2008年9月号 目次

オトメンと指を差されて(3)大久保ゆう
八月、ニーブターとR&Rの日々仲宗根浩
翡翠/非行――翠の石室47藤井貞和
製本、かい摘みましては(42)四釜裕子
13のレクイエム ダイナ・ワシントン(3)浜野サトル
しもた屋之噺(81)杉山洋一
メキシコ便り(12)金野広美
ペルーでの話(2)笹久保伸
アンマンのチャリティさとうまき
夏の労働高橋悠治

オトメンと指を差されて(3)

甘いもの = 必須要素

――QED、宇宙の真理、もののことわり。

以上、今回のお話終わり。

......

......というわけにもいきませんね。

かくして今回はスイーツの話なのですが、その前に私にとってなぜ甘いものが大切なのか前もって説明せねばなりません。

甘いものが必要なのです。甘いものがなければ生きてはゆけないのです。これは私にとって重要であるとともに頭脳を酷使する翻訳家にとっては不可欠な要素なのです。ずっと(8〜10時間くらい)頭を使って作業をしていると、頭が痛くなります。重くなります。しんどくなります。しかしそれでも仕事やら何やらをしなければならないときがあります。そんなときには甘いものを食べたくなるのです。食べると頭の痛みも取れるのです。少し元気になるのです。昔はその回復剤が餃子でした。食べると頭が楽になるのです。しかし仕事をするようになった今、餃子をそうやすやすとは作れません。換気扇を回してコンロをつけてフライパンに油を引いて冷蔵庫から餃子を出してフライパンに載せて表面に焼き色をつけて水を少量入れて蒸し焼きにして水気を飛ばして皿に盛らなければならないのです。そうすると時間がかかって頭まで切り替わってしまって仕事どころではありません。だから私は翻訳をしながら甘いものを食べますチョコを口に入れますバームクーヘンにかぶりつきますケーキをほおばりますゼリーをすくいますお饅頭をかじりますシュークリームを味わいますクッキーをかみ砕きますパイをもぐもぐしますそうするとなぜか出てこなかった訳語がぱっと出てきてすごいふしぎまあなんてすばらしいんでしょうあははいひひうふふえへへおほほ。そうしているうちに以前より好きだったお菓子がもっと好きになり部屋の中で食すだけには飽きたらず、仕事なんてそっちのけでスケジュールを計画的に調整して仕事を早めに切り上げて外のお菓子屋さんに買いに出かけたり食べに行ったりすることになります。なるんです。正直甘いものでも食べないとやってられませんよ。

というわけで言い訳完了(読み飛ばし推奨)さて本題です。

以上の通り私が甘いものを必要とするのは証明されているので、仕事がせっぱ詰まってて外出たくないよとぐずっててもスイーツ食べられるところに行こうなどと言われたら二つ返事でOKします(安い)。

つまるところ、世の女性がスイーツを三大栄養素の上に置くように、オトメンにとってもスイーツはそのような位置づけになるのです。よって、そのために日々働き、日々行動します。

しかしながら、女性とは違って、オトメンが洋菓子店なりカフェなりのスイーツを置いているお店に行くときには、さまざまな困難がいまだつきまとっているのです。

たとえば、私の例を紹介すると、ひとりで行くときはだいたいテイクアウト、複数で行くときはイートイン。そんな感じです。ですからお店のなかで食べるときは、誰かと一緒に行かなければならないわけですね。

同行する人には男性も女性もいるのですが、たとえ異性とケーキを食べに行くときでもそれはデートではありませんっていうかイートインは神聖なものなのでそんな不純なものではないのですとオトメンは声を大にして言いたい! 世の中の女性でオトメンな彼氏が自分以外の女の子とケーキを食べに行ってそれを浮気だとか何とか言って怒っている人がいたらその人は即刻考えを改めるべきです!

オトメンにとっては「ケーキを食べに行く」ことが大事なのであって「女の子と一緒に行く」ことは別に大きなことではないのですよ! その女性はお友だちのひとりです、もしかすると男性のお友だちよりも(趣味や嗜好の点で近く)気安いお友だちかもしれません。なのに、浮気? あ な た は ス イ ー ツ の 大 切 さ を わ か っ て い な い。なのでそこを規制するとオトメンはその不寛容を嫌がって逃げてしまうので注意してくださいねオトメンを彼氏にしているorしたいと思っている方々。

ってゆうかそもそも一緒に食べに行く人は、すでに彼氏持ちの女の子が多いんですけどね。だからその逆も多い。世の中の男性は、彼女がオトメンと一緒にケーキ食べに行ったからといって怒ってはいけないわけですよ。ケーキ目当てでしかないんですから。そこのところをよく理解すべきであります。

だってなかなか男の友だちで一緒にケーキ食べに行ってくれる人なんていないわけじゃないですかだからオトメンにとってケーキ行脚につきあってくれる女の子の友だちはありがたいわけなのですが、そこにもまだまだ無理解と不寛容による障害が多くて、オトメンとスイーツとの関係はまだまだ良好とはいいがたいところがあるのです。(悲しいな。)

それにイートインにひとりで行けという意見には与しがたいです。だって、イートインはそこでスイーツやら恋の話やらのおしゃべりができて、なおかつお互いに食べてるスイーツを交換とかできるのですよ! ちょっと食べてみる? うんみるみる、みたいなやりとりをするためにあるわけじゃないですか。それなのにひとりで座ってても楽しくないです。

