真珠湾(翠の虱33)

藤井貞和

し しらなみ立てて、べんぴの終わり、

ら らんびきの、べんきに狙うしょうすい、

た 立腐れ、真珠のうんちを撃ちつくせば、

ま ま昼の、げりを湾にまき散らす開戦。

(「日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばい」〈小林秀雄〉で、「太平洋の暗雲といふ言葉自身、思へば長い、立腐れの状態にあつた言葉」〈河上徹太郎〉。「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した」〈竹内好〉。こんな〈ランビキ〉言葉ばかり、開戦直後の知識人たち。「十二月八日――真珠湾――知識人と戦争」〈曽根博義、『國文學』2006・5〉、および加藤陽子「戦争を決意させたもの」〈『あの戦争になぜ負けたのか』所収〉より。)

しもた屋之噺(67)

杉山洋一

最近、目先のことばかり片付けていて、頭のなかに溜まってゆく記憶とか、思考とか、そういうものを全く整理しないまま、ひたすら物置にただ放り込み続けているような、薄いフラストレーションを感じます。何かに反応し知覚した感情の襞は、改めて自分の言葉で検証したり、意味を問い質したりして、ようやく身体の奥にしっくりと馴染むような気がする。出会ったひとの表情や、演奏のしぐさ、まなざしや呼吸、そんなものを、どこかにうっちゃって無感覚に過ごしているような、自らに対しての苛立ちのようなもの。こうして書きとめようとしても、触覚的な感覚を思い出せなかったりするのももどかしいのです。

3回ほどレッジョ・エミリアのアンサンブルとリハーサルをして本番をやってきました。もう何年も前からご一緒しているのですが、いつも20人前後の大所帯の仕事ばかりで、今回初めて5人というきわめてシンプルな形でお付き合いさせていただいき、とても楽しかったのです。やっぱり、お互い聴きあうことを中心に練習できるからかも知れません。大編成でも、オーケストラでも同じはずですが、なかなかそうは行かないのは自分の力不足、経験不足なのでしょう。彼らと秋にサーニの新作オペラでご一緒するときは、例によって大所帯ですから、その前に密に仕事が出来たことは幸運でした。

数日前このオペラ譜のゲラが届きました。マフィアの撲滅に身を捧げたジョヴァンニ・ファルコーネが主人公で、彼がパレルモの空港から高速道路で爆破させられる直前、最後の飛行機に乗っているところが舞台で、登場人物もマフィアと警察なので男性ばかりで合唱も男声。

もっとマフィアのことを勉強して、オペラの楽譜を読まなければと思いながら、あるとき、指揮クラスのシチリア人の生徒に、突然だけどマフィアというのは身近な存在なのかね、例の「沈黙の掟(組員はもちろん、たとえ公衆の面前で殺人があっても、誰もそのことを証言しないこと)」は本当かと訊ねると、あっさり認めてくれました。

そりゃマフィアはいますよ。でも組員以外には係わらない話ですからね。ときどき抗争の巻添えになったりするけれど、あれは例外。幼馴染にもマフィアの家の子がいて、よく仲良く遊びましたよ。頭も良かった。でもそいつ可哀想に18歳で殺られちゃいました。

「沈黙の掟」ね、あくまでもシチリア人は独特ですから。何しろイタリアで一番古く、12世紀に既にしっかりとした政府が出来た地方なのに、その後ひたすら侵略され続けてきましたから、みな排他的で不信感の塊なんです。自分の身は自分で守るし、誰も助けてくれないと思っている。

排他的といえば、イタリア人一般にそういう傾向は否めない気もします。先日もミラノのアンサンブルがヴァイオリン奏者を換えることになり、何人かとリハーサルをして、その中にはジュリアード出身の上手な韓国人もいました。彼女は国際的に現代音楽畑で活躍しているから当然選ばれると思っていると、アンサンブルは彼女よりずっと若く経験も少ないイタリア人を選びました。演奏スタイルが違うのと、フィーリングの問題がその理由でした。

