港大尋とグループ「がやがや」のCD製作が最終段階に入っています。5月から6月に2日間、小学校の音楽室を借り、簡易スタジオを作って録音しました。7月25日、櫻井卓さんの協力でマスタリングを終え、後はほとんどデザインだけが残っている。これが大変だが、もはや時間の問題でしょう。すでにタイトルは港が書き下ろした「がやがやのうた」に決定(全12曲)、9月1日発売に向かって、心はウサギのように集積する難題にぴょんぴょん飛び跳ね、そのたびに立ち止まりながらも亀の歩みでちゃくちゃくと進んでいます。ということで、完成形はまだぼんやりとしているにもかかわらず、CDの完成を記念して先行発表会を行うことになりました。8月26日、「がやがや」がいつも練習している光が丘区民センター(大江戸線の光が丘駅3分。駅構内から直通です。2階洋室1・2・3、開場3時半 開演4時、終了5時すぎ。無料:先着70名)です。CDでは港率いるソシエテ・コントル・レタも数曲参加していますが、発表会では港のピアノとギターを中心にいつもの練習風景のような発表会を行う予定です。みなさん、遊びにきてくださいね。CDの先行発売も予定しています。もちろん、9月1日には水牛のホームページでは大々的に発売開始いたします(特集ページもあります)。どうぞよろしくお願いします。
2007年8月号の目次
- 「がやがやのうた」と8月の発表会 ……… 三橋圭介
- 砂漠のモルヘイヤ作戦 ……… さとうまき
- 半径ほぼ三百メートル ……… 仲宗根浩
- 製本、かい摘まみましては(31) ……… 四釜裕子
- しもた屋之噺(68) ……… 杉山洋一
- 花筺――高田和子を悼み ……… 高橋悠治
砂漠のモルヘイヤ作戦
さとうまき皆さんは、モルヘイヤをご存知でしょうか? エジプトだけではなく広くアラブで食べられている葉っぱです。みじん切りにして、コンソメスープで煮詰めます。山芋のようにとろみがありねばねばしてます。それだけでも体によさそうなので、肉が中心の中東の食生活の中でレストランでは必ずモルヘイヤスープを頼むことにしています。
6月、ヨルダンの事務所に泊まることになった。本当は、ホテルに泊まろうと思っていたのだが、私が仕事をしやすいようにと、普段事務所にいるスタッフが気を利かしてホテルに移ってしまったのだ。まあいいかと思いながら顔を洗おうとしたら水道の蛇口にガーゼが巻いてある。部屋中の水道の蛇口にガーゼがかぶせてあり紐で縛ってあるのだ。変だなあと思いながらも、翌日まで待って、西村さんに聞いてみると、「おたまじゃくしがいるんですよ」という。蛇口からガーゼをはずして見せてくれる。そこには、黒い粒粒がたくさんついていたのだ。
よく見ると一匹、一匹がおたまじゃくしのような形をしているらしい。私は気持ちが悪くなって、しばらくするとおなかが痛くなってきた。それからしばらくすると下痢が止まらない。友達のイラク人も下痢をしていた。ヨルダン人も下痢になっていた。「うちの妻も下痢だ。アンマン中の人間が、モルヘイヤのような糞をしているんだ」という。そういうたとえか? しばらくモルヘイヤは食えんのう。と思いながらも翌日は、鎌田實医師を筆頭に何人かの医師団を連れて、国境の難民キャンプに行かなければならない。
砂漠を4時間車で走るからトイレは厳しい。そこで点滴を打ってもらいともかく気合で直すことにした。私の下痢は気合で治ったが、今度はチームの若い医師が下痢になってしまった。途中砂漠でトイレ休憩を入れながらも難民キャンプにたどり着くが、今度は、難民が怒っていた。国連が水を持ってきてくれるが、水のせいでみんな下痢になった。ちゃんとした水を持ってきてくれという。「そういわれてもなあ、アンマンでもみんな下痢なんだけどなあ。。。」と思いながらも、帰りがけにペットボトルにはいった水をわたされた。これを国連に分析してもらってくれと頼まれた。その日は朝早くでて、アンマンについたのは、翌朝2時、がんばらないはずの鎌田先生も「がんばったなあー」というぐらい皆疲れてしまった。
