2014年4月号 目次

しもた屋之噺(147)杉山洋一
青空の大人たち(1)大久保ゆう
113ミミズクドリ――っこ、って啼く藤井貞和
ボブ・ディランがやってきた若松恵子
ジャワ舞踊作品のバージョン 3「グヌンサリ」冨岡三智
マーラーにふれて大野晋
革靴を踏む。植松眞人
「ライカの帰還」騒動記 その6船山理
アジアのごはん(63)さよなら乳製品森下ヒバリ
その後のモーグル君さとうまき
製本かい摘みましては(97)四釜裕子
三月、年度末。仲宗根浩
夜がやってきた璃葉
高橋悠治

しもた屋之噺(147)

明け方、まだ暗いうちの鳥のさえずりがとても賑々しくなってきました。あちらこちらから聴こえる呼び交わしを愉しみつつ、無意識にクセナキスの「テレテクトール」を思い出していました。中学生のころ、家を訪ねてくれた担任の先生に、「お前が好きな音楽はどんなもの」と聞かれて、擦り切れるほど聞いた「ノモス・ガンマ」と「ジョンシェ」のレコードをかけたのですが、今にして思えば先生がどれだけ困ったことか、想像に難くありません。少しずつ口をとがらせるようになってきた息子が、そのうちこんな風になってほしくないと、心から願う今日この頃です。

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 3月某日
最後まで書いて沢井さんに漸くお送りする。「浜つ千鳥、浜よはゆかず、磯づたふ」の部分。欲しい音をどう楽譜に書けばよいか考えあぐねた末、結局弾きやすいよう直してもらおうと開き直る。一応悩んだ、というのが自らに対しての安心料なのだが、演奏者からすればよい迷惑。千鳥の話なので、当初「千鳥」と仮題をつけたが、「千鳥の曲」があるので、現代風に読み替え「白鳥」にしようかとも思う。が、今度はサンサーンスのようになってしまう。結局旧いコトバで「くがひ」に決めると、ユージさんの「カガヒ」にそっくりになってしまった。

 3月某日
音に神秘はあるのか、という話は身体のようでもある。肉体はつくれても、魂はつくれるかどうか。息子いわく、人間は未来に向かってどんどん進化して、頭脳が発達し続ける、といっていたが、実際はどうなのだろう。ローマ駅裏の路地で、肉饂飩を喰らう。大変美味。が、主人はまったくイタリア語が話せない。ミェン、ミェンといって、近くで食べている人の肉饂飩を指さしたら、ハイハイ、といって出してくれた。野菜と豆腐を炒めてくれないかと、目の前に並ぶ食材を指さしながら手真似で伝えたのは、目の前で流れている中国のテレビで、ずっと美味しい豆腐料理の特集をしていたから。店の娘は、「アンタなんでイタリア語を話すの? アタイと一緒」、と破顔一笑。

 3月某日 
アラッラとカンディンスキーの展覧会を見る。小学生低学年のこどもたちが、校外学習できていてカンディンスキーを熱心に見入っている。ガイドは、「この絵にはどんな形がかくされていますか?」と分かり易いことばで、見るきっかけを与えてゆく。同じ会場で、ウォーホールの展覧会も催されていて、ウクライナ情勢が緊迫するなか、ロシアとアメリカのアーチストに並ぶ2本の長い行列の先に、作家たちの大きなポスターが旗めく。最初期のカンディンスキーを見ながら、無意識にスクリャービンの音楽がうかぶ。

 3月某日
以前は、作曲において、自分のスタイルを探すことに貴重な時間を割いていたと気づく。分かり易いスタイルを作り上げなければいけない、という無意識の強迫観念。演奏家を従わせるのではなく、自分が演奏家に従い、簡単なことから、思いもかけない結果を生み出したいとおもう。自分が指揮をすればするほど、演奏家を楽譜から解放したい欲求にかられるのはなぜだろう。おそらく、演奏家がそれぞれ自分らしく、本当に生き生きとした音をだせる状況について、多くを学んだからかもしれない。

 3月某日
多くの演奏家が、互いに別のフレーズを演奏するとき、指揮が壁や囲いを作ってそれぞれが豊かな音を出す邪魔をしてはいけないとおもう。作曲する立場からしても、演奏する立場からしても、それは同じ。クラシックであれ、現代作品であれ、指揮者は、それぞれの空間のなかを、邪魔せず行き来できるのが理想なのだろう。

 3月某日
「海がゆけば、腰なずむ 大河原の植草、海川いざよふ。浜つ千鳥、浜よゆかず、磯づたふ」。消えた航空機が、ふと八尋千鳥の姿と重なり合う。

 3月某日
無性に本が読みたい。ローマ駅の書店で買ったStefano BenniのTerra!。2157年、7月29日、パリの外気温は零下11度。第七次世界大戦後、世界は度重なる核戦争で気候が変わり、生活の基盤はすべて地中奥深くに再現されている。遥か昔のように、放射能の心配がなく、本物の自然のなかで暮らせるような惑星は、まだ見つかっていないが、荒くれ者の探検家が、遂にそれを見つけたという秘密のメッセージが届く。場所は不明。それを探しに出かけるという風刺の利いたベストセラー。

 3月某日
教えるというのは、何を意味するのだろうと学校にゆくといつも自問自答する。音楽をみる、その視点を教えたい。透明な窓のような「音符」という存在があるとして、内と外のどちらから、その「音符」を眺められるか、感じられるか。音符を外からいくらなぞっても、内からしか触ったときにしか得られないものがある。テンポのなかに音をあてはめてゆくのと、音をあてはめてゆく、テンポがうきあがるか、の違いだろう。後者のほうが、音が格段に鮮やかに際立つ理由は、よくわからない。

(3月29日ミラノにて)

青空の大人たち(1)

勤勉と敬虔と豪放が服を着れば、すなわち祖父である。少なくとも孫の目から見れば、一般における二宮金次郎とはこういう人のことを言うのだろうとも思える。徴兵はされたが出征しないまま終戦を迎えた祖父は、山村から叩き上げで工場町の洋品店主となった。経緯や評価はなにぶん私の生まれる前のことなのでわからないが、少なくとも私の幼年の記憶には、その商店には支店もあり、業務車も三台ほどあり、また公道には車体に商店の広告が大きく貼られたバスも走っており、さらには自宅にウォシュレットや電子レンジやビデオデッキがすでにあったから、それなりに成功したアッパーミドルであったはずだ。

しかしその後それら先進家電は長年買い換えられず、私の物心つく頃には店も一店舗のみの家族経営になり、大学生になると問屋の廃業に合わせてあえなく店じまい、戦後の自営業の盛衰とも重なるあたり色々とお察しいただけるとありがたい。

ともあれ孫から見れば祖父は出会ったときからすでに祖父であり、子どもからしてみても、やはり大物然とした人物ではあった。地元の人々、あるいは名士や政治家たちとのつながり人脈といったものは、幼児には量りかねても、年始にはきまって文字通り年賀状の山脈に家族が苦慮するといった思い出によって印象として刻まれている。

