製本、かい摘まみましては(25)

四釜裕子

よしもとばななの『ベリーショーツ』は、奥付によると1月1日が発行日だが、昨年11月には店頭に並んだ。発行日のおよそ2カ月前には発売していたその理由を、発行元の「ほぼ日刊イトイ新聞」で明かしている。仕掛けたのは、この本を装丁した祖父江慎さん。これまで10桁だったISBNが今年から13桁となり、書体については、11級以上にすればこれまで標準化していたOCR-Bフォントに限らず自由となった。祖父江さんがその新しい表記でやりたいと申し出て、実現したようだ。日本図書コード管理センターの「ISBN規格改定に対する日本の対応策について」によると、13桁の読み取り体制が整って流通上の支障などもないとマネジメント委員会が判断すれば、新しいISBNの表示時期を早めることがある、とあったから、同種の「未来発行」本は他にもあったのかもしれない。

さて『ベリーショーツ』は、しおりがやたら長い。通常しおりは、判型の対角線よりちょっと長めだ。ハガキサイズのこの本の場合は対角線が18センチだから、しおりは20センチ弱が相場のところ、45センチもある。祖父江さんは帯にも細工し、それを切ってしおりに貼って遊ぶのもいいよ、と示すが、正直、長いしおりは邪魔で、せいぜいぐるぐる巻いてみます。買ったとき、このしおりはどう収納されていたのだったか。しおりについた折りじわを見る限りでは、3つに折りたたんではさんであったのかもしれないが、思い出せない。佐内正史の『シャンプーリンス』(2002)のしおりは1メートルくらいあっただろうか。あれもなにか、長いだけではないしかけがあったのだったかどうか。

長いしおりは、通常の機械製本のラインでは貼れないから、おそらく一冊ずつ手で貼ったのだろう。機械製本の工程では、本の中身の断裁を終えたところでしおりをつける。ベルトコンベアーにのせられた本は、背を下にした状態で流れてきて、真中あたりのページが開かれ、しおり紐をはさんでその端が背に接着される。大切なのは、その後の表紙貼りなどの工程で邪魔にならないように、しおりがしっかり本文のなかに収められることだ。ここは速度がややゆっくりで、しかも人の腕の動きを見るようで楽しい。――人さし指をUの字に曲げて、長いしおり紐をひっかける/腕をひき、開いた本の中に紐を落とす/腕全体をコの字を逆に描くように動かして、紐をくるりと丸くページに収める ――。はさみが下からせりあがって紐を切ると、その端が、はらりと垂れる。本が流れて突き進み、紐の端が背にぴたりと沿う。前もって背に塗られていた接着剤で固定され、しおりが完成する。

上製本の工程の中で、そのエレガントな動きにみとれる場面のひとつだ。見学したときその機械には、「スピン挿入機 富士油圧精機」と書いてあった。機能をわかりやすく示すなら、「スピン貼り機」のほうがいい。だが、あの一本の紐をしなやかに本のなかに流し入れる動きを見れば、まさしくあれは挿入機であって、なるほどと思った。この機械が最初に作られたのは、昭和43年だそうである。以来そのしくみは、さほど大きく変わっていないのではないか。

限りなき義理の愛大作戦

さとうまき

年末、ヨルダンに向かった。おかげで今年は正月をゆったりと日本で過ごすこともできなくなってしまった。ちょうど、出発前に「サダムフセイン元イラク大統領が処刑」というニュースが飛び込んできた。某新聞社からコメントを求められたのは、成田についてこれから出発しようと言うときだった。「これ以上治安が悪くならないで欲しいな」と願いながらもあまり状況がわからぬまま飛行機に乗って、パリの飛行場でCNNを見た。

それにしても、野蛮な映像。罪状は、1982年の148人のシーア派住民の殺害だ。25年も前の話なので、証言も疑わしいものがあったし、一方被告の弁護人は、サダムに有利な証言をしたとして3人も殺されてしまった。裁判そのものが茶番にみえたし、サダム・フセインは、証言台に立つとアメリカをののしった。でも、彼の言っていることのほうがまともに聞こえた。

正直今のイラクにきちんとした司法制度があるのかといえば疑わしい。携帯電話で撮影された処刑直前の映像が配信されたが、そこには毅然としたサダム・フセインがいた。死刑を執行する側の人間は黒いマスクをして、「ムクタダ、ムクタダ」とはしゃいでいた。これでは、復讐のためのリンチとしか見えなかった。サダム・フセインはともかく、死に様が立派だったと言うのが大半の意見だ。