翌朝、ペットボトルがない! もしかして誰か飲んだ? 疲れていてみんな記憶が飛んでいる。その後、さらに何名かが下痢になったので、もしかしたらやっぱり誰か飲んじゃったのかも。
さて、日本から、要冷蔵の白血病の薬を持ってきた。今回はクウェートまでイブラヒムに出てきてもらい、彼がイラクまで持ち帰る。しかし、クウェートに運ばれた薬には保冷剤が少なすぎる。これから陸路で、国境を越えてイラクに運ぶのはもっと保冷財が必要だ。なんせ、昼間は50℃。
どうしたものかと、イブラヒムとスーパーマーケットに行くとモルヘイヤをみじん切りにして冷凍したものが売っている。これを使おう! ということになった。
イブラヒムが「今回の作戦はなんていうんだ」と聞いてくる。言われてみれば最近は作戦名をつけてなかった。「砂漠のモルヘイヤ作戦!」この作戦は、イラクに薬を持ち帰り、しかもモルヘイヤが冷たければ作戦は成功である。イブラヒムがモルヘイヤを食べて、下痢にならなければ完璧だ。もし、モルヘイヤのような糞がでたら、作戦は失敗だ。
「わかった。ぼくは、体を張ってモルヘイヤをたべるよ」
数日後、イブラヒムから連絡があり、「モルヘイヤは無事だったよ。」との連絡。モルヘイヤは、イブラヒムのおなかの中で消化され、再び地上にあわられることはなかったのである。
さて、ついに、イブラヒムが来日。8月6日から約一ヶ月滞在します。佐藤真紀と2人で日本全国を回りますので、ぜひイブラヒムのトークを聞きに来て下さい。イブラヒムの人生を絵本にした「イブラヒムの物語」も600円で販売します。詳しくはHP(http://www.jim-net.net/contents.html)をご覧ください
舞踊の小物について
冨岡三智今月はジャワ舞踊(スラカルタ様式)で使う小物について書いてみたい。宮廷で発展した舞踊作品、およびその流れに沿って作られた作品は、男性舞踊であれ女性舞踊であれ、また抽象度の程度こそあれ、戦いを描いている。とくれば、小物の代表格は武器ということになる。
・弓矢
これは男性荒型、男性優形、女性舞踊のあらゆる型で使われる。この順にしたがって弓のサイズは小さく細くなる。踊り手は5本の矢を入れたエンドンというものを背負い、手に弓を持って登場する。あるいは舞台上にあらかじめ弓が置かれている。マンクヌガラン宮では、弓が必要になるシーンになると控えの女性が出てきて踊り手に弓を手渡すが、こんなことは人手が多い王宮以外ではまずありえない演出だ。弓を持つキャラクターの代表といえば、男性優形ならばアルジュノ、女性ならばスリカンディーで、弓を持って出たからには、当然、曲の途中で矢を放つ。
この矢を放つのに、矢を前方に向けて放つやり方と、矢を放つふりをして踊り手の背後に落とすやり方がある。私の師、故・ジョコ女史は前者のスタイルで、それが当然だと思っていたところ、芸大で後者のやり方を習って大変驚いた。一般的には矢を前に飛ばす人の方が多い。しかし芸大で教鞭を取っていた故・ガリマン氏は、この後ろに飛ばすやり方だった。矢を前方に向けて放つと、当然相手の踊り手、あるいは観客の方に向かって矢が飛んでいく。それは危険でもあるし、また矢が実際に飛ぶという、あまりにもリアルな表現を避けたかったからかもしれないと思う。
ちなみにここインドネシアでは、芸術公演ではなく一般大衆向けのイベントで舞踊が上演される場合、矢がピューッとしっかり飛んでいくと、期せずして拍手喝采が起こる。こんなことは、少なくとも私は日本で経験したことがなかった。なんでこんなところで盛り上がるのだろうかと、留学当初はあ然としたものだ。
