窪みの陰 翳る
進化の止まった楽器
改良の余地もなく やがては捨てられ
音楽も忘れられるのか
と
思うでもなく
今日も
また