そもそもその女の子が彼氏の方が好きなのは、食べに行った先での話でよおく知ってますから。それくらい惚気を聞いてますから。ね。心配ご無用ですよほんと。あと、オトメンが「モテてる」と誤解していらっしゃる男子の皆様、もう本当に全然そんなことないですよ。確かに女の子の友だちは多いですけどね、でもみんな友だちですよ。友だちが多いってことを「モテる」とは言いませんよね。あくまでもオトメンは、女の子にとって「物わかりのいい男友だち」であることが多いのです。

それはそれで少し悩ましいところもありますが、それとこれとは別の話。

というわけで、三回とも「オトメンはつらいよ」というようなお話で終わってしまったのでした。(でもこれで、オトメンの生態を少しでもわかっていただけたら、筆者としてもとっても幸いです。終わり。)


八月、ニーブターとR&Rの日々

八月になってへそのあたりが赤く腫れてきて、できものになった。ニーブター(できもの)は八月七日(旧暦七月七日)の墓掃除に行く前つぶれ、テンプス(へそ)に絆創膏を張る。絆創膏を張ったあとは、最近ごぶさたしていたCD鑑賞ばかりの状態が続いた。きっかけは久しぶりに買ったブツ、チャック・ベリーのチェス・レコード時代のコンプリート集で五千枚限定の四枚組。もうリアルタイムの音楽にはほとんど興味がなくなっている。

音源もダウンロードで購入する世の中、欲しいものはカタログに無いしデジタルのファイルよりちゃんとケースや紙ジャケットに入ったブツがいい。この盤の情報を得て国内で販売されているか調べると二万七千円! おいおい、アメリカのレーベル直販のオンライン・ショップでも送料込みで八十三ドル弱だぞ。すぐさまレーベルのショップでカゴの中へクリック。二週間くらいしてブツが来ました、ブツが。ケースは四つのトレイを折り畳むようになっている。畳んだあとは開かないよう、ファイル入れのように紐を巻きつけて、と凝っている。英語のブックレットに使われている写真は当時のもの。チャック・ベリーが持っているギターはギブソンのESー350かなあ、でもピックアップはシングルコイルのPー90のもあるから1955年以前のモデルか? 映画の「Hail Hail Rock'n Roll」で音合わせの時、エリック・クラプトンが使ったもの? などとギターの本を調べ、DVDの写真で確認したりしながら聴く。ライヴ音源でテンポがおそい、いないたいシャッフルで演奏される「Roll Over Beethoven」、クレジットを見るとカウント・ベイシーがバックをやっている。映画「真夏の夜のジャズ」でも同じ組み合わせがあるそうだが、記憶がない。R&B歌手のバックも数々行っていたベイシーだけど、チャック・ベリーの8ビートについていけてない演奏。他にはバックヴォーカルにマーヴィン・ゲイの名前を見つけたりと楽しい。しかしこの五十年代の音源、チャック・ベリーのギター、相棒でピアノのジニー・ジョンソンの演奏、音ともいい。当時のチェスがいかに洗練された音をつくっていたかがわかるし、スタイルも多様。ただ、ただ、かっこいい。チャック・ベリー、1926年生まれだから大正十五年、六月に亡くなったボ・ディドリーは1928年生まれ昭和三年。ほとんど親と同世代だ。

幸福な音にひたった八月も二十四日にエイサー大会が終わると、やがて涼しくなった。窓から入る風も違うし、雲の形も変わった。昼もクーラー全開でなくても過ごせる。そうすると高校野球、お盆、オリンピックが遠くにいってしまった。


翡翠/非行――翠の石室47

  翡翠庫1

翡翠庫に瑠璃さえや濡れ、まぼろしも
笛竹はかなき 音(ね)をぞ置く
無知のゆめよ、あとみせて
打つわらべ ゑゐ!

  翡翠庫2

翡翠庫にきみは追われ、せめても
ねむりのなかへと歩け。
つゆさえやぬらし、うそぶく巷
世を吠えろ ゑゐ!

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそえ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

  非行詩

なにかを拾得するふたり、
阿部「おや、これで飲むぞ!」
裕己「万札よ、ええわ、もらい!」
ぼけはね、血抜き責め ゑゐ!


(いろは歌は古く「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ〈えe〉 つねならむ うゐのおくやま けふこえ=yeて あさきゆめみし ゑひもせす」と、〈えe〉がはいっていたのが、eとyeとが同音になった結果、落ちてしまって四十七文字という、はんぱな数になったという学説がある。そこで念願の四十八文字からなるいろは歌(ならぬ自由詩)に仕立ててみる。さいごの「非行詩」は実話で〈時効だろう〉、むかし友人の阿部好臣と兵藤裕己と三人で酔っぱらっていたら、雨で濡れた一万円札を拾ったので、それで深夜映画を観てあさまで飲んだことがあり、痛切にいま反省する作品である。)


製本、かい摘みましては(42)

南青山の「Rainy Day Bookstore & Cafe」で八巻さんといっしょにやっている製本ワークショップの2回目は、ポストカードを綴じて革表紙で仕立てる、というものでした。このカフェは片岡義男さんのポストカード・ストーリー(はがきサイズ1枚の表に片岡さんの写真、裏に短いエッセイが綴られたものが20話)なるものを刊行していて、その中から好きなものを選んで綴じ、またこのカフェで開店当初から続いている革のワークショップで教えている原田さんにご協力いただいて、切りっぱなしの革を表紙にしたのです。"ポストカードをコレクションする愉しみと読むという素敵な体験をあなたに"と銘打たれたポストカード・ストーリーに、"綴じる愉しみ"を加えました。