また、サダムの死とともにイラクそのものが終わってしまったと感じた人もいただろう。やっぱりサダムの時代のほうがましだったし、どう考えても、「よかった」といったほうがいいと多くのイラク人は、考え始めていたから、なんだかすべてが、もう希望も見出せず、マリキはなんて馬鹿なことをしたんだろうという失望感が募る中、イラクの人々は新しい年を迎えたのである。

私たちといえば、ともかくイラクのがんの子どもたちを何とかしなければと奔走している。早速バスラのイブラヒムから写真が電送されたきた。「薬が大量に空輸されたのに、みんな怖がって取りに行かない」というのである。そこで、イブラヒムは、警察の護衛をつけて飛行場の倉庫まで取りに行ったという。銃を構えた警官が4、5人イブラヒムを取り囲んで警護してくれている。なんとも仰々しい写真。まるで映画のワンシーンみたいだ。車の中には機関銃を構えた警官がダンボールに入った薬を守ってくれている。まさに命がけ。

そして、またイブラヒムからメールが来た。患者が死んだと言う。ドゥアという9歳の女の子だ。小さな小屋のような家で6人が暮らしていた。父はイランイラク戦争で腕を怪我して働けないというので、生活保護を出そうということになった。彼女は花の絵を描くのが大好きで、それがとっても素敵なのでポスターを作ったりした。何よりも、今回の限りなき義理の愛大作戦では、彼女の絵を、うまくデザインしてお花畑にたたずむカップルという作品に仕上げたのだ。

3ヶ月くらい前から、ドゥアは手の施しようがなくなっていたという。注射ばかりして、血管が硬くなってしまって、薬も注射できなくなっていた。死ぬ2日前の写真。ドァアは、満面の笑みをたたえイブラヒムの構えたカメラにおさまってくれた。翌日、彼女の上では皮下出血がひどくて真っ青になっていた。そして、死んだ。笑顔つくるのってそんなに楽じゃない。自分だって疲れていたらなんとなく険しい表情をしてしまうし、わざと笑顔を作っても引きつってしまうのだけ。それなのになんでこの子はこんなにも素敵な笑顔で微笑んでいられるのだろうか? そう思うと、悔しさがこみ上げてくる。

これが、「美しい」国、日本が支持した「汚い」イラク戦争の結果である。病院の復興なんて全くされていなくて、薬が不足している。100億円かけて作るといったがんの病院も、アメリカの汚職で頓挫してしまった。私たちは、といえば、薬代を稼ごうと、ひっちゃかめっちゃかになってがんばっているという有様。一生懸命売ったチョコレートのお金で買える薬は、がんばって2か月分。

それでも、多くの人たちが、この限りなき義理の愛大作戦に参加してくれているから嬉しい。バレンタインの時期、チョコレートの売り上げは530億円だそうで、それに比べたら、われわれのチョコレートはちりのようなものだが、商魂たくましき中、年に一日は、愛を世界中の子どもたちに分けてあげる日としてバレンタインデーが代わっていってエスカレートしていけばいいんじゃないかなと思っていて、なんとなくそんな感じになってきたんじゃないかなとか思ったりしている。チョコレートの甘さとともに子どもたちの命の重さをかみしめて欲しい。

ドゥアのチョコは、ホワイトデーに向けて2月15日から3月14日まで発売します。
詳しくは http://www.jim-net.net/ をご覧ください。

節分草

大野晋

平地ではちょうど節分の頃咲くのでこの名があるのだろう。ちょうど、雪が溶けた林縁や林床に5センチくらいの背丈を伸ばし、1.5から2センチくらいの白い花を咲かせる多年草。しかし、種子で繁殖するので、開花時期に踏み潰すと翌年は咲かなくなるので注意が必要だ。目立つ花ではないので、遠くから見ていると見逃しそうになるが、近くで気付くと足元に大量の小人がいるようにも見える。ちょうど、佐藤さとるのコロボックル物語を思い出す。