先月息子を知合いの4歳児の誕生日会に連れていったとき、周りはもう幼稚園に通う元気溢れる4、5歳児ばかりで、言葉もままならない2歳児が相手にされるわけもないのですが、4人ほどの腕白に囲まれて、「お前何もしゃべれないのか。おいこのチビ中国人」に始まり、しまいには息子の尻の辺りにゴム風船を膨らませ、からかわれました。周りに親たちもいるのですが、関心もないのか咎めもせず談笑するのに憤慨しつつ、これも経験と諦め傍観を決め込みました。

先日久しぶりに滞在許可更新のために警察署にゆくと、道路に溢れんばかりの外人を虫けらのように蹴散らしながら、警官が「お前ら外人だからって言葉がわかんなくても、つんぼじゃなかろうに! あっちゆけよ」と声高に罵りました。でも、こういう経験はしないよりした方が良いと思うのです。毎日これでは堪りませんが、年に一度か二度こういう風に思い知らされるのとそうでないのとでは、世界観も変わりますし、日本に滞在する外国人の苦労を垣間見る気がします。大変な思いをして日本に滞在しながら、日本人の嫌がる職業について社会を支える、大切な人たちを思うからです。

もっとも、そんなネガティブなことばかりではありません。先日、友人二人が結婚して、イタリアで初めて結婚式に出席しました。イタリアに住んだ当初友人は既婚者ばかりでしたが、自分の生徒や、若い演奏家の友人も増えてきて、こうして初めて結婚式の経験と相成ったのです。お祝いは、元来この辺りの風習によれば、カップルが指定の店を予め招待客に伝えて、招待客はその店に出向きカップルが必要としている日用品、家具のリストから、好きなものを選んで贈るそうですが、彼らは何も用意しなかったので、友人通し値段を決め、150ユーロ包んでわたしました。

といっても、日本のようにいつ渡すか決まっているのでもなくて、結婚のミサが終わり、教会から出てきた花嫁、花婿に親戚がお米を投げる傍ら、続いて始まる葬式の準備をする坊さんを横目に(教会の扉に、葬式用のビロードの装飾をつける)、「ハイこれね」、とさっと渡す按配で、日本のフォーマルな雰囲気とはずいぶん違います。

結婚のミサも初めてでしたが、式目はほとんど変わらず、親族のお祝いやら、神父の説教指輪交換が挿入されるくらい。1時間弱でミサが終わって、皆揃ってレストランに移動して、14時から19時過ぎ(これでも途中で引揚げさせてもらった)まで何をしていたかと言うと、これがひたすらご飯を食べるのです。日本の披露宴と違いアトラクションがあるわけでもなく、誰か友人の言葉を言うのでもなく、ダラダラとものすごい量のご飯を、ひたすら時間かけてたっぷり食べる。

ご飯も美味しかったので当初は喜んでおりましたが、2時間も経てば全体に座も白け、子供たちは駆けずり回りはじめ、四方山話に花が咲くわけもなく、どのテーブルも間延びした雰囲気のなか、花嫁花婿も気晴らしに外に散歩に出かけてしまい、手持ち無沙汰で傍にやってきた双方の父親に「どうです先生、良い結婚式でしたね。披露宴もなかなかでしょう。楽しんでいらっしゃいますか」、などと声をかけられ、「イタリアの結婚式は初めてで、こういうものかと咀嚼しているところです」と頓珍漢なやりとりの挙句、ベルルスコーニ贔屓の花婿の父親から、「先生、現代音楽はですな、どうか、凡人にもわかるようにやっていただきたい」と懇々と諭されてしまいました。日本の披露宴で、新郎の父親から現代音楽を諌められることはないでしょうから、愉快なものです。

ただ、教会でのミサの途中、指輪を交換し教会の台帳に互いに記帳した後、神父が、「これであなた方は神と契約を交わし、今、神の国で永遠の愛を誓ったのです」と言うのを聞いて、急に彼らが見えない敷居を越え、あちら側に行ってしまった気がしました。未だ離婚も堕胎も避妊すら許されず、同性愛も受け入れられず、医療研究用の受精卵も認められない、燦然たるカトリックの世界です。「あなた方は音楽家で、音楽を通じて神と交信している。常に神を身近に感じる存在なのです」と説教され、胸の奥で疼くものがありました。違う土壌に育ってきたこと痛感して、寂しさがふと過ぎったのも嘘ではありません。

(6月29日ミラノにて)