実は、弓の形にはもう1つ別のデザインがある。弓と1本の矢が始めから1つにセットされていて、踊り手はエンドンを背負わない。これは宮廷女性舞踊のスリンピやブドヨに特有のデザインである。この場合は踊り手が最初から手に持って登場する。弓の中央部に穴が開いていて、そこに矢を通す。矢は弓から抜けないようストッパーがついていて、さらに弦(ゴム糸)を引っ張って矢を放つと、カチャッと音がして矢が元の位置に戻る。これを使う演目は「スリンピ・ロボン」、「スリンピ・グロンドン・プリン」、「ブドヨ・スコハルジョ」である。元から矢がセットされた弓を持って踊っているから、いつ矢を放ったのかが分かりにくい。あくまでも優雅に、抽象的に矢を放つシーンが描かれる。
・ダダップ
これは宮廷舞踊の男性優形と女性舞踊で使われる。60cmくらいの柄に、ダダップを手にする踊り手が扮する人物を皮に透かし彫りしたもの(ワヤン人形のようなもの)、あるいはグヌンガン(山を抽象化した形)のそれが嵌めてある。一見したところ、団扇のようにも見える。うまく言葉で説明できない代物だが、これ(柄の部分)は防御用の武器で、武器としての本物のダダップだと、柄に鉄が嵌められてあるらしい。踊り手はダダップを右手に持って登場し、しばらくそのまま踊っているが、戦いのシーンになるとダダップを左手に持ち替え、右手でクリス(剣、女性はチュンドリック)を抜く。2人の踊り手の一方が剣で突き、一方がダダップで防御するという型を繰り返し、最後は剣を収めて、またダダップを右手に持ち替えて退場する。
ダダップを使う舞踊には、男性優形では故・ガリマン氏が復曲した宮廷舞踊「パラグノ・パラグナディ」、「カルノ・タンディン」の他、同氏が単独舞踊として振り付けた「パムンカス」がある。これは相手がいないが、抽象的に戦いを描いている。宮廷女性舞踊でダダップを使う演目は、少なくともスラカルタ宮廷には残っていない。「ブドヨ・カボル」がダダップを使う演目だったという。故・ジョコ女史が、その演目を習いかけて間もなく先生が亡くなってしまったとかで、「この曲は戦いのシーンがとても素晴らしいと先生から聞いていたのだけれど、結局習いきれなくて・・・」と、とても残念がっていたことを思い出す。女性舞踊でダダップを使うものには、これもやはり故・ガリマン氏が振り付けた「モンゴロ・ルトノ」という、4人の女性によるスリンペン(スリンピ風の舞踊の意)の作品がある。
・クリス
ジャワでは男性は正装すると必ずクリス(剣)を腰に差す。男性舞踊でも、たとえ抜くことがなくてもクリスは必ず差している。クリスは日本刀と同様、美の対象であり、精神性の象徴であり、超神秘的な力が宿っているとされるものもある。クリスの収集家はジャワで聖なる日とされている日にクリスの手入れをする。現在のクリスの刃は波型をしているが、舞踊でクリスを抜く場合は、かならず刃がまっすぐになっているものを使う。しかしそれを常設している店はほとんどないので、特別注文することになる。
このクリスにはコロン・クリスという、ジャスミンの花を房にした飾りを柄にひっかける。そうすると、戦いのシーンになって剣と剣とが打ち合わされるたびに、ジャスミンの花が細かく飛び散って非常に美しい。ただこの花房は、結婚式の花婿のクリスみたいに豪華に、房の数を多くしたり長くしたりしてはいけない。剣を振り回すたびにコロン・クリスは手元でくるくると回り、剣先にからみつき、串団子のようになってしまうからだ。房が長いほどからみつきやすくなる。
・チュンドリック
これは女性が腰の前に挿している短剣で、クリスよりもずっと小さい。女性同士の戦いの踊りで使われる。これにも花房飾りをつける。
・ピストル