この花を見ると、ひとりの先生を思い出す。奥原弘人、信州で教員を長く務め、同時に県内の植物に関する分類と生態の研究をした人だ。私が奥原先生を知ったのは、もう学校を定年されていた頃だ。信州の植物の目録とどこに生育しているのかの分布図を作ろうという「長野県植物誌」の仕事で、ちょうど、私の通っていた学校に県内各所から集まった植物標本の同定(その標本がなんという植物なのかを検討し、名前を付ける作業)をひとり黙々とされていた。もう、当時でも90歳近いと伺っていたが、毎日、女鳥羽川の浅瀬を歩いて渡り、大学にやってくるのが印象的で、昨日はどこそこに行って何とかを見てきた、きょうはどこそこに行ってなんとかが咲いているか見に行ってくる、どこそこになんとかがあるはずだが報告がないので行ってみてくる、など、到底、お歳だとは思えない行動力には恐れ入ったものだ。たまに、一緒に野山を歩く機会があると、若い私たちよりも早い速度でたかたか山道を歩かれる健脚ぶりに驚いたが、本人に言わせればそれでも足が弱ったらしかった。

最初の冬、ちょうど、集まった標本を台紙に貼る(止めるが正しいかもしれない)お手伝いをしていると、いつもは先に同定を済ませている奥原先生が「先に鉛筆で名前を書いておいてくれ」と言う。そこで、標本を台紙に貼りながら名前を付けておくと、それを確認して、丁寧に間違っていれば直して、私のところに渡してくれた。そんなことを長く続けて、長い冬が終わる頃にはほとんどの植物は名前が分かるようになっていたのだった。私にとって、奥原先生は植物の名前を教えてくれた恩師でもある。

そんな先生が、ある初春の日に、「セツブンソウが見ごろだよ」と教えてくれた。皆で見に行った。そこ見た、ちょうど、見ごろのセツブンソウが後にも、先にも、私にとって野生のセツブンソウを見た経験である。その後、先生とは学校を卒業してからも賀状のやり取りが続き、たまには顔を合わせる機会もあったが、何年か前に亡くなった。おそらく、100歳近くなっていたのだと思うが、最後の便りにも信州の野山を歩かれている様子がうかがわれた。

今年は写真の機材も随分と新しくなったし、久しぶりにセツブンソウを写真にでも収めたいと思う。長い冬の間、ずっと春の準備をしていると、セツブンソウの開花の便りが待ち遠しくなる。おそらく、そんな思いを胸に、奥原先生も最後まで野山を歩かれたのであろう。

新造船──翠の虱(28)

藤井貞和

光のうろを、(と歌人がうたった)
おみなはたまわり、
あがないぬしにむかって、
身をひらく。

で、有漏の身というのだとすれば、
無漏は「むろ」でしょう。
虚(うつ)ろ船が、
船出する西牟婁郡。

そのための、新しい船材と、
航海の技術。 
智定房(下河辺行秀)は、
五十日あまり、ふだらく浄土に滞在してから、

『冥応集』によれば、
熊野に帰還したそうです。

(短歌というのは「をみなは生命〈いのち〉のうろをたまはる光る虚〈う〉ろ光よわれらがあがなひぬしよ」〈奥井美紀〉)。『冥応集』のことは、松田修「補陀洛詣での死の旅」〈伝統と現代(特集・世捨て)、1972/7〉による。松田氏の言わんとするところは、けっして絶望的な行程でなく、新しい船を駆って勇躍、観世音に会いにゆく確信の旅だったと。)

しもた屋之噺(62)

杉山洋一

ここ数日ミラノは心地良い晴日が続き、日中はかなり温度も上がります。昨晩はシニガーリアの作品ばかりの演奏会を聴きにゆき、2歳まであとわずかの息子がわめき声一つ立てず、機嫌よく手を振り回して調子を取っていたのに感心しました。

彼がずっと東京へ帰っていたので、久しぶりにミラノで会ってみると、自分のところへ物を持ってこさせるのに「ココヘ、ココヘ」と、まったりした大和言葉まがいに言うと思えば、突然「チーズください」なんて頼むので、幼児らしからぬ感じもします。言葉の能力は普通の子供と同じか、外国語とまぜて教えているから遅いくらいで、使える言葉も限られていて、「いや?」「ヒコーキ」「大きい」などなど。一番生活に大事なコミュニケーションは、いきおい「ココヘ」になります。