だが何と言っても祖父を私の祖父たらしめているところは、無類の甘い物好きであったことだろう。とにかく果実や菓子をよく食う。しかも自分が食べるだけでなく、人にも勧める。そしてふるっているのが、言われるがまま我々孫らも口にすると、二言目には「えらい」と誉めるところだ。そうなのだ、我が家では甘い物を食べると「えらい」のである。なるほど孫を「甘やかす」とはよく言ったものだ。

「えらい」と誉められるのなら、孫としても食べない法はない。子どもというものは何よりも甘い物が好きであるし、毎朝新鮮なオレンジやリンゴが出され、おやつには艶やかな饅頭がケーキが供され、あげく食べれば誉められるというのだから、損をするところはひとつもないように思える。もちろん毎日続けば多少辟易することもあるが、食べればその日一日家のなかで名前とともに「えらい」とずっと讃えられるので嫌な気はしない。

しかし大人になってよくよく思い返してみるとその行為は尋常でないところもあるような心持ちにもなり、深く考えてみると戦中の食糧難を経たあとの思いが祖父なりにあったのかもしれず、記憶としてはとにかくいい思いをさせてもらったという輝きだけが残っている。家計としては難しい時期があったはずなのだが、それでも甘味が家に絶えなかったことについて祖父と母には感謝してもしきれない。

あともうひとつ「えらい」とひたすらに持ち上げられる孫の行為といえば、何よりも思い出されるのは読書である。甘味同様、まずもって祖父が読書家であった。ただし自宅に本がたくさんあったというわけではなくして、たたき上げの勤勉家らしく図書館を使い倒すという部類だ。なので近くの丘の上にあった、蔵書のすこぶるよい図書館の利用証を孫全員に作らせ、自分の行くときにはたいてい孫ひとりを連れて行く。そして何の本を読めと言うこともなく、孫に好きなように本を借りさせ、そこで「えらい」と誉めたあと、帰宅時には車で途上の駄菓子屋へ寄り、アイスクリームを孫に買い与え、それを舐めさせては(やはり甘味なので)「えらい」と誉めちぎる。

これもまた孫としては断る理由がない。ついてゆけば誉められるのだ。こうして本と甘味が習慣づけられ、私という人間が出来上がるのだから祖父とは恐ろしいものである。とはいえ祖父がどこまで教育効果を考えていたかはどこか怪しいところもあり、孫に作らせた四枚の貸出券を用いて五枚分の図書を借りていたふしさえあって、したたかな商売人なかなか油断ならない。

ともあれ私は幼くして図書館を多用した。ところが祖父が何も言わないことをいいことに、私もまたその活用が少々妙であり、幼稚園児の私は絵本や児童書を借りるでもなく、もっぱら大型の紙芝居ばかりを大量に持ち帰っていたという。なぜかはさっぱり思い出せないが、かといってその紙芝居を誰かに読んだという記憶もない。物語を読むのなら、紙芝居であるから表の素敵なカラー絵でなく、裏面の白黒絵と文章に顔をくっつけなければならないはずだが、そんな回りくどいことをするくらいなら素直に絵本へ取っ組めばよい通り、どうにもそんなことをした覚えがない。感覚としてしっくりくるのは、大きな紙芝居の絵画部分と向き合うことで、その点は淡い思い出とも一致するのだが、そうすると幼少の私は絵を見ながら勝手に台詞や文章を捏造して楽しんでいたことになり、あるいは一種のお人形遊びや活弁に近かったのかもしれない。今の自分に引き寄せて翻案と定義づけるには、あまりにもうまく出来すぎた話だ。

のちに紙芝居も卒業することになるが、祖父との図書館行きは小学生になってもしばらく続いた。しかし当時は少年向けのチャプターブックにもあまりいいものがないと私は感じたらしく、手当たり次第に雑学の本を借りるに至る。結果私は、揚げ物の鍋から炎が上がった場合はマヨネーズを放り込むとよい、といった類の知識をため込む子どもとなり、一度は英雄としてマヨネーズを投擲する栄誉に浴したいものだと通学路で日々妄想する少年へと成長した次第である。なおマヨネーズは今に至るまで私のなかでは第一に武器であるが、ドレッシングとしては苦手きわまりない代物なので、一人暮らし中も揚げ物をせず平和な現在、冷蔵庫には常備されていない。

祖父は私が国立大へ入ったのを見届けてから亡くなったのだが、病床でもやはり孫のことを「えらい」と誉めていたと聞く。私自身はあまり見舞いにも行けず今となっては慚愧に耐えないが、どこか祖父に「えらい」と言わせ続けなければならないという張り合いもあって、あえて活動的であろうとしたところもある。だからこそ勉学やボランティアという形で読書を継続していたのかもしれないが、その関わり方はまたどこか変で、青空文庫というところで本を読むというよりむしろ本を翻刻したり翻訳したりしていたというのだから、孫も相変わらずである。祖父がそれでも「えらい」と口にしたのは言うまでもない。

思えば祖父には怒られた覚えがない。母や年の離れた姉や兄にはずいぶん厳しかったらしいが、どこかで方針を変えたのだろうか、私と接する頃にはすっかり丸くなっていた、と方々から耳にしている。少なくとも私が「えらい」と言われたのは恵まれたものを素直に受け取っただけであって、祖父のように立志があったわけではないから、どう考えても身に余る。

祖父の真意をどうこうしても詮無いが、ともあれこうして少年には「大人から物を何でも受け取る」という癖がついてしまう。あちこちに行ってはもらい、知らない人からも積極的にいただく、という案配だ。そういう意味で、私にとって知識や技術というものは、関西における飴ちゃんのようなものだとも言える。甘くて美味しいミームであればいくらでも欲しいのだ。


113ミミズクドリ――っこ、って啼く

和歌三神にお参りして、「俳句がじょうずに
なりますように!」って、祈願したらば、
授かったのは、ぐにゃぐにゃの非定型だ。
かたちもなく、あるのは虚空に向かって
投げ出されるこわいろだ。鳥啼(とりなき)、
鳥啼というような声だ。(奥の細道みたい。)
字は「泪(なみだ)」で書く、書き初めです。
かたちがなくなる、なんて、「できっこない」と
思いながら、「っこ」がわからなくなっちゃっ
た。「っちゃっ」もわからん。んで、きもち、
寄せて、ちいさくひだりしたに書きました。


(「それ以降詩を書くことは野蛮だと怒りのように椅子から立って」〈早野英彦〉。阿木津英さんは早野の「椅子から立って」という言い差しの終り方について、結論もならず、さらに続く惑いを暗示する、という。「推敲はもはや必要なくなりてただ定型に縋り書きつぐ」〈斎藤梢〉。前者は金井淑子編『〈ケアの思想〉の錨を』ナカニシヤ出版(新刊)より。後者はどこからだったかな、メモより。斎藤さんの『遠浅』はいまもっとも読みたい歌集の一つながら、未入手。和歌の浦に玉津島神社へ行ってきました。引き潮、遠浅になりつつある現代です。恐れなければならない。)