スラカルタの宮廷舞踊のほとんどのスリンピとブドヨにはピストルを使うシーンがある。とは言え、実際にピストルを腰に挿して踊ることは少なく、現在ではサンプール(腰に巻いている布)の扱いで、ピストルを表現することが多い。ピストルのシーンは必ず曲の後半部にあり、ピストルを抜くシーン、弾を込めるシーン、発砲するシーン、そして元におさめるシーンがある。
私はピストルを使って練習したかったので、ジョコ女史にどういうピストルが良いのかと聞いたところ、とにかく音の出るものをと言われ、おもちゃ屋をずいぶん廻ったことがある。ピストルを使うことにこだわっているある舞踊家が持っているピストルは、その昔ヨーロッパ公演に行ったときに買い求めたというアンティークのものだ。持たせてもらうと、ずしりと重い。ただしこのピストルの弾はもちろんないし、音もしない。
確か1997年のマンクヌゴロ家当主の即位記念日に上演された「ブドヨ・スルヨスミラット」では、舞台上の踊り手は音の鳴らないチャチなおもちゃのピストルを手にしていたが、舞台下に伝統的な兵士の格好をして並んだ女性たちが、踊りのタイミングに合わせてピストルで空砲を打った。これはかなりの音量だったので仰天した。聞けば使用したのは本物のピストルで、彼女たちは現役の警官だという。本物は警官でないと撃てないからということで、警官の登場とあいなったそうだ。ピストルの音を重視するのなら、こういう手もあるのだ!とはいえこんな演出は王家だからこそできたことに違いない。果たして日本の警官は舞踊演出のためだけに空砲を撃ってくれるものだろうか?
ジャワの宮廷舞踊でピストルを使うのだと言うと、他の民族舞踊をやっている友人たちにひどくびっくりされる。私もピストルを使用した舞踊は他に見たことがない。ヨーロッパ寄りのジャワ王家の姿勢がもろに武器に見て取れる。それにしても、ピストルを舞踊に使おうと思った最初の人は誰だったのだろう。剣や弓を手にしての戦いには、精神論的な意味を付与する余地もあるというものだが、宮廷女性がピストルを手にしながら、表情も変えずに優雅に踊り続ける光景というのは、考えてみたらとても怖い気がする。
・その他
これら以外に、男性荒型の兵士の舞踊(ウィレン)では槍、クリス以外のデザインの剣、盾、こん棒などの武器が使われる。1人で演舞のように踊られることもあるし、2人以上の偶数人数で、対戦のように踊られることもある。この手の、武術がベースになった舞踊はアジアの各地に見られ、宗教との結びつきも深いようだ。
半径ほぼ三百メートル
仲宗根浩ここは沖縄です。歩いてすぐ、白い砂浜、海があるわけでもなく、まわりはどこの地方でもよくみるシャッターをおろしたままの空き店鋪が多いアーケードの商店街。すこし違うのは近くに空軍基地があることくらい。昔は兵隊さん相手の店ばかりだったがいまは数えるほど。六月までは職場も自宅から歩いて二分とかからない場所だったので、生活するうえでの行動範囲は半径ほぼ三百メートル以内でほとんどのことが済んでしまう。飲み食いするところ、趣味道楽関係の店(CD、楽器屋)、家電量販店(ここでパソコン関係のものは全部揃う)など。これに出無精がかさなると、車を運転するのも月に一回あるかないかで遠出もしない。休みの日、暑くなると外出もめんどうになり軽い引きこもり状態。これから行動範囲がどれほど広げられるか。自転車のギアをいつなおすかにかかっている。