あれはどういうわけか、バイバイと手を振りながらほほえむと、上目遣いにこちらを見ながら、ペコペコと頭を下げるのです。なんでもスチュワーデスさんを真似して始めたらしいのですが、子供というのは妙なものを覚えるものです。格好があまりに愉快で誰からも失笑を買うのを受けがいいものと勘違いして余計ひどくなったらしい。

基本的にすこぶる機嫌もよく、いつも誰にでもニコニコしている子供ですが、家人曰く父親は恐い人だと認識しているようで(殆ど怒りもしないのですが、愛想もないからか)、昨日は食事中に面白いことがありました。パスタが大好きで、いつもパスタだけを食べてしまい絡めたソースの野菜など残すので、その都度、親と子の我慢比べになるわけですが、昨日はお前が野菜を食わないとお替りはやらないと突っ撥ねたので、息子が折れて仕方なく一口野菜を食べたのですが、すぐに、うわ、これは不味い、とばかりに眉間に皺を寄せて吐き出しました。それでも作ってくれた父親に悪いと思ったのか、イタリアのジェスチャーで「美味しい」を意味する、頬に人差し指をくっ付けて回す仕種をしながら、困った顔をしているのには爆笑しました。こうして子供なりに気を使ってくれると、こちらも申し訳ないな、もう少しマトモなものを作るか、とも考えたりもするわけで、お互いが歩み寄るのはやはり大切なことではあります。

ピアノをさわるのが好きなのは、どの子供も共通だと高をくくっていたのですが、昨日の演奏会の最中、音楽に合わせて機嫌よく腕をふりまわしているかと思うと(指揮しているつもりなのか)、曲の最後のクライマックスで突然万歳するように両手を振り上げて、四六の和音をガンガン鳴らし(ているつもりらしい)ながら、感極まったように顔を震わせるのには、親も周りの観客も涙がでるほど笑わせてもらいました。父親が棒を振っているところなど、殆ど見るはずもないのですし(いずれにしてもあんな風には振らないだろうし)、息子は指揮するというよりも、むしろ本能で調子にのって手を振り回した挙句に、最後に思わず手を上げて感じ入ってしまったという按配でしょうが、何れにせよ子供の感性は、これ程までに素直なものかと感心させられます。

感心させられると言えば、息子は物を片付けるのが本当に好きで、これはとても有難いことです。元あったところに物を片付けないとどうも気分が悪いらしく、たとえばコードレスフォンで電話していると、コードレスフォンの充電器を指差しながら「ココヘ、ココヘ」、さっさとそのコードレスフォンを挿してあった充電器に戻せ、と繰り返すわけです。

今回の日本滞在中、父(つまり息子のおじいさん)と散歩しているとき、父が疲れたよと言うと、一人でタタタタと歩道の端のところに行き、ちょこんと腰掛けたかと思うと、こっちへ来ておじいさんもまあ座りなさい、とやるそうだから、一歳とはいえ、人間というのは相当複雑なことを考えているものだと感心します。そこまで考えられるのなら、ぜひ頑張ってもう少し先まで見通してもらい、ぜひとも音楽など怪しげな愉しみには興味をもたず、堅気の人生を真っ当に歩んでほしいと切望する今日この頃です。

(1月31日 ミラノにて)

ジャワに舞う能

冨岡三智

1月号では今度こそ11月26日に行ったジャワ舞踊公演について書こうと思っていたら、今度は自分が過労で倒れ、初めてインドネシアで、それもソロから遠く離れたジャカルタで入院する羽目になってしまった。腎炎と腎臓結石で1週間高熱が続く。どうやら過労だったらしい。入院した時には病気のピークを過ぎていたのであまり病院で長居はしなかったけれど、その後なかなか体力が戻らず、12月、1月はほとんど寝て過ごしていた。

実は、今やっているジャワ舞踊の活動研究は1ヶ月間休止して、2月はインドネシアで能を紹介するというプロジェクトを実施することになっていた。これは国際交流基金の渡航費助成をいただいての活動である。入院前にはかなり重い症状といわれ、最低でも2週間入院、できたら日本に帰ってしっかり治療した方が…と先生には勧められていたから、このプロジェクトは中止かなあと意気消沈していた。それが思いがけず早く退院できたので、俄然気持ちは元気になって、大車輪で各種手続きを進める。

1月26日にはその準備のために一時帰国し、今あたふたと準備している。2月5日には一行とともに日本を発ち、しかもまた日本に戻ってきて大阪でも1回イベントをする。というわけで今月号ではこの事業の宣伝だけしてお茶を濁すことにする。