かがりかたは、藤井敬子さんがNHKの「趣味悠々」でも紹介していた「ライトステッチ」。このかがりかたはしばらく前から藤井さんの作品に見てきたけれど、本文がグズグズしなくて、天地に糸がきれいに並んで花布のように見えることなど、機能的で美しいのです。コツは革表紙と本文の間に1枚の紙(支持体)をはさむことで、なるほどなあと思いました。肝心の革とかがり糸は、原田さんがご用意くださいます。テーブルに水牛や山羊のしっかりした革と原田さん手染めによるカラフルな麻糸がたくさんたくさん並んだときには、ああ私も参加者になって選ぶのを楽しみたい、そう思いましたねえ。

参加のみなさまには、先に革を選んでもらいます。革をまっすぐ切るのはむずかしいので、今回は原田さんにお願いすることにしました。その間、中身を仕上げます。片岡さんのカードから好きなものを選び、順番を考え、つなぎ合わせて、本文を揃えます。厚さを測り、それに合わせて支持体となる紙を切り出し、本文にかがり穴、支持体と表紙の革に切れ目を入れたら、蝋びきした麻糸で革と支持体と本文をいっきにかがっていきます。次の折りにうつるときの最初のひと針の位置を気をつければ、糸の運びは簡単。糸を左右によくひいて、きりっと結びます。

ここから先は、自由に仕上げます。表紙裏に紙を貼るもよし、その紙を装飾するもよし。革ボタンをつけるもよし、紐でくくるもよし。これまた原田さんがご用意くださった「Rainy Day」の焼き鏝をあてるもよし。紙や革を切り抜いたり、支持体のかたちをそもそも変えたり見返しを貼ったり......。こうしてばらばらに仕上がっていくのを見るのが、一番うれしい。そうして全員が完成したのは5時間後、だったでしょうか。その間、おいしいコーヒーで休憩したり、片岡義男さんがこっそりいらして、八巻さんが製本した片岡さんの詩集を参加の皆様に手渡してくださったり、それで急きょサイン会+握手会になったり。私としては、漉くのが苦手で遠ざかっていた革に別の角度から触れられたことも、大きな悦びだったのです。


13のレクイエム ダイナ・ワシントン(3)

  
人の心の奥深くには、闇の部分がある。そこに何ものが隠されているか、他人には知る由もない。それどころか、覗き見することさえできない。いや、当の本人だって、闇の存在に気づかないということだってあるだろう。

15歳でデビューしてからのダイナ・ワシントンの物語は、一見すると単純きわまるサクセス・ストーリーである。まずは、天賦の才を認められ、ゴスペル界のトップ・クラスのグループの一員となった。ゴスペルでは物足りなくなってジャズに転身すると、またもその才に注目する人物が現れ、ジャズ界きっての人気バンドにスカウトされた。バンドでの活動はレコード会社が目をつけるところとなり、レコード・デビュー。すると、レコードは好調なセールスを記録し、ダイナはスターの座へとのぼりつめた。

ここで注目しなくてはならないのは、そうしたサクセス・ストーリーの背後にあるダイナ自身の強烈な意欲だろう。どんな意欲か? ベッシー・スミスとビリー・ホリデイをアイドルとし、エセル・ウォーターズからも強い影響を受けた彼女のパフォーマンスは「黒人音楽」という河で育まれたものだ。しかし、彼女自身は、「黒人音楽」という枠の中にとどまることを望まず、人種や階層を超えて支持されるビッグ・ネームであろうとした。
そのことは、まさしく「黄金時代」と呼ぶしかない1950年代中葉から60年代初頭にかけてのダイナのレコーディングに見事に反映している。

ダイナのマーキュリー/エマーシーとの契約は1946年から61年まで続いたが、その初期からカントリーやポップスのナンバーを多く手がけている。万人が認める代表作の1つ『縁は異なもの』にしても、取り上げられた曲のほとんどはポップ・チューンだし、伴奏も堅物のジャズ・ファンなら顔をしかめるだろうストリングス入りのオーケストラだった。

1962年にルーレットへ移籍してのちもこの傾向は変わらず、ビング・クロスビーの「夕陽に赤い帆」や「ザッツ・マイ・ディザイアー」のようなありふれたレパートリーが目立つ。彼女自身の生き方をタイトルにしたような『ドリンキング・アゲイン』(62)では、トーチ・ソングが多く歌われている。
ありふれた曲に新しい生命を吹き込むのはジャズマンの多くが得意としてきたことだが、彼女の場合はそれとは少し方向が違っていて、白人が好む曲を歌えば白人の聴衆からの支持を得られるはずだという野心の存在が大きかったと感じられる。

野心だけではない。その野心を実現させていくためのエネルギーも猛烈だった。ルーレットでのレコーディングは翌63年までの2年足らずの期間だが、残されたアルバムは7枚もある。ダイナはまさしく「猛烈に働く人」でもあったのだ。