ボブ・ディランがやってきた

4月から職場でGパンが禁止になる。どんな来客に対しても"ちゃんとした人に見えるように"するためだそうだ。時代遅れなのか、そういう時代だからなのか、ちょっと判断しかねるが、勤め人は、"どんな人に見えるか"を会社に要求されるから、つまらない。仕事を通して自己表現、だなんてちょっと思っていたけれど甘い考えだった。

『ボブ・ディラン ロックの精霊』(湯浅学 岩波新書 2013年11月)を読んでいたら、1967年のサマー・オブ・ラブについて書かれている章で、ヒッピー文化について「平和を求め無抵抗で古い秩序をなしくずしにしようとする無政府主義的互助思想を実践するボヘミアン文化」だと湯浅氏が注釈していた。この定義を読んで、私が理想としているのはまさにヒッピー文化だったのだ! と発見した。
「古い秩序をなしくずしに」しようとしているのだから、ヨレヨレでふわふわなのは、あたりまえなのだ。ちゃんとしているようには到底見えないけれど、互助の気持ちにあふれ、ひとつの国に捉われてなどいないボヘミアンみたいなのが好きなのだ。この事がわかっていたら、Gパン禁止に反論できたのにと今は残念に思う。

そんなバカな話は別にして、『ボブ・ディラン ロックの精霊』は大変良いボブ・ディラン入門書だ。読んでいくと、紹介されているディランのアルバムをひとつひとつ聞いていきたくなる。入門書は原典にあたりたくなるものでなければ。最終章の扉写真は、2012年に大統領自由勲章を受章した時のディランだ。サングラスとちょび髭があやしい。本人はじつにまじめに礼をつくしているのだろうが、何か変だ。けれど、トッポくて、かっこいいな。

ディランはこの3月29日に来日して、ほぼ4月いっぱい滞在して19公演を行う。桜の咲く日本に、ボブ・ディランがやってきた。3月31日の公演1日目を、お台場のライブハウスに見に行った。前回よりよく唄い、ハーモニカを吹きまくるディランであった。アンコール前の本編最後の曲は最新アルバム『テンペスト』から「LONG AND WASTED YEARS」。圧巻だった。会場の老若男女は、ディランの声にみんな胸を撃ち抜かれたと思う。おおげさでなく、本当にそうだった。


ジャワ舞踊作品のバージョン 3「グヌンサリ」

グヌンサリは「パンジ物語」に登場する王子の名前で、男性優形の舞踊である。前回紹介した「メナッ・コンチャル」と同じように、恋する男性の姿を描く、いわゆるガンドロンというジャンルの舞踊だ。グヌンサリという名前を聞くと、バリ島の有名なガムラン団体を想像する方もいるかもしれない。この物語はジャワ発祥だが、主要な舞台はジャワ島の東部とバリ寄りだし、東南アジア各地に広まった大人気ロマンで、タイでは「イナオ物語」の名で知られている。というわけで、当然バリでも知られた物語である。

この物語はジャワでは伝統的に仮面を使って上演される。ちなみに男性荒型の代表的な仮面舞踊「クロノ」も、「パンジ物語」に登場する王である。「グヌンサリ」も「クロノ」も、もともとはスラカルタ(通称ソロ市)とジョグジャジャカルタの2つの王都に挟まれたクラテン村(多くの宮廷音楽家を輩出している)で発祥した仮面舞踊劇ワヤン・トペンの登場人物の舞踊が独立したものだ。つまり民間起源の舞踊である。クラテン村の芸人たちは少人数で巡業し、やがて宮廷人たちの目に留まって宮廷でも踊るようになり、宮廷舞踊の影響を受けるようになった。だから、どちらの王都にもこの2種類の舞踊がある。ここではスラカルタ様式だけを取り上げるが、スラカルタ様式の舞踊「グヌンサリ」には2バージョンある。

ワヤン・トペンでは、グヌンサリ王子の役はグンディン形式の「ボンデット」で踊ると決まっている。いわば、彼のテーマ曲だ。PKJT版「グヌンサリ」が、この「ボンデット」で踊るバージョンである。PKJTというのは1970年代に行われていた中部ジャワ州芸術発展プロジェクトのことで、宮廷舞踊のスリンピやブドヨを含め、当時衰退の危機にあった伝統舞踊の多くがこのプロジェクトで復興、再振付された。そして、もう1つのバージョンが、ラドラン形式の新曲(確か、バンバン何とかという人の作曲)を使って、ガリマン氏が振付けたものである。

PKJT版(13分半)の「グヌンサリ」の音楽は、楽曲形式により3部(メロン、ミンガー、ケバル)から成る。メロン部は静かな音楽で、最初床に座って合掌(スンバハン)、次に立膝に座って合掌(スンバハン・ララス)し、立ち上がってララスを行うという宮廷舞踊の定型があって、優美な動きが続く。仮面は、立ち上がる前につける。宮廷舞踊では楽曲の1周期ごとの終わりに鳴る大ゴングの音に合わせて合掌するものだが、PKJT版ではスンバハン・ララスの合掌は第2クノン(2/4周期目)にくるので、音楽構造に敏感な踊り手には少し居心地が悪い。ただ、マタラマン(ジョグジャカルタ風)に演奏すると、第2クノンでスウアン(中ゴング)を鳴らすやり方があると聞いた。私の考えでは、宮廷男性舞踊はそもそもラドラン形式かクタワン・グンディン形式(両方ともグンディン形式の半分の長さ)の曲を想定して作られているので、グンディン形式では長すぎる、そのため曲の真ん中でスウアンを鳴らして区切りをつけるというやり方が考案されたのではないかと思う。(カセットではスウアンは使っていないように聞こえるが...。)

曲がミンガー部分に移行すると、太鼓がチブロンと呼ばれる華やかなリズムパターンを奏でるものに変わり、踊り手も生き生きとした動きを繰り広げる。その中に、前にさっと進んで止まり、片腕を肩の高さに上げてオケをする(胸を左右に揺らせる)動きがあるのだが(スカランIIIの後)、それはワヤン・トペンに特有の動きだと聞いた。それ以外の動きも、頭を振る動き(タタパン)などもアクセントがはっきりしていて、仮面舞踊に似つかわしい。というのも、仮面をつけたときは少し動きをカサール(粗野)にした方が仮面が生きているかのように見えるからである。そしてこの種の太鼓の演奏法(ガンビョンガン)の終わり方の定石通りに動きを組み立てているので、ミンガーで静かに曲が終わるのかと思いきや、テンポが上がってケバル(速い動きの場面)に続く。このケバルはマタラマンのやり方でソロには本来なかったらしいから、当時は新鮮な表現だったのかもしれない。それでもケバルの最後でテンポが落ち、踊り手は床にひざまずき、仮面を外して舞踊は終わる。合掌に始まり合掌に終わる宮廷舞踊の枠組みは保持され、グンディンという大曲の形式から得られる満足感も残る。