   ■能の表現と能を取り巻く文化■

●2月7日(水)9:00-12:00 増田正造 講演
       13:00-15:00 能のワークショップ
●2月8日(木)10:00-12:00 能のワークショップ
        19:00-21:30頃まで 公演
 ISI Surakarta(インドネシア国立芸大スラカルタ校、旧称STSI Surakarta)にて

ISI Surakartaでは能楽師さんたちにジャワの伝統的な式正空間プンドポに挑んでもらおうと、全イベントはプンドポで行う。ジャワ舞踊はプンドポという能舞台みたいに4本の柱で支えられた中の空間で上演される。芸大のプンドポはかなり立派で大きく、柱のうちのりも8.8mもある。演目は「羽衣」と「石橋」。能楽師さんは全員でも8名となんとか公演ができるぎりぎり最低人数での渡航なのだけれど、プンドポでは能はどんな風に見えるのだろうかと楽しみである。

実は、自分たちが能を紹介する前、2月6日夜に能楽師さんにジャワ舞踊を見てもらうという企画している。彼らに交流相手の芸術を知ってもらい、また私も能の表現とジャワ舞踊の表現の違いを見比べてみたいなということから、演目を指定して芸大にリクエストした。演目は「パンジー・クンバル」という男性優形の極みとも言うべき男性2人による舞踊と、もう1つは「トペン・スカルタジ」という、ジャワ舞踊の3つの型(女性、男性優形、男性荒型)が入っている舞踊作品と。これもプンドポにて。

●2月9日(金)20:00-22:00 レクチャー&公演
 国際交流基金ジャカルタ日本文化センターにて

スラカルタでは立派なプンドポで、能装束をつけての上演だけれど、ここでは袴で上演する。会場はそんなに広くもないから、むしろ座敷で間近に能を見るような、しっとりした雰囲気になったらいいなと思う。観客席のほうをコロセウムのように階段状にして、お客さんには座布団に座ってもらう予定。なんと、交流基金は座布団を持っているのだ!

今回のツアーでは床に座るということにもこだわっている。スラカルタでの増田先生の講演も、プンドポに椅子を並べるのでなくて、プンドポの舞台の上にカーペットを敷いて、みんなで車座になって座る。こういう風にしたいと芸大に言ったら、「ああ、つまりレセハンね」と言われてしまった。レセハンというのは道端にござを敷き、その上にじかに座って食事をする食事どころのこと。スラカルタではまだまだ床に座ることが生活の中にあるけれど、どんな風に皆が床に座るのか興味がある。

●2月10日(土)13:00-16:00 ワークショップ
 Dewan Kesenian Jakarta (ジャカルタ芸術協会)にて

ここではジャカルタ芸術大学学生ら、若手の芸術家との交流を目的にする。スラカルタは日本で言えば奈良という感じだ。古いジャワの都で時間もゆったりと流れているけれど、ジャカルタに住んでいるのはジャワ人ばかりとも限らず、時間感覚も、人々の気質もスラカルタとはかなり違う。ワークショップでは両都市の間でどんな反応の違いが出るだろう。

出演者:
シテ方 …赤松禎英、山本博通、武富康之、齋藤信輔
囃子方 …竹市学、清水晧祐、守家由訓、中田弘美
講 師 …増田正造(武蔵野大学名誉教授)
企画制作…冨岡三智

共催: 国際交流基金ジャカルタ日本文化センター、インドネシア国立芸術大学スラカルタ校、ジャカルタ芸術協会
助成: 国際交流基金、朝日新聞文化財団
後援: 在インドネシア日本国大使館

●2月14日(水)18:30-20:30 レクチャー&ワークショップ
 大阪国際交流センター・小ホールにて

ここではインドネシアでの交流の成果を披露。記録ビデオを上映したり、実際にインドネシアでやってきたワークショップの一部を参加者に体験してもらったり、能楽師さんたちにその体験を語ってもらったりしながら、参加者にも今回の国際交流のあり方や今後のあり方についてディスカッションしてもらおうという企画。入場料:1000円