第4回インドネシア舞台芸術見本市

冨岡三智

今月は、先月書いた「都市文化という意識」の続きについて書くつもりだったのだが、6月5日から9日までソロで行われた第4回IPAM(イパムと読む)=インドネシア舞台芸術見本市(インドネシア観光文化省主催)について先に書いておきたいと思ったので、いつものことながら「続きはそのうちに〜」ということにさせてもらう。私は2年前にバリで開かれた第3回IPAMにも出席していて、水牛の2005年7月号、8月号にその内容を書いている。併せて読んでいただけると幸いである。

今回は前回から比べて大きく規模縮小し、またかなりの変更があった。

まず出演団体は、前回の27組に対して今回は10組、しかもその内5組が地元ソロからの出演だった。(ただし前回もソロからの出演者は多かった。)

次に見本市の舞台となる会場が高級ホテルから芸術大学になった。前回はすべての催しがホテルで行われ、かつ海外からのプレゼンターも観光文化省のお役人もそのホテルに泊まっていたのに対して、今回は、プレゼンターやお役人らは郊外の高級ホテルに泊まり、ワークショップだけそのホテルで開催したものの、舞台芸術の催しは全部芸術大学で、開会式はソロ市長公邸で、閉会式はマンクヌガラン王宮で、と市内の複数会場で行われた。

さらに、今年のIPAMの公演には一般の人々も入場できるようになった。そのためもあるのだろう、見本市の催しの上演の合間(30分)に、次の会場の入口前でアトラクションの催しも行われた。

今回のIPAMを見た感想を一言で言うならば、インドネシアの舞台芸術を海外に売り出したいというのが主目的なはずなのに、単なる普通の公演、あるいはソロ市観光プロモーションイベントみたいになってしまって、見本市のテーマがぼやけてしまったという感じがする。

その理由の1つが、肝心のプレゼンターがほとんどいなかったこと。前回の66組に対して今回は海外から4組+国内からほんの少しだったのだ。プレゼンターに来てもらわなくては、売れるものも売れまい。今回の事務局は前回とは別の会社だが、一体どういうプロモーションをしたのだろう。ともかく、外部からのプレゼンターがほとんどいないために、観客層は、ソロで芸術イベントがあるとやってくる常連の人々になってしまった。半数を占めるソロの団体にとっては、異質の観客層に向けて公演するせっかくのチャンスがなくなってしまった。

プレゼンターが少ないという以前の問題として、実行委員会や事務局側にも、外国人を受け入れる態勢があまり整っていなかった。

たとえば、会場がホテルの仮設ステージではなくて芸大にある専用の劇場(プンドポ、大劇場、小劇場)であったことは、芸術上演の観点からは望ましい。しかし、これはプレゼンターらにしてみればかなり不便なことだった。なぜなら芸大の劇場にはロビースペースがほとんどなく、周辺にも、ちょっとお茶を飲んだり休憩したりできる施設がほとんどないからである。まして外国人が抵抗を感じない程度にこぎれいな施設となると皆無である。前回はホテルですべてのことが済んだので、上演の合間に出演者や他のプレゼンターらと話をすることができた。本当はイベントを見ることもさることながら、こういうコミュニケーションを取ることの方こそ大事だと思うのだが。

さらに各催しの合間の30分(夕食時は1時間)にアトラクションがあったが、私には不要だと思える。実行委員会の1人に聞くと、これは委員会の方から芸大に依頼したことだという。しかしこれは、一般のインドネシア人観客の気質―時間が空くと帰ってしまう―対策としては有効かも知れないが、見本市の内容を見に来た外国人プレゼンターにしたら、疲れさせるだけの代物だ。

この見本市では1演目の上演時間が45分になっている。見終わったら少し休憩して気分を切り替えて次の演目に臨みたいと思っているところに、劇場の外で、大音量のスピーカーでにぎやかな民俗舞踊や音楽、その他が始まるのである。私だけでなく、他の日本人や外国人の友人にはこのアトラクションは不評だったし、プレゼンターや実行委員会側の人たちもあまり見ていなかった。ともかく、落ち着く暇がない。こういうやり方は都会的でない、田舎臭いとある友人が評したが、全く同感だ。重要なのは会場の中で行われる公演の方なのだし、プレゼンターはそれらを見にわざわざ海外から来るのだから、普通に考えたら途中で帰るわけがない。それよりも、最後まで疲れずに公演を見てもらえるように環境配備をすることの方が重要だ。そのために必要なのはアトラクションではなくて、静かにゆっくり休憩できる場所の設置と清潔な飲食物の準備だろう。