一方、ガリマン版の「グヌンサリ」(8分半)は、踊り手は立ったまま出てきて合掌しないのが特徴だ。観客に背を向けて仮面をつけたのち正面を向いて踊り始める。PKJT版で述べたような合掌〜ララスの部分は省略されているものの、ウィレンと呼ばれる抽象的な宮廷男性舞踊に出てくるような動きの型、フォーメーションが展開する。私はガリマン版の音楽も動きもそれぞれに好きだが、実は振付(音楽と動きの構成)はあまり好きではない。というのも、曲全体の雰囲気と比べて曲の前半(PKJT版で言えばメロン部に当たるような部分)での動きの格調が高すぎる気がするのだ。音楽は洒脱だ(チブロン太鼓に入ったところで女性歌手がルジャ・ルジャアンを歌う演出になっていて素敵だ)が重厚さはない。短い音楽なので入退場で合掌せず、しかも後で述べるように音楽の最後は尻切れトンボのように終わるという演出も軽い。それなのに、古典舞踊を極めた人しか習わないような難曲に出てくる動きやフォーメーションのコンセプトで曲の前半は進行していく。私は芸大留学中に、男性優形舞踊は第1セメスターから第8セメスターまで履修したが、第8セメスターまで至って、第1セメスターで習ったガリマン版「グヌンサリ」に出てきた振りに再会し(それまでの授業では全然出てこなかった)、驚いたものだ。ガリマン氏は、お稽古でちょっと舞踊を習って終わりというような初心の人たちにも古典の味わいを伝えたくて「グヌンサリ」を振付けたのかもしれない。が、アルス(洗練)の極みの難曲が大好きな私には、「構えていたら肩透かしをくらう」ような感覚がある。

ガリマン版のチブロン部分に関しては仮面舞踊にふさわしいアクセントのある動きが選ばれているし、最後はケバル演出になって終わる点でPKJT版とも似ている。が、最後、踊り手が舞台袖に移動し、音楽がフェードアウトしておしまいという点がPKJT版と違う。ガムラン音楽できちんと曲を終わろうとすると、終わる前の周期からきちんと合図を出して手順を踏まないといけないのだが、ガリマン版ではそういう合図が略されている。立って入退場、しかもこういう終わり方は結婚式やイベントで上演するときには具合がいい。カセット伴奏で踊る場合、踊り手が退場しかけたら、ブツッと音源が切られることはありがちだから(良くないけど)、初めからそういう音楽にしておいた、という感じなのだ。

というわけで、「グヌンサリ」の2バージョンの特徴をまとめると次のようになるだろうか。PKJT版は、民間起源の仮面舞踊たる野性味を残し、そういう舞踊が宮廷に取り入れられて形式を整えたという点が見えるような振付が施され、さらに目新しさも導入している。その点に、復興した宮廷伝統舞踊を舞台芸術としても通じる作品にしようとする意志が感じられる。それに対して、ガリマン版ではいかにも宮廷舞踊らしい構造を外し、初心者やイベント用舞踊として敷居が低い感じを出しているが、実は宮廷舞踊の奥義に通じたガリマンの知識が詰めこまれている。


マーラーにふれて

2年間にわたって繰り広げられたエリアフ・インバルと東京都交響楽団とのマーラーツィクルスが3月終了した。実際には10番の演奏が残っているのだけれども、こちらはマーラー自体の残した草稿から後年構成された作品だから、マーラー自身の書いた交響曲の全曲演奏は3月で終了したことになる。このツィクルスを通して、非常に楽曲の見通しの良い演奏だという印章を受けた。時としてマーラーの交響曲の演奏は、混濁したり、情緒的すぎて焦点がぼやけていたりするのだが、楽曲の構成がよく見えてきて、他の作曲家との関係もよく見えてきた。

時として、コルンゴルトとの共通点が聴こえてきたり、ショスタコーヴィチとの共通点が聴こえてきた。ロマン派の流れはマーラーでひとつの結晶を迎え、大戦の中で北米大陸に渡り、映画音楽の中に流れ込んだ。一方で、ロシアでは、ショスタコーヴィチが新しい流れの中に取り込んでいったのだろう。そういえば、ショスタコーヴィチの第4番の作曲では、マーラーの楽曲に対する研究の跡が見られるのだそうだ。音楽は芸術運動の枠の中で位置づけられて、その枠組みが語られるが、一方で単独で存在するわけではないのだろう。

某雑誌の解説記事の中で作曲家の吉松は、クラシックの役割は終わったと書いたが、おそらく終わったのではなく、形を変えながら脈々と続いているように感じられてならない。オーケストラの楽曲は、映画音楽にとどまらず、ロックやポップスの中にも入りこみながら渾然一体となりなっている。

ロンドンのオーケストラは、クラシックの作曲家と同様に映画音楽やサンダーバードのようなテレビドラマの楽曲も演奏する。それが英国の音楽の連続的な流れだからなのだろうが、であるとすれば、日本の音楽シーンにおいても、クラシックが特別なのではなく、多くの音楽とのつながりの中で音楽全体が語られるべきなのではないだろ
うか? などと、考え込んでしまった。