  
猛烈な勢いで働き続けるダイナのエネルギーは、当然ではあるが、生活の別な面にも向けられていた。まずは、ファッション。ゴスペルからジャズへと転身していって人気を博した10代後半、彼女はすでにかなりの高給とりだったが、給料の前借りの常習犯でもあった。ほしいと思ったら、がまんできない。そんな性格のために、ドレスや靴(ダイナは靴マニアで、200足持っていたといわれる)の請求書が山のように押し寄せていたのだ。
事実がどうなのかはわからないが、ドレスの値段が700ドルだったか7000ドルだったかで諍いとなり、ダイナが相手に銃をつきつけたというエピソードもある。

ファッションへの過剰な投資がきらびやかな表舞台での出来事であるとしたら、その裏側ではアルコールとダイエット薬品への耽溺が確実に進行していた。1958年、ダイナは酒代の不払いで逮捕されたことがある。出演していたクラブでステージがはねたあとに飲んでいた酒の量が並みではなく、出演料をはるかに超えていたのだ。
それだけのアルコールを摂取すれば、当然の結果として身体は太りがちになる。しかし、それではせっかくのドレスがだいなしになる。それで手をつけるようになったのが、ダイエット薬品だった。どんなダイエット薬をどの程度摂取していたのか、具体的なデータは何も残されていないが、酒量が増えるのに比例してダイエット薬の摂取が多くなっていけば、命を削る結果になるのは目に見えている。

しかし、ダイナは自分を制御しようとはしなかった。彼女は、自分の思うがままに生きようとし、事実そうした。その生き方は典型的な「破滅型」とも見えるが、必ずしもそうとばかりはいえないだろう。むしろ、彼女は自分に嘘をつくことができない気質だったのではないか。自分が望むことは常に正しいことだと認め、それを押し通した。
そのことは、ダイナの結婚生活にもあてはまる。

わずか39年で終わった生涯の中、ダイナは8度の結婚をした(9度という説もある)。最初の相手はジャズマンで、これは若くしてショー・ビジネスの世界に入った女性にはありがちなことだ。しかしながら、その後の結婚相手の職業は牧師の息子、俳優、プロ・フットボール選手など多彩である。子どもがいろいろなおもちゃに気をとられるように、顔つきやスタイル、人格だけでなく、属する世界も異なるさまざまな男たちへの好奇心が、彼女を駆り立てていたのだったろう。
結婚生活上の倫理観にも頓着しなかったダイナは、8人の亭主以外にも常に数え切れないほどの男たちを恋人として連れ歩いていたらしい。

  
1963年12月14日、ダイナは突然に倒れ、そんな奔放な生活に幕をおろした。直接の死因は心臓麻痺だったが、引き金になったのは酒とダイエット薬を一度に多量に飲んだせいだった。
皮肉な事実がある。不意の死におそわれたとき、ダイナはダイエット薬を必要とする身体ではなかった。棺におさめられた彼女の体重は、わずか27kgだった。

(了)

※参照=『The Complete Dinah Washington on Mercury


しもた屋之噺(81)

8月の東京は本当に久しぶりのことで、どんなに暑いかと覚悟をしていましたら、思いのほか過ごしやすい毎日です。昨日でジェルヴァゾーニの音楽会もおわり、桐朋で彼の作曲のレッスンの通訳をしてミラノにもどります。東京シンフォニエッタも都響も、毎日すごく楽しく練習することができました。こんなに情熱をもってみなさん取組んでくださるのだな、と、どの練習でも内心とても感激しておりました。本番中は客席には聞こえていなかったとはおもうのですが、いつも曲の最後、拍手の前に、思わず、ブラボーと声を出していました。練習でもそうでしたが、毎回確実によりよい演奏になってゆき、前に通したときより、ずっと音楽的に深くなっているからです。当り前じゃあないか、と笑われそうですが、何しろ演奏とは水ものですから、何がおきても不思議ではないのです。だから、こうして演奏会が最高の演奏になるのは、一緒に演奏していると何より嬉しいし、さすがにプロだな、見事だなと感嘆しました。

サントリーのように、大きな音楽祭でも、演奏者や指揮者をはじめとして、舞台の裏方のみなさんや、事務局やマネージメントのみなさんが、同じベクトルにむかって仕事をしている実感も貴重な体験でした。また、東京シンフォニエッタでは、高校から同級だったチェロの宇田川さんがいたし、都響にもチェロの富永さんやヴァイオリンで同級の嘉門さんが乗ってらしたし、まだ大学生のころ、始めたばかりのCMの仕事でご一緒したチェロの松岡さんから、一緒にヴァイオリンを習っていたスギゾーさんが連絡とりたがっていたよと伺ったりとか(ご両親が都響でした)、ヴァイオリンの遠藤さんから、大学時代、学生ホールでよくお会いしましたね、と声を掛けて頂いて、ようやく誰だか思い出したり(すっかり立派になられて!)、こういう懐かしい出来事は、気持ちがとてもほぐしてくれます。