このアトラクションは開催地であるソロ市の文化を印象づけるには意味があるのではないかと言ったインドネシア人もいたが、それは歴史的な建物での開会式と閉会式、エクスカーション・ツアー(チャンディ・スクー寺院)だけで十分だ。それより私には、トイレが汚かったとか、ホテルから劇場の移動中に見える町の様子がゴミゴミしていて都市化が遅れているとか、劇場側のホスピタリティーが足りないとかの方が、むしろ外国人の印象に残るだろうと思っている。実を言うと、こういう点は、能をソロで紹介したときに能楽師さんたちの反応から私自身も気づいたことだ。高級ホテル以外の場で国際的なイベントをするのには、こんなリスクもあるのだ。

さらに気になったのが、ソロのマスコミの反応である。全国紙コンパスは別として、地元有力紙のソロポスなど、見出しにもIPAMという語がなく、記事にもIPAMの概要や全出演団体の名などが掲載されていない。公演の翌々日にある特定の公演の評が出ても、それがIPAMという枠で催されたことがほとんど分からない記事になっている。しかもIPAM出演団体ではなくアトラクションの方が写真つきで取り上げられていることもあった。これは地元紙の記者のレベルが低いこともあるだろうが、IPAMの趣旨が地元の事務局やマスコミに周知徹底されていなかったのではなかろうかという感もぬぐえない。

その結果、IPAMを見ていた観客の多くは、IPAMを単に芸大で行われている芸術イベントの1つとしてしか認識していなかったように見える。もっとも、出演者の半数がソロのグループだったことや、国内外からのプレゼンターがほとんどいなかったことは大きく影響しているだろう。そういう私も、会場はなじみの芸大だし、芸術見本市を見ているという実感があまり持てなかった。

という風に書いてきたけれど、それぞれの公演の内容自体が不満だったわけではない。メンバーをよく知っているソロの各団体の作品も、ソロではなかなか見られない地域の作品もそれぞれに力作で見ごたえがあった。だからこそ余計に、プレゼンターが少なかったこと、マネジメントの出来がよくなかったことが残念だなあと思うのだ。

製本、かい摘まみましては(30)

四釜裕子

4年前に刊行した大きな写真集の函をこのたび作ったからとりにこないか、という展が、Nichido Contemporary Art であった。佐内正史さんが2003年に刊行した『Chair Album』という写真集で、300mm×250mmの大判に四方余白をたっぷりとって写真を配したページが240ある。白と黒のウール糸を織った布で角背上製本に仕立てられて重厚感はなお増すのだが、タイトルも帯も「はじめに」も「あとがき」も、奥付すらページに刷られることなく、かつてどこの家にもあったモノクロの写真を四つ角で貼る「アルバム」を彷彿とさせる写真集だ。どんな函だろう。重たい写真集をさげてでかける。

会場には函がうずたかく積まれ、ブラウン管テレビのモニターには写真集を函におさめる様子を撮ったビデオが映されている。大きく開いた窓、そこから見える庭や通り、風。ふたりの女性が床にすわって作業をしている。函はごく普通のダンボールを折り畳んで形づくられたもので、写真集がよりぴったりおさまるように工夫がなされている。ぱたん、としめたふたの四方からぷふっと空気が抜ける。段ボールならではのやわらかな応答。女性たちの所作は次第に流れるように見えてきて、さながら「Chairの函」のためのお点前ビデオのようである。かつてある製本工場でたまたまこの『Chair Album』の最後の検査行程を目にしたときのことがよみがえる。白い大きなテーブルのうえで、多くのひとが一枚ずつページをめくっていたあの手つきだ。いわばそれに吸い寄せられてこのタイトルを知り、刊行を待ち望んだのであった。