マーラーの楽曲はある意味で分かりやすく、ある意味で哲学に没頭させる波動を有しているのかもしれない。


革靴を踏む。

 地下鉄に乗り込むと座席が空いている。人と人との間にできたすき間には絶対に座らないのだが、通勤ラッシュがもうすぐ終わるという時間にしては珍しく、あちらこちらに空席があった。しかも、目の前は三人分の空きがあり、座らないほうが不自然な様子だった。
 なにやら落ち着かない心持ちで一番端の席に腰を下ろすと、それが合図だったかのように、次々と人が乗り込んできて、あっと言う間にさっきまであった空席がすべて埋まってしまった。ときどきこんなことが起こる。いつもと違うことをすると、いつもとちょっと違うことが起こってしまう。そんな気持ちになりながら、私は地下鉄の車内を見渡していた。
 見渡していたと言っても、あからさまに人の顔をじっと見たりはしない。腰から下の辺りをぼんやりと眺めるのが好きだ。腰から下の衣服に覆われている部分を眺めているだけでも、年齢や職業や時には健康状態までわかったりする。
 いつの間にか、座っている私の前には女子高生が立ち、中年の会社員らしい男が立っている。二人の足元を見るとはなしに見ていると、違和感が通り過ぎた。少し、くたびれてはいるけれど、きちんと選択されプレスされたズボンをはいた初老の男性だったと思う。女子高生と会社員の下半身の間を通り過ぎただけなので、確信は持てないのだがおそらく間違いはないだろう。
 違和感の出所を探ろうと、行く先を目で追うのだが、人と人のすき間から見えるのはかろうじて上半身ばかりで、さっき見た下半身がこのなかの誰かのものなのかがわからない。
 なんにしても、いま上半身が見えている地下鉄の客に違和感はない。それぞれに個性はあるのだろうが、いまここにいることへの違和感はない。それなら、さっきの違和感は何だったのだろう。
 地下鉄はいくつかの駅に止まり、何人もの乗客を降ろしたり乗せたりしている。目の前の人たちも右に揺れ左に揺れながら、入れ替わっていくのだが、まだ、さっき違和感をもった男は降りてはない、はずだ。
 地下鉄が少し深く揺れて、次の駅に停車した。あまり人の乗り降りの多くない駅だ。何人かの乗客は降りたが、その何人かのなかに私が探していた男がいた。普通のタイミングでドアからホームへ降り、ごく普通にホームを歩いていく姿が見えた。それでも、他の乗客にはない違和感がその男にはあった。私はまるで外の景色を見たがる子どものように窓のほうに向き直って車両の中から男をじっと見ている。
 歩き方も腕の振り方も鞄の持ち方も普通だ。しかし、違和感の出所はすぐにわかった。その男は革靴のかかとを踏んでいたのだった。スリッパを履くように、革靴のかかとを踏んで履いていたのだった。
 なぜ、男は革靴のかかとを踏んでいるのだろう。いつ、どのタイミングで革靴のかかとを踏んでもいいと思ったのだろう。そして、何よりもたったそれだけのことで、この男は私かも知れないと思えるのはなぜだろう。
 特に疲れた顔も見せず、おそらく今日一日仕事をする職場へ向かう男の背中がエスカレーターへと向かって行く。濃い茶色をした革靴をスリッパのように履く男の白い靴下のかかとはすでに黒く汚れている。


「ライカの帰還」騒動記 その6

私はこの話を1話完結のカタチで書いていて、全12話で終わる構成を考えていた。1話完結にするのは、掲載予定の雑誌が「カメラマン」という月刊誌であることがその理由だ。月刊誌の場合、ストーリーの最後に「引き」をつくって「続きもの」にしてしまうと、読者は1カ月先まで待たされることになり、同時に前作の展開を1カ月という長い時間、覚えていてもらわねばならない。いくら何でもこれは不遜だ。

また、この話は1話ごとのエピソードがそれほど単純ではなく、じっくり読んでもらいたいことから、ページ数を「折り」に都合のよい16でなく、20とすることにする。これは起・承・転・結を4ページごとにするより、5ページごとの展開にして「読み応え」を深めようという方策だ。このノウハウは長年にわたって小学館が築いてきたものだけど、今回はこれを採用させてもらうことにした。

しかし雑誌をつくる編集現場にとっては、ポンと放り込める16ページではなく、20ページを台割に織り込むことは容易ではない。ポンと放り込めるということは、間に合わないとなったら「折り」ごとポンと外せるということでもある。前後のページに干渉しない分、リスクが大幅に減るというわけだ。20とした場合は、4ページ分が他の「折り」に食い込むことになるから、どたん場の修正が至難のワザになる。

20ページに固定された連載企画を「外部」につくらせるにあたっては、よほど掲載誌側の理解と協力がないと難しい。当然、編集部からはクレームがつくだろうが、これは根気よく説得して了解を得るしかないのだ。私は4話分の原作を月刊カメラマンの編集スタッフ全員分コピーし、以前ホリデーオート誌に掲載した吉原さんのF1コミックを添えて、カメラマン誌の編集会議に臨んだ。いよいよプレゼンの開始である。

こんな話で、この人の絵で展開したいと思います。ご意見を伺わせて下さい。ここでダメを出されたら、すべてが無に帰する正念場なのだけれど、なぜだか私には何の不安もなかった。やっとたどり着いた案件が、ここで座礁するわけがない。考えてみれば何の根拠もないのだが、自信たっぷりで促す私の前で、スタッフは静まり返っている。見ると全員が原作のコピーを読むことに没頭していた。

やがてスタッフたちはポツポツと顔を上げる。目はキラキラしていた。「いいじゃないですか!」「すごい話ですね! これ実話ですか?」「これは楽しみです! いつから始められますか?」この声に私はこれまでのすべてに感謝しつつ、頭を下げた。気にかかるのは編集長の一杉さんだけが、渋い顔を見せていることだ。年配の彼はコミックに親しんできた世代ではなく、社長の林さんとも折り合いはよくないと聞く。

このプロジェクトが社長のキモ入りであることも、あまり面白くは思っていなかったのだろう。しかし雑誌は編集長のものである以上、彼がOKを出さなければ話は始まらないのだ。一杉さん、いかがですか? 私は念を押しにかかった。スタッフ全員が賛同している姿を見れば、安易に反対意見を出すわけにも行かないのだろうが、彼なりに厳しく注文をつける。これは主に進行に関してのことだった。

「20ページというボリュームは、けっして軽いものじゃねぇぞ。もし作業が遅れて、入稿に支障が出た場合はどうする?」これは編集長として当然の懸念だが、進行畑ひとすじでやってきた一杉さんは、そう言って私を睨みつけた。だけどこれは私にとって想定内の質問だ。作家さんも人間です。病気になることも、事故が起こることもありますから、編集作業には作家さんの健康ケアも含まれます。

さらにホリデーオート誌の「I CAN C!」連載の経験も踏まえて、余裕をもって3話分、つまり3カ月分のストックができてから連載を開始させたいと思っています。もちろん、これはムリだと判断したときには、できる限り早い段階でお知らせし、進行の妨げにならないよう努めます。一杉さんは、まだ私を睨みつけている。私はニッコリ笑って、この段階ではそうとしか言いようがないじゃないですか、と言った。

編集会議の席に、やっと笑いが戻った。一杉さんも苦笑いだ。「よし、船山がそこまで言うなら、この件は任せた。月刊カメラマンはコミック掲載を受け入れる。しっかり『いいもの』をつくってくれ」スッタフたちは互いの顔を見合わせて微笑んでいる。私にサムアップを送ってくれる人もいた。一杉さんは号令を下す。「さぁ、次号の編集会議を続けるぞ!」プレゼンは、どうやら成功である。

私は自分の席に戻ると、吉原さんに掲載誌の承諾が得られたこと、さっそく作業にかかって下さいと連絡を入れた。ついに戦闘開始である。当初、私が想定した石川サブロウさんではなく、彼の絵と構成でこの話が綴られる。どんな感じになるのだろう。思いはぐるぐると頭の中を駆け巡るが、サイは振られたのだ。しかし、私の漠然とした不安をヨソに、現実は私の思いをはるかに超えて進行して行った。