で、最近本屋がなくなったんです。わたしのささやか生活圏内から。十年前、二十数年ぶりに沖縄にもどり生活をはじめたころは、いわゆる大型書店、そんなにひろくないながらも二階フロアーがあり、文具もそろえた書店、昔から商店街にあるこじんまりとした本屋さんと三軒ありました。それが、大きいほうからなくなり、ついに最後の商店街にある本屋さんが閉店すると電話で連絡がありました。その本屋さんには隔月刊のブルース、ソウルの雑誌が定期購読とういうシステムがなかったため、取り寄せてもらっていて、唯一、購読している音楽雑誌です。「今回は店を閉めるためこれが最後になります。」と。取り寄せてもらっていた雑誌も創刊号から購入しているのでこちらも意地で買い続けているところもありますが、こうなると注文取り寄せをしてくれる本屋さんというのが歩いていける距離にないのでネット購入するか、音楽雑誌も取り扱っている楽器屋でお取り寄せが可能か問い合わせるしかない。小さい本屋さん、どんどんなくなってきてます。
さいきん、ずいぶん減ってきたような気がするのが、ごきぶり。こっち来て当初、夜遅くアーケード街を歩いているとごきぶり(方言ではとーびぃーらぁ)がよくわたしめがけて向かって飛んできたが、最近そういうこともない。ひさしぶりに台所仕事をしていて、大きめのボールを出そうと、ふだんあまりあけることがない、シンクの下をあけ、ボールを出すと底にはカラカラに乾燥した三匹のごきぶりが仰向状態。大きさは三センチ足らずくらいの小ぶり。ボールは取りあえず、ごきさんを取り除き、きれいに洗い、消毒する。ここでは、やもりは毎晩鳴き、ごきぶりはどこでも出る。台所大掃除、そろそろ。その前にCD、本、雑誌、カセットテープ他もろもろのガラクタ整理をやれと、言われる。
製本、かい摘まみましては(31)
四釜裕子「水牛」をご覧のみなさまには、7月7日の青空文庫10周年記念式典の場で涼やかに旗揚げされた「青空文庫製本部」のことは、周知のことと思う。その旗揚げの、「は・た・あ」あたりのある一日、準備会でお手伝いしながら、初めて青空文庫にアクセスしたときのことや、それをプリントしては製本していたころを思い出していた。
日販を中心としたオンデマンド出版会社ブッキングが立ち上がり、青空文庫のテキストを「ぼくらが書籍化する」とリリースしたのは、1999年だったろうか。製本はどうするの?と、とっさにメールで問い合わせた。「時代を超えて生き続ける名著の息吹を、手触りの良い紙の本としてお届け出来れば」とあったことに期待してしまったのは、オンデマンド印刷というものを私があまりにも知らなかったからだろう。まもなく、青空文庫のテキストをプリントして製本した『十八時の音楽浴』を手にブッキングの事務所に遊びに行き、そこではじめて、オンデマンド印刷のしくみやその仕上がりを目にすることになる。
コピー用紙をただ束ねただけのようなこのカタチのどこが「手触りの良い紙の本」なの?とこちらが言えば、『十八時の音楽浴』を見て、こんな製本が手作りでできるんですか、と返される。このたびの事業はバリアフリーの新出版「ユニバーサルBOOK」なのだと言うならば、今ここでおこっている製本の概念のバリアもフリーにしたいね、など雑談するうちに、「東京国際ブックフェア」の同社のブースで、ユニバーサルブック構想の一例として、糸かがりハードカバー仕立ての『十八時の音楽浴』を展示することになったのだった。
青空文庫の、宣言やしくみの広々とした気持ちよさに、だれもが焦がれる。ブッキングのスタッフもそうだったのだと思う。私も焦がれた。軽々しく、「テキストがオープンになっていく」なんて言って、それをどんなふうに読んでいこうか、モニターでいい、縦書きなんて不要、電子本はどうだ、やっぱりプリント、しかも糸かがり製本だ、なんてはりきって、楽しかった。青空文庫があったから、具体的なカタチとして試し、考えることができたのだと思っている。
そんなわけで久しぶりの「青空文庫本」作り、特に今回はブアツイ一冊を仰せつかって製本したので、うまくいくかと緊張もした。これまでいかに短編ばっかり選んで製本していたかが、よーくわかりました。
チドリアシで帰ってきた(翠の虱34)
藤井貞和暗いな、
チドリの脚もとがぼおっと明るくて、
暗い砂地
酔っ払って歩く、
千鳥足