いわゆる「本の函」とこれは違うが、「いわゆる本の函」はめっきりなくなった。保護のための必要性もほとんどないから、普段読む本に函はやっぱり邪魔ではある。函づくりをしてきた職人さんたちの技術は今、アーティストが造る本や企業が顧客に送る記念品、菓子箱や商品パッケージまで、広く活かされている。紙の素材適正や貼るためのニカワの選択、製図や抜き型の作り方から反りを防ぐための空調設備、さらには印刷への助言まで、専門性は高く深い。テキスタルデザイナーの有田昌史さんが2005年に作った絵本『IGLOO』は、継ぎのない紙に片面4色刷りして空押しし、蛇腹に折って厚表紙をつけ、それを函に入れてある。表紙と函は自らデザインした布を用いて複数種類あり、函にぴんと張られた鮮やかな布地は、棚に飾ると額装されたひとつの作品となる。製本したのは美篶堂。ぱたん、とふたをしめれば、これまた四方から細くすぅと空気が抜けた。

小さな函やさんで社長が奥から取り出してきた「試作品」のことが忘れられない。本のためのごく普通の貼函だ。やっぱり本の貼函が作りたいという。紙も接着剤もインキも日々変わっているから、いつ注文がきても応じられるように作るのだと言った。

アジアのごはん(20) バナナの花は大人の味

森下ヒバリ

バナナの花というのをご存知だろうか。形はみょうがを十倍ぐらい大きくしたようなつぼみ型である。萼が何十にも重なっていて、萼には内側にひとつづつ、おしべとめしべが付いている。外から順に受精していって皮をはぐようにその部分が小さなバナナになっていくので、バナナが実っている姿は、幾つものバナナが房になり、その房がまた三重か四重になっている。そして、その房の先にはまだバナナの花が着いている。

つぼみの形をしているのでひとつの花と思いがちだが、何十個もの花の集まりなのだ。タイやラオスでは、このバナナの花を食べる。バナナの花の内側の方の柔らかい部分をたべるのだが、そのまま齧ってみると、めちゃめちゃ渋い。

「なぜ、こんなものを食べるの?」タイに通い始めてから何年も、いや十年近くは、ずっとそう思っていた。そう思って、バナナの花の存在を無視していたのである。

バナナの花は、焼きそばに似たパッタイという米麺のナムプラー炒めの付け合せとして生で添えられるほか、スパイシーな料理の付け合せとしていろいろな生ハーブが添えられるときに、その一種に入っていることもある。バナナの花とエビやイカなどをココナツミルクで甘く和えた、ヤム・フアプリーという料理もあるが、味つけが甘ったるくてあまり好きではない。あとはカノムチーンという米の押し出し麺のたれに、バナナの花を使うものがある。

バナナの花の味に目覚めたのは、ラオスの首都ビエンチャンでのことだった。ビエンチャンに行ったときには、メコン川辺りの屋台で必ず食べる料理があり、ネーム・カオ・クルックと言う。タイ東北部にもあるが、断然ビエンチャンのものがおいしい。ネームとは豚肉のなれずしである。発酵ソーセージと以前は思っていたが、製法を知れば、なれずしであった。

このネームは、ごはんコロッケを潰したものと和えて、レタスや大きめの葉っぱの上に乗せ、各種生ハーブと揚げたトウガラシをのせて包んで食べる。この料理がなんともおいしい。生ハーブには、名前を知らないいろいろなものがある。よく知られているものはミント、バジル、パクチーぐらい。

あるとき、このハーブの中にバナナの花が入っていた。
「おいしいね〜。あれ、これは何? へえ、バナナの花。これも入れてみようっと」
「え〜、それかなり渋いよ」

初めてラオスに一緒に行った友人はすっかりこのネーム・クルックが気に入り、ハイテンションでわたしの言うことも気に留めず果敢にいろいろなハーブに加えて、バナナの花も少しちぎってネームに加え、レタスに巻いて口に入れた。
「んん。さっきより、おいしい!」
「うそ・・」

ところが、そのままでは渋くてとても食べる気のしないバナナの花は、ネーム・クルックに少し入れると、その渋みが味を引き締め、全体のおいしさをぐっと上げてしまうのであった。なんというか、背後に回ってしっかり味をまとめるというか、味の複雑さを取り仕切るといおうか、とにかく味に深みが出るのである。
「なんてことを・・今まで入れてなくて損した〜〜」