コミックの制作は、まず「ネーム切り」という作業から始まる。「コマ割り」とも呼ばれるこの作業は、決められたページ数の中でストーリーをどう展開させて行くかという、いわば設計図とも言えるものだ。作家さんにとってこの作業は、実際にペンを入れることより難度が高いと言われ、およそ7割の時間がこれに費やされる。ネームが完成すると編集はこれをチェックし、作品の仕上がりを見通すことになる。

吉原さんには、さっそくこのネーム作業にかかってもらったのだけれど、彼から「上がりましたよ!」という連絡をもらい、このネームを見て私は愕然とした。本来ネームというのはわら半紙などに割られたコマや人物の配置、セリフの入る吹き出しなどが示される簡素なもので、人物などは顔を円で表わし、向きを示すのは中心線と両目の位置を示す線を十文字で描かくことが普通だ。ところが吉原さんのネームは違った。

鉛筆ではあるが、原稿用紙上に細かく描写しているだけでなく、人物などは表情までが描き込まれている。このまま印刷したくなるほどだ。背景にしても然りで、あとはペン入れとトーン貼りを待つばかりという仕上がりである。これは正直、困った。設計図であるはずのネームが、ここまで「完成」に近づけられては編集がサジェッションを入れる余地がない。もちろんチェックが不要なほどであれば、問題はないのだけれど...。

気を取り直して、じっくり読み込んでみる。コマ割りはストーリーの流れやスピード、余韻を表わすばかりでなく、心情をも表現する。人物の配置や場面の「寄り」「引き」は映画で言うところのカメラワークであり、人物の動きを含めた「演出」や「脚色」、さらに「背景」や「コスチューム」などまで、作家さんはほぼひとりでこれを考え、指先ひとつでつくり出して行くのだ。実に孤高で孤独な作業である。

コマ割りに2、3引っかかるところがあったが、このネーム切りは見事と言うしかなかった。やはりこの人は只者ではないのだ。引っかかったところを、遠慮がちに指摘すると、吉原さんは腕を組み、じっと考えている。やがて「なるほど!」と言ったと思うと消しゴムを取り出し、私の目の前で細かく描かれたコマをゴシゴシとこすり出したではないか。ちょっと待ったぁ! である。私は気が弱いのだ。

私はコピーをとらせてもらい、編集部に持ち帰ってさらに読み込ませてほしいと言った。帰りの電車の中で私は笑みを止めることはできなかった。すごいことが始まっている。私の頭の中から石川サブロウさんの絵は完全に消失していた。吉原さんとの出会いは必然だったのだ。後日カメラマン編集部に報告したとき、スタッフから「ところでこの話、タイトルは何ですか?」と訊かれた。しまった。まだ、それは考えていなかった。


アジアのごはん(63)さよなら乳製品

「え〜、これからはわが家の食事は、乳製品と肉類なしでいきます。動物性タンパク質は全体の5パーセント以下にしまーす」
去年の秋にタイの旅から日本に戻って、『乳がんと牛乳』(ジェイン・プラント著 径書房)、『葬られた第二のマクバガン報告上・中・下』原題は『The china study』(キャンベル博士 グスコー出版)という本を入手したわたしは、読み終わるとすぐにウチの同居人にこう宣言したのであった。
「え‥動物性って魚は?」「魚は放射能汚染されてないのを、食べるけど減らす。うちは魚食べ過ぎ」「え〜〜、ちょっと待って。じゃあカレーはどうなるの? それに‥親子丼ぶりは? あ、鶏肉と大根の煮込みは‥」「肉がなくても作れるから大丈夫!(ウソ)」

これまでは料理に肉が入っていると、けっこうイヤそうによけて食べていたくせに、なんだこの同居人の反応は。
「肉はイヤなんじゃなかったの」「‥そんなことない」もともと、あまり肉を食べないのに、肉なしで行く、とか言われると妙な反発心が生まれるのかもしれないな。乳製品については、食卓に出なくてもとくに不満はないようであった。

半年前に「視神経腫瘍」と診断されたワタクシは、タイのミラクル植物マロム(モリンガ)で薬草治療(カプセルを飲むだけ)するとともに、この際、食療法も試みることにしたのである。じつはヒバリはこの三年ほど前から鶏肉に拒否反応が起きていて、食べる回数が激減していたので、鶏肉は食べなくても平気だ。というか、食べられない。かわりに豚肉を食べていたのだが無理して食べることもない。牛肉はもともとあまり食べていない。

インドに旅するとベジタリアンが多く、ベジの店しかない町もあったりして、肉なし生活が続くことが多い。初めは「肉食べたい」などと考えるのだが、しばらくすると忘れていて、しばらくぶりに食べると、「ケモノ臭い」「気持ち悪い」「体が重い」などと思う。肉は食べないでいると、特に欲しいと思わなくなるのは、インドの旅で経験済みだ。乳製品は、アレルギーもあるので地道に減らしてきていたが、少しならいいかと、ピザとか生クリームのケーキをたま〜に食べていた。しかしアレルギー以上に、乳製品には大きな問題があることがはっきりしたので、この際きっぱりとやめることにした。

最近、まわりで「がん」が多い。女性では乳がん、大腸がん。男性では食道がん、大腸がん、肝臓がん‥。放射能はどんどん放出され続けているので、がんのリスクが上がっているのは明らかだ。これまで以上に免疫を高め、がんにならない食生活をしていく時が来た、と視神経腫瘍と言われたときに思ったしだいである。そこで、参考になりそうだと思って読んでみたのがさきほどの二冊。この二冊を読んで、はっきりとしたのは「乳製品は体に悪い」「動物性タンパク質の食べすぎは体に悪い」ということである。

乳製品に関しては、わたしには乳製品アレルギーではあるのだが、口においしいので、たまにちょっとだけ食べていた。食べたときの感じで、アレルギー以外にも何か問題があるとは感じていた。比喩でなく胸のあたりが何かモヤモヤするのである。それらの疑問を明確にしてくれたのが『乳がんと牛乳』だ。

乳製品の何が問題なのか。それはミルクに含まれる子牛のための成長ホルモン、ホルモン様物質、さらに工業化された牛乳の生産過程で牛に与えられる遺伝子組み換え成長ホルモン・抗生物質など内分泌かく乱物質が、大きな問題だったのだ。プラント博士は「乳製品が乳がんと前立腺がんの原因」と断言している。

栄養のある飲み物としてしかミルクを考えていないと、愕然としてしまうことだが、ミルクは当然ながら「子牛」を育てるための栄養と免疫物質、そして牛の成長ホルモンなどの様々なホルモンで出来ている、あくまで子牛のための飲み物であり、子牛用ホルモン・カクテルなのだ。ちなみに子牛は1日に1キロの体重を増やす。人間の赤ん坊は1か月に1キロ増である。子牛が1日に1キロ育つためのホルモンがどれほど入っているのか想像してみてほしい。あなたはそれを飲めますか? もちろん、牛の成長ホルモンがそのまま人間に成長を促すわけではないが、たいへんな影響を及ぼすことは明らかだ。ミルクに含まれる牛の成長ホルモンが乳がん・前立腺がんに働きかけてがん細胞が分裂・増殖することがすでに研究で確かめられている。最近は乳がん・前立腺がんだけでなく他の部位のがんにもこの牛の成長ホルモンが作用することが分かってきている。