浜をゆけば、
しばらくそうやって、
あっと思い返す、
韻(ひび)きの糸
(砂地の上の虫などを捕らえるときに、一旦、無関係の方向に行くと見せかけて、いきなり急襲するという習性のためだって。敵が卵やヒナに近づくと、親鳥は負傷してもがいているようなふりをして敵の注意をひきつけ、巣から遠ざける。この行動は擬傷(ぎしょう)行動と呼ばれる、と。フリー百科事典からの引用。)
しもた屋之噺(68)
杉山洋一「イポポー、パパー、イポポー!」
2歳4ヶ月になる息子のお気に入りは、指揮の恩師からもらった、木製の小さな軽便鉄道セットで、木のレールを好きに組合わせて、赤、黒、緑、青ときれいに塗られた小さな機関車やら貨車やらを走らせます。
今はもう高校を卒業しようかという恩師の長男ロレンツォが、その昔さんざん遊んだ模型のお古で、とても大切に使ってありました。
息子も、早朝ベッドから起掛けに、さっそくおもちゃ箱からゴソゴソと汽車を出しては、「イポポー(汽車ポッポ)、イポポー」とはしゃいで嬉々としています。ご飯だと言聞かせてもやめないときは、わめく息子を無視して、しまいにはさっさと片付けてしまいます。子供のベッドに寝かしつけるときも、「イポポー、イポポー!」と、機関車を布団に持ち込みたがるのですが、つい遊び道具を許すと、結局遊び始めてなかなか寝付かないので、様子をみて埒があかなければ、お前はもう寝るんだから、と取上げて、泣き声を聞きつつ、ベッドサイドに並べてやったりします。
男の子が小さいころから鉄道や車が好きなのはごく自然のことでしょう。自分もその昔は軽便鉄道が大好きでした。ミラノの自宅は、ポルタ・ジェノヴァからアレッサンドリアに延びるローカル線の脇にあって、長らく放置されていて、最近使われだした、雑草の生い茂るひなびた引込み線が並走しています。少し行ったところにサン・クリストーフォロ駅があって、シチリアやバーリまで車ごと旅行できる列車の発着駅となっています。
庭のレンガ壁の先、2メートルあるかないか、文字通り目と鼻の先にある、背丈より高い雑草の繁茂するひなびた引込み線で、毎日数回、ガサガサと草を掻き分けながら、のんびり車を載せる貨車の入れ替えをやっていて、機関車のディーゼル音が近づいてくるたび、息子は、窓から身をのりだして、「イポポー、ピー!(汽笛)、イポポー、カタンカタン!(車輪の音)」と歓声を上げます。
あまりに線路が近いので、ちょうどミラノを訪れている母など、初めて見たときは、「ちょっと、大変だよ!」と慌てて知らせにきてくれたくらいで、毎度見るたびに、もし自分が子供だったら、さぞかし興奮しただろうなと思ったりします。息子がうれしいのは当然だ、と妙に納得するのです。
ふと、自分が小学生のころ、父親に頼んで、加古川や七戸の軽便鉄道に連れていってもらったことを思い出しました。あれは小学校の4年生か5年生くらいだったと思いますが、軽便鉄道をどうしても見るため、父親と母親と3人で労働者用の簡易宿泊施設に泊めてもらった記憶すらあります。よほど場違いだったからでしょう、肝心の軽便鉄道より、プレハブ作りの宿泊所が今も鮮明によみがえってきます。野辺地に着いたときは確か寒くて雨が降っていて、出かけるときは上野から夜行列車に乗った覚えがあります。子供には、それもとても嬉しいものでした。七戸から下北半島にも少し足を伸ばして、父親と偶然に途中下車した駅の周り一面、表札が「杉山」だったことにびっくりした覚えがあります。
考えてみれば、父親は当時、たびたび徹夜で仕事をこなしていて、家に戻らないこともしばしばでした。それなのに、こうして無理に時間をつくっては、愚息の他愛もない道楽に厭な顔もせず付き合い、青森まで面白くもない軽便鉄道に一緒に足を運んでくれたのか。そう気がついてはっとさせられました。