出演者:
上記の能楽師
ファシリテーター: 林公子(近畿大学文芸学部助教授)
解説: 冨岡三智

助成:(財)大阪国際交流センター

がやがやにはいくつもの物語がある

三橋圭介

先日、がやがやの練習は港なしで行われた。メンバーの一人あさみんがピアノを弾いて歌の練習。せつさんが歌をひっぱっていく。練習というのはそういうことで、歌の訓練というものではない。「もっと大きな声で歌いましょう」とか、ここは「感情をこめて」とか、けっして言わない。こうあって欲しいという期待ではなく、ずれあう声の輪がしだいに広がっていく。それを待つ。それでもピアノやギターの弾き歌いでリードしていた港の存在は大きい。それを察してか、きりさんが「録音をきこうか」という。録音に合わせてやったり、ピアノでやったりを繰り返す。歌と歌のあいだは、がやがやががやがやたるを思う存分発揮するが、この日は洋ちゃんという子が突然ピアノを弾きはじめた。いままで彼がピアノを弾くところは見たことがなかった。両手でリズムに合わせて楽しそうに弾いている。時々、こちらも見てニコッと笑う。練習が終わった後、きりさんは「洋ちゃんは港さんをとても尊敬していて、今回、メンバーのあさみんがピアノを弾いたから、自分も弾いていいと思ったのかもしれない」と言った。あさみんは後日「洋ちゃんは、わたしが頼りないから助けてくれたんだと思う」と言った。どちらもほんとうのような気がする。港がいるとき洋ちゃんはいつも一人でひっそりとしている。神様がいないときタイコを叩いたりする。すこし時間がたって、きりさんが少し感動した様子で私に言った。「いい笑顔よ」。見るとあさみんの笑顔があった。手はリズムを刻み、時々楽しそうにうなずいている。その様子をカメラ越しに見ていたから、何がそんな笑顔にさせるか。視線の先にはタイコを叩く洋ちゃんがいた。洋ちゃんは時々あさみんを見ている。美しい笑顔のタイコ練習。がやがやにはいくつもの物語がある。

炎(2)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

道路を吹いてきた風がわたしの歩いている歩道に巻き上げてきた。乾いたタマリンドの実が3つ、4つ落ちてコンクリートに当たる音、鞘が砕ける音がする。静寂な風がわたしをもとの静謐さにひきもどしてくれた。わたしは一歩一歩バス停に近づいている。いにしえの女性がしゃがんでほら貝から水を注いでいる彫刻が灯りの中に美しく浮かび上がってくる。わたしはこの彫像が好きだ。いつもあかずに眺めている。酔ったときも、孤独なときも。これもタイのひとりの芸術家の手になる記念碑である。わたしはこの古の若い女性のほら貝から注がれている水をすくって顔を洗ったことがあり、いつもありがたく思っている。

この公園の暗がりの中でわたしは3人の若い男がひとりの若い女性を取り囲んでいるのを見た。彼女は脚にぴったりした伸縮性のある素材のパンツをはいて花柄のブラウスを着ている。髪は長く伸ばしている。わたしが歩を進めるにつれて彼らに近づいているのだが、同時にこの女性に対してなにか胸騒ぎを感じた。ひょっとして彼女を生贄にする狩の始まりではないのか。あと幾ばくもなく彼らは彼女を「獲得」して望みを果たすのではないか。彼らから遠ざかって何本かのタマリンドの黒い影に沿って行くと何人もの男が身を隠しているのが見てとれた。誰もわたしには関心を示さない。わたしはジャック・ロンドンの群れからはぐれた鹿を取り囲んでいる狼のはなしを思い出しいやな気分になった。

少年時代田舎にいたころのこと。わたしはみみずが誤って赤蟻の巣に近づいてしまったのを見ていた。入り口の蟻の一群が噛みつくとみみずは体を跳ねて逃げようとしていた。けれども蟻の巣から逃げるには行動がのろすぎていた。跳ねれば跳ねるほどたかってくる蟻の群れは多くなっているのだ。みみずは弱ってきて、体のあちこちにふくらんだ噛まれた跡ができてきた。遂に一回しか跳ねなくなった。蟻の生贄になって死んでいくのだ。

ここまできてわたしは遂に見ていることができなくなり、みみずを蟻の巣のところからつまみあげ、からだにたかって喰いついている蟻をはたいてとってやった。それからそのみみずを蟻から離れた安全な場所に置いてやった。わたしはみみずは助かったのだと思う。それから何時間かあと、その場所にはもうみみずの姿がなかったからだ。また別の蟻の巣に近づいたりしていなければのはなしだが。