テーマ作曲家、ジェルヴァゾーニも大きな成功をおさめたようで、演奏者として少しほっとしているのですが、それにしても今回、カスティリオーニは最初から最後まで悪戯好きだったようです。手書きの巨大な印刷譜は、都響の一番大きな「スーパー・ノビルくん」なる譜面台からもはみ出す大きさで、ミラノから荷物を預ければ積み忘れで成田に届かず、泣く泣く空港からそのまま東京コンサーツで、縮小コピー譜を用意していただき、その日一日製本につぶれてしまったり、あの重たい楽譜を衣装カバンに無理やり詰めこみ毎日練習に出かけていたら、本番前日から腰の辺りがすっかり痛くなり、本番中それは酷い思いをさせられたり(結局今は桐朋の保健室からコルセットを借りているありさまです)、いざ練習を始めてみれば、パート譜とスコアが全く違い、どうやら作曲者は初版のあと、あまりに演奏が難しかったためか、弦楽器パートを大幅に変更してあり、舟歌と題された二つの楽章にいたっては、副題もNenia(挽歌)とすげ替えられ、管楽器、弦楽器がほとんど削られていて、切り詰めた練習時間のなかの貴重な初日は、殆ど練習になりませんでした。

実は妙な予感がして、カスティリオーニははじめから、まずパート譜を見たいとずっとおもっていて、夏前、リコルディに打ち合わせに行った際、カスティリオーニのパート譜を見せてくれないか、ちょっと気になるから、と販促部のアンナマリアに話したところ、もうとっくに送っちゃったわよ、何度も演奏されている曲だから心配ないって、と笑ってとりなされてしまった挙句の出来事でした。

ああ、東京くんだりまで来ても、このイタリア流いい加減さに翻弄されるものか、とさすがに恨めしくもおもいましたが、GPのあと、東コンの垣ヶ原さんが、「あのカスティリオーニは素晴らしいね!」、と上気して話してくださったのを聴いて、ああ本番も頑張らなければと、痛む腰をおさえつつ、気持ちを少しリセットすることができました。

何といっても、都響の演奏のお陰なのでしょうが、演奏会後、湯浅先生をはじめ、皆さんが口を揃えて「カスティオーニは凄い作曲家だね、良かったねえ」、と話しているのを聞いて、うれしいようなびっくりするような、妙な心地でした。何しろ、生まれてこれまで腰痛なんて全く無縁だったはずが、本当に腰が痛いわけですから。

ミラノを発つ数日前、互いに忙しい譜読みの合間に、無理やり時間をつくってエミリオのところを訪ねました。そのとき、彼が5月だかにドイツで演奏した作品の録音をかけて、「これが誰の作品だかわかるかい」と悪戯っぽく笑いました。
メロディアスで、質感は打楽器が多用されていてキラキラ輝いています。でも、それはフランス風なポリッシュな手触りではない。即座にイタリア人だということはわかりました。マデルナかしらん、でも聴いたことがない。「音の質感、色感はカスティオーニなんだけどね、知らないな」、というと、満足げに大きく頷き、「その通り、これはカスティリオーニなんだ。最初期でね。完璧なセリエールで書かれているのに、この美しさを聴いておくれよ!何とすばらしい作曲家なんだろう。間違いなく、これから彼はどんどん再認識されてゆくに違いない。これ程の作曲家にはなかなか出会えるものではないからな。お前もInverno In-Verしっかりやらなきゃだめだぞ」、と。

8年前のちょうど同じころ、8月初めだったと思います、あの年は思いがけなく暑い夏でしたが、同じように家族をヴァカンスに送り出したエミリオと2人きりで会い、ベランダの大きな食卓でプロメテオの楽譜を二つならべてケンケンガクガク打ち合わせをしていたことを思い出します。今回ミラノを発った17日は、ちょうど8年前、ドナトーニが息をひきとった日にあたります。あれから8年。長いような、短いような、まるで時間軸が崩れて4次元の世界をみているような、妙な感覚に陥ります。ただ、17日に日本を発つと聞いた瞬間から、きっと今回の日本滞在はドナトーニがみていてくれるだろう、と一種の安心を覚えたことも確かです。彼の曲は全く演奏しないのに、都合のいいことですが。

もっとも、9月4日にミラノにもどり、翌日朝から7日にあるローディの現代音楽祭のため、殆ど演奏されることのないドナトーニの2作品、弦楽器群のための「Asar」と「Solo」のリハーサルが始まりますが、とにかく今回安心して演奏できた精一杯の感謝の気持ちをこめて演奏するつもりです。今頃あちらでカスティリオーニとドナトーニは何の噂話をしていることか。

都響の演奏会前、控室でいつもにこやかな垣ヶ原さんの声が弾みました。
「今回、2人の作曲者はこのあたり、12番の席に座っていますから、それぞれ演奏が終わったら呼んでくださいね。エエト3曲目のときは......、呼ばなくても、上から自分で勝手に降りてくるでしょうからご心配なく! ということで、じゃ一つよろしく!」

(8月31日三軒茶屋にて)


メキシコ便り(12)

ブエノスアイレスから夜行バスで18時間、イグアスの滝に着きました。ここはアルゼンチン、パラグアイ、ブラジルの3国にまたがるイグアス川が大小あわせて約300もの滝となって流れ落ちています。まずアルゼンチン側から「悪魔ののどぶえ」と名づけられている所に行きました。ここは大轟音とともに流れ落ちる滝を間近で見ることができます。やはり噂通りの迫力に圧倒されました。まるで凶暴なトラが咆哮しながら人間を奈落の底に落とし込んでいくように大量の水が流れ落ちていきます。滝壺は水煙が立ち上り、全く見えません。しかしその恐ろしげな白い奈落から一筋の美しい虹がのびていました。それはまるでその虹をつたって早くよじ登っておいでといっているようなやさしさに満ちていました。