自分だったらどうだろう。職種も違うし、ここは自宅も仕事場を兼ねているし、子供と顔を合わせている時間だって同じではない。でも、もし父だったら、息子がご飯も食べずに機関車で遊んでいたとしても、眠りたくないとベッドで機関車をいじっていても、何事もなかったかのようにおもちゃを取上げただろうか、おそらく違ったのではなかろうか、と。
そう思うと、すやすやとベッドで寝息を立てている子供が妙にいじらく見え、今も明るく元気に応対してくれる父親が、とても深いものに感じられます。子を持って初めて気がつかされることの多さに、こうして思わず言葉を失うことも少なくありません。
花筺――高田和子を悼み
高橋悠治 霧たちわたれ 川面に
見つめ 思い起こすために
1991年から2007年まで 音楽の道をともに歩んで来た
三味線奏者の高田和子が 7月18日に亡くなった
16年の道行を終えて まだ生きているものから
先立つひとを送り そのひとに贈ることばを ここに書く
1990年 国立劇場での 矢川澄子の詩による『ありのすさびのアリス』の
声のパートが 最初の出会いだが
次の年Music Today Festival で『風がおもてで呼んでゐる』の演奏依頼が
長い道のはじまりだった
邦楽では 初演者が委嘱した作品を私有する慣習がある
それを知りながら あえて演奏を引き受けたために
彼女はそれまでの仲間と別れて 異なる音楽の道に踏み迷うことになった
最初の共演コンサート「三絃蘭声」には それまでの聴衆は来なかった
闌=技術を越える表現の自由 世阿弥の「闌位」から
声=彼方から耳に達する響き 字義から
その後の数年間 電子音響をはじめ 雅楽や西洋楽器との合奏や
声明や合唱との共演で 三絃と声だけでなく 箏や古代楽器も演奏してくれた
伝統楽器やその音楽についてまなんだだけでなく
作品の細部 奏法 記譜法についても 相談しながら決めた
三絃弾きうたいとオーケストラのための『鳥も使いか』(1993)は
1993年金沢で初演後 オーストラリア シンガポールの旅公演や
他のオーケストラの共演もあった
わたし自身も長い間組織の外で 手本のない道を歩いてきた(高田和子)
この協力関係は 平坦な道ではなかった
それまでの高田和子は 現代音楽作曲家たちの要求する超絶技巧を
三絃という前近代の楽器で実現することのできた例外的なヴィルトゥオーゾだった
だが いっしょに探求したのは 楽器と伝統をさかのぼり
ありえたかもしれないが じっさいには存在しなかった
音楽の別なありかたを見つけること
20世紀音楽の 神経症的な速度や複雑な運動ではなく
繊細な音色の差異と
拍節構造のような 外側からの規律ではない
身体感覚にもとづく時間
モデルの断片を即興的に組み替えながら
他の楽器との関係をその場で創ること
これは 現代邦楽とは逆方向の道
現代音楽の制度からも外れていた
共演はしても 雅楽や声明でもなく
どのシステム どのジャンルにも入れない音楽
しかも この冒険をつづけながらも
そこだけで閉じてしまわないように
まだ 制度に組み込まれていない 若い作曲家や演奏家をみつけて
それぞれが ちがう場に出ていく時もある
危うい同意のバランスの上で 逃亡しては また惹き付けられる
揺れうごく関係の磁場
2002年
今年はどうやらわたしにとってふしぎな年まわりのようだ
人の身に起こり得ることの10年分くらいが
一度に来てしまったという感じがする
それは身内の闘病と死
親しい人の突然の病
・・・・・・
あたりまえに過ごしている日常のなかに
多くのだいじなことがある ということに
人は それを失うまで気がつかない
高橋悠治さんの作品『心にとめること』は
わたしが今までずっと大切にうたってきた歌である
わたしが心をひかれるのは、次の言葉たちだ
「わたしは老いるもの、老いをのがれられない」