この夜も同じである。わたしはこの若い男たちのことが自分に照らしてみてもよくわかっていた。この女性の行きつく運命も。わたしが「獲得」したことのある女性と同様に。もしも男たちが赤蟻で彼女がみみずであるとしたら、わたしは少年だったときにしたようにすることだろうが。けれども全員わたしと同様人間なのである。彼らの求めているものはすでに誰も止めることができないところへきている。わたしはただそこを素通りしていくことしかできない。

そのときだった、わたしはその若い女性が呼ぶ声を聞いたのだ。彼女はじれったそうな声でわたしの名前を呼んでいた。

はたと歩みを止めて彼女のほうを振り向くと彼女の嬉しげな笑顔があった。わたしは彼女の顔を注意深く眺めながら記憶をたぐり寄せようとした。3人の男たちは少し散って離れていきつつもわたしに視線を向けている。彼女はわたしが考えをめぐらしている間にこちらに向かって近づいて来ていた。

(続く)

書き/書きなおす

高橋悠治

二つの版
その一.まず シアターχでの公演のために書いたスケッチ

詩の廃墟 音楽の散乱 

音にならない音 声にならない声 ことばにならないことば から
からだをゆりうごかすひびき からだにひびくうごき になり
音をきくからだ 音をきくうごき
うごきにゆれるからだ ひびきにうごくからだ から
音をことばとして ことばを音としてきく それとも
ひびきを ねいろ 音を色としてながめる おもいうかべること
また ひびきを ひびくままに まかせること
流れのまにまに 細かく 織り込み
流してみること 長くのばされた ことばの余韻に
住みつくこだまを ふりはらう こと
寄りつくさざなみの 消えかかる 消し炭の
燠火を ゆらすこと 残り火の 色変わりし
ひびわれ おぼつかなく ふるえ 振れる こと
降れ 雨ことば そっと 触れて遠のく
遠い野の手触り おもいがけなく たよりなく
これでいいのか と 思うひまなく
おもいのまま にならない 微かな
うごきを みつめること
うごめき めくらませ 暗闇の隈取り
取り憑き とまどい はぐらかされ はぐれ
たどり たどたどしく 遠回しに
まわりこみ まよいながら
さまよううちに 間合いはかって
割り込み 繰り込み 刈り込みながら ようやく
やってくる やっときたのか きこえてくるのは
さざめく 声のいろどり ざわめく
色とりどりのことば さまざまに ゆがんで
ゆらいで かたむいて 欠けて うすれる
そのかけら 手に添って こぼれる
ひびきの粒 あざやかに ひびきの滴
日々の糧 舌がかりして あやしく わびしく
したたり やはり舌たらず 重みで下へ 舌の奥へ
引き込まれて 言いたりなかった ことば
ことばにならない音 音にならない声 を残して
からっぽの 殻だけの 実の 蓑のなかに
脈打ち うねる 脈の 見誤りもなく
まだやまない 疚しさ またも
あやうい 賭の 賽の目に 見切られ
蛇の目傘 魅入られて
海女の捨て舟 潮干に止まる
陽に曝されて 積もる塩の渇き
照り返し わずかな輝き 翳り
焦げ付く影 くすぶる焚火 霧雨に煙る
声のかたち 音のたわむれ ことばあそび
ことごとに壊れ 恋われ 乞われて
別れない かりそめの 絆に
答えない問の 解らないわけに 
立ちすくみ 道半ば わけもなく
分けられない 塊の

その二.おなじテクストをとなえ うたう場合

廃墟/散乱

こえでない こえ
      ゆれる  ひびき
   うごき     うごめき
         いろます  ながれに
             すむ    こだま
           の
       ことばを

   ふりはらい   ふりかかり
     ふるえ
ふれ あめ
        ふれて こわれる ながめの

       きえかかる
  けしずみ こぼれる
かけら
  ちりかかる
      はい
        はがれ うすれる
て  の  かげ
  おもみ したたる
      したの  うずきの

        みゃくうつ かわき
つもる しお
     おき ゆく ひきふね  の
   かげり
         ひくしお
        せまる   ゆうやみ
  はぐれた      とり
     とまる はかげに

えだを たどり
            ひだ の おく
     かくれる つき
         かけた
   ひ  の   な  が  く
  おとろえる  ねむり  の
              さめた ゆめ
   のこる ひびきは
      ひび われて