著者のジェイン・プラント博士自身が乳がんになり、自分で原因と治癒方法を求めて辿り着いた結果が「すべての乳製品を絶つ」ことだった。この本は物語としてもなかなか面白いので、乳がんになってしまった方にはぜひ読んでほしい。乳がんになってしまっても、「すべての乳製品を絶つ」ことで、がん細胞が消滅し、再発もしない、というのだから、試してみて損はないでしょう。ヒバリとしては、これにさらに寄生虫駆除、という項目もぜひ付け加えてほしいと思うが。

「わたしは牛乳なんか飲んでいない」という人の食生活を見ると、生の牛乳を飲んでいなくても、牛乳のヨーグルトを食べる、ミルクコーヒーを飲む、トーストにはバターを塗る、チーズを食べる、生クリームの入ったお菓子、バターやミルクを使ったお菓子をしょっちゅう食べているのに、自覚していない人がかなり多い。この間も友人にその話をしていたら、「牛乳は飲んでないよ〜」と言ったすぐ後に「この紅茶、濃いね」といって紅茶に牛乳を注いでいたのには笑った。牛乳をコップに注いでそのままゴクゴク飲む、ことは確かにしていないが‥。市販の加工食品、お菓子、スナック類には乳成分が含まれていることが多いので、要注意だ。ケーキやミルク菓子なら分かるが、柿の種にも入っているのには驚いた。風味をよくするためであろうか。

発酵食品は体にいいからと、牛乳ヨーグルトをせっせと食べている方は多いと思うが、実はそれは乳がんへの近道なのかもしれない。ヨーグルトは豆乳で作ってほしい。それが面倒なら、牛乳ヨーグルトはきっぱりやめて、ちゃんと作られた納豆や漬物、みそなどを食べよう。豆乳は、製品を選べばかなり違和感なく牛乳の代わりになる。そのまま飲むとお腹が張りやすいが、加熱すると消化が良くなる。

しかも、牛乳はたとえ血液検査でアレルゲンと出なくても、ぜんそくをはじめとする様々なアレルギーの原因とも考えられている。一般の牛乳はホモジナイズドといって脂肪分を大変小さな分子に加工している。この分子が牛乳のタンパク質をくるんで、本来は血管の中に直接入るべきでない乳タンパクが血管中に入ってしまう。このために免疫異常のさまざまな病気が起きるというのだ。免疫異常の難病の方も、乳製品を一切絶つ食生活を試してみる価値がある。

牛乳は体に良い、というのは幻想なのである。
本当は男もだが、乳がんの切実さを考えると、断固、言いたい。
「女たちよ、すべての乳製品をやめなさい」と。そして豆乳を料理に使おう。

かつて学生の頃、ぜんそくになって入院したヒバリは、医者に言われた。「タバコとお酒やりますか?」「はい、両方」「どちらかを止めなさい。そうしないと死ぬよ」「‥‥タバコやめます」死ななかったが、ぜんそくは治らなかった。あのとき、医者はこう言ってくれればよかったのだ。「タバコと乳製品を止めなさい」と。十年ちょっと前に乳製品の摂取量を激減させてから、気が付けば一度もぜんそくの発作が出ていない。
乳製品を止めますか、それとも...。


その後のモーグル君

シリア難民のモーグル君はまだ17歳の青年だ。身長は180センチ位あって、見た目は、ハンサムな好青年という感じだが、ストレスに弱く、すぐお腹が痛くなり仕事を休んでしまう。そのくせ反抗的な態度を取るもんだから、ついに、次長のS子が、モーグルを首にしてしまった。涙を浮かべて、モーグルは「僕はシリアに帰る」と言って去って行った。その後音沙汰がなく、生き永らえているのか心配していた。気が付くと一か月。なんとなく、携帯に電話してみるとモーグル君がイラクに戻っていたのだ。

「どうしていたんだい?早速話を聞かせてくれ」「三日前にイラクに戻ってきたんだ。」
モーグル君は、試験勉強をしているらしい。「そのうち」と沈んだ声が聞こえた。相変わらず覇気がないが、まあ、それでも無事に生きていてよかった。

試験勉強が終わったころを見計らって、モーグル君の様子を見に行く。ちょうど前日に、お父さん、おかあさん、兄弟姉妹も一緒に逃げてきて7人で一部屋に住んでいる。「あの次の日、僕は朝3時に家をでて、7時には国境の町についたんだ。友達の家で休んで暗くなったころに、ブローカーが車を手配してくれて、何台か車を乗りついで国境を越えたんだ。」
「カミシリ? 電気は23時間止まったままで一時間しか来ないんだ。燃料もそこをついて、寒くてたまならない。みんな街路樹を切ってストーブにくべていた。もう燃やすものがなくて、靴を燃やしちゃって、外を歩けなくなった友人もいたよ」勉強するのも大変で、ろうそくの火が頼りだという。爆弾が毎日のように爆発している。「それよりも、誘拐やレイプを恐れている」
「水が悪いんだ」お腹でもこわしたの?「いや、頭を洗ったら、髪の毛が抜けるんだ。毒がまざっているのかなあ」モーグル君は頭を見せてくれる。円形脱毛症だ!「それは、ストレスだよ」と教えてあげる。「病院に行かなくても治るの?」ああ大丈夫だ。

モーグルのお姉さんは、シリアで、アコーディオンを教えていたそうだが、そんなものを持って避難は出来ない。そういえば、日本でもらったアコーディオンがあったのを思い出す。津波でアコーディオンが流された小学校に寄付しようとしたがすでに誰かがアコーディオンを寄付していたのでいらなくなってしまったのだ。今度、日本から持ってきてあげるから、コンサートをやろうと約束した。

S子は、モーグル君を泣かせてしまったことに、罪悪感を感じている。
「禿げていたんですか? それって、私へのあてつけですか?」
「いや、彼は、本当にストレスで禿げることは知らなかったみたいだ。本気で、水の中に毒が混ざっていると信じていたよ」
私は、日本に一時帰国したS子にアコーディオンの運び屋を頼んだ。
「重いですよね。アコーディオン。わたしが運ぶんですか?」
「いやー意外と軽かった。5キロぐらいか、6キロか、7キロ、まあせいぜい9キロ」
「重くなってる。。。」
モーグル君一家が無事だったんだし、それくらいのことはやったげよう。モーグル君一家に音楽を届けたい。


製本かい摘みましては(97)