次の日、ブラジル側からも見てみようと国境越えをしました。こちらは「悪魔ののどぶえ」をはじめとして多くの滝を遠景から見ることができます。歩道橋がイグアス川に張り出すようにつくってあるので、細かい水しぶきで全身濡れながらも、たくさんの滝に抱擁されたようなとてもいい気分になりました。人はよく両方の景観を比べ「アルゼンチン側の方が迫力があっていいよ。こっちを見ればじゅうぶんだよ」と言いますが、私はやはり部分と全体の関係のように両方見ないとイグアスの滝を見たことにはならないのではという気がしました。

ブラジルからアルゼンチンに戻り、今度はパラグアイへ行きました。国境の街シウダー・デル・エステはブラジルやアルゼンチンにも頻繁にバスが行き来し、闇マーケットがあるため安い品物を求める人でごった返していました。私のパラグアイでの目的はここから41キロの所にあるイグアス市の移民資料館を訪ねることでした。パラグアイの日本人移民については知らないことはないという園田さんに案内してもらい体験談も含め、いろいろ話を聞かせてもらいました。パラグアイで日本からの移民が始まったのは1936年、1200人が入植しました。日本政府の「少しがんばれば豊かな作物が実る土地が自分のものになる」という宣伝文句を聞き、希望に胸ふくらませてやって来た人たちが連れていかれた所は、うっそうとしたジャングルの中でした。みんなテント生活をしながら、木々を倒し、それらを焼き、畑をつくり、作物を植えました。しかしイナゴの大群にやられ、そのイナゴを食べて飢えをしのいだこともあるということでした。そういえばコスタリカで知りあいになった宮城テツコさんもパラグアイに10歳のときに家族に連れられて入植し、10年間イナゴの被害にもめげずがんばったそうですが、結局パラグアイでは食べられず、アルゼンチンに移ったそうです。今では洗濯屋を営みながら、息子のアキラさんと暮らしています。彼女たちとはブエノスアイレスで会い、カルネアサードをごちそうになりましたが、パラグアイでの筆舌に尽くしがたい苦労話をいろいろ聞かせてもらいました。

このように大変な移住生活がパラグアイではあったようですが、しかし今では野菜の栽培に成功し、特に大豆はもともとパラグアイにはなかったものでしたが、今や強力な国際商品になっているということでした。現在パラグアイには6000人の日本人がいるということですが、ここでの悩みも高齢化で、若者たちはサラリーのいい、豊かで楽しそうな日本に行きたがり、そしてそのまま戻ってこないというケースが増えているそうです。結局、村に残るのは老人と子供。まるで日本の農村と同じ状況がここパラグアイでもありました。イグアス市の日本人居留地は赤土の畑が広がっている何もない、静けさだけがある所でした。食料も日本食材が何でもあるので、もう少しゆくりしていきたかったのですが、このあとアルゼンチンフォルクローレのメッカといわれているサルタに行きたかったので先を急ぎました。

ここではアルゼンチンのバスの便についてはわからないので、とにかく国境だけは越そうとパラグアイの首都アスンシオンのバス停まで行きました。サルタ行きはフォルモサという町から出ているとのこと、3時のバスに乗り4時間、フォルモサに着いた時はサルタ行きはとっくに出てしまい、やむなくここで一泊しました。イグアスを出たのが朝の7時、フォルモサに着いたのが夜7時。すっかり疲れてしまい、その夜は爆睡してしまいました。次の日の夕方5時にサルタ行きに乗り、着いたのが朝の7時、予想はしていましたが長かった――。

サルタはブエノスアイレスから1600キロ。ブエノスアイレスがタンゴのメッカなら、ここはアルゼンチンフォルクローレが盛んなところです。町中どこからともなくフォルクローレの音楽が聞こえてきます。着いた日の夜ペーニャ(フォルクローレが聞けるライブハウス)が集まるパセオ・バルカルセと呼ばれる一画に行きました。完全に歩行者天国になっていて、一晩中各ペーニャやレストランではいろいろなグループが歌っています。その中のひとつに入り、チャンゴ・デ・サルタという男性3人組の骨太の歌を聞きました。次の日はアルゼンチンが生んだ「フォルクローレの巨人」といわれているアタワルタ・ユパンキの生誕100年祭のコンサートが街の中心にある7月9日広場の前のテアトロ・プロビンシアルでありました。2500人は入る会場は無料ということもあるのでしょうが、満杯でした。ゆかりの人たちがユパンキの思い出を語り、マリーナ・カリーソやトーマス・リパンが歌うユパンキの作品を堪能しました。彼の代表作に「トゥクマンの月」というのがあります。これはアルゼンチンに軍政がしかれていた時期、ユパンキが故郷に帰れず、フランスで望郷の思いを込めて作った曲だといわれていますが、私はこの曲が大好きで、長年トゥクマンに行ってこれを歌いたいと思っていました。トゥクマンはサルタから5時間のところにあるコロニアル建築が残る美しい街だそうです。