「わたしは病むもの、やまいをのがれられない」
そして
「親しいものも楽しいことも 変わり 離れてゆく」
と続く
まるで今年わたしのまわりで起こった出来事を歌っているかのようだ
彼女は ことあるごとに この歌をうたいたがった
歌が人を
なにか妖しい運命に引き寄せるようなことは
あってはならない と思いながらも
彼女のために書いて来たのは
『那須野繚繞』『畝火山』『狐』『影媛の道行』『悲しみをさがすうた』
おなじ2002年
こちらが突然の病気で ほとんど死にかけて以来
しばらくは 三絃とも遠ざかっていた
毎日のように 電話やメールで 長い対話をつづけていても
共演の企画はなかなか実現しなかった
彼女には この頃 ほとんどしごとがなく
邦楽組織の外にいるために 教職に就くこともできなかった
それは聞いて 知っていた
だが ピアノばかり弾いていて
もう帰って来ないのではないか と
あきらめかけていたのは 知らなかった
どこかで まだ時間はあると思っていた
いまの瞬間は すぎていく ひきとめようもなく
2005年
彼女もやっと大学の講師にもなり
いくらかは演奏の機会もできたようだが
会う機会はますます すくなくなった
その頃のこころみ
ビオレータ・パラの歌を三絃弾き語りにアレンジした
『ありがとういのち』『愛の小舟』『天使のリン』
三絃という楽器を 世界音楽の野に放ち
唄は 日常の声に近づける
かなしみに洗われて
うたは かがやきを増してゆく
彼女のための最後の作品は石垣りんの詩による『おやすみなさい』
2005年11月16日初演
知らなければ三味線だと思わないかもしれない
いつもと全然違う声でごく自然にうたっている自分のことも
とても不思議です
この曲を聴いた人たちが
みんな幸せに眠れますように
次は三絃ソロ小曲集を書こうと決めていた
予定タイトルは 花筺
花々を盛った籠としか思っていなかった
能や地唄に先例があり
別れの贈り物 追悼の曲を意味するとは知らなかった
2007年2月に共演でのコンサートを決めたすぐ後に
彼女は入院した いまの医学では治療できない病気で
死ぬと知りながら
入退院のくりかえし ひろがっていく麻痺と頭痛
普通の人には確率的にまず起こらない事を
病気でも人生でも一身に引き受ける運命なのかもしれない
最後の演奏は6月はじめ 放送のための録音
2001年に初演してくれた曲 勅使河原宏追悼のための『瞬庵』
その放送の日を待たず 三度目の入院
亡くなる前日 病室
繊細な響きの場所を 糸の上でさぐりあてた あの手も
ふくれあがり 感覚もなく うごきもない
ひびわれ つぶれた水泡に血のにじむ唇
やせ細った腕のくぼみをさすり 呼びかけると
ふっと眼がひらいて
まばたきもしないで じっと見つめる
そのまなざしの先に こちらの眼をあわせ 見交わした
またたきの合図を送り ほほえもうとしてみた
静かだった
ことばを失った喉がうごき かすかな声が一度だけ
どのくらいそうしていたのか
眼がゆっくり閉じていった
また明日 と言って 病室を出たが
翌日対面したのは 霊安室の棺台の上
頬に触れると 冷たかった
あれは ほんとうにあったことだろうか
意識のない眼に こちらの思い込みを投射しただけ それとも
助けをもとめてすがりつく 消えかかる炎の弱いかがやきか
後からの疑いや 説明するこころみは
その瞬間にはなかった
いまでも その時の姿勢の記憶から
感覚がよみがえってくる
まなざしだけが
ことばもなく 思いもなく
時間のない ほの暗い空間にただよっている
It is possible that to seem – it is to be
(Wallace Stevens: Description without Place)
そう見えることは 存在すること――でありうる