〈私の裁縫箱からへらが消え、彼はサティのCDを聴きながらへらを使って和紙の手折りを楽しんでいた。〉 『鳥居昌三詩集』(指月社 2013)に鳥居房子さんが「海人舎のひと」と題して書いている。昌三さんは参加していた詩誌「VOU」が終刊したあと個人誌「TRAP」(海人舎)を刊行して、回を重ねるにつれ増えた寄稿者に喜び悩みながら活版で刷ったページをへらで折っていたという。「TRAP」は駿河袖野三椏紙に毎号165部もしくは175部が印刷されて、1994年までに15号が刊行された。海人舎には製本家の大家利夫さんと造った美しい特装本もいくつかある。最初に見たときも今も途中も、それらの特装本を思うと同じ気持ちがわいてくる。憧れと言うのだろう。

と言いながら、誤植を出したつらい春を思い出している。似たような紙を選んで同じ文字列をいくつも並べてプリントして、余白をできるだけ出さないようにカッターで切り、25冊ずつ梱包した茶色の紙をくるりとはがして、一冊ずつ、表、裏とかえしては撫で、正しい文字列を切った紙にのりを入れ、めざすひと文字に焦点を合わせて貼り始めをきめて左親指でおさえ、右人差し指でまっすぐなぞって貼り、裏白紙で上からおさえる。25冊を重ね直して同じ茶色の紙でまき、在庫分はせめてそうして出したのだった。ひとつずつ、一枚ずつ、一冊ずつ。集中して時間は過ぎて、手渡すことのできるモノとしての本に助けてもらって、関わる他の誰にも関係ないがわたしの気持ちはしずまった。書いた手紙に封をして宛名を書いて切手を貼ってポストに向かう気分であった。

「海人舎のひと」には自分で造った夫婦箱に気に入った本などをおさめていたという話が続く。〈開けると出版案内、文芸書評、新聞切り抜き、著者からの私信と共に鳥居昌三の本に対する思いが紙の香りに蘇る。〉無論、箱は無造作にやや厚めに造られたのではなく、あれとこれとそれを入れたいからと計算を尽くして造られたのだろう。それにしても、鳥居夫妻の出会いは〈不等辺四角形の対角線の接点のような不安定な出逢いだった〉そうである。潮の香りがする。


三月、年度末。

年度末である。であるからいろいろあるはずだろうけど、いつもの通りかもしれない。

子供の卒業式。なんともゆるい進行で進んでいく。ひとりひとり卒業証書を校長先生から受け取る。その後、何かを叫ぶやつ、バク転するやつなど様々。昔の工業高校の雰囲気を漂わせるやんちゃな部分もありけっこう楽しむ。

一通り終わると次に生徒会主催の式が始まり、その段取りの悪さを奥さんに突っ込んでいた。子供によると各クラスの思い出の写真をプロジェクターで紹介するところでひとつのクラスのスライドショーが丸々飛ばされ、次のクラスが上映されていたと言っていた。卒業式が終わったあと帰宅した野郎は、クラスのみんなで焼肉屋に行き、そのまま友達の家に泊まり、帰ってきたあと映画を見に行く、といって鉄砲玉になった。まあおのれのことを思い出したら、卒業式のあと一旦帰宅するも、その後三人くらいでとんかつ屋で夕食を食べながらビールを飲み、友人宅へなだれこみ酒盛りをしていた未成年。今だとお酒に関してはかなり厳しくなっているのも時代だろうか。

沖縄にいるとシーズンオフのリゾートホテルでは島内在住者用に格安のプランがあり、それを利用して普段では宿泊できないようなリゾートホテルに実家の母親ともども行く。部屋はオーシャン・ビューで「あ〜、こんななんだ。観光で来る人が見る風景は。」と、楽しみながら遊ぶ。翌日ホテルをチェックアウトしたあと、ちかくの道の駅に行き、野菜等を仕入れる。ホテルで売っていた島らっきょが半額以下。久しぶりに沖縄観光をする。住む場所と観光をする場所の落差を楽しむ。

四月から消費税があがる。それとともに職場でその対応に追われる。税込み価格表示のところや税抜き表示のところ、両方とも表示するとこがありそれに文句を言う人ありで、ご意見を伺いつつも仕事場の表示変更を深夜まで行う。なんとも面倒くさいもの。

四月になればこちらの大学に進学した姪っ子の入学式がすぐあり、うちの子供は東京に行く。来るひと、行くひとさまざまな準備を見る三月。


夜がやってきた

親しい夜がやってきた
いつものようにランプがぴかぴか光り
風は壁を伝って薄く伸びていく

春の夜の道に、
通るであろう小道の奥に
暖かい不安を置いた
曇った空に色が重なって、
少し見えにくく、しかし輪郭は鋭く。

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サイレンが遠く聞こえる
懐中電灯の青い光 にぎりしめ充電する微かな音 
暗い家
ねむい子どもを歩かせ 赤ん坊を背負って急ぐ
川向うの洞窟へ
いつももんぺ 髪は手ぬぐいで包む
鎌倉は田舎町で たんぽぽやえんどう豆を食べる
           ピアノは蓋が閉まっていた
おとなたちはいつも近所で過ごす

暑い庭にひしめき座る
家から庭に向けたラジオ
雑音にまぎれた声
その三日後
山の向こうで高射砲が一発 庭に
赤茶けた鉄の塊が落ちてきた

戦争が終わり 音楽がはじまった
 子どもたちがピアノを習いにくる
夜 母は自分の練習をする 
バッハ=ブゾーニのシャコンヌ
 フランクの前奏曲・コラール・フーガ
  ショパンの幻想曲や 子守唄
近所にいたヴァイオリニストと クロイツェル・ソナタ

 ズボンはもうはかない
短めの上着と細めのスカート
フリルカラー・シフォンブラウス
レッスンの合間に 古い料理カードの絵を見て
おなじ皿がひと月続く
ミシンを踏んで縫った 不格好な子どもズボン

ひさしぶりのコンサートで伴奏をして
批評を読み だまって雑誌を閉じた
それからは
生徒に弾かせる曲を 自分でも練習していた

昔のことは言わなかった
聞いておきたかったことも 
 もう忘れたよ としか言わなかった

    *

坂の上の家から
毎日町に出る
足は強かった

九十歳をこえると
ピアノの音は聞こえても
人の声は聞こえにくい
ひとりで昔の写真を見る
姿勢が左に傾いている
 しずかだね
 世の中にだれもいないみたい

ピアノはもう弾かない
からだが重く
支えても足がうごかない
 あぶない あぶない
夜はすぐ目覚め
明かりを点ける
 闇が離れていくように

音楽は もういらない
家を離れて 病院の四人部屋
 出てきたな
 びっくりした
 見舞いに来たの

 いっしょにあそんで たのしかったね
 もっとあそびたいけど
 いまは つらいことばかり

日が暮れてゆく
血圧、脈、呼吸の波がゆれている
呼吸が波立ち 乱れ
他の波に波紋が伝わる
波頭が折り重なり 狭まり尖って
 せわしく喘ぎ
          たちまち砕け散る

*母・髙橋英子(1914.1.31〜 2013.5.21)