しかし、バスの便が悪くて時間に余裕がなく、行くことができませんでした。でも、このコンサートの最後に会場も含めた全員で「トゥクマンの月」と歌いましょうという司会者のよびかけに、心をこめて一生懸命歌いました。歌い終わった時、隣に坐っていたヘクトル・モラレスという初老の男性が話しかけてきました。彼もユパンキが大好きだそうで、ユパンキやアルゼンチンフォルクローレ、果てはチリのフォルクローレの話になり、キラパジュンやビクトル・ハラも好きだ、と言ったとき、何だかとてもうれしくなりました。私がメキシコでの生活について話すと、彼もメキシコに5年間いたそうで、おまけに私の家の近くだったためローカルな話で盛り上がってしまいました。そしてなぜメキシコにいたのか聞いた時「亡命していたんだよ」とさらりと言われ、一瞬時間が止まってしまいました。アルゼンチンでは1976年ホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領が指揮する軍事政権が発足、国内のペロン(元大統領のフアン・ドミンゴ・ペロン)支持派や左翼勢力を弾圧したため、3万人が姿を消したといわれています。彼もこの時アルゼンチンを出たそうで、メキシコ、ボリビアで暮らしたといいます。今では柔和な年金生活者といった風情の彼は私をホテルまで送ってくれ「いい旅をしてくださいね」と言ってくれました。そんな彼の背中を見送りながら、これからの人生がどうぞいつまでも平安でありますようにと祈らずにはいられませんでした。


ペルーでの話(2)

ペルーに住んでいた頃、多くの日系ペルー人と知り合った。ペルーには戦前から日本人が移民しており、首都のリマはもちろん、アンデスやジャングル奥地にまで日系人が住んでいる。リマには日秘文化会館という建物もあり、日本語教室、日本風食堂、コンサート、様々な活動をしている。たまに文化会館で出会う日本人移民一世の人と話すのはとても楽しく、自分の励みになった。中には戦前に移民した人もいて、戦前移民は話し方や価値観なども当時のまま、彼らの口から聞く日本は自分が育った日本とだいぶ違い、自分にとってはタイムスリップした感じすらした。

移民した人は本当に苦労した、アマゾンの密林で木を切り、土地を開拓し農業を始めた人、アンデスで農業をした人、その仕事は様々だが、当時の苦労は日本ではほとんど紹介されていない。なぜだろうか。

日系人の中には元大統領のアルベルト・フジモリが有名だが、音楽界で活躍した日系人もいる。クリオージョ音楽のアベラルド・タカハシ・ヌニェス、アンデス音楽ではルイス・ナカヤマ・アクーニャ、アンへリカ・ハラダ、現地の音楽に大きな影響を与えた。その他にも詩人、画家でも数人いる。

移民して70年間ペルーで過ごした石井治子さんは私がリマで企画したほとんどの演奏会に聴きにきてくれた。リマ郊外のスラム街でのイベントの時もきてくれて、いつも一番最後まで拍手をしてくださる。石井さんは宮城県出身で、20歳の頃ペルーへ渡った。実家は旅館をされていたそうだ。ペルーというなれない土地で暮らすのはとても大変だったそうで、お会いするたびに色々な話をして下さる。日本での思い出、ペルーへ来た頃の話。当時は飛行機ではなく、船でペルーまで来たので何ヶ月もかかった。船内で亡くなった人の亡骸は海へ葬られたり、その過酷さは計り知れない。「住めば都」という言葉はあるが、実際はどうだったのだろう。まったく知らぬ土地、親戚もなく、言葉もわからず、いじめられたり。

私が何かで悩んでいたときは、絶対にあきらめない精神を教えてくださり、人間関係で問題があったときは「負けて勝つ」(一歩引き、一見負けたように振る舞い、本当は負けない)と言う事を教えてくださった。自分より70年間長く生きている石井さんの言葉は重く、無条件に心の奥底まで届いた。石井さんの持つ強い精神にはいつも驚かされ、話しをするたびに、自分の苦労などは全然苦労ではない、と思わされる。あの精神を見習わなくては、といつも思いながら、そう簡単にできる事ではない。


アンマンのチャリティ

意外かもしれないが、ヨルダンは、夏でも冷房を使うことはない。太陽はぎらぎらと照りつけるのだが、風は乾き、日陰には、ひんやりとした空気がとじこめられている。

ヨルダンの首都アンマンに、僕たちは、事務所を借りているのだが、バルコニーがやたらと広く、夏の間は、パーティーをするのにもってこい。そこで、レストランをオープンすることになった。シェフは近所に住んでいるイラク人のおばさん。子どもがガンで治療のためにイラクを逃げ出してきたのだが、お金がなくてこまっている。そこで、日本人の友人などに声をかけて、チャリティ・ディナーを行なっているのだ。「おいしいイラク料理が食えてビールものめる」そんな店はアンマンにはないのだ。イラク料理のお店は町にはあるが、ヨルダンはイスラム国なので、酒がでない。そのためか今までにも4、5回やって、好評。客は4、5人でも、毎回、2万円ほどカンパしてくれるので、イラク人にとっては、生活費の足しになる。

しかし、いつも同じメンバーが集まってくれて、NGO関係者なんかの安月給から、お金を集めるのも気の毒。日本大使や、商社などのもっと余裕のある人が、チャリティに参加しやすい催しものをと考えて、アラブの楽器ウードをBGMにと思いついた。そこで、ヨルダンの画廊に行けば、イラク人の芸術家が集まっているので、誰か紹介してもらおうとふらりと訪ねる。

しかし、残念なことに、なかなかボランティアでやってくれるミュージシャンがいなく、ヨルダン人の画廊のオーナーと話しているうちに話が盛り上がり、子どもたちが絵を描いてそれをチャリティオークションにかけようという話になった。その会場で、イラクのおばさんたちが、ちょっとしたたべものをケータリングすれば、日本大使なども来てくれるだろう。あるいは、イラク人のビジネスマン。これもとっぷりと稼いでいる人たちがたくさんアンマンに住んでいる。
早速、僕は、イラク人がやっている会社を回ってみた。しかし、なかなか、そういうチャリティには関心がないみたいで話がからみあわないのだ。