それ以来、ネーム・クルックには必ずバナナの花を加えて食べるようになった。これにはバナナの花のほかにも香菜のパクチーや揚げトウガラシも不可欠なのであるが、最近は、外国人になれてきた店主のラオス人のおばちゃんなどが、これ外人は食べないでしょ、と勝手に思ってろくにハーブの入っていないハーブセットを出してきたりすることがあり、そういうときは断固として要求しなくてはならぬ。

ビエンチャンのメコン川辺りには、メコンに沈む夕陽を見ながらラオスビールのビアラオを飲み、ごはんを食べることのできる屋台がたくさん出ているのだが、ここ数年どうも味が低下してきている。タイと橋でつながり、観光客がふえ、外国人の客も多いせいか、なにか手抜きで、外国人に迎合した味の店が増えてきたのが残念でならない。

そうこうするうちに、また最近あらためてバナナの花に目覚めた。タイにはパッタイという米の麺を炒めた料理がある。たいへんおいしくて簡単な料理なのだが、店によっては麺がベタベタだったり、激甘にするところがあって、味のレベルの差が激しい。なので、味をよく知っている店でしか食べないようにしていた。
バンコクの定宿の近くにあったパッタイ屋さんがなくなって、しばらくパッタイをあまり食べていなかったのだが、また近所に店が出来た。さっそく友人と一緒に食べに行く。
「この店、おいしいといいなあ」
「甘くしないで、とちゃんと言えばいいんちゃう?」

とりあえず、初めての店は食べてみなければ分からない。作り手のお兄さんは、誠実そうで、てきぱきと麺を炒めている。出来上がったパッタイは、たいへんおいしかった。そして、通うことになるのだが、この店でもときどきバナナの花が付け合せについて来た。それまで、パッタイについてくるバナナの花は、少し齧るぐらいで、ほとんど食べなかったが、ふとラオスのネームを思い出した。
「ねえ、このバナナの花も、小さくちぎって混ぜて食べたらおいしかったりして」
「あ、そやわ。ネームを食べるときみたいに・・」

タイ人のパッタイの食べ方を見ていても、むしってそのまま食べる人はいても、細かくちぎって麺に混ぜ込む人は見たことがない。しかし試しになるべく柔らかそうな萼を選んで混ぜてみると、やはり、ぐぐっとおいしくなったではないか。
「く〜っ、なんでもっと早く気付かなかったんやろ〜」
「まあ、気付いたからええやん・・」

このとき初めて、バナナの花がパッタイの付け合わせとして存在している価値が分かったのである。タイと付き合い始めて、パッタイを食べ始めてもう二十年近くなろうというのに・・。ビエンチャンでネームとバナナの花の相性に目覚めてからも数年が経っていた。渋さというのは、なかなか一筋縄ではいかない味であることよ。

それにしても、タイ人はこのすばらしい渋みの効用に気付いて添え物としておきながら、食べない人も多いし、それになぜ混ぜ込んで食べないのだろう。そのまま食べても渋いだけなのだが。渋さに強いのか? う〜ん、口の中で混ぜているのかしらん?

陰陽・四大・偏差

高橋悠治

 [生き物文化誌学会「ビオストーリー」vol.5, 2006に掲載された文章の改定]

古代人は考えていた
人間がうごかすことができない ものごと
いつ出会うかもしれない それらを徴として

日が沈むと 創造の夜が来る
陰は暗い空間 保存の状態 これを母とし
陽はひらかれる時間 離れていく運動 これを父とし
すべては変わり 崩れていく
陰の1/8老陰は変質して 陽になり
陽の3/8老陽は 陰になる
あわせて 全体の5/8が陰に変わる
見上げる空に
太陽は星々の極 月は惑星の極

そして地上では
土は堅く また柔らかくひろがるはたらき  
水は流れ あるいはまつわりまとまるはたらき
火は熱く それともぬるく ならしととのえる
風は うごきをささえ つよめるエネルギー
それら四大は 身体のなかにも外にもあって
むすびつき 切り分けられない
さらに色があり 香りがあり 味があり 養分がある
もののなかで それだけを取り出すこともできず
ものの外に漂っても そこから離れない

暗い空間を落ちる雨の粒のように
見えない原子の偏りが 飛び散り 引き合って
たえず作られ こわれていく世界
その一瞬にかがやく結び目の網が 
それは見えないこの世界のはたらきの 見えている徴