事務所のバルコニーが幼稚園のようになり、ガンの子どもたちが集まってくれた。イラク人の画家も指導に来てくれる。こどもたちは大騒ぎ。しかし、出来上がった作品をみるとにどれだけお金を払ってくれるかは疑問。売れるような感じにしようと私もいろいろ入れ知恵しているうちにどんどんひどくなって自己嫌悪。。

ガンの患者たちは、期待に胸を膨らませ「僕の絵がいくらで売れるのかなあ」と聞いてくる。

実は、同じようなイベントを1年前イラク人の画廊のオーナーが企画しイラクビジネス協会も協力したが、未だに絵が売れたのか売れていないのかも知らされていないという。画廊がネコババしたというより、売れないのだ。ともかくオークションに人が来てくれないと話にならないので事務所のカトーくんも、アンマンの新聞社とかを回って広報に勤める。幸い紹介の記事ものり、当日会場には、日本人の友人も含め40人くらい来てくれた。イラクのTVも三社取材にきて、一枚の絵に1000ドルをつけたビジネスマンもいて、10枚の絵は完売。なんと一夜にして5500ドルを集めることができたのである。
そして、イラクでTVを見たという医師から連絡が入る。
「今晩、アル・フラTVで絵画展のニュースを見ました。カトー君がアラビア語で一生懸命このプロジェクトの目的を説明し、如何に患者を助けようとしているかを語っていました。イラクの子どもたちに対する支援を本当にありがとうございます。本当に本当に、私たちは、イラクのためにイラク人以上に親切で、献身的にイラクを助けてくれているあなたたちに出会えました。」

正直、ここまでお金が集まるとは思わなかったので、驚きだ。図にのった私たちは、次はコンサートだ! イラク人のウードに合わせて、カトー君がアラビア語で詩を読む夕べを開催しよう! と大張きり。患者の家族たちもバスの中で和気あいあい。次に作るお菓子のことなどを話し合っているのだ。

世の中には2種類の金持ちがいることを痛感。まずは、本当にお金にしか感心のない人、そして、お金に執着はないものの金儲けの才能がある人だ。前者は、本当に!ビジネスの話にしか関心がなく取り付く島もない。後者は画廊のオーナーのように、ビジネスで稼いだ分で芸術家を育てたり、人道支援に寄付をしたりしている。後者の友達がたくさん増えるとうれしい。国際貢献のための軍隊の派遣とかが言われる昨今だが、お金をかけるよりも、日本大使とか外交官の現場でのチャリティ参加も実は大切。お歴々には他の国と比べ恥ずかしくないような立ち居振る舞いを期待したい。


夏の労働

毎年 夏はどこにも行かず はたらいている ひとが夏休みでも こちらは秋のシーズンの準備でいそがしい 7月に韓国楽器と西洋楽器のアンサンブルのために『夜の雨がささやいて』を書き 次に打楽器のための『コヨーテ・メロディー』 打楽器とピアノのための『花の世界』と『打バッハ』を書きおえて8月なかば それからいままでに書いたさまざまな うた21曲を集めたソングブックのために楽譜を清書し 一部は作りなおしているうちに8月がおわった 9月に上演する『トロイメライ』の台本は書いたが音楽はこれから 演奏者のことを考えると かなりの部分が即興になるだろう

という状態で ふりかえってみると こんなにたくさん作曲していても 作品として完結したものはすくなかったことに気づく じぶんで演奏するためか あるひとのうたいかたや 楽器のひきかたを想像しながらつくっているし うたわないときも 詩のことばが杖になっていることもおおかった 既成の音楽を引用することもある それもそのままではなく フレーズの途中からだったり メロディーの輪郭だけだったり 

作曲をはじめた頃は 考えている音楽と西洋楽器の音色がちがいすぎて どんな楽器を選んでいいか わからなかった メロディーが上にあり 低音が支え あいだに和音がつまっている という西洋の安定した空間もいやだった オーケストラや室内楽の標準的な編成のための音楽を いまさら書いてもしかたがない と思う 
むしろ 支えをはずす低音 思いがけないアクセントでつまづかせるリズム 高みに あるいは深みに漂う翳り に誘われ 軌道からはずれて さまよいだすメロディーを

ブレヒトの詩に作曲したことがあったが 伴奏する楽器を思いつかなかった その1曲だけは『7つのバラがやぶに咲く』というヴァイオリン曲のテーマになったが 他の曲はなくしてしまった こんどの『ソングブック』にいれたもののなかにも メロディーだけの曲がいくつかある 楽器を指定していないものもある あるメロディーをめぐって それぞれの楽器がついていったり 距離をとってみたり アラベスクを即興で編みながら ひとつの場をつくる そんなことを想像してみる

なにか新しいもの いままでなかった音の発見は 書きとめておく だが 書けないもの その時その場でしか起こらないこともある 作曲でも即興でもない音楽 興味をそそるのは 未完成のまま放置されたもの 反対に 廃墟のように摩滅し穴だらけになったもの 三味線のように制約のおおい楽器 連続し高揚する運動ではなく 一音一音のあいだに静寂が煙っている薄明りの時間